下落合の北隣り戸田康保邸を拝見する。 [気になる下落合]
サクラソウ(桜草)に、「目白台」という品種があるのを初めて知った。明治中期に邸を建設し、目白通りをはさんだ下落合の北隣り、高田町雑司ヶ谷旭出41番地(1937年より目白町4丁目41番地)を中心とする広大な敷地に住んでいた、戸田康保(やすよし)Click!が品種改良を重ねたものだ。川村女学院Click!に建つ第一校舎の屋上から眺めた、関東大震災Click!の際には近隣の住民が大勢避難したという戸田邸の森を初めて目にできたので、改めて戸田康保について記事にしてみたい。
戸田康保によるサクラソウの品種改良は昭和初期のことだった。おそらく同邸の大温室Click!で、庭師とともに開発へ取り組んだものだろう。開発した草花に当該地名をつけるのは、たとえば大江戸(おえど)のロンドン王立植物園を上まわる当時は世界最大のフラワーセンターで、街々に花卉を供給する染井地区Click!で開発された江戸桜「ソメイヨシノ」のように不自然ではない。でも、サクラソウの新種に邸から東へ1.5kmも離れた地名「目白台」をつけたのはなぜだろうか? 地名をとるなら「高田」か「旭出」、近い駅名をつけるなら「目白」でいいと思うのだが、なぜか「目白台」と名づけている。
品種改良したサクラソウ「目白台」について、1957年(昭和32)に誠文堂新光社から出版された、石井勇義/穂坂八郎・編『原色園芸植物図譜』第4巻から引用してみよう。
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めじろだい(目白台)/昭和2~3年頃に、東京目白台の戸田康保氏が実生で作出し、地名を品種名とした。草姿は見るからに剛壮で生育は旺盛、葉はやや短大で多肉硬質。葉柄はごく太く短く、全草に粗毛を生ずる。花茎、花梗共に短太剛直である。花は表乳白色、裏は薄藤色地に転々と白斑を現わす。広幅、厚平辨、横向咲の大輪で、6辨花が多い。目は盛り上り、赤紫を帯びる。本種はさくらそうとプリムラ・オプコニカとを交配して、最初に成功した唯一の和洋交配種と見られている。
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「東京目白台」は「東京高田町雑司ヶ谷旭出」が正確だが、既存の和種と洋種の「トキワザクラ(常盤桜)」を交配したのが、当時としては画期的だったようだ。
ちょっと余談だけれど、1935年(昭和10)に結成された花卉同好会(戦後は園芸文化協会)には会長に島津忠重が就いているが、副会長には戸田康保と相馬孟胤Click!が就任している。戸田康保はサクラソウの品種改良で高名だったせいだが、下落合の相馬孟胤Click!は「丸弁大輪アマリリス」各種の品種改良で有名だったからだ。相馬孟胤の弟である相馬正胤が、西落合511番地に相馬果実缶詰研究所を設立し、そこで開発されたジャムになぜ「アマリリスジャム」Click!と名づけたのかが了解できた。アマリリスの育成は、相馬家がことのほか注力した品種改良の花卉の代表だったのだ。
戸田康保邸(冒頭写真)は、1932年(昭和7)ごろまで建っていたようだが、徳川義親Click!が戸田家の敷地9,152坪を購入したのが1930年(昭和5)8月、雑司ヶ谷旭出41番地で徳川義親邸Click!を建設するための地鎮祭が行なわれたのは、翌1931年(昭和6)も押しつまった暮れなので、それまで転居作業を含め戸田康保は同邸にいたとみられる。
また、徳川義親Click!が桜田町から転居してくるのは1932年(昭和7)11月28日なので、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)の曖昧な記述にも合点がいく。同誌は、戸田家が転居作業の最中に編集されていたのだ。なお、戸田康保邸には同じ華族(子爵)で浅野家へ養子にだした実子・浅野忠允(ただのぶ)が同居していたため、浅野家も含めた転居先の決定や引っ越しにも時間がかかったのではないか。
『高田町史』には、戸田家は高田町雑司ヶ谷旭出から下落合へ転居することになっているが、戸田康保も当初はそのつもりだったのだろう。ところが、おそらく娘のひとりが原因不明の病気で熱が下がらないため、急遽、当時は大森海岸近くの別荘地だった大井伊藤町5921番地への、転地療養に変更している経緯は以前の記事Click!でもご紹介している。
さて、冒頭写真の戸田康保邸について建築資料を引用してみる。1954年(昭和29)刊行の「新住宅」10月号(新住宅社)に収録された須藤まがね『新日本住宅のあゆみ(2)』から。
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この住宅(戸田邸)も明治初期の暗中模索手法と、その後の安易模倣手法が一目で見較べられるので面白い建物だと思う。それぞれの建築の時や設計者が分らないのは残念である。/上げ下げ窓を持つ漆喰塗の西洋館に、千鳥破風や、唐破風を持ち込んだとこは愉快だが、忽ち軒先の蛇腹で苦しんでゐる。明治初年に二代目清水嘉助や、林忠恕が外人技師から学びとつた構造技術の上に新らしい日本建築を打ちたてようとした気ハクは一寸うかがえる。/右の方の後期の増築と思はれる部分は、もう日本の伝統には何の未練も持つて居ない。ただ2階の張出し部分の櫛形の欄間がベランダーの唐破風とよく釣合ひを保つてゐる。(カッコ内引用者註)
