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下落合時代における蕗谷虹児の仕事。 [気になる下落合]

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 下落合2丁目622番地に住んだ蕗谷虹児Click!のアトリエには、さまざまな人々が往来しただろう。「令女界」や「少女倶楽部」、「婦女界」、「少女之友」など雑誌の編集者や新聞各社の記者はもちろん、訪問者には二科展への出品を盛んに奨める東郷青児Click!や、パリで知りあった画家で彫刻家の清水多嘉示Click!、やはりパリでいっしょだった近所に住む森田亀之助Click!、下落合から牛込区砂土原町へ転居直前の吉屋信子Click!、蕗谷虹児とほとんど同時期に下落合4丁目2111番地にアトリエ建設した、『花物語』では挿画仲間だった林唯一Click!などもいたかもしれない。
 蕗谷虹児の、下落合時代における代表的な仕事には、詩画集『花嫁人形』をはじめ、生活に苦労しながら29歳で死去した母親を描いた長編自伝小説『乙女妻』、「婦女界」へ連載をつづけた『闘雪紅』、そして1943年(昭和18)には蕗谷みずからが主宰した、短歌雑誌「防人」の発刊などが挙げられるだろうか。「防人」には、室生犀星Click!佐藤春夫Click!吉井勇Click!、そして下落合(4丁目)2133番地Click!から同4丁目2096番地に新邸Click!を建設した林芙美子Click!も参加している。もちろん、その間には「令女界」「少女倶楽部」など数多くの雑誌への挿画も制作している。
 当時、モガ(モダンガール)ブームの時代はすでにすぎ去り、女性の洋装があたりまえのようになってはいたが、女性の社会的な地位はモダン(近代)とはほど遠い、封建時代とさほど大差ない状態のままだった。吉屋信子の少女小説を貫く、基盤ともいうべき大きなテーマのひとつには、少女時代こそ女性が比較的好きな生活を送ることができ、自由にふるまえる唯一の短い時間であり、それがすぎると古い日本社会の規範や因襲、しきたりなど、およそ中国や朝鮮半島由来の儒教的な「道徳」や「家」制度にがんじがらめにされてしまう時期を迎える……という、その裏面にこめられた批判的な意識が強く感じられる。
 だからこそ、中国との戦争が泥沼化し戦時体制が敷かれるようになると、国家権力は吉屋信子の小説に匂う自由主義思想に危機感をおぼえ、すかさず弾圧Click!を試みたのだろう。また、当局の意向を忖度したとみられ儒教的思想に忠実だったとみられる小林秀雄Click!は、彼女の作品に対して執拗に攻撃を加えて、「文壇」からの排斥を企てるようになる。もっとも、物語を創造できず日記にでもつけておけばいいような内容の、「私小説」家が群れていた当時の「文壇」では、彼女の作品は「異端」であり「通俗小説」にすぎず、ちょうど純粋に物語を創造できる大泉黒石Click!が排斥されたように、そのような作品が評判になってベストセラーになるのが我慢できなかったのだろう。
 私見だが、大正期から昭和初期にかけて日本の「文壇」に群れる作家たちが生みだした作品と、まったく同時期の海外文学の作家たちとを比べてみると、あまりにも前者が貧相かつ低品質で、まともな小説や創作物語にさえなっていない、今日ではほとんど価値のない創造とは無縁な、日記レベルの「私小説」だらけなのに愕然とする。
 同時代の海外文学の作家たちはといえば、晩年のトルストイをはじめ、カフカ、マン、プルースト、モンゴメリ、ヘッセ、モーム、魯迅、ブレヒト、ジョイス、ドイル、エリオット、ショー、ジッド、フィッツジェラルド、レマルク、ヘミングウェイ、ガール、バック、クリスティ……と挙げればキリがないほど、名作が次々と生まれていた時代なのに、日本で小説らしい小説やまともな創作物語を紡いでいたのは、少数の小説家や物語作家にすぎない。そして、際限なく「内向」する作品を書かない(書けない)オリジナルな創作者の多くは、当時の「文壇」から宮沢賢治Click!のように遠く離れた位置にいるか、あるいは大泉黒石Click!のように徹底して排斥されていた作家たちだったことに改めて気づく。
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少女倶楽部「花嫁人形」193502.jpg
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 さて、フランスで5年間も暮らして、当地のさまざまな女性たちを観察し、また日本社会を外側から眺めるにつけ、蕗谷虹児もまた吉屋信子と同じような視点をもっていたのかもしれない。日本では、大人の女性が主体的に生きることがなかなか許されず、無垢な少女の時代にこそはかない自由や夢を描くことができる……、そんな情景を歌いあげたのが、自由闊達な美しい少女時代の夢をあきらめなければならず、「花嫁御寮は/なぜなくのだろう」と、まるで人形のように没主体的な「嫁」を演じつづけなければならない、哀調をおびた『花嫁人形』の真意ではないかと思えてくる。そこには、夢を実現する方向へは向かわず、常に数多くの足かせによって主体的に生きられない、虹児自身の苦い経験や諦念、苦労を重ねて早逝した母親をめぐる悲しい想い出も含まれていたのかもしれない。
 女性が生きいきとし、のびのびと自由にすごせて美しく楽しい夢をふくらませられるのが、当時の日本社会では少女時代に限定されてしまうと、吉屋信子も蕗谷虹児もあからさまにはいわず語らず、作品の中で描きつづけているように思えてくるのだ。蕗谷虹児の描く女たちは、もはや渡辺與平Click!竹久夢二Click!が描いてきた、どこかなよなよとした男にしなだれかかるような、ぼんやりとした表情や媚びるような眼差しをしていない。女たちは、強い自我を確立し終えて利発そうな表情をしている。竹久夢二が描いた女たちは、はかなげで頼りなげな雰囲気をただよわせていたが、またそれが「女らしい」とされていた時代の「美人」画だが、蕗谷虹児の描く女たちはどこかクールな怜悧ささえ感じさせるほど、みな意志的で理知的な表情をしている。
 1985年(昭和60)に平凡社から出版された『別冊・太陽/絵本名画館・蕗谷虹児』に収録の、海野弘『蕗谷虹児の少女世界/花嫁人形はなぜ泣くか』から引用してみよう。
  
