「僕」って何?&「ざんす」が山手言葉だって? [気になるエトセトラ]
先日、何気なく点いていたTVを観ていたら、NHKの「教養番組」(?)でにわかに耳を疑う、信じられないようなウソを臆面もなく話す学者のコメントが放映されていて唖然としたことがあった。それは、東京方言の「ざんす」に関する解説だった。
その学者によれば、東京の「ざんす」言葉は、江戸期はおもに芸者が用いた言葉であり、明治期になってから芸者を妻にする明治政府の要人が続出したため、彼らが住む山手地域に「ざんす」言葉が周囲にまで拡散して浸透し、最近まで「ざんす」「ざんしょ」言葉を話す女性が東京の山手の街にはみられた。したがって、「ざんす」言葉は乃手を中心に拡がった女性が用いる山手言葉だ……云々。おまけに、「ざんす」言葉がつかわれたエリアとして、旧・東京15区Click!の西側(千代田城Click!の旧・乃手側)が、グリーンに塗られている地図フリップまで用意して見せていた。あんた、マジClick!ざんすか?(爆!)
どこの大学だか知らないが、この学者センセの解説はほとんどすべてがウソ八百だ。「ざんす」言葉は、確かに江戸期からの芸者がつかったけれど、芸者だけでなくその周辺にいた幇間や置屋、待合の仲居など花柳界Click!の関係者は男女を問わずにつかっている。しかも、当時は洗練されて聞こえたらしい「ざんす」言葉が浸透したのは、武家や明治以降は要人たちが多く住んでいた旧・山手ではなく、当の芸者たちが住み置屋が点在していた町場のほうがもっと早く、昔から盛んにつかわれていただろう。NHKの番組担当者は、なぜ容易に取材できるファクトチェック(ウラ取り)をしないのだろうか?
別に江戸期からつづく、古い(城)下町Click!の家庭へ取材する必要などない。明治期でも大正期でも、とにかく戦前には東京に根を張って暮らしていた町場(神田でも日本橋でも銀座でも深川でも本所でも浅草でもどこでもいい)にある家庭の生活言語へ取材さえすれば、「そういや、うちの親から上の世代がよくつかってたよ」とか、「祖父(じい)さんや祖母(ばあ)さんが、ざんす言葉をよくつかってたぜ。懐かしいな」とか、「ざんす言葉は戦後も、1980年代ぐらいまでずっとつかわれてたわよ」などの答えが返ってきて、すぐにも学者の解説が不可解でおかしいことに気づいただろう。当該番組のNHKスタッフに、戦前から東京に住む家庭の出身者がひとりもいなかったのだろうか?
おそらく、この学者センセは図書室か資料室にこもりながら、江戸東京語辞典かなにかで「ざんす」がもともとは芸者言葉だったことを知った。そういえば、明治政府の要人たちは芸者を多く妻に迎えている、だから彼らが住んでいた旧・乃手地域で「ざんす」言葉が盛んにつかわれて拡大・普及したのだ……というような、東京の地元から見ればまったくトンチンカンな(現場でファクトチェックをしない)、町場から乖離した三段論法で自身の「学説」を組み立てたのだろう。図書室か資料室にこもるのをやめ、いまでは「下町」と呼ばれる地域の、戦前からつづく家庭の生活言語を何軒か取材すれば、すぐにも自身が空想で組み立てた三段論法が、穴だらけだったことに気づいたはずだ。うちの親父Click!も、「ざんす」言葉をたまにつかっていたが、ここは同じNHKで過去に放送されたコンテンツをもとに、この学者センセの「学説」のおかしさを検証してみよう。
1970年代に米国ユニヴァーサル映画が制作したTVドラマに、『刑事コロンボ』というのがあった。NHKで放映されるときには小池朝雄が声優をつとめ、「うちの上さんClick!がね~」が流行語になったあの刑事ドラマだ。東京出身の翻訳家・額田やえ子は、ピーター・フォークが演じるコロンボのざっかけない性格を表現するため、彼のセリフにあえて東京方言の(城)下町言葉Click!を採用して翻訳している。「あたしにゃチリ(ビーンズ)をひとつ」とか、「あたしゃ拳銃を持たない主義でねえ」とか、戦後も町場では普通につかわれていた(城)下町言葉が随所に登場している。拙サイトでは日本橋浜町出身の曾宮一念Click!や同じく通油町出身の長谷川時雨Click!が日常的に話していた、あのしゃべり言葉だ。
そんな中で、コロンボが犯人のトリックやアリバイを崩して追いつめるときの常套句として、右手の人差し指を立てながら「よござんすか?」(=いいですか?/よろしいですか?/よろしゅうございますか?)のフレーズを多用していたのを、思い出される方も多いのではないだろうか。コロンボが口にする「よごさんすか?」「よござんす」「よござんしょ」は、わたしの親世代まで日常的につかわれていた男女を問わない(城)下町地域の生活言語だ。だからこそ、額田やえ子は同ドラマの随所で飾らない「ざんす」言葉を、コロンボ(小池朝雄)にしゃべらせていたのだろう。わたしの記憶では、1970年代まで「ざんす」言葉は町場でよく聞かれたが、バブル経済以降は聞く機会が激減した。つまり、わたしの親世代が次々と鬼籍に入るとともに、「ざんす」言葉も衰退していったのだろう。
