下落合に2ヶ所あった岡田七蔵アトリエ。 [気になる下落合]
これまで拙サイトには、岡田七蔵Click!のネームが4回ほど登場している。最初は、築地にあった作家で翻訳家の桑山太市朗邸Click!に滞在し、その際、宮崎モデル紹介所Click!からモデルを呼んで、三岸好太郎Click!らとともに裸婦のタブローを描いたエピソードだ。ちょうど草土社が解散して、同社のメンバーが春陽会へ合流した時期と重なり、画家たちは草土社風の画風から脱却しようと試みていた時期にあたる。
次いで岡田七蔵が登場したのは、鈴木良三Click!が証言する『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』(木耳社/1999年)に記録された、吉田博・ふじをアトリエClick!(下落合2丁目667番地)のある不動谷(西ノ谷)Click!近くにアトリエをかまえていた時期だ。このとき、鈴木良三は鶴田吾郎Click!とともに吉田アトリエを訪問しており、その際に近くの岡田七蔵アトリエのことが話題にのぼったのかもしれない。だが、鈴木良三は会派が異なるため岡田アトリエを訪ねておらず、当時の下落合の住所は不明のままだ。そして、おでん屋を経営していた“むさしや九郎”Click!が語る、しじゅう近くの川へ釣りにでかけていた、ヘボ将棋が好きな岡田七蔵のとぼけた姿だ。
1896年(明治29)生まれの岡田七蔵が、北海道から東京へやってきたのは1910年(明治43)のことだ。まだ、14歳の少年だった。当初は、日本水彩画会研究所で絵を学んでいたが、途中から本郷絵画研究所へと移籍している。1916年(大正5)には、早くも二科展へ作品を応募しはじめているが、当初は同じ北海道出身の三岸好太郎Click!と同様に、草土社へ岸田劉生Click!ばりの作品を描いては応募していた。
1922年(大正11)になると、『大森風景』が初めて二科展に入選している。ちょうど、林武Click!の『本を持てる女』Click!が二科展へ入選したのと同じタイミングだ。1922年(大正11)に草土社が解散し、そのメンバーが春陽会へと流れると、岡田七蔵も三岸好太郎とともに同会へ参加している。上記の築地にあった桑山邸における三岸とのエピソードは、1923年(大正12)に第1回春陽会展が開かれる前後のことだ。
また、同年には萬鉄五郎Click!の発案で参集した円鳥会Click!にも、岡田七蔵は参加している。ただし、萬自身は静養中のため茅ヶ崎に滞在し、東京には不在であまり同会での活動はしていない。初期の円鳥会本部は細川護立侯爵邸Click!の近く、小石川区高田老松町4番地(現・文京区目白台1丁目)の埴原久和代邸に置かれている。会員の中には、大正末に1930年協会Click!を結成する画家たちのネームが見えているが、目白中学校Click!の美術教師だった清水七太郎Click!の名前もある。萬鉄五郎と清水七太郎Click!は親しかったようで、萬は下落合584番地に建っていた二瓶等(徳松)アトリエClick!(本人は不在で貸アトリエになっていた)の仲介を清水に依頼している。
翌1924年(大正13)の第2回春陽会展では、岡田七蔵の作品が初入選している。そして、岡田は見聞を広め新たなモチーフを見いだすためにか、1926年(大正15)には三岸好太郎Click!とともに中国の上海や蘇州へ写生旅行にでかけている。この間、故郷では三岸好太郎や俣野第四郎Click!らとともに、岡田七蔵は北海道美術協会(道展)へ参画している。当時の様子を、1997年(平成9)に北海道教育委員会から出版された『新札幌市史』から引用してみよう。
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第一回道展は<1925年>十月五日から十八日まで開かれるが、入場料二〇銭、出品目録代五銭で、好天の日曜日には七~八〇〇人の入場者があった。道外在住の札幌関係者では、春陽会員賞を受賞した三岸好太郎、春陽会会員の長谷川昇、岡田七蔵、俣野第四郎などがいた。/岡田七蔵は、明治四十三年に一四歳で上京して二科会を中心に中央の画壇で活躍し、道展発足当時、春陽会に属して「草土社風から文人趣味的『味』の世界へという流れに直面」していた(苫名直子 岡田七蔵の画業について)。俣野第四郎は、結核を悪化させる大正十三年のハルビン行きから帰国し、療養中の沼津から春陽会に出品していた頃である(俣野第四郎 人と芸術)。(< >内引用者註)
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文中には以前、三岸好太郎関連の拙記事でお世話になった、苫名直子様Click!のお名前も登場している。なお、1930年(昭和5)には同様に、北海道出身の画家たちを集めた北海道美術家連盟が結成されているが、岡田七蔵は同連盟にも参加している。
1928年(昭和3)の第6回春陽会展に、岡田七蔵は『富士の見える風景』『石神井鉄橋』『海へ行く道』の3点を出品し、そのうち『石神井鉄橋』(のち『石神井の鉄橋』と改題)が春陽会賞を受賞している。1930年(昭和5)には春陽会会友に推薦され無鑑査となるが、1934年(昭和9)には春陽会を脱退し、しばらくのち1940年(昭和15)には国画会へ『尾の道風景』を出品している。
また、タブローの制作と並行して小説や児童本の挿画も描いており、特に少年時代からの懇意だった谷崎潤一郎Click!の、1926年(大正15)に刊行された「婦女界」2月号掲載の『一と房の髪』や、1932年(昭和7)刊行の「書物展望」4月号に掲載された『鮫人』などを手がけている。さらに、岡田七蔵の挿画は人気が高かったらしく、1930年(昭和5)の堀辰雄Click!『水族館』をはじめ、中河與一Click!の『機械と人間』や淺原六郎『丸ノ内展情』の挿画も担当している。絵本では、1926年(大正15)に文園社から出版された、太田黒克彦の『ひらがないそっぷ』が代表作だろうか。
さて、下落合にアトリエをかまえる前後に暮らしていた、岡田七蔵の住所を少し追いかけてみよう。岡田七蔵は、1929年(昭和4)には板橋町中丸831番地(現・板橋区中丸町)に住んでいた。1932年(昭和7)には野方町上沼袋200番地(現・中野区大和町)に住むが、同年には静養のためだろうか、一時的に群馬県の桐生市永楽町へと転居している。だが、翌1933年(昭和8)になると下落合4丁目2080番地にアトリエをかまえている。
下落合4丁目2080番地といえば、アビラ村Click!を代表するアトリエの密集地帯であり、金山平三Click!をはじめ、新海覚雄Click!、永地秀太Click!、一原五常Click!、名渡山愛順Click!、仲嶺康輝Click!(寄宿)、山元恵一Click!(寄宿)たちが同番地内に集合して仕事をしている。この中で、アトリエを貸していた画家に一原五常がいる。一原は、1930年(昭和5)ごろから教職に就くために九州へ転居しているが、下落合のアトリエはそのままに賃貸アトリエとして画家たちに提供していた。前記の名渡山愛順や仲嶺康輝、山元恵一ら沖縄の画家たちも、一原アトリエを中心に集まってきていた。おそらく岡田七蔵は短期間、一原五常アトリエを借りて住んでいるのではないか。
