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佐伯祐三の入浴を節穴からのぞく「アキや」。 [気になる下落合]

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 下落合661番地の佐伯祐三Click!のアトリエに、米子夫人の記憶によれば伊香保からやってきた「アキや」という女性を女中がわりに寄宿させていた。この女性は、苗字は不明だが「アキ」という名前だったらしく、佐伯家では彼女のことを「アキや」と呼んでいた。関東大震災Click!が起きる前、1922~1923年(大正11~12)ごろのことだ。
 実は、すでにアキやClick!は拙ブログに登場している。大柄で肥りぎみな身体をゆらしながら、佐伯家の娘・彌智子と曾宮家の息子・俊一を乳母車に乗せ、下落合のあちこちを散歩したり、目白通りで買い物をしていたあの女性だ。伊香保というと群馬県なので、友人の誰かからの紹介か、あるいは米子夫人の悪い足を心配した池田家とのつながりで預かり、寄宿させていたのかもしれない。東京へは、なにか目的があってやってきたのだろうが、佐伯一家が第1次渡仏をする関東大震災のころにはいなくなっているようなので、どこかへ家事見習いとして住みこむか新たな働き口を見つけたのかもしれない。
 その様子を、以前に江崎晴城様Click!よりお送りいただいた曾宮一念Click!の講演記録から再び引用してみよう。この講演は、1984年(昭和54)11月9日に行われたものだ。
  
 (前略) 体のえらい立派な女中さんがいましてね、名前は忘れましたがね。それが佐伯の一人娘の彌智子さん、やっぱりちょうどうちの息子と同じ年くらいのまだちょっと歩けるくらいの赤ちゃん。その二人を乳母車に乗せて、買い物旁々、歩いてくれるんです。僕はそれで大変助かりましてね。うちの息子は行くの嫌だなんて言ったこともありますけど、とにかく追い出しちゃうと、ウトウトと乳母車の中で二人とも居眠りしちゃう。そうすると、一日、その体の大きな女中がお守りしながらいてくれるんです。その間、僕は絵を描いていられたんで、大変ありがたかった。僕も不自由な生活ですしね。そうして夜、迎えに行って、佐伯の所に行くと、晩飯を一緒によく食った。それで佐伯はまあ毎日のように、牛肉のすき焼きなんですよ。こっちはちょっと飽きちゃったけどね。それでもまあ、向こうへ行けば僕は自炊する必要もないし、それで、毎日のようにすき焼きを二人でね。
  
 米子夫人Click!は足が悪く、曾宮の綾子夫人は以前から病気がちだったので、ふたつの家庭はアキやの活躍で非常に助けられていた様子が伝わる。
 あきヤは、かなり身長が高く肥りぎみで体格がよかったらしく、絵のヌードモデルにしたくなったのだろう、佐伯祐三は近所の二瓶等(二瓶徳松)Click!と相談して、あきヤにモデルになってくれるよう頼みこんでいる。そのきっかけを作ったのは、中村彝Click!のルノワールばりの表現に惹かれていた二瓶等Click!のほうだったのかもしれない。ルノワールが描く女性は、よくいえば“ふくよか”、悪くいえば肥満ぎみの女性が多く、二瓶もそのような女性をモデルにして描いてみたくなったものだろうか。
 宮崎モデル紹介所Click!から派遣されてくるモデルは、家族の暮らしや生活費に困っている女性が多いせいか、そこまで“ふくよか”なモデルはなかなかおらず、そもそものきっかけは二瓶等が佐伯に頼みこんだ可能性もありそうだ。
 また、アキやはおかしな性格をしていて、佐伯が入浴しているとしばしば風呂場をのぞき見していたようで、佐伯自身や、それを聞いた米子夫人も困惑していたらしい。それも、焚口の近くの小窓から湯加減を確かめるためにのぞくのではなく、アキやは風呂場の板壁に開いていた節穴から中をジッとのぞいていたらしい。
 この風呂場だが、佐伯邸の母家にもアトリエにも風呂は設置されていない。米子夫人の足が悪いため、いちいち菊の湯Click!(または福の湯Click!)へ通わなくても済むように、庭先へ簡易風呂場をしつらえたあとのエピソードだと思われるので、1922年(大正11)以降のことだろう。この風呂は、銭湯へ出かけるたびに悪い足をジロジロ見られる米子夫人が、DIY好きな佐伯に頼むか、大工に依頼して庭先に建てさせたものだ。
佐伯母家&アトリエ.jpg
下落合661佐伯アトリエ.jpg
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 その様子を記した手紙も、江崎晴城様よりお送りいただいた曾宮一念Click!資料にあった。佐伯米子Click!から曾宮にあてた手紙で、内容に「としちやんとメンタイちやんは、死んでしまいました。」とあるので、戦後にやり取りされたものだろう。「としちやん」とは、1945年(昭和20)3月25日に中国の湖北省老河口で戦死した曾宮俊一Click!のことで、「メンタイちやん」とはもちろん第2次渡仏時のパリで、1928年(昭和3)8月30日に病没した娘の佐伯彌智子Click!のことだ。ふたりは、1922年(大正11)2月21日生まれ(彌智子)と、1921年(大正10)3月21日生まれ(俊一)とで歳も近く、アキやが両アトリエからふたりを連れだしては、下落合を散歩しながらよく面倒を見ていた。
 佐伯が死去した際、曾宮アトリエClick!に佐伯の幽霊(庭先からの声Click!)が現れたのを綾子夫人が気づき、その様子を曾宮が手紙で佐伯米子に伝えたのだろう、その返信として大阪の佐伯祐正Click!のもとにも、「庭さきを、メンタイちやんをだいて行ったりきたりする佐伯の姿を兄が、はっきり見た」と米子は記している。そして、佐伯死去の電報を受けとる前に、佐伯祐正は「あゝもうこれはだめだナ」と感じていたらしい。
 アキやの話が登場するのは、この佐伯の幽霊譚のすぐあとのことだ。これも、アキやについて曾宮から米子夫人へなにか改めて問い合わせをしているらしい。戦後の年代は不明だが、「三月廿二日夜」の日付が入る佐伯米子の手紙Click!から引用してみよう。
  
