蕗谷虹児と重なる魯迅のイノセンス思想。 [気になる下落合]
1970年ごろ、中国を訪問した洋画家の吉井忠は、魯迅の旧居を訪れている。20世紀前半における中国の文芸分野(「文芸」は文学と美術の双方をさす)で、巨大な足跡を残した魯迅Click!の旧居に飾られていた絵は、同時代のビアズリーでもコルヴィッツでも、グロッスでもマズレールでもなく、日本の蕗谷虹児Click!の版画だった。
吉井忠は、日本の美術界では評価が低い(というかほとんど画壇からは相手にされていなかったはずの)蕗谷虹児Click!が、なぜ世界美術に造詣が深かった魯迅の家に飾られていたのか理解できなかったようだ。また、魯迅は蕗谷虹児の作品をチョイスして、詩画集『蕗谷虹児畫選/第一期・第二期』(上海合記教育用品社/1929年1月)を中国の美術青年向けの参考教材として出版している。掲載されている蕗谷虹児の絵に添えられた詩は、魯迅みずから中国語へ翻訳したものだ。美術の最先端に詳しい魯迅の、この詩画集の翻訳出版を、吉井忠はさらに理解できなかったのではないか。
美術をめざす中国青年たちにとって、A.ビアズリーなどの作品はあまりにヨーロッパ(西洋文化)すぎて、理解はできてもまったく馴染まなかったようだ。当時の中国は、封建体制からようやく抜け出ようとしていた時期であり、西洋の文化を積極的に取り入れようとしてはいたが、従来の中国文化を基盤に直接ヨーロッパからの文化を吸収しようとしても、それまでのあまりにもアジア的で強固な文化的土壌との乖離感が大きすぎて、うまく融合させることができなかった。
モダンな西洋文化には惹かれるものの、西洋文化そのものにはアジアという強いフィルタリング=抵抗感があってそのまま直接的には受け入れられない、そんなときに目についたのが、西洋文化(美術など)を少なからず消化しつつ、アジアのテイストをも色濃く漂わせた蕗谷虹児の作品群だった……ということのようだ。
つまり、蕗谷虹児の画面は、西洋のモダニズム文化をうまく吸収して、アジアの人々にも素直に理解できるよう、上手にアジアの風土へ翻訳された表現だったということだろう。換言すれば、当時の中国美術界は直接ヨーロッパから表現を輸入するのではなく、日本という「出島」からアジア風にこなれた表現で西洋文化を吸収していた。
そういえば、魯迅自身も直接ドイツにではなく、日本へ留学して“西洋”医学を学んでいる。つまり、封建体制がようやく終焉を迎えていた中国では、その文化(美術など)も既存のものが相変わらず圧倒的な主流・主力であり、ヨーロッパの文化を受け入れる素地が整っていなかったため、ある程度アジア的に翻訳された日本の西洋的文化(美術など)を通じてのほうが、当時の青年たちには理解しやすく馴染みやすかったということだろう。日本は、いってみれば中国における「出島」=ハイカラな長崎のような、ワンクッションおいた西洋文化のアジア窓口として位置づけられていたにちがいない。
蕗谷虹児の作品群は、近代美術をめざす当時の若い中国の美術青年たちから高い評価を受けつづけ、彼らは少女趣味的なロマンティシズム作品であることを重々踏まえ十分に承知していながら、それでも若いアーティストからは絶大な支持と人気をえていた。魯迅にしてみれば、19世紀末から20世紀にかけての西洋美術と東洋美術が高度に融合するとこうなるという、典型的なブリッジング教材として蕗谷虹児をとらえており、「青年画家たちの手本となるだろう」とまで記述している。もちろん、それ以前に魯迅自身が、蕗谷虹児の抒情的な作品群のファンだったということもあるかもしれない。
少し古い資料だが、1978年(昭和53)発行の「中国研究月報」364号(中国研究所)に掲載された、小泉和子の論文『魯迅と蕗谷虹児』から引用してみよう。
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<中国の美術青年たちが虹児の作品を愛好した>その理由として、魯迅が書いていることは、この頃の中国の文芸会(魯迅は美術も文芸に含めている)ではヨーロッパから何か新しいものが入ってくるとすぐとびつく風潮が強く、ビアズリーが入って来た時もたちまちブームになった。しかしビアズリーではあまりにも鋭すぎるため素直についていけないと感じていたところへ、ビアズリーよりはおだやかで東洋的な虹児が入って来たので今度は抵抗なく共感できたということである。/ということはビアズリーも虹児も共通したものとしてとらえられていたことになる。つまり中国の青年達が求めたのは、世紀末芸術とよばれる、繊細で、幻想的で、病的で、しかし甘美なところのある美の世界であった。これは言いかえれば西洋のかおりとでも言うか、近代ヨーロッパ文化の持つ独特のロマンチシズムに対する憧れといってよいだろう。(< >内引用者註)
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当時、中国の若い美術家たちから、アジアにおける「西洋美術の翻訳者」と位置づけられてしまった蕗谷虹児だが、本人にはそのような自覚はまったくなかったろう。彼は、どうしたら竹久夢二Click!を超える表現ができるか、ヨーロッパ最先端の表現をどのように日本の抒情的な作品世界へ溶けこませるか、自身のあとにつづく人気の抒情画家たちといかに表現の差別化を図るか、そしてときに肉親の借金返済のために多くの仕事をこなすのがせいいっぱいで、中国の美術界にまでは目がとどかなかっただろう。
蕗谷虹児の基盤にあるのは、15歳で弟子入りした尾竹竹坡画塾の日本画だが、そもそも日本画は中国美術がベースになっているのであり、期せずして20世紀の前半期に、今度は日本から中国へキャッチボールの“返球”が行われていたことになる。そして、蕗谷虹児が留学中に影響を受けたビアズリーはといえば、日本ならではのオリジナル芸術である江戸の浮世絵師、渓斎英泉から強い影響を受けたといわれている。魯迅と蕗谷虹児とビアズリーをめぐる関係は、世界美術史においても面白いテーマだろう。もっとも3者は、英泉にみられるデカダンで淫靡なエロティシズムとは無縁のようだが。
魯迅は、蕗谷虹児の詩画集『睡蓮の夢』に収録された詩『旅の兄人』を、『旅人』と題して次のように翻訳している。「人の噂で/ありはあれ/露領の町に/あるといふ/兄人の身が/悲しまる。/漂泊遠く/サガレンの/そこは吹雪の/町といふ/兄人連れ人/無いと聞く。」は、「固然是風説/聞郎在俄疆/念及身世事/中懐生悲涼、/郎在薩哈連/瓢流一何遠/街名是雪暴/聞郎無侶伴。」と中国詩に訳した。また、魯迅は『悲しき微笑』を訳し、蕗谷虹児の制作姿勢(思想)についても紹介している。
魯迅は、詩画集『蕗谷虹児畫選』(1929年)を出版したとき、蕗谷虹児がパリへ留学中だったことももちろん知っていた。彼は日本で出版される蕗谷虹児の画集や雑誌の多くを入手しており、上海の内山書店にないときは日本の出版元に発注(『銀砂の汀』など)して取り寄せている。それほど、魯迅は虹児の動向や表現へ常に気を配っていた。
魯迅は、時代を前後してワシリー・エロシェンコClick!の童話や詩にも触れている。1985年(昭和60)に平凡社から出版された『別冊・太陽/絵本名画館・蕗谷虹児』に収録の、藤井省三『無垢なる魂――魯迅と虹児』から、少し長いが引用してみよう。
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そして魯迅は「これらの美点」(蕗谷虹児『悲しき微笑』で語られる表現姿勢のこと)を、「若い男女の読者に傾いた」ものとのみ理解するのではなく、むしろ中国の芸術家にとっては「小さな真の創作」の原点であると高く評価しているのである。許広平(魯迅の妻)の伝えるところによると、魯迅が「奔流」誌上で虹児の「タンポリンの唄」を紹介したのも、「あの版画の幽婉さと詩に対する激賞のため」であったという。/ところで『蕗谷虹児画選』刊行に先立ち、魯迅はロシアの盲詩人エロシェンコとオランダの文学者エーデンの童話を翻訳している。彼らの作品を魯迅は「無韻の詩、大人の童話」と呼び、更に「人の愛、赤子の心」に訴えて、「人類とその苦悩が存在する」現実世界を凝視させるものとして高く評価しているのである。エロシェンコらの童話に漲る無垢なる魂(イノセンス)を、魯迅は文学の原点としてとらえていたものと思われる。そして虹児の詩画集に「深夜の如く闇黒く清水のゆうに澄明」(『悲しき微笑』より)な思想を読みとっていた魯迅は、明らかにエーデンらの純真なる精神の延長線上に蕗谷虹児を位置づけていたと言えよう。(カッコ内引用者註)
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魯迅のいう「小さな真の創作」、無垢なる魂(イノセンス)は、宗教的な重圧がのしかかる中世ヨーロッパの封建社会から生まれたものではなく、資本主義革命(市民革命・民主革命)によって獲得された人民の「自由・平等・博愛」思想を基盤にして(またその大きな矛盾を内包しつつ)、少しずつ形成された近代的自我や解放感から生まれたものだ。魯迅は、封建社会の崩壊と資本主義革命のはざまに位置する中国の現状をとらえ、いま文芸(魯迅の場合は文学と美術)に必要なのは「純真なる精神」であり「小さな真の創作」であり、イノセンスだと説きたかったのではないか。
ちょうど、詩画集『蕗谷虹児畫選』(1929年)が刊行されたころ、前年より中国文学の世界では「革命文学論戦」が行われており、魯迅は共産党系のプロレタリア作家たちから「プチプルジョア文学者」として総攻撃にさらされていた。それにつづき、国民党と反国民党の対立が深まり、1931年(昭和6)に満州事変が、つづいて1932年(昭和7)には上海事変が起きて日本の中国侵略の意図が明らかになると、抗日統一戦線の方策をめぐり「国防文学論戦」が行われ、またしても魯迅は共産党系文学者の集中砲火を浴びている。
ところが、「中国三千年の古い手枷足枷」から脱却して、中国資本主義革命(民主革命)の激流の中で表現し、虹児による大正デモクラシーの自由闊達でモダンな表現を愛した魯迅は死後、毛沢東により「中国第一等の聖人」「革命文学の聖人」などという、およそ似つかわしくない呼称を送られ、実像からはよほど乖離した「聖人」に奉りあげられてしまった。
藤井省三の言葉を借りれば、「蕗谷虹児に見出されたイノセンスの思想こそ、一九二〇年代中国の状況を果敢に切り開かんと苦闘した魯迅にとって、最も優れた道標」だったのだ。魯迅は、周囲の社会状況を的確に把握・分析し、より深い文芸的思慮をめぐらしていた。
◆写真上:下落合から山北町(神奈川県)へ疎開し、戦後はそのまま居住した蕗谷虹児・龍子夫妻。下落合622番地のアトリエは、山手空襲で全焼している。
◆写真中上:上は、滞仏作品で1927年(昭和2)に「少女画報」掲載の蕗谷虹児『水汲み(フランスの田舎にて)』(左)と、同年に「令女界」掲載の蕗谷虹児『お使ひに』(右)。中は、いずれも1927年(昭和2)の「令女界」7月号に掲載されたパリの女性たち(タイトル不詳)。下は、1929年(昭和4)に「令女界」1月号掲載の蕗谷虹児『悩みをとほして』。
◆写真中下:上は、蕗谷虹児(左)と魯迅(右)。中は、1926年(大正15)制作の蕗谷虹児『パリ人形』。下は、1926年(大正15)制作の蕗谷虹児『出帆』。
◆写真下:上は、B.エロシェンコ(左)とA.ビアズリー(右)。中は、1931年(昭和6)に「少女俱楽部」7月号掲載の蕗谷虹児『散歩』。下は、蕗谷虹児の『阿蘭陀船』(制作年不詳)。
箱根土地の社員と結婚した女性の話。 [気になるエトセトラ]
先週、拙ブログへの訪問者数がのべ2,400万人(2,400万PV)を超えました。昨年の後半は3ヶ月余にわたり更新をサボったにもかかわらず、いつも拙い記事をお読みいただきありがとうございます。また、11月24日で拙サイトがスタートしてから丸19年(2004年11月24日)が経過し、今週から20年目に入りました。今後とも、よろしくお願いいたします。
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下落合の目白文化村Click!や東大泉の大泉学園Click!、谷保の国立(くにたち)学園都市Click!などを開発した、箱根土地Click!の社員と結婚した新潟県出身の女性の記録が新宿区に残っている。野崎かんという方は、女学校を卒業したあと17歳で、国立に住んでいた親戚を頼って東京にやってきており、その家で3年間をすごしている。★
同郷の越後高田の出身で、箱根土地へ勤めていた夫とは国立の米屋を介して知り合い、1934年(昭和9)に結婚している。そして、国立駅の駅前広場に面した箱根土地本社ビルの近くに建っていた社宅へ入居している。彼女がちょうど20歳のときだった。ちなみに、この社宅は箱根土地が野崎夫婦のために用意した、一戸建ての平屋だった。
1934年(昭和9)ごろの国立といえば、関東大震災Click!で大きな損害を受けた東京商科大学Click!(現・一橋大学)が、ようやく1927年(昭和2)に神田区一ツ橋から移転をはじめて7年目にあたり、箱根土地では同地の宅地販売に全力を傾注していた時期と重なる。だが、大学施設は徐々に移転を完了しつつあったものの、東京市街地から離れた国立の宅地は思うほどには売れず、箱根土地では赤字つづきで社員給与の遅配などが発生していた。
先年の記事でもご紹介したが、SP用の国立絵はがきClick!を数多く制作しては、市街地の見込み顧客先にあてて大量に配布していたのはこのころのことだ。野崎かんの夫は、国立駅前の本社勤務ではなく、麹町区丸の内ビルディング8階の箱根土地(株)丸の内出張所に勤務していたので、国立分譲地開発におけるマーケティングの最前線で仕事をしていた人なのだろう。上記のSP絵はがきの制作にも、直接かかわっていたのかもしれない。
当時の様子を、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された『新宿に生きた女性たちⅢ』収録の、野崎かん『小滝橋通りの近くで』から引用してみよう。
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社宅は会社(国立駅前の箱根土地本社)のすぐそばにあって、一戸建ての平屋でした。うち一軒だけだけだったんです。箱根土地会社は貧乏会社でしてねえ。月給なんてもらわない月もあったんですよ。その代わり、堤さんの家に行けば社員は家族同様。第二次世界大戦のころは土地がたくさんありましたでしょ、だから畑で野菜をたくさん作っていて、うちの主人たちが行くと、あがってご飯食べろっていってね、帰りには、野菜なんかどっさり持たせてくれるんです。ほんとに不自由しませんでした。(カッコ内引用者註)
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堤康次郎Click!のことだから、社員には「貧乏だ、どうしよう、カネがない」などといいながら、余剰金を別の事業へ投資していた可能性も多分にありそうだけれどw、さまざまな当時の証言類を勘案すると、おしなべて箱根土地の社員は大切にされていたようだ。それは堤自身というよりも、その家族や上長たちがつくりあげた社風のようなものが、大正期からつづく箱根土地には残っていたのかもしれない。