そして、1934年(昭和9)すぎには、吉田博・ふじをアトリエを訪ねた鈴木良三が、付近にあった岡田七蔵アトリエについてエッセイで触れている。だが、下落合2丁目667番地の吉田アトリエと、下落合4丁目2080番地とは直線距離で810mほども離れている。当時の最短でいける道筋を歩いても、たっぷり15分ほどはかかりそうだ。この距離感を、鈴木良三は「吉田さんの付近」とは表現しないだろう。おそらく、同年には下落合4丁目2080番地のアトリエを引き払い、岡田七蔵は星野通りClick!(八島さんの前通りClick!)沿いのどこか、あるいは吉田アトリエの南東側に口を開けている、谷戸地形の不動谷(西ノ谷)Click!に建っていた、いずれかの借家をアトリエにしていたと思われる。
1937年(昭和12)になると、岡田七蔵は豊島区池袋3丁目1629番地(現・西池袋3丁目)に転居している。この地番は、江戸川乱歩邸Click!の北隣りの区画だ。江戸川乱歩は、1934年(昭和9)に自邸が竣工して転居しているので、岡田アトリエはその北隣り、または1軒おいて北ならびに建っていたことになる。おそらく、健康はかなり悪化して臥しがちになり、あまり仕事ができなくなっていたのではないか。ほどなく、岡田は終の棲家となる中野区大和町263番地、すなわち5~6年前に住んでいた旧・野方町上沼袋200番地の旧宅近くにもどっている。同地域には、東京での親しい友人たちが住んでいたとみられる。そして、1942年(昭和17)に同住所においていまだ47歳の若さで死去している。
岡田七蔵の絵を観ながら詠じた歌人に、静岡県浜松市で1935年(昭和10)に没した中道光枝がいる。岡田は、彼女の夫で民俗学研究者の中道朔爾と親しかったようで、ときどき静岡を訪問しては静養中の光枝夫人を見舞っている。中道光枝が死去した直後、1936年(昭和11)に静岡谷島屋書店から出版された歌集『遠富士』(中道朔爾・編)には、岡田の絵にかかわる彼女の作品が残されているので少し引用してみよう。
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上諏訪 岡田七蔵氏作の絵に題す
高原は秋をはやみかみづうみは 波騒立ちて人かげ見えぬ
秋づきて騒立つ湖やさびさびし 湖畔の柳吹きみだれつつ
夕熱 岡田七蔵氏夫妻より蒲団を賜る
君もいまだ癒えでいますに勿体なし このみ情に泣かざらんとす
わが好む果実も君忘れまさず 蒲団の中に包み賜ひし
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岡田自身も病気がちなのに、友人の妻へ見舞いの品を送っている様子がうかがえる。
不動谷(西ノ谷)の周辺は、吉田博・ふじをと佐伯祐三Click!の印象があまりに強いため、周辺に住んでいた画家たちの印象が薄れがちだが、1935年(昭和10)前後には岡田七蔵アトリエも近くにあったのはまちがいないだろう。同様に、岡田とは北海道の同郷で、佐伯アトリエの「裏」だった中村善策アトリエも影が薄いが、また別の機会にでもご紹介したい。
◆写真上:下落合4丁目2080番地に建っていた、一原五常アトリエ跡(右手角)。
◆写真中上:上は、1928年(昭和3)の第6回春陽会展に出品された岡田七蔵『石神井川の風景』中は、同展で春陽会賞を受賞した同『石神井鉄橋』。下は、1926年(大正15)ごろ撮影の岡田七蔵(左)と、第6回春陽会展の出品目録(右)。
◆写真中下:上は、1923年(大正12)に結成された円鳥会に参加した画家たち。中上は、1928年(昭和3)制作の第6回春陽会展に出品された岡田七蔵『海へ行く道』。中下は、1930年(昭和5)に制作された同『会瀬の海』。下は、1926年(大正15)に岡田が挿画を担当して出版された太田黒克彦『ひらがないそっぷ』(文園社)。
◆写真下:上は、岡田七蔵が挿画を担当した堀辰雄『水族館』(1935年)。中は、岡田の挿画で中河與一『機械と人間』(同年)。下は、同じく淺原六郎『丸ノ内展情』(同年)。
出版人より印刷技術者として高名な今井直一。 [気になる下落合]
落合地域で東京美術学校Click!を卒業した人物というと、たいがいが画家や彫刻家などの美術関係者だ。だが、美術分野とはあまり関係のない領域で活躍した人物も住んでいる。1919年(大正8)に東京美術学校美術部の製版科を卒業し、当初はなんの興味も湧かなかった印刷の活字に着目し、そのデザイン美に注力した今井直一だ。
今井直一は、出版界では美校卒で活字デザインのオーソリティというよりも、三省堂の社長として教科書や参考書、多彩な辞書類を刊行した出版人としての印象のほうが強いだろうか。以前、下落合3丁目1986番地(現・中井2丁目)で旺文社Click!を創立した赤尾好夫Click!について書いたが、三省堂も同様に子どものころから学生時代までお世話になった、教科書や参考書、辞書類の出版社としての記憶がほとんどだ。
彼は、1951年(昭和26)に神田神保町にあった三省堂の社長に就任しているが、1963年(昭和38)に同社顧問として死去するまでの間に企画され出版された辞書類は、その後も版を重ねてわたしも手にしている。岩波の『広辞苑』に対抗して出版された『辞海』をはじめ、『新クラウン英和辞典』、『デイリーコンサイス英和辞典』、『三省堂国語辞典』などは、みんな彼が社長だった時代の仕事だ。また、1968年(昭和43)に刊行された『クラウン百科事典』も、編纂計画は彼の時代からスタートしていたのではないか。
今井直一は戦後、目白学園Click!の北側、下落合4丁目2247番地(現・中井2丁目)に住んでいた。ちょうど、落合分水(千川分水)Click!が妙正寺川へと流れ落ちていた、西落合との境界にあたる丘上だ。戦前は、牛込区早稲田鶴巻町8番地に住んでおり、東京市本郷生まれの彼はずいぶん以前から、市街地の西北方面に土地勘があったのかもしれない。彼は、1919年(大正8)に東京美術学校を卒業しているが、同期の洋画家には拙サイトでは頻出するおなじみの里見勝蔵Click!をはじめ、武井武雄Click!や宮坂勝Click!などがおり、同窓の画家たちがアトリエをかまえた落合地域の風情も、以前から知っていたとみられる。
彼は美校を卒業後、1920年(大正9)2月に農商務省が募集していた海外実業練習生として、米国のニューヨークへ派遣されている。当初は、美校で学んだプロセス製版やグラビア印刷の研究が目的だったが、当時の三省堂社長だった亀井寅雄の依頼で、活字彫刻機による彫刻技術の研究や習得も留学目的のひとつとなった。
