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下落合を描いた画家たち・椿貞雄。 [気になる下落合]

椿貞雄「美中橋」1925春陽会展.jpg
 先ごろ、下落合2118番地にアトリエをかまえていた椿貞雄Click!が、1925年(大正14)の春陽会第3回展に「下落合風景」とみられる画面をいくつか出品していることを書いた。その中で、『美中橋』と題する作品を2点出品しており、そのうちの1点は同年の『みづゑ』4月号(春陽会号)に画像が紹介されていることに気がついていた。でも、同号は稀少のせいか画面をいまだ確認できていないとも書いた。ところが、わたしの親しい友人が「みづゑ」の同号を探しだし、わざわざ『美中橋』の画面をコピーしてお送りくださったので、改めて同作について詳しく検討してみたい。
 以前の記事で、『美中橋』は下落合(現・中落合/中井含む)の南を流れる、妙正寺川に架かっていた「美仲橋」ではないかと書いた。もっとも、大正期の美仲橋は現在の位置ではなく、蛇行を繰り返す妙正寺川のやや上流にあり、いまの美仲橋から60mほど西に架橋された簡易な木造橋だった。おそらく、画面が描かれた1925年(大正14)の当時、美仲橋は架けられて数年ほどだったろう。椿貞雄は、地元の人から橋名を「みなかばし」と聞いてはいたが、漢字表記はしっかり認識していなかったと思われる。
 「みづゑ」掲載の画面を見たとたん、大正中期の落合風景だと直感できる作品だった。描かれた橋は、あまり手間をかけず間にあわせに架けられたらしい木製橋であり、橋下を流れているのは妙正寺川だろう。大正末には、蛇行する旧・神田上水Click!および妙正寺川Click!の整流化工事が、数年後(実際は昭和期)に実施される計画が広く知られていたとみられ、半恒久的な鉄筋コンクリート製の架橋工事は行われていない。
 椿貞雄は、以前にもご紹介したように春陽会展へ『美中橋(1)』と『美中橋(2)』の2点を出品しているが、「みづゑ」に掲載された画面は価格が高いほう、すなわちキャンバスサイズが大きい『美中橋(2)』のほうではないかとみられる。ちなみに、『美中橋(2)』は250円だが『美中橋(1)』は120円と半額以下なので、後者はサイズも小さめな画面なのだろう。同展への椿出品でもっとも高額なのは、同じく下落合を描いたと思われる『江戸川上流の景』と、アビラ村(芸術村)Click!の道を描いたとみられる『晴れたる冬の道』の2点で、それぞれ500円の値がついている。
 『美中橋』の画面は、後方左手から光線が当たっており、そちらが南側か南に近い方角と考えたほうが自然だろう。当初は、西陽が射している夕景かとも考えたが、妙正寺川の流筋やモチーフの陰影からすると不自然だ。仔細に観察してみると、手前の河原に生えた草叢が枯れて薄茶か黄色をしているらしいこと、遠景右隅に描かれたケヤキと思われる大木が落葉していることなどを踏まえると、真冬に描かれた風景だとみられる。冬の射光を前提とすれば、この画面は午前中に描かれたものだと想定できる。
 画面の右手、なだらかな丘上に見えている大屋根は伽藍建築であり、明らかに大きめな寺院が建っているとみられる。橋下の川筋は画面の右手、すなわち北方向へ蛇行しているとみられ、右手から左手へとつづくなだらかな丘下の谷あいにも、小流れか灌漑用水路などがありそうな気配だ。その丘下の位置、画面の左手にはなんらかの施設と思われる建物群や数本の煙突、さらに農家か小屋のような建物が集合して見てとれる。その丘麓に生える樹木も、すべて葉を落としているのが判然としている。これらの画面情報を踏まえ、午前中の射光を考慮すれば、この風景に見あう場所は落合地域でたった1ヶ所しか存在しない。
椿貞雄「美中橋」拡大1.jpg
椿貞雄「美中橋」拡大2.jpg
美仲橋南西1921.jpg
 椿貞雄は、当時は落合町葛ヶ谷御霊下872番地(のち下落合5丁目)あたりの妙正寺川に架けられた旧・美仲橋の東側から、南西の方角を向き上落合(左手)と上高田(右手)の丘上の寺町が拡がる風景を写生していることがわかる。
 先述したとおり、昭和期に入ると蛇行した妙正寺川の流れをできるだけ直線に修正するとともに、美仲橋は五ノ坂つづきの道筋につながるよう、描かれた旧・美仲橋の位置から60mほど下流へ新たな現・美仲橋として建設されている。1929年(昭和4)には、美仲橋はすでに五ノ坂つづきの位置(現在地)へ架け替えが終わっているので、簡易な旧・美仲橋が架けられていた期間はおそらく6~7年ではなかったろうか。
 右手の丘上に見えているのは、中野町上高田324番地に建つ江戸初期の慶長年間に創建された神足寺本堂の大屋根だ。神足寺は、1607年(慶長12)に行心和上によって江戸市街の木挽町(現・中央区銀座)に建立されたが、1910年(明治43)になると銀座地域の商業地化とともに、現在地の上高田へ移転してきている。実は、神足寺については拙サイトにも何度か登場しており、佐伯祐三Click!『堂(絵馬堂)』Click!探しですでに同寺を訪問していた。また、神足寺が建つ丘の東斜面には古墳末期とみられる横穴古墳群が集中して築造Click!されており、上落合へ鳥居龍蔵Click!を招聘した月見岡八幡社Click!守谷源次郎Click!が、考古学チームを組んで昭和初期に発掘調査を行った逸話もご紹介している。
 その左手に見えている屋根は、上高田320番地の願正寺の屋根だろう。願正寺は、1912年(大正元)に上高田へ移転しているが、それまでは牛込区原町、その前は江戸の麹町、さらに以前は神田に建立されていた。拙ブログをお読みの方なら、すでにお気づきかと思うが明治期に建っていた牛込区原町3丁目25番地の願正寺Click!境内に下宿していたのが、三宅克己Click!に入門を断られた中村彝Click!だ。上高田の寺町は戦災をまぬがれ、願正寺は昔の面影が残る古建築なので、中村彝が見ていた本堂と同じものかもしれない。
 神足寺を含む上高田の寂しい丘上の寺町は、大正期から昭和初期にかけ夜間に行われた町内パトロールの順路になっており、怖い思いをしながら金輪のついた鉄棒をジャラジャラ鳴らし、拍子木を連打しながら巡回した印象的な記録が残っている。少し横道へそれるが、1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田の昔語り』(非売品)より、夜警の様子を引用してみよう。
神足寺本堂.jpg
神足寺山門.jpg
旧美仲橋筋の道.jpg
  
 道順は、上高田本通りから原田屋さん前まで行く。次に宝仙寺の東側の墓道の間を抜け、願正寺や神足寺の間を抜け「洗い場」の雑木山を木の枝につかまりながら下る。下は耕地整理中の家一軒もない草っ原の所謂「ばっけの原」、これを抜けて氷川様前から、今度は東光寺の前から光徳院前まで行き、更に東光寺の裏手の狭い道を抜け、上高田小学校辺を一巡し、新井薬師駅辺から再び本通りら出て、詰所に戻った。
  
