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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(8) [気になる下落合]

曾宮一念「風景」1920.jpg
 少し前にも触れたが、画面に既視感があると感じたのは、この造成地にあるキリの木だった。曾宮一念Click!が1920年(大正9)に描くキりの木は、1923年(大正12)制作の『夕日の路』Click!でも、やや成長した枝ぶりで再度描かれている。それは、もとの角地の道端ではなく、曾宮の造園によってアトリエの南西庭に移植されたあとの姿だ。
 曾宮一念Click!は、1921年(大正10)3月初めに下落合623番地へ建設中だったアトリエが竣工後、綾子夫人が臨月だったためすぐには新居へ引っ越しはせず、長男・俊一Click!の出産(3月22日)を待ち、同年の3月末に淀橋町(大字)柏木(字)成子町北側128番地の借家Click!から下落合へ転居してきている。キリの移植を軸に考えると、わたしが描かれた画面の風情に既視感があるのはあたりまえのことだった。画面の前の道を歩きながら、しょっちゅうこの風景を目前にして散策しているからだ。当時と同様に、曾宮一念アトリエClick!跡は広い空き地となって舗装され、長年にわたり駐車場として利用されてきた。一時期は、北側に小さな医院が開業していたが、現在はその敷地も含めて駐車場になっている。
 『風景』に描かれた造成地は、中村彝Click!によれば夏目利政Click!が借地権を管理する地所で、夏目が曾宮にアトリエの建設を勧めたのではないか。ひょっとすると、ドロボーClick!に入られた下落合544番地に住んだ際、曾宮一念は彝の仲介で夏目にアトリエ敷地探しを依頼してから、淀橋町柏木へ転居しているのかもしれない。
 曾宮がアトリエを建てたあと、この一帯には片多徳郎Click!(下落合734番地)や牧野虎雄Click!(下落合604番地)、蕗谷虹児Click!(下落合622番地)、一時的だが村山知義・籌子夫妻Click!(下落合735番地)などのアトリエが集中するが、これも夏目利政Click!によるマネジメントだった可能性がある。下落合800番地台の“アトリエ村”Click!につづき、夏目利政はここでも“アトリエ村”を形成しようとしていたのではないか。余談だが、さまざまな画集を発行していた後藤真太郎Click!の座右寶刊行会本社も下落合735番地、つまり村山アトリエと同番地なので、これも夏目による紹介だったのかもしれない。
 夏目利政は、当該の土地を所有しているのではなく、借地権およびその管理を地主から委託され、画家たちを勧誘してはアトリエを建てていたフシが見える。曾宮一念アトリエも、ふたりで打ち合わせながら夏目が図面を引いているのではないか。
 当時の様子を、1926年(大正15)に岩波書店から出版された中村彝『芸術の無限感』Click!より、大正9年7月21日付け洲崎義郎Click!あての手紙から引用してみよう。
  