当時、活字彫刻機の最先端メーカーだった米国ATF社が製造していた、ペイトン母型彫刻機に関する技術や操作を学び、のちに同社の活字彫刻機を日本へ輸入している。だが、ペイトン母型彫刻機はあくまでもローマ字(英語)を彫刻するのに適した製品であり、日本語(ひらがな・カタカナ・漢字)の新たな読みやすい文字をデザインし、同機を用いて活字に彫刻する技術は、まったく別の高い熟練を要する大仕事だったろう。
1922年(大正11)8月に帰国すると、今井直一はすぐに三省堂へ入社し、さっそく新たな活字の創作に取り組んでいる。また、活字の大きさを表現するのに既存の号数制ではなく、ポイント制(明朝体)を発案して各サイズの活字を制作している。当時の様子を、1949年(昭和24)に印刷学会出版部から刊行された、今井直一『書物と活字』より引用してみよう。
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学校を出るとすぐ、プロセスものや、グラビアがやってみたくて、当時、農商務省の海外実業練習生というのがあり、それに応募してあこがれのアメリカに渡った。ニューヨークで印刷工場めぐりをやっている時、たまたま三省堂社長の亀井寅雄氏に会って、活版の重要性をきかされた。/写真製版方面にはみんな注目しているが、活版についてはほとんどかえり見る者がない。美しい、立派な書物を印刷するには、絶対に優れた活字が必要だ。このしごとに一生を打込んでみる気はないか、こういわれた。それから三十年ちかい歳月が流れた。いつか私の生活から、活字は切りはなせない存在になっている。
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以来、彼は一貫して三省堂に勤務し、活字と活版の技術研究と進化に専念している。戦前戦後を通じ、同社で刊行される書籍や辞書・事典類は、読みやすく工夫された独自デザインの文字による活版印刷で製作された。特に、ペイトン母型彫刻機とインディア用紙の組み合わせで、従来は判が大きく分厚くて重量のあるのが普通だった、ページ数の多い辞書・事典類の小型軽量化に成功し、同技術は三省堂の出版物に限らず、出版業界の全体に多大な影響を与えている。もちろん、今日の各種デバイスに表示される多彩な日本語フォントのデザインにも、大きな影響を与えつづけているだろう。
今井直一の『書物と活字』は、単に活字製造に関する技術やノウハウの本ではなく、ロゼッタストーンやアッシリア粘土板、パピルス印刷など古代文字にはじまる活字の歴史を通史で概説し、同技術を日本語(ひらがな・カタカナ・漢字)へどのようにカスタマイズしていったか、あるいは日本語の活字を製造する際、それぞれの文字をどのようなデザインで工夫すれば、多くの人々に安心感・安定感を与え、視認しやすく読みやすい印刷物になるのかをわかりやすく解説した秀逸な本だ。
たとえば、「品」という漢字は下部の2つ並んだ、本来は同サイズの「ロ」のうち、右下の「ロ」の横幅をやや狭くして右端の横棒を若干太くすると、安定感が格段に増すというような、文字のデザインについても具体的に触れている。つまり、「品」という3つの「ロ」をすべて異なるサイズにし、なおかつあえてシメントリーの配置にしないことで、実際の見た目にはかえって左右均衡がとれているように映り、文字自体も引き締まったかたちに感じられるという。
また、漢字に限らずひらがな・カタカナについても、たとえば「ア」という文字は書いた際に筆を一度止める箇所、ハネクチや肩、点などの箇所に変化のある特徴をもたせ、読みやすさを増幅させる工夫がほどこされている。これらの箇所を、少し誇張気味にデザインして活字を製作したほうが、読みやすさが増してちょうどよく感じるそうだ。長期にわたって取り組んだ、このような日本語の活字に関する読みやすさの追究と、オリジナルのデザインや技術の進化が、既存の活字には依存しない三省堂の出版物には、縦横に活かされていた。
戦後、今井直一は取締役から専務取締役、そして1951年(昭和26)に代表取締役社長に就任している。だが、もともと印刷の技術畑ひとすじに歩んできた彼は、神田神保町1丁目1番地の社長室にいるよりも、戦後は三鷹市上連雀990番地にあった三省堂印刷工場の“現場”にいるほうが落ち着いたのではないだろうか。出版界に多大な業績を残したということで、彼は1956年(昭和31)に第4回野間賞を、1961年(昭和36)には印刷文化賞を受賞した。また、晩年には日本印刷学会の会長に就任している。
印刷文字は永久不変ではなく、時代ごとにその姿を変えていく。戦前と戦後では、印刷文字のデザインやかたちが、ずいぶん異なることに気づく。今井直一は敗戦後、新たに生まれる文字は従来の束縛から解き放たれ、自由でなければならないとしている。そして、日本の活字文化の建て直しが必要だとも説く。同書より、つづけて引用してみよう。
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印刷技術の上にも、ずい分いろいろのことがあった。世の中も変った。しかし活字はほとんど変っていない。変る必要のないほど、もともと完全なものだったというのではむろんない。といってこのみちの改善は、実に容易ならぬことなのである。たとえば活字の規格、それもごく原則的なものをたてようとしても、なかなかむずかしく、かりに規格ができたとしても、その実現には長年月を要し、はたして全般的に完全に行われるかどうか、見通しがつかないというのが、いつわらぬところであろう。/しかし立派な活字を作れという声は、以前から絶えずきくところ、まことに「よい活字」は作りたいものである。ひと口によい活字、立派な活字というが、その条件にはいろいろあって、なかなか簡単にはいえない。だが、せんじつめれば「美しい、読みよい活字」ということにつきると思う。
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活字のデザインや、その読みやすさや視認性の高さの追究に生涯を費やした技術者としては、万人にうける普遍的で「美しい、読みよい活字」はこれだと一概に規定できない、エンジニアとしてすごした苦労人の言葉がにじみでているような一文だ。
古代からつづく活字文化だが、森林の保護やSDGsによる紙への印刷が年々減りつづけている現状を見たら、今井直一はなにを思うだろうか。文字はデジタルソースとなり、それをベースに表示させるフォント依存になり、さらにそれを表示させるには当該フォントを実装したデバイス依存となった今日、彼は「美しい、読みよい」明朝・ゴシックフォントのオリジナルデザインの開発に注力するのではないか、そんな姿を強く感じさせる人物だ。
◆写真上:下落合4丁目2247番地にあった、今井直一邸跡の現状(右手)。
