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盗品の夢二屏風をめぐる宮地嘉六と沖野岩三郎。 [気になる下落合]

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 この物語は、下落合(現・中落合/中井含む)で酒屋を経営する尾崎三良という人物が、1929年(昭和4)ごろドロボーClick!に入られた時点からはじまる。尾崎が店内を掃除中、打ち水のために井戸へバケツの水を汲みにいっているほんのわずかな隙に、ショウウィンドウに並べていたパイナップル缶詰めを3つ盗まれた。だが、店の硝子戸には板を包んだような風呂敷が立てかけられていたので、店主は最初、お客がちょっと他の用事を済ませに店前を離れただけと考え、パイナップル缶の盗難には気づかなかった。
 ところが、待てど暮らせど風呂敷包みを残したお客は現れず、ついにショウウィンドウのパイナップル缶が消えているのに気づき、ようやく店主はドロボーに入られたことを察知した。ショウウィンドウから缶詰めを盗んでいると、意外に早く店内にもどってきた店主に気づき、ドロボーはあわてて風呂敷包みを残したまま逃走したらしい。電話で警察に相談すると、風呂敷包みをもって被害届けを提出しろということになった。
 戸塚警察署Click!へ出向き被害届けを出して、警官が立ちあいのもとで風呂敷包みをそっと解くと、竹久夢二Click!の作品らしい屏風が1隻現れた。高価なものらしいので、近いうちに盗難届けがあるだろうということで、屏風は戸塚警察署が保管することになり、店主は署長から預かり証をもらって下落合に帰った。
 ところが、1年たっても盗難届けがどこからも提出されず、店主の尾崎は戸塚警察署から呼びだされると、屏風は遺失物扱いになるので改めて遺失物拾得届けを提出させた。そして、1年すぎても持ち主が不明ということで、そのまま屏風は店主に下げわたされた。のちに判明することになるが、屏風は住宅の蔵の奥にしまわれていたもので、持ち主もその盗難に気づかず数年後にようやく「ない」ことに気づいている。
 尾崎三良は、夢二屏風を部屋へ飾るというような趣味にまったく興味がなかったので、店の得意先である作家に声をかけてみようと思いついた。得意先とは、当時は落合町葛ヶ谷15番地Click!(現・西落合1丁目)に住んでいた、家を新築したばかりの宮地嘉六Click!だった。ちょうど、報知新聞に連載していた『愛の十字街』の原稿料で、念願の自邸を片岡鉄兵邸Click!の並びに建設したばかりだった。酒屋の店主は、ドロボーと夢二屏風の一件を宮地嘉六に話すと、家には似合わないからと代金も取らずに置いていった。
 その宮地邸を訪れたのが、東北地方の学校を転々としながら長く教育現場に勤務していた小泉秀之助だった。彼は、日本の生活言語から地方方言を排斥し、「標準語」Click!の強制を推進した著作類でつとに有名な人物で、この当時は下落合かその周辺域に住んでいたようだ。薩長政府の意向へ忠実のあまり、東北方言はもちろん東京方言Click!の駆逐にも加担していたとすれば、『京都ぎらい』Click!の京都人・井上章一と同様の思いで、わたしも少なからず怒りをおぼえる人物のひとりだ。1941年(昭和16)に美術と趣味社から刊行された「書誌情報」5月号収録の、沖野岩三郎Click!『続宛名日記』(廿二)から引用してみよう。
  
 そこへ(宮地嘉六邸へ)訪問して来たのが小泉老であつた。「これは珍しいものがあるね。実は僕が福島県の師範学校長をしてゐる時、夢二君が山田順子女史と相携へて福島へ来たものだ。その時半折一枚の美人画を買つた。僕の買つた美人画は非常によく出来てゐたが、友人にもつて行かれて惜しいことをしたものだ。君、これを僕に売つてくれないか」/「しかし、これは僕の所有品ぢやないんだから、持主に相談してみませう。」/「では頼むよ」/と、いふやうなことで、遂にその屏風は小泉老のものとなつたのである。爾来櫛風沐雨ではなく、行儀正しく小泉邸の一室に飾られてゐたのである。(カッコ内引用者註)
  
