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蕗谷虹児と重なる魯迅のイノセンス思想。 [気になる下落合]

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 1970年ごろ、中国を訪問した洋画家の吉井忠は、魯迅の旧居を訪れている。20世紀前半における中国の文芸分野(「文芸」は文学と美術の双方をさす)で、巨大な足跡を残した魯迅Click!の旧居に飾られていた絵は、同時代のビアズリーでもコルヴィッツでも、グロッスでもマズレールでもなく、日本の蕗谷虹児Click!の版画だった。
 吉井忠は、日本の美術界では評価が低い(というかほとんど画壇からは相手にされていなかったはずの)蕗谷虹児Click!が、なぜ世界美術に造詣が深かった魯迅の家に飾られていたのか理解できなかったようだ。また、魯迅は蕗谷虹児の作品をチョイスして、詩画集『蕗谷虹児畫選/第一期・第二期』(上海合記教育用品社/1929年1月)を中国の美術青年向けの参考教材として出版している。掲載されている蕗谷虹児の絵に添えられた詩は、魯迅みずから中国語へ翻訳したものだ。美術の最先端に詳しい魯迅の、この詩画集の翻訳出版を、吉井忠はさらに理解できなかったのではないか。
 美術をめざす中国青年たちにとって、A.ビアズリーなどの作品はあまりにヨーロッパ(西洋文化)すぎて、理解はできてもまったく馴染まなかったようだ。当時の中国は、封建体制からようやく抜け出ようとしていた時期であり、西洋の文化を積極的に取り入れようとしてはいたが、従来の中国文化を基盤に直接ヨーロッパからの文化を吸収しようとしても、それまでのあまりにもアジア的で強固な文化的土壌との乖離感が大きすぎて、うまく融合させることができなかった。
 モダンな西洋文化には惹かれるものの、西洋文化そのものにはアジアという強いフィルタリング=抵抗感があってそのまま直接的には受け入れられない、そんなときに目についたのが、西洋文化(美術など)を少なからず消化しつつ、アジアのテイストをも色濃く漂わせた蕗谷虹児の作品群だった……ということのようだ。
 つまり、蕗谷虹児の画面は、西洋のモダニズム文化をうまく吸収して、アジアの人々にも素直に理解できるよう、上手にアジアの風土へ翻訳された表現だったということだろう。換言すれば、当時の中国美術界は直接ヨーロッパから表現を輸入するのではなく、日本という「出島」からアジア風にこなれた表現で西洋文化を吸収していた。
 そういえば、魯迅自身も直接ドイツにではなく、日本へ留学して“西洋”医学を学んでいる。つまり、封建体制がようやく終焉を迎えていた中国では、その文化(美術など)も既存のものが相変わらず圧倒的な主流・主力であり、ヨーロッパの文化を受け入れる素地が整っていなかったため、ある程度アジア的に翻訳された日本の西洋的文化(美術など)を通じてのほうが、当時の青年たちには理解しやすく馴染みやすかったということだろう。日本は、いってみれば中国における「出島」=ハイカラな長崎のような、ワンクッションおいた西洋文化のアジア窓口として位置づけられていたにちがいない。
 蕗谷虹児の作品群は、近代美術をめざす当時の若い中国の美術青年たちから高い評価を受けつづけ、彼らは少女趣味的なロマンティシズム作品であることを重々踏まえ十分に承知していながら、それでも若いアーティストからは絶大な支持と人気をえていた。魯迅にしてみれば、19世紀末から20世紀にかけての西洋美術と東洋美術が高度に融合するとこうなるという、典型的なブリッジング教材として蕗谷虹児をとらえており、「青年画家たちの手本となるだろう」とまで記述している。もちろん、それ以前に魯迅自身が、蕗谷虹児の抒情的な作品群のファンだったということもあるかもしれない。
少女世界「水汲み(フランスの田舎にて)」1927.jpg 令女界「お使ひに」1927.jpg
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令女界「悩みをとほして」192901.jpg
 少し古い資料だが、1978年(昭和53)発行の「中国研究月報」364号(中国研究所)に掲載された、小泉和子の論文『魯迅と蕗谷虹児』から引用してみよう。
  