 地図を見れば、いまでも容易にたどれるパトロールの道順だが、大正期から昭和初期にかけては人家もないようなエリアが多く、夜警の当番を嫌がっていた様子も記録されている。ところで、上高田の地元民も最寄りの西武線・新井薬師前駅を、「新井薬師駅」Click!と呼んでいたのがわかる証言だ。この書籍に限らず、中野区教育委員会が編纂した資料類でも、駅名から「前」を抜いて「新井薬師駅」というのが地元では昔から恒常化していたようだ。ちなみに、別テーマで調べていた中野区刊行の戦後資料でも、多くが一貫して「新井薬師駅」と表記しているので(下段おまけ参照)、わたしも少し安心した。w
 さて、なぜ上高田の町内パトロールがそれほど怖かったのか、その答えは椿貞雄『美中橋』の画面左手に描かれた施設群だ。この位置に見えるのは、のちに牧成社牧場Click!が開業する谷間の突きあたりにある、落語「らくだ」Click!でも広く知られていた江戸時代からつづく落合火葬場Click!だ。寺々の墓地中道をゆく夜警パトロールは、この火葬場が近くに見える寺町の丘がいちばん怖かったのではないだろうか。
 描かれた煙突のうち、画面左のいちばん高い煙突が落合火葬場のもの、その右手のわずかに低めな煙突が大正期から営業していた銭湯「吾妻湯」(1935年ごろから「帝国湯」)、そして左端のいちばん低い煙突が最初は火の見櫓かと思ったのだが、1925年(大正14)現在は未設なので、火葬場に付属する焼却炉の煙突だろうか。
 画道具を抱えた椿貞雄は、1924年(大正13)暮れないしは1925年(大正14)年明けの冬の朝、アトリエをあとにすると上ノ道=アビラ村の道Click!(現・坂上ノ道)を西へ60mほど歩き、五ノ坂を下って中ノ道Click!(=下ノ道/現・中井通り)へと出た。当時、五ノ坂下は丁字路になっており、南側は一面の水田が拡がっていたので、道を右折(西進)すると約60mで妙正寺川へと下る田圃の畦道にさしかかる。朝日はすでに高く昇っており、霜が降りた田圃や妙正寺川の土手は、キラキラと光を反射していたのかもしれない。
 この畦道を南南東の方角へ95mほど歩くと、『美中橋』の描画ポイントである旧・美仲橋へとたどり着くことができた。椿貞雄は、旧・美仲橋をわたらず蛇行する妙正寺川の土手沿いを少し東へ歩くと、冬で水抜きされた田圃の葛ヶ谷御霊下900番地(のち下落合5丁目900番地)界隈にイーゼルを立てて、南西の方角を向きながら『美中橋』を描いている。朝早めにアトリエを出たせいか、制作時間はたっぷりあっただろう。午前中におおまかな構図を決め絵の具をざっとの薄塗りすると、あとはアトリエ内での仕事だったのかもしれない。
美仲橋南西1936.jpg
願正寺.jpg
椿貞雄「置賜駅風景」1925中央美術展.jpg
 1925年(大正14)で第3回を迎えた春陽会展だが、会員の椿貞雄は同展で14点もの作品を展示している。その中に、故郷の米沢風景を描いた『置賜駅前風景』という作品がある。どのような画面かは不明だが、同年の中央美術展には『置賜駅前風景』のバリエーション作品とみられる「前」を抜いた『置賜駅風景』を出展している。こちらの画面は、『日本美術年鑑』(1925年版/中央美術)に残されている。「みづゑ」に掲載された『美中橋(2)』とみられる画面だが、バリエーション作品の『美中橋(1)』をはじめ、「下落合風景」と思われる他の作品の画面が、どこか異なるメディアに残されてやしないだろうか。

◆写真上:1925年(大正14)発表(制作は前年?)の、椿貞雄『美中橋(美仲橋)』。
◆写真中上は、画面右に描かれた大正期の神足寺とみられる伽藍大屋根の拡大。は、画面左に描かれた建物群と煙突の拡大。は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる御霊下900番地の描画ポイントと推定画角。
◆写真中下は、大正期から何度か改修されている神足寺本堂の現状。は、なだらかな丘を麓から見上げた神足寺山門の現状。は、西武線に断ち切られているが旧・美仲橋へ向かう水田の畦道跡は同線路の南側にいまも残る。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画位置とその周辺。は、移築だとすれば中村彝も目にした源正寺の本堂。は、1925年(大正14)の中央美術展に出品された椿貞雄『置賜駅風景』で『置賜駅前風景』(春陽会展)のバリエーション作品だと思われる。
おまけ
 五ノ坂下につづく美仲橋を南側から撮影したもので、『美中橋』に描かれた旧橋から60mほど下流に架かっている。中の2葉は現在の落合斎場で、昔の暗い火葬場の面影は皆無だ。下は、たとえば中野区刊行の『中野区勢概要』(1964年版)にみる西武線の「新井薬師駅」。この伝でいけば、「高輪G/W」駅はほどなく「高輪駅」Click!と表記されそうだ。w
現美仲橋.jpg
落合斎場.jpg
落合斎場2.jpg
中野区勢概要「新井薬師駅」1964.jpg

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カメラマン徳川慶喜が写した目白崖線沿い。 [気になる下落合]

国際仏教学大学院大学馬車廻しの築山跡.JPG
 明治中期になると、下落合には華族Click!やおカネ持ちの別邸あるいは本邸がポツポツと建てられはじめるが、そんな当時の風情を彷彿とさせる写真が残されている。徳川幕府の15代将軍で、音羽の谷間をはさんだ目白崖線の東側につづく丘陵の一画、小石川区小日向第六天町54番地に住んだカメラが趣味の徳川慶喜Click!だ。
 しばらく巣鴨1丁目の屋敷にいたが、近くに山手線Click!の巣鴨駅が建設されるのを聞き、騒々しいのがキライなので小日向大六天町の南斜面、大久保長門守教義の屋敷跡に引っ越してきたのは、1901年(明治34)のことだった。目の前には、大洗堰Click!のやや上流から分岐し、後楽園Click!の水戸徳川屋敷跡へとつづく旧・神田上水Click!の小流れが残り、江戸川Click!(1966年より神田川Click!)越しに自身が将軍になってから一度も入城したことのない、千代田城Click!の外濠に位置する牛込見附Click!から市ヶ谷見附Click!四谷見附Click!方面が見わたせる眺めのいい敷地だった。
 第六天町の屋敷からの眺めについて、徳川慶喜の孫にあたる女性の証言を、1986年(昭和61)に朝日新聞社から出版された『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集―』収録の、徳川幹子「十五代さまの周辺」から引用してみよう。
  
 第六天のお屋敷はいく度もうかがったことがあり、よく存じております。父の話では、このお屋敷は慶喜さまがお建てになったものではなく、とてもお気に召されて移り住まれたものだそうです。ただ、このお屋敷のお入口は、車一台がやっと入るくらいの広さで、たしか、角の写真屋のそばから入ったところにご門があったと記憶しています。/この辺りは小日向台町――つまり高台になっていました。慶喜さまのお部屋は、お二階ではなかったけれども高台にあって、お部屋の下のお庭がずーっと茗荷谷の方に向かって下っていて、その下に江戸川(神田川)が流れており、その先の九段の台の方に靖国神社の鳥居が見えました。鳥居はお部屋からも見えました。
  
