SSブログ

「落合風景」を含む1925年の椿貞雄作品。 [気になる下落合]

椿貞雄アトリエ跡.jpg
 1924年(大正13)から、下落合2118番地に住んでいた椿貞雄Click!は、翌1925年(大正14)の春陽会展に「落合風景」とみられる作品をいくつか出展している。その椿貞雄アトリエを訪問したか、あるいは近所で暮らしていたとみられる同郷の高瀬捷三Click!については、彼の『下落合風景』(1924年ごろ)とともにご紹介している。
 1925年(大正14)3月に、上野公園竹之台陳列館で開催された春陽会第3回展に、椿貞雄は14点の作品を出展している。それらの作品には、下落合の風景を描いたとみられるいくつかのタイトルが読みとれるようだ。春陽会の出品作とは、『晴れたる秋』や『果実図』、『冬日小彩(1)』、『冬日小彩(2)』、『窓外斎日』、『晴れたる冬の道』、『置賜駅前風景』、『美中橋(1)』、『美中橋(2)』、『少女座像』、『江戸川上流の景』、『雪帽子冠れる少女』、『山里』、そして『窓外の道』の14点だ。
 この中で、『置賜駅前風景』『山里』の2作は置賜駅(奥羽本線)のある山形県米沢に帰省したときに描いた画面のようで、『果実図』『少女座像』『雪帽子冠れる少女』の3点は明らかにアトリエ内の仕事だろう。そして、残り9タイトルの風景画が気になるのだ。椿貞雄は、下落合2118番地に建つ住宅を借りてその2階をアトリエにしていたので、『窓外斎日』と『窓外の道』はアトリエの窓から描いた風景画の可能性が高い。また、『晴れたる秋』はアビラ村(芸術村)Click!近辺の風景を写したもので、『晴れたる冬の道』は佐伯祐三Click!と同様に、丘上に通う『アビラ村の道』Click!を描いたものではないだろうか。『冬日小彩(1)』『冬日小彩(2)』の2作も、アトリエ近辺の雰囲気がするタイトルだ。
 明らかに落合地域を描いたとみられる作品としては、『美中橋(1)』と『美中橋(2)』、そして『江戸川上流の景』が挙げられるだろう。「美中橋」は、椿アトリエから「アビラ村の道」を西へ60mほど歩き、岸田劉生が描いた『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』Click!古屋芳雄邸Click!が建つ五ノ坂Click!を一気に下ると、椿アトリエから350mほどで上落合側へわたることができた、妙正寺川に架かる竣工まもない初期型「美仲橋(みなかばし)」Click!ではなかろうか。この『美中橋(1)』『美中橋(2)』のいずれの画面かは不明だが、1925年(大正14)に刊行された「みづゑ」4月春陽会号には画像が収録されているようだ。だが、同号は稀少のせいか画面をいまだ確認できていない。
 『江戸川上流の景』は現在の神田川のことで、大洗堰Click!から千代田城Click!の外濠へと注ぐ舩河原橋までの中流域を江戸川Click!、その上流域を旧・神田上水Click!と呼称していたもので、旧・神田上水と江戸川の呼び名が統合され、現代の「神田川」になったのは1966年(昭和41)のことだ。したがって、「江戸川上流」とは落合地域を流れる旧・神田上水をさすとみられ、あるいは美仲橋を好んでモチーフにしている点を考慮すれば、旧・神田上水の支流(補助水源)である妙正寺川の風景も含まれるかもしれない。
 これらの風景を描いたとみられる作品は、時期的にみて岸田劉生Click!の影響を強く受けていた、いわゆる草土社Click!風の画面だった可能性がきわめて高そうだ。換言すれば、非常にリアリスティック(写実的)で繊細な表現であったことは想像に難くない。したがって、「落合風景」を描いた他の画家たちによるどの画面にも増して、当時の風景が精細かつ正確に記録されているのではないかと思われるのだ。
 大正末ごろの椿貞雄について、1973年(昭和48)に東出版から刊行された『椿貞雄画集』収録の、東珠樹『椿貞雄の画業』から少しが引用してみよう。
  
