目白停車場が存在しない山手線平面図。 [気になる下落合]
鉄道史では、1885年(明治18)3月16日に目白駅は開業したことになっているが、実際にはいまだ駅舎は存在せず、駅員がひとりもいない停車場だった可能性が高い。金久保沢Click!の駅舎建設予定地では、日本鉄道が提示した土地の売買価格があまりにも安価(実勢価格のおよそ半額)だったため、当該用地の地主たちが同年4月16日に東京府知事あてで、「迷惑至極」の抗議書Click!を提出していることから、強引な日本鉄道と予定地地主たちとの間で、用地の売買契約が成立していないのは明らかだ。
ちょうど、目白停車場の設置計画が具体化した1885年(明治18年)ごろに作図されたとみられる、目白橋や清戸道の分岐などが描かれた平面図が東京都公文書館に現存している。この平面図では、停車場予定地の土地売買がもめにもめていたせいか、目白停車場の駅舎はいまだ描かれていない。だが、別に目白停車場に限らず山手線の敷設では、日本鉄道の横柄で強引な土地買収が沿線地主の恨みをかい、各地で測定標杭の引っこ抜き事件Click!が多発していたのは、少し前の記事に書いたとおりだ。
同平面図では、現在は目白通り(大正期は「高田大通り」Click!)と呼ばれ目白橋をわたっている「新道」と、江戸期以前からの練馬方面への街道筋(おそらく鎌倉支道)だった「清戸道」Click!が、新たに架橋される目白橋の手前(西側)で南へとY字路に分岐し、清戸道は新道用に築かれた法面の下、つまり目白橋のすぐ南側で山手線の踏み切りをわたるのが、当初からの計画だった様子がうかがえる。わたしが清戸道Click!のことを表現する際、「およそ現在の目白通り」としている「およそ」とは、この新道(目白通り)と清戸道とでは、山手線が近づくにつれて南北へ微妙にズレが生じているからだ。
そして、新道筋に計画されていた目白橋が、かなり幅員の狭い仕様だった様子も描かれている。だが、同時に書きこまれた「目白停車場」の文字は、その予定地よりもはるかに北寄り(図面では右寄り)に位置しており、実際の停車場(日本鉄道が建てた初代・地上駅+プラットホーム)は、目白橋から南へ80mほど離れたあたりに設置されている。下落合に住んだ多くの画家や文学者などの住民たちは、目白橋と清戸道の踏み切りが上下に分かれ、そこからかなり離れた南に建設された初代(日本鉄道)および二代目(鉄道院)の目白地上駅Click!を、1922年(大正11)に橋上駅化Click!されるまで利用していた。
さて、日本鉄道による山手線の敷設では沿線でいろいろと物議をかもす工事がつづいたが、ひとたび停車場が完成すると市街地の住民たちが移住してくるケースが増え、周辺の地価はウナギのぼりに上昇していった。山手線が日本鉄道から鉄道院、鉄道省と推移する中、特に大正初期から生活改善運動とともに流行する「田園都市」ブームClick!が、市街地住民の郊外移住に拍車をかけるようになる。
たとえば、1903年(明治36)に設置された池袋停車場の周辺について、1919年(大正8)3月20日の東京朝日新聞に掲載された記事「東京新景=開けた池袋」から引用してみよう。
▼
郊外居住者のS君曰く、山の手線へ乗つて見給へ赤羽から新宿辺の沿線は両側とも新建の家屋が隙間もなく列んで凄まじい発展振りだと、事実その如く就中池袋が最も急激の変化を示してゐる、昨夏町制を施かれて西巣鴨町となつてからも依然市電の恩沢に縁遠い同地附近も山手線のお蔭と市の膨張につれて数多の工場を招致すると共に立派な居住地を形成するに至つた。(中略) 戦前三円の坪値が昨今三十円下では到底手に入らぬ、而も現在尚一箇月三戸乃至四戸平均で新建が殖えてゐる、
▲
この記事の上部には、西巣鴨第二尋常小学校(現・池袋小学校)の近くに建設中の、新興住宅地の様子をとらえた写真が掲載されている。(冒頭写真) 文中に「戦前」とあるのは、1914年(大正3)からはじまった第一次世界大戦のことだ。
また、同年には新宿駅から山手線を南へたどる各駅、すなわち新宿駅、代々木駅、原宿駅、そして渋谷駅の改良工事計画がスタートしている。この改良工事は、各駅舎の位置さえ移動させてしまうほどの大規模なもので、同時に山手線の旧線路廃止と新線路の高架工事や、中央線の千駄ヶ谷駅と原宿駅とを結ぶ新線の敷設(未成)などの大がかりなものだった。1919年(大正8)3月13日の東京朝日新聞に掲載された記事「面目を一新さるべき山の手線の各駅/渋谷、原宿、代々木、新宿」から抜粋してみよう。
▼