 茗荷谷と江戸川では、屋敷の北と南とで方角が逆なので、明らかに徳川幹子の勘ちがいだろう。南斜面の下は、江戸期より水道端と呼ばれていた。
 当時もいまも、小日向の南斜面は寺々が建ち並び、緑が多く家々がそれほど密集していないが、徳川慶喜が転居してきたころは、深い森の中に大きめな屋敷が点在するような趣きだった。静岡時代からカメラが趣味だった慶喜は、さっそく周辺の風景や屋敷の人々を撮影しはじめている。まず、屋敷南側の芝庭を撮影した写真①には、築山や生垣越しに、先述した外濠の北西側に位置する各城門(見附)方面が見わたせるパノラマだ。
 遠景の中央から右手にかけてこんもりと繁る森は、牛込見附(門)からつづく神楽坂の丘上あたりから早稲田方面へと連なる、当時はキリ(桐)の森に竹林が密生していた地域だろう。明治期の神楽坂は、夏目漱石Click!の随筆『硝子戸の中』でも描写されているように、追剥ぎでも出そうな鬱蒼とした森林地帯で、女性のひとり歩きも危ない薄暗い寺町でもあった。周囲には、狭山茶Click!を栽培する茶畑農家が多く、寺々の伽藍とその境内森が散在するぐらいで、神楽坂とその周辺に料亭や置屋、待合茶屋などが(城)下町Click!から移転してくるのは、1923年(大正12)の関東大震災Click!以降のことだ。
 つづいて、徳川邸の東側を撮影した写真②を見てみよう。江戸川(神田川)が大きくクラックする、大曲(おおまがり)Click!から東側に拡がる小石川町、後楽園から水道橋にかけての風景が写っている。左手の遠景にとらえられている4~5本の煙突群は、陸軍砲兵工廠(のち陸軍造兵廠+工科大学)の敷地で、煙突の間に見え隠れしている森が旧・水戸徳川邸の後楽園だ。左手に見える屋根は、新坂に沿って建つ家令住宅の1軒だろうか。屋根の向こうに、横木に碍子をたくさん載せた白木の電信柱Click!(電話線柱)が見えている。初期の電話線は、1本のケーブルに複数の回線を収容できなかったため、電話の設置が増えるたびに電柱にわたすケーブルも急増していった。
徳川慶喜邸第六天町.jpg
徳川邸1921.jpg
写真①徳川邸南.jpg
 次に、徳川邸の東側を写した写真③を見てみよう。中央の樹間にとらえられている大きな屋敷は、小日向第六天町8番地に建っていた元・会津藩の9代藩主・松平容保邸だ。歴史好きの方なら、明治以降に徳川慶喜と松平容保の家が隣り同士で暮らしているのを見たら、少なからず感慨をもよおすだろう。ただし、松平容保は1893年(明治26)にすでに死去しており、屋敷は長男の松平容大が継いでいた時代だ。余談だが、この松平容大はおもしろい人物で、学習院に入れられたが校風がまったく合わず、学校当局に徹底して反抗したため退学・追放処分となり、のちに東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業している。
 撮影時の松平容大屋敷は、徳川邸の半分弱ほどの規模だが、白木の電信柱が見えているので、すでに電話の引かれていたことがわかる。また、松平邸の周辺に住宅が建てこんでいないことから、撮影時期が明治末あたりだったことも推定できる。そろそろ松平容大の健康が思わしくなく、徳川慶喜も見舞いに出かけていたころだろうか。松平容大邸の背後に見えている、緑豊かな丘陵地帯が小日向台町(現・小日向)だ。
 これら写真から、華族の本邸や別邸が散在していた明治末から大正初期にかけての下落合風景も、薄っすらと想像できそうだ。目白崖線沿いの南斜面には、江戸期そのままに濃い樹林帯が形成されており、坂道を上りはじめると森林の隙間から、ところどころに大きな屋敷の屋根がチラチラと顔をのぞかせているような風情だった。ただし、落合地域のほうが小日向よりも開発が遅いため、建てられる華族やおカネ持ちの本邸・別邸には和館でなく、西洋館もめずらしくなくなっていく。
 徳川慶喜は、自邸と周辺ばかりでなく近所をあちこち散策しながら、風景を切りとってはカメラに収めている。慶喜が愛用していたカメラは、広い画角で風景撮影に適したパノラマカメラと、人物撮影やスナップなどに使われたとみられるプレモカメラ、それにレンズがふたつ装備され立体写真を撮影できるミニマムパルモスステレオカメラの、当時は最先端だったフィルム仕様の高級輸入カメラだった。
 徳川邸の南を流れる、江戸川(神田川)の風景も頻繁に撮影している。写真④は、神田上水と江戸川が分岐する50mほど下流にあった、江戸期からの大洗堰を写したものだ。現在の大滝橋あたりの風景だが、画面に写る川全体が江戸川の流れで、真ん中に渡されている長い木樋は、さらに下流に設置された関口水車Click!を廻すための導水樋だ。神田上水は、右手に写る住宅の向こう側を流れており、徳川慶喜が第六天町に転居してきた1901年(明治34)まで、東京の上水道インフラClick!として現役で使用されていた。右手に目白山(椿山)の南麓と急斜面が見えるが、現在は江戸川公園Click!となっている。その斜面や丘上には、目白不動尊Click!や関口尋常小学校、山県有朋邸(椿山荘)などがあった。
 花見の名所だった、江戸川(神田川)の桜並木Click!をとらえた写真も残されている。写真⑤は、江戸川に架かる中之橋から上流を眺めた風景で、遠く霞みがちに見えている小さめな橋は、明治期の西江戸川橋だろう。現在は、西江戸川橋と中之橋の間に小桜橋が架かっている。江戸川の岸辺には、花見舟を着けられるように桟橋状の窪みが見られるが、川のあちこちに浮いて見える大きな魚籠のような施設は、江戸川名物だったウナギの生け簀Click!だと思われる。画面左側の道路は、十三間に拡幅された現在の目白通りと上空は首都高5号池袋線、右側の道路はTOPPAN本社前の道路だ。その江戸川沿いの風景だろうか、花見の季節に撮影された写真⑥も残されている。「塩延餅」と書かれた、小さな「御休息所」がとらえられており、この水茶屋の娘なのだろうか小さな女の子が写っている。
写真②徳川邸東.jpg
写真③徳川邸西.jpg
写真④大洗堰.jpg
パノラマカメラ.jpg 将軍が撮った明治1986朝日新聞社.jpg
 さて、徳川慶喜は旧・神田上水をそのまま上流へとたどり、新井薬師まで足を運んでいる。小日向の山麓から、目白崖線沿いの道をそのまま西進したと思われるが、当然、下落合では雑司ヶ谷道Click!と呼ばれた新井薬師道を通っただろう。そのころには、山手線の土手を登る踏み切りClick!ではなく、下落合ガードClick!が完成していただろうか。
 新井薬師の表参道から、連続写真のように本堂までを写しているようだが、写真⑦はさまざまな商店が並ぶ参道をすぎて、本堂の手前で撮影したものだ。新井薬師は戦災を受けていないので、徳川慶喜が撮影した明治末の姿を、現在でもそのまま目にすることができる。本堂の右手から、竹竿に結ばれて垂れ下がる幟は、新井薬師の周辺で営業している多種多様な料理屋や茶店、商店などの広告だ。
 このほかにも、徳川慶喜は東京をはじめ近県まで遠出して、カメラのシャッターを切っていたようで、名所旧蹟ばかりでなく現在では失われてしまった近代建築なども被写体にしており、それらの写真はかけがえのない貴重な歴史資料となっている。
 ちょっと脱線するが、明治末に徳川慶喜が目白崖線沿いを西進する妄想が止まらない。カメラを膝に乗せ、あちこちの屋敷を訪ねては撮影がてら歓談するのを楽しんだらしい慶喜だが、おそらく新井薬師(梅照院薬王寺)へも家令数名とともに馬車を駆って参詣に出かけているのだろう。屋敷を出発し、馬車が音羽の谷間から大洗堰あたりにさしかかると……。
 「あすこの、目白山Click!の森から飛びでた2階の屋根は、誰の屋敷だい?」
 「はい、山県有朋Click!公爵様は椿山荘のお屋敷です」
 「絶対に近寄らん、早く馬車を飛ばせ! なんなら、馬糞をお見舞いしてやれ!」
 「……はぁ」
 「大きな池が見えるなぁ、あすこの大屋敷は誰のかな?」
 「はい、先年、超能力の透視実験Click!とやらをやられた細川護成Click!侯爵様です」
 「おう、どんとこいの屋敷か。今度、包丁正宗Click!をカメラで撮りたいものだな」
 「……はぁ」
 「ところで、あすこの川向うに見えている大屋根は、誰の屋敷かな?」
 「はい、大隈重信Click!侯爵様のお屋敷と、先年改名した早稲田大学の校舎です」
 「娘茶摘みClick!女学生好きClick!なスケベジジイに用はないわ! 休憩はならんぞ!」
 「……はぁ、まだ出立して15分ばかりですので。……そのお隣りが伯爵の……」
 「甘泉園の清水徳川家は、お気の毒だったな。もう、なにもいうな」
 「……はぁ」
 「ところで、学習院の向こっかわの鉄道脇の丘上に見え隠れする屋根は誰んちだい?」
 「はい、つい先だて亡くなりました近衛篤麿Click!公爵様のお屋敷です」
 「金輪際、用はないわ! 馬どもにムチをくれろ!」
 「近々、その西隣りに相馬子爵Click!様も、赤坂からお屋敷を移されるとか」
 「ほう。……なら、いつかそっちへ遊びに寄ろうか」
 「その北側には、戸田康保Click!子爵様のお屋敷もありますが」
 「きょうは新井薬師だ、また今度にしよう」
 「……はぁ」
 「あすこの、岬の突端のような丘上にある西洋館は誰んちだい?」
 「はい、尾張様Click!から出られた徳川義恕Click!男爵様の別邸でございます」
 「ちょいと、寄ってこうか」
 「……こちらは、お訪ねになるんで? 出立してまだ30分ですが」
 「渋沢栄一君ちのボタンは撮ったし、ここもボタン栽培Click!に凝ってるらしいやね」
 「しかし、男爵様がご在宅かどうか」
 「なぁに、まだ陽も高いし、留守ならちょいと庭に入れてもらって一服しようや」
 「…………こんなにおヒマで、はたしてよろしいのでしょうか」
 「あん? なんか、いったかい?」
 「いえ、では急坂Click!を上りますので、おつかまりください」
写真⑤江戸川.jpg
写真⑥花見.jpg
写真⑦新井薬師.jpg
 写真集に収録された画面は、徳川慶喜が写したほんの一部の写真だろう。ほかにも、神田川沿いの風景をはじめ、東京各地の写真が多く残されているにちがいない。中には、明治末の下落合の写真も混じっているかもしれないので、ぜひ全画面を見てみたいものだ。