 あの時のアキヤという女中のことは曾宮さんにおっしやられていまさらのように思い出しました。肥っていたのでハダカのモデルにしようと二瓶(等)さんとさえき(佐伯祐三)がたのみましたら奥さん(米子夫人)には見せないけれど男性二人には見せると申しました。そしてとうとうモデルになりましたが……。(カッコ内引用者註)
  
 アキやがモデルになった作品とは、どれのことだろうか。ちょうど、1923年(大正12)ごろに描かれた佐伯祐三の作品に、『ベッドに坐る裸婦』(1923年/和歌山県立近代美術館蔵)と、『裸婦』(1923年ごろ/西宮市大谷記念美術館蔵)の2点がある。確かに、かなり肥ったドッシリ型の女性で当時としては身長も高そうだが、米子夫人が強調するほどに肥満体ではなく、“ふくよか”ぐらいClick!な体型のように見える。2作品ともルノワールばりの表現で、おそらく二瓶等のキャンバスも同様の絵の具で塗られていたと思われる。
米子手紙1.JPG
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 描かれた場所は、ベッドが置かれ敷物なども揃っていそうな環境なので、佐伯アトリエではなく下落合584番地の二瓶等アトリエClick!で制作されたものか。二瓶等の作品には、翌1924年(大正13)に発表されたベッドに座る『裸の女』が、やはりルノワールばりの筆致で描かれており、同作が佐伯とともに描いたアキやの可能性が残る。ただし、『裸の女』も3段腹の“ふくよか”な女性だが、メタボというほどではないように思える。もっとも、現代の感覚からいえば、食べすぎで肥満といわれてしまいそうだが……。
 佐伯の入浴を、板壁の節穴からのぞいていた挑発的なアキやの話は、佐伯と二瓶のモデルになった話の直後に登場している。つづけて、米子夫人の手紙から引用しよう。
  
 サエキがおふろに入っていると板のふし穴からのぞいて(ダンナ)その頃の言葉)<二重のカッコは米子筆記のママ>とよんで何かいうので、こまっておりました。/お食よくは“おおせい”<原文は傍点>で大変でした。おデンが好きで大きなお鍋に一ぱいたいらげてしまいました。あれはたしか伊香保からきたのですが今も生きていたら一度曾宮さんにおめにかけたいようです。(< >内引用者註)
  
 板壁の節穴から「ダンナ」と声をかけ、アキやは佐伯祐三になにをいっていたのだろうか。なにか性的な言葉を浴びせて佐伯を挑発していたものか、あるいは無邪気になにか冷やかしをいっていたものだろうか。
 ヌードモデルになるぐらいだから、案外、男にはスレていたのかもしれない。アキやについて、佐伯や曾宮の記録以外に、二瓶等Click!関連の資料にもなにか残っていそうだし、師の中村彝にも作品の批評を請うついでになにかを話していそうだし、さらには佐伯アトリエを同時期に借りて卒業制作をしていた山田新一Click!も、なんらかの証言を残していそうなのだが、寡聞にしてアキやの話はこれらの資料から見いだすことができないでいる。
佐伯祐三「ベッドに坐る裸婦」1923.jpg
佐伯祐三「裸婦」1923頃.jpg
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 米子夫人の言葉を信じれば、鍋いっぱいにつくったおでんをひとりで平らげたというから、かなりの大食漢だったらしいが、おそらく佐伯夫妻の献立とは別に、自分用の料理をつくっては台所脇にあった3畳の女中部屋で食べていたのだろう。米子夫人は食が細かったようなので、佐伯家の余ったすき焼きClick!“はなよめ”Click!の缶詰なども、とっておくと傷んで(腐って)もったいないからと、アキやがさっさと片づけていたのかもしれない。

◆写真上:籠編みが多かった、大正期から昭和初期にかけての古い乳母車。
◆写真中上は、1985年(昭和60)に目黒美術館によって撮影された佐伯邸の母家とアトリエ。は、解体直前に撮影されたとみられるアトリエ(右)、母家(中)、増築部の米子夫人居間(左)。は、風呂場のない佐伯邸1階の平面図。
◆写真中下中上は、佐伯米子から曾宮一念あての「アキヤ」が登場する手紙。中下は、曾宮一念と息子の俊一。は、佐伯祐三と彌智子。
◆写真下は、1923年(大正12)制作の佐伯祐三『ベッドに坐る裸婦』。は、同年ごろ制作の佐伯祐三『裸婦』。は、1924年(大正13)の帝展出品作で二瓶等『裸の女』。

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