この文章にも書かれているが、太平洋戦争がはじまっても東京商科大学の周囲はポツポツ教師や職員用の住宅が建ちはじめていたけれど、かんじんの国立分譲地全体の敷地にはほとんど住宅が建っておらず、「土地がたくさんありましたでしょ」の状態で、いまだアカマツの林がつづく昭和初期からの新興分譲地の風景そのままだった。これは敗戦後も、そのままの風景がしばらくつづくことになる。
「国立から丸の内まで通うのが遠くてたいへん」と、箱根土地社員の奥さん自身がこぼすとおりw、市街地からウンと離れた国立から丸の内へ出るには、当時の中央線の電車(1929年より電化)に乗り、エンエンと東京駅まで乗りつづけなければならない。また、時間帯によっては国分寺で車両を乗り換える必要があっただろう。いまでこそ、国立駅から東京駅までは50~55分で到着するが、当時の鉄道ダイヤや電車のスピード、各駅の停車時間などから考慮すれば、たっぷり2時間近くはかかりそうだ。
おそらく、夫の側から「遠くてたいへんだからイヤだ」といいはじめたのだろう。結婚してから3年後の1937年(昭和12)に、野崎夫妻は淀橋区(現・新宿区の一部)の柏木(現・北新宿)に借家を見つけて転居している。彼女へのインタビュー内容からして、中央線・大久保駅のすぐ西側、小滝橋通りに面した借家だったと思われる。何年かのちに、小滝橋通りに架かる中央線のガード近く(南側)にある、柏木教会の隣りに引っ越している。当時の小滝橋通りの界隈について、同書よりつづけて引用してみよう。
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国立から丸の内まで通うのが遠くてたいへんだったので、この辺に家を捜していたんです。今の三和銀行のところが薬屋さんで、その隣が人力屋さんだったんです。その人力屋さんが大きくおやりになっていて、だんだんと自動車を置くようになったんです。ハイヤーみたいなのをね。こちら側の小西金物屋さん、大塚さんの魚屋さんはそのころからあったんですよ。その隣の西野布団屋さんの奥さんがいいかたでしてね。柏木教会の隣の家が空いてるから聞いてごらんなさいって教えていただいて、そこに戦争中、強制疎開で壊されるまでいたんです。/強制疎開で家が壊されるとき、柏木教会の植村環先生が若松町のほうに教会の方の大きなお屋敷があるから、そこへ移りなさいっておっしゃってくださったんですけどね、どうしてもこの柏木から離れたくなくて……。
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野崎夫妻は、小滝橋通り沿いの柏木地域がよほど気に入ったのだろう、同地域で大きめな空き屋敷を見つけて住みつづけている。確かに、新宿駅へ出るのも大久保駅からひとつなので、住み慣れると買い物やどこへ出るにも便利な立地だ。
戦時中に行われた柏木地域の建物疎開Click!は、新宿駅方面から山手線沿いにのびてくる「山手線沿線其ノ四」線Click!のことで、山手線つづきの中央線沿いに建つ住宅群も壊して、幅50mにわたる防火帯をつくる破壊工事のことだ。「疎開」という名前がついてはいるが、もちろん家を追われて壊される住民への補償はほとんどなかった。
上落合の南に隣接した柏木5丁目(現・北新宿4丁目)の、ちょうど中央線をはさんだ北側の小滝橋通り沿い、すなわち淀橋市場Click!や淀橋区役所Click!、豊多摩病院Click!、陸軍科学研究所・技術本部Click!などがある一帯は、1945年(昭和20)4月13日夜半に行われた第1次山手空襲Click!で大半が焼失していたが、野崎夫妻が住む屋敷のある中央線の南側=柏木4丁目は、いまだ爆撃を受けていなかった。
だが、同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!は、焼け残った山手線西側の住宅街への徹底した絨毯爆撃だったので、野崎邸もついに罹災している。おそらく夫の仕事の都合なのだろう、野崎家は疎開することなく柏木へ住みつづけていた。
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五月二五日の空襲のときも、ここにいました。上の子どもたちは、私の母の妹が十日町の方に住んでいたので、そこに疎開させていたんですが、二人の小さな子がいっしょにいましたので、一人をおんぶして、一人を乳母車に乗せて、ガードの横の草原のところに逃げました。そのうちに淀四小学校が焼け出して、ガードがトンネルみたいになって火がはいって来るんですよ。ガードの真下にいたんですが、こわくて向こう側へまた逃げました。五丁目(現北新宿四丁目)はもう四月一三日の空襲で焼けていたんですが、まだ残っていた青物市場の国技館の屋根みたいになっているのが、みんな火がついてバリバリ、バリバリ燃えて……。鉄骨だけが残ったんです。八時ごろになって家のところに戻ってくると、すっかり焼けてしまって、物置に買い込んであった練炭や炭がボウボウ燃えてました。
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この証言により、上空から見るとピラミッドのような淀橋市場の屋根は、二度の山手空襲Click!で焼け落ちて鉄骨だけになっていたものの、戦後早々に復旧されていた様子が1947年(昭和22)の米軍による空中写真からも確認できる。東京の西部一帯では、卸(市場)や流通のカナメとなっていた拠点なので、行政が復興を急いだものだろう。
野崎一家は、当初は小滝橋通りにある柏木教会のすぐ北側100mほどのところ、中央線の高架近くにあった原っぱから延焼の具合を見てガード下へと避難しているが、大火災で空気が急激に膨張して起きる火事嵐Click!により、炎の先がガード下をくぐって吹きこんできたため、淀橋区役所や淀橋市場の北側(柏木5丁目)へと逃れている。戸山ヶ原Click!の陸軍科学研究所・技術本部Click!は、いくら空き地や森林が残っていても戦時中は立入禁止だったので、野崎一家は比較的空きスペースが多かった淀橋市場側へ逃れたのだろう。
国土計画興業(旧・箱根土地)は、府立(1944年より都立)第六中学校(現・新宿高校)の校舎が建物疎開で解体されるとき、その部材を丸ごと購入していた。同社では、その膨大な部材を罹災した社員の家屋再建に提供している。
野崎かんの夫は、手先が器用な人物だったらしく、戦後まもなく同社のトラック数台で運ばれてきた材木を使って、柏木に6畳×2室に各4畳半の台所と食堂、それに風呂場と便所に玄関をつけた家を建ててしまった。同家には、1955年(昭和30)まで住むことになる。
◆写真上:2005年(平成17)に撮影した淀橋第四小学校。旧・淀橋第四尋常小学校(戦時中は淀橋第四国民学校)で、もうすぐ創立104周年を迎える。
◆写真中上:上は、1927年(昭和2)ごろに箱根土地のチャーター機が国立駅上空から南を向いて撮影したとみられる空中写真。中は、同時期に国立駅の西側上空から撮影したとみられる写真。下は、国立駅前の水禽舎と箱根土地本社ビル(右手)。
◆写真中下:上は、戦後の1947年(昭和22)に米軍機から撮影された国立地域。開発から20年以上が経過しているが、アカマツの疎林が拡がり住宅はあまり建っていなかった。中は、1936年(昭和11)撮影の柏木地域。下は、現在も同位置にある柏木教会。
◆写真下:上は、建物疎開が行われる直前の1944年(昭和19)に撮影された柏木地域。中は、小滝橋通りに架かる中央線ガード。下は、いまも散見される戦後まもない住宅建築。
1926年(大正15)に大泉黒石は下落合にいた。 [気になる下落合]
これまで、大泉黒石Click!の転居先を順にたどっていくと、さまざまな資料でその住所や引っ越し時期の混乱が多く見うけられた。それを、本人が出版社へ居住地をとどけ出る『文芸年鑑』(二松堂書店版→改造社版)などをたどりながら、転居年とともに住所を規定する記事Click!を書いた。それをベースに考察すると、大泉黒石Click!が下落合4丁目2133番地に住んでいた林芙美子・手塚緑敏邸Click!の裏(おそらく下落合2130番地)に転居してくるのは、1936年(昭和11)ごろと推定していた。
ところが、大泉黒石Click!はもっと早い時期から、下落合のまったく別の場所に住んでいたのだ。それが判明したのは、1926年(大正15)9月21日発行の読売新聞の「転居」欄だ。そこに掲載されていた住所は、「下落合2丁目744番地」となっている。落合地域の丁目表記Click!は、「公式」では1932年(昭和7)に淀橋区が成立したあととされているが、1925年(大正14)の「出前地図」Click!や翌1926年(大正15)の「下落合事情明細図」Click!にも記載があるとおり、大正末期の落合町時代からすでに丁目表記が住民レベルまで浸透し、一般的に使用されていたことが改めて証明された資料でもある。
大泉黒石Click!が下落合に住んだのは、1926年(大正15)現在で確認できる長崎村大和田2028番地から、昭和初期に高田町へもどるまでの間ということになる。そして、同年9月には下落合744番地に住んでいたが、少なくとも1932年(昭和7)の『文芸年鑑』(改造社版)によれば、高田町鶉山1501番地だったことが判明している。つまり、長崎村大和田2028番地の家で暮らしたのは比較的短く、まもなく下落合(2丁目)744番地へ転居していたことになる。大泉黒石は“引っ越し魔”だったようだが、これで大正末から昭和最初期における住所の空白が、ひとつ埋まったことになる。
下落合744番地は、薬王院墓地の北側に位置する区画であり、教育紙芝居や貼り絵作家として有名な高橋五山邸Click!のすぐ東側に接する区画だ。少し南へ歩けば、薬王院の森(現・新墓地)や同院の旧・墓地、そして大正中期からは夏目利政Click!が設計し服部建築土木Click!が関わったとみられる、洋画家の鈴木良三Click!や鈴木金平Click!、有岡一郎Click!、鶴田吾郎Click!、柏原敬弘Click!、服部不二彦Click!たちのアトリエが集中的に建っていた、下落合800番地台のエリアにも近い。
1926年(大正16)9月における周辺の情景は、佐伯祐三Click!の「下落合風景」シリーズClick!を参照すれば、おおよその雰囲気を把握することができる。しかも、大泉黒石邸があった下落合744番地は、佐伯祐三が風景のモチーフを求めて頻繁に歩いていた散歩コースとも重なっており、大泉黒石も執筆の合い間に散歩へ出ていたとすれば、ふたりは付近のどこかですれ違っている可能性さえある。下落合744番地の比較的近い周辺を描いた作品は、現存する画面のみをカウントすれば、同年秋から冬にかけ9点(画面は行方不明だが制作した作品×3点を加えると12点)ほどが確認できる。
1926年(大正15)の9月20日前後という時期は、佐伯祐三が残した「制作メモ」Click!によれば9月20日に『曾宮さんの前』Click!と『散歩道』Click!、9月21日には『洗濯物のある風景』Click!と下落合4丁目の西端にあるかなり離れた場所の風景写生に向かっているが、9月22日には『墓のある風景』Click!に『レンガの間の風景』と、下落合744番地に近接した地点にもどって制作していたことがわかる。大泉黒石が、付近の住宅街や坂道を散歩するのが日課であれば、イーゼルを立てて制作する佐伯祐三の姿を見ている可能性が高いことになる。もし、ふたりがすれ違っていないとしても、佐伯祐三はその散歩コースからして、まちがいなく大泉黒石邸の前を歩いているだろう。
また、大泉黒石Click!が下落合744番地に住んでいたころ、村山知義・村山籌子夫妻Click!は上落合186番地にあったアトリエClick!の建て替えのために、一時的に下落合735番地のアトリエClick!に転居しているが、その家もまた大泉邸のすぐ西側に接している区画だった。1926年(大正15)9月1日に行われた、佐伯祐三の二科賞受賞に関する記者会見Click!(東京朝日新聞社)の半年後、すでに1927年(昭和2)3月には村山知義・籌子夫妻が下落合735番地で暮らし、同様の記者会見(同新聞社)を開いているので、大泉黒石はアサヒグラフなどを見てこの事実も知っていたかもしれない。
さて、1926年(大正15)という時点は、黒石にとってどのような年だったのだろうか? 岩波書店から出版された、四方田犬彦『大泉黒石』(2023年)の年譜を見てみよう。
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1926年(大正15年) 33歳
「人間廃業」を『中央公論』に連載し、文録社から刊行。『俺の自叙伝』の全編を改題し、毎夕社出版から『人間開業』として刊行。『預言』を本来の題名で雄文堂から再刊。この頃から国粋論者や混血児排斥論者による風当たりが強くなり、ますます文壇で敬遠されるようになる。もっとも短編の創作はまだまだ盛ん。
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年譜では、国粋主義者や混血児排斥論者たちが、出版社に圧力をかけて大泉黒石を日本の文学界から排斥しようとしたとあるが、もっとも熱心に「排斥運動」を繰り広げたのは、「私小説」家が群れ集う当の日本文壇だった。彼らは、自身の体験にもとづかない100%創作による作品(世界文学的な視点でいうならいわゆる通常の小説)を認めず、黒石の悪評を文学界や出版会に流しては“ウソつき”呼ばわりをして歩いている。
久米正雄は、黒石とその作品の悪評をふれ歩き、「白米の中に砂が交っている」(佐々木勝)すなわち日本文壇の中に異物で“エセ作家”がいると書き、「黒石はひどいうそつきだ」(田中貢太郎)と周囲に話してまわり(100%創作の小説作品を書くとなんでウソつきになるのだろう?)、「(黒石は)ロシア語が話せない」(村松梢風)とすぐに見透かされるようなデマを飛ばし……などなど、これほど当時の「私小説」家集団=文壇が躍起になって文学界はおろか、出版界からも排斥しようとした小説家はほかにいないだろう。そこには、次々とベストセラーを記録する作家への嫉妬と、その人物が日本人とロシア人との「あいの子」であったがための差別意識とを、容易に読みとることができる。
当時の様子を、他に排斥された作家を含め、同書よりもう少し引用してみよう。
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大正時代の日本人の小説観は恐ろしく生硬で偏狭なものであった。「作者」の実体験をそのままいかなる虚飾も交えず書き写し、精神の道徳的な達観を得るという「私小説」が金科玉条のものと見なされ、こうした心境に無縁の作品は正統なる小説規範から脱落した、下流の娯楽書き物であると見なされていた。夢野久作や江戸川乱歩のように非日常的状況を描く作家たちは、文壇から遠く離れた地点に追いやられてきた。黒石もまたしかり、たび重なる自己劇化と細部の事実誤認が重なり、彼の功名を憎む固陋な「純文学」作家に攻撃の隙を与えてしまったのである。
