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耳野卯三郎アトリエを往復する金山平三。 [気になる下落合]

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 以前、宮本恒平Click!が敗戦間近な1945年(昭和20)1月に板キャンバスへ描いた、『画兄のアトリエ』Click!という作品をご紹介したことがあった。降雪のあと、中野区上高田1丁目421番地に建っていた耳野卯三郎アトリエを写生したものだ。
 耳野卯三郎Click!は、1916年(大正5)3月に東京美術学校を卒業しており、宮本恒平Click!は1920年(大正9)3月の卒業なので、美校では4年先輩の「画兄」ということになる。ふたりはふだんから親しく交流していたようで、宮本恒平は下落合(現・中落合/中井含む)の西外れまで歩き、バッケ坂Click!を下りて妙正寺川をわたるとバッケが原Click!を横断しては、丘の中腹にある耳野アトリエを頻繁に訪れていたようだ。だが、敗戦間近な時期にもうひとり、耳野卯三郎アトリエへ何度か往復していた画家がいる。アビラ村(芸術村)Click!に住んでいた、下落合4丁目2080番地の金山平三Click!だ。
 耳野卯三郎は夫人とともに、金山平三夫妻Click!とは親しかった。戦前、金山アトリエClick!で開催されていた社交ダンス教室Click!の常連であり、南薫造Click!夫妻や大久保作次郎Click!夫妻などにまじって、少し前には上落合2丁目545番地の材木屋の2階に住んでいた、大田洋子Click!の連れあいである黒瀬忠夫Click!から、社交ダンスの手ほどきを受けている。だから、耳野夫妻はともに金山平三とはお馴染みであり、洋画界の“巨匠”が突然訪ねてきても不思議ではないのだが、金山が上高田のアトリエを訪問したのは散歩や写生のついでなどではなかった。耳野卯三郎に、折り入って頼みがあったのだ。
 戦争も末期になると、東京のあちこちでB29の少数編隊による散発的な空襲Click!がつづくようになっていた。そして、1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲Click!では、(城)下町Click!の東半分にあたるほぼすべての街々が焼き払われている。それを見ていた東京西部の住民たちは、「明日はわが身だ」と急いで生まれ故郷や姻戚を頼って地方へ疎開したり、あわてて自宅の庭先に掘った防空壕Click!へ、だいじな家財を運びこんだりしている。そして、同年4月13日夜半の第1次山手空襲Click!を迎えることになる。
 午後11時ごろからはじまった、山手地区(山手線の東側一帯)を中心とするこの空襲では軍事施設や鉄道駅、河川沿いの工場地帯、幹線道路沿いの繁華街などを中心にねらった爆撃であり、のちの同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!のように、焼け残った住宅街を無差別に絨毯爆撃していく空襲とはやや異なっていた。だが、同空襲による延焼で、多くの住宅街が延焼に巻きこまれて焦土と化している。
 金山平三は、おそらく東京大空襲を目のあたりにして、アトリエに保存している自身の気に入った作品群を心配したのだろう、作品の疎開を考えはじめたにちがいない。金山平三は、自作をなかなか売ろうとはせず(だから貧乏だったのだが)、自分でよく描けたと思う作品はアトリエにストックしておくのが常だった。金山夫妻が、山形県の最上川が流れる河畔の横山村(現・大石田町)への疎開を決心するのは、同年5月(第2次山手空襲の直前)なので、それまでに作品類を疎開させる必要があったのだ。
 そこでひらめいたのが、周囲にあまり住宅が建てこんでおらず、町内の避難地にも指定されていた広大なバッケが原が目前に広がる、上高田の耳野卯三郎アトリエだった。金山アトリエでは、4月13日夜半の空襲で目白文化村Click!の方角に火の手が迫るのも見えていただろうし、金山夫妻も真夜中に中井御霊社Click!か、そのバッケ(崖地)Click!下まで退避していたかもしれない。自身のアトリエも、いつ空襲で炎上するかわからない状況の中で、耳野卯三郎のアトリエならB29から焼夷弾や爆弾を落とされることはない、もし落とされたとしても周囲の環境から延焼する可能性が低いと判断したのだろう。また、耳野アトリエとは別に、山梨の知人宅にも作品の何点かを疎開させている。
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耳野卯三郎「庭にて」1934帝展特選.jpg
第15回帝展会場193411.jpg
耳野卯三郎「鳥籠と野菊」1957.jpg
 だが、結果はすべて裏目に出てしまった。下落合の金山平三アトリエだけが無傷で空襲をくぐり抜け、山梨の疎開先と耳野卯三郎アトリエが空襲で全焼してしまったのだ。そのときの様子を、飛松實のインタビューで金山自身が悔しそうに語っている。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。
  
 「何くそと思って描き溜めた自信作の大部分を、戦争中耳野君のアトリエや山梨の方へ疎開させたところ、それが皆空襲で焼けてしまった。焼けなかった私のアトリエに残っていたこの作品だけで『これが金山か』と言われるかと思うと情けなくなる。こんなことを言うと負け惜しみととられるから誰にも言ったことはないけれど……。」
  