◆写真上:現在は国際仏教学大学院大学キャンパスになっている、第六天町の徳川慶喜邸跡の現状。正門の馬車廻し跡から、南向きに撮影したところ。
◆写真中上は、小日向第六天町の高台に位置していた徳川慶喜邸(本人撮影)。は、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図にみる徳川邸と松平邸。は、写真①で徳川邸母家の南芝庭から築山と生垣越しに南側の眺望を撮影したもの。
◆写真中下は、写真②で徳川邸の東側風景で砲兵工廠から後楽園あたりの眺望。中上は、写真③で徳川邸の西隣りに建つ松平容保・容大邸と小日向台の森林。中下は、写真④で江戸期を通じて江戸川(神田川)に設置されていた明治末の大洗堰。下左は、徳川慶喜が愛用した風景撮影用のパノラマカメラ。下右は、1986年(昭和61)に出版された『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集―』(朝日新聞社)。
◆写真下は、写真⑤で桜並木がつづく花見の名所だった江戸川を中之橋から上流を向いて。は、写真⑥で花見の季節に撮影された水茶屋。は、写真⑦で新井薬師の本堂。
おまけ1
 目白山(椿山)の丘上に建てられていた、1878年(明治11)築の山県有朋邸(椿山荘)。
椿山荘(山方有朋邸).jpg
おまけ2
 徳川慶喜は周辺の風景ばかりでなく、散歩の途中で出会った人々や事物などもスナップ写真として撮影している。“洗い場”でダイコンを洗う農民と、ススキにたかるカマキリ。
ダイコン洗い.jpg
ススキとカマキリ.jpg

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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(8) [気になる下落合]

曾宮一念「風景」1920.jpg
 少し前にも触れたが、画面に既視感があると感じたのは、この造成地にあるキリの木だった。曾宮一念Click!が1920年(大正9)に描くキりの木は、1923年(大正12)制作の『夕日の路』Click!でも、やや成長した枝ぶりで再度描かれている。それは、もとの角地の道端ではなく、曾宮の造園によってアトリエの南西庭に移植されたあとの姿だ。
 曾宮一念Click!は、1921年(大正10)3月初めに下落合623番地へ建設中だったアトリエが竣工後、綾子夫人が臨月だったためすぐには新居へ引っ越しはせず、長男・俊一Click!の出産(3月22日)を待ち、同年の3月末に淀橋町(大字)柏木(字)成子町北側128番地の借家Click!から下落合へ転居してきている。キリの移植を軸に考えると、わたしが描かれた画面の風情に既視感があるのはあたりまえのことだった。画面の前の道を歩きながら、しょっちゅうこの風景を目前にして散策しているからだ。当時と同様に、曾宮一念アトリエClick!跡は広い空き地となって舗装され、長年にわたり駐車場として利用されてきた。一時期は、北側に小さな医院が開業していたが、現在はその敷地も含めて駐車場になっている。
 『風景』に描かれた造成地は、中村彝Click!によれば夏目利政Click!が借地権を管理する地所で、夏目が曾宮にアトリエの建設を勧めたのではないか。ひょっとすると、ドロボーClick!に入られた下落合544番地に住んだ際、曾宮一念は彝の仲介で夏目にアトリエ敷地探しを依頼してから、淀橋町柏木へ転居しているのかもしれない。
 曾宮がアトリエを建てたあと、この一帯には片多徳郎Click!(下落合734番地)や牧野虎雄Click!(下落合604番地)、蕗谷虹児Click!(下落合622番地)、一時的だが村山知義・籌子夫妻Click!(下落合735番地)などのアトリエが集中するが、これも夏目利政Click!によるマネジメントだった可能性がある。下落合800番地台の“アトリエ村”Click!につづき、夏目利政はここでも“アトリエ村”を形成しようとしていたのではないか。余談だが、さまざまな画集を発行していた後藤真太郎Click!の座右寶刊行会本社も下落合735番地、つまり村山アトリエと同番地なので、これも夏目による紹介だったのかもしれない。
 夏目利政は、当該の土地を所有しているのではなく、借地権およびその管理を地主から委託され、画家たちを勧誘してはアトリエを建てていたフシが見える。曾宮一念アトリエも、ふたりで打ち合わせながら夏目が図面を引いているのではないか。
 当時の様子を、1926年(大正15)に岩波書店から出版された中村彝『芸術の無限感』Click!より、大正9年7月21日付け洲崎義郎Click!あての手紙から引用してみよう。
  