 虹児の画家としての欠点は、醜いものが描けなかったことにあるだろう。若い時に、あまりにも醜い人間的現実を見てしまった彼は、決してそれを描こうとはしないのである。彼はひたすら少女の世界を凝視しつづける。そして妻もまた少女のままに置きたいと願うのである。花嫁は少女の世界に別れを告げようとして泣く。虹児は生きた花嫁でなく、泣くことのない花嫁人形を描くのだ。なんの悩みもなさそうにピンクの頬でにっこりほほえむ虹児の丸顔の少女に、私は、一九二〇年代とともに終ったモダン・ガールの夢の哀しみを読むのだ。
  
 詩画集『花嫁人形』が出版されたのは、1935年(昭和10)の下落合時代だが、この詩自体は24歳のときに創作したものだと、1967年(昭和42)に講談社から出版された蕗谷虹児の自伝小説『花嫁人形』の巻末で書きとめている。
 24歳といえば、1921年(大正10)に芝区金杉橋(現・港区芝2丁目)に弟たちと住んだ時期であり、着るものもなく下着姿ですごさなければならなかった、いまだ貧困生活から抜けられていない時代だった。東京・大阪朝日新聞に吉屋信子Click!が『海の極みまで』を連載し、その挿画描きに追われていた時期とも重なる。この連載を契機に、蕗谷虹児のもとへ挿画の仕事が殺到することになる。また、酒飲みで健康を崩していた新聞記者の父親を樺太から呼びよせ、病院に診せたところ余命1年足らずと宣告された時期にもあたる。
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 この花嫁の「人形」とは、いったい誰のことを思いなしたのか、あるいはその姿を仮託したものだろうか。幼いころ、親に売られてどこかへ消えてしまった近所の幼馴染みの女の子たちか、あるいは酒飲みの父親に悩み苦しめられながら早逝した母親のことだろうか。詩画集『花嫁人形』を出版した翌々年、1938年(昭和13)には、「令女界」に長編自伝小説『乙女妻』を連載している。『乙女妻』は、15歳で嫁ぎ苦労をしながら29歳で死んでいった母親を中心にして書いた(描いた)、虹児初の半生自伝的な挿画小説作品だ。
 下落合へ転居してきてから、蕗谷虹児はパリへ留学中の5年間に留守宅の弟たちや女弟子がこしらえた負債や、前借りした出版社や新聞社、あるいは高利貸しへの借金返済に追われて多忙な仕事を日々こなしながら、まだ娘の面影がかすかに残る、死んだ母親のことを想う機会が多かったものだろうか。パリからもどった東郷青児が、彼に二科展へ出品するように再三にわたって働きかけたのもこの時期のことだ。だが、彼にはパリ時代とは異なり、じっくりタブローに取り組んでいる余裕などなかった。日々の仕事に追われるだけで、せいいっぱいの生活だったろう。
 蕗谷虹児の想いとは別のところで、『花嫁人形』は広く知られるようになる。杉山長谷夫が曲をつけたことで、『花嫁人形』は童謡としてレコードに吹きこまれ、ほどなく全国の小学校でも歌曲や合唱曲として広く歌われるようになっていく。その様子を、1967年(昭和42)に講談社から出版された蕗谷虹児の自伝小説『花嫁人形』から引用してみよう。
  