◆写真中上:上は、今井直一が導入したベントン母型彫刻機(ATF社製)。中上は、明治初期創業の三省堂書店と混同しがちだが、彼が入社したのは書店ではなく1915年(大正4)に分岐した別法人で出版社だ(同社沿革より)。中下は、同社の代表的な辞書で『新クラウン英和辞典』(左)と『三省堂国語辞典』(右)。下は、家に残る1961年(昭和36)初版発行で1968年(昭和43)第3刷の『新クラウン和英辞典』のページ。使われている活字には、今井直一のこだわりによる長年の研究成果が活かされているのだろう。
◆写真中下:上は、三省堂の亀井寅雄(左)と今井直一(右)。中上は、1949年(昭和24)に出版された今井直一『書物と活字』(印刷学会出版部)の表紙と奥付。中下・下は、「美しい、読みよい」活字を製作するための設計デザインにおける工夫例。
◆写真下:上は、1957年(昭和32)の空中写真にみる今井邸。中は、1951年(昭和26)撮影の三省堂三鷹工場。下は、1961年(昭和36)に印刷文化賞を受賞する今井直一。
谷崎潤一郎も滞在したグリンコートの住民たち。 [気になる下落合]
「GREEN COURT STUDIO APARTMENTS(和名:グリンコート・スタヂオ・アパートメントClick!)」を調べていると、面白いことがわかる。ほとんどの住民たちが、同アパートの正式名称を名のっていない。それは、自己申告である年鑑や会員名簿、紳士録などを見ると歴然としている。頭の「グリン」だけ残して、省略しているケースも多い。
仕事部屋にしていた林芙美子Click!は、同アパートをなぜか「グリン・ハウス」と呼んでいたようだが、洋画のアトリエにしていた志賀直哉Click!は特に固有名詞を用いず、単に下落合の「アパートメント」と表現している。同アパートに住んでいた住民で、もっとも多いのは名称の下部をすべて省いた「グリンコート」、あるいは大半を省略した「グリンコート・アパート」だ。それに、「Green」はそもそも「グリーン」のはずなのだが、当初よりアパートのネーミング自体が長音符「―」を無視して省略していた。昔の国鉄(現JR)が「グリーン車」を設置したあと、長音符がどこかに消え失せ「グリン車」と呼ばれるようになったのと同じ、日本語による発音特有の現象だろうか。
また、同アパートの住所もまちまちだ。わたしが調べた資料類では、その60%超が下落合2丁目722番地となっているが、残りの40%弱は下落合2丁目721番地となっている。これは、同アパートが竣工した1938年(昭和13)の時点では下落合2丁目722番地だったものが、戦争をはさむいずれかの時期に721番地に変更されたものと考えていた。しかし、大きめな敷地自体に721番地と722番地の双方が混在していたとすれば、郵便物はいずれの番地でも配達されていたのかもしれない。なお、1971年(昭和46)に行われた下落合4丁目への住所変更時には、敷地全体が721番地になっていた。
同アパートを設計したのは、米国帰りの建築家・鷲尾誠一だが、彼はアパートの竣工時から敗戦後の1960年代まで、一貫して住みつづけている。彼は1939年(昭和14)の時点で、すでに自宅住所を「下落合2丁目721番地」としており、722番地は使用していない。戦後、彼は同アパート内に「鷲塚建築設計事務所」を開設しているが、同事務所も721番地でとどけでている。1960年代の初めは、すでに長ったらしい旧・アパート名は廃止され、「グリン亭」と表記されていた時代だ。
少し余談だが、鷲尾誠一は戦前から戦後にかけ、日米協会(The America-Japan Society, Inc.)の正会員になっている。おそらく、米国から帰国した直後に加盟しているのだろう。したがって、1941年(昭和16)12月に日米戦争がはじまると、さっそく特高Click!の事情聴取と同アパートのガサ入れを受けているのではないだろうか。
さて、以前の記事で目白文化村Click!の第三文化村に建っていた、目白会館文化アパートClick!(下落合3丁目1470番地)の住民たちClick!について書いたことがあったが、今回は聖母坂沿いに建っていた昭和期の新しいモダンアパート「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」には、どのような人たちが部屋を借りていたのかを調べてみたい。
1938年(昭和13)春から入居者を募集していた同アパートは、先の小説家を廃業宣言して洋画アトリエに使用していた志賀直哉をはじめ、執筆の仕事部屋として利用していた林芙美子、アレクサンドル・モギレフスキーの門下生で滞仏からもどったヴァイオリニスト・鈴木共子、東京音楽学校のディーナ・ノタルジャコモに師事した声楽家の島本富貴子、同アパートの設計者で建築家の鷲塚誠一、文部省の雇用外国人でフランス語講師のオルトリ・ジャンジョセフ・ルイ、物語作家・翻訳家で戦時中は南洋映画の宣伝課長になる長谷川修二(楢原茂二)、映画女優の志賀暁子、東京帝大文学部を卒業し作家志望だったらしい無職の青山健二など、明らかに芸術分野の匂いがする住民が多く部屋を借りていたのがわかる。
そしてもうひとり、ほんの一時的だが谷崎潤一郎Click!も滞在している。1939年(昭和14)に、娘の谷崎鮎子が同アパートを借りていたからで、佐藤春夫Click!の甥にあたる竹田龍兒との結婚式および披露宴に出席するため、神戸市の住吉から帰京してしばらく逗留している。谷崎潤一郎が下落合にやってきたのは、同年の4月だった。当時の様子を、1942年(昭和17)に創元社から出版された谷崎潤一郎『初昔・きのふけふ』から引用してみよう。
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ちやうどその月の廿四日に、龍兒と鮎子との結婚式が東京会館で挙げられることになつたので、私達は再び上京し、二人が新婚旅行を終へて下落合のグリーンコートスタヂオアパートに家庭を営なむのを見届けるまで滞在してゐたが、我が子の幸福さうな新婚生活ぶりを見るうれしさは、そのこと自体のめでたさの中にあるし、そのことに依つて自分達夫婦の間にも春が回つて来るやうな感じを受ける所にもある。
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谷崎がグリンコートと短縮せず、アパートのエントランスに嵌めこまれた英文のネームを見ているのだろう、「グリーンコート」と長音符を入れて几帳面に読んでいるのがわかる。娘夫婦のアパートは下落合にあったが、谷崎が関西での生活を引き払い東京にもどってくると、同じ目白崖線の斜面に建つ目白台アパートClick!(現・目白台ハイツClick!)で暮らしている。その当時まで、娘夫妻が下落合に住んでいたかどうかは不明だが、グリンコートと目白台アパートはわずか3kmほどしか離れていない。クルマなら10分足らず、歩いても30~40分でたどり着ける距離だ。
