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「大逆事件」で深い心傷を負った沖野岩三郎。 [気になる下落合]

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 沖野岩三郎が、ついにキリスト教会の牧師を辞任して作家として生きていくために、小石川区宮下町58番地の借家から、下落合の落合第一府営住宅8号の住宅へ転居してきたのは、1921年(大正10)7月ごろのことだった。ちょうど、曾宮一念Click!が下落合623番地にアトリエClick!を建設して4か月ほど、下落合661番地の佐伯祐三Click!のアトリエ竣工が間近だったか、そろそろ完成Click!しそうなころのことだ。
 堤康次郎Click!から、目白通り沿いの土地の寄付を受けた東京府では、東京府住宅協会Click!の会員とともに落合第一・第二府営住宅Click!を建設し終え、当時は落合第三府営住宅の建設に着手していた時期にあたる。また、箱根土地Click!目白文化村Click!建設のために、郊外遊園地「不動園」Click!の敷地で第一文化村の開発を進めていたころだ。
 沖野岩三郎が、東京府住宅協会の会員だったかどうかはわからないが、落合第一府営住宅8号へ転居してきた当初、1921年(大正10)現在の住所は落合村下落合1505番地、昭和初期に行われた番地変更で同住宅は下落合1510番地、そして1932年(昭和7)の東京35区制Click!への移行で成立した淀橋区の時代には、同住宅は下落合3丁目1507番地(現・中落合3丁目)へと番地が推移している。
 教会牧師を辞任したころの沖野岩三郎は、きわめて多忙な執筆生活を送っていた。たとえば、1920年(大正9)には『魂の憂』を東京朝日新聞に1月~6月まで連載し、同年に基督教出版社から『煙れる麻』を出版、同年7月~12月までやまと新聞に『迷流』を連載、同年8月に牧師を辞職するとともに、12月には福永書店より『黒表の人』(「黒表」とは警察のブラックリストのこと)を発表している。この間、軽井沢の温泉が湧く千ヶ滝中区595番地(現・軽井沢町長倉)に、小さな山荘を建設している。
 また、下落合へ転居したあとも、1922年(大正11)1月~12月まで「婦人世界」に『愛は強し』を連載し、同年5月~8月まで朝鮮・中国旅行、翌1923年(大正12)1月~12月まで関東大震災Click!をはさみ「主婦之友」に『愛は乱れ飛ぶ』を連載、同年5月には大阪屋号書店より『薄氷を踏みて』を出版……と、作家としては目のまわるような忙しい時期をすごしている。沖野岩三郎が、教会牧師を辞めて作家になろうと決意したきっかけは、キリスト教の牧師として誠実に生きようと努めてきたが、貧困のため栄養失調で身体がもたず生命の危機を感じたからだ。
 いまだ作家活動をする以前、栄養失調でハル夫人が倒れた前後の様子を、1989年(平成元)に踏青社から出版された野口存彌『沖野岩三郎』から、少し長いが引用してみよう。
  
 沖野が結果的に最も長く住むことになるのは東京目白(ママ)の家で、それは大正十年以降である。大正六年に新宮から上京し、與謝野寛、晶子邸に近い麹町富士見町の家に住んでから、目白に住むに至るまでに住まいを二度変えていた。/「俸給生活より原稿生活へ」(略)では、牧師生活の過程で経験した経済上の苦しさを数字を挙げて報告しているが、その生活的な苦しさがつづいたために、ハル夫人が「たうとう大正八年四月の初めから、栄養不足に原因する貧血症、胃腸病を併発して寝込んで了つた」ことも簡潔に述べている。その後、夫人は入院や手術を繰り返しているが、「寝顔を眺めつつ」(略)によると、夫人の健康がそのような状態だったため、沖野が「女中を傭つても又た夫れを使ふのに気骨が折れる。夫れよりも寧その事宿屋住ひをしよう、そしてお前は何にもしないで気楽に暮して見るが宜い」と提案し、麹町富士見町の家から、本郷追分町(略)の西濃館に移った。
  