 曾宮君は夏目君が借地権を持つて居る地所を借り受けて、そこへ画室を立(ママ:建)てることになりました。二瓶君の画室の少し先の谷の上で大変眺望のいゝ処です。
  
 曾宮アトリエは、下落合584番地の二瓶等アトリエClick!から、西へ約210mほど歩く諏訪谷Click!に南面した位置にあった。のち1926年(大正15)の夏、佐伯祐三Click!が画面の左手から連作「下落合風景」Click!の1作『セメントの坪(ヘイ)』Click!を描く、あの場所だ。
曾宮一念アトリエ1926.jpg
曾宮一念「夕日の路」1923.jpg
桐の木1920.jpg 桐の木1923.jpg
曾宮一念「風景」現状.jpg
 『風景』を描いた1920年(大正9)の時点で、地鎮祭は終っていたものだろうか。自身の住宅を建てる前、その敷地を写真に収めるのは今日ではありがちなことだが、曾宮一念はタブローに仕上げて保存したのだろう。画面の様子から、季節は秋の風情だが、曾宮アトリエが竣工するのは、翌1921年(大正10)3月のことだ。したがって、アトリエが完成する5~6ヶ月ほど前、そろそろ地鎮祭が終わり建設に取りかかりそうな1920年(大正9)10月下旬あたりの情景だろうか。では、画面を仔細に観察してみよう。
 まず、曾宮アトリエClick!の敷地に接する北側には、1926年(大正15)の時点で「下落合事情明細図」に記載されている青木辰五郎邸が、いまだ建設されていないのがわかる。なにかの畑地(上部が紅葉しはじめた植木畑だろうか?)になっていたようで、ほどなく北側の位置には青木邸が建設されている。鶴田吾郎Click!によれば、青木邸は植木農家だったということで、その家の娘のひとりを描いた『農家の子』Click!(1922年)がタブローで残されている。昭和期に入ると、青木邸の敷地には新たに三沼邸が建設されている。
 画面の左手に見えている、濃い灰色の大きな屋根と赤い屋根の家屋群が、東京美術学校のOBだった下落合622番地の日本画家・川村東陽邸だ。曾宮一念が隣りにアトリエを建てた当時、川村東陽Click!は画業そっちのけで落合村会議員(のち町会議員)の職務に就いていたとみられ、なにかと羽振りがよく近隣に対して威張っていたのだろう。のちに、曾宮一念との間で川村家の飼いネコをめぐる「ウンコ戦争」Click!を引き起こすことになるが、『風景』を描いている曾宮一念は当時、そんなことは知るよしもなかった。
 川村東陽は、1932年(昭和7)に東京35区Click!制が施行されるころ、淀橋区議会議員に立候補するためか下落合から転居している。その広い跡地(画面では左手一帯)には、蕗谷虹児アトリエClick!をはじめ白井邸や谷口邸Click!などが建設されている。ちなみに、曾宮アトリエの西隣りにあたる下落合622番地の谷口邸は、昭和初期から海軍の八八艦隊構想に対し軍縮外交を優先して、米内光政Click!とともに最後まで日米開戦に反対しつづけた、元・聯合艦隊司令長官の退役海軍大将・谷口尚真邸だ。
 画面の奥に見えている、ややキリの木の陰になっている赤い屋根の2階家は、1926年(大正15)現在でいえば荒木定右衛門邸(下落合621番地)だが、これも既視感が生じた大きな要因のひとつで、現在でも灰色の屋根が乗る2階家の向こう側(北側)、東西に長い同じ敷地の位置に、赤い屋根の2階家が同様の向きで建っている。昭和期に入ると、荒木邸の敷地には新たに木村邸が建設されている。
 荒木定右衛門邸の少し左手(西側)、薄いグレーの主屋根を南北に向けて西陽が当たる2階家は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」でいえば山田邸(下落合630番地)ということになる。ちなみに、山田邸の少し北西側、同じ下落合630番地の森田亀之助邸Click!の南側には、昭和に入ると里見勝蔵Click!がアトリエをかまえて京都から転居してくる。佐伯祐三が1926年(大正15)10月10日に描いた『森たさんのトナリ』Click!の、あの一画だ。ひょっとすると、左手の遠方に見えている2階家が、『森たさんのトナリ』に描かれた2階家の近くに建つ住宅なのかもしれない。距離感からいえば、ちょうどそのあたりに見えたはずだ。
曾宮一念「荒園」1925.jpg
庭の曾宮一念.jpg
浅川ヘイ1920.jpg 浅川ヘイ1923.jpg
浅川ヘイ.jpg
 さて、興味深い画面の右手(東側)を観察してみよう。右側に描かれた、北へと向かう道筋はやわらかく東へとカーブしている。現在は、できるだけ直線化されているが、宅地の関係からどうしても修正しきれない北寄りの道は、東側へ曲りこんだまま現在にいたっている。道路の右端は、板を並べてつないだような簡易板塀に蔦がはっているような表現で描かれているが、この塀の向こう側が下落合604番地の大きな浅川秀次邸の敷地だ。
 浅川邸の板塀は、関東大震災の前後に造りかえられたらしく、高価そうな和風の白い腰高の練塀が広い屋敷を取り囲んでいた。それは、曾宮一念の『夕日の路』(1923年)でも見ることができるが、その仕様から浅川邸は大きな和風建築だったとみられる。また、曾宮アトリエの建設や浅川邸の新たな練塀の築造とともに、道路の直線化も促進されたと思われるが、1936年(昭和11)の空中写真を見ると、現状とはやや異なりいまだ中ほどから東へゆるやかにカーブしている様子が見てとれる。また、1938年(昭和13)ごろになると浅川邸は転居し、かわって土井邸(おそらく洋館)が建設されている。
 曾宮一念は西陽が好きなのか、『風景』(1920年)でも『夕日の路』(1923年)でも橙色の光線で風景を描いている。その夕陽に照らされた浅川邸の新たな練塀を、1926年(大正15)10月22日に描いたのが佐伯祐三の『浅川ヘイ』Click!だ。いまだ実見はおろか、戦災をくぐり抜けて現存しているかさえ不明な作品だが、おそらく曾宮一念の『風景』同様にパースのきいた構図で、重い瓦を載せた和風の白い練塀がつづく、赤土が剥きだしの道路を描いていると思われる。たぶん、サインがないためどこかに埋もれているのかもしれないが、心あたりのある方はぜひコメント欄にでもご一報いただきたい。
 曾宮一念は、『風景』の中央に描き、アトリエの建設とともに庭の西側に移植したキリの木について、著書に想い出を記している。1938年(昭和13)に座右寶刊行会から出版された曾宮一念『いはの群』より、下落合へ転居してきた当時の様子を引用してみよう。
  
 もう二十年も前のことになる。思ひがけないよくて安い地所を見付けたと思つてゐると私の借りた日から地代が二倍にされてゐる。それに前の借地人二年分の地代も払へといふことで、まづこんなものかと驚いたものである。然しこゝへは以前来て路端の桐の木を写生したことがあり、ちようどこの木は私の借りた地所と路との傾斜面に根を張つてゐた、ことはつておくがこの木もその時買ひ取れといふので以来私のものとなつてゐるのである。(中略) さて家を建てることになつたが履脱ぎ三尺の土間もつけられない始末なので、庭の周囲の垣根の予算などあらう筈がなく、丸太に針金の手製で間に合はす積りでゐるとこれも東南に四十間を立派な檜垣を作らされてしまつた。(青文字引用者註)
  
 この敷地と路端との境界に生えていた「桐の木」は、アトリエを建てる前から曾宮一念の印象的なモチーフになっていたようで、『風景』(1920年)や『夕日の路』(1923年)につづき、第12回二科展で樗牛賞を受賞する『荒園』(1925年)までつづけて描かれている。
曾宮一念アトリエ1936.jpg
諏訪谷入口.JPG
セメントの坪(ヘイ).jpg
セメントの坪(ヘイ)現状.JPG
 どうやら、借地権を管理していた夏目利政は、かなりの商売上手というか“やり手”だったようで、曾宮一念は手もなく彼に丸めこまれてアトリエを建てているようだ。夏目は、地主や建設事務所からコミッションをもらって、画業とは別に生活の足しにしていたのだろう。