グリンコートが竣工した直後は、芸術分野にかかわる人々が同アパートを利用していたが、戦争が近づくにつれ、徐々に住民たちの職業も変わっていく。公務員や会社員などが増え、美術や文学、音楽に関係する人物の名は見えなくなる。たとえば、今橋鼎(戸塚相互自動車社長)、北郷弘市(日本鉄道会社社員)、下平謙也(パイロット化学工業社員)、阿部光寛(農林省農務局農村対策部)、柴田敏夫(朝日新聞東京本社政治経済部記者のち社長)、深尾立雄(内科医師)、芝三九男(東亜研究所員)などの人々が、同アパートで暮らしていた。
グリンコートの賃貸料に限らず、当時のモダンアパートは住みこみで受付管理人(コンシェルジュ)Click!の常駐が普通で、ちょっとした一戸建ての貸家を借りるよりも家賃は高かった。したがって、比較的収入が高めな人々が部屋を借りて住んでいたのがわかる。また、戦争が激しくなるにつれ軍隊への召集や工場などへの勤労動員が増え、あるいは山手空襲Click!が予想されるようになると、故郷や親戚を頼って疎開する住民もいただろう。1940~1945年(昭和15~20)には、だいたい上記のような人々が住んでいたが、この傾向は戦後もそのままつづいている。
空襲からも焼け残ったグリンコートには、敗戦直後から以下のような人々が暮らしていた。住宅不足が深刻な時期であり、また戦後のインフレも加わって賃貸料はかなり高額になっていただろう。宮田文作(大蔵省専売局経理部)、奥山正夫(著述業)、新居俊男(日本専売公社製造局)、辻原弘市(社会党衆議院議員)、奥山誠(明治製菓総務部)、平垣美代司(全日本教職員組合書記長)、稲村耕男(東京工業大学無機化学教室助教授)、萩原正雄(会社経営)、安東富士夫(職業不詳/大分県県人会会員)などの人々だ。
特に気づくのは、政治家や官公庁など公務員が目立つことだろう。住宅難で住む家が確保しづらかった当時、市街地にあった議員宿舎や公務員宿舎も焼け、おそらくグリンコートの何部屋かを政府が借りあげていた可能性が高そうだ。
さらに、1960年(昭和35)前後になると、グリンコート・スタヂオ・アパートメントという長ったらしい名称は廃止され、なぜかレストランのような「グリン亭」というネームに変更されている。また、1960年(昭和35)をすぎると都心へのアクセスが便利なせいか、企業の事務所としても使われはじめている。先にご紹介した、鷲塚誠一の「鷲塚建築設計事務所」もそのひとつだが、北区東十条に本社のある池野通信工業の新宿出張所もアパート内に開業している。
また、下落合駅へ徒歩2分(当時は十三間通りClick!が存在しない)という立地条件から、賃料も高かったせいか会社員でも取締役クラスの住民が多い。たとえば、秦藤次(日本コーヒー取締役)、竹内誠治(プロパン会社社長)、坂井喜好(協和銀行本所支店次長)といった人々だった。だが、それも1962年(昭和37)までで、同年を境に住民の記録はプッツリとなくなる。グリン亭の全体がリフォームされ、室内もすべてクリーニングがほどこされて、新たに「旅館グリン荘」として生まれ変わったからだろう。けれども、グリン荘が繁昌したかどうかは不明だ。戦後の旅行や旅館関係の資料にも、グリン荘の記録や広告は掲載されていない。
同アパートがグリンコート時代あるいはグリン亭時代に、小説家の清水一行は部屋を借りていたか、あるいは誰かを訪ねて頻繁に出入りしていた可能性がある。住民でなかったとすれば、彼が共産党員だった戦後の時代に、同アパートで暮らしていた社会党の代議士・辻原弘市を訪問したか、あるいは日教組左派の平垣美代司を訪ねたものだろうか。彼の作品に登場する、「東京郊外」にある「S駅」近くの「グリーン荘」は、明らかに下落合駅から2分のグリンコートをイメージしたものと思われるのだが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:1941年(昭和16)に撮影された、水蓮プール(蓮池)のあるパティオ。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)竣工時のグリンコート・スタヂオ・アパートメント。中・下は、1941年(昭和16)と1956年(昭和31)の同アパート。
◆写真中下:上・中は、玄関および外壁と窓。下は、谷崎潤一郎と長女・鮎子(AI着色)。
◆写真下:上は、同アパートの廊下。中は、画家や写真家をターゲットに設計されたとみられるアトリエ(スタヂオ)タイプの部屋。下は、十分な採光が期待できる大きな窓の室内。
下落合を描いた画家たち・林武。(4) [気になる下落合]
1922年(大正11)の暮れ、あるいは1923年(大正12)の早期に、洋画家・小林和作Click!の勧誘で林重義Click!アトリエ近くに転居した林武Click!は、しばらくすると『落合風景』Click!(厳密には特定できていないが)や『文化村風景』Click!など、周辺の風景画を制作しはじめている。ふたりとも寺斉橋Click!の近く、以前から住んでいた林重義アトリエは上落合725番地、新たに転居してきた林武アトリエは上落合716番地だった。
アトリエといっても、いわゆる北側に採光窓のあるアトリエ建築などではなく、田畑が拡がり上落合の東部から耕地整理が進むような環境で、地主が建てた古い住宅か農家によるにわかづくりの貸家を画室にしたものだろう。当時は寺斉橋の北側に中井駅Click!は存在せず、西武鉄道の敷設計画Click!は起点を目白駅Click!にするか高田馬場駅Click!にするかで揺れていた時代だ。1924年(大正13)9月までの敷設計画では、西武線の起点(終点)は目白駅Click!であり、高田馬場駅を起点とする認可が下りるのは、「西武鉄道村山線延長敷設免許申請書<訂正追申>」が提出された同年9月以降のことだ。
林武が住んだ上落合716番地だが、耕地整理や区画整理が進むなかで番地変更が随所で行われた時期と重なっている。1923年(大正12)当時、同番地は寺斉橋を下落合側から南へわたるとすぐ左手が716番地だった。そのまま南へ境界筋(裏路地)を100mほど進むと、右手に林重義アトリエがあるという筋向いの位置関係だった。この私道だったとみられる裏路地(もともとは畦道?)が、寺斉橋をわたるとそのまま南へ直進する現在の道筋になるのは、昭和期に入ってからのことだ。また、上落合716番地も昭和期に入ると妙正寺川沿いのやや東へと移動しており、従来の位置は上落合711番地に変更されている。
林武が上落合716番地で暮らしていたころ、寺斉橋をわたって進む道路(表道)は、すぐに西側へ大きく屈曲していた。そして、道を20mほど西へ進むと田畑の灌漑用水にぶつかり、今度は用水路沿いに南へ90度屈曲して、現在の上落合郵便局Click!へと向かう道筋へと合流していた。つまり、寺斉橋の南詰め10mほどの位置から、そのまま屈曲せずに南へ進む60mほどの位置までが、昭和期に敷設された新たな道筋ということになる。わかりにくいので現在の目標物でいうと、寺斉橋の南にあるパン工房「サンメリー」の南角あたりから、地下鉄大江戸線・中井駅ぐらいまでの間が、昭和初期に新設された道筋だ。