 曾宮君は夏目君が借地権を持つて居る地所を借り受けて、そこへ画室を立(ママ:建)てることになりました。二瓶君の画室の少し先の谷の上で大変眺望のいゝ処です。
  
 曾宮アトリエは、下落合584番地の二瓶等アトリエClick!から、西へ約210mほど歩く諏訪谷Click!に南面した位置にあった。のち1926年(大正15)の夏、佐伯祐三Click!が画面の左手から連作「下落合風景」Click!の1作『セメントの坪(ヘイ)』Click!を描く、あの場所だ。
曾宮一念アトリエ1926.jpg
曾宮一念「夕日の路」1923.jpg
桐の木1920.jpg 桐の木1923.jpg
曾宮一念「風景」現状.jpg
 『風景』を描いた1920年(大正9)の時点で、地鎮祭は終っていたものだろうか。自身の住宅を建てる前、その敷地を写真に収めるのは今日ではありがちなことだが、曾宮一念はタブローに仕上げて保存したのだろう。画面の様子から、季節は秋の風情だが、曾宮アトリエが竣工するのは、翌1921年(大正10)3月のことだ。したがって、アトリエが完成する5~6ヶ月ほど前、そろそろ地鎮祭が終わり建設に取りかかりそうな1920年(大正9)10月下旬あたりの情景だろうか。では、画面を仔細に観察してみよう。
 まず、曾宮アトリエClick!の敷地に接する北側には、1926年(大正15)の時点で「下落合事情明細図」に記載されている青木辰五郎邸が、いまだ建設されていないのがわかる。なにかの畑地(上部が紅葉しはじめた植木畑だろうか?)になっていたようで、ほどなく北側の位置には青木邸が建設されている。鶴田吾郎Click!によれば、青木邸は植木農家だったということで、その家の娘のひとりを描いた『農家の子』Click!(1922年)がタブローで残されている。昭和期に入ると、青木邸の敷地には新たに三沼邸が建設されている。
 画面の左手に見えている、濃い灰色の大きな屋根と赤い屋根の家屋群が、東京美術学校のOBだった下落合622番地の日本画家・川村東陽邸だ。曾宮一念が隣りにアトリエを建てた当時、川村東陽Click!は画業そっちのけで落合村会議員(のち町会議員)の職務に就いていたとみられ、なにかと羽振りがよく近隣に対して威張っていたのだろう。のちに、曾宮一念との間で川村家の飼いネコをめぐる「ウンコ戦争」Click!を引き起こすことになるが、『風景』を描いている曾宮一念は当時、そんなことは知るよしもなかった。
 川村東陽は、1932年(昭和7)に東京35区Click!制が施行されるころ、淀橋区議会議員に立候補するためか下落合から転居している。その広い跡地(画面では左手一帯)には、蕗谷虹児アトリエClick!をはじめ白井邸や谷口邸Click!などが建設されている。ちなみに、曾宮アトリエの西隣りにあたる下落合622番地の谷口邸は、昭和初期から海軍の八八艦隊構想に対し軍縮外交を優先して、米内光政Click!とともに最後まで日米開戦に反対しつづけた、元・聯合艦隊司令長官の退役海軍大将・谷口尚真邸だ。
 画面の奥に見えている、ややキリの木の陰になっている赤い屋根の2階家は、1926年(大正15)現在でいえば荒木定右衛門邸(下落合621番地)だが、これも既視感が生じた大きな要因のひとつで、現在でも灰色の屋根が乗る2階家の向こう側(北側)、東西に長い同じ敷地の位置に、赤い屋根の2階家が同様の向きで建っている。昭和期に入ると、荒木邸の敷地には新たに木村邸が建設されている。
 荒木定右衛門邸の少し左手(西側)、薄いグレーの主屋根を南北に向けて西陽が当たる2階家は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」でいえば山田邸(下落合630番地)ということになる。ちなみに、山田邸の少し北西側、同じ下落合630番地の森田亀之助邸Click!の南側には、昭和に入ると里見勝蔵Click!がアトリエをかまえて京都から転居してくる。佐伯祐三が1926年(大正15)10月10日に描いた『森たさんのトナリ』Click!の、あの一画だ。ひょっとすると、左手の遠方に見えている2階家が、『森たさんのトナリ』に描かれた2階家の近くに建つ住宅なのかもしれない。距離感からいえば、ちょうどそのあたりに見えたはずだ。
曾宮一念「荒園」1925.jpg
庭の曾宮一念.jpg
浅川ヘイ1920.jpg 浅川ヘイ1923.jpg
浅川ヘイ.jpg
 さて、興味深い画面の右手(東側)を観察してみよう。右側に描かれた、北へと向かう道筋はやわらかく東へとカーブしている。現在は、できるだけ直線化されているが、宅地の関係からどうしても修正しきれない北寄りの道は、東側へ曲りこんだまま現在にいたっている。道路の右端は、板を並べてつないだような簡易板塀に蔦がはっているような表現で描かれているが、この塀の向こう側が下落合604番地の大きな浅川秀次邸の敷地だ。
 浅川邸の板塀は、関東大震災の前後に造りかえられたらしく、高価そうな和風の白い腰高の練塀が広い屋敷を取り囲んでいた。それは、曾宮一念の『夕日の路』(1923年)でも見ることができるが、その仕様から浅川邸は大きな和風建築だったとみられる。また、曾宮アトリエの建設や浅川邸の新たな練塀の築造とともに、道路の直線化も促進されたと思われるが、1936年(昭和11)の空中写真を見ると、現状とはやや異なりいまだ中ほどから東へゆるやかにカーブしている様子が見てとれる。また、1938年(昭和13)ごろになると浅川邸は転居し、かわって土井邸(おそらく洋館)が建設されている。
 曾宮一念は西陽が好きなのか、『風景』(1920年)でも『夕日の路』(1923年)でも橙色の光線で風景を描いている。その夕陽に照らされた浅川邸の新たな練塀を、1926年(大正15)10月22日に描いたのが佐伯祐三の『浅川ヘイ』Click!だ。いまだ実見はおろか、戦災をくぐり抜けて現存しているかさえ不明な作品だが、おそらく曾宮一念の『風景』同様にパースのきいた構図で、重い瓦を載せた和風の白い練塀がつづく、赤土が剥きだしの道路を描いていると思われる。たぶん、サインがないためどこかに埋もれているのかもしれないが、心あたりのある方はぜひコメント欄にでもご一報いただきたい。
 曾宮一念は、『風景』の中央に描き、アトリエの建設とともに庭の西側に移植したキリの木について、著書に想い出を記している。1938年(昭和13)に座右寶刊行会から出版された曾宮一念『いはの群』より、下落合へ転居してきた当時の様子を引用してみよう。
  
