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作家としての竹田助雄と「文藝首都」。 [気になる下落合]

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 落合地域の地元で竹田助雄Click!の名前を聞くと、1962年(昭和37)5月3日から1967年(昭和42)10月26日までの5年間にわたり発行された「落合新聞」Click!と、1982年(昭和57)に創樹社から出版された『御禁止山―私の落合町山川記―』Click!を思い浮かべがちだが、彼の表現基盤はそこではない。それ以前に、文学雑誌「文藝首都」の一貫した主要会員として、小説や随筆を執筆していた作家としての“仕事”がメインだった。
 もっとも、当時のほとんどの作家たちがそうであったように、筆1本では食べていけないので、生活の糧として下落合で写真製版工場を経営しており、夫人のやや冷たい視線を気にしつつ、片手間に発行していたのが「落合新聞」だった。事業の経営がようやく安定してきた1960年代、竹田助雄は夫人と5年間(50号)の約束で「落合新聞」の発行に注力している。もちろん、「落合新聞」は主要新聞各紙の折りこみによる無料配布であり、なんら会社の収益にはつながらず、持ちだし一方の仕事だった。
 竹田助雄は、1931年(昭和6)に一家5人で下落合に転居してきている。最初はアパートを借り、やがて目白文化村Click!の近くにあった敷地に、自邸を建設して暮らしていたようだ。転居から10年後、おそらく1941年(昭和16)の20歳のとき、召集されて中国の「満洲」Click!へ連れていかれている。1945年(昭和20)8月13日にソ連が参戦した直後、彼は開拓義勇軍の生徒たち40数名を引率してハルピンを脱出し、8月15日の敗戦をはさんで苦労のすえ、9月10日にはなんとか東京へたどり着くことができた。
 戦前から敗戦後にいたるこれらの経緯は、1954年(昭和29)刊行の文芸誌「文藝首都」3月号に掲載された、竹田助雄の自伝的小説『星空』に多少の脚色をまじえながら描かれている。同作より、下落合へ転居してきたころから敗戦までの回想部分を引用してみよう。
  
 私が兵隊に征く二年程前です。落合のある古ぼけたアパートに移つて来ました。二階の真中で南京虫の沢山いる部屋でした。アパートの附近は目白の文化村で美しい家や広い庭のあるお屋敷でした。私もいつかはそうした家に住んでみたいと思つたのです。/けれども丸四年の兵隊生活が終つて終戦直後北満から引揚げて来てからは、私の考えが変つていました。(中略) 私は終戦の二日前、つまりソ連が宣戦布告をした八月九日から五日後の十三日の夕暮、私は受持つていた開拓義勇軍の生徒四十数名を連れてハルピンを脱出し、翌月の九月十日には東京へ帰つておりました。
  
 下落合に転居してきたのは、「兵隊に征く二年程前」としているが、実際には10年ほど前ということになる。文中の「考えが変つていました」とは、国家が滅亡し「亡国」状況を招いた軍国主義に、強い反発をおぼえていたからだ。彼は敗戦後、代々木にある共産党系の印刷工場へ勤めている。そこで写真製版の技術を学ぶが、共産党員の非党員に対する差別的な扱いや態度を見て反発し、彼は非党員のまま仕事をつづけている。
 1949年(昭和24)になると、朝鮮戦争を計画していた米軍はGHQ指令としてレッドパージを断行する。代々木の印刷工場は、1950年(昭和25)6月25日に朝鮮戦争がはじまると、6月28日の深夜0時すぎ武装警官隊に包囲され、工場は警察のバリケードで封鎖された。以前、GHQの組合つぶしによる東宝争議の久保一雄Click!黒澤明Click!などについて書いたが、印刷工場封鎖もGHQによるあからさまな思想弾圧の一例だ。
 失業した竹田助雄は、「私はどうしても機械が欲しかったのです」と書くように、なんとしても独立して自社工場をもちたいと考えていた。「機械」とは、オフセット印刷には不可欠な写真製版機のことで、当時は1台が3万円もしていた。消費者物価指数で換算すると当時の3万円は現在の約50~60万円ほど、また当時の国民平均給与の3か月強に相当する値段なので、100万円超ぐらいの感覚だろうか。それを購入するため、再び就職しておカネを貯めるか、どこかの工場で機械を借りて自身の仕事をこなしていくかの選択を迫られている。
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 そんなとき、以前の雇用主だった印刷会社社長のHに偶然出会い、目白通り沿いにあった彼の工場の機械を借りて仕事をすることになった。当然だが、昼間はHの会社の仕事をこなし、夜間だけ自分が受注した仕事をするので、ほとんど寝る時間がなくなった。
  
 私の家から二K程奥で、豊島園に抜ける目白通りに練馬の桜並木があります。左側の路地を入ると住宅街でH氏の工場はそこにあるのです。そんな近くにあつた事は私にもH氏にも都合がよかつたのでした。十五坪のコンクリート造りで、もとは軍需品の倉庫であつたのを改造した工場でした。/H氏は他にも工場を持つていました。それは日本橋の某ビルの地下でかなり大きく、数十人の従業員が働いていました。
  
