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状況の“先読み”ができなかったオレ。 [気になるエトセトラ]

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 学生時代に、約1年ほどバイトをしていたコーヒーショップのカウンター業務Click!で、わたしは貴重な体験をしている。それは、次に発生する仕事の手順や方法を予測して先どりすることで、作業の手間ヒマが大きく異なるということだった。それは、コーヒーClick!(サイフォン方式)を淹れるときも料理をつくるときも同様で、仕事の導線(動線)や道具・食材の収納・配置における工夫なども含め、“先読み”をすることで業務にかかるリードタイムを短縮したり、料理にかかる手間を省力化したりすることができた。
 わたしがバイトをしていたコーヒーショップは、4人がけのボックス席が10組あり、カウンターを含め混雑すると最大50人前後が入れる規模だった。ただし、すべてのイスが埋まることはほぼなかったので、満員でも30~40人ほどだったろう。平日のランチタイムや休日などは満席に近い状態となり、てんてこまいの忙しさになったので、仕事の“先読み”による省力化・短縮化・効率化は、お客にオーダーが「遅いぞ!」といわれないためにも、常に考えなければならない切実な課題だった。
 カウンターの言葉数の少ない前任者は、新たに開店する支店へ転勤するとかで、カウンター業務の右も左もわからないわたしに、基本的な仕事の流れを教えてくれただけで、わずか2週間の引き継ぎ期間を終えるとどこかへいってしまった。仕事の動きをよく観察して、見よう見まねで憶えろ……ということだったのだろう。だから、あとは自分で考えながら憶えて工夫を重ねるしかなく、たとえばAというオーダーにはどのような手順を組み立てたら最速でお客に提供できるか、Bというオーダーにはカウンター内でどのように動けば最短のリードタイムで対応できるか、あるいはAとCという組み合わせのオーダーには、空いた隙間時間に下ごしらえをどの程度までやっておけば即座に対応できるか……というような、作業の“先読み”=予測をベースとした柔軟な創意工夫が求められた。
 もちろん、当時は端末もデータもない時代なので、今日のデータドリブンによる次のアクション予測などありえず、すべてが経験値を積み重ねたカンとノウハウが頼りな人的依存の業務だった。土日のオーダーにはAとBが多いので、前日の発注は素材を多めにとか、このところ暑い平日のランチはCかD+アイスコーヒーが圧倒的なので、ロースト系の豆を多めに仕入れよう……とかを、わたしが遅番の場合は自分で発注するが、早番の場合は遅番のカウンター担当に発注を引き継いでから学校へ出かけていた。
 つまり、カウンター内の業務プロセスにしろ、売上に直結する受発注の基本的な経営判断にしろ、単なるアルバイトにもかかわらず作業の“先読み”と需給の予測が常に問われていたわけで、それが的中すると嬉しかったが、外れるとゲームに負けたかのように悔しくガッカリしたものだ。あまり外れつづけていると、当然のことだが古くなったコーヒー豆やムダになった野菜などの食材を廃棄しなければならず、ときどき現れるショップのオーナー(6~7店舗を経営していたようだ)からは、ひとこと注意されることになる。
 けれども、「ビジネスの重要なテーマはバイトで学んだ」ではないが、当時のコーヒーショップClick!のカウンターという業務には、あらゆるビジネスの重要なファクターがまんべんなく含まれていたんだと、あとになってから思い当たることになる。中でも、常に次のことを考えて行動する、作業する、備えるという作業の“先読み”と受発注の予測が、飲食店というオーダーがあってから短時間で商品を提供し、コーヒーの淹れ方や料理にできるだけ上達して工夫をほどこし、「美味しい」付加価値を生みつつ他店との差別化を図り、仕入れは新鮮野菜をはじめ生モノが多いので常に最小在庫で、不足しそうなぶんは店内在庫を意識しつつ時間を見はからいながら、ジャストインタイムで調達できるよう発注するという、調達-製造-ロジスティクス-販売-経営判断(BI)的な側面など、大げさにいえば“ものづくり”ビジネス全般に共通する、ベーシックなメソッドやフローを学ばせてもらった。