江戸期の花柳界から、町場へ徐々に浸透していった「ざんす」言葉だが(花柳界には他にも「やんす」「あんす」言葉というのもあった)、これら町言葉が幕府の御家人や旗本へ浸透するにつれ、武家の間すなわち旧・乃手地域でも「ざんす」言葉を話す人物が増えていく。同時に、当時は無宿者といわれ社会から疎外されていた博徒や地回りなどヤクザやテキヤの世界にさえ、「ざんす」言葉は浸透していった。わたしの世代では首をかしげてしまうのだが、花柳界(今日の芸能界に近い位置づけ)に根のある「ざんす」言葉は、当時はそれほど粋でスマートでカッコいいしゃべり言葉だったのだろう。
余談だが、本所の町育ちの貧乏旗本でのちに幕閣になった勝海舟Click!は、花柳界の「ざんす」言葉ではなく、同じ花柳界の「やんす」言葉を多用していたといわれている。「…でゃんす」「…でゃんしょう?」といったつかい方だ。日本橋出身で柳橋Click!も近かった親父も、「ざんす」言葉とともに「やんす」言葉もつかっていた。NHKの教養番組(?)のスタッフは、自局でヒットしたレジェンド番組『刑事コロンボ』を観て、標準語Click!ばかりでなくNHKの本局がある地元の東京方言Click!も少しは勉強しようよ。
ちなみに、「ざんすか?」「ざんす」「ざんしょ」を、気持ちよさそうにアテレコで連発していた小池朝雄もまた中央区(日本橋区+京橋区)育ちなので、おそらく彼も「ざんす」言葉を現役でつかっていた世代だろう。「ざんす」言葉のフェイク学説に唖然として、かなりの文字数を費やしてしまったけれど、あまりにもお粗末でひどい東京方言についての史的歪曲であり、「ざんす」方言は乃手言葉だなどとTVを観ていた若い世代に誤伝されてはかなわないので、看過できなかったしだい。図書室や資料室にこもって空想するのではなく、ちゃんと地元の現場を歩いて検証しようぜ。同番組のNHKスタッフと、珍説を披露した学者センセってば、「ボ~ッと生きてんじゃね~よ!!」。
さて、話はガラリと変わって、最近ちょっと面白い本を読んだのでご紹介したい。今年(2023年)の夏に河出書房新社から出版された、友田健太郎『自称詞<僕>の歴史』(河出新書)だ。1人称の「僕」が、どのように使われるようになったのかを史的にたどる、「僕」の歴史を綿密に研究した労作だ。ただし、各地域ごとでつかわれる方言(生活言語)の中に位置づけされ、徐々に変化し規定されていった各地域別の「僕」ではなく、日本語一般としての「僕」の位置づけとして主論を展開している。
たとえば、大阪における「僕」は、おしなべて幼児から老人までが用いる1人称のようだが、東京の街中では明らかに子どもの1人称であり、せいぜい大学生ぐらいまでが許容されるコトバClick!、あるいは同窓生や親しい友人同士の間で交わされるコトバとしてつかわれてきた。明治以降の学校教育に取り入れられ、全国的に用いられるようになった「僕」について、このような地域ごとに存在する方言に飲み込まれてからの地域別用法は、同書の論旨では残念ながら捨象されている。
ただし、大阪の高校に通われた方から拙ブログへ寄せられたコメントでは、「大人の男が僕というのはみっともないですね。〇〇先生はまだ独身だから僕といってもいいかもしれませんが、結婚したら私というべきでしょう」と話す地元の教師がいたそうなので、大阪でも地域によっては「僕」に対するとらえ方が、大きくちがっているのかもしれない。
1937年(昭和12)3月7日発行の「東京朝日新聞」に連載されたエッセイ『浅春随想』Click!で、矢田津世子Click!は「『ボクちやん』を耳にしたりすると、私は、ぞつとする」と書いたが、その34年後の1971年(昭和46)に、一貫して親から「ボクちゃん」で育てられ中年になってからも自分のことを盛んに「ボク、ボク」を連発し、ベレー帽をかぶって画家を詐称した大久保清事件が発覚している。
同書にも、「ボクちゃん」「ボク」の大久保清が象徴的に取り上げられているが、少なくとも関東地方で芸術家や文化人が “書生気質”の延長で「僕」をつかいはじめたのは、すなわち自分はそこいら一般の社会人である「わたし」「わたくし」「あたし」「あたくし」「おれ」「あたい」「おいら」「おら」「自分」などとは異なり、生まれたときから今日まで社会に束縛されない自由人(芸術家・文化人・芸能人)としての特別な存在であるとして、意識的に「僕」をつかいはじめたのは、おそらく昭和期に入ってからのことだろう。