 このとき、戦前に描いた金山平三の重要な作品が、疎開先ですべて灰になってしまった。なお、空襲で耳野卯三郎アトリエが焼けたのを、「4月」としている年譜をかなり見かけるが、耳野本人が記憶しているように5月の第2次山手空襲Click!のほうだろう。また、4月であれば金山平三はまだ下落合にいたので、耳野アトリエが焼失したのなら戦後ではなく、もっと早い時期に自作が灰になったのを知っていたはずだ。したがって、山形の疎開先からもどったときに、自作の焼失で愕然とすることはありえないだろう。
 金山平三は、B29のアビラ村(芸術村)Click!への来襲も予想し、直線距離で780mほど離れた耳野アトリエへ、せっせと出来のいい自作を選んで運んでいる。おそらく、山梨の知人宅への作品疎開が先で、空襲の影響から交通や郵便事情が急激に悪化したため、耳野アトリエへの作品疎開があとからの出来事のように思われる。金山平三が、作品の保管を依頼しに耳野アトリエを訪れたのは、1945年(昭和20)の4月ではなかったかと想定している。4月13日夜半の第1次山手空襲のあと、アトリエに残っている作品群に強い危機感をおぼえ、山梨への作品疎開が困難になったのちに、上高田まで出かけているのではないだろうか。
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 では、今度は飛松實による耳野卯三郎への手紙によるインタビューの様子を、少し長めになるが同書『金山平三』よりつづけて引用してみよう。
  
 「その時分は今のように家もたくさんありませんし、私の屋敷内にも大きな木が繫っておりました。空襲など思いもよらんという情況でした。『君のアトリエはどうも大丈夫らしいから預ってくれないか』と持って来られたのが十三点、数日たって更に三点を加えられて、『これ皆僕の好きな絵なんだ』と言われました。皆磯谷の良い額縁にはめられていました。/大体十二号から八号ぐらいで、ダリヤの絵も、菊もありました。佐原あたりの水門を描かれた赤茶けた冬景色など好きでたまらぬような感じでした。思い出しても胸が痛みます。東京最後の空襲で、たしか五月二十日だったと思います。旅行中だった私は、帰ってみると、黒こげの柱だけが立っていました。その時先生が来られて、私の肩をだいて泣かれました。そして淋しかろうと、大石田の『雪どけ道』四号を額縁に入れて持って来て下さいました。其後更に十二号のダリヤの絵も下さって、すべてを烏有にした私を慰めて下さいました。」
  
 「磯谷」とは、明治期に創業の額縁専門店で、いまも営業をつづけている老舗だ。戦後30年近くたってからの、しかも晩年の耳野卯三郎へのインタビューなので、記憶に若干の齟齬が見られるけれど、耳野自身もアトリエが空襲で焼けるとは思ってもみなかった様子が伝わる。「五月二十日」は5月25日夜半の第2次山手空襲のことだが、金山平三が「私の肩をだいて泣かれ」たのは、疎開先の大石田作品を持参していることからも、戦後1946年(昭和22)以降の出来事だろう。
 このころには、バラックの簡易建築だったのかもしれないが、耳野アトリエが再建されている様子が、1947年(昭和22)撮影の空中写真に見えている。戦後、曾宮一念Click!は東京にくるたびに耳野アトリエを訪問しているが、戦前からの耳野アトリエは焼失しており、戦後に再建されたばかりのアトリエを訪ねていたことがわかる。
 この空襲では、耳野卯三郎の作品類も大量に失われたとみられるが、なによりも金山平三の重要な作品を焼いてしまったことで、自責の念にとらわれたのではないだろうか。それを察してか、自作を耳野に贈っているのは、金山平三の繊細な心づかいだろう。
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 バッケが原に向いた丘上に建つ耳野卯三郎アトリエが、なぜ空襲で焼けてしまったのか当時の地図や空中写真を参照すれば、およそ想像することができる。耳野アトリエのすぐ北側(当時は四村橋Click!をはさみ西落合2~3丁目)は、妙正寺川の両岸にオリエンタル写真工業Click!の大規模な工場群や、同社が経営する学校校舎などが林立しており、米軍が上空から見れば一大工業地域に見えただろう。空襲では、それらの建屋をねらって焼夷弾や250キロ爆弾が集中的に投下され、オリエンタル写真工業の第1工場Click!オリエンタル写真学校Click!の校舎が全焼している。おそらく、耳野卯三郎のアトリエはその巻きぞえを食ったとみられる。同工場群をねらったM69集束焼夷弾が、たまたま風にでも流されたのか南の丘上で炸裂し(当時の通称では「はぐれ焼夷弾」と呼ばれていた)、そのうちの1発が不運にもアトリエの屋根を直撃し、突きぬけて屋内へ落下したのかもしれない。

◆写真上:2012年(平成24)11月に撮影した、解体寸前の金山平三アトリエ。
◆写真中上は、1945年(昭和20)1月制作の宮本恒平『画兄のアトリエ』に描かれた耳野卯三郎アトリエ。中上は、1934年(昭和9)制作の第15回帝展特選となった耳野卯三郎『庭にて』。中下は、第15回帝展の会場写真で中央に耳野の『庭にて』が見えている。は、戦後の1957年(昭和32)に制作された耳野卯三郎『鳥籠と撫子』。
◆写真中下は、1917年(大正6)制作の金山平三『氷すべり』。中上は、1923年(大正12)制作の同『室内』。中下は、1928年(昭和3)制作の同『菊』。は、1941年(昭和16)ごろのちに疎開することになる横山村近くで制作された同『最上川』。
◆写真下は、旅先の金山平三。(AI着色/提供:中島香菜様) 中上は、庭先の耳野卯三郎。中下は、金山平三の作品疎開ルート。は、戦後に再建された耳野卯三郎アトリエ。
おまけ
 1935年(昭和10)ごろの空中写真にみる、耳野卯三郎アトリエと西落合側のオリエンタル写真工業の工場群。下は、上高田1丁目421番地の丘上に通うバッケ(崖地)階段。正面に見える茶色のマンションがオリエンタル写真学校の跡で、その向こう側が第1工場跡。
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