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 つまり、今日ではERPやSCMで管理されているデータ流や、モノが動くロジスティクス(物流/在庫管理)まで、当時はすべてが属人化によるアナログだったが、コーヒーショップ店内には一連の業務プロセスが完結して存在したということだ。現代のチェーン形式のカフェでは、おそらく人がほとんど介在せず、“本部”からのデータ流とロジスティクスが存在し、カウンター業務は純粋にマニュアルどおりの定型作業に徹するだけなのだろう。需給が、現場の状況に合わない場合(天候や近場のイベント、観光客の多寡など)は、店舗のマネージャーが個別のデータ操作で対応し、カウンターは関与しない業務になっており、大規模なカフェチェーンでは人的依存を最小化し、それさえ繊細な予測データとして組みこまれ、AI・機械学習なども援用しながら運営されているにちがいない。
 いい勉強をさせてもらったアナログ時代のコーヒー店バイトだが、作業の“先読み”についてひとつ気がついたことがある。それは、いろいろな調理作業(オーダー処理)をするうえで、そのフローや手順の“先読み”ができる人と、できない人がいるということだ。ショップが混雑する期間や、夏休み・冬休みなど人出が多い時期に合わせ、カウンター業務では期間限定でアルバイトを雇うことがあった。(わたしもバイトなのだが。w) また、他店の早番・遅番のカウンターに欠員ができそうになると、急いで新たに長期バイトを募集して業務を憶えてもらう必要が生じた。そんなとき、助手や見習いとしてわたしのいるバイト店にも、雇用したスタッフたちが派遣されてくる。この人たちの中に、業務手順や作業導線(動線)の気づきや“先読み”ができる人と、できない人がいたのだ。
 別に“先読み”の可否には、学歴や職歴はいっさい関係ない。カウンターで作業をしている、わたしの次に動く先々へいつも立ちはだかる(仕事の邪魔をする)有名大学の学生もいれば、次に欲しい道具や食材をいつも先まわりして用意してくれる、高校を中退した暴走族あがりのようなお兄ちゃんもいた。つまり、相手のことをよく観察して作業手順を理解し、次に相手がなにをするか、なにをしたいのかを“先読み”して、自身の行動を選択・決定できる人と、いちいち口でいわなければわからない人とがいるのだ。換言すれば、アタマが柔軟で即時的に対応できる人とそうでない人、観察力の優れている人とそうでない人、即興で創造的な対応ができる人とできない人……ということになるだろうか。
 これは、学歴が高いからできることではなく、また学歴が低いからできないことでもない。実は、アタマの回転の「速さ」や「柔軟さ」というのは、学校における記憶力中心のテストや成績にはあまり比例せず、こういうところで如実に表面化してくるのではないかと感じた経験だった。これは、別にコーヒーショップのカウンター業務に限らず、さまざまな分野の業種職種における職員や職人の世界でもまったく同様なのではないだろうか。その能力は、幼いころからの家庭教育や家庭環境に由来するものなのか、あるいはもって生まれた性格からなのか、後天的に自分で努力して獲得した鋭敏な能力なのかは不明だが、バイト先での非常に印象的な体験だったので、いつまでも忘れずに憶えている情景だ。
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 さて、わたしは学生時代から、そんな仕事や生活における“先読み”のたいせつさについて学んできたはずなのに、この歳になってうかつにも大失敗をやらかしてしまった。わたしの予想や計画、思惑がことごとく外れ、180度の“先読み”まちがいをしてしまった。まわりの社会的状況をよく観察せず、周囲の環境や背景を十分に把握せずに、甘い認識のまま時代を大きく見誤っていたことに改めて気がついたのだ。
