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アナキスト望月百合子という生き方と思想。 [気になるエトセトラ]

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 アナキストだった石川三四郎の娘である望月百合子Click!も、新宿地域とのつながりが深い。石川三四郎は、先ごろの記事で戦後に沖野岩三郎Click!らと鼎談しているのをご紹介したばかりだ。生まれてすぐに母親を亡くしたため、彼女は甲府の望月家へ預けられて望月姓を名のるようになった。4歳のとき、すでに柏木地域(現・北新宿/西新宿)にも住んでいたようだが、アナキストが多く住んでいた「柏木団」Click!のエリアだろうか。
 小学校を卒業すると、上級学校へ進学する際に「将来お嫁に行くのは嫌だ」といったため、養家では教師にしようと師範学校への進学を奨めている。望月百合子は、このころからすでに「お嫁さん」は「家」制度の奴隷Click!だという強い認識があったようだ。「お嫁さん」になるなら、いつでもイヤなら出ていける女中のほうがはるかにマシだと考えていた。大正初期の当時、女性が就職できる職業といえば、教師や看護婦、産婆(助産婦)、電話交換手、女工ぐらいしか選択肢がなかった。
 それを聞いた実父の石川三四郎が、友人で女学校の校長をしていた宮田修を紹介している。当時の師範学校は、「忠君愛国」教育が中心だったから、それでは娘のためにならないと考えて成女高等女学校(現・成女学園)を紹介している。
 1992年(平成4)に、新宿区立婦人情報センターが望月百合子にインタビューした記録が残っている。翌1993年(平成5)刊行の『新宿に生きた女性たちⅡ』から引用してみよう。
  
 成女ではその頃(大正三・一九一四)校長の宮田修先生が、週一回倫理の時間を教えていらした。女だからといって奴隷になるのではなく、人間として自分で考え、自分で道を拓いて行くように、人は皆平等であると教えた。ご自分でも部落出身の娘さんと結婚しようとして、そういう差別をなくしたいと考えたけれど、親戚中の反対に合ってやめになったそうです。そういう話を倫理の時間にされた。/平塚らいてう(ママ)さんが雑誌『青踏』を出された時(明治四四年・一九一一)世間から随分爪はじきされた。その時宮田先生は平塚さんのことをほめて雑誌に書いたんです、たった一人ほめた。その関係で卒業生の原田琴子さんは『青踏』に参加したんです。(中略)/一級下には堺利彦さんの娘さんで真柄さんがいて、堺家の集まりにさそわれて行くと、東大の「新人会」の学生さんたちが議論していて、ご家族の皆さんと一緒で大変楽しい雰囲気でした。
  
