板倉須美子はオアフ島に戦艦を浮かべる。 [気になるエトセトラ]
先日、千葉市美術館で開かれていた「板倉鼎・須美子・パリに生きたふたりの画家」展Click!を観にでかけたが、板倉鼎の連れ合いである板倉/昇須美子(いたくら/のぼりすみこ)の面白さに惹かれてしまった。アカデミズムにまったく縛られず、すべて無視した構図や表現に思わず見とれてしまったのだ。夫婦ふたり展だったので夫の表現に比べると、ことさらその自由度や柔軟性の高さが際立っている。もう、絵を描くのが楽しくて面白くてしかたがないという感覚が、画面のそこかしこから溢れでていた。
須美子の作品の中でも、特に目を惹いた画面があった。1926年(大正15)2月から6月まで、ハワイのホノルルに滞在していたときの情景をモチーフに制作した『ベル・ホノルル』シリーズだが、その中に『ベル・ホノルル23』(1928年)と題して、海岸に生えたヤシの樹間をゆったり散歩する人たちを描いた作品がある。画面を仔細に観察すると、彼女はユーモラスな性格というかかなり“変”で、ヤシの樹の陰に入りこんだ人物の半身や、画面の外(右側)へ歩いていき画角から外れようとしている人物の半身像などを描いている。つまり、風景の中に描かれている人々の姿の多くが、みんな中途半端で半身なのだ。樹の陰などで、前に歩く踏み足の見えない人物が、画面に5人も登場しており、おまけに黒いイヌの後足もヤシの陰に隠れて見えない。
このイヌを連れた、薄いブルーのワンピース姿の女性が顕著な例で、左へ歩いていく女性の顔を含めた前半分がヤシの陰になって見えず、イヌは樹のさらに左側から姿を現わしている。同様に、画面右手の枠外へ歩み去ろうとしている、白いコットンスーツにストライプのシャツ姿をしたラフな男は、画家に視線を送りつつ身体の左半分しか描かれていない。当時の画家だったら、こんな構図や表現はまったくありえないだろうという、画面の“お約束”をまったく無視した「タブー」で非常識だらけの仕上がりなのだ。
そして、中でももっとも目を惹かれたのは、ホノルル沖に停泊している濃い灰色をした巨大な船だ。この軍艦とみられる艦影は、手前に描かれたヨットのサイズと比較すると、ゆうに200mを超えそうな大きさをしている。しかも、この軍艦も樹影で断ち切られており、異様に長い艦尾が手前のヤシの右側から、ちょこんと顔を見せているようなありさまだ。戦前に生まれた方、あるいは艦船マニア(プラモマニア含む)なら、2本の煙突のうち前方の煙突が独特な形状で後方に屈曲しているのを見たら、絵が制作された1928年(昭和3)現在、想定できる軍艦は世界で2隻しか存在していないことに気づかれるだろう。
軍縮時代の前、八八艦隊構想をもとに建造され「世界七大戦艦」と呼ばれた日本海軍の長門型戦艦の1番艦と2番艦、戦艦「長門」Click!と「陸奥」Click!だ。排煙が前檣楼(艦橋)に流れこんでしまうため、第1煙突が屈曲型に改装されたのは第1次改装時で、「陸奥」が1925年(大正14)、「長門」が1926年(大正15)のことだ。以降、1934年(昭和9)の大規模な第2次改装までの約10年間、両艦は屈曲煙突の独特で印象的な艦影をしていた。
でも、長門型戦艦にしては前檣楼(艦橋)が低すぎて、当時は平賀譲の設計で建艦技術が世界的に注目された軽巡洋艦「夕張」か、あるいはより排水量が大きな古鷹型重巡洋艦のような姿をしている。また、マスト下の後楼も存在しないように見えるし、そもそも40センチ2連装の砲塔4基がどこへいったのかまったく見えない。だが、須美子のデフォルメは大胆かつ“常識”にとらわれないのだ。これほどのサイズの艦船で、屈曲煙突を備えた軍艦は彼女が生きていた当時、戦艦「長門」「陸奥」の2隻以外には考えられない。
では、両艦のうちのいずれかが大正末、米太平洋艦隊の本拠地で真珠湾Click!もあるオアフ島のホノルル沖へ親善訪問をしており、須美子はそれを目にしているのだろうか? だが、両艦の艦歴を調べてみても、そんな事実は見あたらないし、そもそも当時は海軍の主力艦で最高機密に属する戦艦(特に「長門」は連合艦隊旗艦だった)が、お気軽に親善航海して海外の人々の目に艦影をさらすとも思えない。しかも、『ベル・ホノルル23』が描かれたのは1928年(昭和3)のパリであり、板倉鼎は落選したが、須美子の『ベル・ホノルル』シリーズのうち2点が、サロン・ドートンヌに入選している。
『ベル・ホノルル23』に描かれた軍艦の謎を解くカギは、この1928年(昭和3)という年紀にありそうだ。前年の1927年(昭和2)は、大正天皇の葬儀が新宿御苑Click!を中心に行われ、摂政だった昭和天皇が即位した年だった。そして、同年10月30日には海軍特別大演習の実施と同時に、昭和天皇による初の観艦式が横浜沖で開催されている。その際、「御召艦」(天皇が乗る軍艦)の役をつとめたのが、連合艦隊旗艦の戦艦「長門」ではなく、姉妹艦の戦艦「陸奥」だった。観艦式の様子は、日本で発行されている新聞の1面で報道され、天皇が乗る「御召艦」の写真も掲載されている。
余談だが、わたしの母方の祖父Click!は、このとき横浜沖の観艦式に出かけており、同式典で販売されていた軍艦のブロマイドを購入している。わたしが祖父宅へ遊びにいったとき、その写真を見せてくれたのだが、祖父が購入したのは「御召艦」だった戦艦「陸奥」ではなく、同様に第1煙突が奇妙に屈曲した戦艦「長門」のほうだった。
当時、日本の新聞がパリへ配送されるのに、どれほどの時間が必要だったかは不明だが、須美子は掲載された写真を見ているのではないか。当時は船便なので、日本の新聞は数週間遅れ(ヘタをすると1ヶ月遅れ)で、パリの日本人コミュニティまでとどいていたと思われるのだが、彼女はその1面に掲載された独特な艦影の戦艦「陸奥」がことさら印象に残り、のちに『ベル・ホノルル23』に描き加えているのではないだろうか。彼女が日本海軍の“軍艦ヲタク”でないかぎり、そう考えるのが自然のように思える。
須美子は、いつものようにベル(美しい)ホノルル風景を描いていた。海岸にヤシの樹々が並び、その樹間には海辺の散策を楽しむ人々が、面白い配置やポーズで次々と加えられていく。奥に描かれるハワイの海には、いつも夫と同様に白い三角帆のヨットやディンギーばかりを描いてきたが、「そうだわ、たまにはちがう船でも描いてみましょ!」と、以前に新聞で見た横浜沖の観艦式における戦艦「陸奥」の姿をイメージし、彼女にはめずらしく灰色の絵の具で写真を思いだしながら、その姿を再現してみた。
でも、彼女は軍艦のことなどよく知らないし、艦影もぼんやりとウロ憶えなので、戦艦の前檣楼をかなり低く描いてしまい、4基の砲塔はそもそもハッキリと記憶にとどめてはおらず、面白いと感じた煙突の鮮明なフォルムばかりが目立ってしまった。軍艦の中央構造部と全長を描いてみて、「こんな、寸詰まりのカタチじゃなかったかも。もっと長くて大きかったはずなのよ」と、右手の海岸に描いたヤシの端から艦尾をちょっとだけのぞかせることにした……。制作時の、そんな情景が想い浮かんでしまう『ベル・ホノルル23』の画面なのだ。ちなみに、同作を制作中の彼女の写真も残されている。
ほかにも須美子の画面は、東京美術学校の教授や従来の画家たちが観たら、眼を吊りあげていきり立ちそうな、突っこみどころが満載だ。『ベル・ホノルル23』の次作『ベル・ホノルル24』(1928年ごろ)では、「キミ、この人物をタテにした構図の意図はなんだね? 手前のラリッてる半グレの金髪男で、背後の紳士の片足が隠れてるじゃないか。海の虹も2色だしサボテンも変だし、こんなのありえないよ!」と教授に叱責されそうだ。『ベル・ホノルル12』では、「右に歩いていく男の足先がキャンバス外れで欠けてるし、樹から半分のぞく女性は松本清張の『熱い空気』(家政婦は見た)なのか? なんでいつも半分で中途半端で、どこかが欠けてるんだよ!」と、官展の画家から説教されそうだ。w
『ベル・ホノルル26』では、「キミは、なにか危ない思想にかぶれちゃいないだろうね。特高に尾けられてやしないか? 樹の陰には、それらしい男があちこちウロウロしてこちらをうかがってるよ! 中條百合子Click!なんかと仲よくするんじゃない!」と教授に懸念され、『公園』では「おい、メリーゴーランドの近くにいる人影からするってえと、奥の噴水脇にいる人物は身長5mかい? バッカ野郎!Click! 絵の基礎から面洗って勉強しやがれ!」と、プロの画家あたりに怒鳴られそうなのだ。けれども、彼女の描く絵は面白く、夫の余った絵の具を使ったといわれている色彩感覚もみずみずしくて新鮮だ。
油絵の具の使い方をはじめ、板倉鼎からなにかとアドバイスを受けて描いているのだろうが、帝展画家の助言など無視して、のほほんと自由に描いているらしいところに、須美子の真骨頂やプリミティーフな魅力がありそうだ。上記の叱責や説教は、戦後の美術界ではほぼ無効になっていることを考えると、彼女は40年ほど早く生まれすぎたのかもしれない。
パリで短期間のうちに夫と次女に先立たれ、帰国してからは長女を亡くして、とうとうひとりになってしまった須美子は、1931年(昭和6)から佐伯米子Click!の紹介で有島生馬Click!の画塾に通いはじめている。妙なアカデミズムに染まらないほうが、彼女らしいオリジナル表現が保てるのに……と思うのは、わたしだけではないだろう。同じ境遇の佐伯米子Click!とは親しく交流しているようだが、1934年(昭和9)に須美子はわずか25歳で病没している。
◆写真上:1928年(昭和3)制作とみられる、板倉/昇須美子『ベル・ホノルル23』。
◆写真中上:上は、『ベル・ホノルル23』に描かれた軍艦部分の拡大。中上は、第1次改装を終えた1925年(大正14)撮影の戦艦「陸奥」。中下は、竣工間もない1924年(大正13)撮影の軽巡洋艦『夕張』。下は、横浜沖で挙行された海軍特別大演習・観艦式を1面で報道する1927年(昭和2)10月30日の毎日新聞夕刊。
◆写真中下:上は、パリで撮影されたとみられる板倉/昇須美子。スマホのイヤホンで音楽を聴いているような風情から、100年近い年月をまるで感じさせない。中上は、1927年(昭和2)秋に横浜沖で行われた特別大演習・観艦式の戦艦「陸奥」を写した記念絵はがき。中下は、1928年(昭和3)の撮影とみられる『ベル・ホノルル23』を制作する須美子。下は、同年ごろ制作された同『ベル・ホノルル24』。
◆写真下:上は、1927年(昭和2)ごろ制作の板倉/昇須美子『ベル・ホノルル12』(部分)。中上は、1928年(昭和3)ごろ制作の『ベル・ホノルル26』(部分)。中下は、1931年(昭和6)に制作された同『公園』。下左は、2015年(平成27)に目黒区美術館で開催された「よみがえる画家/板倉鼎・須美子」展図録。下右は、(社)板倉鼎・須美子の画業を伝える会Click!代表の水谷嘉弘様よりお送りいただいた著作『板倉鼎をご存じですか?』(コールサック社)。二瓶等(二瓶徳松)Click!の画業に関連し、拙ブログの紹介もしていただいている。
★おまけ
米軍が撮影した、長門型戦艦の写真を探しに米国サイトをサーフしていたら、米国防省から情報公開されたあまり見たことのない写真数葉を見つけたので、ついでにご紹介したい。上の写真は、1944年(昭和19)10月24日の捷1号作戦(レイテ沖海戦)中に、フィリピンのシブヤン海で米空母艦載機と交戦し、回避運動をする戦艦「長門」(手前)と戦艦「大和」Click!(奥)。なお、「長門」の同型艦で板倉/昇須美子がモチーフにしたとみられる戦艦「陸奥」は、1943年(昭和18)6月に広島沖の柱島泊地で謎の爆発事故により沈没している。中の写真は、同海戦で右舷に至近弾を受ける戦艦「武蔵」Click!で、同艦は同日の19時すぎに転覆してシブヤン海に沈没している。下の写真は、母港の横須賀港で係留砲台とされた敗戦時の戦艦「長門」。上空は米軍の艦載機で、敗戦時に唯一海上に浮かんでいた戦艦だった。
明治期に困窮する刀鍛冶たちのその後。 [気になるエトセトラ]
江戸時代(おそらく前期)に、雑司ヶ谷金山Click!で鍛刀していたという石堂一派Click!のテーマにからめ、これまで大鍛冶(タタラ製鉄)Click!と小鍛冶(刀鍛冶)Click!について、さまざまな角度から事例Click!や地域の特性Click!をここで取りあげてきた。
金山稲荷にいた石堂派は、石堂孫左衛門Click!(おそらく末代)を最後に刀鍛冶を廃業しているとみられる。この石堂一派の初代が、江戸初期に江戸へやってきた石堂守久(秦東連)Click!だと仮定すると、3代ほどで途切れているので、刀剣の需要が極端に落ちこんだ江戸中期には廃業するか、道具鍛冶(野鍛冶)Click!に転向したのかもしれない。そして、最後の人物名が「孫左衛門」Click!として記録されたのではないだろうか。
江戸後期から幕末に剣術道場が隆盛を迎えると、再び刀剣(新々刀期)の需要が増大していく。だが、歴史学者・平川新の研究によれば、関八州(関東地方)に存在した剣術道場の94%が庶民(町人・農民・職人の道場主)によるものであり、武家の道場はわずか6%にすぎなかったことが判明している。つまり、本来なら脇指しか指して歩けないはずの庶民が、刀剣ブーム(武芸と美術鑑賞Click!の両面から)の招来とともに、大刀の剣術稽古を熱心にしていたことになる。日本橋の呉服商の家に生まれた、長谷川時雨Click!の父親・長谷川渓石Click!が、北辰一刀流の免許皆伝だったのは有名な話だ。
もちろん、大っぴらに指して出歩かなければ、大刀を所有するのは庶民の勝手であり、江戸後期の刀剣需要はおもに町人や農民たちが支えていたことになる。以前にも触れたが、戦災に遭わなかった京の刀屋の大福帳では、江戸後期の注文や販売の7割以上Click!が町人からのものであり、おそらく大江戸でも大差ない営業状況だったとみられる。しかも、本来なら禁止されているはずの苗字Click!を、これらの道場主たち(農民・町人・職人を問わず)は公然と名のっており、剣術家を紹介する本(『武術英名録』など)では、すべて氏名入りで出版されていたにもかかわらず、幕府はまったく取り締まろうとはしていない。
このあたり、江戸幕府の“触書(ふれがき)政治”を象徴するような一例でたいへん興味深い。凶悪犯罪はまったく別だが、庶民生活に関する禁止事項を触書で公布し、それに従わない場合は繰り返し何度か触書を発布する。それでも、よほど目にあまる違反行為には、その代表例をスケープゴード的に取り締まるものの、細かなことは自治組織(町役や村役)にまかせるか“自己責任”で……というような感覚だ。
江戸期は封建主義であり、ガチガチな身分制度のもとで圧政と取り締まりに苦しんだというイメージは、最新の研究では明治につくられた虚像の側面が強く、多種多様な記録や最新データをもとに江戸時代の姿が大きく覆りつつある。その代表が、「士農工商」の身分制度など存在しなかったにもかかわらず、一部の中国思想に忠実な儒学者が唱えた用語で江戸期の封建制を強調したいがため、薩長政府がデッチあげていたのが好例だ。現代では小中高校の日本史の教科書から、「士農工商」の虚構は丸ごと排除されつつある。