◆写真上:1920年(大正9)に、アトリエの建設予定地を描いた曾宮一念『風景』。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント。中上は、1923年(大正12)制作の曾宮一念『夕日の路』(提供:江崎晴城様Click!)。中下は、『風景』と『夕日の路』のキリの拡大。は、曾宮一念アトリエ跡の現状。
◆写真中下は、1925年(大正14)制作の『荒園』(提供:江崎晴城様)にみる移植されたキリ(右手)。中上は、庭にたたずむ曾宮一念(提供:江崎晴城様)。中下は、『風景』と『夕日の路』の浅川邸練塀の比較。は、写真の浅川邸練塀の拡大。
◆写真下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる『風景』の描画ポイントと曾宮一念アトリエ。中上は、『風景』の描画ポイント跡の現状で右側の坂道は諏訪谷へと下る。中下は、1926年(大正15)の夏(9月1日以前)に制作された佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』。は、『セメントの坪(ヘイ)』の現状と印は『風景』描画ポイント。佐伯がイーゼルを立てた『セメントの坪(ヘイ)』の川村東陽邸敷地は、やがて谷口邸の建設予定地となり、1935年(昭和10)ごろに谷口尚真一家が赤坂から転居してくることになる。
おまけ1
 谷口尚真は、満洲事変の際に日中戦争は絶対反対、ましてや日米戦争などもってのほかと、死ぬまで一貫して戦争に反対しつづけた。軍国主義の体制内で、日本の「亡国」招来を見通せていた数少ない提督のひとりだ。後輩の米内光政とも親しく、戦争へと突き進む日本の「静かなる盾」の役割りをはたしていたが、1941年(昭和16)に下落合で死去している。敗戦間際に、陸軍から生命を狙われていた米内光政Click!は、自宅へは帰れず“潜行”して隠れ家を転々としているが、下落合の林泉園近くで頻繁に目撃されている。谷口尚真の人脈がらみで、下落合の隠れ家にいた可能性もありそうだ。写真は、谷口尚真(左)と米内光政。下は、画家たちのアトリエに囲まれた1938年(昭和13)の谷口尚真邸。海軍の提督でありながら、一貫して戦争に反対しつづけた谷口尚真については、また機会があれば書いてみたい。
谷口尚真.jpg 米内光政.jpg
諏訪谷界隈1938.jpg
おまけ2
 武蔵野らしく、下落合の森に実るヤマグワの実。ジャムにしてもパイにしても、色どりがきれいでベリーのように甘酸っぱくて美味しいだろう。
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佐伯祐三の入浴を節穴からのぞく「アキや」。 [気になる下落合]

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 下落合661番地の佐伯祐三Click!のアトリエに、米子夫人の記憶によれば伊香保からやってきた「アキや」という女性を女中がわりに寄宿させていた。この女性は、苗字は不明だが「アキ」という名前だったらしく、佐伯家では彼女のことを「アキや」と呼んでいた。関東大震災Click!が起きる前、1922~1923年(大正11~12)ごろのことだ。
 実は、すでにアキやClick!は拙ブログに登場している。大柄で肥りぎみな身体をゆらしながら、佐伯家の娘・彌智子と曾宮家の息子・俊一を乳母車に乗せ、下落合のあちこちを散歩したり、目白通りで買い物をしていたあの女性だ。伊香保というと群馬県なので、友人の誰かからの紹介か、あるいは米子夫人の悪い足を心配した池田家とのつながりで預かり、寄宿させていたのかもしれない。東京へは、なにか目的があってやってきたのだろうが、佐伯一家が第1次渡仏をする関東大震災のころにはいなくなっているようなので、どこかへ家事見習いとして住みこむか新たな働き口を見つけたのかもしれない。
 その様子を、以前に江崎晴城様Click!よりお送りいただいた曾宮一念Click!の講演記録から再び引用してみよう。この講演は、1984年(昭和54)11月9日に行われたものだ。
  
 (前略) 体のえらい立派な女中さんがいましてね、名前は忘れましたがね。それが佐伯の一人娘の彌智子さん、やっぱりちょうどうちの息子と同じ年くらいのまだちょっと歩けるくらいの赤ちゃん。その二人を乳母車に乗せて、買い物旁々、歩いてくれるんです。僕はそれで大変助かりましてね。うちの息子は行くの嫌だなんて言ったこともありますけど、とにかく追い出しちゃうと、ウトウトと乳母車の中で二人とも居眠りしちゃう。そうすると、一日、その体の大きな女中がお守りしながらいてくれるんです。その間、僕は絵を描いていられたんで、大変ありがたかった。僕も不自由な生活ですしね。そうして夜、迎えに行って、佐伯の所に行くと、晩飯を一緒によく食った。それで佐伯はまあ毎日のように、牛肉のすき焼きなんですよ。こっちはちょっと飽きちゃったけどね。それでもまあ、向こうへ行けば僕は自炊する必要もないし、それで、毎日のようにすき焼きを二人でね。
  
 米子夫人Click!は足が悪く、曾宮の綾子夫人は以前から病気がちだったので、ふたつの家庭はアキやの活躍で非常に助けられていた様子が伝わる。
 あきヤは、かなり身長が高く肥りぎみで体格がよかったらしく、絵のヌードモデルにしたくなったのだろう、佐伯祐三は近所の二瓶等(二瓶徳松)Click!と相談して、あきヤにモデルになってくれるよう頼みこんでいる。そのきっかけを作ったのは、中村彝Click!のルノワールばりの表現に惹かれていた二瓶等Click!のほうだったのかもしれない。ルノワールが描く女性は、よくいえば“ふくよか”、悪くいえば肥満ぎみの女性が多く、二瓶もそのような女性をモデルにして描いてみたくなったものだろうか。
 宮崎モデル紹介所Click!から派遣されてくるモデルは、家族の暮らしや生活費に困っている女性が多いせいか、そこまで“ふくよか”なモデルはなかなかおらず、そもそものきっかけは二瓶等が佐伯に頼みこんだ可能性もありそうだ。
 また、アキやはおかしな性格をしていて、佐伯が入浴しているとしばしば風呂場をのぞき見していたようで、佐伯自身や、それを聞いた米子夫人も困惑していたらしい。それも、焚口の近くの小窓から湯加減を確かめるためにのぞくのではなく、アキやは風呂場の板壁に開いていた節穴から中をジッとのぞいていたらしい。
 この風呂場だが、佐伯邸の母家にもアトリエにも風呂は設置されていない。米子夫人の足が悪いため、いちいち菊の湯Click!(または福の湯Click!)へ通わなくても済むように、庭先へ簡易風呂場をしつらえたあとのエピソードだと思われるので、1922年(大正11)以降のことだろう。この風呂は、銭湯へ出かけるたびに悪い足をジロジロ見られる米子夫人が、DIY好きな佐伯に頼むか、大工に依頼して庭先に建てさせたものだ。
佐伯母家&アトリエ.jpg
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 その様子を記した手紙も、江崎晴城様よりお送りいただいた曾宮一念Click!資料にあった。佐伯米子Click!から曾宮にあてた手紙で、内容に「としちやんとメンタイちやんは、死んでしまいました。」とあるので、戦後にやり取りされたものだろう。「としちやん」とは、1945年(昭和20)3月25日に中国の湖北省老河口で戦死した曾宮俊一Click!のことで、「メンタイちやん」とはもちろん第2次渡仏時のパリで、1928年(昭和3)8月30日に病没した娘の佐伯彌智子Click!のことだ。ふたりは、1922年(大正11)2月21日生まれ(彌智子)と、1921年(大正10)3月21日生まれ(俊一)とで歳も近く、アキやが両アトリエからふたりを連れだしては、下落合を散歩しながらよく面倒を見ていた。
 佐伯が死去した際、曾宮アトリエClick!に佐伯の幽霊(庭先からの声Click!)が現れたのを綾子夫人が気づき、その様子を曾宮が手紙で佐伯米子に伝えたのだろう、その返信として大阪の佐伯祐正Click!のもとにも、「庭さきを、メンタイちやんをだいて行ったりきたりする佐伯の姿を兄が、はっきり見た」と米子は記している。そして、佐伯死去の電報を受けとる前に、佐伯祐正は「あゝもうこれはだめだナ」と感じていたらしい。
 アキやの話が登場するのは、この佐伯の幽霊譚のすぐあとのことだ。これも、アキやについて曾宮から米子夫人へなにか改めて問い合わせをしているらしい。戦後の年代は不明だが、「三月廿二日夜」の日付が入る佐伯米子の手紙Click!から引用してみよう。
  
 あの時のアキヤという女中のことは曾宮さんにおっしやられていまさらのように思い出しました。肥っていたのでハダカのモデルにしようと二瓶(等)さんとさえき(佐伯祐三)がたのみましたら奥さん(米子夫人)には見せないけれど男性二人には見せると申しました。そしてとうとうモデルになりましたが……。(カッコ内引用者註)
  