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その結果は、20世紀の後半から21世紀の今日にいたるまでの、人気がありよく読まれている小説の傾向や流れを見れば明らかだろう。大正期の当時、文壇を牛耳っていた「私小説」家たちの作品は、ほんの数人の例外を除いてはとうに忘れ去られ(わたし流にいえば、「だからどうした?」の日記にでもつけとけばいいレベルの低品質しか見いだせず、創造力+想像力の欠如した作品群であり)、1960年代の夢野久作Click!や江戸川乱歩Click!などの復活を見るまでもなく、遠い道のりだったが21世紀に入りようやく大泉黒石も復活してきた……というように映っている。
世界文学から遠く離れ、底の知れない視野狭窄症で「井里的青蛙」だった日本の文壇は、次々と実体験ではない「奇想天外」(江戸川乱歩らと同じく「私小説」家たちにはそう映っただろう)な作品を生みだしてはベストセラーとなり、純粋な日本人ではない大泉黒石を文学界から排除・追放したくなるのは、なかば必然的ななりゆきだった。
文壇を形成していた「私小説」家たちは、黒石が彼らの思いも及ばない広い視野と経験と、思想と言語能力を備えた創作者だったのをついに見抜けなかった。『大泉黒石―わが故郷は世界文学-』で、四方田犬彦は彼の才能について短く次のようにまとめている。
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混血と言う出自、ロシア文学への歴史的関心、トルストイとの出逢い、パリ体験、レールモントフへの熱狂、老子思想、屠畜業との関わり、ドイツ表現派への憧れ、怪奇幻想の嗜好、虚言癖という中傷、文壇追放、峡谷行脚、故郷長崎への思慕、中国とオランダをめぐる異国趣味、コスモポリタニズム……。さまざまな言葉が走馬灯のように現れては消えていく。一人の文学者が、いくら複数の言語に長けているとはいえ、よくもこれだけの世界の拡がりを体験し、エクリチュールとして結実させたものだと驚嘆しないわけにはいかない。
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つい先ごろ、1988年(昭和63)に『大泉黒石全集』第6巻の短編集『葡萄牙女の手紙』(緑書房)を読み終えたが、作品の完成度にムラはあるもののおしなべて面白い。特に、上掲の文中に出てくる「怪奇幻想の嗜好」にもとづく奇譚の短編は、サキときにはオー・ヘンリーの日本版を思わせる、いずれも秀逸な作品だ。第9巻の『おらんださん』をはじめ、第4巻の『預言』Click!など長編小説も、主題にすえたダイナミズムに魅せられて引きこまれるが、次々と読みたくなる小説家であることはまちがいない。大正期の文壇にいわせれば、これらはいずれも事実や実体験にもとづかない「通俗小説」「大衆小説」になるのだろうが、世界文学の視界でとらえるなら、これらの作品群こそが100%の創造力+想像力により生まれた物語であり、「日記」レベルの品質を超えたところに成立する文学そのものだろう。
◆写真上:1930年(昭和5)ごろ撮影の、黒部峡谷の鐘釣温泉につかる大泉黒石(奥)。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)の北が下になる下落合及長崎一部案内(出前地図)にみる下落合744番地。中上は、大泉黒石が住んだ1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同番地。谷邸と佐々木邸の間が空き地だが、無住の貸家が建っていたのではないか。中下は、佐伯祐三「制作メモ」による1926年(大正15)9月20日前後の制作状況。下は、下落合744番地周辺で制作する佐伯祐三の描画ポイント(コメント欄参照)。
◆写真中下:周辺に展開する佐伯祐三「下落合風景」で『散歩道』(上)、『墓のある風景』(中上)、『曾宮さんの前』Click!(中下)、『セメントの坪(ヘイ)』Click!(下)。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合744番地。「下落合事情明細図」(1926年)に描かれた空き地表現の位置に、西洋館とみられる住宅が建っているのがわかる。中は、この一帯は空襲の被害を受けていないので1947年(昭和22)の空中写真では、同番地の区画を鮮明に確認することができる。下は、下落合744番地の現状(路地右手)。
「僕」って何?&「ざんす」が山手言葉だって? [気になるエトセトラ]
先日、何気なく点いていたTVを観ていたら、NHKの「教養番組」(?)でにわかに耳を疑う、信じられないようなウソを臆面もなく話す学者のコメントが放映されていて唖然としたことがあった。それは、東京方言の「ざんす」に関する解説だった。
その学者によれば、東京の「ざんす」言葉は、江戸期はおもに芸者が用いた言葉であり、明治期になってから芸者を妻にする明治政府の要人が続出したため、彼らが住む山手地域に「ざんす」言葉が周囲にまで拡散して浸透し、最近まで「ざんす」「ざんしょ」言葉を話す女性が東京の山手の街にはみられた。したがって、「ざんす」言葉は乃手を中心に拡がった女性が用いる山手言葉だ……云々。おまけに、「ざんす」言葉がつかわれたエリアとして、旧・東京15区Click!の西側(千代田城Click!の旧・乃手側)が、グリーンに塗られている地図フリップまで用意して見せていた。あんた、マジClick!ざんすか?(爆!)
どこの大学だか知らないが、この学者センセの解説はほとんどすべてがウソ八百だ。「ざんす」言葉は、確かに江戸期からの芸者がつかったけれど、芸者だけでなくその周辺にいた幇間や置屋、待合の仲居など花柳界Click!の関係者は男女を問わずにつかっている。しかも、当時は洗練されて聞こえたらしい「ざんす」言葉が浸透したのは、武家や明治以降は要人たちが多く住んでいた旧・山手ではなく、当の芸者たちが住み置屋が点在していた町場のほうがもっと早く、昔から盛んにつかわれていただろう。NHKの番組担当者は、なぜ容易に取材できるファクトチェック(ウラ取り)をしないのだろうか?
別に江戸期からつづく、古い(城)下町Click!の家庭へ取材する必要などない。明治期でも大正期でも、とにかく戦前には東京に根を張って暮らしていた町場(神田でも日本橋でも銀座でも深川でも本所でも浅草でもどこでもいい)にある家庭の生活言語へ取材さえすれば、「そういや、うちの親から上の世代がよくつかってたよ」とか、「祖父(じい)さんや祖母(ばあ)さんが、ざんす言葉をよくつかってたぜ。懐かしいな」とか、「ざんす言葉は戦後も、1980年代ぐらいまでずっとつかわれてたわよ」などの答えが返ってきて、すぐにも学者の解説が不可解でおかしいことに気づいただろう。当該番組のNHKスタッフに、戦前から東京に住む家庭の出身者がひとりもいなかったのだろうか?
おそらく、この学者センセは図書室か資料室にこもりながら、江戸東京語辞典かなにかで「ざんす」がもともとは芸者言葉だったことを知った。そういえば、明治政府の要人たちは芸者を多く妻に迎えている、だから彼らが住んでいた旧・乃手地域で「ざんす」言葉が盛んにつかわれて拡大・普及したのだ……というような、東京の地元から見ればまったくトンチンカンな(現場でファクトチェックをしない)、町場から乖離した三段論法で自身の「学説」を組み立てたのだろう。図書室か資料室にこもるのをやめ、いまでは「下町」と呼ばれる地域の、戦前からつづく家庭の生活言語を何軒か取材すれば、すぐにも自身が空想で組み立てた三段論法が、穴だらけだったことに気づいたはずだ。うちの親父Click!も、「ざんす」言葉をたまにつかっていたが、ここは同じNHKで過去に放送されたコンテンツをもとに、この学者センセの「学説」のおかしさを検証してみよう。
1970年代に米国ユニヴァーサル映画が制作したTVドラマに、『刑事コロンボ』というのがあった。NHKで放映されるときには小池朝雄が声優をつとめ、「うちの上さんClick!がね~」が流行語になったあの刑事ドラマだ。東京出身の翻訳家・額田やえ子は、ピーター・フォークが演じるコロンボのざっかけない性格を表現するため、彼のセリフにあえて東京方言の(城)下町言葉Click!を採用して翻訳している。「あたしにゃチリ(ビーンズ)をひとつ」とか、「あたしゃ拳銃を持たない主義でねえ」とか、戦後も町場では普通につかわれていた(城)下町言葉が随所に登場している。拙サイトでは日本橋浜町出身の曾宮一念Click!や同じく通油町出身の長谷川時雨Click!が日常的に話していた、あのしゃべり言葉だ。
そんな中で、コロンボが犯人のトリックやアリバイを崩して追いつめるときの常套句として、右手の人差し指を立てながら「よござんすか?」(=いいですか?/よろしいですか?/よろしゅうございますか?)のフレーズを多用していたのを、思い出される方も多いのではないだろうか。コロンボが口にする「よごさんすか?」「よござんす」「よござんしょ」は、わたしの親世代まで日常的につかわれていた男女を問わない(城)下町地域の生活言語だ。だからこそ、額田やえ子は同ドラマの随所で飾らない「ざんす」言葉を、コロンボ(小池朝雄)にしゃべらせていたのだろう。わたしの記憶では、1970年代まで「ざんす」言葉は町場でよく聞かれたが、バブル経済以降は聞く機会が激減した。つまり、わたしの親世代が次々と鬼籍に入るとともに、「ざんす」言葉も衰退していったのだろう。
江戸期の花柳界から、町場へ徐々に浸透していった「ざんす」言葉だが(花柳界には他にも「やんす」「あんす」言葉というのもあった)、これら町言葉が幕府の御家人や旗本へ浸透するにつれ、武家の間すなわち旧・乃手地域でも「ざんす」言葉を話す人物が増えていく。同時に、当時は無宿者といわれ社会から疎外されていた博徒や地回りなどヤクザやテキヤの世界にさえ、「ざんす」言葉は浸透していった。わたしの世代では首をかしげてしまうのだが、花柳界(今日の芸能界に近い位置づけ)に根のある「ざんす」言葉は、当時はそれほど粋でスマートでカッコいいしゃべり言葉だったのだろう。
余談だが、本所の町育ちの貧乏旗本でのちに幕閣になった勝海舟Click!は、花柳界の「ざんす」言葉ではなく、同じ花柳界の「やんす」言葉を多用していたといわれている。「…でゃんす」「…でゃんしょう?」といったつかい方だ。日本橋出身で柳橋Click!も近かった親父も、「ざんす」言葉とともに「やんす」言葉もつかっていた。NHKの教養番組(?)のスタッフは、自局でヒットしたレジェンド番組『刑事コロンボ』を観て、標準語Click!ばかりでなくNHKの本局がある地元の東京方言Click!も少しは勉強しようよ。
ちなみに、「ざんすか?」「ざんす」「ざんしょ」を、気持ちよさそうにアテレコで連発していた小池朝雄もまた中央区(日本橋区+京橋区)育ちなので、おそらく彼も「ざんす」言葉を現役でつかっていた世代だろう。「ざんす」言葉のフェイク学説に唖然として、かなりの文字数を費やしてしまったけれど、あまりにもお粗末でひどい東京方言についての史的歪曲であり、「ざんす」方言は乃手言葉だなどとTVを観ていた若い世代に誤伝されてはかなわないので、看過できなかったしだい。図書室や資料室にこもって空想するのではなく、ちゃんと地元の現場を歩いて検証しようぜ。同番組のNHKスタッフと、珍説を披露した学者センセってば、「ボ~ッと生きてんじゃね~よ!!」。
さて、話はガラリと変わって、最近ちょっと面白い本を読んだのでご紹介したい。今年(2023年)の夏に河出書房新社から出版された、友田健太郎『自称詞<僕>の歴史』(河出新書)だ。1人称の「僕」が、どのように使われるようになったのかを史的にたどる、「僕」の歴史を綿密に研究した労作だ。ただし、各地域ごとでつかわれる方言(生活言語)の中に位置づけされ、徐々に変化し規定されていった各地域別の「僕」ではなく、日本語一般としての「僕」の位置づけとして主論を展開している。
たとえば、大阪における「僕」は、おしなべて幼児から老人までが用いる1人称のようだが、東京の街中では明らかに子どもの1人称であり、せいぜい大学生ぐらいまでが許容されるコトバClick!、あるいは同窓生や親しい友人同士の間で交わされるコトバとしてつかわれてきた。明治以降の学校教育に取り入れられ、全国的に用いられるようになった「僕」について、このような地域ごとに存在する方言に飲み込まれてからの地域別用法は、同書の論旨では残念ながら捨象されている。
ただし、大阪の高校に通われた方から拙ブログへ寄せられたコメントでは、「大人の男が僕というのはみっともないですね。〇〇先生はまだ独身だから僕といってもいいかもしれませんが、結婚したら私というべきでしょう」と話す地元の教師がいたそうなので、大阪でも地域によっては「僕」に対するとらえ方が、大きくちがっているのかもしれない。
1937年(昭和12)3月7日発行の「東京朝日新聞」に連載されたエッセイ『浅春随想』Click!で、矢田津世子Click!は「『ボクちやん』を耳にしたりすると、私は、ぞつとする」と書いたが、その34年後の1971年(昭和46)に、一貫して親から「ボクちゃん」で育てられ中年になってからも自分のことを盛んに「ボク、ボク」を連発し、ベレー帽をかぶって画家を詐称した大久保清事件が発覚している。
同書にも、「ボクちゃん」「ボク」の大久保清が象徴的に取り上げられているが、少なくとも関東地方で芸術家や文化人が “書生気質”の延長で「僕」をつかいはじめたのは、すなわち自分はそこいら一般の社会人である「わたし」「わたくし」「あたし」「あたくし」「おれ」「あたい」「おいら」「おら」「自分」などとは異なり、生まれたときから今日まで社会に束縛されない自由人(芸術家・文化人・芸能人)としての特別な存在であるとして、意識的に「僕」をつかいはじめたのは、おそらく昭和期に入ってからのことだろう。
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大久保はふだんの自称詞は<おれ>なのだが、女性に声をかけるときに用いる自称詞はいつも<ぼく>であった。ルバシカにベレー帽をかぶり、芸術家の雰囲気を漂わせた大久保にとって、自称詞<ぼく>もまた、そうした扮装の小道具の一つだったが、<ぼく>を使い、教養を備えた文化人を演じることで、現実の自分のみじめな境遇からひととき逃れたいという感情もあったのかもしれない。/いずれにせよ、そうした「扮装」がある程度の効果を持ったことからも、この時代には教養が強い憧れの気持ちを呼び起こしていたこと、また自称詞<ぼく(僕)>が、この時代まではまだ、教養や学歴のイメージと強く結びついていたことがわかる。