だが、大正期は「サンメリー」の南角あたりから西へ屈曲する道が20mほどつづき、南北に流れる灌漑用水へぶつかると、道路は左(南)へ90度折れて用水路沿いを南下し、大江戸線・中井駅あたりで現在の道筋へと合流していたことになる。灌漑用水が残る当時、林武の『落合風景』に描かれたように、周辺はいまだ田園風景の面影を色濃く残しており、水田や畑の中に東京電燈谷村線Click!の高圧線鉄塔Click!がポツポツと連なっているような風情だった。このあたり、大正期の地図を見れば歴然としているのだが、当時の番地変更も重なって多少ややこしいテーマだ。
林武が1923年(大正12)に制作したタブローに、『道』と題する作品がある。(冒頭写真/AI着色) 作品が現存するかどうかは不明だが、展覧会の図録用に撮影されたものかモノクロ写真が残されている。きょうのテーマは、同作に描かれた突きあたりが左へ折れ曲がる道路が、やや冗長気味に上述した、寺斉橋をわたり西へ屈曲した20mほどの短い道筋ではないか?……と、想定できるたたずまいがあるので細かく観察してみたい。
まず、気象は晴天であり、電柱や家々の影が右手に伸びているので、画面の左手が南側かそれに近い方角なのは明白だ。AI着色による色彩の再現なので、どこまでが正確なのかは不明だが、左手前の麦畑のように描かれた草原が黄色みを帯びているので、季節は麦秋、すなわち初夏に近い時期だろうか。電柱の影が長いことから、まだ夏ではなく春か晩春の季節のようにも思える。また、左手前の草地が畑ではなく雑草が繁る原っぱだとすれば、季節は正反対の秋あるいは晩秋ということになるだろうか。ただし、樹木は青々Click!としているので、秋色の気配はあまり感じられないのだが。
畑または原っぱの向こうには、赤いトタン屋根とみられる住宅が描かれている。農家のようにも見えるし、田畑の一部をつぶして地主が建てた安普請の貸家のようにも見える。この住宅をまわりこむように、手前からつづく道路は左手、つまり南側へ大きく屈曲している。突きあたりには、白いなんらかの標識のような杭が打ちこまれ、その先は暗い溝のような表現で描かれているのがわかる。
画面の右手につづく小崖は、自然のものではなく明らかに人工的に盛られた様子がわかる。1段目の基盤を造成し、2段目から3段目へと段階的に土を積みあげて固めた様子が歴然としている。しかも、2段目には土留めとみられる多数の棒杭が打ちこまれている。住宅敷地なら、このような3段階に土を積みあげて多くの土留めを打ちこむ面倒な造作はしないだろう。また、3段目の上部は平坦ではなくやや盛りあがっているようにも見え、なんらかの敷地というよりは土手と表現したほうがふさわしい構造をしている。
これら画面に描かれた光景や風情を総合すると、大正後期の上落合でこれに見あう描画ポイントは、ほぼ1ヶ所に集約されてくる。林武がイーゼルを立てているのは、自身のアトリエがある寺斉橋南詰めのやや西側、上落合719番地の北側の路上で西を向いて描いていることになる。左手に見えている家屋は、上落合719番地の農家あるいは住宅であり、道路の突きあたりは妙正寺川から引かれた、南北に伸びる灌漑用水の溝だ。そして、溝の端に打ちこまれた白い杭は、通行人に道路が90度折れ曲がっていることを示唆する、つまり道端に路面を照らす街路灯など存在しなかった当時、暗闇で通行人が灌漑用水路へ不用意に落ちこまないよう、注意をうながす標識の意味があったのだろう。
暗く描かれた灌漑用水路の向こう側には、麦秋の畑だろうか、それとも耕地整理を終えた草原だろうか、黄色い地面の連続が見えている。妙正寺川沿いにつづいていた、田圃または畑地の表現であり、その上に緑が繁るこんもりとした盛りあがりは目白崖線の連なりだろう。この道路に立つ画家の位置から見えていた下落合の丘は、丘陵が南へせり出した五ノ坂Click!から六ノ坂Click!あたりだったはずだ。画家が向いた視線の背後、右手すぐのところには寺斉橋が架かり、真うしろには自身が住むアトリエがあったはずだ。
落合地域にお住まいの方なら、もうお気づきだと思う。画面右手の頑丈に造られた、人工的な小崖=土手の向こう側には妙正寺川が流れており、この3段に組みあげられた盛り土は大雨のたびに氾濫を繰り返す、同河川沿いに築かれていた古い河原土手、すなわち農地や宅地、道路などを洪水から防ぐために築造された堤防だろう。だからこそ、数多くの棒杭(おそらく松材)を打ちこんで、より法面を補強する必要があったのだ。
もうひとつ、当時の地図を見ていると面白いことに気がつく。道路の突きあたりを南北に流れていた灌漑用水路は、この道路奥の位置で二又に分かれ、東側へと分岐した流れは寺斉橋の南側で再び地上に顏をだす。すなわち、この道路右寄りの下あるいは右手の堤防にかかる地下には、暗渠化された灌漑用水路が流れているということだ。道路奥の用水路が、やや手前に切れこんで描かれているように見えるのは、開渠から土管の暗渠へと入りこむ用水路の分岐点を写しているとみられるのだ。
用水路の暗渠化は、すでに明治末には行なわれていたが、この位置へ妙正寺川の堤防を築くのと、寺斉橋の南詰めにあたる用水路の暗渠化とは、セットで実施された工事だったのかもしれない。妙正寺川と並行するように、東へ向かう用水路は途中で別の用水路と合流すると、そのまま東へ向かう流路と妙正寺川へ注ぐ流路とで再び分岐していく。ちなみに、建設ラッシュを迎える昭和初期になると、これらの用水路はすべて埋め立てられ、その多くは現代につながる道路として使われるようになる。
1923年(大正12)のとある日、幹子夫人Click!に尻をたたかれて(あるいはツネられてw)、昼下がりに画道具を抱え写生にでた林武は、目の前に架かる寺斉橋南詰めのすぐ西側、屈曲を繰り返す道筋に画因をおぼえた。期せずして岸田劉生Click!の『道路と土手と塀』をちょっとだけ想起させる構図だが、彼は草土社の作品の中では、どちらかといえば中川一政Click!の表現に惹かれていた。林武は、自宅の門をでて10mもいかない路上に、画道具を肩から下ろしてイーゼルを立てると、パースのきいた西を向いてキャンバスに向かいはじめた。
2時間ほど描いたところで、背後にある自宅の門の引き戸をガラガラと開け、幹子夫人Click!が買い物かごを提げてでてきた。目の前で写生する夫を見つけると、画面をのぞきこみながら「ちょっと、不精で安易すぎない? せっかく写生をするなら、もっとこの辺をあちこち散策しながら、いろいろなモチーフを見つけて選ぶべきだわ」といった。妻のいうことは、これまでの経験則からみてたいてい的確で正しい。明日はもう少し遠出をしてみようか、下落合の丘上で開発されている目白文化村Click!とやらでものぞいてみるか……と、林武は歩いていく幹子夫人のうしろ姿を見送ると、再びキャンバスに向かいはじめた。
◆写真上:1923年(大正12)に制作された、上落合時代の林武『道』(AI着色)。