 実は、もう一般の企業や組織では定年時期もすぎてるし、昨年(2023年)の12月31日づけで仕事を廃業して、“隠居”生活に入る予定・計画を以前から立てていた。既存の仕事も、8年先か10年先かはわからないが、AIやAI絡みのRPA(S/Wロボット)、量子アニーリングなどに取って替わられるのは時間の問題だし、そろそろ年齢とともに引きどきだと考えていたのだ。従来より継続している、PaaS上のシステム案件は定期的なマネジメントのみを残し、ほかの仕事からはすべて引退しようと思い、クライアント各社にもそう宣言したのが昨年の10月中旬のことだった。翌11月に入り、新規に発生する案件(仕事)がピタリと止まったので、クライアントのみなさんが了解してくれたものとばかり考えていた。
 これで、ようやく日々の仕事に束縛される時間が減り、休日や祝日ばかりでなく、落合地域や江戸東京の以前から気になっている各種テーマについて、平日も含めたっぷりと十分な時間をかけて、従来とは比較にならないほど柔軟な取材や調べものができるし、特に興味のあるテーマについては好きなだけ深掘りできると楽しみにしていた。廃業宣言から1ヶ月、以前から継続している案件とシステムの定例的な運用管理のほか、新たな仕事は発生せず、各クライアントも了解してくれたとホッとしていた。
 ところが、12月に入るとわたしの「廃業・引退宣言」など、まるで聞こえなかったかのように仕事が続々と入りはじめ、最初は「ウソだろ?」と思っていたのが、正月をすぎて春・夏を迎えてみれば、以前とまったく変わらない“日常業務”に忙殺される笑えない自分がいた。わたしの「宣言」は、いつのまにか「なかったこと」にされ、結局、拙ブログでの記事や表現は深掘りして取り組めない、文字校正Click!さえかなり不十分なままの、いままでどおり空いた時間を見つけての片手間で浅い「取材・調査記事」のままになっている。それほど、世の中は人手不足が深刻であり、こんな拙いわたしでさえ辞めさせてくれない状況を迎えていたのも見抜けず、まったく生活設計の“先読み”ちがい=空振りをしてしまった。このまま死ぬまで、“戦場”を離脱できないのだろうか?
 たとえば、以前の下練馬記事Click!では日を改めて、古い農家を訪ね(あちこちに大農家らしい住宅を見かけた)房州石や埴輪の欠片を所有してないかどうかを確認したいし、下落合の小名「摺鉢山」Click!の後円部とみられる場所で住宅が解体され、掘り返された赤土の土砂の中に素焼きの埴輪片のようなものを多数見かけたので、土地の所有者や工事業者に当たって確かめたいし、上落合の八幡公園Click!が設置される際に房州石や埴輪片が出土していないかどうか、どこかに眠っている1960年代の古い工事記録を探ってもみたいのだが、そのような深掘り時間が現状では到底とれそうもない。田畑の畔や畝へ、出土した土器片や埴輪片が邪魔なので鋤きこんだ話が、あちこちに伝わる落合地域なのだ。
 また、久しぶりに最新のミラーレス一眼でも手にし、いつもはコンデジやスマホの拙い写真ばかり掲載してきたのを少しこだわりたかったし、落合地域の記事と連動した動画を撮影してじっくり編集にも取り組みたかったのに、そんな時間も余裕すらも相変わらずない。夢に描いていた理想の隠居生活など、どこかへ吹っ飛んでしまった。
 最近のICTテーマで、プロセスマイニングという手法が注目されブームになりかかっている。業務フローをデータドリブンで分析して可視化し、その非効率的なプロセスや業務コスト(人手と時間)がかかる部分を検討して改善サイクルを廻し、AIや量子コンピューティングなども援用しつつプロセスの整流化と、ヒューマンエラーの最小化で生産性を高めようとする考え方だ。労働人口の減少や人材不足が進む今日、より注目を集めそうな仕組みづくりだ。現在はERPのIFS(スウェーデン)やSAP(ドイツ)とからめCelonis社(ドイツ)がシェアNo.1で、事実上の世界標準だろう。