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大正期以前は、幼児や生徒・学生の1人称とは別に、文筆家がごく私的なことを書く文章に「僕」をつかったり、思想家が同志へ呼びかける論を展開する際に親しく「僕」を用いたりと、特に芸術家や文化人、芸能人に限らず用いられていたものが、大正期から昭和期に入るにつれ内向する「私小説」の影響もあったのだろうか、作家や画家などの世界に「僕」が急速に浸透していくことになる。町場で「私」と書いていた作家が、山手方面へ転居してしばらくすると「僕」をつかいはじめたりするので、山手言葉が日常語として浸透したのかと思っていたけれど、どうもそれだけではないようなのだ。
「僕」は、子ども時代からの“書生気質”が継続し「社会へ出ない」、上記の職業意識と密接に結びついたところで用いられる、どこか一般社会人とは異なる特異的で特権的な意識をともなった1人称に“進化”していったようだ。余談だけれど、下谷(上野・御徒町界隈)地域出身の高村光太郎Click!が、いつも自分のことを「あたい」といっていたのを同書で初めて知った。わたしの世代では、「あたい」はすでに町場の女子言葉だ。
わたしは、大学生のとき「僕」といって姻戚や周囲から軽んじられた(子ども扱いされた)経験から、ましてや芸術家でも文化人でもないので1人称には「わたし」「おれ」しかつかわないが、いまや「僕」は子どもの男子ばかりでなく女子にもつかわれはじめている。先日、小学校6年生の女子たちが盛んに「僕」といっているのを聞いて、そろそろ「僕」もジェンダーレスの1人称になりつつあるのか……と実感したしだい。
同書では、まるで昔のターキー(水の江滝子Click!:晩年は「あちし」の1人称が多かったように記憶しているが)のように、女性がつかう「僕」「僕ら」についても書かれているので、興味があればご一読を。女の子がつかう「僕」や「僕ら」は、まぁ、よござんしょ。w
◆写真上:おそらく古くから「ざんす」「やんす」言葉がつかわれていたと思われる、日本橋芸者や置屋が街中に散在していた日本橋地域の風景。
◆写真中上:上は、どこかの学者センセが「ざんす」言葉についておかしな「学説」を開陳していたのは、このキャラクターが登場するNHKの番組だ。「ボ~ッと生きてんじゃね~よ!!」というのが、このキャラクターの口グセらしい。中は、下町言葉を流暢に話す「よござんすか?」「よござんしょ」の『刑事コロンボ』(NHK)。下は、やはり「ざんす」言葉が話されていた銀座地域。「家までとどけてくれます?」「はい、よござんすよ~」は、子どものころ店舗などでよく耳にした日常的な町言葉だ。
◆写真中下:上は、同じく「ざんす」言葉が話されていた神田地域。中左は、今年(2023年)の夏に出版された友田健太郎『自称詞<僕>の歴史』(河出新書)。中右は、1960年代に小学校で使われた小学1年生用『こくご』(教育出版)。下は、同教科書に掲載された「じぶんの ことは、ぼく、わたし」と教える1人称代名詞のページ。
◆写真下:空襲から焼け残った、旧・山手にあった江戸の御殿医屋敷と大正の西洋館。江戸期からつづく旧・山手地域でも、もちろん町場と同様「ざんす」言葉はつかわれていた。
★おまけ
下落合に住んだ赤塚不二夫Click!は、おフランス帰りで「シェーッ!」のイヤミに「ざんす」を盛んにつかわせたが、「満洲」出身の彼には山手の奥様方が話す「ざんす」言葉が、ことさらキザに聞こえたのだろう。だが、町場の男女が話す「ざんす」に接していれば、全然異なる印象を抱いたかもしれない。ケムンパスは「やんす」言葉だったかな? ……そういや、矢田津世子Click!や目白の師匠のお上さんClick!のように、自分を「オレ」と称した女性が、その昔、深川の辰巳芸者衆にもかなりいたらしい。(下の写真は、春の深川木場)
西坂上は現代美術と現代音楽の交叉点。 [気になる下落合]
新型コロナ禍が終息したせいか、春ごろから落合地域とその周辺域の街歩きが多く、吉屋敬様と甲斐文男様たちとの吉屋信子の散歩道歩きClick!を皮切りに、上落合の吉武東里邸Click!と近所にある建築作品(跡)めぐり、日刊自動車新聞の編集委員の方との下落合の安達堅造邸Click!跡まわり、喫茶店ワゴンClick!と檀一雄・尾崎一雄・林芙美子らの文学史蹟めぐり、阿部展也アトリエを購入された方々とのアトリエ跡の探訪散歩、春につづき吉屋敬様をはじめ吉屋信子記念会や栃木市立文学館の方々との吉屋信子の下落合足跡めぐり、大泉黒石Click!の『預言』Click!に描かれた目白(台)地域めぐり……などなど、知人と散歩がてら歩いたものを含めるとさらに多くなる。きょうは、数多い街歩きの中でも新事実が判明した、現代美術の阿部展也アトリエに焦点をあてて記事にしてみよう。
以前の記事Click!にも書いたが、これまで下落合における阿部展也アトリエの所在地が不明確なままだった。それぞれ証言者による「記憶がまちまちで悩ましい」と書いたが、今回、阿部展也アトリエを購入して住まわれていた方(仮にM様)と、M様をご紹介してくれた方(仮にA様)のご好意により、同アトリエの位置を明確に規定することができた。紹介者のA様は、M様の夫が高校教師をされていたときの教え子にあたる方だ。
また、1950年代に実施されたとみられる下落合の番地変更で、よけいにわかりづらくなっていた点もあるだろうか。今回、M様とA様たちとともに街歩きをしながらお話をうかがうことで、ようやくはっきりとアトリエ位置を確認できたので、改めてご報告したい。同時に、今日につながる現代美術と現代音楽にかかわる興味深い事実も判明したので、それも併せてご紹介したいと思う。
まず、当初は阿部展也アトリエの位置として、星野通りClick!(八島さんの前通りClick!)沿いにある下落合2丁目679番地(現・中落合2丁目)の証言があった。この家は、彫刻家の松浦万象によれば「アトリエを借りて仕事をしていた」ということだった。この番地の位置にあるのは笠原吉太郎アトリエClick!なので、わたしは戦後に絵画の仕事をしなくなった笠原吉太郎のアトリエを、一時的に借りて仕事をしていたのではと想定Click!した。だが、山中典子様Click!ら笠原家のご子孫に、そんな記憶はないとのことだった。
また、沸雲堂Click!の浅野丁策(金四郎)Click!は戦後、下落合の画家たちへ画道具を届ける際に「阿部さん自身の設計」による「瀟洒なホワイトハウス」を建てて住んでおり、そのアトリエは川口軌外アトリエClick!の近くだったと証言している。一ノ坂上にある下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)の川口アトリエと、国際聖母病院Click!の西側にあたる下落合2丁目679番地の区画とでは、直線距離でもたっぷり600m以上は離れている。この時点で、なにかがおかしいと感じて前回の記事を書いたしだいだ。
だが、阿部展也アトリエを購入して住まわれていたM様は、下落合2丁目679番地(のち680番地)の阿部展也アトリエを、1957年(昭和32)に購入されて住んでいる。すでに阿部展也は渡欧しており、M様が売買契約をされたのは夫人の阿部敏子だった。この事実をベースに再考すると、先の松浦万象と浅野丁策の証言は、滝野川から下落合へ転居してきた当初、一時的に「アトリエを借りて仕事をしていた」借家が一ノ坂上の川口軌外アトリエ近くにあり、そこで「阿部さん自身による設計」が行われ、下落合2丁目679番地に建設中の「瀟洒なホワイトハウス」の工事進捗を監督していたのであり、両者は戦災にも焼けなかった一ノ坂上の仮住まいと、西坂Click!上の阿部展也アトリエとを混同して記憶・記述しているのではないか?……という想定が成立しそうだ。
特に沸雲堂の浅尾丁策(金四郎)は、下落合に住む多くの画家たちへ絵の具をはじめ画材や画道具をとどけがてら、アトリエに入れてもらいしばしば作品を観賞したり制作過程を見学したりしていた。川口軌外のもとへも画材をとどけていたが、下落合2丁目661番地の脚が悪かった佐伯米子Click!のアトリエClick!(佐伯祐三アトリエClick!)にも、絵の具を頻繁にとどけている。つまり、阿部展也アトリエが下落合2丁目679番地にあったとしたならば、川口軌外アトリエの近くとは書かず、確実に佐伯米子アトリエClick!あるいは同じ道沿いの下落合2丁目667番地に建つ吉田博・ふじをアトリエClick!の近くと書いていたはずだからだ。つまり、一時的に住んでいた仮住まいのアトリエと、新築した下落合2丁目679番地のアトリエとに記憶の齟齬が生じている可能性だ。
また、もうひとつの混乱要素として、わたし自身のミスもあったようだ。下落合2丁目679番地の区画特定では、当初から戦後1965年(昭和40)に新宿区が作成した「住居表示新旧対照案内図」をベースに、同番地の区画を規定してしまっていた。戦後の同年の時点で、下落合2丁目679番地の区画に笠原吉太郎アトリエは含まれていたが、1950年代に行われたとみられる小規模な番地変更、すなわち下落合2丁目679番地→680番地の阿部展也アトリエの敷地を、最初から除外して考察を進めてしまっていた可能性が高い。したがって、戦後の空中写真を眺めても阿部展也アトリエに隣接する北側の区画(679番地)を眺めるばかりで、すぐ南に隣接する680番地(旧・679番地)に建っていた「瀟洒なホワイトハウス」=阿部展也アトリエに目を向けず見逃すことになった。
1957年(昭和32)の秋、敏子夫人から阿部アトリエを購入されたM様は、2年後の1959年(昭和34)に門前で家族の記念写真を撮影されている。(冒頭写真) 集合写真の左手に見えているのが、2年前まで阿部展也が仕事をしていたアトリエ「瀟洒なホワイトハウス」だ。その名称から、建築当初は外壁が白いペンキで塗られていたのだろう。
阿部展也アトリエは平家だが、敷地が西ノ谷(不動谷)Click!までつづいていたので、東西に細長い敷地に建つアトリエだった。家内には、24畳サイズのアトリエがあり、その奥には台所やトイレなどがつづいていた。アトリエには、北側にたくさんの窓が設置されていたが、南側には窓がまったくなかったという。また、阿部展也の寝室は星野通りに面した南西角の別棟で、冒頭の記念写真に写るM様家族の背後にチラリと見えている自動車の位置にあったが、アトリエを買収後すぐに取り壊されている。このアトリエでは、定期的に阿部展也の呼びかけによる「アトリエ研究会」(日曜研究会)が開催され、先の松浦万象や瀧口修造Click!、イサム・ノグチClick!、江川和彦Click!たちが集っていた。すなわち、当時は東京における注目すべき現代美術の拠点のひとつになっていたのだろう。
M様は阿部展也アトリエを購入後、1963年(昭和38)ごろまでに曳き家や増改築を重ねており、漸次建物の形状が多少変化している。また、1973年(昭和48)には既存の建物をすべて解体し、同敷地へ新たな住宅を建設されている。やはり、敷地に合わせて東西にやや長い建物だったが、東側に庭園を造られたそうだ。細長い敷地といっても、当時の宅地の面積は現在の住宅敷地に比べ何倍もあったので、庭はかなり広かったという。
東側の西ノ谷(不動谷)Click!に面した崖地には、大きな柿の木が生えており、柿がたわわに実った晩秋のある日、M様のご主人(高校教師)が実を採ろうと柿の木に登ったところ、枝が折れて5~6mほど下の谷底へ落ちたが、ケガもなく無事に済んだというエピソードをうかがった。当時は、なにもかもコンクリートやアスファルトで崖地や地面を固めてしまわなかったため、土面や草むらがクッションになって無事に済んだのかもしれない。
さて、阿部展也アトリエの星野通りをはさんだ向かいには平尾邸が建っていた。この平尾邸に関しては、「平尾昌晃さんの実家」という誤伝Click!が地元でかなり根強く語られているが、この平尾邸は平尾昌晃の伯父にあたる現代音楽家の平尾貴四男邸だ。きっと、最初は平尾昌晃の姻戚邸だといわれていたのが、当時のウェスタンやロカビリーのブームのさなか、いつのまにか「キャーッ、日劇の舞台でギター抱えて寝転がっちゃう平尾昌晃のご実家よ! 今度、お庭にカラーテープ投げこんじゃおうかしら。ミッキー・カーチスのお家も下落合なの!?」などと、落合地域の女子たちの間でかまびすしく伝えられはじめたのが、ウワサの出発点ではないだろうか。w
平尾貴四男は現代音楽家だが、その連れ合いである平尾妙子も音楽の教則本などで高名な音楽家であり、その娘もピアニスト(平尾はるな)、甥も歌手で作曲家(平尾昌晃)と“音楽一族”だった様子がわかる。平尾邸は戦前から建っており、二度にわたる山手大空襲Click!にも焼けることなくそのまま残っていた。1938年(昭和13)に作成された「火保図」には採取されていないが、1944年(昭和19)に撮影された空中写真では確認できるので、おそらく物資や人材がそれほど欠乏していなかった1939~1943年(昭和14~18)のどこかで建設されているとみられる。ちなみに、建設当初から平尾邸だったのか、それとも戦後になって平尾家が同屋敷を購入しているのかはさだかでない。
平尾貴四男は、管弦楽曲やヴァイオリンソナタ、ピアノソナタなど数多くの現代音楽(室内楽曲が多いだろうか)を作曲しているが、後進の指導や育成にも熱心だったことで知られている。いわゆる弟子筋にあたる音楽家には、冨田勲や一柳慧、宇野誠一郎などがいる。当然ながら、彼らは師匠宅である平尾邸によく出入りしていただろう。
余談だけれど、わたしは20代後半からJAZZClick!とは別に、冨田勲のシンセ演奏をはじめ、一柳慧と高橋悠治(水牛楽団)、ときに吉原すみれ(トライアングルツアー)を加えた現代音楽のコンサートへしばしば足を運んだので、これら音楽家たちの名前は懐かしい。当時は版画ブームだったせいか、彼らのコンサートポスターはリトグラフで1枚1枚ていねいに刷られたもので、現存すればけっこうなプレミアがついているのではないか。
ということで、もう読者のみなさんはお気づきではないだろうか。下落合2丁目679番地(のち680番地)の阿部展也アトリエでは、当時の前衛表現を中心とする現代美術や先進造形の作家たちが集う、「アトリエ研究会」(日曜研究会)が定期的に開かれていた。そして、向かいに建っていた下落合3丁目1436番地(のち1433番地/現・中落合2丁目)の平尾貴四男邸では、1970年代以降に現代音楽の中核をになう若手の現代音楽家たちが出入りしていた。つまり、星野通りをはさんだ阿部展也邸と平尾貴四男邸は、期せずして現代美術と現代音楽の“交叉点”になっていたのだ。ちなみに、阿部家の敏子夫人と平尾家の妙子夫人は、道路をはさんだお隣り同士の昵懇の間がらだったそうで、両家は親しく往来していたのだろう。
ときに、阿部展也アトリエで「日曜研究会」が開かれ、米国から帰国したイサム・ノグチがF.L.ライトClick!がデザインした室内の家具調度品の意匠について「講義」をしていると、平尾家から斬新なメロディラインのピアノ曲が聴こえてきたかもしれない。誰が弾いているのか、譜面があるのかインプロヴィゼーションなのか、研究会のメンバーはほんの少し息をつめてピアノ演奏に耳をすませたが、すぐにまたイサム・ノグチが語るインテリアデザインの話に耳を傾けた……、思わずそんな情景を想像してしまう下落合の街角なのだ。