 夢二屏風が遺失物扱いで、戸塚警察署から尾崎酒店主が引きとったのはパイン缶窃盗事件の1年後、すなわち1930年(昭和5)ごろのことなので、小泉秀之助が尾崎三良から宮地嘉六経由で屏風を譲ってもらったのは、同年以降ということがわかる。
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 さて、時代はくだり1940年(昭和15)ごろのこと、下落合3丁目1507番地に住む沖野岩三郎Click!は、知人の小泉秀之助が所有する夢二屏風の存在を知っていたので、翌年に開催が予定されている竹久夢二遺作展の主催者のひとり、天江富弥へその旨を知らせておいた。すると、小泉と面識がなかった天江はアオイ書房の志茂太郎へ、展覧会への出品を働きかけるよう依頼した。志茂は、さっそく小泉邸を訪問して出品を請うが、ちょうどそこへ折よく訪れたのが沖野岩三郎だった。
 小泉秀之助は、作品を未知の人物を通じて展覧会に出したりすると、汚したり破られたりするので遺作展へは屏風を出品しないと、志茂へ断っている最中だった。そこで、沖野岩三郎が遺作展の主催者たちはそんな無責任な人物ではないと、自身が保証人になって気むずかしい小泉から夢二屏風をようやく借りだすことができた。
 ちなみに、ここで登場している人々について、竹久夢二遺作展の主催者である天江富弥は、児童文化研究家で郷土史家、またコケシ収集家として全国的にも有名で、沖野岩三郎とは旧知の間がらだったとみられ、またアオイ書房の志茂太郎は蔵書票(いまの蔵書シールのこと)づくりの趣味人で、のちに日本蔵書票協会を創立している人物だ。
 翌1941年(昭和16)に、「竹久夢二七回忌遺作展覧会」が開かれたが、その展示会場で厄介な問題がもちあがっていた。沖野岩三郎が、ある会合で天江富弥に会うと、彼は浮かない顔をして沖野に会場での出来事を語った。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 「あの屏風を並べて置くと、そこへ入つて来た某夫人が、まあ……と言つたまま立竦んでしまつたので、どうしたのかと尋ねると、あの屏風は其の夫人のもので、盗難にかかつたのださうですよ。小泉さんにそんな事をいふのも失礼だし、黙つてお返しして置いたが、持主は小泉さんのお買ひになつた金額へ多少の増額してでも、戻してほしいといふんですが、ひとつ小泉さんに談判してみて下さいませんか」と、いふのであつた。/「よろしい」とはいつたものの、他人の大切にしてゐる屏風を、これは君贓品だぞとは言はれるものでない。/その後何度も何度も小泉老の所へ行つて、言ひかけては止し、言ひかけては止してゐたが、或日のこと、今日こそと思ひながら小泉家を訪ねると、宮地嘉六君と玄関先で落合つた。/「宮地君、いい所で落合つた。今日はひとつ小泉老に話したい事があつて来たんだ、君はその話をきいて、小泉老が憤慨でもしたなら、なだめてくれないか」/私がさういつたので、宮地君は笑ひながら、「まあどんな事が知れないが、あなたの仰しやる事に、腹を立てるやうな小泉さんではありますまい」と言つた。
  