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大久保はふだんの自称詞は<おれ>なのだが、女性に声をかけるときに用いる自称詞はいつも<ぼく>であった。ルバシカにベレー帽をかぶり、芸術家の雰囲気を漂わせた大久保にとって、自称詞<ぼく>もまた、そうした扮装の小道具の一つだったが、<ぼく>を使い、教養を備えた文化人を演じることで、現実の自分のみじめな境遇からひととき逃れたいという感情もあったのかもしれない。/いずれにせよ、そうした「扮装」がある程度の効果を持ったことからも、この時代には教養が強い憧れの気持ちを呼び起こしていたこと、また自称詞<ぼく(僕)>が、この時代まではまだ、教養や学歴のイメージと強く結びついていたことがわかる。
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大正期以前は、幼児や生徒・学生の1人称とは別に、文筆家がごく私的なことを書く文章に「僕」をつかったり、思想家が同志へ呼びかける論を展開する際に親しく「僕」を用いたりと、特に芸術家や文化人、芸能人に限らず用いられていたものが、大正期から昭和期に入るにつれ内向する「私小説」の影響もあったのだろうか、作家や画家などの世界に「僕」が急速に浸透していくことになる。町場で「私」と書いていた作家が、山手方面へ転居してしばらくすると「僕」をつかいはじめたりするので、山手言葉が日常語として浸透したのかと思っていたけれど、どうもそれだけではないようなのだ。
「僕」は、子ども時代からの“書生気質”が継続し「社会へ出ない」、上記の職業意識と密接に結びついたところで用いられる、どこか一般社会人とは異なる特異的で特権的な意識をともなった1人称に“進化”していったようだ。余談だけれど、下谷(上野・御徒町界隈)地域出身の高村光太郎Click!が、いつも自分のことを「あたい」といっていたのを同書で初めて知った。わたしの世代では、「あたい」はすでに町場の女子言葉だ。
わたしは、大学生のとき「僕」といって姻戚や周囲から軽んじられた(子ども扱いされた)経験から、ましてや芸術家でも文化人でもないので1人称には「わたし」「おれ」しかつかわないが、いまや「僕」は子どもの男子ばかりでなく女子にもつかわれはじめている。先日、小学校6年生の女子たちが盛んに「僕」といっているのを聞いて、そろそろ「僕」もジェンダーレスの1人称になりつつあるのか……と実感したしだい。
同書では、まるで昔のターキー(水の江滝子Click!:晩年は「あちし」の1人称が多かったように記憶しているが)のように、女性がつかう「僕」「僕ら」についても書かれているので、興味があればご一読を。女の子がつかう「僕」や「僕ら」は、まぁ、よござんしょ。w
◆写真上:おそらく古くから「ざんす」「やんす」言葉がつかわれていたと思われる、日本橋芸者や置屋が街中に散在していた日本橋地域の風景。
◆写真中上:上は、どこかの学者センセが「ざんす」言葉についておかしな「学説」を開陳していたのは、このキャラクターが登場するNHKの番組だ。「ボ~ッと生きてんじゃね~よ!!」というのが、このキャラクターの口グセらしい。中は、下町言葉を流暢に話す「よござんすか?」「よござんしょ」の『刑事コロンボ』(NHK)。下は、やはり「ざんす」言葉が話されていた銀座地域。「家までとどけてくれます?」「はい、よござんすよ~」は、子どものころ店舗などでよく耳にした日常的な町言葉だ。
◆写真中下:上は、同じく「ざんす」言葉が話されていた神田地域。中左は、今年(2023年)の夏に出版された友田健太郎『自称詞<僕>の歴史』(河出新書)。中右は、1960年代に小学校で使われた小学1年生用『こくご』(教育出版)。下は、同教科書に掲載された「じぶんの ことは、ぼく、わたし」と教える1人称代名詞のページ。
◆写真下:空襲から焼け残った、旧・山手にあった江戸の御殿医屋敷と大正の西洋館。江戸期からつづく旧・山手地域でも、もちろん町場と同様「ざんす」言葉はつかわれていた。
★おまけ
下落合に住んだ赤塚不二夫Click!は、おフランス帰りで「シェーッ!」のイヤミに「ざんす」を盛んにつかわせたが、「満洲」出身の彼には山手の奥様方が話す「ざんす」言葉が、ことさらキザに聞こえたのだろう。だが、町場の男女が話す「ざんす」に接していれば、全然異なる印象を抱いたかもしれない。ケムンパスは「やんす」言葉だったかな? ……そういや、矢田津世子Click!や目白の師匠のお上さんClick!のように、自分を「オレ」と称した女性が、その昔、深川の辰巳芸者衆にもかなりいたらしい。(下の写真は、春の深川木場)