 もう二十年も前のことになる。思ひがけないよくて安い地所を見付けたと思つてゐると私の借りた日から地代が二倍にされてゐる。それに前の借地人二年分の地代も払へといふことで、まづこんなものかと驚いたものである。然しこゝへは以前来て路端の桐の木を写生したことがあり、ちようどこの木は私の借りた地所と路との傾斜面に根を張つてゐた、ことはつておくがこの木もその時買ひ取れといふので以来私のものとなつてゐるのである。(中略) さて家を建てることになつたが履脱ぎ三尺の土間もつけられない始末なので、庭の周囲の垣根の予算などあらう筈がなく、丸太に針金の手製で間に合はす積りでゐるとこれも東南に四十間を立派な檜垣を作らされてしまつた。(青文字引用者註)
  
 この敷地と路端との境界に生えていた「桐の木」は、アトリエを建てる前から曾宮一念の印象的なモチーフになっていたようで、『風景』(1920年)や『夕日の路』(1923年)につづき、第12回二科展で樗牛賞を受賞する『荒園』(1925年)までつづけて描かれている。
曾宮一念アトリエ1936.jpg
諏訪谷入口.JPG
セメントの坪(ヘイ).jpg
セメントの坪(ヘイ)現状.JPG
 どうやら、借地権を管理していた夏目利政は、かなりの商売上手というか“やり手”だったようで、曾宮一念は手もなく彼に丸めこまれてアトリエを建てているようだ。夏目は、地主や建設事務所からコミッションをもらって、画業とは別に生活の足しにしていたのだろう。

◆写真上:1920年(大正9)に、アトリエの建設予定地を描いた曾宮一念『風景』。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント。中上は、1923年(大正12)制作の曾宮一念『夕日の路』(提供:江崎晴城様Click!)。中下は、『風景』と『夕日の路』のキリの拡大。は、曾宮一念アトリエ跡の現状。
◆写真中下は、1925年(大正14)制作の『荒園』(提供:江崎晴城様)にみる移植されたキリ(右手)。中上は、庭にたたずむ曾宮一念(提供:江崎晴城様)。中下は、『風景』と『夕日の路』の浅川邸練塀の比較。は、写真の浅川邸練塀の拡大。
◆写真下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる『風景』の描画ポイントと曾宮一念アトリエ。中上は、『風景』の描画ポイント跡の現状で右側の坂道は諏訪谷へと下る。中下は、1926年(大正15)の夏(9月1日以前)に制作された佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』。は、『セメントの坪(ヘイ)』の現状と印は『風景』描画ポイント。佐伯がイーゼルを立てた『セメントの坪(ヘイ)』の川村東陽邸敷地は、やがて谷口邸の建設予定地となり、1935年(昭和10)ごろに谷口尚真一家が赤坂から転居してくることになる。
おまけ1
 谷口尚真は、満洲事変の際に日中戦争は絶対反対、ましてや日米戦争などもってのほかと、死ぬまで一貫して戦争に反対しつづけた。軍国主義の体制内で、日本の「亡国」招来を見通せていた数少ない提督のひとりだ。後輩の米内光政とも親しく、戦争へと突き進む日本の「静かなる盾」の役割りをはたしていたが、1941年(昭和16)に下落合で死去している。敗戦間際に、陸軍から生命を狙われていた米内光政Click!は、自宅へは帰れず“潜行”して隠れ家を転々としているが、下落合の林泉園近くで頻繁に目撃されている。谷口尚真の人脈がらみで、下落合の隠れ家にいた可能性もありそうだ。写真は、谷口尚真(左)と米内光政。下は、画家たちのアトリエに囲まれた1938年(昭和13)の谷口尚真邸。海軍の提督でありながら、一貫して戦争に反対しつづけた谷口尚真については、また機会があれば書いてみたい。
谷口尚真.jpg 米内光政.jpg
諏訪谷界隈1938.jpg
おまけ2
 武蔵野らしく、下落合の森に実るヤマグワの実。ジャムにしてもパイにしても、色どりがきれいでベリーのように甘酸っぱくて美味しいだろう。
クワの実1.JPG

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