苗字・帯刀・武芸禁止など生活上のさまざまな“御触”(禁令)も、およそ庶民は遵守していない。むしろ、明治期のほうが警察組織による暴力的取り締まりが過酷で厳しい事例が多かったという。圧政や高税に苦しみ怒りを爆発させる農民一揆は、江戸期より明治期のほうが発生件数が多かったという史実は、すでにこちらでもご紹介Click!していた。
もっとも、明治期の農民一揆は資本主義政治思想の基本理念(議会制民主主義)を踏まえた「自由民権運動」と結びつくケースも多く、時代錯誤な王政復古と公家+藩閥政府に対する反発・抗議運動の性格も強かっただろう。江戸期の“触書政治”の様子を、2008年(平成20)に小学館から出版された『日本の歴史』第12巻より、平川新の文章から引用してみよう。ちなみに、同書はいまから15年以上も前の記述(論証)であり、現代では江戸期(特に都市としての大江戸市内)の研究・分析がさらに進捗している。
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幕府による百姓や町人の武芸禁止の触(ふれ)など、ほとんど効果がなかった。そもそも幕藩制国家は、こうした事態に対応できる取り締まり装置を十分にもっていなかったといってよい。これまで幕藩体制は、むきだしの暴力国家として描かれてきたが、最近では、教諭国家としてのイメージを強めつつある。触書だけをみると、庶民に対して、いかにも厳しい取り締まりをしているかのようにみえるが、実際はそれほどでもなかったからである。武芸禁止も、まさに教諭にとどまっていたのであった。
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さて、新たにスタートした薩長政府では、行政の実績やノウハウを備えた人材がまったく足りず、結局は江戸幕府に閣僚や役人として勤務していた幕臣たちを大量に採用して、各領域の事業・業務の継続や新設をはかることになる。拙サイトでは、郵政の前島密Click!や西洋医学の松本順Click!などのケースをご紹介したが、同様に刀鍛冶も幕府からそのままスライドするように雇用が継続している。源清麿Click!の弟子だった栗原信秀は、戊辰戦争ののち1869年(明治2)にさっそく新政府の兵部省から招聘されている。
また、1873年(明治6)にはウィーン万国博覧会のために、幕府の御用鍛冶だった石堂運寿是一Click!や固山宗次に、美術工芸品としての大刀を各2振り発注している。ふたりのうち、固山宗次は早々に政府から鍛冶の技量をかわれ、目黒火薬庫Click!で鉄砲鍛冶に就任していたという伝承も残っている。また、栗原信秀は刀身彫刻の名人だったので、政府をはじめ日本各地の社(やしろ)から神具や鏡などの制作も依頼されている。
だが、1871年(明治4)の脱刀令(太政官第399号)につづき、1876年(明治9)には太政官布告38号、いわゆる廃刀令が布告されると、刀鍛冶たちは文字どおり飯の食い上げとなった。それでも、同布告に強く反発した士族からは、しばらく注文がつづいただろうが、刀鍛冶の仕事が先細りなのは目に見えていた。士族たちの反発は根強く、腰に指さなければいいと大刀を手にもって歩いたり、杖やステッキなどに反りの浅い刀を隠して外出したりと、刀剣に対する執着は長期にわたってつづいた。
余談だが、現在の刑法ではなんらかの明確な目的をもち、登録証とともに美術工芸品として刀剣を携帯・外出するのは適法だが、仕込み杖や仕込みステッキはハナから違法であり、手にして歩いているのが見つかれば銃刀法違反に問われる。
廃刀令で失業した刀鍛冶の中には、下落合ではおなじみの相馬家Click!中村藩の藩工Click!だった慶心斎直正のように、将来の生活を悲観して自刃した人物もいた。また、源清麿の弟子だった斎藤清人は、故郷の山形県庄内へともどり実家の温泉旅館を継いでいる。だが、先の栗原信秀のように、刀を制作できなくなった多くの刀鍛冶たちは、自身の技術が活かせる別の職業を模索することになる。目白(鋼)Click!の扱いに習熟し、それを加工する高度な技術を修得していることから、道具鍛冶(野鍛冶)へと転身する刀鍛冶も多かった。
たとえば、2代・加藤綱俊は、当初は政府の工部省器械場に雇用されたが、仕事がつまらなかったものか辞職し、包丁や小刀などの刃物鍛冶に転身している。石堂運寿是一の次代、8代・石堂是一も同様にハサミや小刀を鍛造する刃物鍛冶に転向し、9代・石堂秀一は大工道具鍛冶になって現代でもその名が知られている。長運斎綱俊(2代)の息子・千代鶴是秀は、優れたカンナやノコギリ、ノミなどの大工道具を鍛造して高名になった。また、左行秀は廃刀令のあとしばらく鉄砲鍛冶をしていたが、やはり仕事がつまらなかったものか大阪、次いで横浜で刀剣商を開業し、同時に刀の研磨Click!も引き受けている。
また、さまざまな伝法(刀の鍛造法)に通じた腕のよい刀鍛冶たちの中には、偽名刀を制作して密かに刀剣商へ流す人物も現れている。大慶直胤Click!の弟子だった細田平次郎直光(通称「鍛冶平」と呼ばれる)や月山貞一は、その抜群の技量から古刀に似せて刀を打ち、茎(なかご)に偽名を切り錆つけをしては古刀に見せかけ糊口をしのいでいた。これらの偽名刀は、刀の目利きでも見分けがつかないほどの精巧な出来だったようだが、月山貞一はその卓越した技量をかわれ、のちに「帝室技芸員」に任命されている。
さらに、廃業した刀鍛冶の末裔には、美術分野と緊密な関係を築いた人々もいた。明治期になると、西洋から洋式の彫塑・彫刻表現がもちこまれたが、その彫刻刀を鍛造する仕事で、朝倉文夫や高村光雲Click!・光太郎Click!らに重宝された刀鍛冶たちだ。2016年(平成28)に東洋書院から出版された伊藤三平『江戸の日本刀』から、その一部を引用してみよう。
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彫塑家の朝倉文夫はブロンズで製作していたにも関わらず、<千代鶴>是秀の仕事に惚れ込み、植木の手入れ道具から、釣果を調理する包丁、印を彫る時の篆刻刀まで、身の回りの刃物のほとんどを注文している。(中略) 栗原信秀の娘婿の信親は、明治一二年に大正天皇の誕生を祝して刀剣を献上したが、その後は彫刻刀の製作に関わり、高村光雲、光太郎の親子に高く評価される。高村光太郎が『美について』の中の「小刀の味」で「わたくしの子供の頃には小刀打の名工が二人ばかり居て彫刻家仲間に珍重されていた。切出の信親、丸刀の丸山。(中略) 信親、丸山などになると数が少ないので高い値を払って争ってやっと買い求めたものである。」(< >内引用者註)
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2014年(平成26)に豊島区立郷土資料館から刊行された紀要「生活と文化」第24号には、江戸東京でヤスリ(鑢)を代々鍛造しつづけた、池袋本町の「稲田鍛冶店」についての記録が収録されている。稲田家の家系もまた、江戸期よりつづく刀鍛冶の系譜なのかもしれない。ちなみに、「稲田」というネームは出雲神のクシナダヒメ(櫛稲田姫)Click!と同様の苗字であり、古代の産鉄技術集団(タタラ製鉄)Click!との深い関連も大いに気になるところだ。
◆写真上:明治期に記憶画として描かれた、江戸期の上覧剣術稽古の様子。
◆写真中上:上は、1897年(明治30)制作の周延『千代田之表 武術上覧』。千代田城内で、武術稽古を見物する将軍を描いている。中上は、栗原信秀の刃文で荒錵(あらにえ)が混じる相州伝の技法を踏襲している。中下は、栗原信秀の刀身彫刻で玉追龍(不動明王)。下は、石堂運寿是一の錵の強い互(ぐ)の目のたれの相州伝刃文。
◆写真中下:上左は、石堂運寿是一(7代・石堂是一)の肖像。上右は、横浜で刀剣商兼研師になった左行秀。中上は、自刃した相馬中村藩藩工の慶心斎直正の刃文。丁子(ちょうじ)ごころで、小錵のついた広直(ひろすぐ)を焼いている。中下は、生活に困窮し偽名刀を多数手がけたといわれる月山貞一の刃文。匂(におい)出来の小丁子を焼く備前伝だが、のちに「帝室技芸員」となった。下は、同じく偽名刀を数多く手がけた細田直光(鍛冶平)自身による偽作押形(おしがた)。専門家でも見分けがつかないほど完成度の高い偽名刀で、鍛冶平自身が公開した本書により、かろうじて彼の偽名刀が識別できる。
◆写真下:上は、石堂仙寿斎是一のカンナ。中は、いまも人気が高い千代鶴是秀のカンナ。下左は、2008年(平成20)出版の『日本の歴史』第12巻(小学館)。下右は、江戸期の刀鍛冶について詳しい2016年(平成28)出版の伊藤三平『江戸の日本刀』(東洋書院)。
高田町を散策する俣野第四郎と三岸好太郎。 [気になるエトセトラ]
1922年(大正11)に制作された俣野第四郎Click!の作品に、当時は目白通りの北側にあった学習院馬場Click!の東に接する坂道を描いた『学習院馬場附近』(北海道立近代美術館蔵)がある。描画位置が瞬時にわかるのは、左手に見える現・学習院大学キャンパスの南、目白崖線の山麓に移築されて現存する馬術部の厩舎Click!が見えているからだ。
この厩舎は、もともと赤坂表町の憲兵分隊内にあったが、学習院が目白駅Click!前に移転する1908年(明治41)ごろ譲りうけ、目白通りの北側に造成された馬場の東端に移築されている。だが、目白通りの拡幅工事=「高田大通り」化が進むにつれ、1927年(昭和2)になると馬場ともども目白崖線の南麓へ再び移築された。同厩舎は空襲からも焼け残って現存しており、国の登録有形文化財に指定されている。
『学習院馬場附近』は、いまだ幅が狭かった目白通りから、学習院馬場の東端に通う坂道を北北東に向いて描いたものだ。当時の番地でいえば、高田町(大字)高田(字)鶉山24番地あたりの目白通りを、少し北側へ入りこんだところにイーゼルを立てている。この坂からつづく道筋は、丁字路になって突きあたっているように見えるが、実は左手(西側)へ微妙にクラックしてつづいており、ゆるく北東にカーブする道なりに歩いていくと、310mほどで雑司ヶ谷鬼子母神Click!の境内に達することができた。ちょうど、雑司ヶ谷地蔵堂の角地、北辰妙見大菩薩(妙見神)Click!の参道入り口に到着する。当時は、もちろん明治通り(環五)など存在しない時代なので、そのままスムーズに雑司ヶ谷へと抜けられた。
季節は夏に近い時期のようで、強い西陽があたる坂道には日傘をさした女性や、パナマ帽をかぶった夏服の男が描かれている。学習院馬場は、坂道の左手に描かれた厩舎のさらに西側に拡がっており、その先の目白駅に近い位置には学習院に勤務する教職員たちの、20棟近い官舎が建ち並んでいた。画面では、かなりパースのきいた坂道に描かれているが、現在では昭和初期に行われた目白通りの拡幅工事で坂道がかなり短くなり、ちょうど右手の手前に建つ電柱あたりまでが目白通り(の歩道)になっているだろうか。
また、坂道自体の幅も拡げられているので、現状ではこれほど奥行きのある斜面には見えない。1927年(昭和2)に、学習院馬場が目白崖線の南麓に移転すると、その跡地には1929年(昭和4)に町立の高田第五尋常小学校が建設された。したがって、現在の同坂道は区立目白小学校の東側に接する短い坂道となっている。
俣野第四郎が『学習院馬場附近』を描いたのは、目白崖線の南麓にあたる江戸期からの小名「砂利場」Click!と呼ばれる、旧・神田上水北岸の借家に下宿していた時期だ。ちょうど、根性院Click!の南側にあたるエリアだ。札幌から東京へやってきたばかりのころで、親友とともに下宿の周辺を歩きまわりながら風景を写生してまわっていた。札幌から同行した親友とは、札幌第一中学校の同窓で美術クラブ「霞(アネモネ)会」の仲間でもあった三岸好太郎Click!のことだ。三岸の同時代の作品にも、『目白台』というタイトルが見えているので、ふたりは画道具を手に連れだって周辺を散策してまわっていたのだろう。
俣野第四郎が、高田町砂利場へとやってきた当時の様子を、1969年(昭和44)に日動出版から刊行された、下落合在住の美術評論家・田中譲『三岸好太郎』から引用してみよう。
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最初に落ち着いた先は、目白台地の裾を流れる江戸川(ママ)沿いの、じめついた庶民街のなかだった。昔はそのあたりに、江戸川(ママ)をかよった砂利舟が横づけされたものだったそうで、通称は“ジャリバ”。狭い道路に面した洗濯屋の二階だった。二間つづきのそこは、すでに東京の苦学生活を終えて逓信省につとめはじめていた兄俣野第三郎が、第四郎とともに住むために用意した下宿で、好太郎はまもなく住みこみの新聞配達の口にありついた。
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「江戸川」Click!は、旧・神田上水の大洗堰Click!(現在の大滝橋あたり)から、千代田城の外濠までの下流域につけられた名称なので、ここでは旧・神田上水Click!が正しいだろう。この下宿から、ふたりはいずれかの急坂を上って目白通り沿いに出たり、あるいは旧・神田上水に架かる橋をわたって下戸塚(現・西早稲田)側へ抜けたりしながら、各地を写生して歩いていたのだろう。『学習院馬場附近』の描画ポイントから、南東へ直線距離で700mほどの位置に、洗濯屋の2階を借りたふたりの下宿があったことになる。
以前、画面左手の学習院厩舎へお邪魔をしたが、内部の馬房が小さすぎて現代のサラブやアラブの体格に合わず、中の仕切りを打(ぶ)ち抜いて当時の2頭ぶんの馬房を現在の1頭の馬にあてがっていると、馬術部の教官にご教示いただいた。大正期の写真からもうかがえるが、当時の日本馬は驚くほど小さく、現代人が乗ったらバランスが悪くて、かなり滑稽に見えてしまうだろう。時代劇の合戦シーンでは、いまはサラブレッドが多く用いられているが、当時の日本馬はサラブの3分の2から半分ほどの馬体だった。
ちょっと余談だが、先日、学生時代にお世話になった大学の馬場へ久しぶりにいってみた。厩舎はほとんど当時のままだが、さすがに教官や学生たちが利用する建物はリニューアルされ、また傾斜面が残っていた馬場の北側も整地されてきれいな平面になっていた。休日で門が閉まっていたため、厩舎には入れなかったが、わたしが毎週通ったころのような農耕馬やヤクザ馬は、さすがに一掃されたのではないだろうか。
さて、俣野第四郎と三岸好太郎は当時、岸田劉生Click!ばりに草土社風の画面を描いており、作品を春陽会や中央美術Click!が主催する展覧会にそろって出品している。『学習院馬場附近』が制作された1922年(大正11)、俣野第四郎は中央美術展に入選し、翌1923年(大正12)には札幌へ帰省すると俣野に三岸好太郎、さらに小林喜一郎を加えた「三人展」を地元で開催している。また、俣野第四郎は画家になるの反対しつづけていた家族を説得するために、東京美術学校Click!の建築科を受験して合格している。