 このとき、望月百合子が通学するために下宿していたのは、松井須磨子Click!島村抱月Click!がいた芸術座の裏にある親戚の家(横寺町)だった。一時期、結核とカリエスで休学するが、恢復したあと成女高等女学校へ復学している。また、このころ通学途中でストーカーに遭い追いかけられたことが契機で、同校の寄宿舎に入居した。
 成女高等女学校を卒業すると、望月百合子は学校の推薦で読売新聞社へ入社している。最初に任されたのは「名流婦人訪問」記事欄で、柳原白蓮Click!や吉岡弥生らのインタビュー記事を書いたが、文学担当に変わってからは有島武郎Click!芥川龍之介Click!与謝野晶子Click!らを取材している。当時、女性の新聞記者は着物姿だったが、活動しにくいので途中から断髪して洋装に変えている。大正前期での断髪・洋装はめずらしく、モガClick!が登場するのはもう少し先の時代だ。新聞記者は月給が25円と高給だったが、ヨーロッパの視察から帰った父親の石川三四郎に、「学問をしないで記者を続けても駄目」だといわれ、読売新聞社は2年ほどで辞めている。
 1920年(大正9)に、女子聴講生制度Click!をスタートさせた早稲田大学に入学すると、文学部で東洋哲学を専攻している。3年後の1922年(大正11)に留学生試験に合格し、望月百合子は農商務省に蜂蜜のサンプルやレポートを毎月提出することを条件に、10円/月の給費を同省から支給されている。「留学」と名がついているが、農商務省の海外リサーチ要員といった役目を負わされていた。彼女は、その給費でフランス語を学ぶと、パリのソルボンヌ大学へ入学して西洋史を専攻している。
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 1925年(大正14)にフランスから帰国すると、東京郊外の北多摩郡千歳村八幡山(現・世田谷区八幡山)に、父・石川三四郎とともに「共学社」を創立して農業のかたわら自給自足の生活をはじめている。この選択は、人間は土を離れては生活できないため、農業を中心に全員が平等で生活するコミューンを実践するという、アナキズム的な理想生活の発想をベースにしていた。父親は、そこに集まった仲間たちに講義をしたり、彼女は雑誌の編集をしたりしながら農作業をつづけて暮らしている。ちなみに、この八幡山の家には、のちに小林多喜二Click!の妻になる下落合に住んだ伊藤ふじ子Click!が下宿している。
 千歳村八幡山のすぐ西側は同村粕谷だが、拙ブログでは吉岡憲Click!の故郷として登場している。また、同村八幡山のすぐ北側、松沢村松原には「少年山荘」(山帰来荘)と名づけたアトリエに竹久夢二Click!が住んでおり、望月百合子は「共学社」で穫れた野菜を配達していた。洋装に洋靴姿で、秋野菜を配達にきた望月百合子に会った夢二は、彼女をモデルに絵を描き「土つきし靴のいとしさよ烏ぐもり」の俳句を添えてプレゼントしている。また、フランス刺繡の室内履きとドイツ製のエプロンも出してきて、「エプロンの中に野の花を摘んで入れなさい」などと、これも彼女にプレゼントしてくれた。これは若い女と見ると、誰彼かまわずつい甘い言葉をかけてしまう夢二の性癖Click!からではなくw、アナキストの石川三四郎との交流で彼女とは小さいころからの顔なじみだったのだ。
 1928年(昭和3)に、望月百合子は都新聞に掲載された蔵原惟人Click!の論文に反論し、いわゆる「アナボル論争」の口火を切っている。当時の彼女の思想について、中京大学現代社会学部紀要(2007年)に発表された、志村明子『戦前の女性雑誌から探る女性アナーキストたちの言論世界』が的確にまとめているので、少し長いが引用してみよう。
  
 この論文(第2期「女人藝術」1928年10月号/望月百合子『強権か自由か』)は前掲の「婦人解放の道」(同1928年7月号)同様に、普通選挙後に盛り上がってきている女性参政権運動への批判的見解をアナーキストの立場から明らかにするものである。また、市民派女権主義者批判のみならず『女人芸術』(ママ)関係者の中のロシア支持者たち、つまりマルクス主義女性たちに対する批判を明らかにする内容も併せて著述されている。アナキスト(ママ)たちは、1920年代当初に、プロレタリア独裁のソビエトに対する幻想をすてマルクス主義派と厳しく対立するようになった。/望月が『女人芸術』に寄せた論文がもう一本ある。「女人の社会的使命」(同1929年6月号)である。この論文中、近年、社会改造論が論議されているが、そこに強権主義の萌芽があるということを問題視している。彼女はアナーキストとして強権には否定的だからである。社会改造論は絶対的権威の実現という妄想につかれて突進していくが、そこに強権主義の萌芽があると望月はみなす。彼女は、有史以来の幾度の社会改造も真の自然的解放をもたらしていない、絶対観は強権思想を生み、強権思想は保守と反動となる繰り返しであると捉える。望月は強権の存在を「無」にしたアナーキズムの自由社会を提唱する。それは連帯的自治の社会である。(カッコ内引用者註)
  
 では、その「強権」支配下でどのように「連帯的自治の社会」を構築していくかの、政治的・社会的プロセスや具体的な方法論の欠如、および肝心な変革主体の不在を「ボル」派からすぐにも突っこまれそうだ。
 あるいは、単に危険思想視された左翼思想はもちろん、資本主義政治思想の自由主義者まで弾圧しはじめる日本政府と、どう対峙していくのかが不確かな主張の中で、革命後に早々「強権主義」の最たるものを招来したロシア=スターリニズムについて、「強権思想は保守と反動となる繰り返し」という視座は、まさに的確な予言をしているといえるだろうか。
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 長谷川時雨Click!『女人藝術』Click!では、望月百合子の論文の合い間に下落合の五ノ坂上に住んだ同じアナキストの高群逸枝Click!も、『新興婦人の道―政治と自治―』(1928年9月号)を発表している。志村明子の論文より、もう少し引用してみよう。
  