 アキやがモデルになった作品とは、どれのことだろうか。ちょうど、1923年(大正12)ごろに描かれた佐伯祐三の作品に、『ベッドに坐る裸婦』(1923年/和歌山県立近代美術館蔵)と、『裸婦』(1923年ごろ/西宮市大谷記念美術館蔵)の2点がある。確かに、かなり肥ったドッシリ型の女性で当時としては身長も高そうだが、米子夫人が強調するほどに肥満体ではなく、“ふくよか”ぐらいClick!な体型のように見える。2作品ともルノワールばりの表現で、おそらく二瓶等のキャンバスも同様の絵の具で塗られていたと思われる。
米子手紙1.JPG
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佐伯祐三・彌智子.jpg
 描かれた場所は、ベッドが置かれ敷物なども揃っていそうな環境なので、佐伯アトリエではなく下落合584番地の二瓶等アトリエClick!で制作されたものか。二瓶等の作品には、翌1924年(大正13)に発表されたベッドに座る『裸の女』が、やはりルノワールばりの筆致で描かれており、同作が佐伯とともに描いたアキやの可能性が残る。ただし、『裸の女』も3段腹の“ふくよか”な女性だが、メタボというほどではないように思える。もっとも、現代の感覚からいえば、食べすぎで肥満といわれてしまいそうだが……。
 佐伯の入浴を、板壁の節穴からのぞいていた挑発的なアキやの話は、佐伯と二瓶のモデルになった話の直後に登場している。つづけて、米子夫人の手紙から引用しよう。
  
 サエキがおふろに入っていると板のふし穴からのぞいて(ダンナ)その頃の言葉)<二重のカッコは米子筆記のママ>とよんで何かいうので、こまっておりました。/お食よくは“おおせい”<原文は傍点>で大変でした。おデンが好きで大きなお鍋に一ぱいたいらげてしまいました。あれはたしか伊香保からきたのですが今も生きていたら一度曾宮さんにおめにかけたいようです。(< >内引用者註)
  
 板壁の節穴から「ダンナ」と声をかけ、アキやは佐伯祐三になにをいっていたのだろうか。なにか性的な言葉を浴びせて佐伯を挑発していたものか、あるいは無邪気になにか冷やかしをいっていたものだろうか。
 ヌードモデルになるぐらいだから、案外、男にはスレていたのかもしれない。アキやについて、佐伯や曾宮の記録以外に、二瓶等Click!関連の資料にもなにか残っていそうだし、師の中村彝にも作品の批評を請うついでになにかを話していそうだし、さらには佐伯アトリエを同時期に借りて卒業制作をしていた山田新一Click!も、なんらかの証言を残していそうなのだが、寡聞にしてアキやの話はこれらの資料から見いだすことができないでいる。
佐伯祐三「ベッドに坐る裸婦」1923.jpg
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 米子夫人の言葉を信じれば、鍋いっぱいにつくったおでんをひとりで平らげたというから、かなりの大食漢だったらしいが、おそらく佐伯夫妻の献立とは別に、自分用の料理をつくっては台所脇にあった3畳の女中部屋で食べていたのだろう。米子夫人は食が細かったようなので、佐伯家の余ったすき焼きClick!“はなよめ”Click!の缶詰なども、とっておくと傷んで(腐って)もったいないからと、アキやがさっさと片づけていたのかもしれない。

◆写真上:籠編みが多かった、大正期から昭和初期にかけての古い乳母車。
◆写真中上は、1985年(昭和60)に目黒美術館によって撮影された佐伯邸の母家とアトリエ。は、解体直前に撮影されたとみられるアトリエ(右)、母家(中)、増築部の米子夫人居間(左)。は、風呂場のない佐伯邸1階の平面図。
◆写真中下中上は、佐伯米子から曾宮一念あての「アキヤ」が登場する手紙。中下は、曾宮一念と息子の俊一。は、佐伯祐三と彌智子。
◆写真下は、1923年(大正12)制作の佐伯祐三『ベッドに坐る裸婦』。は、同年ごろ制作の佐伯祐三『裸婦』。は、1924年(大正13)の帝展出品作で二瓶等『裸の女』。

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盗品の夢二屏風をめぐる宮地嘉六と沖野岩三郎。 [気になる下落合]

落合第一府営住宅三間道路.jpg
 この物語は、下落合(現・中落合/中井含む)で酒屋を経営する尾崎三良という人物が、1929年(昭和4)ごろドロボーClick!に入られた時点からはじまる。尾崎が店内を掃除中、打ち水のために井戸へバケツの水を汲みにいっているほんのわずかな隙に、ショウウィンドウに並べていたパイナップル缶詰めを3つ盗まれた。だが、店の硝子戸には板を包んだような風呂敷が立てかけられていたので、店主は最初、お客がちょっと他の用事を済ませに店前を離れただけと考え、パイナップル缶の盗難には気づかなかった。
 ところが、待てど暮らせど風呂敷包みを残したお客は現れず、ついにショウウィンドウのパイナップル缶が消えているのに気づき、ようやく店主はドロボーに入られたことを察知した。ショウウィンドウから缶詰めを盗んでいると、意外に早く店内にもどってきた店主に気づき、ドロボーはあわてて風呂敷包みを残したまま逃走したらしい。電話で警察に相談すると、風呂敷包みをもって被害届けを提出しろということになった。
 戸塚警察署Click!へ出向き被害届けを出して、警官が立ちあいのもとで風呂敷包みをそっと解くと、竹久夢二Click!の作品らしい屏風が1隻現れた。高価なものらしいので、近いうちに盗難届けがあるだろうということで、屏風は戸塚警察署が保管することになり、店主は署長から預かり証をもらって下落合に帰った。
 ところが、1年たっても盗難届けがどこからも提出されず、店主の尾崎は戸塚警察署から呼びだされると、屏風は遺失物扱いになるので改めて遺失物拾得届けを提出させた。そして、1年すぎても持ち主が不明ということで、そのまま屏風は店主に下げわたされた。のちに判明することになるが、屏風は住宅の蔵の奥にしまわれていたもので、持ち主もその盗難に気づかず数年後にようやく「ない」ことに気づいている。
 尾崎三良は、夢二屏風を部屋へ飾るというような趣味にまったく興味がなかったので、店の得意先である作家に声をかけてみようと思いついた。得意先とは、当時は落合町葛ヶ谷15番地Click!(現・西落合1丁目)に住んでいた、家を新築したばかりの宮地嘉六Click!だった。ちょうど、報知新聞に連載していた『愛の十字街』の原稿料で、念願の自邸を片岡鉄兵邸Click!の並びに建設したばかりだった。酒屋の店主は、ドロボーと夢二屏風の一件を宮地嘉六に話すと、家には似合わないからと代金も取らずに置いていった。
 その宮地邸を訪れたのが、東北地方の学校を転々としながら長く教育現場に勤務していた小泉秀之助だった。彼は、日本の生活言語から地方方言を排斥し、「標準語」Click!の強制を推進した著作類でつとに有名な人物で、この当時は下落合かその周辺域に住んでいたようだ。薩長政府の意向へ忠実のあまり、東北方言はもちろん東京方言Click!の駆逐にも加担していたとすれば、『京都ぎらい』Click!の京都人・井上章一と同様の思いで、わたしも少なからず怒りをおぼえる人物のひとりだ。1941年(昭和16)に美術と趣味社から刊行された「書誌情報」5月号収録の、沖野岩三郎Click!『続宛名日記』(廿二)から引用してみよう。
  
 そこへ(宮地嘉六邸へ)訪問して来たのが小泉老であつた。「これは珍しいものがあるね。実は僕が福島県の師範学校長をしてゐる時、夢二君が山田順子女史と相携へて福島へ来たものだ。その時半折一枚の美人画を買つた。僕の買つた美人画は非常によく出来てゐたが、友人にもつて行かれて惜しいことをしたものだ。君、これを僕に売つてくれないか」/「しかし、これは僕の所有品ぢやないんだから、持主に相談してみませう。」/「では頼むよ」/と、いふやうなことで、遂にその屏風は小泉老のものとなつたのである。爾来櫛風沐雨ではなく、行儀正しく小泉邸の一室に飾られてゐたのである。(カッコ内引用者註)
  