当時の彼について、1992年(平成4)に求龍堂から出版された匠秀夫『三岸好太郎-昭和洋画史への序章』より、俣野第四郎に関する周囲の証言類を引用してみよう。
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節子夫人、久保守談によると、「色浅黒く細面の理論家肌、頭の切れる男で絵にも鋭いひらめきがあり、後期印象派以降の新しい絵画への理解も深く、彼の語るところは少なからず三岸を啓発した」、ということであり、「美校(註、東京美術学校)建築科を選んだのは、画家になることに反対であった家人をあざむくため」であった。また、「俣野のデッサンは簡潔で新鮮味があり、フォルムに勝れており、東大建築科学生を中心に、わが国でも大正九年から始まったゼセッション運動への関心もあって、建築的な造形美への意識をもっていたせいか、ド・ラ・フレネーに通ずる趣きの絵を描いたが、次第に草土社流の精神性を簡潔な構成に盛り込むようになっていった」という。三岸の書いた「俣野略伝」によると、文章をよくして詩も多く作り、また音楽を好んでギターをよく弾いた。
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俣野第四郎は、中学時代から結核の症状がでて休学しているので、もともと身体が丈夫ではなかったようだ。春陽会展や中央美術展に入選を繰り返すが、関東大震災Click!の翌年、1924年(大正13)には静岡県沼津に転地療養している。そして、3年後の1927年(昭和2)に、風邪をこじらせた肺炎がもとで急死している。まだ、24歳の若さだった。
『学習院馬場附近』制作から1年余、沼津へ転地する前に描かれたとみられる作品に『郊外風景』がある。手前には川の流れとともに、右手に分水流とみられる石組みの護岸が描かれ、その向こうには人家もまばらな中に大きなレンガ造りらしい建築物が描かれている。俣野第四郎は、美校の建築科に進むぐらいだから、少なからず近代建築にも興味があったろう。彼は、旧・神田上水沿いへ1907年(明治40)に建設された、東京電燈駒橋線の早稲田変電所に目を向けなかっただろうか。ひょっとすると、東京へやってきた当初、洗濯屋の2階からも同変電所の建屋がよく見えていたのかもしれない。
おそらく、旧・神田上水が大きく南北へ蛇行する地点、戸塚町下戸塚244番地あたりから、早稲田変電所のある東を向いて描かれたと思われる画面の構図だが、同建築の正門とファサードは東側を向いており、俣野第四郎は同変電所を裏側から眺めて描いていることになる。画面の手前の右手に分岐している流路は、旧・神田上水の流れを利用して造られた、画面の右手枠外に水をたたえている溜池(用水池)から注ぐ流れだろう。早稲田変電所の裏側も、表側と同様に窓がもう少したくさん穿たれていたと思われるのだが、彼ならではの「簡潔な構成に盛り込」んだ表現なのかもしれない。
以前の記事でも触れたが、俣野第四郎は下落合のアトリエにいた甲斐仁代Click!が大好きであり、三岸好太郎とともに彼女を追って我孫子Click!へも写生旅行に出かけているが、当時から中出三也Click!と同棲していた彼女へ、ついに死ぬまでその慕情はとどかなかった。
◆写真上:1922年(大正12)に制作された、俣野第四郎『学習院馬場附近』。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図にみる描画ポイント。中上は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる描画ポイント。中下は、『学習院馬場附近』の現状だが実際の描画ポイントは目白通りの中ほどになる。下は、明治末か大正初期に撮影された学習院馬場の様子。右手には、画面に描かれた学習院厩舎がとらえられており、小さな白馬は乃木希典Click!が利用していた「乃木号」。
◆写真中下:上・中上は、学習院厩舎の東側面の現状。中下は、厩舎内の馬房のひとつ。下は、明治期の部材がそのまま残る学習院厩舎の天井。
◆写真下:上は、1921年(大正10)ごろに撮影された俣野第四郎(左)と三岸好太郎。中上は、学習院厩舎の西側面。中下は、現在の学習院馬場で練習をする学生。下は、久しぶりに訪れたわたしの大学の馬場。厩舎は右手奥にあり、左手が広い馬場となっている。
★おまけ
画面は、俣野第四郎『郊外風景』(1925年)。写真は、戦前に東側から撮影された早稲田変電所の正面。地図は、1919年の1/10,000地形図で想定する描画・撮影ポイント。
仕舞に脂がのった時期に急逝した観世喜之。 [気になる下落合]
以前の記事で、親父が芝居のほかに謡曲(うたい)Click!の趣味ももっていたことを書いた。家の天井にとどく書棚には、山岳Click!や清元Click!、建築Click!や仏教彫刻Click!、芝居本Click!など大量の書籍にまじり、能楽Click!の本もたくさん並んでいたのを憶えている。また、観世流のLPレコード全集もあり、休日や舞台の前にはそれらをカセットテープに録音して携帯していたのだろう、しじゅう浚う声が聞こえてきた。
黙阿弥Click!の七五調セリフClick!などとは異なり、わたしは謡曲の詞(コトバ)にはまったく興味が湧かなかったので、それらの書籍類を開くことはなかったけれど、親父が部屋や風呂場などでうなっているのを聞いていると、いつの間にか詞や節まわしを憶えてしまうことがあった。部屋や風呂場から聞こえてきたのは、いまから思えば『隅田川』や『羽衣』『橋弁慶』『舟弁慶』『高砂』『敦盛』などだったと思いあたる。特に『橋弁慶』と『隅田川』は、親父の練習期間が長かったのかいまでも片鱗を憶えていて謡える。ふだんは近くの稽古場に通ったのだろうが、正式な発表会のときは銀座6丁目にある観世宗家の能楽堂、あるいは神楽坂駅の近くにある矢来能楽堂に出かけているのかもしれない。わたしは、謡いにはまったく興味が湧かなかったので、あえて訊いたことがない。
この矢来能楽堂の前身は、下落合515番地(1932年以降は下落合1丁目511番地)に住んでいた初代・観世喜之邸の邸内にあった能舞台だ。観世喜之が、下落合に自邸と能舞台を建設して転居してきたのは、1923年(大正12)の関東大震災Click!の直後だ。1911年(明治44)に建設され、それまで観世九皐会の拠点だった神田西小川町の能舞台が、大震災の影響で全焼したためだった。震災の翌年、1924年(大正13)には下落合515番地に観世喜之邸が早くも竣工し、同時に舞台披(びら)きも行なわれている。
以来、1930年(昭和5)9月に牛込区(現・新宿区の一部)の矢来町60番地に、いわゆる矢来能楽堂が完成するまで、観世九皐会(通称:矢来観世/観世喜之家)の本拠地は下落合にあった。その後も、観世喜之は下落合に住みつづけているが、残念ながら1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)には、名前が収録されていない。そこで、1933年(昭和8)に聯合通信社から刊行された『日本人事名鑑/昭和9年版』より、その人物紹介を引用してみよう。
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観世喜之 観世流能楽師(略) 淀橋区下落合一ノ五一一
【略歴】本名を喜太郎と称し観世清之の長男 明治十八年二月東京市神田区に出生 同四十年家督を嗣ぐ 幼にして父清之に就き観世流能楽の薫陶を受け同卅年初めて舞台を踏み同卅四年畏くも明治大帝並に昭憲皇太后両陛下御前に於て上覧に供するの光栄に浴し爾来数次に亘て各宮家に御前演能を勤む 観世流能楽の大家として知らる古今亭の雅号を有す
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1924年(大正13)の竣工当時、下落合515番地(のち下落合1丁目511番地)の観世邸+能舞台は、目白駅から目白通りを西へ向かい、近衛家Click!の所有地に建つ目白中学校Click!のキャンパスをすぎてすぐの街角を左折すると、60mほど南下した右手にあった。おそらく震災直後から観世喜之が死去するまで、当時の能楽師や謡曲を趣味にしていた人たちには、ふだんから通いなれた“謡い”の道筋だったろう。
能楽の関連本に、1枚の舞台写真が残されている。1929年(昭和4)の夏に撮影されたものだが、シテを演じているのは観世喜之で、演目は深草少将の怨霊に苦しめられる老婆になった小野小町の『卒塔婆小町』だ。同年は、いまだ矢来能楽堂が落成する以前で、この写真にとらえられた能舞台が、下落合515番地の観世邸内にあった舞台ではないかとみられる。舞台の手前には、観客の入れる見所(観客席のこと)もあり、かなり大きめな建物だったのではないかと思われる。戦前の空中写真にとらえられた、観世邸敷地の道路に面した東側に見えている、まるで寺院の堂のような正方形の建築がそれだろうか。
観世喜之の弟子だった、戸田康保Click!については前回の記事でも書いたが、高田町雑司ヶ谷旭出41番地(のち目白町4丁目41番地)の戸田邸と観世邸は、目白通りをはさみ直線距離で250mほどしか離れていない。戸田康保は、謡いを浚いに足しげく師宅を訪問していたのだろう。1925年(大正14)に、観世流改訂本刊行会から出版された観世喜之が演じる写真帖『能楽審美』には、戸田康保が序文を寄せている。同書より、少しだけ引用してみよう。
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現時観世流能楽の泰斗として名声嘖々たる観世喜之師が演能の粋を蒐めた写真帖であります。斯道今日の興隆は師等の努力が与つて大に力のあつた事は世間周知の事実であります。而も師は久しい間その研鑽を怠らず今や全く円熟の境に入つて其妙技を発揮して居られます。(中略)唯洗練されたる師の型がコロタイプ写真版に撮られて実物其儘の姿態を机上に展開され永久に記念さるゝに至つた事は誠に珍とし喜びに堪へぬ次第であります。想ふに此企は同好の人々の間に持て囃さるゝばかりでなく、美術鑑賞家の書架を賑はし画家彫刻家の好参考にも供せられて更に続刊を待望せらるゝに至るであらうことを信ずるものであります。
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この『能楽審美』(昭和期に入り能楽審美社から刊行される同名の月刊能楽雑誌とは別)に掲載された写真類が撮影されたのも、下落合の観世喜之邸に付属していた能舞台ではないかとみられる。大判のカメラで撮影され、当時としては最高品質のコロタイプ印刷で制作された同写真帖は、明治期以来の仕舞型や装束、小道具、作り物などを研究するうえでも貴重な一級資料となっているのだろう。価格はどこにも記載されていないが、今日、古書店で入手しようとすれば軽く万単位の値段になりそうだ。
ここで余談だけれど、観世喜之の身長はどれぐらいだったのだろうか。写真類から推察するに、160cm前後の能を演じるには違和感がなく、ちょうどよい背丈のように見える。これは芝居の役者にもいえることだが、現代の能舞台で『隅田川』とか『安達原(黒塚)』の老婆を演じるシテが、175~180cmのガタイではどうにも様にならないのだ。上掲の戸田康保の言葉を借りれば、「洗練されたる……型」にはならず、どこか仕舞も含めて滑稽に見えてしまう。『卒塔婆小町』の老衰した小野小町が、面が小さく見え顔が横からはみだすほど栄養がゆきとどき二重アゴでは、およそ興ざめなのと同じだ。
芝居では、親父が気にしていたのは、坂東三津五郎Click!の養子になった女形の坂東玉三郎が、梅幸や松緑Click!などと共演したときだ。玉三郎は、当時としては身長が高く173cmだったので、舞台ではとんでもない大女となり(現代女性では別にめずらしくないが)、他のベテラン役者たちが小男に見えて吞まれてしまう。玉三郎も気にしてか、背をかがめて猫背気味に演じていた印象があるけれど、カヨワクなければならない荒事の“おやま”が、立役者よりも大きなガタイをして立派では様にならないのだ。
子どものころ、17代目・中村勘三郎Click!の夏芝居『東海道四谷怪談Click!(あずまかいどう・よつやかいだん)』(国立劇場だったか?)を観にいったとき、晩年に近い勘三郎は足が悪く、しかもよく肥っていた。勘三郎のお岩さんClick!が舞台に登場すると、大向こうから「中村屋!」の掛け声とともに客席のあちこちから笑いが漏れていた。中村屋もそれをよく承知していて、亡霊になってからのお岩さんは静かにス~ッと現われなければならないのに、あえて肥った身体をジタバタさせながら出現して客席を笑わせていた。
ぜんぜん怖くはなく、共演の役者もつい笑ってしまいセリフに詰まる『東海道四谷怪談』なのだが、観客は大看板である中村勘三郎のお岩さんを観に、わざわざ劇場まで足を運んでいるのであって、南北の怪談を怖がりにきているのではないのでまったく問題はなかった。だが、芝居の舞台では許されるゆるめな演出でも、能楽ではそれが許されない。
観世喜之の養子(甥)で、のちに2世・観世喜之を名のるようになる観世武雄は、師の稽古の厳しさについて書いている。観世喜之が56歳で死去した、1940年(昭和15)刊行の「謡曲界」5月追悼号に収録の、観世武雄『教へる時の父』から少し引用してみよう。
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シテの稽古をしていたゞいたのは、九才の折で岩船が初めです。子供ごゝろでしたが、能が好きな癖に、こんな難しいことなら、いつそ病気になつちまはうかと思ふ程の厳格そのものゝ稽古でした。/年を経るに従つて尚々喧くなり、十四才を覚えてゐますが、羽衣の仕舞で、マネキ扇をするところで、三四度なほして呉れましたが、なおすと言つても、四度目位には扇子で肘を叩かれたのです。そして、五度目にはまだいけず、舞台から見所へ突き落されたことを覚えてゐます。
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跡とりには非常に厳格な師匠だったようだが、おそらく能楽を習いに通っていた弟子や謡いの生徒たちにも、かなり厳しかったのではないだろうか。先述のように、観世喜之は芸に脂が乗りきった時期に下落合で病没している。
観世喜之は、1940年(昭和15)までに軽く1,000番(回)を超える舞台を踏んでいる。同年には「独演能」に挑戦しようとしていたが、身体の調子が悪く延びのびになっていた。演目も、『仲光』『定家』『安達原』の3番を予定している。死去する同年に謡曲界発行所から刊行された『能楽謡曲芸談集』収録の、観世喜之『独演能』から引用してみよう。