鉄道七年計画中の一改良事業として一昨年来改良工事に着手しつゝある東京市外山の手線中大正八年度より工事に取掛るべき渋谷新宿方面の各停車場の位置及線路の模様変へ等に関しては適同方面に明治神宮造営せられ参宮道路用地買収等の関係より各種の事情を慮り従来極秘に付されつゝありたるが既に用地も買収済みとなり諸般の工事計画も此程確定する運びとなりたり(中略) 渋谷駅の位置は現在より稍南方に寄りたる方即ち宮益坂下の踏切に近接して改築せらるべく(中略)又原宿停車場の新位置は現在より少し南方、水無橋の稍北方に変更さるべし(中略)次に代々木停車場は現在より稍南方に変更され乗降に複雑なるを以て有名なる同駅のことなれば改良工事も此辺に大に意を用ひ新宿停車場も渋谷同様大通り即ち市内電車の終点に近き位置に南移され構内も現在の二倍以上に取拡げらるべしと
▲
大正当時も現在も、この山手線西側の各駅では頻繁に大がかりな改良工事の行われていた様子がうかがわれて興味深い。特に、現在進行中の線路の付け替えやホーム拡幅までが行われた渋谷駅とその西口周辺、あるいは大規模な開発が目前に迫った新宿駅の西口周辺は、この先10年で外観からして大きな変貌をとげるとみられる。
上の報道から1年4ヶ月後、新渋谷駅の竣工が報道されている。1920年(大正9)8月1日刊の東京朝日新聞に掲載された、「新渋谷駅開通/祝賀会挙行」から引用しよう。
▼
新装成つた山手線渋谷駅は愈(いよいよ)今暁零時から開業する事となつた、駅附近の町民、有志会主催新駅開通祝賀会を今日午後三時から挙行する、会場は新駅前の広場で入口に緑門を設け鉄道大臣其他関係者を接待し、道玄坂芸者の手踊、煙火其他趣向を凝らした余興の数々が演ぜられる筈である(カッコ内引用者註)
▲
渋谷駅の周辺は、住宅街が形成されつつあったとはいえ、あちこちに田畑が残り駅を離れると、茅葺きの農家が点在するような風景だった。新興開発地には灌漑用水が残り、農地の畦道に立てば童謡の「♪春の小川は~さらさらいくよ~」(高野辰之『春の小川』Click!)を地でいく、もう少し北側の代々木風景のような風情が残っていた。
渋谷駅の新駅舎は華々しく開業したものの、このあと「鉄道七年計画」の山手線改良事業は、インフレの急速な進行とともに予算が目減りし、大幅な見直しが検討されるようになる。中でも、千駄ヶ谷駅と原宿駅間の新線敷設計画が白紙となり、山手線の電車線と貨物線とを分けての複線化(客貨分離で実質上の複々線化)工事は、計画が大幅に遅れることとなった。そのほか、山手線に限らず東海道線などの主要鉄道の工事計画も、次々と見なおされていくことになる。
1922年(大正11)7月12日刊の東京朝日新聞には、「鉄道改良計画の更改」と題する記事が掲載され、改良工事の全面的な見直しが行われることを報じている。
▼
現行の鉄道建設改良七年計画に属する総費額は本年度以降十一億四千三百七十八万百十一円であるが既報の如く此計画は大正九年度に樹てたもので其後経済事情の変遷のため建設費は戦前に比し六割改良費は同じ七割の物価騰貴に基づく追加額を計上せねば建設改良事業の遂行が絶対に困難に陥つてゐるのみならず鉄道対社会事情の急激なる変化のために既定計画の事業にして其の完成を急がねばならぬものを生じた 一方に於て比較的急を要しない事業も出来たので明年度の予算編成に際しては此の二つの意味から既定建設改良七年計画を更改せねばならぬ事を認め爾来着々調査中であつたが改良計画に関する事業予算は一通り修正を見るに至つた模様である
▲
文中の「戦前」は、上掲の記事と同様に1918年(大正7)に終結した第一次世界大戦のことで、戦後の急激なインフレはさまざまな社会政策に影響を与えている。
こうして、改良工事計画の予定が次々と狂っていくわけだが、その見通しの甘さと都市部における交通環境の急変を指摘しつつ、後手後手にまわる鉄道省の対応を批判する記事が、つづいて同年7月15日刊の東京朝日新聞に「誤れる鉄道政策」として掲載されている。
1922年(大正11)7月の時点で、山手線の車両は1~3両編成で運行されていた。たとえば大崎駅の利用者は、1916年(大正5)では年間約397万人だったのに対し、4年後の1920年(大正9)には年間約1,237万人と約3.1倍に達している。山手線西部の利用者増、すなわち郊外住民の急増は、さまざまな面で「改良計画」の破綻や見直しを生じることになる。
◆写真上:1919年(大正8)3月20日刊の東京朝日新聞に掲載された、西巣鴨第二尋常小学校(現・池袋小学校)付近に建設中の新興住宅街。
◆写真中上:上は、目白停車場が設置される直前とみられる目白橋周辺の平面図。中は、大正初期の目白停車場(おそらく鉄道院による2代目・地上駅)を描いた記憶画。下は、目白橋からかなり南へ下ったあたりの目白停車場(初代/二代・地上駅)跡。
◆写真中下:上は、1907年(明治40)ごろに現在の南口あたりから撮影された新宿停車場構内。中は、1914年(大正3)ごろに旧・青梅街道側から撮影された新宿停車場構内。下は、1911年(明治44)ごろに撮影された新宿停車場駅舎。
◆写真下:上は、1919年(大正8)3月13日刊の東京朝日新聞記事。中は、1920年(大正9)8月1日刊の同新聞記事。下は、1922年(大正11)7月12日の同新聞記事。