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仕舞に脂がのった時期に急逝した観世喜之。 [気になる下落合]

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 以前の記事で、親父が芝居のほかに謡曲(うたい)Click!の趣味ももっていたことを書いた。家の天井にとどく書棚には、山岳Click!清元Click!建築Click!仏教彫刻Click!芝居本Click!など大量の書籍にまじり、能楽Click!の本もたくさん並んでいたのを憶えている。また、観世流のLPレコード全集もあり、休日や舞台の前にはそれらをカセットテープに録音して携帯していたのだろう、しじゅう浚う声が聞こえてきた。
 黙阿弥Click!七五調セリフClick!などとは異なり、わたしは謡曲の詞(コトバ)にはまったく興味が湧かなかったので、それらの書籍類を開くことはなかったけれど、親父が部屋や風呂場などでうなっているのを聞いていると、いつの間にか詞や節まわしを憶えてしまうことがあった。部屋や風呂場から聞こえてきたのは、いまから思えば『隅田川』や『羽衣』『橋弁慶』『舟弁慶』『高砂』『敦盛』などだったと思いあたる。特に『橋弁慶』と『隅田川』は、親父の練習期間が長かったのかいまでも片鱗を憶えていて謡える。ふだんは近くの稽古場に通ったのだろうが、正式な発表会のときは銀座6丁目にある観世宗家の能楽堂、あるいは神楽坂駅の近くにある矢来能楽堂に出かけているのかもしれない。わたしは、謡いにはまったく興味が湧かなかったので、あえて訊いたことがない。
 この矢来能楽堂の前身は、下落合515番地(1932年以降は下落合1丁目511番地)に住んでいた初代・観世喜之邸の邸内にあった能舞台だ。観世喜之が、下落合に自邸と能舞台を建設して転居してきたのは、1923年(大正12)の関東大震災Click!の直後だ。1911年(明治44)に建設され、それまで観世九皐会の拠点だった神田西小川町の能舞台が、大震災の影響で全焼したためだった。震災の翌年、1924年(大正13)には下落合515番地に観世喜之邸が早くも竣工し、同時に舞台披(びら)きも行なわれている。
 以来、1930年(昭和5)9月に牛込区(現・新宿区の一部)の矢来町60番地に、いわゆる矢来能楽堂が完成するまで、観世九皐会(通称:矢来観世/観世喜之家)の本拠地は下落合にあった。その後も、観世喜之は下落合に住みつづけているが、残念ながら1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)には、名前が収録されていない。そこで、1933年(昭和8)に聯合通信社から刊行された『日本人事名鑑/昭和9年版』より、その人物紹介を引用してみよう。
  
 観世喜之 観世流能楽師(略) 淀橋区下落合一ノ五一一
 【略歴】本名を喜太郎と称し観世清之の長男 明治十八年二月東京市神田区に出生 同四十年家督を嗣ぐ 幼にして父清之に就き観世流能楽の薫陶を受け同卅年初めて舞台を踏み同卅四年畏くも明治大帝並に昭憲皇太后両陛下御前に於て上覧に供するの光栄に浴し爾来数次に亘て各宮家に御前演能を勤む 観世流能楽の大家として知らる古今亭の雅号を有す
  