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大体私の演じた能は千番となつたので、その記念の為といつてはをかしいですが、まあ千といふ数も一つの区切りでありますので、そんな意味からも、これだけの能を舞つてきた私が一日に幾つかの能をやつてみるのも面白いと考へました。こんな原因もあるのです。/しかし、千番といひましても、実際はそれを超してゐることゝ思ひます。以前は、ずつと自分の舞つた能を手帖につけて居りました。それがあの大震災ですつかり焼いて了ひまして、私としては非常に残念なことなのですが、震災前の記録は、ですから全然なくなつて了つたのです。
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この芸談からわずか5年後、東京大空襲Click!や山手大空襲Click!であまたの能楽に関する貴重な資料類や面、衣装、小道具、作り物などの文化財が数多く焼失したことだろう。
戦争は人命を奪うとともに、貴重な歴史遺産をも全的に消滅させる文明・文化破壊であることを改めて確認しておきたい。矢来町の能楽堂は空襲で全焼したが、下落合の観世邸+能舞台は延焼が迫ったものの、濃い屋敷林が幸いして焼け残り、なんとか戦後を迎えている。
◆写真上:1925年(大正14)出版の観世喜之による写真帖『能楽審美』(観世流改訂本刊行会)より、めでたい席などで一節がよく謡われる『高砂』。
◆写真中上:上は、1929年(昭和4)夏に撮影された下落合の舞台で演じられたとみられる『卒塔婆小町』。中左は、先述の写真帖『能楽審美』の表紙。中右は、晩年に近い初代・観世喜之。下は、写真帖『能楽審美』より『羽衣』と『隅田川』。
◆写真中下:上から下へ、同書より『安達原』、『舟弁慶』、『松風』、『望月』。
◆写真下:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合515番地の観世喜之邸。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸。中下は、戦後1947年(昭和22)撮影の焼け残った観世喜之邸と能楽堂。下は、観世喜之邸の現状。
西武線の「開通」が2ヶ月も早い陸軍記録。 [気になる下落合]
この春、千葉市美術館で「板倉鼎・須美子展」Click!を観賞するついでに、千葉駅の近くにある鉄道第一連隊Click!の本部跡を散策してきた。1926年(大正15)の暮れ、現在の西武線の敷設演習Click!を実施した、あの鉄道連隊Click!のひとつだ。
鉄道第二連隊が駐屯していた津田沼駅も通過したが、こちらは連隊本部がほぼ駅前の繁華街にあたり、当時の面影は皆無に近いが、鉄道第一連隊のほうは連隊内の作業場も含め、いくつかの遺構や遺物が現代まで保存されている。
拙サイトでは早い時期から、開業前の西武線を頻繁に往来する貨物列車の目撃情報をテーマに、地元の資料類や国立公文書館に残る鉄道連隊の記録を調べてきた。すると、西武線が開業する以前に、多摩湖建設Click!のために膨大な建築資材(セメントや砂利など)が集積され、一大物流拠点となっていた東村山から、それら資材を陸軍の大規模な施設の建設が計画されていた戸山ヶ原Click!へ、続々と搬入されていたらしい様子が透けて見えてきた。そして、鉄道連隊が西武線敷設を演習先に選んだのも、東村山からの資材運搬ルートの確保という目的が大きかったように思われる。
特に、1926年(大正15)内に軌条(レール)の敷設が完了し、翌年から下落合氷川明神前の下落合駅Click!より、大正末に鉄筋コンクリートの大型橋梁化が完了していた田島橋Click!を経由して、さまざまな資材・物資が戸山ヶ原Click!へと運びこまれ、流弾被害防止のために建設された大久保射撃場Click!(1927年築)を皮切りに、山手線をはさんだ東西の戸山ヶ原Click!には、大規模なコンクリート建築が次々と建設Click!されていくことになる。
この取材の過程で、1926年(大正15)の暮れに鉄道第一連隊の演習本部が置かれていた、野方町の須藤家(野方町江古田1522番地)の証言記録Click!を発見し、井荻駅付近から下落合駅(氷川社前)、そして山手線の線路土手下(西側)にあたる高田馬場仮駅(第1仮駅)位置までの演習が、わずか1週間足らずで結了していること。また、田無町(のち田無市本町3丁目)の増田家に演習本部が置かれた、鉄道第二連隊とみられる司令部(中華民国の武官が演習を視察している)は、東村山駅付近から田無駅の先(東側)まで複線軌道を敷設するリードタイムが、わずか8日間だったことも判明している。
つまり、東村山から山手線の西側土手下までの軌条敷設は、1926年(大正15)の暮れのうちに、のべ2週間ほどで結了していたことになる。そして、鉄道第一連隊の工兵曹長・笠原治長が発明した新兵器=「軌条敷設器」(制式に採用されてからは「軌条引落架」)について、翌1927年(昭和2)1月13日に西武線演習の成果を踏まえて、制式申請の書類が陸軍省(審査は陸軍技術本部)に提出されている。
西武線敷設が、1926年(大正15)のうちにほぼ結了していたことは、所沢の地元新聞にも報道されている。同年12月5日に発刊された、「所澤魁新聞」から引用してみよう。
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川越線の電化工事は、千葉鉄道聯隊の援助により、東村山から高田馬場間の複線レールも殆んど敷設を終つたので、更らに村山・所澤間を複線に拡張して明春早早には開通の予定で、既に新型ボギー車二十台は村山駅に廻送されてゐるが、同車を利用すれば川越から高田馬場まで約四十五分で到著(ママ:着)し得る高速度であると(ママ:。)
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同記事は、同線の電化工事の予告を報道したものだが、「千葉鉄道聯隊」は千葉県の千葉鉄道第一連隊と津田沼鉄道第二連隊の統合表現だと思われる。
さらに、過去の記事では高田馬場仮駅が二度設置されていた面白い事実も明らかになった。最終的に省線・高田馬場駅と並行して乗り入れるのに、ふたつの仮駅が山手線の西側と、山手線ガードClick!をくぐった東側に存在していたので、当時、次々と日本記録を塗り替えていた三段跳びの選手にちなみ、地元では「高田馬場駅の三段跳び」と呼ばれていたことも、先の須藤家の記録から判明している。
そして、省線・高田馬場駅に隣接したホームへ西武線が乗り入れると、その南側には周囲から「砂利置き場」と呼ばれた広い建材置き場Click!が設置されている。もちろん、東村山方面から運ばれてくる砂利やセメントなどの建築資材や物資を、戸山ヶ原の陸軍施設Click!へ安定して供給するのと同時に、西武線の高田馬場-戸山ヶ原-早稲田間の「地下鉄西武線」建設Click!のためにストックしておく物流拠点だったと思われる。
1927年(昭和2)の早い時期、すなわち西武線が同年4月16日の開業を迎える以前に、東村山から下落合へ建築資材が続々と運びこまれ、戸山ヶ原方面へトラックによるピストン輸送が行なわれていたことも想像に難くない。当時の下落合住民たちは、開業前にもかかわらず西武線を頻繁に往来する貨物列車を目撃しては、不可解さとともに印象的な光景として記憶にとどめたのだろう。
さて、ここでもうひとつ、鉄道連隊は1926年(大正15)の年内に西武線の敷設演習を終えたあと、いつからセメントや砂利などの資材を東村山から運搬しはじめたのか?……というテーマが残っていた。1927年(昭和2)4月16日の開業直前や開業後では、大量の建材や物資をいっぺんに運びこむのは実質的に困難であり、建築資材を運搬するリードタイム自体を、かなり余裕をもって長めに設定しなければならなかったはずだ。
また、西武線は電気鉄道なので、軌条敷設が完了したあとは、さまざまな電化設備の設置工事も並行して行われていただろう。さらには、演習では戦場と同様に臨時の木造橋だったとみられる、河川をわたる橋(大きな河川はないが)を鉄橋に造り変える工事や、大急ぎで構築した軌条を支える基盤(鉄道連隊では「路盤」と呼称)を補強する追加工事などもあったとみられる。乗客を運ぶ電鉄車両に比べ、はるかに重量のある資材を運搬することになる貨物列車の運行を考慮すると、補強工事は入念に行われたにちがいない。事実、驚異的なスピードで実施される鉄道連隊の軌道敷設演習では、路盤の脆弱さや敷設した軌条の無理な湾曲(カーブ)などから、少なからず脱線転覆事故も起きていた。これら煩雑な各種工事の合い間をぬいながら、東村山からの資材運びを行わなければならなかっただろう。
そこで、貨物列車の運行準備が整った時期、つまり各種工事に邪魔をされず線路も補強され、西武線が実質的に「開通」したタイムスタンプを確認できる資料が残されていないかどうか、これまであちこち調べてみたけれど、国立公文書館(陸軍関連記録)にも西武鉄道の記録にも見あたらなかった。おそらく、国内の軍事物資輸送ルートはマル秘扱いのため、記録が残りにくかったのだろうとあきらめかけていた。ところが、思いもよらぬところに東村山駅から高田馬場(実質は氷川社前の下落合駅)までの「開通」記録が残されていた。意外にも、陸軍所沢飛行場Click!に保存されていた資料類だ。
陸軍所沢飛行場では以前にご紹介したように、大正期に入ると飛行船・気球や飛行機を分解して無蓋車に積み、戦場へ運搬する演習を西武鉄道と連携して何度も実施している。だから、西武線が山手線(近く)まで延長されたのに留意し、ことさら記録にとどめたのではないか。当該の記録は、陸軍所沢飛行場の資料を整理して年譜式にまとめた、1978年(昭和52)刊行の小沢敬司『所沢陸軍飛行場史』(非売品)に掲載されていた。
同書には、1927年(昭和2)2月15日の項目に、「西武鉄道、東村山=高田馬場間開通」と記載されている。つまり、西武線が実際に営業を開始する同年4月16日より2ヶ月も前に、陸軍では同線がすでに「開通」したと認識していたことがうかがえる重要な記録だ。換言すれば、2月15日から開業日までの2ヶ月間が東村山に集積された建築資材を、大量に運搬する期間として設定されたリードタイムであり、下落合の住民たちが開業前の線路上を走る貨物列車を、何度も目撃した時期と重なるのだろう。
この2ヶ月間で、どれだけの量の建築資材が戸山ヶ原へ運びこまれたのかは不明だが、その直後から先述した大久保射撃場Click!をはじめ、陸軍軍医学校Click!、陸軍(第一)衛戍病院Click!、陸軍技術本部Click!、陸軍科学研究所Click!など戸山ヶ原の各エリアに、コンクリート建築が次々と竣工していくことになる。
さて、ここで鉄道連隊の部隊編成について触れてみよう。千葉鉄道第一連隊を例にとると、ひとつの作業中隊には兵員が250名ほどで、この構成は1.5kmの軌道敷設を11時間で完了するのを前提に編成されているという。中隊は4つの小隊に分かれ、軌道(レール)を敷く土地の測量や敷設記録を作成する「測量小隊」をはじめ、均地(整地)や経始(中心線定義)、枕木を設置する「第一小隊」、枕木や軌条、接続ボルトなどを運搬して軌条を敷設し金具で固定する「第二小隊」、線路の高低を土や砂利で修正したり、枕木にイヌクギを打ちこんで仕上げていく「第三小隊」とに分かれていた。
それぞれ歩兵の訓練に加え、専門の技術を身につけた兵員(技術兵)ばかりで、1941年(昭和16)まで鉄道第一連隊は3個中隊の編成になっており、また作業部隊とは別に材料廠部隊が設置され、兵員は1,300名ほどいたという。だが、太平洋戦争がはじまると、兵員はほぼ倍増の2,500名にまで増員された。鉄道連隊に関する記録は、実際に同連隊に勤務していた人物が証言している、1990年(平成2)3月に千葉市史編纂委員会が発行した『千葉いまむかし・No.3』(非売品)収録の、岩村増治郎「懐想の鐡道第一聯隊」に詳しい。
千葉駅近くの千葉公園には、鉄道第一連隊の遺構が残されているが、「懐想の鐡道第一聯隊」によれば訓練用トンネルの位置は当時のままで、保存にあたり加工されただけだという。また、同公園には訓練用のコンクリート橋脚やウィンチ台座が保存されている。
◆写真上:千葉公園に残る、鉄道連隊のマークがついた訓練用の隧道(トンネル)。
◆写真中上:上は、1929年(昭和4)作成の1/10,000地形図にみる千葉駅付近の鉄道第一連隊。中上は、1946年(昭和21)撮影の空中写真にみる空襲で壊滅的な被害を受けたとみられる同連隊跡。中下は、1929年(昭和4)作成の1/10,000地形図にみる津田沼駅の鉄道第二連隊。下は、1944年(昭和19)の空中写真にみる同連隊。
◆写真中下:上は、千葉鉄道第一連隊の連隊内演習地。右上に見えているトンネルは、現在も同位置に保存されている。中上は、保存された訓練用のトンネル。中下は、訓練用のコンクリート橋脚。下は、訓練時にウィンチを設置する台座跡。
◆写真下:上左は、1978年(昭和53)出版の小沢敬司『所沢陸軍飛行場史』(非売品)。上右は、1990年(平成2)刊行の『千葉いまむかし・No.3』(千葉市史編纂委員会/非売品)。中は、軌条敷設器(軌条引落架)を使って演習する鉄道連隊。下は、1928年(昭和3)6月22日に陸軍技術本部による軌条引落架の審査が結了し制式採用予定の通知。
★おまけ
千葉公園には、千葉駅周辺に展開した陸軍施設の案内板が設置されている。新宿区の戸山ヶ原も陸軍施設が集中していた地域であり、「新宿区平和都市宣言」の趣旨からも同様の案内板が欲しい。もっとも、鉄道連隊などの千葉とは異なり、戸山ヶ原は毒ガス兵器などを開発していた陸軍科学研究所Click!や、軍医学校防疫研究室(731部隊国内本部)Click!など内容がシビアな案内板となりそうだが、歴史や事実を「なかったこと」にしてはならない。
下落合を描いた画家たち・椿貞雄。 [気になる下落合]
先ごろ、下落合2118番地にアトリエをかまえていた椿貞雄Click!が、1925年(大正14)の春陽会第3回展に「下落合風景」とみられる画面をいくつか出品していることを書いた。その中で、『美中橋』と題する作品を2点出品しており、そのうちの1点は同年の『みづゑ』4月号(春陽会号)に画像が紹介されていることに気がついていた。でも、同号は稀少のせいか画面をいまだ確認できていないとも書いた。ところが、わたしの親しい友人が「みづゑ」の同号を探しだし、わざわざ『美中橋』の画面をコピーしてお送りくださったので、改めて同作について詳しく検討してみたい。