 一彦の作詩は、樺太の放浪時代からのものなのだが、それに雑誌のスペースを初めてさいてくれたのが、東京社の詩人編集者、水谷まさるさんであった。/そのうちに一彦の詩画集が、交蘭社を主に次々と各社から出版されるようになったのだが、魯迅先生が中国で熱心に、一彦の画集を出版された話は有名である。/一彦の“花嫁人形”が、全国的に歌われるようになったのは、今から四十年前に、文部省推薦で全国の小学生が、学校で、この歌を教わってからであるが、あの頃十歳であった小学生も、四十年後の今では五十歳になっているわけだから、今では子供だけでなく大人にもこれが歌われているのであろう。/それと、米国のワーナー・ブラザースの映画“サヨナラ”で、繰り返しこれが唄われてからは、世界各国のレコード会社のレコードにも吹き込まれるようになって、今では、フィンランドや、ノルウェーあたりからも印税が送られてくるようになった。
  
 第三者的な視点から自伝を書きとおしているので、「一彦」は蕗谷一男=虹児自身のことだ。彼の下落合時代は、童謡としての『花嫁人形』が全国的に普及しはじめたころだろう。米国映画の『Sayonara』(監督:ジョシュア・ローガン)はもちろん敗戦後の作品で、1957年(昭和32)にマーロン・ブランドと高美以子の主演で公開されている。
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 イラストや挿画などで高名になり、詩作でも全国的に有名になった蕗谷虹児だが、子どものころからめざしていたタブロー画家には、ついぞなれなかった。そのチャンスは、生涯にわたり何度かあったのだが、そのたびに周囲の事情(おもに肉親による障害)が発生し、彼の足を身動きがとれないまでに引っぱった。だが、今日的な眼で見るなら、タブロー画家になっていたら、彼の画業が今日まで語り継がれたかどうかはわからない。きわめてクールでモダンな、ときに抒情味あふれた日本的な画面表現は、1970~1980年代のエアブラシを多用するようになるアートやイラストの表現世界へ、少なからぬ影響を与えることになる。

◆写真上:1938年(昭和13)刊行の「令女界」に連載された自伝小説『乙女妻』の挿画。
◆写真中上は、蕗谷虹児の表紙で1934年(昭和9)の「令女界」10月号(左)と1935年(昭和10)の「令女界」9月号(右)。は、1935年(昭和10)に「少女倶楽部」の付録として出版された『少女唱歌全集』。は、『乙女妻』の挿画の1点。
◆写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる新築間もない蕗谷虹児アトリエ。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された蕗谷虹児アトリエ。は、1936年(昭和11)に「少女の友」に掲載された蕗谷虹児『ささやき』。
◆写真下は、1937年(昭和12)ごろに「令女界」へ掲載された蕗谷虹児のイラスト。は、1949年(昭和24)に刊行された「令女界」2月号の表紙。は、戦後に発売されたSP3枚組アルバムの「Weber Album Tango」(日本ビクター)の虹児によるジャケットデザイン。

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