 この業務の変革手法を、拙記事の取材や調べもののリードタイム短縮や効率化、エラーの低減に応用できないかどうか、そして短時間で効率よく文章化できないかどうか、マジメ半分ジョーダン半分で考えている。取材の遠まわりや調べもののムダを、できるだけ回避したいという想いがますます強くなっている。そうでもしないと、従来の拙記事のレベルからより精確で深耕した内容への質的向上は、日常業務を抱えていては望めそうにないからだ。
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 そのようなプラットフォームを形成するには、データ基盤を周到に整理=可視化して、短いリードタイムで検索・参照ができるよう、常にBI環境のような基盤整備が必要だ。また、取材や調査の流れを、習慣化した手順やカンに頼った曖昧な作業フローを排除し、ムダで非効率と思われるプロセスを省いた各種フローパターンを抽出し、いくつかケース別にモデルフローとして可視化・規定する作業が不可欠になる。けれども、そんなことをやってる時間は、いったいどこにあるのだろう? 寄る年波とともに、面倒なことは「まっ、いっか~」で済ますことが多い、きょうこのごろのオレがいる。
 こういう心がささくれ立って、なにをする気も起きないときは、フォーレ『パヴァーヌ Op.50』でも聴いて早寝に限る。うんと懐かしいバレンボイム=パリo.か、先日亡くなったばかりの小澤=ボストンso.か、JAZZのヒューバート・ロウズ(fl)にしようか……、やっぱり、わたしにはネコジャケの後者Click!のほうが、いまの気持ちにフィットしそうだ。

◆写真上:目白にある、いつもJAZZが流れている喫茶店Click!のカウンターにて。
◆写真中上は、早朝に出勤する早番がまずやることは、モーニングセットやタマゴサンドに使う50個ほどの鶏卵を茹でることだった。このあと、客足を見ながら10個ずつ茹で卵を追加していく。は、とどいている大量の野菜類を洗浄して皮のある野菜はすべてむいておく。卵や野菜が不足しそうな場合はリアルタイムで発注する。
◆写真中下は、次に10斤ほどとどいている温かい食パンをトースト用とサンドイッチ用にスライス。すべてスライスすると乾いてしまうので、朝は2斤ほどからスタート。は、トーストやサンドなどの調理中にどのタイミングでサイフォンに点火すれば、コーヒーClick!と料理とを同時に提供できるのかも経験とカンがものをいう。そのタイミングは料理の種類ごと、あるいはオーダーの人数・分量でそれぞれ異なっている。もちろんコーヒー豆Click!はオーダーが入ってから挽き、豆が残り少なくなるごとに発注していた。
◆写真下は、マッキントッシュClick!C29+MC7300によるスタンダードな“コンビ顔”に魅かれて立ち寄ってしまう目白の喫茶店。は、Celonis Process Miningの業務プロセス可視化画面。アクションフローを検討して、遠まわりな作業を改善・効率化できるかも。
おまけ1
 かつて、下落合の小名で「摺鉢山」と呼ばれたエリアの中心部で住宅が解体され、掘り返された土砂の中に大量の素焼きとみられる破片の含有が確認できた。これらが土器片か埴輪片かは不明だが、調査・確認してみたいテーマのひとつなのだが……。特に、裏側が朱に近い色あいをした欠片は、墳丘に並べられた形象埴輪の特徴で破片の一部かもしれない。
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おまけ2
 コーヒーショップといえば、自宅近くの店に毎日通っていたらしいコーヒー好きなこの人を思いだす。亡くなる2年前の1986年(昭和61)に、福音館書店の「こどものくに」シリーズで出版された『ぼくのおじいちゃんのかお①』(天野祐吉+沼田早苗)の大好きな加藤嘉。
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おまけ3