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 この先の様子は、読者にももう想像がつくのではないだろうか。沖野岩三郎が、屏風が盗品であり「どろばうからお買ひになつたのではございますまいが」、どうやって手に入れたのかを訊きはじめると、宮地嘉六の顔色がサッと変わり、小泉が「これは此の宮地君から買つたんだよ」と答えると、座の雰囲気がみるみるおかしくなってしまった。
 「謹厳すぎる程謹厳な宮地君」の顔色を見て、これはマズイと焦った沖野岩三郎は、「そんな事はどうでもよいのです」と慌てていいつくろい、要するに屏風を盗まれた本来の持ち主に、小泉が売りもどしてあげるかどうかが重要な課題なのだといった。だが、それでは済まない真面目な宮地嘉六は、酒屋の尾崎三良とのいきさつを詳しく話し、自分は尾崎から屏風を購入しておらず、そのままスルーで売った代金は酒屋の主人へそのままわたしている、後日、尾崎本人を連れて証明するなどということになってしまった。
 はたして数日後、沖野岩三郎は小泉邸に呼ばれると、宮地と酒屋の尾崎がそろっており、懸命に説明しはじめた。このころ、宮地嘉六はすでに下落合3丁目1470番地の、第三文化村Click!に建つ「玉翠荘」に住んでいただろう。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 尾崎君は宮地君の冤を雪ぐといふやうな態度で実情を精しく語られた。宮地君は膝を乗り出して、/「その節、私は一厘一銭の手数料をもらはなかつた事も、此所で尾崎君に證明していただきたいのです」といつた。/「幾らか差上げようと申しましたが、絶対に受取つて下さいませんでした。尚必要がございますならば、私から戸塚警察署に證明願を出して證明していただいても宜しいのでございます」と、尾崎君は言つた。
  
 いかにも宮地嘉六らしい、几帳面かつ隙間のない釈明だった。小泉秀之助と沖野岩三郎は、むろんふたりの証言に納得したが、小泉は「此の屏風を千円で買はうといつても売りませんよ」と、もとの持ち主へ返却することは頑なに拒否した。こちらも超マジメな沖野岩三郎は、天江富弥からのたっての頼まれごとなので弱りきって、もとの持ち主だった大会社の重役夫人にわざわざ会いに出かけている。ちなみにこの夫人の邸も、ドロボーが逃走ついでに酒屋のパイン缶を盗っていく経路からして、下落合に建っていたと思われる。
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 いきさつをすべて聞き終えた元・持ち主の夫人は、「物置倉の中に深くしまつてゐた私は、夢二さんに叱られるべきですね」といい、「小泉さんに、どうぞ安心してあの屏風を大切にして下さるやうお伝へして下さいまし」ということで、どうやら八方が丸く収まったようだ。当時、大きな屋敷が建ち並んでいた落合地域は、ドロボーClick!たちにとっては格好の標的Click!になっていたようで、盗品をめぐる話はあちこちに記録Click!されている。

◆写真上:第一府営住宅の三間道路で、撮影位置から60mほど先の袋小路を右折すると正面が沖野岩三郎邸跡。正面左手に見える、三角に刈り込まれた庭木の家が土屋文明Click!邸跡で、背後90mほどのところに第三文化村の宮地嘉六邸があった。
◆写真中上は、下落合の近所に住んだ沖野岩三郎()と宮地嘉六()。は、路地正面が下落合3丁目1507番地の沖野岩三郎邸跡で庭門があった位置。は、下落合3丁目1470番地の宮地嘉六が住んだ第三文化村の「玉翠荘」跡。
◆写真中下:盗難事件の屏風が描かれたのと同じころの夢二作品で、は『秋の憩い』(大正中期)、は『憩い』(1926年ごろ)、は『この夜ごろ』(昭和初期)。
◆写真下は、1924年(大正14)に庭で撮影された沖野岩三郎・ハル夫妻。は、葛ヶ谷15番地(現・西落合1丁目)邸の書斎で執筆する宮地嘉六。は、沖野岩三郎が警察の執拗な抑圧から逃れるために軽井沢千ヶ滝中区595番地の浅間山麓に建てた「惜秋山荘」(右)。戦後になると、同山荘はキリスト者たちが集まる拠点のようになり、沖野岩三郎は1955年(昭和30)に日本キリスト教団に復帰し浅間高原教会の牧師に就任している。
おまけ
 1955年(昭和30)に牧師に復帰した、軽井沢の浅間高原教会(現・軽井沢高原教会)。
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