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確かに、どこか芝居小屋(歌舞伎座Click!)か昔日の銭湯を思わせる、破風の屋根を載っけたファサードだ。目白通りの正門から入り、西へカーブする道を240mほど進むと車廻しにいたり、画面の左手に見える北面した玄関にたどり着く大邸宅だ。
明治中期の竣工直後とみられる写真は、車廻し西側の芝庭から東南方向を向いて撮影している。戸田邸の母家が建っていたのは、現在の位置でいうと徳川ビレッジのほとんどの敷地ということになりそうだ。1932年(昭和7)ごろに解体された戸田邸の部材は、その一部が建設会社に売却されたものもあったようで、下落合に建っていた秋山邸Click!は、戸田邸の部材を再利用して昭和初期に建設されたものだとうかがっている。
戸田康保が、高田町雑司ヶ谷旭出41番地に邸をたてて転居してくるのは明治中期だが、それ以前の住居を調べていて驚いた。日本橋の薬研堀Click!があった南側に接する、日本橋矢倉町(やのくらちょう=現・東日本橋1丁目)だったのだ。わたしの実家があった日本橋米沢町Click!(現・東日本橋2丁目)とは、薬研堀Click!(埋め立て後の大川端は千代田小学校Click!→現・日本橋中学校Click!)をはさみ、わずか200m弱しか離れていなかったことになる。親父は、戸田邸についてはなにも話してはくれなかったが、明治中期に目白停車場Click!近くに転居しているので、親のそのまた親世代でもすでに記憶が薄れていたのだろう。
日本橋矢倉町の戸田邸について、1905年(明治38)に出版協会から刊行された出版協会編輯局・編『二十世紀之東京・第弐編/日本橋区』より引用してみよう。
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矢の倉は浜町河岸に面した、薬研堀埋立地に踏み込んで四角形の端を噛切つた様な町である、もと矢の倉といふ、米倉の名を其儘に町名に呼んで、松平の下屋敷を合併して出来たもので、大川端最寄は、未だに旧屋敷其儘になつて居るが、薬研堀に面したところは、商店相並んだ、町通りをなして居る。大川端から這入る広場は北に戸田康保氏の邸宅を繞る土塀で、これは昔の屋敷の塀其儘に存して居る。
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同書は1905年(明治38)の出版だが、この文章は薬研堀の埋め立てにからめて明治前期か、または記憶をもとに書かれたらしいことがわかる。戸田康保とわたしは、いまの地名でいえば東日本橋の“同郷人”ということになるが、片や1万坪に近い敷地に大邸宅を建てて転居してきているのに、わたしはといえばサクラソウ「目白台」が開発された戸田邸の温室にも満たない、ネコ小屋みたいな家に住んでいるのはどうしたもんだろうか。
先述の関東大震災の際、広い戸田邸の敷地内の森へ避難した周辺住民で、同級生のひとりを訪ねる一高学生の証言が残されている。1924年(大正13)に六合館から出版された第一高等学校国漢文科・編『大震の日』から、学生の文章を少しだけ引用してみよう。
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(前略)家族皆々無事なのを賀して、それから後藤末雄君を訪ふ。君の一家は、戸田邸に避難してゐた。暗い所で君や戸田子爵らにあふ。さつき記者から聞いた事を話すと、この辺の人は何も知らないと見えて非常に驚いた。
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「記者から聞いた事」とは、東京市内で早くも流布されはじめていた、「朝鮮人が井戸に毒を投げこんだ」や「朝鮮人が六郷をわたって攻めてくる」、あるいは「無政府主義者や社会主義者が反乱を起こす」など、まったく根も葉もない流言蜚語Click!のことだ。
目白駅の周辺域や豊島区に関する刊行物などでは、徳川義親邸については数多くの資料や証言類が紹介されているが、それ以前に住んでいた戸田康保邸についての証言はきわめて少ない。下落合515番地に自邸と能舞台をしつらえていた観世喜之Click!ともかなり親しく交流し、謡曲Click!にも造詣が深い戸田康保については、それはまた、少しあとの物語……。
◆写真上:明治中期に建てられ、和洋の建築様式が合体したような戸田康保邸。
◆写真中上:上は、戸田康保が品種改良に成功したサクラソウ「目白台」。中・下は、1919年(大正8)に撮影された戸田康保邸内の大温室とその内部。
◆写真中下:上は、川村女学園の第一校舎屋上から1925年(大正14)に撮影された戸田邸遠望。中は、現・徳川黎明会の正門近くにある戸田康保邸跡を記念する小さな石碑。下は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる戸田邸。
◆写真下:上は、1933年(昭和8)作成の市街図にみる戸田邸。中は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる徳川義親邸。いまだ戸田邸の面影が、敷地内のあちこちに残っている。下左は、1941年(昭和16)に撮影された戸田康保。下右は、1905年(明治38)刊行の出版協会編輯局・編『二十世紀之東京・第弐編/日本橋区』(出版協会)の中扉。
★おまけ
戸田邸の部材を活用して建築されたと伝わる、下落合768番地の秋山邸(解体)。