 <中国の美術青年たちが虹児の作品を愛好した>その理由として、魯迅が書いていることは、この頃の中国の文芸会(魯迅は美術も文芸に含めている)ではヨーロッパから何か新しいものが入ってくるとすぐとびつく風潮が強く、ビアズリーが入って来た時もたちまちブームになった。しかしビアズリーではあまりにも鋭すぎるため素直についていけないと感じていたところへ、ビアズリーよりはおだやかで東洋的な虹児が入って来たので今度は抵抗なく共感できたということである。/ということはビアズリーも虹児も共通したものとしてとらえられていたことになる。つまり中国の青年達が求めたのは、世紀末芸術とよばれる、繊細で、幻想的で、病的で、しかし甘美なところのある美の世界であった。これは言いかえれば西洋のかおりとでも言うか、近代ヨーロッパ文化の持つ独特のロマンチシズムに対する憧れといってよいだろう。(< >内引用者註)
  
 当時、中国の若い美術家たちから、アジアにおける「西洋美術の翻訳者」と位置づけられてしまった蕗谷虹児だが、本人にはそのような自覚はまったくなかったろう。彼は、どうしたら竹久夢二Click!を超える表現ができるか、ヨーロッパ最先端の表現をどのように日本の抒情的な作品世界へ溶けこませるか、自身のあとにつづく人気の抒情画家たちといかに表現の差別化を図るか、そしてときに肉親の借金返済のために多くの仕事をこなすのがせいいっぱいで、中国の美術界にまでは目がとどかなかっただろう。
 蕗谷虹児の基盤にあるのは、15歳で弟子入りした尾竹竹坡画塾の日本画だが、そもそも日本画は中国美術がベースになっているのであり、期せずして20世紀の前半期に、今度は日本から中国へキャッチボールの“返球”が行われていたことになる。そして、蕗谷虹児が留学中に影響を受けたビアズリーはといえば、日本ならではのオリジナル芸術である江戸の浮世絵師、渓斎英泉から強い影響を受けたといわれている。魯迅と蕗谷虹児とビアズリーをめぐる関係は、世界美術史においても面白いテーマだろう。もっとも3者は、英泉にみられるデカダンで淫靡なエロティシズムとは無縁のようだが。
 魯迅は、蕗谷虹児の詩画集『睡蓮の夢』に収録された詩『旅の兄人』を、『旅人』と題して次のように翻訳している。「人の噂で/ありはあれ/露領の町に/あるといふ/兄人の身が/悲しまる。/漂泊遠く/サガレンの/そこは吹雪の/町といふ/兄人連れ人/無いと聞く。」は、「固然是風説/聞郎在俄疆/念及身世事/中懐生悲涼、/郎在薩哈連/瓢流一何遠/街名是雪暴/聞郎無侶伴。」と中国詩に訳した。また、魯迅は『悲しき微笑』を訳し、蕗谷虹児の制作姿勢(思想)についても紹介している。
 魯迅は、詩画集『蕗谷虹児畫選』(1929年)を出版したとき、蕗谷虹児がパリへ留学中だったことももちろん知っていた。彼は日本で出版される蕗谷虹児の画集や雑誌の多くを入手しており、上海の内山書店にないときは日本の出版元に発注(『銀砂の汀』など)して取り寄せている。それほど、魯迅は虹児の動向や表現へ常に気を配っていた。
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蕗谷虹児「パリ人形」1926.jpg
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 魯迅は、時代を前後してワシリー・エロシェンコClick!の童話や詩にも触れている。1985年(昭和60)に平凡社から出版された『別冊・太陽/絵本名画館・蕗谷虹児』に収録の、藤井省三『無垢なる魂――魯迅と虹児』から、少し長いが引用してみよう。
  