◆写真上:1959年(昭和34)に撮影された、下落合2丁目679番地に住むM様の家族集合写真で、左手に見えている洋風建築が旧・阿部展也アトリエだ。
◆写真中上:上は、1948年(昭和23)撮影の空中写真にみる阿部展也アトリエ。中は、すでにM様邸になったあとの阿部展也アトリエ跡。下は、1965年(昭和40)に作成された「住居表示新旧対照案内図」(新宿区)。すでにこの時点で阿部展也アトリエは680番地に変更されており、わたしはその北側区画である679番地の家々に目を向けていた。
◆写真中下:上は、西坂へ向かう星野通りの現状。中は、下落合のアトリエで撮影された阿部展也・敏子夫妻と子どもたち。下は、阿部展也(左)と平家貴四男・妙子夫妻(右)。
◆写真下:上は、阿部展也アトリエ跡の現状。中は、平尾貴四男・妙子邸跡の現状。下は、M様も記憶されていた星野通り沿いに建つ戦後まもないころに建設された古住宅。
★おまけ
1963年(昭和38)作成の「住宅明細図」にみる、西坂上の阿部展也アトリエがあった住宅街の様子。悩ましいことに、同図では下落合2丁目の番地記載が001番ずつズレている。
「大逆事件」で深い心傷を負った沖野岩三郎。 [気になる下落合]
沖野岩三郎が、ついにキリスト教会の牧師を辞任して作家として生きていくために、小石川区宮下町58番地の借家から、下落合の落合第一府営住宅8号の住宅へ転居してきたのは、1921年(大正10)7月ごろのことだった。ちょうど、曾宮一念Click!が下落合623番地にアトリエClick!を建設して4か月ほど、下落合661番地の佐伯祐三Click!のアトリエ竣工が間近だったか、そろそろ完成Click!しそうなころのことだ。
堤康次郎Click!から、目白通り沿いの土地の寄付を受けた東京府では、東京府住宅協会Click!の会員とともに落合第一・第二府営住宅Click!を建設し終え、当時は落合第三府営住宅の建設に着手していた時期にあたる。また、箱根土地Click!は目白文化村Click!建設のために、郊外遊園地「不動園」Click!の敷地で第一文化村の開発を進めていたころだ。
沖野岩三郎が、東京府住宅協会の会員だったかどうかはわからないが、落合第一府営住宅8号へ転居してきた当初、1921年(大正10)現在の住所は落合村下落合1505番地、昭和初期に行われた番地変更で同住宅は下落合1510番地、そして1932年(昭和7)の東京35区制Click!への移行で成立した淀橋区の時代には、同住宅は下落合3丁目1507番地(現・中落合3丁目)へと番地が推移している。
教会牧師を辞任したころの沖野岩三郎は、きわめて多忙な執筆生活を送っていた。たとえば、1920年(大正9)には『魂の憂』を東京朝日新聞に1月~6月まで連載し、同年に基督教出版社から『煙れる麻』を出版、同年7月~12月までやまと新聞に『迷流』を連載、同年8月に牧師を辞職するとともに、12月には福永書店より『黒表の人』(「黒表」とは警察のブラックリストのこと)を発表している。この間、軽井沢の温泉が湧く千ヶ滝中区595番地(現・軽井沢町長倉)に、小さな山荘を建設している。
また、下落合へ転居したあとも、1922年(大正11)1月~12月まで「婦人世界」に『愛は強し』を連載し、同年5月~8月まで朝鮮・中国旅行、翌1923年(大正12)1月~12月まで関東大震災Click!をはさみ「主婦之友」に『愛は乱れ飛ぶ』を連載、同年5月には大阪屋号書店より『薄氷を踏みて』を出版……と、作家としては目のまわるような忙しい時期をすごしている。沖野岩三郎が、教会牧師を辞めて作家になろうと決意したきっかけは、キリスト教の牧師として誠実に生きようと努めてきたが、貧困のため栄養失調で身体がもたず生命の危機を感じたからだ。
いまだ作家活動をする以前、栄養失調でハル夫人が倒れた前後の様子を、1989年(平成元)に踏青社から出版された野口存彌『沖野岩三郎』から、少し長いが引用してみよう。
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沖野が結果的に最も長く住むことになるのは東京目白(ママ)の家で、それは大正十年以降である。大正六年に新宮から上京し、與謝野寛、晶子邸に近い麹町富士見町の家に住んでから、目白に住むに至るまでに住まいを二度変えていた。/「俸給生活より原稿生活へ」(略)では、牧師生活の過程で経験した経済上の苦しさを数字を挙げて報告しているが、その生活的な苦しさがつづいたために、ハル夫人が「たうとう大正八年四月の初めから、栄養不足に原因する貧血症、胃腸病を併発して寝込んで了つた」ことも簡潔に述べている。その後、夫人は入院や手術を繰り返しているが、「寝顔を眺めつつ」(略)によると、夫人の健康がそのような状態だったため、沖野が「女中を傭つても又た夫れを使ふのに気骨が折れる。夫れよりも寧その事宿屋住ひをしよう、そしてお前は何にもしないで気楽に暮して見るが宜い」と提案し、麹町富士見町の家から、本郷追分町(略)の西濃館に移った。
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もちろん、地名のように書かれている「東京目白」は、東京府豊多摩郡落合村下落合(1924年より落合町下落合)のことで、当時の目白地名は山手線・目白駅Click!(北豊島郡高田町)から2km以上も東のエリアClick!だった。このあと、沖野夫妻は1919年(大正8)に先述の小石川区宮下町へ転居し、ほどなく下落合にやってきている。
文中に、与謝野寛(鉄幹)Click!と与謝野晶子Click!が登場しているが、与謝野鉄幹とは明治学院神学部を卒業したあと、1909年(明治42)に和歌山県新宮にある新宮教会の牧師時代に、地元の講演会で生田長江Click!や石井柏亭Click!とともに知りあっている。また、牧師就任とともに近くに住んでいた大石誠之助や成石平四郎、高木顕明、崎久保誓一などと知りあい、その社会主義やアナキズムに関する思想の勉強がてら親しく交流している。
明治末のこの時期、日本はもちろん世界じゅうでキリスト教が理想とする世界の実現と、社会主義やアナキズムとがもっとも近接していた時代で、大正デモクラシーの各種思想へ多大な影響を与えている。明治から大正にかけて、トルストイズム(トルストイ主義的アナキズムClick!/反戦思想)をはじめキリスト教社会主義(安部磯雄Click!・木下尚江Click!など)、自然主義、共産主義、ニヒリズムなどが社会的に広く喧伝され、大正期に入ると沖野岩三郎はキリスト教牧師の立場から、特に賀川豊彦Click!の『死線を越えて』Click!(改造社/1920年)に深い共感を寄せている。
1910年(明治43)6月、沖野岩三郎は突然逮捕されて自宅の家宅捜査を受ける。同時に、新宮で親しく交流していた大石誠之助や成石平四郎らも次々と逮捕された。天皇暗殺を企図したとして、全国のおもだった社会主義者の“根絶”をねらった、いわゆる「大逆事件」と称する新宮地域におけるフレームアップ(デッチ上げ)事件のはじまりだった。
ほどなく沖野は釈放されたが、「大逆事件」に連座したかしないかの境界線は、同年の正月に大石誠之助邸で開かれた新年会に、出席したかしないかの、ただそれだけの紙一重による相違だけだった。この新年会で、「天皇暗殺の謀議」が行われたことになっており(もちろん検察当局の創作だが)、沖野は下戸で酒が1滴も飲めないため、たまたま酒宴を欠席したにすぎず、それが謀議に加わらなかったアリバイであり“証し”とされた。
沖野岩三郎の旺盛な創造力を、生涯にわたって刺激しつづけたのは、この34歳の牧師生活のときに遭遇した「大逆事件」によるところが大きかっただろう。彼は釈放されたあと、どこへいこうと常に警察の尾行を受けながら、収監者たちを支援しつづけている。彼は東京へ向かい、知己をえていた与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ね、大石誠之助らの弁護士を紹介してくれるよう依頼している。与謝野鉄幹は、すぐに平出修という若いが優秀な弁護士を紹介し、ついでに同弁護士に対し社会主義や共産主義の思想について教示を受けるよう、陸軍省医務局長で文部省の文展審査主任だった森鴎外Click!を紹介している。
1950年(昭和25)刊行の「文藝春秋」2月号で、石川三四郎Click!や山崎今朝彌、大宅壮一Click!とともに出席した沖野岩三郎は、当時の様子をこのように語っている。
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幸徳事件の弁護人に平出修といふ人がをつた。若い人でね、僕が頼んだ。與謝野寛氏に「誰かいい人はゐないか」「平出修といふのがゐる」「ぢや、頼む」さうしたら與謝野さんが平出に知恵を授けた。「君、ほんたうをいへば一流の弁護士でも共産主義の思想なんか判つてをらん。君はこの弁護をする前に、森鷗外さんに紹介してやるから、鷗外さんに共産党の成立ちから日本へ来たこと、すつかり習つて来い」と言つた。それで平出が日参して鷗外さんから共産党のことを習つた。それをひつ提げて弁護に立つたんですよ。これが立派な弁護でね、一番喜んだのが菅野すが(ママ:管野スガ)。わたしの弁護人ではないけれども、今度の裁判であなたのやうな弁護をしてくれる人があつたといふことだけでも、わたしは満足だ、あとはどうなつてもいい、といふ感謝の手紙をよこした。(カッコ内引用者註)
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結局、「大逆事件」は1911年(明治44)1月18日に24名への死刑判決がいいわたされ、翌1月19日には「特赦」で12名が無期懲役に変更、1月24日から25日にかけて12名の死刑が執行された。沖野岩三郎が弁護を依頼していた、和歌山県新宮の大石誠之助や成石平四郎も1月24日に死刑が執行されている。このあと、沖野岩三郎はエンエンと警察の尾行や訪問に悩まされることになる。明治末から1945年(昭和20)8月15日の敗戦にいたるまでの35年間、これほど長期にわたり警察に要注意人物として目をつけられていたキリスト教牧師、のちキリスト者を体現する小説家はほかに存在しないだろう。
下落合1505番地(のち1510番地)の府営住宅8号に転居してきたあとも、警察による執拗な尾行や訪問など、嫌がらせはつづいていた。1920年(大正9)に無理をして軽井沢に惜秋山荘を建てたのも、ハル夫人の保養目的と同時に、東京における執拗でうるさい警察の尾行から逃れ、執筆に専念したかったという動機があったのかもしれない。
下落合へ転居してくる直前、1921年(大正)に発刊された「婦人倶楽部」1月号に、「大正十年の春を期して改良したき事」というアンケートが掲載されている。それに対して、沖野岩三郎は次のように回答している。同書より、引きつづき引用してみよう。
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日本には注意人物といふものあり、一度その筋の黒表に記名されたるものは、いつまでも尾行したり注意したりして非常に善良なる国民の心を不快にする事度々あり。注意尾行せねばならぬ者が無きものかは、一見して明瞭なるに拘らず五年十年に亘りて絶えず注意せられる人あり、その迷惑と不快、実に言語に絶す。折角平和な心になり居るものも、刑事の訪問尾行等あれば一種の不快は或種の反抗心を惹起するものなり。本人之を警官に詰れば「私共は唯だ上官の命令で」といふ。警察署警視庁に詰れば「我々は唯だ、所轄署の報告を以て知るのみ」といふ。此の煩瑣にして無駄な尾行と注意とが、どれだけ日本の或る人々の心を苦しめつつあるか、その数枚挙に遑あらず。(後略)
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沖野岩三郎は、徳冨蘆花Click!の『新春』(1918年)を読んで感動し、同年の「六合雑誌」7月に『新春を読む』という書評を書いている。そして、蘆花が数多くの書評の中で「沖野のが一番好い」(作品の趣意につき正鵠を射ている)という感想をもらし、沖野の「大逆事件」を扱った小説『煉瓦の雨』(福永書店/1918年)が出版されたら、「あんな気もちの好い評をした者には、ちつとやそつとの加勢はしても当然だ」といわしめている。
沖野岩三郎が下落合へ転居してきてから7年後、1928年(昭和3)10月から彼を編集委員とする『蘆花全集』(蘆花全集刊行会/全20巻)の出版が、下落合の沖野邸を中心にスタートしている。彼は創作の執筆を中断し、すべての時間を同全集の編纂に注ぎこみ1930年(昭和5)5月ついに全巻を完結させた。そして、編纂の仕事が終わるのを待ちかねていた東京朝日新聞では、さっそく同年6月より沖野岩三郎『闇に貫く』の連載をスタートしている。沖野岩三郎は、徳冨蘆花と同じくキリスト教の影響を受けた作家の巨人的な存在なので、とてもひとつふたつの記事では到底とらえきれず、また別の機会があれば取りあげてみたい。
◆写真上:下落合1505番地(→1510番地)の、沖野岩三郎邸跡(路地の突きあたり)。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)作成の「出前地図/西部版」Click!にみる沖野邸。表札が達筆だったものか、沖野が「神野」に誤採取されている。中は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる沖野邸。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる沖野邸。すでに西側の私道をつぶして庭にし、門の位置を変えているとみられる。
◆写真中下:上は、新宮教会の牧師時代に親しく交流した沖野岩三郎(左)と大石誠之助(右)。中は、1918年(大正7)出版の沖野岩三郎『煉瓦の雨』(福永書店/左)と、1923年(大正12)出版の同『薄氷を踏みて』(大阪屋号書店/右)。下は、1950年(昭和25)に発刊された「文藝春秋」2月号の目次で座談会の司会は大宅壮一だった。
◆写真下:上は、沖野岩三郎が強い影響を受けた徳冨蘆花(左)と賀川豊彦(右)。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合3丁目1507番地の沖野邸。このころ、自宅を建て替えているとみられる。下は、1945年(昭和20)4月2日に偵察機F13Click!によって撮影された沖野邸。4月13日夜半に行われた第1次山手空襲Click!で、沖野邸は全焼している。
★おまけ
下落合には、ヴォーリズClick!設計の目白福音教会宣教師館=メーヤー館Click!(1912年築)があったが、明治学院礼拝堂=白金チャペル(1916年築)もヴォーリズの仕事だ。ただし、沖野岩三郎は明治学院へ1904年(明治37)に入学し1907年(明治40)に卒業しているので、インプリ―館や明治学院記念館(旧チャペル)は存在したが、白金チャペルは未建設だった。
学習院女子部の下校時に結婚希望者と面接。 [気になるエトセトラ]