 1924年(大正13)の竣工当時、下落合515番地(のち下落合1丁目511番地)の観世邸+能舞台は、目白駅から目白通りを西へ向かい、近衛家Click!の所有地に建つ目白中学校Click!のキャンパスをすぎてすぐの街角を左折すると、60mほど南下した右手にあった。おそらく震災直後から観世喜之が死去するまで、当時の能楽師や謡曲を趣味にしていた人たちには、ふだんから通いなれた“謡い”の道筋だったろう。
 能楽の関連本に、1枚の舞台写真が残されている。1929年(昭和4)の夏に撮影されたものだが、シテを演じているのは観世喜之で、演目は深草少将の怨霊に苦しめられる老婆になった小野小町の『卒塔婆小町』だ。同年は、いまだ矢来能楽堂が落成する以前で、この写真にとらえられた能舞台が、下落合515番地の観世邸内にあった舞台ではないかとみられる。舞台の手前には、観客の入れる見所(観客席のこと)もあり、かなり大きめな建物だったのではないかと思われる。戦前の空中写真にとらえられた、観世邸敷地の道路に面した東側に見えている、まるで寺院の堂のような正方形の建築がそれだろうか。
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 観世喜之の弟子だった、戸田康保Click!については前回の記事でも書いたが、高田町雑司ヶ谷旭出41番地(のち目白町4丁目41番地)の戸田邸と観世邸は、目白通りをはさみ直線距離で250mほどしか離れていない。戸田康保は、謡いを浚いに足しげく師宅を訪問していたのだろう。1925年(大正14)に、観世流改訂本刊行会から出版された観世喜之が演じる写真帖『能楽審美』には、戸田康保が序文を寄せている。同書より、少しだけ引用してみよう。
  
 現時観世流能楽の泰斗として名声嘖々たる観世喜之師が演能の粋を蒐めた写真帖であります。斯道今日の興隆は師等の努力が与つて大に力のあつた事は世間周知の事実であります。而も師は久しい間その研鑽を怠らず今や全く円熟の境に入つて其妙技を発揮して居られます。(中略)唯洗練されたる師の型がコロタイプ写真版に撮られて実物其儘の姿態を机上に展開され永久に記念さるゝに至つた事は誠に珍とし喜びに堪へぬ次第であります。想ふに此企は同好の人々の間に持て囃さるゝばかりでなく、美術鑑賞家の書架を賑はし画家彫刻家の好参考にも供せられて更に続刊を待望せらるゝに至るであらうことを信ずるものであります。
  
 この『能楽審美』(昭和期に入り能楽審美社から刊行される同名の月刊能楽雑誌とは別)に掲載された写真類が撮影されたのも、下落合の観世喜之邸に付属していた能舞台ではないかとみられる。大判のカメラで撮影され、当時としては最高品質のコロタイプ印刷で制作された同写真帖は、明治期以来の仕舞型や装束、小道具、作り物などを研究するうえでも貴重な一級資料となっているのだろう。価格はどこにも記載されていないが、今日、古書店で入手しようとすれば軽く万単位の値段になりそうだ。
 ここで余談だけれど、観世喜之の身長はどれぐらいだったのだろうか。写真類から推察するに、160cm前後の能を演じるには違和感がなく、ちょうどよい背丈のように見える。これは芝居の役者にもいえることだが、現代の能舞台で『隅田川』とか『安達原(黒塚)』の老婆を演じるシテが、175~180cmのガタイではどうにも様にならないのだ。上掲の戸田康保の言葉を借りれば、「洗練されたる……型」にはならず、どこか仕舞も含めて滑稽に見えてしまう。『卒塔婆小町』の老衰した小野小町が、面が小さく見え顔が横からはみだすほど栄養がゆきとどき二重アゴでは、およそ興ざめなのと同じだ。
 芝居では、親父が気にしていたのは、坂東三津五郎Click!の養子になった女形の坂東玉三郎が、梅幸や松緑Click!などと共演したときだ。玉三郎は、当時としては身長が高く173cmだったので、舞台ではとんでもない大女となり(現代女性では別にめずらしくないが)、他のベテラン役者たちが小男に見えて吞まれてしまう。玉三郎も気にしてか、背をかがめて猫背気味に演じていた印象があるけれど、カヨワクなければならない荒事の“おやま”が、立役者よりも大きなガタイをして立派では様にならないのだ。
 子どものころ、17代目・中村勘三郎Click!の夏芝居『東海道四谷怪談Click!(あずまかいどう・よつやかいだん)』(国立劇場だったか?)を観にいったとき、晩年に近い勘三郎は足が悪く、しかもよく肥っていた。勘三郎のお岩さんClick!が舞台に登場すると、大向こうから「中村屋!」の掛け声とともに客席のあちこちから笑いが漏れていた。中村屋もそれをよく承知していて、亡霊になってからのお岩さんは静かにス~ッと現われなければならないのに、あえて肥った身体をジタバタさせながら出現して客席を笑わせていた。
 ぜんぜん怖くはなく、共演の役者もつい笑ってしまいセリフに詰まる『東海道四谷怪談』なのだが、観客は大看板である中村勘三郎のお岩さんを観に、わざわざ劇場まで足を運んでいるのであって、南北の怪談を怖がりにきているのではないのでまったく問題はなかった。だが、芝居の舞台では許されるゆるめな演出でも、能楽ではそれが許されない。
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 観世喜之の養子(甥)で、のちに2世・観世喜之を名のるようになる観世武雄は、師の稽古の厳しさについて書いている。観世喜之が56歳で死去した、1940年(昭和15)刊行の「謡曲界」5月追悼号に収録の、観世武雄『教へる時の父』から少し引用してみよう。
  