 夢二屏風が遺失物扱いで、戸塚警察署から尾崎酒店主が引きとったのはパイン缶窃盗事件の1年後、すなわち1930年(昭和5)ごろのことなので、小泉秀之助が尾崎三良から宮地嘉六経由で屏風を譲ってもらったのは、同年以降ということがわかる。
沖野岩三郎表紙掲載.jpg 宮地嘉六プロフィール.jpg
沖野岩三郎邸跡正面.jpg
宮地嘉六邸跡駐車場.jpg
 さて、時代はくだり1940年(昭和15)ごろのこと、下落合3丁目1507番地に住む沖野岩三郎Click!は、知人の小泉秀之助が所有する夢二屏風の存在を知っていたので、翌年に開催が予定されている竹久夢二遺作展の主催者のひとり、天江富弥へその旨を知らせておいた。すると、小泉と面識がなかった天江はアオイ書房の志茂太郎へ、展覧会への出品を働きかけるよう依頼した。志茂は、さっそく小泉邸を訪問して出品を請うが、ちょうどそこへ折よく訪れたのが沖野岩三郎だった。
 小泉秀之助は、作品を未知の人物を通じて展覧会に出したりすると、汚したり破られたりするので遺作展へは屏風を出品しないと、志茂へ断っている最中だった。そこで、沖野岩三郎が遺作展の主催者たちはそんな無責任な人物ではないと、自身が保証人になって気むずかしい小泉から夢二屏風をようやく借りだすことができた。
 ちなみに、ここで登場している人々について、竹久夢二遺作展の主催者である天江富弥は、児童文化研究家で郷土史家、またコケシ収集家として全国的にも有名で、沖野岩三郎とは旧知の間がらだったとみられ、またアオイ書房の志茂太郎は蔵書票(いまの蔵書シールのこと)づくりの趣味人で、のちに日本蔵書票協会を創立している人物だ。
 翌1941年(昭和16)に、「竹久夢二七回忌遺作展覧会」が開かれたが、その展示会場で厄介な問題がもちあがっていた。沖野岩三郎が、ある会合で天江富弥に会うと、彼は浮かない顔をして沖野に会場での出来事を語った。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 「あの屏風を並べて置くと、そこへ入つて来た某夫人が、まあ……と言つたまま立竦んでしまつたので、どうしたのかと尋ねると、あの屏風は其の夫人のもので、盗難にかかつたのださうですよ。小泉さんにそんな事をいふのも失礼だし、黙つてお返しして置いたが、持主は小泉さんのお買ひになつた金額へ多少の増額してでも、戻してほしいといふんですが、ひとつ小泉さんに談判してみて下さいませんか」と、いふのであつた。/「よろしい」とはいつたものの、他人の大切にしてゐる屏風を、これは君贓品だぞとは言はれるものでない。/その後何度も何度も小泉老の所へ行つて、言ひかけては止し、言ひかけては止してゐたが、或日のこと、今日こそと思ひながら小泉家を訪ねると、宮地嘉六君と玄関先で落合つた。/「宮地君、いい所で落合つた。今日はひとつ小泉老に話したい事があつて来たんだ、君はその話をきいて、小泉老が憤慨でもしたなら、なだめてくれないか」/私がさういつたので、宮地君は笑ひながら、「まあどんな事が知れないが、あなたの仰しやる事に、腹を立てるやうな小泉さんではありますまい」と言つた。
  
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 この先の様子は、読者にももう想像がつくのではないだろうか。沖野岩三郎が、屏風が盗品であり「どろばうからお買ひになつたのではございますまいが」、どうやって手に入れたのかを訊きはじめると、宮地嘉六の顔色がサッと変わり、小泉が「これは此の宮地君から買つたんだよ」と答えると、座の雰囲気がみるみるおかしくなってしまった。
 「謹厳すぎる程謹厳な宮地君」の顔色を見て、これはマズイと焦った沖野岩三郎は、「そんな事はどうでもよいのです」と慌てていいつくろい、要するに屏風を盗まれた本来の持ち主に、小泉が売りもどしてあげるかどうかが重要な課題なのだといった。だが、それでは済まない真面目な宮地嘉六は、酒屋の尾崎三良とのいきさつを詳しく話し、自分は尾崎から屏風を購入しておらず、そのままスルーで売った代金は酒屋の主人へそのままわたしている、後日、尾崎本人を連れて証明するなどということになってしまった。
 はたして数日後、沖野岩三郎は小泉邸に呼ばれると、宮地と酒屋の尾崎がそろっており、懸命に説明しはじめた。このころ、宮地嘉六はすでに下落合3丁目1470番地の、第三文化村Click!に建つ「玉翠荘」に住んでいただろう。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 尾崎君は宮地君の冤を雪ぐといふやうな態度で実情を精しく語られた。宮地君は膝を乗り出して、/「その節、私は一厘一銭の手数料をもらはなかつた事も、此所で尾崎君に證明していただきたいのです」といつた。/「幾らか差上げようと申しましたが、絶対に受取つて下さいませんでした。尚必要がございますならば、私から戸塚警察署に證明願を出して證明していただいても宜しいのでございます」と、尾崎君は言つた。
  
 いかにも宮地嘉六らしい、几帳面かつ隙間のない釈明だった。小泉秀之助と沖野岩三郎は、むろんふたりの証言に納得したが、小泉は「此の屏風を千円で買はうといつても売りませんよ」と、もとの持ち主へ返却することは頑なに拒否した。こちらも超マジメな沖野岩三郎は、天江富弥からのたっての頼まれごとなので弱りきって、もとの持ち主だった大会社の重役夫人にわざわざ会いに出かけている。ちなみにこの夫人の邸も、ドロボーが逃走ついでに酒屋のパイン缶を盗っていく経路からして、下落合に建っていたと思われる。
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宮地嘉六書斎.jpg
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 いきさつをすべて聞き終えた元・持ち主の夫人は、「物置倉の中に深くしまつてゐた私は、夢二さんに叱られるべきですね」といい、「小泉さんに、どうぞ安心してあの屏風を大切にして下さるやうお伝へして下さいまし」ということで、どうやら八方が丸く収まったようだ。当時、大きな屋敷が建ち並んでいた落合地域は、ドロボーClick!たちにとっては格好の標的Click!になっていたようで、盗品をめぐる話はあちこちに記録Click!されている。

◆写真上:第一府営住宅の三間道路で、撮影位置から60mほど先の袋小路を右折すると正面が沖野岩三郎邸跡。正面左手に見える、三角に刈り込まれた庭木の家が土屋文明Click!邸跡で、背後90mほどのところに第三文化村の宮地嘉六邸があった。
◆写真中上は、下落合の近所に住んだ沖野岩三郎()と宮地嘉六()。は、路地正面が下落合3丁目1507番地の沖野岩三郎邸跡で庭門があった位置。は、下落合3丁目1470番地の宮地嘉六が住んだ第三文化村の「玉翠荘」跡。
◆写真中下:盗難事件の屏風が描かれたのと同じころの夢二作品で、は『秋の憩い』(大正中期)、は『憩い』(1926年ごろ)、は『この夜ごろ』(昭和初期)。
◆写真下は、1924年(大正14)に庭で撮影された沖野岩三郎・ハル夫妻。は、葛ヶ谷15番地(現・西落合1丁目)邸の書斎で執筆する宮地嘉六。は、沖野岩三郎が警察の執拗な抑圧から逃れるために軽井沢千ヶ滝中区595番地の浅間山麓に建てた「惜秋山荘」(右)。戦後になると、同山荘はキリスト者たちが集まる拠点のようになり、沖野岩三郎は1955年(昭和30)に日本キリスト教団に復帰し浅間高原教会の牧師に就任している。
おまけ
 1955年(昭和30)に牧師に復帰した、軽井沢の浅間高原教会(現・軽井沢高原教会)。
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