以前、下落合1639番地の第二文化村Click!の家で暮らし33歳で早逝した、昭和初期の作家・池谷信三郎Click!の小説『縁(えにし)』Click!をご紹介したことがあった。会社では管理職の、すでに中年を迎えてしまった独身男が、思いきって新聞に「花嫁募集」の広告を掲載し、結婚相手とめぐり逢うまでを描いた短編小説だ。
1929年(昭和4)の作品だが、別の地方から東京地方へとやってきてた人たちにとっては、周囲に親戚や縁故がおらず、親しい知人も少なく縁談がもちこまれることなどなかったため、異性とめぐりあって結婚するということが、男女を問わず案外敷居の高いことだった様子がうかがえる。そのために、明治末から増えはじめた結婚媒介所(結婚相談所)、あるいは仲人組合のような組織が東京ではかなりの繁昌をみせるようになる。
また、親戚や縁故、知人などの紹介による縁談、いわゆる“見合い”による結婚を拒否する風潮が、大正期に入ると新しい社会思想をもつ男女から拡がりはじめ、ふたりの男女が出逢いお互いが気に入ったら結婚をするという恋愛結婚が、東京の若い世代にはあるべき姿の理想的な結婚とみなされるようになっていく。特に明治末から大正期にかけデモクラシーを背景に育った男女は、もはや親同士が決めたような“見合い”話による結婚は、古い封建時代の因習から抜けだせない悪弊とまで考えるようになっていった。
東京に結婚媒介所ができたのは、大正期も近い1907年(明治40)ごろといわれている。大正初期には、報知新聞の調査記事によれば東京市内(東京15区時代Click!)だけでも、29ヶ所の結婚媒介所がオープンしていたという。そこでは、男子の側から、あるいは男の両親から「賢母良妻主義」や「三従主義」などを求めても、もはやなかなか女性たちには受け入れられず、特に高等教育を受けた女性からは「思想の自由」や「女の解放」が条件として突きつけられるような時代になっていた。
そんな様子を、1913年(大正2)に文明堂から出版された磯村春子Click!『今の女-資料・明治女性史』(雄山閣版)収録の、「結婚媒介所」から引用してみよう。
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現代の女、然も普通以上の教育を受け得た若い女の思想には、已に我国旧来の因習的覇絆を脱しやうとして藻掻きつゝある者が多い。其最も近き実例の一ツとして記者は結婚媒介所なるものを通して見たありの儘の今日の婦人の思想を写して見たいと思ふ。結婚媒介所! これ已に新らしい女の為めに開放され、而して之に対する新らしい男の自由なる出入を許された門戸である。昔ならば、親の命令とあつては、嘗て見もし聞もしなかつた男子の処へでも従順にして嫁に行つた日本の女が、今日ではこの媒介所と看板を下げた、商売人の手を経てまでも、各自の希望する理想の良縁を求めんとして焦心する様になつた。
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つまり、古い因襲や旧弊にとらわれない結婚相手を探すには、結婚媒介所へ登録しておくことが男女ともに最適なコースだった様子が見える。実際に相手と面会し思想性や教養、性格などを見きわめてから結婚へと進む合理的なシステムだ。
報知新聞記者の磯村春子が取材した、信頼のおけると評判の結婚媒介所では、陸軍の師団長クラスや華族の家従、高名な紳商(ビジネスマン)などの縁談をまとめた実績を備えている、かなり大きな規模の組織だった。大正初期で、もっとも登録が多かった男子は、やはり女性と出逢う機会のなかなかない軍人と、公私立大学卒の勤労者(公務員またはサラリーマン)で、最新の受付番号が各1500番台にまで達していたという。つまり、2つの職種の男子だけで数千人の登録者があったことになる。
さて、実際に登録会員の男女を逢わせてみると、いろいろと面白いことが起きたそうで、男の側が申し込みの希望欄に「初婚、良妻賢母の資格のある教育あるもの、品行方正、体格強健、性質穏和、愛嬌あり活発なる美人、血統正しくて係累なきもの」などと勝手なことを書き並べておきながら、実際に逢ってみたら「美人」ぐらいしか当てはまる項目がないにもかかわらず、急に乗り気になる男が圧倒的に多かったらしい。
結婚媒介所では、そのようなケースの失敗例を多く見てきているので、男子の熱を冷ますために初婚といっても経験はけっこうありそうだし、無教育だし、良妻賢母になれるかは怪しいし、ちょいと性格がナニしてて品行方正ではないかも……などと、暗に注意をうながしでもしようものなら、急に不機嫌になりながら「僕が直してやる、教へてやるから差支へない」などといって、まったく耳に入らなくなったようだ。
これは、多くの男子会員に共通した「普遍的」な反応のようでw、結婚媒介所のほうでもそれ以上は(相手の女子もたいせつな会員=お客様であるために)強いていえないので黙ってしまうしかなかった。かくして、申込書の希望欄の項目に「美人」以外、ほとんどまったく当てはまらない女性と結婚することになるのだが、数年たつと「こんなはずではなかった」と離婚してしまい、再び結婚媒介所を訪れる男子が多かった。
また、女子のほうは、紹介された相手の男に十分な財産もあり、「〇〇学士」というような肩書きもちゃんと備わっているにもかかわらず、どこか性格や人格があわなそうなので、なんとなく断るといった事例が多いようだ。このような結婚媒介所に登録するのは、高い教育を受けている女子が多く、また「縹緻(きりょう)が看板」で顔写真の登録をためらわないぐらいの、かなり容姿に自信のある女子が多かったらしい。つまり、おしなべて女子たちは「高望み」をしすぎていたようだ。
どのような女子たちが登録しにきていたのか、同書よりつづけて引用してみよう。
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女の方では割合に希望が高過ぎるのと、あれのこれのと選り嫌ひをなし却つて良縁を取外して後悔する者が多い。更にこの公開結婚所へ出入する女には何麽(どんな)種類のものが多いかと調べて見るとかういふ実例がある。/築地あたりに住む某実業家の令嬢で、先年日本実業団の一行が米国へ出掛けた其留守中に、独断で結婚媒介所へ申込んでおいたのがあつた、すると帰国した親が後に之を聞きつけて驚いて取下げに来て断つて帰つた。又学習院女学部の生徒達でも、申込のある令嬢達へ面会の通知をして置きさへすれば学校帰りにはサツサと独りで立寄つて行く。其外申込の履歴に由つて見ると女学校の卒業生、再婚の貴婦人未亡人といふ処が最も多いのである。(カッコ内引用者註)
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ここには、明治期の女性にはおよそ見られなかった、自由闊達な女子たちの姿が見てとれる。親とは関係なく(あるいはナイショで)、自分ひとりで結婚媒介所を訪れてプロフィールを登録しておき、気に入った男子が実際に面会の希望をしてくるのを待つという、今日の婚活エージェントや出会い系サイトと大差ない仕組みだ。
特に、学習院女子部Click!(1918年より女子学習院Click!)の生徒たちが下校時に結婚媒介所に立ち寄り、面会を希望する男子とちょっとだけ面接し話して帰る……というようなシチュエーションは、大正初期の当時としては破天荒な出来事で、一般的には考えられないような“大冒険”だったろう。古い考えの親が聞いたら、「破廉恥な、なんてはしたない! 恥を知りなさい!」とでも叱りそうな行状だ。だが、それでも女子たちは少しでも自分の好みにあう男子を求め、せっせと親にはナイショで結婚媒介所へ通っていた。
ただし、結婚媒介所へ登録できる男女はおカネに余裕のある、上流から中流にかけての人々であり、町場でふつうに働く庶民たちとは無縁の世界だった。彼らは江戸期から変わらずに、街中で気に入った男女を見つけては恋愛をしたり、親族や知人、社長、師匠、親方、先生などのつてで見合いをし、結婚へとつなげていたのだろう。
結婚媒介所への入会申込金は、一般的には1円で、男女の紹介ごとにわずかながら事務手数料を取ったとみられ、結婚が成立すると結納交換時に10~50円の成功報酬を支払うという契約だった。ちなみに、明治末の1円は現在のレートに換算すると約2万円ぐらい、成功報酬はおよそ20万円~100万円ということになる。
会員はおしなべて教養の高い女子が多く、著者は次のように記事を結んでいる。
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要するにこの結婚媒介所なるものは、社会の機運に投じて出来たもので、其之(そのこれ)を利用する者の却つて教育ある若い女に多いといふに至つては世の女の児を持つ家庭の親々の真面目に研究すべき新しき問題であると思ふ。(カッコ内引用者註)
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結婚媒介所における面会は一度ではなく、たとえば男子が希望し女子にも異存がなければ、何度でも逢って納得するまで双方が話しあうことができた。だから、かなり親しく打ちとけて気を許せるような関係になると、よからぬことを考える男女も現れたようだ。
結婚媒介所には「破談」の連絡を入れておきながら、ふたりはお互いが気に入り結婚まで進んでいるにもかかわらず、成功報酬を払うのが惜しくなってごまかすケースだ。このような例は、結婚媒介所が把握しているだけでも、若い男女を中心に数多く見られたという。
◆写真上:明治末から大正期にかけ、「結婚」は女性にとって切実なテーマだった。
◆写真中上:上は、1909年(明治42)出版の永沢信之助『東京の裏面』(金港堂書籍)に掲載された結婚媒介所の挿画。中は、同書の東京市内にある結婚媒介所リスト。下は、1910年(明治43)刊行の「無名通信」7月号(無名通信社)の結婚媒介所リスト。
◆写真中下:上左は、1910年(明治43)刊行の結婚媒介所リストが掲載された「無名通信」7月号。上右は、1909年(明治42)出版の五峰仙史『滑稽小説・結婚媒介所』(大学館)。中は、五峰仙史『滑稽小説・結婚媒介所』の巻頭挿画。下は、結婚媒介所についてその内実を詳しく紹介している当時の代表的な女性誌で、1916年(大正5)刊行の『婦人世界』10月号(左)と、1914年(大正3)に刊行された『女学世界』9月号(右)。
◆写真下:上は、1917年(大正6)に出版された川村古洗『放浪者の世の中探訪』(大文館)に掲載された結婚媒介所リスト。中は、1926年(大正15)刊行の「東洋」7月号(東洋協会/左)に掲載された、日本より進んでいると紹介された中国の「官設結婚媒介所」記事(右)。下左は、大正末になると結婚媒介所を介したた悪質な結婚詐欺などの犯罪が発生するようになり、その事例を紹介した1926年(大正15)出版の百鬼横行『暗黒面の社会』(新興社)。下右は、同書のオドロオドロしい挿画で江戸川乱歩の世界Click!のようだ。もっとも、自由な出会いや恋愛を快く思わない連中が、大げさに危機を煽っているようにも見えるのだが。
落合地域における関東大震災の証言ふたつ。 [気になる下落合]
1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!における落合地域の被害は、屋根瓦でケガするなど負傷者はいたかもしれないが、犠牲者の記録には目にしたことはない。建物が2軒倒壊したという記録を読んだ憶えがあるけれど、その2軒とも江戸期に建てられたとみられる、農家の道具類や農作物を収納する納屋だったという。
この記録は、下落合437番地の目白中学校Click!が刊行していた校誌Click!か、上落合470番地の吉武東里Click!に関連した資料か、あるいは岩本通雄Click!が著した『江戸彼岸櫻』(講談社出版サービス)で読んだものだろうか、記憶がさだかでない。ちなみに、上落合の吉武東里邸Click!がそうだったように、下落合の近衛町や目白文化村などに建っていた近代住宅群は、ほとんど被害を受けていない。
1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)にも、関東大震災のことはほとんど触れられておらず、特記すべき被害がなかったからだろう。また、当時の住民が大震災について語った資料にも、死傷者の話は出てきていない。
これが、落合地域の周辺町村になると大規模な建物の破損、たとえば西巣鴨町池袋にある立教大学Click!本館中央塔の壁面レンガ破損、小石川町にある日本女子大Click!校舎の一部大破、戸塚町にある早稲田大学Click!の大講堂の崩落と演劇博物館破損、早大および学習院Click!にある化学薬品を常備していた理科教室の全焼などが記録されている。また、やや大きめな火災は学習院の特別教室1件のみで、ほかに住宅などの火事は少なくともわたしの知るかぎり目にした憶えはない。
下落合の関東大震災について、めずらしく証言している資料を見つけたのでご紹介したい。以前、麹町区麹町で15歳まで育ち、そのあと母方の実家も近い下落合へと転居してきた、青木初という方の記録だ。彼女は、21歳のときに下落合で建築の建具師と結婚し、母親の実家近くで新家庭を営むことになった。おそらく、新居は見晴坂下の下落合(3丁目)1794番地(現・中落合1丁目)の、中ノ道Click!(現・中井通り)に面した敷地だと思われる。1922年(大正11)のことで、その翌年に関東大震災を経験している。1993年(平成5)に新宿区立婦人情報センターから刊行された『新宿に生きた女性たちⅡ』収録の、青木初『二人三脚の建具屋の暮らし』から引用してみよう。
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次の年に関東大震災があって、家は焼けなかったけど、電気は止まる、ガスは出ない、精米所も機械が動かなくなって、玄米しか食べられないものだから子どもがわあわあ泣いてましたよ。電気もガスも出なくなったものだから、当座は野宿して、雑木林の木から木へ蚊帳を釣って寝ました。お腹に子どもがいましたから、冷えないようにって主人が気を使ってくれましたね。通りを焼け出された人がぞろぞろ歩いて行きましたよ。/井戸に毒が投げこまれたってデマが飛んで、水が飲めませんでした。在郷軍人が見回っていましたよ。
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この証言をみると、目白崖線の坂下ではすでにガスが引かれていたことがわかる。同時期の丘上にあった住宅街である目白文化村Click!やアビラ村Click!には、いまだガスが引かれておらず高価な海外製の電気コンロ・レンジClick!を使った調理が行われていたが、見晴坂の下に位置する青木邸の台所にはすでにガスがきていたのが確認できる。
やはり余震の心配から、震災直後には野宿をしているのは、上落合の吉武東里一家Click!が近くの竹藪へ避難し(竹林は地盤が強固と信じられ、当時は避難する人々が多かった)、そこで夜を明かしているのと同様だ。まだ夏の暑さが残る9月の初めだったせいで、野宿をしても身体を壊す心配がなかったのも不幸中の幸いだった。