◆写真中上:上は、1911年(明治44)の「落合村市街図」にみる上落合716番地界隈。中上は、1925年(大正14)の「落合町市街図」にみる描画ポイント。中下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる屈曲道。下は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる同所。駅前となり、急激な宅地化と区画整理で道筋も変わりつつある。
◆写真中下:上は、『道』の左手に建つ住宅の拡大。中は、『道』の突きあたりに見える溝と白い標識の拡大。下は、『道』の右手に描かれた土手の拡大。
◆写真下:上は、1922年(大正11)制作の第9回二科展に入選した林武『樹間の道』。中は、1928年(昭和3)制作の同『郊外風景』。下は、戦後に撮影された制作中の林武(AI着色)。
長崎ダットが原の快進社DAT自動車工場。 [気になるエトセトラ]
今年(2024年)の夏、小川薫様Click!のアルバムClick!から引用された写真類を中心に、日刊自動車新聞の中島公司編集委員による、ダット乗合自動車Click!の記事が連載された。それに刺激され、わたしももう少し東長崎駅の北口一帯に拡がる、地元の住民たちからは“ダットが原”と呼ばれていた長崎村西原3922番地(登記上は同番地だが、厳密には工場は3923番地で3922番地はダット自動車工場の社員寄宿舎の位置)の、快進社(Kwaishinsha Motor Car Company,Ltd.)によるダット自動車工場について書いてみたい。
米国デトロイトで、ガソリンエンジンによる自動車産業の未来に気づき、農商務省の海外実業練習生として留学からもどった橋本増治郎は、さまざまな製造現場を転々としながら、快進社自動車工業の設立へ向けて事業を収斂させていく。その過程では、快進社の起ち上げ時に資金の提供や社屋・工場敷地の斡旋などで世話になる男爵・田健治郎をはじめ、親友となった青山禄郎、鉱業所の社長だった竹内明太郎などに出会っている。
1911年(明治44)の時点で、出資額は田が2,000円、青山が2,500円、竹内が2,500円、そして橋本自身が4,700円の計11,700円となった。物価指数をめやすに単純に換算すると、いまの貨幣価値でいえば約5千万円ほどが集まったことになるが、当時の国民の所得水準を加味すると、現代ではおよそ1億円弱ぐらいの感覚だろうか。これを元手に、橋本は渋谷町麻布広尾88番地(現・渋谷区広尾5丁目)に快進社を設立している。当初、会社はオフィスというよりは設計・製造の研究所+町工場然としたものであり、いわゆるベンチャーのガレージ・メーカーに近い姿だったろう。
それまでの日本社会は、鹿鳴館時代そのままに「舶来品が高級で一番」の感覚が染みついており、自動車は米国のフォードやGMが主流だった。そのような市場に向け、部品にいたるまですべてが国産で、4気筒・15馬力、時速33kmの独自設計による自動車の開発をめざしている。だが、開発は挫折に次ぐ挫折の連続で、1913年(大正2)にようやく完成した1号車は、エンジンがV型2気筒で10馬力にとどまった。同年に開催された「東京大正博覧会」には、出資してくれた田・青山・竹内の頭文字をとり、「DAT自動車」と命名して出品している。もちろん、DATは「脱兎」にもからめたネーミングだった。
1916年(大正5)、橋本は当初の開発計画だった水冷4気筒で15馬力のエンジン、33km/時のスピードで走るダット41型の開発に成功する。同年、米国における自動車生産台数は160万台を超えていたが、それに対抗できる国産車が1台ようやく完成したにすぎなかった。ダット41型は、あくまでもガレージメーカーが手づくりで製造した1台の国産車にすぎず、大量生産への道は遠かった。しかも、当時の自動車でさえ必要部品は5,000点もあり、それら部品製造の品質向上も大きな課題だった。
橋本増治郎は自動車だけでは食べていけず、この時期には竹内明太郎の依頼により石川県小松にあった小松鉄工所(のち小松製作所Click!)の所長も兼務している。その給与で、なんとか快進社の開発事業を継続しながら、1918年(大正7)に株式会社快進社を設立し、同時にダット41型の本格的な量産に向け工場敷地を探すことになった。
その様子を、2017年(平成29)に三樹書房より出版の、下風憲治・著/片山豊・監修『ダットサンの忘れえぬ7人―設立と発展に関わった男たち―』から引用してみよう。
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橋本は大正七(一九一八)年「株式会社快進社」を設立した。場所は現在の西武池袋線・東長崎駅北側の一帯六〇〇〇坪、東京府北豊島郡長崎村三九二二番地。武蔵野の面影を残しており、土地の人はこの一帯を「ダットが原」と呼んだ。資本金は六〇万円。株主は橋本増治郎、田篤、田艇吉(健治郎の兄)、青山禄郎、青山伊佐男、竹内明太郎。「小松製作所の幹部社員」白石多士郎、田中哲四郎、吉岡八二郎、松本俊吉、各務良幸、「早稲田大学教授」の山本忠興、中村康之助、岩井興助、「快進社の技師と工場長」の小林栄司と倉垣知也など、九一名の出資者が集まった。
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長崎村西原一帯の土地6,000坪を提供したのは、白石基礎工業の社長だった白石多士郎で、竹内明太郎の孫にあたる人物だ。白石の名前は、関東大震災Click!のあとの両国橋Click!や蔵前橋Click!、厩橋Click!、駒形橋Click!などの復興・再建で、(城)下町Click!では有名だ。また、高田町字高田1417番地(現・豊島区高田2丁目)のオール電化の家Click!に住んだ、早大理工学部の教授・山本忠興Click!が出資しているのも興味深い。
ダット自動車工場は、武蔵野鉄道の東長崎駅を北口で降りた西側一帯で、原は北西側を流れる旧・千川上水Click!までつづいている立地だった。工場の建坪は600坪あり、機械工場から仕上工場まであったが、当時はライン生産ではないため、1台1台が手づくり生産に近い工程だった。また、工場周辺の広い「ダットが原」を活用して、テスト走行をする試運転環路までが設置されている。ダット自動車の部品を、すべて国産製造でまかなうため、専門工作機械を20台以上も導入し、橋本は純国産自動車の製造にこだわった。
1918年(大正7)に「軍用自動車補助法」が施行され、陸軍のおもにトラックを開発すると政府から製造補助金(1台あたり3,000円まで)が支給されることになった。これは、いつか海軍の「大型優秀船建造助成」Click!でも触れたが、この制度を利用すると大型の貨客船を建造する場合、海軍から少なからぬ補助金が支給された。だが、戦時になるとこれら大型貨客船は海軍に徴収され、空母などに改装されたヒモつきの助成金だった。軍用自動車補助法も同様で、戦時には陸軍が兵站の輸送にトラックを徴用するという条件が存在していた。