 隠居したら、これも時間をかけてやってみたかったお遊び。ここで暮らした人々の存在感をよりリアルに表現したいため、AIエンジンを使って下落合を自在に歩かせてみたかった。「ニヤニヤ佐伯祐三」のポートレートと、風景に眼をこらす「モチーフ探しの金山平三」。清水多嘉示がパリから送った“タピ”らしい布を背景に、アトリエで「絶対安静の中村彝」。

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作家としての竹田助雄と「文藝首都」。 [気になる下落合]

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 落合地域の地元で竹田助雄Click!の名前を聞くと、1962年(昭和37)5月3日から1967年(昭和42)10月26日までの5年間にわたり発行された「落合新聞」Click!と、1982年(昭和57)に創樹社から出版された『御禁止山―私の落合町山川記―』Click!を思い浮かべがちだが、彼の表現基盤はそこではない。それ以前に、文学雑誌「文藝首都」の一貫した主要会員として、小説や随筆を執筆していた作家としての“仕事”がメインだった。
 もっとも、当時のほとんどの作家たちがそうであったように、筆1本では食べていけないので、生活の糧として下落合で写真製版工場を経営しており、夫人のやや冷たい視線を気にしつつ、片手間に発行していたのが「落合新聞」だった。事業の経営がようやく安定してきた1960年代、竹田助雄は夫人と5年間(50号)の約束で「落合新聞」の発行に注力している。もちろん、「落合新聞」は主要新聞各紙の折りこみによる無料配布であり、なんら会社の収益にはつながらず、持ちだし一方の仕事だった。
 竹田助雄は、1931年(昭和6)に一家5人で下落合に転居してきている。最初はアパートを借り、やがて目白文化村Click!の近くにあった敷地に、自邸を建設して暮らしていたようだ。転居から10年後、おそらく1941年(昭和16)の20歳のとき、召集されて中国の「満洲」Click!へ連れていかれている。1945年(昭和20)8月13日にソ連が参戦した直後、彼は開拓義勇軍の生徒たち40数名を引率してハルピンを脱出し、8月15日の敗戦をはさんで苦労のすえ、9月10日にはなんとか東京へたどり着くことができた。
 戦前から敗戦後にいたるこれらの経緯は、1954年(昭和29)刊行の文芸誌「文藝首都」3月号に掲載された、竹田助雄の自伝的小説『星空』に多少の脚色をまじえながら描かれている。同作より、下落合へ転居してきたころから敗戦までの回想部分を引用してみよう。
  
 私が兵隊に征く二年程前です。落合のある古ぼけたアパートに移つて来ました。二階の真中で南京虫の沢山いる部屋でした。アパートの附近は目白の文化村で美しい家や広い庭のあるお屋敷でした。私もいつかはそうした家に住んでみたいと思つたのです。/けれども丸四年の兵隊生活が終つて終戦直後北満から引揚げて来てからは、私の考えが変つていました。(中略) 私は終戦の二日前、つまりソ連が宣戦布告をした八月九日から五日後の十三日の夕暮、私は受持つていた開拓義勇軍の生徒四十数名を連れてハルピンを脱出し、翌月の九月十日には東京へ帰つておりました。
  
 下落合に転居してきたのは、「兵隊に征く二年程前」としているが、実際には10年ほど前ということになる。文中の「考えが変つていました」とは、国家が滅亡し「亡国」状況を招いた軍国主義に、強い反発をおぼえていたからだ。彼は敗戦後、代々木にある共産党系の印刷工場へ勤めている。そこで写真製版の技術を学ぶが、共産党員の非党員に対する差別的な扱いや態度を見て反発し、彼は非党員のまま仕事をつづけている。