震災から半日ほどすると、大火災Click!が発生している市街地から逃れてきた、疲弊した避難民の行列が目白通りを次から次へと通り抜け、下落合ではその救護に忙殺されることになる。また、ありもしないデマゴギーに翻弄され、在郷軍人会などを中心に「自警団」Click!が結成された経緯は、かなり前に拙サイトでもご紹介したとおりだ。
もうひとつ、西落合で関東大震災に遭遇している記録が残っている。近くの野方村江古田から、落合村葛ヶ谷(現・西落合)の江戸期からつづく農家へ嫁いできた女性の証言だ。同資料に収録された、伊佐アキ『落合に農家の暮しを守りぬいて』から引用してみよう。
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昔の家は百年位経ってたっていうけど、昭和三十三年に建て直したの。まだ壊す程には傷んでなかったんだけど。萱があればよかったんだけどね。西落合ではうちだけが江戸妻造りの二棟になってる家だったんだよ。太い梁があって、太い大黒柱で、天井も縁の下も鴨居のところも太い欅が縦横十文字に通ってて、くい込みは深いし、壊すのに仕事師がずいぶん骨が折れたらしいよ。今のこんな家なんか関東大震災位のがあったらひとたまりもないよ。関東大震災の時には、長男がやっと立つか立たないか位だったのを縁側から腹んばいで抱えて、そこの櫟の木の所まで逃げたよ。それでもって、大黒柱が五寸位傾いちゃったんだもの。古い家の大黒柱は、しめ縄をはって玄関の所にとってあるよ。
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伊佐アキという方は、太い梁や大黒柱のある堅牢な家の造りだったから倒壊しなかったとしているが、近衛町Click!や目白文化村に建っていた新興の住宅街も、特に大きな被害は受けていないので、落合地域は住宅の仕様いかんではなく、地面の揺れかたが市街地に比べて弱かったのだろう。これは、先の東日本大震災でも感じたことだが、東京の平地と丘陵地とでは地盤のちがいから、明らかに震動の伝わり方が異なっていたとみられる。
また、落合地域とその周辺域で火事がほとんど起きていないのも、被害を最小化できた要因だろう。市街地で家屋の倒壊により、その下敷きになった犠牲者Click!は約5,000人と推定されているが、残りの犠牲者はすべて延焼による焼死だった。
先の建具師と結婚した、青木初という方の証言にもどろう。大正後期から昭和初期にかけ、落合地域はあちこちで住宅の建設ラッシュがつづいていた。だから、住宅の内装(戸やドア、襖、障子、欄間、窓、雨戸、鎧戸など)を手がける建具師は引く手あまただったのではないか。当時は、ひと仕事終えるとすぐに支払いとはならず、“掛け”(月末や年末などにまとめて決済すること)がふつうだったので、その掛取りには苦労をしたようだ。
彼女の証言には、大晦日に掛け取りへ出かける苦労話が語られている。建具師といっても、工務店と同様に住宅建設を丸ごと引き受けることもあり、家では掛け取りの帰りを大工やガラス屋、電気屋、左官屋、材木屋などが待っているので、一家のマネジメントを任されていた彼女は必死に掛け取りへまわっていたようだ。下請けの店や職人たちに、支払いを済ませなければ正月を迎えられないわけで、除夜の鐘が鳴り響く深夜から夜明けまでかかって決済業務を行っていた。
同家では、“若い衆”(社員・店員のこと)を常時4~5人は使っていたので、その面倒も常に見なけばならなかった。仕事で羽織る半纏の裁縫や、彼らの食事や弁当の世話、給与計算、藪入りClick!には持たせる故郷への土産なども彼女が一式手配したのだろう。うちの父方の実家は建築関係ではないが、やはり“若い衆”が残された記念写真類を見ると常時20~25人ほどいて(戦争がひどくなるにつれ急減していく)、経営やマネジメントのいっさいは祖母が指図して仕切っていた。
戦時中、青木家ではふたりの息子に20日ちがいで赤紙がきて兵隊にとられている。長男と次男の出征を、相次いで見送った彼女は口惜しさと怒りとで(もちろん当時はそんなことを表立ってはいえないが)、半ばヤケになったのだろうか。つづけて、同資料より引用しよう。
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もう、何でも来い!という感じでした。親戚の疎開先から来るようにと言ってきたけど、「お気持ちはありがたいけど、聖戦に二人とも取られて明日をも分からぬ命なのに、私だけがのんきに疎開なんかしていられません。」とお断りしましたよ。私は強情でしたからね。直ぐ近くに焼夷弾が落ちた時は、リュウマチで寝ていた母親をかかえて、娘と二人で逃げたんですけど、離れ離れになっちゃって「二人の息子が死んだも同然なのに、娘まで死んだらどうするんだ!」って主人に叱られましてね。次の日遠くの崖の下で会えた時は本当にホッとしました。目白から長崎の方まで真っ赤になって、家も全焼してしまったけど、実家が隣の貸家まで焼けたのに奇跡的に助かったんです。そこへ子どもと二人で入って暮らしましたよ。主人は座間へ徴用に出かけてたんですよ。
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1945年(昭和20)の4月13日Click!および5月25日Click!の山手大空襲Click!は、両日とも深夜になってからB29の大編隊が来襲しているので、一家で逃げても混乱の中ではぐれてしまった家族が多くいたようだ。再会できた「遠くの崖の下」とは、目の前にバッケが原Click!が拡がる中井御霊社Click!や目白学園Click!のあるバッケ(崖地)Click!の下のことだろうか。山手空襲のとき、下落合の西部では空襲の激しさから防空壕での退避をあきらめ、中井御霊社やバッケが原をめざして避難した方たちが大勢いた。
敗戦のあと、彼女は息子たちの安否を確認しようと稲毛の復員局へ出かけているが、ふたりの消息は復員局でも不明でまったく知ることができなかった。だが、1946~1947年(昭和21~22)にかけ、ふたりともなんとか無事に生還している。
この記事でも少しご紹介しているが、野方村江古田に生まれて1921年(大正10)に落合村葛ヶ谷(現・西落合)の農家へ嫁いできた伊佐アキという方の証言は、地域農家の民俗や風習が描かれていてたいへん貴重だ。機会があれば、また別の記事としてぜひご紹介したい。
◆写真上:地割れで市電や車両が通行不能となった、東五軒町あたりの目白通り。左手は江戸川(1966年より神田川)で、対岸は西江戸川町のビル群。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる青木邸界隈。中は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同邸界隈。下は、左手が北方向の1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同邸あたり。
◆写真中下:上は、1923年(大正12)11月2日に目白駅前で撮影された日本女子大の本所救援に向かう女子学生たち。中は、同女子大キャンパスにおける救援物資の消毒作業。下は、震災で倒れた薬品棚から出火して全焼した学習院の特別教室。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に撮影された青木邸界隈。中は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同邸界隈。下は、中井通り沿いにある同所の現状。
下落合時代における蕗谷虹児の仕事。 [気になる下落合]
下落合2丁目622番地に住んだ蕗谷虹児Click!のアトリエには、さまざまな人々が往来しただろう。「令女界」や「少女倶楽部」、「婦女界」、「少女之友」など雑誌の編集者や新聞各社の記者はもちろん、訪問者には二科展への出品を盛んに奨める東郷青児Click!や、パリで知りあった画家で彫刻家の清水多嘉示Click!、やはりパリでいっしょだった近所に住む森田亀之助Click!、下落合から牛込区砂土原町へ転居直前の吉屋信子Click!、蕗谷虹児とほとんど同時期に下落合4丁目2111番地にアトリエ建設した、『花物語』では挿画仲間だった林唯一Click!などもいたかもしれない。
蕗谷虹児の、下落合時代における代表的な仕事には、詩画集『花嫁人形』をはじめ、生活に苦労しながら29歳で死去した母親を描いた長編自伝小説『乙女妻』、「婦女界」へ連載をつづけた『闘雪紅』、そして1943年(昭和18)には蕗谷みずからが主宰した、短歌雑誌「防人」の発刊などが挙げられるだろうか。「防人」には、室生犀星Click!や佐藤春夫Click!、吉井勇Click!、そして下落合(4丁目)2133番地Click!から同4丁目2096番地に新邸Click!を建設した林芙美子Click!も参加している。もちろん、その間には「令女界」「少女倶楽部」など数多くの雑誌への挿画も制作している。
当時、モガ(モダンガール)ブームの時代はすでにすぎ去り、女性の洋装があたりまえのようになってはいたが、女性の社会的な地位はモダン(近代)とはほど遠い、封建時代とさほど大差ない状態のままだった。吉屋信子の少女小説を貫く、基盤ともいうべき大きなテーマのひとつには、少女時代こそ女性が比較的好きな生活を送ることができ、自由にふるまえる唯一の短い時間であり、それがすぎると古い日本社会の規範や因襲、しきたりなど、およそ中国や朝鮮半島由来の儒教的な「道徳」や「家」制度にがんじがらめにされてしまう時期を迎える……という、その裏面にこめられた批判的な意識が強く感じられる。
だからこそ、中国との戦争が泥沼化し戦時体制が敷かれるようになると、国家権力は吉屋信子の小説に匂う自由主義思想に危機感をおぼえ、すかさず弾圧Click!を試みたのだろう。また、当局の意向を忖度したとみられ儒教的思想に忠実だったとみられる小林秀雄Click!は、彼女の作品に対して執拗に攻撃を加えて、「文壇」からの排斥を企てるようになる。もっとも、物語を創造できず日記にでもつけておけばいいような内容の、「私小説」家が群れていた当時の「文壇」では、彼女の作品は「異端」であり「通俗小説」にすぎず、ちょうど純粋に物語を創造できる大泉黒石Click!が排斥されたように、そのような作品が評判になってベストセラーになるのが我慢できなかったのだろう。
私見だが、大正期から昭和初期にかけて日本の「文壇」に群れる作家たちが生みだした作品と、まったく同時期の海外文学の作家たちとを比べてみると、あまりにも前者が貧相かつ低品質で、まともな小説や創作物語にさえなっていない、今日ではほとんど価値のない創造とは無縁な、日記レベルの「私小説」だらけなのに愕然とする。
同時代の海外文学の作家たちはといえば、晩年のトルストイをはじめ、カフカ、マン、プルースト、モンゴメリ、ヘッセ、モーム、魯迅、ブレヒト、ジョイス、ドイル、エリオット、ショー、ジッド、フィッツジェラルド、レマルク、ヘミングウェイ、ガール、バック、クリスティ……と挙げればキリがないほど、名作が次々と生まれていた時代なのに、日本で小説らしい小説やまともな創作物語を紡いでいたのは、少数の小説家や物語作家にすぎない。そして、際限なく「内向」する作品を書かない(書けない)オリジナルな創作者の多くは、当時の「文壇」から宮沢賢治Click!のように遠く離れた位置にいるか、あるいは大泉黒石Click!のように徹底して排斥されていた作家たちだったことに改めて気づく。
さて、フランスで5年間も暮らして、当地のさまざまな女性たちを観察し、また日本社会を外側から眺めるにつけ、蕗谷虹児もまた吉屋信子と同じような視点をもっていたのかもしれない。日本では、大人の女性が主体的に生きることがなかなか許されず、無垢な少女の時代にこそはかない自由や夢を描くことができる……、そんな情景を歌いあげたのが、自由闊達な美しい少女時代の夢をあきらめなければならず、「花嫁御寮は/なぜなくのだろう」と、まるで人形のように没主体的な「嫁」を演じつづけなければならない、哀調をおびた『花嫁人形』の真意ではないかと思えてくる。そこには、夢を実現する方向へは向かわず、常に数多くの足かせによって主体的に生きられない、虹児自身の苦い経験や諦念、苦労を重ねて早逝した母親をめぐる悲しい想い出も含まれていたのかもしれない。
女性が生きいきとし、のびのびと自由にすごせて美しく楽しい夢をふくらませられるのが、当時の日本社会では少女時代に限定されてしまうと、吉屋信子も蕗谷虹児もあからさまにはいわず語らず、作品の中で描きつづけているように思えてくるのだ。蕗谷虹児の描く女たちは、もはや渡辺與平Click!や竹久夢二Click!が描いてきた、どこかなよなよとした男にしなだれかかるような、ぼんやりとした表情や媚びるような眼差しをしていない。女たちは、強い自我を確立し終えて利発そうな表情をしている。竹久夢二が描いた女たちは、はかなげで頼りなげな雰囲気をただよわせていたが、またそれが「女らしい」とされていた時代の「美人」画だが、蕗谷虹児の描く女たちはどこかクールな怜悧ささえ感じさせるほど、みな意志的で理知的な表情をしている。
1985年(昭和60)に平凡社から出版された『別冊・太陽/絵本名画館・蕗谷虹児』に収録の、海野弘『蕗谷虹児の少女世界/花嫁人形はなぜ泣くか』から引用してみよう。
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虹児の画家としての欠点は、醜いものが描けなかったことにあるだろう。若い時に、あまりにも醜い人間的現実を見てしまった彼は、決してそれを描こうとはしないのである。彼はひたすら少女の世界を凝視しつづける。そして妻もまた少女のままに置きたいと願うのである。花嫁は少女の世界に別れを告げようとして泣く。虹児は生きた花嫁でなく、泣くことのない花嫁人形を描くのだ。なんの悩みもなさそうにピンクの頬でにっこりほほえむ虹児の丸顔の少女に、私は、一九二〇年代とともに終ったモダン・ガールの夢の哀しみを読むのだ。
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詩画集『花嫁人形』が出版されたのは、1935年(昭和10)の下落合時代だが、この詩自体は24歳のときに創作したものだと、1967年(昭和42)に講談社から出版された蕗谷虹児の自伝小説『花嫁人形』の巻末で書きとめている。
24歳といえば、1921年(大正10)に芝区金杉橋(現・港区芝2丁目)に弟たちと住んだ時期であり、着るものもなく下着姿ですごさなければならなかった、いまだ貧困生活から抜けられていない時代だった。東京・大阪朝日新聞に吉屋信子Click!が『海の極みまで』を連載し、その挿画描きに追われていた時期とも重なる。この連載を契機に、蕗谷虹児のもとへ挿画の仕事が殺到することになる。また、酒飲みで健康を崩していた新聞記者の父親を樺太から呼びよせ、病院に診せたところ余命1年足らずと宣告された時期にもあたる。