 シテの稽古をしていたゞいたのは、九才の折で岩船が初めです。子供ごゝろでしたが、能が好きな癖に、こんな難しいことなら、いつそ病気になつちまはうかと思ふ程の厳格そのものゝ稽古でした。/年を経るに従つて尚々喧くなり、十四才を覚えてゐますが、羽衣の仕舞で、マネキ扇をするところで、三四度なほして呉れましたが、なおすと言つても、四度目位には扇子で肘を叩かれたのです。そして、五度目にはまだいけず、舞台から見所へ突き落されたことを覚えてゐます。
  
 跡とりには非常に厳格な師匠だったようだが、おそらく能楽を習いに通っていた弟子や謡いの生徒たちにも、かなり厳しかったのではないだろうか。先述のように、観世喜之は芸に脂が乗りきった時期に下落合で病没している。
 観世喜之は、1940年(昭和15)までに軽く1,000番(回)を超える舞台を踏んでいる。同年には「独演能」に挑戦しようとしていたが、身体の調子が悪く延びのびになっていた。演目も、『仲光』『定家』『安達原』の3番を予定している。死去する同年に謡曲界発行所から刊行された『能楽謡曲芸談集』収録の、観世喜之『独演能』から引用してみよう。
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 大体私の演じた能は千番となつたので、その記念の為といつてはをかしいですが、まあ千といふ数も一つの区切りでありますので、そんな意味からも、これだけの能を舞つてきた私が一日に幾つかの能をやつてみるのも面白いと考へました。こんな原因もあるのです。/しかし、千番といひましても、実際はそれを超してゐることゝ思ひます。以前は、ずつと自分の舞つた能を手帖につけて居りました。それがあの大震災ですつかり焼いて了ひまして、私としては非常に残念なことなのですが、震災前の記録は、ですから全然なくなつて了つたのです。
  
 この芸談からわずか5年後、東京大空襲Click!山手大空襲Click!であまたの能楽に関する貴重な資料類や面、衣装、小道具、作り物などの文化財が数多く焼失したことだろう。
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 戦争は人命を奪うとともに、貴重な歴史遺産をも全的に消滅させる文明・文化破壊であることを改めて確認しておきたい。矢来町の能楽堂は空襲で全焼したが、下落合の観世邸+能舞台は延焼が迫ったものの、濃い屋敷林が幸いして焼け残り、なんとか戦後を迎えている。

◆写真上:1925年(大正14)出版の観世喜之による写真帖『能楽審美』(観世流改訂本刊行会)より、めでたい席などで一節がよく謡われる『高砂』。
◆写真中上は、1929年(昭和4)夏に撮影された下落合の舞台で演じられたとみられる『卒塔婆小町』。中左は、先述の写真帖『能楽審美』の表紙。中右は、晩年に近い初代・観世喜之。は、写真帖『能楽審美』より『羽衣』と『隅田川』。
◆写真中下からへ、同書より『安達原』、『舟弁慶』、『松風』、『望月』。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合515番地の観世喜之邸。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸。中下は、戦後1947年(昭和22)撮影の焼け残った観世喜之邸と能楽堂。は、観世喜之邸の現状。

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