 そのようにして描かれた椿の作品も、劉生の作品と並べて見ると両者の性格の違いや個性的な相違は歴然としている。東京に生まれ東京に育った劉生の作品が都会的な色調を持ち、米沢生まれの椿の作品が北方的な暗さを持っているということも、宿命的な一例であるが、元来リアリズムという古典的な絵画テクニックに一番個性の相違がはっきりと見られるものである。それはルネサンス以降の絵画でも、同じような描き方をしていながらルーベンスやヴェラスケスやレンブラントの絵は素人にも見分けがつくのに、かえって抽象絵画などの新しい絵画の中に個性の違いが見分けられないものがあることを考えて見ればよくわかる。 (中略) 椿は劉生から多くのものを学んだが、なかでも最も重要なのは、西欧から伝来した油絵具という画材を使って、“日本人の絵”(本文傍点)を描こうとしたことである。
  
椿貞雄「自画像」1915.jpg 岸田劉生「椿貞雄君」1915.jpg
椿貞雄アトリエ1926.jpg
椿貞雄アトリエ1936.jpg
 関東大震災Click!の直後から、岸田劉生Click!は藤沢町の鵠沼海岸Click!から避難して名古屋経由で京都に落ち着いているが、頻繁に東京へと帰郷していた。1924年(大正13)夏にも東京へもどり、下落合のすぐ北側に住んでいた河野通勢Click!(長崎村荒井1801番地)を訪ねている。同じ夏、椿貞雄は米沢で個展を開いているが、劉生が東京にきているのを知ってふたりはどこかで会ってやしないだろうか。長女が生まれたばかりの椿貞雄は、東京で暮らすために新たな住まい探しをしている最中だったとみられる。
 大震災前後の椿貞雄の動向をみると、1923年(大正12)1月に鵠沼の家から東京へ転居し、高田馬場駅近くにアトリエをかまえている。5月に、上野公園で開かれた春陽会第1回展に出品したあと、子どもの夏休みを利用して一家で故郷の米沢に帰省している。9月早々に東京へもどる予定だったのだが、関東大震災で東京の大半が壊滅するともどれなくなり、そのまま米沢に滞在しつづけることになる。同年12月には、大阪毎日新聞社が主催する日本美術展覧会へ出品し、銀杯と賞金千円を受賞している。
 翌1924年(大正13)も、椿貞雄は山形県米沢に滞在しつづけるが、同年3月に日本橋三越Click!で開かれた春陽会第2回展に出品している。このとき、春陽会が客員制を廃止したため、旧・草土社系の岸田劉生Click!木村荘八Click!中川一政Click!、そして椿貞雄の4人は会員になっている。そして、米沢で椿貞雄の個展が開かれた直後に、下落合2118番地の2階家に転居してくるという経緯だ。
 そして、先述した1925年(大正14)3月に、上野公園で開催された春陽会第3回展へ14点もの絵を出品しているが、岸田劉生は同年をもって春陽会を退会している。おそらくこの間も、椿は劉生と密にやり取りをしており、ひょっとすると劉生は下落合を訪れているかもしれない。劉生が鎌倉へ転居する予定を聞いたのか、椿貞雄は同年中に鎌倉町の扇ヶ谷(おうぎがやつ)へ先行して転居している。翌1926年(大正15)3月になると、岸田劉生は京都生活Click!に見きりをつけて、鎌倉町の長谷にアトリエを移している。
 さて、下落合2118番地にあった椿アトリエとは、どのような雰囲気だったのだろうか。近所に住む人たちは、おかしなことに画家が家を借りたのではなく、剣術家が転居してきたのだと思いこんでいたようだ。おもに画家たちが客筋だった、おでん屋を開業していたとされる“むさしや九郎”という人物が、1929年(昭和4)に刊行された「美術新論」1月号で、『謹賀新年妄筆多罪』というエッセイを残しているので、少し長いが引用してみよう。
美仲橋.JPG
椿貞雄「冬枯の道」1916.jpg
椿貞雄「入江(伊豆風景)」1928.jpg
  
