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カメラマン徳川慶喜が写した目白崖線沿い。 [気になる下落合]

国際仏教学大学院大学馬車廻しの築山跡.JPG
 明治中期になると、下落合には華族Click!やおカネ持ちの別邸あるいは本邸がポツポツと建てられはじめるが、そんな当時の風情を彷彿とさせる写真が残されている。徳川幕府の15代将軍で、音羽の谷間をはさんだ目白崖線の東側につづく丘陵の一画、小石川区小日向第六天町54番地に住んだカメラが趣味の徳川慶喜Click!だ。
 しばらく巣鴨1丁目の屋敷にいたが、近くに山手線Click!の巣鴨駅が建設されるのを聞き、騒々しいのがキライなので小日向大六天町の南斜面、大久保長門守教義の屋敷跡に引っ越してきたのは、1901年(明治34)のことだった。目の前には、大洗堰Click!のやや上流から分岐し、後楽園Click!の水戸徳川屋敷跡へとつづく旧・神田上水Click!の小流れが残り、江戸川Click!(1966年より神田川Click!)越しに自身が将軍になってから一度も入城したことのない、千代田城Click!の外濠に位置する牛込見附Click!から市ヶ谷見附Click!四谷見附Click!方面が見わたせる眺めのいい敷地だった。
 第六天町の屋敷からの眺めについて、徳川慶喜の孫にあたる女性の証言を、1986年(昭和61)に朝日新聞社から出版された『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集―』収録の、徳川幹子「十五代さまの周辺」から引用してみよう。
  
 第六天のお屋敷はいく度もうかがったことがあり、よく存じております。父の話では、このお屋敷は慶喜さまがお建てになったものではなく、とてもお気に召されて移り住まれたものだそうです。ただ、このお屋敷のお入口は、車一台がやっと入るくらいの広さで、たしか、角の写真屋のそばから入ったところにご門があったと記憶しています。/この辺りは小日向台町――つまり高台になっていました。慶喜さまのお部屋は、お二階ではなかったけれども高台にあって、お部屋の下のお庭がずーっと茗荷谷の方に向かって下っていて、その下に江戸川(神田川)が流れており、その先の九段の台の方に靖国神社の鳥居が見えました。鳥居はお部屋からも見えました。
  