 もちろん、当時は工場に暖房器具などないので、冬場などはすき間風が入り放題で、機械類に囲まれて凍死しそうな寒さとなった。指先が無感覚になり、凍傷になる一歩寸前の職場環境だった。竹田夫人ができたての弁当を自転車でとどけ、炭火を起こして仕事を手伝っていくのが日課となった。夫人は毎日、自転車で得意先をまわっては仕事を受注して夫にとどけていた。竹田助雄自身も、工場が休みの日には自転車で新宿から神田神保町界隈をまわっては、得意先の新規開拓をつづけていた。
 竹田家から、目白通りを豊島園の方向へ2kmほどいったところにあった工場とは、どのあたりのことだろうか。現代の地図でいえば、地下鉄大江戸線・新江古田駅の手前あたりになる。著者は「練馬の桜並木」と書いているが、2kmほどではいまだ中野区江原町あたりのはずだ。当時、江原町の目白通り沿いにも桜並木があったものだろうか。
 代々木の印刷工場では非党員だった彼にも、公安警察の嫌がらせはつづいた。職場や自宅へ、しばしば刑事が顔を見せては彼自身と家族、勤務先の経営者に圧力をかけつづけていた。まるで、戦前の特高Click!そのままの姿だが、特高と異なるのは監視や「転向」を迫るためでなく、彼の生活を破滅させてやろうとする悪質な意図からだった。
 「私には迷惑なダニが付随していたから」と書く竹田助雄だが、それでもH社長は変わらずに雇用しつづけてくれた。戦前の姿を引きずる警察の姿に、経営者であるH社長も少なからぬ反感をおぼえていたのかもしれない。けれども、目白通り沿いの印刷工場はほどなく日本橋工場と統合することになり、彼は写真製版の機械を使えなくなってしまった。
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 捨てる神あれば拾う神ありのたとえどおり、いまだHの工場に勤務しているときに、下落合駅の近くにあった新聞を発行する印刷会社から、定期的にまとまった仕事をもらえるようになった。そこのN社長は、竹田助雄の真面目な性格を高く評価し、竹田夫妻を支援していくようになる。また、Hの工場の代わりとなる池袋のN工場を見つけるが、すでに従業員は足りているので仕事を受注し、マージン20%を得るだけの製版・印刷ブローカーになってしまった。これでは、生活費を得るのがやっとの状態であり、独立のために写真製版機を購入するなど夢のまた夢となった。当時の様子を、『星空』よりつづけて引用してみよう。
  
 夏になるとふだんでも夏負けのする私は、まだ五月だというのに、一日十数時間の労働と不眠のためにげつそりと痩せて、終戦後のその頃のような妻も共にやつれました。/椎名町から池袋へ抜ける、あの陸橋のある長い(山手通りの)坂道を日に何度往復したことでしよう。まだ五月の太陽であつても私には真夏のように熱かつたのです。油気のないその汗は、時には私を失望させることも屡々でした。(カッコ内引用者註)
  
 悪いことはたび重なるもので、数万の売掛金がたまっていた東中野の印刷会社が倒産し、莫大な欠損金が生じてしまった。それを補うために、夫妻の家財道具や衣服ばかりでなく、母親のそれまで次々と売り払うハメに陥るが、生活費に消えるばかりで機械を買う代金にはとどかない。1950年代の当時、インフレが徐々に進行し経済成長期がはじまろうとする入口だったので、写真製版機も値上がりをつづけていただろう。
 こうして、艱難辛苦の日々はつづいたが、「丘の上にある」とある出版社の社長が、嵐の日でも締め切りを厳守して納品してくる竹田助雄の人柄を信頼し、自身で機械を買って製版工場が持てるよう、前払い金としてなんと5万円もの小切手を切ってくれた。彼はそれをもとに機械を購入し、自宅を改造して独立した自分だけのオフィス兼工場を、ようやく下落合3丁目1385番地に創立することができた。そして、5年間(50号)にわたる「落合新聞」は、この「竹田写真製版所」で編集・発行されることになる。
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 竹田助雄は、なにか困難な事態に直面したり、将来が見とおせない絶望的な状況に追いこまれると、しばしば自宅で夫人とダンスをしている。夫人は裕福な家庭の出身で、実家の家族じゅうから結婚を反対されたにもかかわらず嫁いできていた。『星空』では、困窮した状況で何度かダンスシーンが登場するが、きっと「落合新聞」に没頭して夫人や従業員に仕事をまかせきりにしていた時期にも、夫人をなだめるようにダンスをしていたのではないだろうか。仕事をしない夫への、夫人の冷ややかな眼差しを肩口に痛いほど感じながら……。

◆写真上:下落合3丁目1385番地の竹田写真製版所(画面右手:2005年撮影)。
◆写真中上上左は、自伝小説『星空』が掲載された1954年(昭和29)発行の「文藝首都」3月号。上右は、1965年(昭和40)4月12日に目白台の当時は蔵相だった田中角栄邸Click!で、御留山Click!の図面を前に保存を訴える竹田助雄。は、『星空』の扉。は、1954年(昭和29)に発行された「文藝首都」9月号の中扉と会員募集要項。
◆写真中下は、1948年(昭和23)の空中写真にみる焼け跡に再建された竹田助雄邸。は、1960年(昭和35)発行の「文藝首都」5月号における第1回座談会の様子。同誌の会員には、北杜夫Click!をはじめ佐藤愛子、なだ・いなだ、田辺聖子Click!大原富枝Click!、少し遅れて中上健次、津島佑子、林京子などが参加していた。は、1949年(昭和24)の空中写真にみるH社長の工場があった目白通り沿いの中野区江原町あたり。
◆写真下は、携帯の低解像カメラで撮影した竹田写真製版所(2005年撮影)。中上は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」にみる竹田写真製版所。南西隣りは宇野千代Click!の専属デザイナーだった松井直樹Click!アトリエで、竹田家とは昵懇の間がらだった。中下は、1962年(昭和37)5月3日に発行された「落合新聞」創刊号。は、1954年(昭和29)刊行の「文藝首都」3月号の奥付で、同誌は1969年(昭和44)12月号までつづいた。

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