以前の記事で、『美中橋』は下落合(現・中落合/中井含む)の南を流れる、妙正寺川に架かっていた「美仲橋」ではないかと書いた。もっとも、大正期の美仲橋は現在の位置ではなく、蛇行を繰り返す妙正寺川のやや上流にあり、いまの美仲橋から60mほど西に架橋された簡易な木造橋だった。おそらく、画面が描かれた1925年(大正14)の当時、美仲橋は架けられて数年ほどだったろう。椿貞雄は、地元の人から橋名を「みなかばし」と聞いてはいたが、漢字表記はしっかり認識していなかったと思われる。
「みづゑ」掲載の画面を見たとたん、大正中期の落合風景だと直感できる作品だった。描かれた橋は、あまり手間をかけず間にあわせに架けられたらしい木製橋であり、橋下を流れているのは妙正寺川だろう。大正末には、蛇行する旧・神田上水Click!および妙正寺川Click!の整流化工事が、数年後(実際は昭和期)に実施される計画が広く知られていたとみられ、半恒久的な鉄筋コンクリート製の架橋工事は行われていない。
椿貞雄は、以前にもご紹介したように春陽会展へ『美中橋(1)』と『美中橋(2)』の2点を出品しているが、「みづゑ」に掲載された画面は価格が高いほう、すなわちキャンバスサイズが大きい『美中橋(2)』のほうではないかとみられる。ちなみに、『美中橋(2)』は250円だが『美中橋(1)』は120円と半額以下なので、後者はサイズも小さめな画面なのだろう。同展への椿出品でもっとも高額なのは、同じく下落合を描いたと思われる『江戸川上流の景』と、アビラ村(芸術村)Click!の道を描いたとみられる『晴れたる冬の道』の2点で、それぞれ500円の値がついている。
『美中橋』の画面は、後方左手から光線が当たっており、そちらが南側か南に近い方角と考えたほうが自然だろう。当初は、西陽が射している夕景かとも考えたが、妙正寺川の流筋やモチーフの陰影からすると不自然だ。仔細に観察してみると、手前の河原に生えた草叢が枯れて薄茶か黄色をしているらしいこと、遠景右隅に描かれたケヤキと思われる大木が落葉していることなどを踏まえると、真冬に描かれた風景だとみられる。冬の射光を前提とすれば、この画面は午前中に描かれたものだと想定できる。
画面の右手、なだらかな丘上に見えている大屋根は伽藍建築であり、明らかに大きめな寺院が建っているとみられる。橋下の川筋は画面の右手、すなわち北方向へ蛇行しているとみられ、右手から左手へとつづくなだらかな丘下の谷あいにも、小流れか灌漑用水路などがありそうな気配だ。その丘下の位置、画面の左手にはなんらかの施設と思われる建物群や数本の煙突、さらに農家か小屋のような建物が集合して見てとれる。その丘麓に生える樹木も、すべて葉を落としているのが判然としている。これらの画面情報を踏まえ、午前中の射光を考慮すれば、この風景に見あう場所は落合地域でたった1ヶ所しか存在しない。
椿貞雄は、当時は落合町葛ヶ谷御霊下872番地(のち下落合5丁目)あたりの妙正寺川に架けられた旧・美仲橋の東側から、南西の方角を向き上落合(左手)と上高田(右手)の丘上の寺町が拡がる風景を写生していることがわかる。
先述したとおり、昭和期に入ると蛇行した妙正寺川の流れをできるだけ直線に修正するとともに、美仲橋は五ノ坂つづきの道筋につながるよう、描かれた旧・美仲橋の位置から60mほど下流へ新たな現・美仲橋として建設されている。1929年(昭和4)には、美仲橋はすでに五ノ坂つづきの位置(現在地)へ架け替えが終わっているので、簡易な旧・美仲橋が架けられていた期間はおそらく6~7年ではなかったろうか。
右手の丘上に見えているのは、中野町上高田324番地に建つ江戸初期の慶長年間に創建された神足寺本堂の大屋根だ。神足寺は、1607年(慶長12)に行心和上によって江戸市街の木挽町(現・中央区銀座)に建立されたが、1910年(明治43)になると銀座地域の商業地化とともに、現在地の上高田へ移転してきている。実は、神足寺については拙サイトにも何度か登場しており、佐伯祐三Click!の『堂(絵馬堂)』Click!探しですでに同寺を訪問していた。また、神足寺が建つ丘の東斜面には古墳末期とみられる横穴古墳群が集中して築造Click!されており、上落合へ鳥居龍蔵Click!を招聘した月見岡八幡社Click!の守谷源次郎Click!が、考古学チームを組んで昭和初期に発掘調査を行った逸話もご紹介している。
その左手に見えている屋根は、上高田320番地の願正寺の屋根だろう。願正寺は、1912年(大正元)に上高田へ移転しているが、それまでは牛込区原町、その前は江戸の麹町、さらに以前は神田に建立されていた。拙ブログをお読みの方なら、すでにお気づきかと思うが明治期に建っていた牛込区原町3丁目25番地の願正寺Click!境内に下宿していたのが、三宅克己Click!に入門を断られた中村彝Click!だ。上高田の寺町は戦災をまぬがれ、願正寺は昔の面影が残る古建築なので、中村彝が見ていた本堂と同じものかもしれない。
神足寺を含む上高田の寂しい丘上の寺町は、大正期から昭和初期にかけ夜間に行われた町内パトロールの順路になっており、怖い思いをしながら金輪のついた鉄棒をジャラジャラ鳴らし、拍子木を連打しながら巡回した印象的な記録が残っている。少し横道へそれるが、1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田の昔語り』(非売品)より、夜警の様子を引用してみよう。
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道順は、上高田本通りから原田屋さん前まで行く。次に宝仙寺の東側の墓道の間を抜け、願正寺や神足寺の間を抜け「洗い場」の雑木山を木の枝につかまりながら下る。下は耕地整理中の家一軒もない草っ原の所謂「ばっけの原」、これを抜けて氷川様前から、今度は東光寺の前から光徳院前まで行き、更に東光寺の裏手の狭い道を抜け、上高田小学校辺を一巡し、新井薬師駅辺から再び本通りら出て、詰所に戻った。
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地図を見れば、いまでも容易にたどれるパトロールの道順だが、大正期から昭和初期にかけては人家もないようなエリアが多く、夜警の当番を嫌がっていた様子も記録されている。ところで、上高田の地元民も最寄りの西武線・新井薬師前駅を、「新井薬師駅」Click!と呼んでいたのがわかる証言だ。この書籍に限らず、中野区教育委員会が編纂した資料類でも、駅名から「前」を抜いて「新井薬師駅」というのが地元では昔から恒常化していたようだ。ちなみに、別テーマで調べていた中野区刊行の戦後資料でも、多くが一貫して「新井薬師駅」と表記しているので(下段おまけ参照)、わたしも少し安心した。w
さて、なぜ上高田の町内パトロールがそれほど怖かったのか、その答えは椿貞雄『美中橋』の画面左手に描かれた施設群だ。この位置に見えるのは、のちに牧成社牧場Click!が開業する谷間の突きあたりにある、落語「らくだ」Click!でも広く知られていた江戸時代からつづく落合火葬場Click!だ。寺々の墓地中道をゆく夜警パトロールは、この火葬場が近くに見える寺町の丘がいちばん怖かったのではないだろうか。
描かれた煙突のうち、画面左のいちばん高い煙突が落合火葬場のもの、その右手のわずかに低めな煙突が大正期から営業していた銭湯「吾妻湯」(1935年ごろから「帝国湯」)、そして左端のいちばん低い煙突が最初は火の見櫓かと思ったのだが、1925年(大正14)現在は未設なので、火葬場に付属する焼却炉の煙突だろうか。
画道具を抱えた椿貞雄は、1924年(大正13)暮れないしは1925年(大正14)年明けの冬の朝、アトリエをあとにすると上ノ道=アビラ村の道Click!(現・坂上ノ道)を西へ60mほど歩き、五ノ坂を下って中ノ道Click!(=下ノ道/現・中井通り)へと出た。当時、五ノ坂下は丁字路になっており、南側は一面の水田が拡がっていたので、道を右折(西進)すると約60mで妙正寺川へと下る田圃の畦道にさしかかる。朝日はすでに高く昇っており、霜が降りた田圃や妙正寺川の土手は、キラキラと光を反射していたのかもしれない。
この畦道を南南東の方角へ95mほど歩くと、『美中橋』の描画ポイントである旧・美仲橋へとたどり着くことができた。椿貞雄は、旧・美仲橋をわたらず蛇行する妙正寺川の土手沿いを少し東へ歩くと、冬で水抜きされた田圃の葛ヶ谷御霊下900番地(のち下落合5丁目900番地)界隈にイーゼルを立てて、南西の方角を向きながら『美中橋』を描いている。朝早めにアトリエを出たせいか、制作時間はたっぷりあっただろう。午前中におおまかな構図を決め絵の具をざっとの薄塗りすると、あとはアトリエ内での仕事だったのかもしれない。
1925年(大正14)で第3回を迎えた春陽会展だが、会員の椿貞雄は同展で14点もの作品を展示している。その中に、故郷の米沢風景を描いた『置賜駅前風景』という作品がある。どのような画面かは不明だが、同年の中央美術展には『置賜駅前風景』のバリエーション作品とみられる「前」を抜いた『置賜駅風景』を出展している。こちらの画面は、『日本美術年鑑』(1925年版/中央美術)に残されている。「みづゑ」に掲載された『美中橋(2)』とみられる画面だが、バリエーション作品の『美中橋(1)』をはじめ、「下落合風景」と思われる他の作品の画面が、どこか異なるメディアに残されてやしないだろうか。
◆写真上:1925年(大正14)発表(制作は前年?)の、椿貞雄『美中橋(美仲橋)』。
◆写真中上:上は、画面右に描かれた大正期の神足寺とみられる伽藍大屋根の拡大。中は、画面左に描かれた建物群と煙突の拡大。下は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる御霊下900番地の描画ポイントと推定画角。
◆写真中下:上は、大正期から何度か改修されている神足寺本堂の現状。中は、なだらかな丘を麓から見上げた神足寺山門の現状。下は、西武線に断ち切られているが旧・美仲橋へ向かう水田の畦道跡は同線路の南側にいまも残る。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画位置とその周辺。中は、移築だとすれば中村彝も目にした源正寺の本堂。下は、1925年(大正14)の中央美術展に出品された椿貞雄『置賜駅風景』で『置賜駅前風景』(春陽会展)のバリエーション作品だと思われる。
★おまけ
五ノ坂下につづく美仲橋を南側から撮影したもので、『美中橋』に描かれた旧橋から60mほど下流に架かっている。中の2葉は現在の落合斎場で、昔の暗い火葬場の面影は皆無だ。下は、たとえば中野区刊行の『中野区勢概要』(1964年版)にみる西武線の「新井薬師駅」。この伝でいけば、「高輪G/W」駅はほどなく「高輪駅」Click!と表記されそうだ。w
カメラマン徳川慶喜が写した目白崖線沿い。 [気になる下落合]
明治中期になると、下落合には華族Click!やおカネ持ちの別邸あるいは本邸がポツポツと建てられはじめるが、そんな当時の風情を彷彿とさせる写真が残されている。徳川幕府の15代将軍で、音羽の谷間をはさんだ目白崖線の東側につづく丘陵の一画、小石川区小日向第六天町54番地に住んだカメラが趣味の徳川慶喜Click!だ。
しばらく巣鴨1丁目の屋敷にいたが、近くに山手線Click!の巣鴨駅が建設されるのを聞き、騒々しいのがキライなので小日向大六天町の南斜面、大久保長門守教義の屋敷跡に引っ越してきたのは、1901年(明治34)のことだった。目の前には、大洗堰Click!のやや上流から分岐し、後楽園Click!の水戸徳川屋敷跡へとつづく旧・神田上水Click!の小流れが残り、江戸川Click!(1966年より神田川Click!)越しに自身が将軍になってから一度も入城したことのない、千代田城Click!の外濠に位置する牛込見附Click!から市ヶ谷見附Click!、四谷見附Click!方面が見わたせる眺めのいい敷地だった。
第六天町の屋敷からの眺めについて、徳川慶喜の孫にあたる女性の証言を、1986年(昭和61)に朝日新聞社から出版された『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集―』収録の、徳川幹子「十五代さまの周辺」から引用してみよう。
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第六天のお屋敷はいく度もうかがったことがあり、よく存じております。父の話では、このお屋敷は慶喜さまがお建てになったものではなく、とてもお気に召されて移り住まれたものだそうです。ただ、このお屋敷のお入口は、車一台がやっと入るくらいの広さで、たしか、角の写真屋のそばから入ったところにご門があったと記憶しています。/この辺りは小日向台町――つまり高台になっていました。慶喜さまのお部屋は、お二階ではなかったけれども高台にあって、お部屋の下のお庭がずーっと茗荷谷の方に向かって下っていて、その下に江戸川(神田川)が流れており、その先の九段の台の方に靖国神社の鳥居が見えました。鳥居はお部屋からも見えました。
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茗荷谷と江戸川では、屋敷の北と南とで方角が逆なので、明らかに徳川幹子の勘ちがいだろう。南斜面の下は、江戸期より水道端と呼ばれていた。
当時もいまも、小日向の南斜面は寺々が建ち並び、緑が多く家々がそれほど密集していないが、徳川慶喜が転居してきたころは、深い森の中に大きめな屋敷が点在するような趣きだった。静岡時代からカメラが趣味だった慶喜は、さっそく周辺の風景や屋敷の人々を撮影しはじめている。まず、屋敷南側の芝庭を撮影した写真①には、築山や生垣越しに、先述した外濠の北西側に位置する各城門(見附)方面が見わたせるパノラマだ。
遠景の中央から右手にかけてこんもりと繁る森は、牛込見附(門)からつづく神楽坂の丘上あたりから早稲田方面へと連なる、当時はキリ(桐)の森に竹林が密生していた地域だろう。明治期の神楽坂は、夏目漱石Click!の随筆『硝子戸の中』でも描写されているように、追剥ぎでも出そうな鬱蒼とした森林地帯で、女性のひとり歩きも危ない薄暗い寺町でもあった。周囲には、狭山茶Click!を栽培する茶畑農家が多く、寺々の伽藍とその境内森が散在するぐらいで、神楽坂とその周辺に料亭や置屋、待合茶屋などが(城)下町Click!から移転してくるのは、1923年(大正12)の関東大震災Click!以降のことだ。
つづいて、徳川邸の東側を撮影した写真②を見てみよう。江戸川(神田川)が大きくクラックする、大曲(おおまがり)Click!から東側に拡がる小石川町、後楽園から水道橋にかけての風景が写っている。左手の遠景にとらえられている4~5本の煙突群は、陸軍砲兵工廠(のち陸軍造兵廠+工科大学)の敷地で、煙突の間に見え隠れしている森が旧・水戸徳川邸の後楽園だ。左手に見える屋根は、新坂に沿って建つ家令住宅の1軒だろうか。屋根の向こうに、横木に碍子をたくさん載せた白木の電信柱Click!(電話線柱)が見えている。初期の電話線は、1本のケーブルに複数の回線を収容できなかったため、電話の設置が増えるたびに電柱にわたすケーブルも急増していった。