 もちろん、地名のように書かれている「東京目白」は、東京府豊多摩郡落合村下落合(1924年より落合町下落合)のことで、当時の目白地名は山手線・目白駅Click!(北豊島郡高田町)から2km以上も東のエリアClick!だった。このあと、沖野夫妻は1919年(大正8)に先述の小石川区宮下町へ転居し、ほどなく下落合にやってきている。
 文中に、与謝野寛(鉄幹)Click!与謝野晶子Click!が登場しているが、与謝野鉄幹とは明治学院神学部を卒業したあと、1909年(明治42)に和歌山県新宮にある新宮教会の牧師時代に、地元の講演会で生田長江Click!石井柏亭Click!とともに知りあっている。また、牧師就任とともに近くに住んでいた大石誠之助や成石平四郎、高木顕明、崎久保誓一などと知りあい、その社会主義やアナキズムに関する思想の勉強がてら親しく交流している。
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 明治末のこの時期、日本はもちろん世界じゅうでキリスト教が理想とする世界の実現と、社会主義やアナキズムとがもっとも近接していた時代で、大正デモクラシーの各種思想へ多大な影響を与えている。明治から大正にかけて、トルストイズム(トルストイ主義的アナキズムClick!/反戦思想)をはじめキリスト教社会主義(安部磯雄Click!木下尚江Click!など)、自然主義、共産主義、ニヒリズムなどが社会的に広く喧伝され、大正期に入ると沖野岩三郎はキリスト教牧師の立場から、特に賀川豊彦Click!『死線を越えて』Click!(改造社/1920年)に深い共感を寄せている。
 1910年(明治43)6月、沖野岩三郎は突然逮捕されて自宅の家宅捜査を受ける。同時に、新宮で親しく交流していた大石誠之助や成石平四郎らも次々と逮捕された。天皇暗殺を企図したとして、全国のおもだった社会主義者の“根絶”をねらった、いわゆる「大逆事件」と称する新宮地域におけるフレームアップ(デッチ上げ)事件のはじまりだった。
 ほどなく沖野は釈放されたが、「大逆事件」に連座したかしないかの境界線は、同年の正月に大石誠之助邸で開かれた新年会に、出席したかしないかの、ただそれだけの紙一重による相違だけだった。この新年会で、「天皇暗殺の謀議」が行われたことになっており(もちろん検察当局の創作だが)、沖野は下戸で酒が1滴も飲めないため、たまたま酒宴を欠席したにすぎず、それが謀議に加わらなかったアリバイであり“証し”とされた。
 沖野岩三郎の旺盛な創造力を、生涯にわたって刺激しつづけたのは、この34歳の牧師生活のときに遭遇した「大逆事件」によるところが大きかっただろう。彼は釈放されたあと、どこへいこうと常に警察の尾行を受けながら、収監者たちを支援しつづけている。彼は東京へ向かい、知己をえていた与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ね、大石誠之助らの弁護士を紹介してくれるよう依頼している。与謝野鉄幹は、すぐに平出修という若いが優秀な弁護士を紹介し、ついでに同弁護士に対し社会主義や共産主義の思想について教示を受けるよう、陸軍省医務局長で文部省の文展審査主任だった森鴎外Click!を紹介している。
 1950年(昭和25)刊行の「文藝春秋」2月号で、石川三四郎Click!や山崎今朝彌、大宅壮一Click!とともに出席した沖野岩三郎は、当時の様子をこのように語っている。
  
 幸徳事件の弁護人に平出修といふ人がをつた。若い人でね、僕が頼んだ。與謝野寛氏に「誰かいい人はゐないか」「平出修といふのがゐる」「ぢや、頼む」さうしたら與謝野さんが平出に知恵を授けた。「君、ほんたうをいへば一流の弁護士でも共産主義の思想なんか判つてをらん。君はこの弁護をする前に、森鷗外さんに紹介してやるから、鷗外さんに共産党の成立ちから日本へ来たこと、すつかり習つて来い」と言つた。それで平出が日参して鷗外さんから共産党のことを習つた。それをひつ提げて弁護に立つたんですよ。これが立派な弁護でね、一番喜んだのが菅野すが(ママ:管野スガ)。わたしの弁護人ではないけれども、今度の裁判であなたのやうな弁護をしてくれる人があつたといふことだけでも、わたしは満足だ、あとはどうなつてもいい、といふ感謝の手紙をよこした。(カッコ内引用者註)
  