 掛声の方では、椿貞雄先生の方が、オーソリチイであるかも知れない。先生嘗て都の西北は下落合に閑居されし時、その二階をアトリエにしてゐられたが、朝に夕に、その二階から、エイツ……糞ツ……エイツ……ウン……と掛声が漏れて来るので、近所では剣術の先生が越して来て毎日独り稽古でもしてゐるのかと思ふたさうだが、画家と知るに及んで、一驚し、それでは多分、剣士にして画家を兼ねたる宮本武蔵の子孫だらうと、且つうなづき且つ尊敬したさうだ。未だおでん屋を始めなかつた昔、一日、先生を訪れて拝眉を得た事があつたが、先生の余に問うて曰く、『貴公、囲碁を善くするや?』(中略)そこで、買ひ立ての碁盤が持ち出され、先生白を取り、余黒を取り、パチリ、コツン、と下ろし始めたが、軈て余の先生に抗議して曰く、『暫く待たれよ。先生一石を降ろす度毎に、或はエイツと叫び、或は糞ツと吠え、或はウンと唸り、たゞ一石と雖も掛声なしに打たざると云う事なく、而も其の変声甚だ大にして余の耳をツン裂き、余の霊魂をして宙外に飛ばしむ。為めに余の石動もすれば乱れんとし、充分に実力を発揮するを得ず。乞ふ、以後、掛声を止めよ。』先生、色を成して答へて曰く、『貴公、咄、何を云うか。人生行路凡て力の表現也。而して余の掛声は力の溢ふれて外に発する也。(中略)いざ、勝負を続けむ、其の石、切るぞ。エイツ…糞ツ…』そこで先生の掛声に圧倒されて、碁はさんざんに敗北して帰つた事があつたが、亦、先生は角力をも善くし、人に道で会うと、いきなり相手の肩先に手をかける癖がある。
  
 椿貞雄は、単に烏鷺を囲みながら奇声を発していただけなのだが、「若し余に向つて掛声なしに絵を描けと云う者あらば、そは余に死ねと勧むるに同じ」ともいっているので、制作中にここぞという一筆には気合を入れて大声で叫んだのだろう。近所迷惑な話だが、それが当時の下落合住民には剣術の稽古に聞こえていたらしい。
 この“むさしや九郎”という人物は、当初、美術評論家あるいは作家のペンネームだとばかり思っていたのだが、ほんとうに縄暖簾を架ける“おでん屋”だったようで、どのあたりの地域で店を開業していたのかが気になっている。
 「美術新論」を年代順にたどっていくと、1929年(昭和4)ごろから1933年(昭和8)ごろまで同誌に「やわらかい」エッセイを寄せており、最初は画家たちとの頻繁な交流から、上野あたりの路地裏で開業している店かと思ったのだが、落合地域とその周辺域に住んでいた画家たちがやたら頻繁に登場してくるのだ。しかも、細かな生活の様子までが記録されていたりする。かなり美術通のようで、帝展や二科、1930年協会Click!(のち独立美術協会Click!)、春陽会など親しく交流していた画家たちは多岐にわたっている。
鵠沼時代劉生・椿・横堀1921頃.jpg
椿貞雄油絵画会規定192503不二.jpg
椿貞雄・長女朝子1925.jpg
 たとえば、甲斐仁代Click!中出三也Click!が自転車を練習し、すぐに耳野卯三郎Click!も加わったとか、川口軌外Click!里見勝蔵Click!牧野虎雄Click!片多徳郎Click!深沢省三Click!熊岡美彦Click!三岸好太郎Click!なども登場している。むさしや九郎の店は落合地域の近く、目白駅や高田馬場駅、または東中野駅からほど近いあたりに開店していた可能性もありそうだが、おでん屋が見た聞いた画家たちのエピソード、それはまた、別の物語……。

◆写真上:「アビラ村の道」に面した、下落合2118番地の椿貞雄アトリエ跡(左手角)。
◆写真中上上左は、1915年(大正4)制作の椿貞雄『自画像』。上右は、同年制作の岸田劉生『椿貞雄君』。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる椿貞雄アトリエ跡。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同アトリエ跡。
◆写真中下は、下落合と上落合の境を流れる妙正寺川に大正期から架かる美仲橋の現状。は、1916年(大正5)制作の代々木界隈を描いた椿貞雄『冬枯の道』。は、1928年(昭和3)に制作された椿貞雄『入江(伊豆風景)』。
◆写真下は、1921年(大正10)ごろに鎌倉か鵠沼で撮影された相撲好きの画家3人。左から右へ岸田劉生、椿貞雄、横堀角次郎。は、1925年(大正14)3月に美術誌へ発表された「椿貞雄油絵画会規定」。住所が「下落合中井二,一一八」と書かれているが、コロコロ位置が変わる「中井」Click!の字名は1923年(大正12)ごろまでで、1925年(大正14)現在は下落合(字)小上2118番地が正しい(元にもどった)表記だったはずだ。は、1925年(大正14)に下落合2118番地のアトリエ庭で撮影されたとみられる椿貞雄と朝子。竹垣の向こうに見える住宅との間の道が、のちの吉屋信子邸Click!へとつづくいまだ細い道筋と思われる。

読んだ!(17)  コメント(6) 
共通テーマ:地域