次に、徳川邸の東側を写した写真③を見てみよう。中央の樹間にとらえられている大きな屋敷は、小日向第六天町8番地に建っていた元・会津藩の9代藩主・松平容保邸だ。歴史好きの方なら、明治以降に徳川慶喜と松平容保の家が隣り同士で暮らしているのを見たら、少なからず感慨をもよおすだろう。ただし、松平容保は1893年(明治26)にすでに死去しており、屋敷は長男の松平容大が継いでいた時代だ。余談だが、この松平容大はおもしろい人物で、学習院に入れられたが校風がまったく合わず、学校当局に徹底して反抗したため退学・追放処分となり、のちに東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業している。
撮影時の松平容大屋敷は、徳川邸の半分弱ほどの規模だが、白木の電信柱が見えているので、すでに電話の引かれていたことがわかる。また、松平邸の周辺に住宅が建てこんでいないことから、撮影時期が明治末あたりだったことも推定できる。そろそろ松平容大の健康が思わしくなく、徳川慶喜も見舞いに出かけていたころだろうか。松平容大邸の背後に見えている、緑豊かな丘陵地帯が小日向台町(現・小日向)だ。
これら写真から、華族の本邸や別邸が散在していた明治末から大正初期にかけての下落合風景も、薄っすらと想像できそうだ。目白崖線沿いの南斜面には、江戸期そのままに濃い樹林帯が形成されており、坂道を上りはじめると森林の隙間から、ところどころに大きな屋敷の屋根がチラチラと顔をのぞかせているような風情だった。ただし、落合地域のほうが小日向よりも開発が遅いため、建てられる華族やおカネ持ちの本邸・別邸には和館でなく、西洋館もめずらしくなくなっていく。
徳川慶喜は、自邸と周辺ばかりでなく近所をあちこち散策しながら、風景を切りとってはカメラに収めている。慶喜が愛用していたカメラは、広い画角で風景撮影に適したパノラマカメラと、人物撮影やスナップなどに使われたとみられるプレモカメラ、それにレンズがふたつ装備され立体写真を撮影できるミニマムパルモスステレオカメラの、当時は最先端だったフィルム仕様の高級輸入カメラだった。
徳川邸の南を流れる、江戸川(神田川)の風景も頻繁に撮影している。写真④は、神田上水と江戸川が分岐する50mほど下流にあった、江戸期からの大洗堰を写したものだ。現在の大滝橋あたりの風景だが、画面に写る川全体が江戸川の流れで、真ん中に渡されている長い木樋は、さらに下流に設置された関口水車Click!を廻すための導水樋だ。神田上水は、右手に写る住宅の向こう側を流れており、徳川慶喜が第六天町に転居してきた1901年(明治34)まで、東京の上水道インフラClick!として現役で使用されていた。右手に目白山(椿山)の南麓と急斜面が見えるが、現在は江戸川公園Click!となっている。その斜面や丘上には、目白不動尊Click!や関口尋常小学校、山県有朋邸(椿山荘)などがあった。
花見の名所だった、江戸川(神田川)の桜並木Click!をとらえた写真も残されている。写真⑤は、江戸川に架かる中之橋から上流を眺めた風景で、遠く霞みがちに見えている小さめな橋は、明治期の西江戸川橋だろう。現在は、西江戸川橋と中之橋の間に小桜橋が架かっている。江戸川の岸辺には、花見舟を着けられるように桟橋状の窪みが見られるが、川のあちこちに浮いて見える大きな魚籠のような施設は、江戸川名物だったウナギの生け簀Click!だと思われる。画面左側の道路は、十三間に拡幅された現在の目白通りと上空は首都高5号池袋線、右側の道路はTOPPAN本社前の道路だ。その江戸川沿いの風景だろうか、花見の季節に撮影された写真⑥も残されている。「塩延餅」と書かれた、小さな「御休息所」がとらえられており、この水茶屋の娘なのだろうか小さな女の子が写っている。
さて、徳川慶喜は旧・神田上水をそのまま上流へとたどり、新井薬師まで足を運んでいる。小日向の山麓から、目白崖線沿いの道をそのまま西進したと思われるが、当然、下落合では雑司ヶ谷道Click!と呼ばれた新井薬師道を通っただろう。そのころには、山手線の土手を登る踏み切りClick!ではなく、下落合ガードClick!が完成していただろうか。
新井薬師の表参道から、連続写真のように本堂までを写しているようだが、写真⑦はさまざまな商店が並ぶ参道をすぎて、本堂の手前で撮影したものだ。新井薬師は戦災を受けていないので、徳川慶喜が撮影した明治末の姿を、現在でもそのまま目にすることができる。本堂の右手から、竹竿に結ばれて垂れ下がる幟は、新井薬師の周辺で営業している多種多様な料理屋や茶店、商店などの広告だ。
このほかにも、徳川慶喜は東京をはじめ近県まで遠出して、カメラのシャッターを切っていたようで、名所旧蹟ばかりでなく現在では失われてしまった近代建築なども被写体にしており、それらの写真はかけがえのない貴重な歴史資料となっている。
ちょっと脱線するが、明治末に徳川慶喜が目白崖線沿いを西進する妄想が止まらない。カメラを膝に乗せ、あちこちの屋敷を訪ねては撮影がてら歓談するのを楽しんだらしい慶喜だが、おそらく新井薬師(梅照院薬王寺)へも家令数名とともに馬車を駆って参詣に出かけているのだろう。屋敷を出発し、馬車が音羽の谷間から大洗堰あたりにさしかかると……。
「あすこの、目白山Click!の森から飛びでた2階の屋根は、誰の屋敷だい?」
「はい、山県有朋Click!公爵様は椿山荘のお屋敷です」
「絶対に近寄らん、早く馬車を飛ばせ! なんなら、馬糞をお見舞いしてやれ!」
「……はぁ」
「大きな池が見えるなぁ、あすこの大屋敷は誰のかな?」
「はい、先年、超能力の透視実験Click!とやらをやられた細川護成Click!侯爵様です」
「おう、どんとこいの屋敷か。今度、包丁正宗Click!をカメラで撮りたいものだな」
「……はぁ」
「ところで、あすこの川向うに見えている大屋根は、誰の屋敷かな?」
「はい、大隈重信Click!侯爵様のお屋敷と、先年改名した早稲田大学の校舎です」
「娘茶摘みClick!で女学生好きClick!なスケベジジイに用はないわ! 休憩はならんぞ!」
「……はぁ、まだ出立して15分ばかりですので。……そのお隣りが伯爵の……」
「甘泉園の清水徳川家は、お気の毒だったな。もう、なにもいうな」
「……はぁ」
「ところで、学習院の向こっかわの鉄道脇の丘上に見え隠れする屋根は誰んちだい?」
「はい、つい先だて亡くなりました近衛篤麿Click!公爵様のお屋敷です」
「金輪際、用はないわ! 馬どもにムチをくれろ!」
「近々、その西隣りに相馬子爵Click!様も、赤坂からお屋敷を移されるとか」
「ほう。……なら、いつかそっちへ遊びに寄ろうか」
「その北側には、戸田康保Click!子爵様のお屋敷もありますが」
「きょうは新井薬師だ、また今度にしよう」
「……はぁ」
「あすこの、岬の突端のような丘上にある西洋館は誰んちだい?」
「はい、尾張様Click!から出られた徳川義恕Click!男爵様の別邸でございます」
「ちょいと、寄ってこうか」
「……こちらは、お訪ねになるんで? 出立してまだ30分ですが」
「渋沢栄一君ちのボタンは撮ったし、ここもボタン栽培Click!に凝ってるらしいやね」
「しかし、男爵様がご在宅かどうか」
「なぁに、まだ陽も高いし、留守ならちょいと庭に入れてもらって一服しようや」
「…………こんなにおヒマで、はたしてよろしいのでしょうか」
「あん? なんか、いったかい?」
「いえ、では急坂Click!を上りますので、おつかまりください」
写真集に収録された画面は、徳川慶喜が写したほんの一部の写真だろう。ほかにも、神田川沿いの風景をはじめ、東京各地の写真が多く残されているにちがいない。中には、明治末の下落合の写真も混じっているかもしれないので、ぜひ全画面を見てみたいものだ。
◆写真上:現在は国際仏教学大学院大学キャンパスになっている、第六天町の徳川慶喜邸跡の現状。正門の馬車廻し跡から、南向きに撮影したところ。
◆写真中上:上は、小日向第六天町の高台に位置していた徳川慶喜邸(本人撮影)。中は、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図にみる徳川邸と松平邸。下は、写真①で徳川邸母家の南芝庭から築山と生垣越しに南側の眺望を撮影したもの。
◆写真中下:上は、写真②で徳川邸の東側風景で砲兵工廠から後楽園あたりの眺望。中上は、写真③で徳川邸の西隣りに建つ松平容保・容大邸と小日向台の森林。中下は、写真④で江戸期を通じて江戸川(神田川)に設置されていた明治末の大洗堰。下左は、徳川慶喜が愛用した風景撮影用のパノラマカメラ。下右は、1986年(昭和61)に出版された『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集―』(朝日新聞社)。
◆写真下:上は、写真⑤で桜並木がつづく花見の名所だった江戸川を中之橋から上流を向いて。中は、写真⑥で花見の季節に撮影された水茶屋。下は、写真⑦で新井薬師の本堂。
★おまけ1
目白山(椿山)の丘上に建てられていた、1878年(明治11)築の山県有朋邸(椿山荘)。
★おまけ2
徳川慶喜は周辺の風景ばかりでなく、散歩の途中で出会った人々や事物などもスナップ写真として撮影している。“洗い場”でダイコンを洗う農民と、ススキにたかるカマキリ。
下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(8) [気になる下落合]
少し前にも触れたが、画面に既視感があると感じたのは、この造成地にあるキリの木だった。曾宮一念Click!が1920年(大正9)に描くキりの木は、1923年(大正12)制作の『夕日の路』Click!でも、やや成長した枝ぶりで再度描かれている。それは、もとの角地の道端ではなく、曾宮の造園によってアトリエの南西庭に移植されたあとの姿だ。
曾宮一念Click!は、1921年(大正10)3月初めに下落合623番地へ建設中だったアトリエが竣工後、綾子夫人が臨月だったためすぐには新居へ引っ越しはせず、長男・俊一Click!の出産(3月22日)を待ち、同年の3月末に淀橋町(大字)柏木(字)成子町北側128番地の借家Click!から下落合へ転居してきている。キリの移植を軸に考えると、わたしが描かれた画面の風情に既視感があるのはあたりまえのことだった。画面の前の道を歩きながら、しょっちゅうこの風景を目前にして散策しているからだ。当時と同様に、曾宮一念アトリエClick!跡は広い空き地となって舗装され、長年にわたり駐車場として利用されてきた。一時期は、北側に小さな医院が開業していたが、現在はその敷地も含めて駐車場になっている。
『風景』に描かれた造成地は、中村彝Click!によれば夏目利政Click!が借地権を管理する地所で、夏目が曾宮にアトリエの建設を勧めたのではないか。ひょっとすると、ドロボーClick!に入られた下落合544番地に住んだ際、曾宮一念は彝の仲介で夏目にアトリエ敷地探しを依頼してから、淀橋町柏木へ転居しているのかもしれない。
曾宮がアトリエを建てたあと、この一帯には片多徳郎Click!(下落合734番地)や牧野虎雄Click!(下落合604番地)、蕗谷虹児Click!(下落合622番地)、一時的だが村山知義・籌子夫妻Click!(下落合735番地)などのアトリエが集中するが、これも夏目利政Click!によるマネジメントだった可能性がある。下落合800番地台の“アトリエ村”Click!につづき、夏目利政はここでも“アトリエ村”を形成しようとしていたのではないか。余談だが、さまざまな画集を発行していた後藤真太郎Click!の座右寶刊行会本社も下落合735番地、つまり村山アトリエと同番地なので、これも夏目による紹介だったのかもしれない。
夏目利政は、当該の土地を所有しているのではなく、借地権およびその管理を地主から委託され、画家たちを勧誘してはアトリエを建てていたフシが見える。曾宮一念アトリエも、ふたりで打ち合わせながら夏目が図面を引いているのではないか。
当時の様子を、1926年(大正15)に岩波書店から出版された中村彝『芸術の無限感』Click!より、大正9年7月21日付け洲崎義郎Click!あての手紙から引用してみよう。
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曾宮君は夏目君が借地権を持つて居る地所を借り受けて、そこへ画室を立(ママ:建)てることになりました。二瓶君の画室の少し先の谷の上で大変眺望のいゝ処です。
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曾宮アトリエは、下落合584番地の二瓶等アトリエClick!から、西へ約210mほど歩く諏訪谷Click!に南面した位置にあった。のち1926年(大正15)の夏、佐伯祐三Click!が画面の左手から連作「下落合風景」Click!の1作『セメントの坪(ヘイ)』Click!を描く、あの場所だ。
『風景』を描いた1920年(大正9)の時点で、地鎮祭は終っていたものだろうか。自身の住宅を建てる前、その敷地を写真に収めるのは今日ではありがちなことだが、曾宮一念はタブローに仕上げて保存したのだろう。画面の様子から、季節は秋の風情だが、曾宮アトリエが竣工するのは、翌1921年(大正10)3月のことだ。したがって、アトリエが完成する5~6ヶ月ほど前、そろそろ地鎮祭が終わり建設に取りかかりそうな1920年(大正9)10月下旬あたりの情景だろうか。では、画面を仔細に観察してみよう。
まず、曾宮アトリエClick!の敷地に接する北側には、1926年(大正15)の時点で「下落合事情明細図」に記載されている青木辰五郎邸が、いまだ建設されていないのがわかる。なにかの畑地(上部が紅葉しはじめた植木畑だろうか?)になっていたようで、ほどなく北側の位置には青木邸が建設されている。鶴田吾郎Click!によれば、青木邸は植木農家だったということで、その家の娘のひとりを描いた『農家の子』Click!(1922年)がタブローで残されている。昭和期に入ると、青木邸の敷地には新たに三沼邸が建設されている。
画面の左手に見えている、濃い灰色の大きな屋根と赤い屋根の家屋群が、東京美術学校のOBだった下落合622番地の日本画家・川村東陽邸だ。曾宮一念が隣りにアトリエを建てた当時、川村東陽Click!は画業そっちのけで落合村会議員(のち町会議員)の職務に就いていたとみられ、なにかと羽振りがよく近隣に対して威張っていたのだろう。のちに、曾宮一念との間で川村家の飼いネコをめぐる「ウンコ戦争」Click!を引き起こすことになるが、『風景』を描いている曾宮一念は当時、そんなことは知るよしもなかった。