 茗荷谷と江戸川では、屋敷の北と南とで方角が逆なので、明らかに徳川幹子の勘ちがいだろう。南斜面の下は、江戸期より水道端と呼ばれていた。
 当時もいまも、小日向の南斜面は寺々が建ち並び、緑が多く家々がそれほど密集していないが、徳川慶喜が転居してきたころは、深い森の中に大きめな屋敷が点在するような趣きだった。静岡時代からカメラが趣味だった慶喜は、さっそく周辺の風景や屋敷の人々を撮影しはじめている。まず、屋敷南側の芝庭を撮影した写真①には、築山や生垣越しに、先述した外濠の北西側に位置する各城門(見附)方面が見わたせるパノラマだ。
 遠景の中央から右手にかけてこんもりと繁る森は、牛込見附(門)からつづく神楽坂の丘上あたりから早稲田方面へと連なる、当時はキリ(桐)の森に竹林が密生していた地域だろう。明治期の神楽坂は、夏目漱石Click!の随筆『硝子戸の中』でも描写されているように、追剥ぎでも出そうな鬱蒼とした森林地帯で、女性のひとり歩きも危ない薄暗い寺町でもあった。周囲には、狭山茶Click!を栽培する茶畑農家が多く、寺々の伽藍とその境内森が散在するぐらいで、神楽坂とその周辺に料亭や置屋、待合茶屋などが(城)下町Click!から移転してくるのは、1923年(大正12)の関東大震災Click!以降のことだ。
 つづいて、徳川邸の東側を撮影した写真②を見てみよう。江戸川(神田川)が大きくクラックする、大曲(おおまがり)Click!から東側に拡がる小石川町、後楽園から水道橋にかけての風景が写っている。左手の遠景にとらえられている4~5本の煙突群は、陸軍砲兵工廠(のち陸軍造兵廠+工科大学)の敷地で、煙突の間に見え隠れしている森が旧・水戸徳川邸の後楽園だ。左手に見える屋根は、新坂に沿って建つ家令住宅の1軒だろうか。屋根の向こうに、横木に碍子をたくさん載せた白木の電信柱Click!(電話線柱)が見えている。初期の電話線は、1本のケーブルに複数の回線を収容できなかったため、電話の設置が増えるたびに電柱にわたすケーブルも急増していった。
徳川慶喜邸第六天町.jpg
徳川邸1921.jpg
写真①徳川邸南.jpg
 次に、徳川邸の東側を写した写真③を見てみよう。中央の樹間にとらえられている大きな屋敷は、小日向第六天町8番地に建っていた元・会津藩の9代藩主・松平容保邸だ。歴史好きの方なら、明治以降に徳川慶喜と松平容保の家が隣り同士で暮らしているのを見たら、少なからず感慨をもよおすだろう。ただし、松平容保は1893年(明治26)にすでに死去しており、屋敷は長男の松平容大が継いでいた時代だ。余談だが、この松平容大はおもしろい人物で、学習院に入れられたが校風がまったく合わず、学校当局に徹底して反抗したため退学・追放処分となり、のちに東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業している。
 撮影時の松平容大屋敷は、徳川邸の半分弱ほどの規模だが、白木の電信柱が見えているので、すでに電話の引かれていたことがわかる。また、松平邸の周辺に住宅が建てこんでいないことから、撮影時期が明治末あたりだったことも推定できる。そろそろ松平容大の健康が思わしくなく、徳川慶喜も見舞いに出かけていたころだろうか。松平容大邸の背後に見えている、緑豊かな丘陵地帯が小日向台町(現・小日向)だ。
 これら写真から、華族の本邸や別邸が散在していた明治末から大正初期にかけての下落合風景も、薄っすらと想像できそうだ。目白崖線沿いの南斜面には、江戸期そのままに濃い樹林帯が形成されており、坂道を上りはじめると森林の隙間から、ところどころに大きな屋敷の屋根がチラチラと顔をのぞかせているような風情だった。ただし、落合地域のほうが小日向よりも開発が遅いため、建てられる華族やおカネ持ちの本邸・別邸には和館でなく、西洋館もめずらしくなくなっていく。
 徳川慶喜は、自邸と周辺ばかりでなく近所をあちこち散策しながら、風景を切りとってはカメラに収めている。慶喜が愛用していたカメラは、広い画角で風景撮影に適したパノラマカメラと、人物撮影やスナップなどに使われたとみられるプレモカメラ、それにレンズがふたつ装備され立体写真を撮影できるミニマムパルモスステレオカメラの、当時は最先端だったフィルム仕様の高級輸入カメラだった。
 徳川邸の南を流れる、江戸川(神田川)の風景も頻繁に撮影している。写真④は、神田上水と江戸川が分岐する50mほど下流にあった、江戸期からの大洗堰を写したものだ。現在の大滝橋あたりの風景だが、画面に写る川全体が江戸川の流れで、真ん中に渡されている長い木樋は、さらに下流に設置された関口水車Click!を廻すための導水樋だ。神田上水は、右手に写る住宅の向こう側を流れており、徳川慶喜が第六天町に転居してきた1901年(明治34)まで、東京の上水道インフラClick!として現役で使用されていた。右手に目白山(椿山)の南麓と急斜面が見えるが、現在は江戸川公園Click!となっている。その斜面や丘上には、目白不動尊Click!や関口尋常小学校、山県有朋邸(椿山荘)などがあった。
 花見の名所だった、江戸川(神田川)の桜並木Click!をとらえた写真も残されている。写真⑤は、江戸川に架かる中之橋から上流を眺めた風景で、遠く霞みがちに見えている小さめな橋は、明治期の西江戸川橋だろう。現在は、西江戸川橋と中之橋の間に小桜橋が架かっている。江戸川の岸辺には、花見舟を着けられるように桟橋状の窪みが見られるが、川のあちこちに浮いて見える大きな魚籠のような施設は、江戸川名物だったウナギの生け簀Click!だと思われる。画面左側の道路は、十三間に拡幅された現在の目白通りと上空は首都高5号池袋線、右側の道路はTOPPAN本社前の道路だ。その江戸川沿いの風景だろうか、花見の季節に撮影された写真⑥も残されている。「塩延餅」と書かれた、小さな「御休息所」がとらえられており、この水茶屋の娘なのだろうか小さな女の子が写っている。
写真②徳川邸東.jpg
写真③徳川邸西.jpg
写真④大洗堰.jpg
パノラマカメラ.jpg 将軍が撮った明治1986朝日新聞社.jpg
 さて、徳川慶喜は旧・神田上水をそのまま上流へとたどり、新井薬師まで足を運んでいる。小日向の山麓から、目白崖線沿いの道をそのまま西進したと思われるが、当然、下落合では雑司ヶ谷道Click!と呼ばれた新井薬師道を通っただろう。そのころには、山手線の土手を登る踏み切りClick!ではなく、下落合ガードClick!が完成していただろうか。
 新井薬師の表参道から、連続写真のように本堂までを写しているようだが、写真⑦はさまざまな商店が並ぶ参道をすぎて、本堂の手前で撮影したものだ。新井薬師は戦災を受けていないので、徳川慶喜が撮影した明治末の姿を、現在でもそのまま目にすることができる。本堂の右手から、竹竿に結ばれて垂れ下がる幟は、新井薬師の周辺で営業している多種多様な料理屋や茶店、商店などの広告だ。
 このほかにも、徳川慶喜は東京をはじめ近県まで遠出して、カメラのシャッターを切っていたようで、名所旧蹟ばかりでなく現在では失われてしまった近代建築なども被写体にしており、それらの写真はかけがえのない貴重な歴史資料となっている。
 ちょっと脱線するが、明治末に徳川慶喜が目白崖線沿いを西進する妄想が止まらない。カメラを膝に乗せ、あちこちの屋敷を訪ねては撮影がてら歓談するのを楽しんだらしい慶喜だが、おそらく新井薬師(梅照院薬王寺)へも家令数名とともに馬車を駆って参詣に出かけているのだろう。屋敷を出発し、馬車が音羽の谷間から大洗堰あたりにさしかかると……。
 「あすこの、目白山Click!の森から飛びでた2階の屋根は、誰の屋敷だい?」
 「はい、山県有朋Click!公爵様は椿山荘のお屋敷です」
 「絶対に近寄らん、早く馬車を飛ばせ! なんなら、馬糞をお見舞いしてやれ!」
 「……はぁ」
 「大きな池が見えるなぁ、あすこの大屋敷は誰のかな?」
 「はい、先年、超能力の透視実験Click!とやらをやられた細川護成Click!侯爵様です」
 「おう、どんとこいの屋敷か。今度、包丁正宗Click!をカメラで撮りたいものだな」
 「……はぁ」
 「ところで、あすこの川向うに見えている大屋根は、誰の屋敷かな?」
 「はい、大隈重信Click!侯爵様のお屋敷と、先年改名した早稲田大学の校舎です」
 「娘茶摘みClick!女学生好きClick!なスケベジジイに用はないわ! 休憩はならんぞ!」
 「……はぁ、まだ出立して15分ばかりですので。……そのお隣りが伯爵の……」
 「甘泉園の清水徳川家は、お気の毒だったな。もう、なにもいうな」
 「……はぁ」
 「ところで、学習院の向こっかわの鉄道脇の丘上に見え隠れする屋根は誰んちだい?」
 「はい、つい先だて亡くなりました近衛篤麿Click!公爵様のお屋敷です」
 「金輪際、用はないわ! 馬どもにムチをくれろ!」
 「近々、その西隣りに相馬子爵Click!様も、赤坂からお屋敷を移されるとか」
 「ほう。……なら、いつかそっちへ遊びに寄ろうか」
 「その北側には、戸田康保Click!子爵様のお屋敷もありますが」
 「きょうは新井薬師だ、また今度にしよう」
 「……はぁ」
 「あすこの、岬の突端のような丘上にある西洋館は誰んちだい?」
 「はい、尾張様Click!から出られた徳川義恕Click!男爵様の別邸でございます」
 「ちょいと、寄ってこうか」
 「……こちらは、お訪ねになるんで? 出立してまだ30分ですが」
 「渋沢栄一君ちのボタンは撮ったし、ここもボタン栽培Click!に凝ってるらしいやね」
 「しかし、男爵様がご在宅かどうか」
 「なぁに、まだ陽も高いし、留守ならちょいと庭に入れてもらって一服しようや」
 「…………こんなにおヒマで、はたしてよろしいのでしょうか」
 「あん? なんか、いったかい?」
 「いえ、では急坂Click!を上りますので、おつかまりください」
写真⑤江戸川.jpg
写真⑥花見.jpg
写真⑦新井薬師.jpg
 写真集に収録された画面は、徳川慶喜が写したほんの一部の写真だろう。ほかにも、神田川沿いの風景をはじめ、東京各地の写真が多く残されているにちがいない。中には、明治末の下落合の写真も混じっているかもしれないので、ぜひ全画面を見てみたいものだ。