この花嫁の「人形」とは、いったい誰のことを思いなしたのか、あるいはその姿を仮託したものだろうか。幼いころ、親に売られてどこかへ消えてしまった近所の幼馴染みの女の子たちか、あるいは酒飲みの父親に悩み苦しめられながら早逝した母親のことだろうか。詩画集『花嫁人形』を出版した翌々年、1938年(昭和13)には、「令女界」に長編自伝小説『乙女妻』を連載している。『乙女妻』は、15歳で嫁ぎ苦労をしながら29歳で死んでいった母親を中心にして書いた(描いた)、虹児初の半生自伝的な挿画小説作品だ。
下落合へ転居してきてから、蕗谷虹児はパリへ留学中の5年間に留守宅の弟たちや女弟子がこしらえた負債や、前借りした出版社や新聞社、あるいは高利貸しへの借金返済に追われて多忙な仕事を日々こなしながら、まだ娘の面影がかすかに残る、死んだ母親のことを想う機会が多かったものだろうか。パリからもどった東郷青児が、彼に二科展へ出品するように再三にわたって働きかけたのもこの時期のことだ。だが、彼にはパリ時代とは異なり、じっくりタブローに取り組んでいる余裕などなかった。日々の仕事に追われるだけで、せいいっぱいの生活だったろう。
蕗谷虹児の想いとは別のところで、『花嫁人形』は広く知られるようになる。杉山長谷夫が曲をつけたことで、『花嫁人形』は童謡としてレコードに吹きこまれ、ほどなく全国の小学校でも歌曲や合唱曲として広く歌われるようになっていく。その様子を、1967年(昭和42)に講談社から出版された蕗谷虹児の自伝小説『花嫁人形』から引用してみよう。
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一彦の作詩は、樺太の放浪時代からのものなのだが、それに雑誌のスペースを初めてさいてくれたのが、東京社の詩人編集者、水谷まさるさんであった。/そのうちに一彦の詩画集が、交蘭社を主に次々と各社から出版されるようになったのだが、魯迅先生が中国で熱心に、一彦の画集を出版された話は有名である。/一彦の“花嫁人形”が、全国的に歌われるようになったのは、今から四十年前に、文部省推薦で全国の小学生が、学校で、この歌を教わってからであるが、あの頃十歳であった小学生も、四十年後の今では五十歳になっているわけだから、今では子供だけでなく大人にもこれが歌われているのであろう。/それと、米国のワーナー・ブラザースの映画“サヨナラ”で、繰り返しこれが唄われてからは、世界各国のレコード会社のレコードにも吹き込まれるようになって、今では、フィンランドや、ノルウェーあたりからも印税が送られてくるようになった。
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第三者的な視点から自伝を書きとおしているので、「一彦」は蕗谷一男=虹児自身のことだ。彼の下落合時代は、童謡としての『花嫁人形』が全国的に普及しはじめたころだろう。米国映画の『Sayonara』(監督:ジョシュア・ローガン)はもちろん敗戦後の作品で、1957年(昭和32)にマーロン・ブランドと高美以子の主演で公開されている。
イラストや挿画などで高名になり、詩作でも全国的に有名になった蕗谷虹児だが、子どものころからめざしていたタブロー画家には、ついぞなれなかった。そのチャンスは、生涯にわたり何度かあったのだが、そのたびに周囲の事情(おもに肉親による障害)が発生し、彼の足を身動きがとれないまでに引っぱった。だが、今日的な眼で見るなら、タブロー画家になっていたら、彼の画業が今日まで語り継がれたかどうかはわからない。きわめてクールでモダンな、ときに抒情味あふれた日本的な画面表現は、1970~1980年代のエアブラシを多用するようになるアートやイラストの表現世界へ、少なからぬ影響を与えることになる。
◆写真上:1938年(昭和13)刊行の「令女界」に連載された自伝小説『乙女妻』の挿画。
◆写真中上:上は、蕗谷虹児の表紙で1934年(昭和9)の「令女界」10月号(左)と1935年(昭和10)の「令女界」9月号(右)。中は、1935年(昭和10)に「少女倶楽部」の付録として出版された『少女唱歌全集』。下は、『乙女妻』の挿画の1点。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる新築間もない蕗谷虹児アトリエ。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された蕗谷虹児アトリエ。下は、1936年(昭和11)に「少女の友」に掲載された蕗谷虹児『ささやき』。
◆写真下:上は、1937年(昭和12)ごろに「令女界」へ掲載された蕗谷虹児のイラスト。中は、1949年(昭和24)に刊行された「令女界」2月号の表紙。下は、戦後に発売されたSP3枚組アルバムの「Weber Album Tango」(日本ビクター)の虹児によるジャケットデザイン。
哲学堂を見学したあと妙正寺川で遊泳。 [気になるエトセトラ]
聖路加国際病院Click!のある明石町から、1919年(大正8)の小学2年生のときに百人町へと引っ越してきた前田志津子という方は、地元の戸山尋常小学校へと転入している。転居先の住所は、のちにロッテの工場ができる区画の向かいとなっているので、大久保町(大字)百人町(字)北裏263番地界隈ではないかと思われる。
関東大震災Click!のときは余震が心配なため、近くに広い庭と大きな屋敷をかまえて住んでいた、衆議院議員の国沢新兵衛邸の敷地に避難している。証言では「貴族院議員の国沢新平」となっているが、貴族院議員の後藤新平と衆議院議員の国沢新兵衛を混同しているとみられ、大震災時は国沢邸の庭にテントを張ってすごした。ちなみに、国沢新兵衛は平河町に画塾『彰技堂』を開いた洋画家・国沢新九郎の弟にあたる。
彼女が通っていた戸山尋常小学校は、東京市では音楽教育に熱心な小学校として特に知られており、「赤い鳥」Click!の葛原しげるや弘田龍太郎らとの関係も深く、同小学校の校歌は葛原が作詞し弘田が作曲をしている。生徒たちは、東京各地の小学校へ呼ばれて合唱を披露していたらしい。ちょうど、戦後にアニメソングなども幅広く手がけた、1960~70年代における上高田小学校Click!のような存在だったようだ。
当時の戸山尋常小学校における生徒たちの様子を、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された『新宿に生きた女性たちⅣ』収録の、前田志津子『音楽教育が盛んだった戸山小学校』から少し引用してみよう。
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小学校には最初は着物を着て行きました。モスリンとか銘仙の着物で、えんじ色の袴をはいて行きましたの。あとは、紡績といって、木綿のざらっとした紬ふうの節のあるような布地の着物でした。二年生のころから洋服を着て行きました。/私も妹も戸山小学校から選ばれて、ほうぼうの学校へ行って、歌をうたいました。妹の同級に童謡の葛原しげる先生のお嬢さまがいらっしゃって、いっしょに歌いました。(中略) 戸山は音楽教育の盛んな学校でした。そのころは童謡の始まりでしたの。上野の野外音楽堂や、大塚の高等師範学校の講堂でも歌いましたよ。(中略) 平和博覧会にも遊戯で出場することになり、余丁町小学校の先生が戸山にいらして、遊戯の指導をしてくださいました。私と妹はどこにでも、いつもいっしょに行きました。
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彼女の学年は、全部で3クラスだった。男子×2クラスで女子×1クラスだったが、男女を共学にせず女子を1クラスでまとめてしまったため、女子組は70人以上の大人数になってしまった。このあたり、男子組・男女(共学)組・女子組と分けていた、昭和初期にみられる落合地域の小学校とは少し方針が異なっていたようだ。
学校の運動会は校庭で実施され、豊多摩郡の運動会は陸軍の代々木練兵場で行われていた。郡の運動会には、豊多摩郡に属する内藤新宿や淀橋、落合、戸塚、大久保、渋谷、千駄ヶ谷、代々幡、中野、野方、杉並など、各町村の小学校が集まって行われたものだろう。戸山尋常小学校の運動会では、昼食(弁当)は家族といっしょに教室で食べたようで、現在のように運動場では食べなかった。運動会の出しものも、なにやら激しい競技はなくゲーム性の強いものだったらしく、運動量が少なくてかなり静かなイベントだったようだ。
ひょっとすると、戸山尋常小学校では音楽教育に注力していたため、現在の芸術系の学校がおしなべてそうであるように、生徒たちがケガをしないよう激しい運動は意識的に避けていたのかもしれない。絵画・彫刻や音楽を問わず、手足(特に指先)をケガしてしまったら、その時点で即座にアウトだ。(これは繊細な職人の世界でもまったく同様だ)
先年、芸術系大学の器楽科(弦楽器)に通っていた知人の女子が、カフェでアルバイトをしていて指に火傷をしたところ、担当教授から「なんのために音楽をやってるのか、自覚が足りない!」とこっぴどく叱られたそうで、すぐにバイトを辞めさせられている。歌唱も同じく、身体のどこかにケガを負ったりしたら張りのある声は出せなくなるので、いくら運動会でも負傷の可能性のある競技は演目から外していたのだろうか。
代々木の練兵場も遠足も、当時はすべて徒歩で出かけており、乗り物を使うことはなかった。落合地域の先まできている林間学校の様子を、同資料より引用してみよう。
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何年生のときか忘れましたが、豊多摩郡の運動会があり、代々木の原まで太鼓を叩いて歩いて行きました。遠足も杉並の堀ノ内の蚕糸会館まで歩いて行きましたの。その頃はどこにでも、歩いて行きました。/夏休みには、先生がたに哲学堂に連れていっていただいて、途中で妙正寺川で泳ぎました。一本橋がかかっていて、渡るのがこわかったですね。まわりは大根畑で、淋しいところでした。/クラスで女学校に進学したのは、四分の三ぐらいで、残りの四分の一は大久保の高等小学校に行きました。教科書は二学期で全部終わってしまい、そのあとは問題集で放課後まで、勉強しました。そのころ教室に電灯がなかったので、暗くなるまで勉強しました。
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戸山尋常小学校の生徒たちは、井上哲学堂Click!(哲理門の幽霊姉さんClick!に、生徒たちは震えあがったにちがいないw)を見学したあと、バッケ(崖地)Click!下を流れる妙正寺川で泳いでいる。1923年(大正12)ごろに開園した、ちょうど哲学堂の真下にあった郊外遊園地Click!の野方遊楽園プールClick!ではなく、ほんとうに川中で泳いだようだ。
妙正寺川に架かる「一本橋」とは、稲葉の水車Click!の上流に築かれた第2のバッケ堰Click!の横(北側)にわたされていた、細い板状の木材1枚による“材木橋”のことだろうか。このバッケ堰のすぐ下流は、プールのように流れがよどみ、上高田の子どもたちには格好の遊泳プールとなっていた。まわりの「大根畑」は、そろそろ夏の収穫も近い春まきした落合ダイコンClick!の畝だったろう。関東大震災前後の大正後期、生活必需品の物価を抑えるため、東京各地に設置された公設市場Click!への出荷を待つダイコン畑だったのかもしれない、
前田志津子という方は、小学校では女学校への進学組に属していた。彼女の母親は、女学生が電車に乗って学校へ通うのを嫌がったため、なんとか徒歩で登校できる九段の精華高等女学校へ入学している。幕臣で彰義隊Click!にも参加した、寺田勇吉が1911年(明治44年)に創立した高等女学校だ。関東大震災とその延焼により、東京市内にあったおもな高等女学校の校舎はほとんどが壊滅していたが、地盤が強い九段にあり堅牢な石造りの精華高等女学校は、被害軽微で倒壊も延焼もせずに建っていた。
大震災をまぬがれた市内の女学校は少なく、大きめな精華女子高等女学校の受験は東京じゅうから入学希望者が殺到して、かなりの競争倍率だったようだ。また、山手線も中央線も、路面を走る東京市電もダメだということで、彼女は百人町から九段の軍人会館Click!(のち九段会館Click!)の南隣りにあった精華高等女学校まで歩いて通っている。片道5kmほどだが、自宅を出てから女性の脚でたっぷり1時間はかかっただろう。
入学試験のときは、戸山尋常小学校の音楽教育が大きく役立つことになった。入試の口頭試問(面接)のとき、彼女の顔を憶えていた試験官がいたのだ。
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入学試験の口頭試問のとき、試験官の先生に「あなたこの前、郡の音楽会に出てたでしょう」と言われました。先生が覚えていらっしゃったんです。その頃、毎年豊多摩郡の小学校の音楽会があって、その年は精華高等女学校を借りて行なったんです。その前は、府立第五高等女学校が会場だったの。/実践高等女学校の一次試験に合格していたんですが、精華高等女学校に決めてしまいました。妹も私の教科書のお下がりを使えるので、精華高等女学校に入学しました。
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彼女が女学校2年生のとき、わずか2ヶ月の間に母親と父親を相次いで亡くしている。両親とも病死だったようだが、残された7人の子どもたちは途方に暮れた。下の幼い弟や妹たちは、やむをえず育ての親を見つけて養子養女に出され、彼女とすぐ下の妹は近くの大久保に住んでいた叔母が引きとり、面倒をみてくれることになった。
生活環境は激変したが、百人町の家を処分したおカネと、父親が経営していた会社からの送金とで、なんとか女学校へ通学しつづけることができたらしい。このインタビュー取材には、励ましあいながらずっといっしょだった、妹の前田百合子という方も同席している。
◆写真上:左手が戸山小学校の現状で、奥に見える高層ビル群は戸山ヶ原跡。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)作成の1/10,000地形図にみる戸山尋常小学校とその周辺。中は、1924年(大正13)に戸山ヶ原(北側)から撮影された同小学校。下は、1925年(大正14)作成の「大久保町市街図」にみる同小学校と周辺。
◆写真中下:上は、妙正寺川に築かれた第2のバッケ堰の横に渡された細い板の材木橋。1982年(昭和57)出版の『ふる里 上高田の昔語り』Click!から、細井稔の記憶画「新堰の当時の風景」より。中上・中下・下は、いまだ妙正寺川では泳げないが神田川でできる水遊びや遊泳。いまでは、20種類を超える棲息が確認されている神田川Click!の魚。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚小学校とその周辺。中は、九段精華高等女学校の絵はがき。下は、修学旅行先らしい精華高等女学校の女生徒たち。