川村東陽は、1932年(昭和7)に東京35区Click!制が施行されるころ、淀橋区議会議員に立候補するためか下落合から転居している。その広い跡地(画面では左手一帯)には、蕗谷虹児アトリエClick!をはじめ白井邸や谷口邸Click!などが建設されている。ちなみに、曾宮アトリエの西隣りにあたる下落合622番地の谷口邸は、昭和初期から海軍の八八艦隊構想に対し軍縮外交を優先して、米内光政Click!とともに最後まで日米開戦に反対しつづけた、元・聯合艦隊司令長官の退役海軍大将・谷口尚真邸だ。
画面の奥に見えている、ややキリの木の陰になっている赤い屋根の2階家は、1926年(大正15)現在でいえば荒木定右衛門邸(下落合621番地)だが、これも既視感が生じた大きな要因のひとつで、現在でも灰色の屋根が乗る2階家の向こう側(北側)、東西に長い同じ敷地の位置に、赤い屋根の2階家が同様の向きで建っている。昭和期に入ると、荒木邸の敷地には新たに木村邸が建設されている。
荒木定右衛門邸の少し左手(西側)、薄いグレーの主屋根を南北に向けて西陽が当たる2階家は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」でいえば山田邸(下落合630番地)ということになる。ちなみに、山田邸の少し北西側、同じ下落合630番地の森田亀之助邸Click!の南側には、昭和に入ると里見勝蔵Click!がアトリエをかまえて京都から転居してくる。佐伯祐三が1926年(大正15)10月10日に描いた『森たさんのトナリ』Click!の、あの一画だ。ひょっとすると、左手の遠方に見えている2階家が、『森たさんのトナリ』に描かれた2階家の近くに建つ住宅なのかもしれない。距離感からいえば、ちょうどそのあたりに見えたはずだ。
さて、興味深い画面の右手(東側)を観察してみよう。右側に描かれた、北へと向かう道筋はやわらかく東へとカーブしている。現在は、できるだけ直線化されているが、宅地の関係からどうしても修正しきれない北寄りの道は、東側へ曲りこんだまま現在にいたっている。道路の右端は、板を並べてつないだような簡易板塀に蔦がはっているような表現で描かれているが、この塀の向こう側が下落合604番地の大きな浅川秀次邸の敷地だ。
浅川邸の板塀は、関東大震災の前後に造りかえられたらしく、高価そうな和風の白い腰高の練塀が広い屋敷を取り囲んでいた。それは、曾宮一念の『夕日の路』(1923年)でも見ることができるが、その仕様から浅川邸は大きな和風建築だったとみられる。また、曾宮アトリエの建設や浅川邸の新たな練塀の築造とともに、道路の直線化も促進されたと思われるが、1936年(昭和11)の空中写真を見ると、現状とはやや異なりいまだ中ほどから東へゆるやかにカーブしている様子が見てとれる。また、1938年(昭和13)ごろになると浅川邸は転居し、かわって土井邸(おそらく洋館)が建設されている。
曾宮一念は西陽が好きなのか、『風景』(1920年)でも『夕日の路』(1923年)でも橙色の光線で風景を描いている。その夕陽に照らされた浅川邸の新たな練塀を、1926年(大正15)10月22日に描いたのが佐伯祐三の『浅川ヘイ』Click!だ。いまだ実見はおろか、戦災をくぐり抜けて現存しているかさえ不明な作品だが、おそらく曾宮一念の『風景』同様にパースのきいた構図で、重い瓦を載せた和風の白い練塀がつづく、赤土が剥きだしの道路を描いていると思われる。たぶん、サインがないためどこかに埋もれているのかもしれないが、心あたりのある方はぜひコメント欄にでもご一報いただきたい。
曾宮一念は、『風景』の中央に描き、アトリエの建設とともに庭の西側に移植したキリの木について、著書に想い出を記している。1938年(昭和13)に座右寶刊行会から出版された曾宮一念『いはの群』より、下落合へ転居してきた当時の様子を引用してみよう。
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もう二十年も前のことになる。思ひがけないよくて安い地所を見付けたと思つてゐると私の借りた日から地代が二倍にされてゐる。それに前の借地人二年分の地代も払へといふことで、まづこんなものかと驚いたものである。然しこゝへは以前来て路端の桐の木を写生したことがあり、ちようどこの木は私の借りた地所と路との傾斜面に根を張つてゐた、ことはつておくがこの木もその時買ひ取れといふので以来私のものとなつてゐるのである。(中略) さて家を建てることになつたが履脱ぎ三尺の土間もつけられない始末なので、庭の周囲の垣根の予算などあらう筈がなく、丸太に針金の手製で間に合はす積りでゐるとこれも東南に四十間を立派な檜垣を作らされてしまつた。(青文字引用者註)
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この敷地と路端との境界に生えていた「桐の木」は、アトリエを建てる前から曾宮一念の印象的なモチーフになっていたようで、『風景』(1920年)や『夕日の路』(1923年)につづき、第12回二科展で樗牛賞を受賞する『荒園』(1925年)までつづけて描かれている。
どうやら、借地権を管理していた夏目利政は、かなりの商売上手というか“やり手”だったようで、曾宮一念は手もなく彼に丸めこまれてアトリエを建てているようだ。夏目は、地主や建設事務所からコミッションをもらって、画業とは別に生活の足しにしていたのだろう。
◆写真上:1920年(大正9)に、アトリエの建設予定地を描いた曾宮一念『風景』。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント。中上は、1923年(大正12)制作の曾宮一念『夕日の路』(提供:江崎晴城様Click!)。中下は、『風景』と『夕日の路』のキリの拡大。下は、曾宮一念アトリエ跡の現状。
◆写真中下:上は、1925年(大正14)制作の『荒園』(提供:江崎晴城様)にみる移植されたキリ(右手)。中上は、庭にたたずむ曾宮一念(提供:江崎晴城様)。中下は、『風景』と『夕日の路』の浅川邸練塀の比較。下は、写真の浅川邸練塀の拡大。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる『風景』の描画ポイントと曾宮一念アトリエ。中上は、『風景』の描画ポイント跡の現状で右側の坂道は諏訪谷へと下る。中下は、1926年(大正15)の夏(9月1日以前)に制作された佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』。下は、『セメントの坪(ヘイ)』の現状と★印は『風景』描画ポイント。佐伯がイーゼルを立てた『セメントの坪(ヘイ)』の川村東陽邸敷地は、やがて谷口邸の建設予定地となり、1935年(昭和10)ごろに谷口尚真一家が赤坂から転居してくることになる。
★おまけ1
谷口尚真は、満洲事変の際に日中戦争は絶対反対、ましてや日米戦争などもってのほかと、死ぬまで一貫して戦争に反対しつづけた。軍国主義の体制内で、日本の「亡国」招来を見通せていた数少ない提督のひとりだ。後輩の米内光政とも親しく、戦争へと突き進む日本の「静かなる盾」の役割りをはたしていたが、1941年(昭和16)に下落合で死去している。敗戦間際に、陸軍から生命を狙われていた米内光政Click!は、自宅へは帰れず“潜行”して隠れ家を転々としているが、下落合の林泉園近くで頻繁に目撃されている。谷口尚真の人脈がらみで、下落合の隠れ家にいた可能性もありそうだ。写真は、谷口尚真(左)と米内光政。下は、画家たちのアトリエに囲まれた1938年(昭和13)の谷口尚真邸。海軍の提督でありながら、一貫して戦争に反対しつづけた谷口尚真については、また機会があれば書いてみたい。
★おまけ2
武蔵野らしく、下落合の森に実るヤマグワの実。ジャムにしてもパイにしても、色どりがきれいでベリーのように甘酸っぱくて美味しいだろう。★おまけ2
佐伯祐三の入浴を節穴からのぞく「アキや」。 [気になる下落合]
下落合661番地の佐伯祐三Click!のアトリエに、米子夫人の記憶によれば伊香保からやってきた「アキや」という女性を女中がわりに寄宿させていた。この女性は、苗字は不明だが「アキ」という名前だったらしく、佐伯家では彼女のことを「アキや」と呼んでいた。関東大震災Click!が起きる前、1922~1923年(大正11~12)ごろのことだ。
実は、すでにアキやClick!は拙ブログに登場している。大柄で肥りぎみな身体をゆらしながら、佐伯家の娘・彌智子と曾宮家の息子・俊一を乳母車に乗せ、下落合のあちこちを散歩したり、目白通りで買い物をしていたあの女性だ。伊香保というと群馬県なので、友人の誰かからの紹介か、あるいは米子夫人の悪い足を心配した池田家とのつながりで預かり、寄宿させていたのかもしれない。東京へは、なにか目的があってやってきたのだろうが、佐伯一家が第1次渡仏をする関東大震災のころにはいなくなっているようなので、どこかへ家事見習いとして住みこむか新たな働き口を見つけたのかもしれない。
その様子を、以前に江崎晴城様Click!よりお送りいただいた曾宮一念Click!の講演記録から再び引用してみよう。この講演は、1984年(昭和54)11月9日に行われたものだ。
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(前略) 体のえらい立派な女中さんがいましてね、名前は忘れましたがね。それが佐伯の一人娘の彌智子さん、やっぱりちょうどうちの息子と同じ年くらいのまだちょっと歩けるくらいの赤ちゃん。その二人を乳母車に乗せて、買い物旁々、歩いてくれるんです。僕はそれで大変助かりましてね。うちの息子は行くの嫌だなんて言ったこともありますけど、とにかく追い出しちゃうと、ウトウトと乳母車の中で二人とも居眠りしちゃう。そうすると、一日、その体の大きな女中がお守りしながらいてくれるんです。その間、僕は絵を描いていられたんで、大変ありがたかった。僕も不自由な生活ですしね。そうして夜、迎えに行って、佐伯の所に行くと、晩飯を一緒によく食った。それで佐伯はまあ毎日のように、牛肉のすき焼きなんですよ。こっちはちょっと飽きちゃったけどね。それでもまあ、向こうへ行けば僕は自炊する必要もないし、それで、毎日のようにすき焼きを二人でね。
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米子夫人Click!は足が悪く、曾宮の綾子夫人は以前から病気がちだったので、ふたつの家庭はアキやの活躍で非常に助けられていた様子が伝わる。
あきヤは、かなり身長が高く肥りぎみで体格がよかったらしく、絵のヌードモデルにしたくなったのだろう、佐伯祐三は近所の二瓶等(二瓶徳松)Click!と相談して、あきヤにモデルになってくれるよう頼みこんでいる。そのきっかけを作ったのは、中村彝Click!のルノワールばりの表現に惹かれていた二瓶等Click!のほうだったのかもしれない。ルノワールが描く女性は、よくいえば“ふくよか”、悪くいえば肥満ぎみの女性が多く、二瓶もそのような女性をモデルにして描いてみたくなったものだろうか。
宮崎モデル紹介所Click!から派遣されてくるモデルは、家族の暮らしや生活費に困っている女性が多いせいか、そこまで“ふくよか”なモデルはなかなかおらず、そもそものきっかけは二瓶等が佐伯に頼みこんだ可能性もありそうだ。
また、アキやはおかしな性格をしていて、佐伯が入浴しているとしばしば風呂場をのぞき見していたようで、佐伯自身や、それを聞いた米子夫人も困惑していたらしい。それも、焚口の近くの小窓から湯加減を確かめるためにのぞくのではなく、アキやは風呂場の板壁に開いていた節穴から中をジッとのぞいていたらしい。
この風呂場だが、佐伯邸の母家にもアトリエにも風呂は設置されていない。米子夫人の足が悪いため、いちいち菊の湯Click!(または福の湯Click!)へ通わなくても済むように、庭先へ簡易風呂場をしつらえたあとのエピソードだと思われるので、1922年(大正11)以降のことだろう。この風呂は、銭湯へ出かけるたびに悪い足をジロジロ見られる米子夫人が、DIY好きな佐伯に頼むか、大工に依頼して庭先に建てさせたものだ。
その様子を記した手紙も、江崎晴城様よりお送りいただいた曾宮一念Click!資料にあった。佐伯米子Click!から曾宮にあてた手紙で、内容に「としちやんとメンタイちやんは、死んでしまいました。」とあるので、戦後にやり取りされたものだろう。「としちやん」とは、1945年(昭和20)3月25日に中国の湖北省老河口で戦死した曾宮俊一Click!のことで、「メンタイちやん」とはもちろん第2次渡仏時のパリで、1928年(昭和3)8月30日に病没した娘の佐伯彌智子Click!のことだ。ふたりは、1922年(大正11)2月21日生まれ(彌智子)と、1921年(大正10)3月21日生まれ(俊一)とで歳も近く、アキやが両アトリエからふたりを連れだしては、下落合を散歩しながらよく面倒を見ていた。
佐伯が死去した際、曾宮アトリエClick!に佐伯の幽霊(庭先からの声Click!)が現れたのを綾子夫人が気づき、その様子を曾宮が手紙で佐伯米子に伝えたのだろう、その返信として大阪の佐伯祐正Click!のもとにも、「庭さきを、メンタイちやんをだいて行ったりきたりする佐伯の姿を兄が、はっきり見た」と米子は記している。そして、佐伯死去の電報を受けとる前に、佐伯祐正は「あゝもうこれはだめだナ」と感じていたらしい。
アキやの話が登場するのは、この佐伯の幽霊譚のすぐあとのことだ。これも、アキやについて曾宮から米子夫人へなにか改めて問い合わせをしているらしい。戦後の年代は不明だが、「三月廿二日夜」の日付が入る佐伯米子の手紙Click!から引用してみよう。
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あの時のアキヤという女中のことは曾宮さんにおっしやられていまさらのように思い出しました。肥っていたのでハダカのモデルにしようと二瓶(等)さんとさえき(佐伯祐三)がたのみましたら奥さん(米子夫人)には見せないけれど男性二人には見せると申しました。そしてとうとうモデルになりましたが……。(カッコ内引用者註)
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アキやがモデルになった作品とは、どれのことだろうか。ちょうど、1923年(大正12)ごろに描かれた佐伯祐三の作品に、『ベッドに坐る裸婦』(1923年/和歌山県立近代美術館蔵)と、『裸婦』(1923年ごろ/西宮市大谷記念美術館蔵)の2点がある。確かに、かなり肥ったドッシリ型の女性で当時としては身長も高そうだが、米子夫人が強調するほどに肥満体ではなく、“ふくよか”ぐらいClick!な体型のように見える。2作品ともルノワールばりの表現で、おそらく二瓶等のキャンバスも同様の絵の具で塗られていたと思われる。