◆写真上:現在は国際仏教学大学院大学キャンパスになっている、第六天町の徳川慶喜邸跡の現状。正門の馬車廻し跡から、南向きに撮影したところ。
◆写真中上は、小日向第六天町の高台に位置していた徳川慶喜邸(本人撮影)。は、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図にみる徳川邸と松平邸。は、写真①で徳川邸母家の南芝庭から築山と生垣越しに南側の眺望を撮影したもの。
◆写真中下は、写真②で徳川邸の東側風景で砲兵工廠から後楽園あたりの眺望。中上は、写真③で徳川邸の西隣りに建つ松平容保・容大邸と小日向台の森林。中下は、写真④で江戸期を通じて江戸川(神田川)に設置されていた明治末の大洗堰。下左は、徳川慶喜が愛用した風景撮影用のパノラマカメラ。下右は、1986年(昭和61)に出版された『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集―』(朝日新聞社)。
◆写真下は、写真⑤で桜並木がつづく花見の名所だった江戸川を中之橋から上流を向いて。は、写真⑥で花見の季節に撮影された水茶屋。は、写真⑦で新井薬師の本堂。
おまけ1
 目白山(椿山)の丘上に建てられていた、1878年(明治11)築の山県有朋邸(椿山荘)。
椿山荘(山方有朋邸).jpg
おまけ2
 徳川慶喜は周辺の風景ばかりでなく、散歩の途中で出会った人々や事物などもスナップ写真として撮影している。“洗い場”でダイコンを洗う農民と、ススキにたかるカマキリ。
ダイコン洗い.jpg
ススキとカマキリ.jpg

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