 1949年(昭和24)になると、朝鮮戦争を計画していた米軍はGHQ指令としてレッドパージを断行する。代々木の印刷工場は、1950年(昭和25)6月25日に朝鮮戦争がはじまると、6月28日の深夜0時すぎ武装警官隊に包囲され、工場は警察のバリケードで封鎖された。以前、GHQの組合つぶしによる東宝争議の久保一雄Click!黒澤明Click!などについて書いたが、印刷工場封鎖もGHQによるあからさまな思想弾圧の一例だ。
 失業した竹田助雄は、「私はどうしても機械が欲しかったのです」と書くように、なんとしても独立して自社工場をもちたいと考えていた。「機械」とは、オフセット印刷には不可欠な写真製版機のことで、当時は1台が3万円もしていた。消費者物価指数で換算すると当時の3万円は現在の約50~60万円ほど、また当時の国民平均給与の3か月強に相当する値段なので、100万円超ぐらいの感覚だろうか。それを購入するため、再び就職しておカネを貯めるか、どこかの工場で機械を借りて自身の仕事をこなしていくかの選択を迫られている。
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 そんなとき、以前の雇用主だった印刷会社社長のHに偶然出会い、目白通り沿いにあった彼の工場の機械を借りて仕事をすることになった。当然だが、昼間はHの会社の仕事をこなし、夜間だけ自分が受注した仕事をするので、ほとんど寝る時間がなくなった。
  
 私の家から二K程奥で、豊島園に抜ける目白通りに練馬の桜並木があります。左側の路地を入ると住宅街でH氏の工場はそこにあるのです。そんな近くにあつた事は私にもH氏にも都合がよかつたのでした。十五坪のコンクリート造りで、もとは軍需品の倉庫であつたのを改造した工場でした。/H氏は他にも工場を持つていました。それは日本橋の某ビルの地下でかなり大きく、数十人の従業員が働いていました。
  
 もちろん、当時は工場に暖房器具などないので、冬場などはすき間風が入り放題で、機械類に囲まれて凍死しそうな寒さとなった。指先が無感覚になり、凍傷になる一歩寸前の職場環境だった。竹田夫人ができたての弁当を自転車でとどけ、炭火を起こして仕事を手伝っていくのが日課となった。夫人は毎日、自転車で得意先をまわっては仕事を受注して夫にとどけていた。竹田助雄自身も、工場が休みの日には自転車で新宿から神田神保町界隈をまわっては、得意先の新規開拓をつづけていた。
 竹田家から、目白通りを豊島園の方向へ2kmほどいったところにあった工場とは、どのあたりのことだろうか。現代の地図でいえば、地下鉄大江戸線・新江古田駅の手前あたりになる。著者は「練馬の桜並木」と書いているが、2kmほどではいまだ中野区江原町あたりのはずだ。当時、江原町の目白通り沿いにも桜並木があったものだろうか。
 代々木の印刷工場では非党員だった彼にも、公安警察の嫌がらせはつづいた。職場や自宅へ、しばしば刑事が顔を見せては彼自身と家族、勤務先の経営者に圧力をかけつづけていた。まるで、戦前の特高Click!そのままの姿だが、特高と異なるのは監視や「転向」を迫るためでなく、彼の生活を破滅させてやろうとする悪質な意図からだった。
 「私には迷惑なダニが付随していたから」と書く竹田助雄だが、それでもH社長は変わらずに雇用しつづけてくれた。戦前の姿を引きずる警察の姿に、経営者であるH社長も少なからぬ反感をおぼえていたのかもしれない。けれども、目白通り沿いの印刷工場はほどなく日本橋工場と統合することになり、彼は写真製版の機械を使えなくなってしまった。
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 捨てる神あれば拾う神ありのたとえどおり、いまだHの工場に勤務しているときに、下落合駅の近くにあった新聞を発行する印刷会社から、定期的にまとまった仕事をもらえるようになった。そこのN社長は、竹田助雄の真面目な性格を高く評価し、竹田夫妻を支援していくようになる。また、Hの工場の代わりとなる池袋のN工場を見つけるが、すでに従業員は足りているので仕事を受注し、マージン20%を得るだけの製版・印刷ブローカーになってしまった。これでは、生活費を得るのがやっとの状態であり、独立のために写真製版機を購入するなど夢のまた夢となった。当時の様子を、『星空』よりつづけて引用してみよう。
  