 高群によれば、解放とは強権を脱して自治を、被支配を排して支配なき状態を意味するのである。真の男女同権は、女権主義者の主張のように強権的、人為的であった従来の男性本位の意識ならびに生活態度を女性も同じように踏襲することではなく、新興者としての女性が必然的に伴っている女性本来の自然的、自治的生活態度ならびに意識へ、男性をきたらしめることである、とする。新興意識とは、自治意識のこととされる。自治とは、相互の協力形式による自由社会を指す。/クロポトキンが『相互扶助論』などの著書で示したように、高群も村落共同体の農民の生活に相互扶助や相互支持の習慣や風習を見いだしている。高群は、来るべき理想の新社会は、農工合体の共産村落を単位とする連合世界であるべき、という。共産の単位、共有の単位は、きわめて自然的な、そして小範囲なものであればあるほど、不合理の度合いが少ないとするからである。
  
 どこか、1960年代のヒッピーやコミューン志向の新興宗教的な匂いすら感じる世界だが、この主張もまた高群が多用する「自然的」とは、現社会で形成された個人的主観ではなく、一般化(普遍化)するとどのような状態であるのかが、すぐにも「ボル」派のみならず論理的思考の人物からは、突かれそうな文脈の“隙間”ではある。
 やがて、「ボル」派が主流を占めるようになる『女人藝術』を去った望月百合子は、高群逸枝や平塚らいてふ、住井すゑたちと女性誌『婦人戦線』を創刊している。このあと、1930年(昭和5)に彼女は「共学社」仲間の古川時雄と結婚し、四谷区新宿1丁目58番地(現・新宿区新宿1丁目/翌1935年に千駄ヶ谷へ移転)に「ふらんす書房」を開店している。同書房は、岩波書店Click!と同じく書店と出版社を兼ねた店舗で、2階では英仏語を教える語学塾を開設していた。望月百合子は、ふらんす書房の代表として多彩な本の出版や、『トロットと猫と犬』(1935年)など代表的な翻訳本を次々と刊行していくことになる。ちなみに、『トロットと猫と犬』の挿画は、平塚らいてふの愛人で画家の奥村博士が担当している。
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 余談だが、新宿通りに面したふらんす書房のちょうど裏あたり、新宿御苑に面した側のビルに「現代ぷろだくしょん」の事務所があった。大学を出て間もない1983年(昭和58)ごろだったろうか、当時の上司に連れられて一度訪問したことがあり、映画「はだしのゲン」Click!3部作の監督・製作者の山田典吾・山田火砂子夫妻にお目にかかった憶えがある。ちなみに、いまの現代ぷろだくしょんは中井駅のすぐ南、上落合2丁目にオフィスがある。

◆写真上:北多摩郡千歳村八幡山に、実父と「共学社」を設立した望月百合子。19世紀の1900年(明治33)生まれの彼女は、21世紀(2001年)まで生きた。
◆写真中上は、成女高等女学校(現・成女学園)の正門と旧校舎。正門前の記念プレートは、1896~1902年(明治29~35)までここに住んだ小泉八雲Click!の旧居跡。は、望月百合子の実父・石川三四郎()と竹久夢二()。
◆写真中下は、「共学舎」で父親と農業や学習、翻訳などをしていた千歳村八幡山時代の望月百合子で、大正中期とは思えず現代女性のように見える。は、ごく近くの松沢村松原にあり「共学社」に野菜を注文していた竹久夢二の「少年山荘」(山帰来荘/1924年ごろ撮影)で、当時の千歳村とその周辺の風情がうかがえる。屋敷林の繁る庭にいるのは、当時、夢二の愛人だったお葉(永井兼代)Click!だろうか。下左は、1928年(昭和3)刊行の望月百合子『強権か自由か』が掲載された「女人藝術」10月号で表紙は吉田ふじをClick!下右は、1930年(昭和5)に望月百合子らが創刊した「婦人戦線」3月号。
◆写真下は、「女人藝術」でボルシェヴィズムに対しアナキズムの論陣をはった望月百合子()と高群逸枝()。中上は、1940年(昭和15)の「四谷区市街全図」にみる「ふらんす書房」位置。中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみるふらんす書房界隈。下左は、1934年(昭和9)刊行の田中令三『晒野』(ふらんす書房)の奥付。下右は、1935年(昭和10)出版のリシュテンベルジェ・作/望月百合子・訳『トロットと猫と犬』(ふらんす書房)。

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