描かれた場所は、ベッドが置かれ敷物なども揃っていそうな環境なので、佐伯アトリエではなく下落合584番地の二瓶等アトリエClick!で制作されたものか。二瓶等の作品には、翌1924年(大正13)に発表されたベッドに座る『裸の女』が、やはりルノワールばりの筆致で描かれており、同作が佐伯とともに描いたアキやの可能性が残る。ただし、『裸の女』も3段腹の“ふくよか”な女性だが、メタボというほどではないように思える。もっとも、現代の感覚からいえば、食べすぎで肥満といわれてしまいそうだが……。
佐伯の入浴を、板壁の節穴からのぞいていた挑発的なアキやの話は、佐伯と二瓶のモデルになった話の直後に登場している。つづけて、米子夫人の手紙から引用しよう。
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サエキがおふろに入っていると板のふし穴からのぞいて(ダンナ)その頃の言葉)<二重のカッコは米子筆記のママ>とよんで何かいうので、こまっておりました。/お食よくは“おおせい”<原文は傍点>で大変でした。おデンが好きで大きなお鍋に一ぱいたいらげてしまいました。あれはたしか伊香保からきたのですが今も生きていたら一度曾宮さんにおめにかけたいようです。(< >内引用者註)
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板壁の節穴から「ダンナ」と声をかけ、アキやは佐伯祐三になにをいっていたのだろうか。なにか性的な言葉を浴びせて佐伯を挑発していたものか、あるいは無邪気になにか冷やかしをいっていたものだろうか。
ヌードモデルになるぐらいだから、案外、男にはスレていたのかもしれない。アキやについて、佐伯や曾宮の記録以外に、二瓶等Click!関連の資料にもなにか残っていそうだし、師の中村彝にも作品の批評を請うついでになにかを話していそうだし、さらには佐伯アトリエを同時期に借りて卒業制作をしていた山田新一Click!も、なんらかの証言を残していそうなのだが、寡聞にしてアキやの話はこれらの資料から見いだすことができないでいる。
米子夫人の言葉を信じれば、鍋いっぱいにつくったおでんをひとりで平らげたというから、かなりの大食漢だったらしいが、おそらく佐伯夫妻の献立とは別に、自分用の料理をつくっては台所脇にあった3畳の女中部屋で食べていたのだろう。米子夫人は食が細かったようなので、佐伯家の余ったすき焼きClick!や“はなよめ”Click!の缶詰なども、とっておくと傷んで(腐って)もったいないからと、アキやがさっさと片づけていたのかもしれない。
◆写真上:籠編みが多かった、大正期から昭和初期にかけての古い乳母車。
◆写真中上:上は、1985年(昭和60)に目黒美術館によって撮影された佐伯邸の母家とアトリエ。中は、解体直前に撮影されたとみられるアトリエ(右)、母家(中)、増築部の米子夫人居間(左)。下は、風呂場のない佐伯邸1階の平面図。
◆写真中下:上・中上は、佐伯米子から曾宮一念あての「アキヤ」が登場する手紙。中下は、曾宮一念と息子の俊一。下は、佐伯祐三と彌智子。
◆写真下:上は、1923年(大正12)制作の佐伯祐三『ベッドに坐る裸婦』。中は、同年ごろ制作の佐伯祐三『裸婦』。下は、1924年(大正13)の帝展出品作で二瓶等『裸の女』。
盗品の夢二屏風をめぐる宮地嘉六と沖野岩三郎。 [気になる下落合]
この物語は、下落合(現・中落合/中井含む)で酒屋を経営する尾崎三良という人物が、1929年(昭和4)ごろドロボーClick!に入られた時点からはじまる。尾崎が店内を掃除中、打ち水のために井戸へバケツの水を汲みにいっているほんのわずかな隙に、ショウウィンドウに並べていたパイナップル缶詰めを3つ盗まれた。だが、店の硝子戸には板を包んだような風呂敷が立てかけられていたので、店主は最初、お客がちょっと他の用事を済ませに店前を離れただけと考え、パイナップル缶の盗難には気づかなかった。
ところが、待てど暮らせど風呂敷包みを残したお客は現れず、ついにショウウィンドウのパイナップル缶が消えているのに気づき、ようやく店主はドロボーに入られたことを察知した。ショウウィンドウから缶詰めを盗んでいると、意外に早く店内にもどってきた店主に気づき、ドロボーはあわてて風呂敷包みを残したまま逃走したらしい。電話で警察に相談すると、風呂敷包みをもって被害届けを提出しろということになった。
戸塚警察署Click!へ出向き被害届けを出して、警官が立ちあいのもとで風呂敷包みをそっと解くと、竹久夢二Click!の作品らしい屏風が1隻現れた。高価なものらしいので、近いうちに盗難届けがあるだろうということで、屏風は戸塚警察署が保管することになり、店主は署長から預かり証をもらって下落合に帰った。
ところが、1年たっても盗難届けがどこからも提出されず、店主の尾崎は戸塚警察署から呼びだされると、屏風は遺失物扱いになるので改めて遺失物拾得届けを提出させた。そして、1年すぎても持ち主が不明ということで、そのまま屏風は店主に下げわたされた。のちに判明することになるが、屏風は住宅の蔵の奥にしまわれていたもので、持ち主もその盗難に気づかず数年後にようやく「ない」ことに気づいている。
尾崎三良は、夢二屏風を部屋へ飾るというような趣味にまったく興味がなかったので、店の得意先である作家に声をかけてみようと思いついた。得意先とは、当時は落合町葛ヶ谷15番地Click!(現・西落合1丁目)に住んでいた、家を新築したばかりの宮地嘉六Click!だった。ちょうど、報知新聞に連載していた『愛の十字街』の原稿料で、念願の自邸を片岡鉄兵邸Click!の並びに建設したばかりだった。酒屋の店主は、ドロボーと夢二屏風の一件を宮地嘉六に話すと、家には似合わないからと代金も取らずに置いていった。
その宮地邸を訪れたのが、東北地方の学校を転々としながら長く教育現場に勤務していた小泉秀之助だった。彼は、日本の生活言語から地方方言を排斥し、「標準語」Click!の強制を推進した著作類でつとに有名な人物で、この当時は下落合かその周辺域に住んでいたようだ。薩長政府の意向へ忠実のあまり、東北方言はもちろん東京方言Click!の駆逐にも加担していたとすれば、『京都ぎらい』Click!の京都人・井上章一と同様の思いで、わたしも少なからず怒りをおぼえる人物のひとりだ。1941年(昭和16)に美術と趣味社から刊行された「書誌情報」5月号収録の、沖野岩三郎Click!『続宛名日記』(廿二)から引用してみよう。
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そこへ(宮地嘉六邸へ)訪問して来たのが小泉老であつた。「これは珍しいものがあるね。実は僕が福島県の師範学校長をしてゐる時、夢二君が山田順子女史と相携へて福島へ来たものだ。その時半折一枚の美人画を買つた。僕の買つた美人画は非常によく出来てゐたが、友人にもつて行かれて惜しいことをしたものだ。君、これを僕に売つてくれないか」/「しかし、これは僕の所有品ぢやないんだから、持主に相談してみませう。」/「では頼むよ」/と、いふやうなことで、遂にその屏風は小泉老のものとなつたのである。爾来櫛風沐雨ではなく、行儀正しく小泉邸の一室に飾られてゐたのである。(カッコ内引用者註)
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夢二屏風が遺失物扱いで、戸塚警察署から尾崎酒店主が引きとったのはパイン缶窃盗事件の1年後、すなわち1930年(昭和5)ごろのことなので、小泉秀之助が尾崎三良から宮地嘉六経由で屏風を譲ってもらったのは、同年以降ということがわかる。
さて、時代はくだり1940年(昭和15)ごろのこと、下落合3丁目1507番地に住む沖野岩三郎Click!は、知人の小泉秀之助が所有する夢二屏風の存在を知っていたので、翌年に開催が予定されている竹久夢二遺作展の主催者のひとり、天江富弥へその旨を知らせておいた。すると、小泉と面識がなかった天江はアオイ書房の志茂太郎へ、展覧会への出品を働きかけるよう依頼した。志茂は、さっそく小泉邸を訪問して出品を請うが、ちょうどそこへ折よく訪れたのが沖野岩三郎だった。
小泉秀之助は、作品を未知の人物を通じて展覧会に出したりすると、汚したり破られたりするので遺作展へは屏風を出品しないと、志茂へ断っている最中だった。そこで、沖野岩三郎が遺作展の主催者たちはそんな無責任な人物ではないと、自身が保証人になって気むずかしい小泉から夢二屏風をようやく借りだすことができた。
ちなみに、ここで登場している人々について、竹久夢二遺作展の主催者である天江富弥は、児童文化研究家で郷土史家、またコケシ収集家として全国的にも有名で、沖野岩三郎とは旧知の間がらだったとみられ、またアオイ書房の志茂太郎は蔵書票(いまの蔵書シールのこと)づくりの趣味人で、のちに日本蔵書票協会を創立している人物だ。
翌1941年(昭和16)に、「竹久夢二七回忌遺作展覧会」が開かれたが、その展示会場で厄介な問題がもちあがっていた。沖野岩三郎が、ある会合で天江富弥に会うと、彼は浮かない顔をして沖野に会場での出来事を語った。同書より、つづけて引用してみよう。
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「あの屏風を並べて置くと、そこへ入つて来た某夫人が、まあ……と言つたまま立竦んでしまつたので、どうしたのかと尋ねると、あの屏風は其の夫人のもので、盗難にかかつたのださうですよ。小泉さんにそんな事をいふのも失礼だし、黙つてお返しして置いたが、持主は小泉さんのお買ひになつた金額へ多少の増額してでも、戻してほしいといふんですが、ひとつ小泉さんに談判してみて下さいませんか」と、いふのであつた。/「よろしい」とはいつたものの、他人の大切にしてゐる屏風を、これは君贓品だぞとは言はれるものでない。/その後何度も何度も小泉老の所へ行つて、言ひかけては止し、言ひかけては止してゐたが、或日のこと、今日こそと思ひながら小泉家を訪ねると、宮地嘉六君と玄関先で落合つた。/「宮地君、いい所で落合つた。今日はひとつ小泉老に話したい事があつて来たんだ、君はその話をきいて、小泉老が憤慨でもしたなら、なだめてくれないか」/私がさういつたので、宮地君は笑ひながら、「まあどんな事が知れないが、あなたの仰しやる事に、腹を立てるやうな小泉さんではありますまい」と言つた。
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この先の様子は、読者にももう想像がつくのではないだろうか。沖野岩三郎が、屏風が盗品であり「どろばうからお買ひになつたのではございますまいが」、どうやって手に入れたのかを訊きはじめると、宮地嘉六の顔色がサッと変わり、小泉が「これは此の宮地君から買つたんだよ」と答えると、座の雰囲気がみるみるおかしくなってしまった。
「謹厳すぎる程謹厳な宮地君」の顔色を見て、これはマズイと焦った沖野岩三郎は、「そんな事はどうでもよいのです」と慌てていいつくろい、要するに屏風を盗まれた本来の持ち主に、小泉が売りもどしてあげるかどうかが重要な課題なのだといった。だが、それでは済まない真面目な宮地嘉六は、酒屋の尾崎三良とのいきさつを詳しく話し、自分は尾崎から屏風を購入しておらず、そのままスルーで売った代金は酒屋の主人へそのままわたしている、後日、尾崎本人を連れて証明するなどということになってしまった。
はたして数日後、沖野岩三郎は小泉邸に呼ばれると、宮地と酒屋の尾崎がそろっており、懸命に説明しはじめた。このころ、宮地嘉六はすでに下落合3丁目1470番地の、第三文化村Click!に建つ「玉翠荘」に住んでいただろう。つづけて、同書より引用してみよう。
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尾崎君は宮地君の冤を雪ぐといふやうな態度で実情を精しく語られた。宮地君は膝を乗り出して、/「その節、私は一厘一銭の手数料をもらはなかつた事も、此所で尾崎君に證明していただきたいのです」といつた。/「幾らか差上げようと申しましたが、絶対に受取つて下さいませんでした。尚必要がございますならば、私から戸塚警察署に證明願を出して證明していただいても宜しいのでございます」と、尾崎君は言つた。
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いかにも宮地嘉六らしい、几帳面かつ隙間のない釈明だった。小泉秀之助と沖野岩三郎は、むろんふたりの証言に納得したが、小泉は「此の屏風を千円で買はうといつても売りませんよ」と、もとの持ち主へ返却することは頑なに拒否した。こちらも超マジメな沖野岩三郎は、天江富弥からのたっての頼まれごとなので弱りきって、もとの持ち主だった大会社の重役夫人にわざわざ会いに出かけている。ちなみにこの夫人の邸も、ドロボーが逃走ついでに酒屋のパイン缶を盗っていく経路からして、下落合に建っていたと思われる。
いきさつをすべて聞き終えた元・持ち主の夫人は、「物置倉の中に深くしまつてゐた私は、夢二さんに叱られるべきですね」といい、「小泉さんに、どうぞ安心してあの屏風を大切にして下さるやうお伝へして下さいまし」ということで、どうやら八方が丸く収まったようだ。当時、大きな屋敷が建ち並んでいた落合地域は、ドロボーClick!たちにとっては格好の標的Click!になっていたようで、盗品をめぐる話はあちこちに記録Click!されている。
◆写真上:第一府営住宅の三間道路で、撮影位置から60mほど先の袋小路を右折すると正面が沖野岩三郎邸跡。正面左手に見える、三角に刈り込まれた庭木の家が土屋文明Click!邸跡で、背後90mほどのところに第三文化村の宮地嘉六邸があった。
◆写真中上:上は、下落合の近所に住んだ沖野岩三郎(左)と宮地嘉六(右)。中は、路地正面が下落合3丁目1507番地の沖野岩三郎邸跡で庭門があった位置。下は、下落合3丁目1470番地の宮地嘉六が住んだ第三文化村の「玉翠荘」跡。
◆写真中下:盗難事件の屏風が描かれたのと同じころの夢二作品で、上は『秋の憩い』(大正中期)、中は『憩い』(1926年ごろ)、下は『この夜ごろ』(昭和初期)。
◆写真下:上は、1924年(大正14)に庭で撮影された沖野岩三郎・ハル夫妻。中は、葛ヶ谷15番地(現・西落合1丁目)邸の書斎で執筆する宮地嘉六。下は、沖野岩三郎が警察の執拗な抑圧から逃れるために軽井沢千ヶ滝中区595番地の浅間山麓に建てた「惜秋山荘」(右)。戦後になると、同山荘はキリスト者たちが集まる拠点のようになり、沖野岩三郎は1955年(昭和30)に日本キリスト教団に復帰し浅間高原教会の牧師に就任している。
★おまけ
1955年(昭和30)に牧師に復帰した、軽井沢の浅間高原教会(現・軽井沢高原教会)。