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 結局、「大逆事件」は1911年(明治44)1月18日に24名への死刑判決がいいわたされ、翌1月19日には「特赦」で12名が無期懲役に変更、1月24日から25日にかけて12名の死刑が執行された。沖野岩三郎が弁護を依頼していた、和歌山県新宮の大石誠之助や成石平四郎も1月24日に死刑が執行されている。このあと、沖野岩三郎はエンエンと警察の尾行や訪問に悩まされることになる。明治末から1945年(昭和20)8月15日の敗戦にいたるまでの35年間、これほど長期にわたり警察に要注意人物として目をつけられていたキリスト教牧師、のちキリスト者を体現する小説家はほかに存在しないだろう。
 下落合1505番地(のち1510番地)の府営住宅8号に転居してきたあとも、警察による執拗な尾行や訪問など、嫌がらせはつづいていた。1920年(大正9)に無理をして軽井沢に惜秋山荘を建てたのも、ハル夫人の保養目的と同時に、東京における執拗でうるさい警察の尾行から逃れ、執筆に専念したかったという動機があったのかもしれない。
 下落合へ転居してくる直前、1921年(大正)に発刊された「婦人倶楽部」1月号に、「大正十年の春を期して改良したき事」というアンケートが掲載されている。それに対して、沖野岩三郎は次のように回答している。同書より、引きつづき引用してみよう。
  
 日本には注意人物といふものあり、一度その筋の黒表に記名されたるものは、いつまでも尾行したり注意したりして非常に善良なる国民の心を不快にする事度々あり。注意尾行せねばならぬ者が無きものかは、一見して明瞭なるに拘らず五年十年に亘りて絶えず注意せられる人あり、その迷惑と不快、実に言語に絶す。折角平和な心になり居るものも、刑事の訪問尾行等あれば一種の不快は或種の反抗心を惹起するものなり。本人之を警官に詰れば「私共は唯だ上官の命令で」といふ。警察署警視庁に詰れば「我々は唯だ、所轄署の報告を以て知るのみ」といふ。此の煩瑣にして無駄な尾行と注意とが、どれだけ日本の或る人々の心を苦しめつつあるか、その数枚挙に遑あらず。(後略)
  
 沖野岩三郎は、徳冨蘆花Click!の『新春』(1918年)を読んで感動し、同年の「六合雑誌」7月に『新春を読む』という書評を書いている。そして、蘆花が数多くの書評の中で「沖野のが一番好い」(作品の趣意につき正鵠を射ている)という感想をもらし、沖野の「大逆事件」を扱った小説『煉瓦の雨』(福永書店/1918年)が出版されたら、「あんな気もちの好い評をした者には、ちつとやそつとの加勢はしても当然だ」といわしめている。
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 沖野岩三郎が下落合へ転居してきてから7年後、1928年(昭和3)10月から彼を編集委員とする『蘆花全集』(蘆花全集刊行会/全20巻)の出版が、下落合の沖野邸を中心にスタートしている。彼は創作の執筆を中断し、すべての時間を同全集の編纂に注ぎこみ1930年(昭和5)5月ついに全巻を完結させた。そして、編纂の仕事が終わるのを待ちかねていた東京朝日新聞では、さっそく同年6月より沖野岩三郎『闇に貫く』の連載をスタートしている。沖野岩三郎は、徳冨蘆花と同じくキリスト教の影響を受けた作家の巨人的な存在なので、とてもひとつふたつの記事では到底とらえきれず、また別の機会があれば取りあげてみたい。

◆写真上:下落合1505番地(→1510番地)の、沖野岩三郎邸跡(路地の突きあたり)。
◆写真中上は、1925年(大正14)作成の「出前地図/西部版」Click!にみる沖野邸。表札が達筆だったものか、沖野が「神野」に誤採取されている。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる沖野邸。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる沖野邸。すでに西側の私道をつぶして庭にし、門の位置を変えているとみられる。
◆写真中下は、新宮教会の牧師時代に親しく交流した沖野岩三郎()と大石誠之助()。は、1918年(大正7)出版の沖野岩三郎『煉瓦の雨』(福永書店/)と、1923年(大正12)出版の同『薄氷を踏みて』(大阪屋号書店/)。は、1950年(昭和25)に発刊された「文藝春秋」2月号の目次で座談会の司会は大宅壮一だった。
◆写真下は、沖野岩三郎が強い影響を受けた徳冨蘆花()と賀川豊彦()。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合3丁目1507番地の沖野邸。このころ、自宅を建て替えているとみられる。は、1945年(昭和20)4月2日に偵察機F13Click!によって撮影された沖野邸。4月13日夜半に行われた第1次山手空襲Click!で、沖野邸は全焼している。
おまけ
 下落合には、ヴォーリズClick!設計の目白福音教会宣教師館=メーヤー館Click!(1912年築)があったが、明治学院礼拝堂=白金チャペル(1916年築)もヴォーリズの仕事だ。ただし、沖野岩三郎は明治学院へ1904年(明治37)に入学し1907年(明治40)に卒業しているので、インプリ―館や明治学院記念館(旧チャペル)は存在したが、白金チャペルは未建設だった。
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