 そして魯迅は「これらの美点」(蕗谷虹児『悲しき微笑』で語られる表現姿勢のこと)を、「若い男女の読者に傾いた」ものとのみ理解するのではなく、むしろ中国の芸術家にとっては「小さな真の創作」の原点であると高く評価しているのである。許広平(魯迅の妻)の伝えるところによると、魯迅が「奔流」誌上で虹児の「タンポリンの唄」を紹介したのも、「あの版画の幽婉さと詩に対する激賞のため」であったという。/ところで『蕗谷虹児画選』刊行に先立ち、魯迅はロシアの盲詩人エロシェンコとオランダの文学者エーデンの童話を翻訳している。彼らの作品を魯迅は「無韻の詩、大人の童話」と呼び、更に「人の愛、赤子の心」に訴えて、「人類とその苦悩が存在する」現実世界を凝視させるものとして高く評価しているのである。エロシェンコらの童話に漲る無垢なる魂(イノセンス)を、魯迅は文学の原点としてとらえていたものと思われる。そして虹児の詩画集に「深夜の如く闇黒く清水のゆうに澄明」(『悲しき微笑』より)な思想を読みとっていた魯迅は、明らかにエーデンらの純真なる精神の延長線上に蕗谷虹児を位置づけていたと言えよう。(カッコ内引用者註)
  
 魯迅のいう「小さな真の創作」、無垢なる魂(イノセンス)は、宗教的な重圧がのしかかる中世ヨーロッパの封建社会から生まれたものではなく、資本主義革命(市民革命・民主革命)によって獲得された人民の「自由・平等・博愛」思想を基盤にして(またその大きな矛盾を内包しつつ)、少しずつ形成された近代的自我や解放感から生まれたものだ。魯迅は、封建社会の崩壊と資本主義革命のはざまに位置する中国の現状をとらえ、いま文芸(魯迅の場合は文学と美術)に必要なのは「純真なる精神」であり「小さな真の創作」であり、イノセンスだと説きたかったのではないか。
 ちょうど、詩画集『蕗谷虹児畫選』(1929年)が刊行されたころ、前年より中国文学の世界では「革命文学論戦」が行われており、魯迅は共産党系のプロレタリア作家たちから「プチプルジョア文学者」として総攻撃にさらされていた。それにつづき、国民党と反国民党の対立が深まり、1931年(昭和6)に満州事変が、つづいて1932年(昭和7)には上海事変が起きて日本の中国侵略の意図が明らかになると、抗日統一戦線の方策をめぐり「国防文学論戦」が行われ、またしても魯迅は共産党系文学者の集中砲火を浴びている。
 ところが、「中国三千年の古い手枷足枷」から脱却して、中国資本主義革命(民主革命)の激流の中で表現し、虹児による大正デモクラシーの自由闊達でモダンな表現を愛した魯迅は死後、毛沢東により「中国第一等の聖人」「革命文学の聖人」などという、およそ似つかわしくない呼称を送られ、実像からはよほど乖離した「聖人」に奉りあげられてしまった。
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蕗谷虹児「阿蘭陀船」.jpg
 藤井省三の言葉を借りれば、「蕗谷虹児に見出されたイノセンスの思想こそ、一九二〇年代中国の状況を果敢に切り開かんと苦闘した魯迅にとって、最も優れた道標」だったのだ。魯迅は、周囲の社会状況を的確に把握・分析し、より深い文芸的思慮をめぐらしていた。

◆写真上:下落合から山北町(神奈川県)へ疎開し、戦後はそのまま居住した蕗谷虹児・龍子夫妻。下落合622番地のアトリエは、山手空襲で全焼している。
◆写真中上は、滞仏作品で1927年(昭和2)に「少女画報」掲載の蕗谷虹児『水汲み(フランスの田舎にて)』()と、同年に「令女界」掲載の蕗谷虹児『お使ひに』()。は、いずれも1927年(昭和2)の「令女界」7月号に掲載されたパリの女性たち(タイトル不詳)。は、1929年(昭和4)に「令女界」1月号掲載の蕗谷虹児『悩みをとほして』。
◆写真中下:上は、蕗谷虹児()と魯迅()。は、1926年(大正15)制作の蕗谷虹児『パリ人形』。は、1926年(大正15)制作の蕗谷虹児『出帆』。
◆写真下は、B.エロシェンコ()とA.ビアズリー()。は、1931年(昭和6)に「少女俱楽部」7月号掲載の蕗谷虹児『散歩』。は、蕗谷虹児の『阿蘭陀船』(制作年不詳)。

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