 夏になるとふだんでも夏負けのする私は、まだ五月だというのに、一日十数時間の労働と不眠のためにげつそりと痩せて、終戦後のその頃のような妻も共にやつれました。/椎名町から池袋へ抜ける、あの陸橋のある長い(山手通りの)坂道を日に何度往復したことでしよう。まだ五月の太陽であつても私には真夏のように熱かつたのです。油気のないその汗は、時には私を失望させることも屡々でした。(カッコ内引用者註)
  
 悪いことはたび重なるもので、数万の売掛金がたまっていた東中野の印刷会社が倒産し、莫大な欠損金が生じてしまった。それを補うために、夫妻の家財道具や衣服ばかりでなく、母親のそれまで次々と売り払うハメに陥るが、生活費に消えるばかりで機械を買う代金にはとどかない。1950年代の当時、インフレが徐々に進行し経済成長期がはじまろうとする入口だったので、写真製版機も値上がりをつづけていただろう。
 こうして、艱難辛苦の日々はつづいたが、「丘の上にある」とある出版社の社長が、嵐の日でも締め切りを厳守して納品してくる竹田助雄の人柄を信頼し、自身で機械を買って製版工場が持てるよう、前払い金としてなんと5万円もの小切手を切ってくれた。彼はそれをもとに機械を購入し、自宅を改造して独立した自分だけのオフィス兼工場を、ようやく下落合3丁目1385番地に創立することができた。そして、5年間(50号)にわたる「落合新聞」は、この「竹田写真製版所」で編集・発行されることになる。
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 竹田助雄は、なにか困難な事態に直面したり、将来が見とおせない絶望的な状況に追いこまれると、しばしば自宅で夫人とダンスをしている。夫人は裕福な家庭の出身で、実家の家族じゅうから結婚を反対されたにもかかわらず嫁いできていた。『星空』では、困窮した状況で何度かダンスシーンが登場するが、きっと「落合新聞」に没頭して夫人や従業員に仕事をまかせきりにしていた時期にも、夫人をなだめるようにダンスをしていたのではないだろうか。仕事をしない夫への、夫人の冷ややかな眼差しを肩口に痛いほど感じながら……。

◆写真上:下落合3丁目1385番地の竹田写真製版所(画面右手:2005年撮影)。
◆写真中上上左は、自伝小説『星空』が掲載された1954年(昭和29)発行の「文藝首都」3月号。上右は、1965年(昭和40)4月12日に目白台の当時は蔵相だった田中角栄邸Click!で、御留山Click!の図面を前に保存を訴える竹田助雄。は、『星空』の扉。は、1954年(昭和29)に発行された「文藝首都」9月号の中扉と会員募集要項。
◆写真中下は、1948年(昭和23)の空中写真にみる焼け跡に再建された竹田助雄邸。は、1960年(昭和35)発行の「文藝首都」5月号における第1回座談会の様子。同誌の会員には、北杜夫Click!をはじめ佐藤愛子、なだ・いなだ、田辺聖子Click!大原富枝Click!、少し遅れて中上健次、津島佑子、林京子などが参加していた。は、1949年(昭和24)の空中写真にみるH社長の工場があった目白通り沿いの中野区江原町あたり。
◆写真下は、携帯の低解像カメラで撮影した竹田写真製版所(2005年撮影)。中上は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」にみる竹田写真製版所。南西隣りは宇野千代Click!の専属デザイナーだった松井直樹Click!アトリエで、竹田家とは昵懇の間がらだった。中下は、1962年(昭和37)5月3日に発行された「落合新聞」創刊号。は、1954年(昭和29)刊行の「文藝首都」3月号の奥付で、同誌は1969年(昭和44)12月号までつづいた。

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