経営を軌道に乗せるため、快進社のダット自動車工場ではダット41型保護トラックを開発することになる。だが、陸軍にダット41型自動車をベースとしたトラックを持ちこむと、ボルトやナットが陸軍の制式と合わないため不合格になった。陸軍のナット・ボルトの制式は特殊なものだったため、快進社の橋本はさっそくこれに異議を唱えた。広く販売されている市販品のボルト・ナットが、自動車やトラックの修理に利用できなければ意味がないとし、陸軍に制式の変更を迫った。それから2年後の1920年(大正9)に、陸軍はようやく橋本の主張を認めトラックに使用されているボルト・ナットを制式に採用し、ダット41型保護トラックは軍用自動車補助法の検定に合格している。
ちょうど同じころ、ダット41型保護トラックを改装したダット41型応用乗合自動車改装車も生産を開始した。大正後期から昭和初期にかけ、バスガール上原とし様Click!が勤務し目白通りを走るダット乗合自動車Click!の初期型車体は、このダット41型応用乗合自動車改装車Click!だったとみられる。また、2年後の1922年(大正11)に上野で開催された「平和記念東京博覧会」で、ダット41型自動車は東京府金牌を受賞している。このような華々しい業績にもかかわらず、快進社=ダット自動車工場の経営は困難の連続だった。工員の給与が足りなくなると、橋本は子どもたちの貯金まで借りて給料日に支払っている。
その困窮する様子を、同書よりつづけて引用してみよう。
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ある時、退職工員が退職金の不満を訴えてきたという。橋本は「私の家庭に貴君の家以上に贅沢な衣類や調度品があったら、何品でも良いから自由に持ち帰ってくれ」と応答したので「私の思慮が浅うございました。成功してください」と涙ながらに帰ったという。/橋本家の生活信条は「簡素第一」で慎ましいものだった。とえ夫人は工場員の制服だけでなく、子供達の洋服やズック靴をシンガーミシンで縫い繕った。四男三女をもうけ、清貧そのものの生活の中にも、精神的な豊かさを感じさせる独自の生き方があった。
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夫妻とも長身で洋装が日常だったため、子どもたちが入学した大正期の長崎尋常小学校(現・長崎小学校)では、「外人の子」としていじめられている。
1926年(大正15)、困窮する快進社に大阪の実用自動車との合併話が持ちこまれている。仲介したのは陸軍で、実用自動車もまた製品が売れずに経営危機にみまわれていた。同年9月に両社は合併し、社名をダット自動車製造に変更している。日本におけるフォードとGMのシェアが98%という、米国車の圧倒的な植民地的市場をにらみながらの再出発だった。
少し前、(城)下町の番町で生まれた貫井冨美子Click!について書いたが、彼女に「東京から来たって顔は絶対にしないで」と頼んだ夫Click!は、米国へ自動車設計を勉強しに留学し、帰国後は自動車工場に勤務している。その勤め先は、近くのダット自動車工場ではなかったろうか。彼の落合町葛ヶ谷132番地(西落合1丁目132番地)の自宅から、長崎村西原3922番地までは1,000m、徒歩10分ほどの距離だ。彼は早大理工学部を卒業しているが、快進社の出資者に同学部教授・山本忠興らの名前が見えるので、可能性が高いように思えるのだ。
◆写真上:長崎村西原3922番地に建設された、快進社・ダット自動車工場の記念写真。
◆写真中上:上は、麻布広尾88番地で1913年(大正2)に完成したダット1号車。中は、1918年(大正7)に竣工した長崎のダット自動車工場。下は、1921年(大正10)に作成された快進社事業案内カタログ。「Nagasaki-mura,Ochiai,Tokyo,Nippon」=日本(国)・東京(府)・落合・長崎村という、不可思議な住所が記載されている。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみるダット自動車工場と社員寄宿舎。中上は、ダット41型自動車とダット41型保護トラックが写る大正期のダット自動車工場。中下は、同工場があった“ダットが原”の現状。下は、陸軍の規定に合格する1922年(大正11)に同工場で撮影されたダット41型保護トラック。
◆写真下:上は、1922年(大正11)ごろ撮影のダット41型保護トラックを改造したダット41型応用乗合自動車改装車。中は、1931年(昭和6)ごろに作成された「ダットソン号」カタログ。のちに「ソン」は「損」を連想させるとして、「ダットサン」に改名されている。下左は、2017年(平成29)に出版された下風憲治・著/片山豊・監修『ダットサンの忘れえぬ7人―設立と発展に関わった男たち―』(三樹書房)。下右は、少し古いが1995年(平成7)に出版された『歴史を読みなおす24/自動車が走った・技術と日本人』(朝日新聞社)。
酷暑だった夏の終わりの密室怪談。 [気になるエトセトラ]
下落合に日本民話の会の事務所があることは、以前の記事Click!でもご紹介しているが、同会が発行している紀要というか機関誌『聴く 語る 創る』は、日本で語り継がれてきた多種多様な民話や説話を収録・研究していて興味深い。
1993年(平成5)5月に創刊号が刊行された同誌だが、最初に「トイレの花子さん」や「赤いはんてん」、「厠神(トイレの神様)」などの登場しているのがおもしろい。人がどうしてもひとりにならざるをえない密室の怪談として、ロシアのバーニャ(ロシア式サウナ風呂小屋)と日本のトイレに伝わる怪談の比較論を展開する、民俗学的なアプローチによる論文なのだが、その具体的な相違点や共通点を考察したものだ。
ロシアのオバケが、「妖精」あるいは「妖怪」の部類に分類されそうなのに対し、日本のオバケは「厠神(トイレの神様)」を除いて「幽霊」「心霊」に近しい存在として語られている。たとえば、ロシアのバーニャに出現するオバケとしてバンニクあるいはバエンニクというのが存在するが、その多くが老人のような姿をして出現している。また、バーニャの中から声だけ聞こえるときは、男女を問わない会話のざわめきとして聞こえたりもする。おしなべて、「妖精」あるいは「妖怪」のイタズラとされているようだが、ときに人の生命を奪い生皮をはいだりする、残酷で怖い側面もあったりする。
ロシアのバーニャ(サウナ小屋)は、家屋に付属する施設ではなく、自宅から離れた場所(川や湖の岸辺や森の中)に設置される丸太小屋だが、昔の日本の農家に多かった母家から離れた庭先のトイレの位置よりも、はるかに遠い場所に建てられていた。たとえば、代表的なバンニク怪談には次のようなものがある。同誌に掲載の、渡辺節子『<密室の怪>日本のトイレとロシアのバーニャー』から引用してみよう。
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これは私の女友達にあったことだよ。年寄りたちはあの娘に一人でバーニャへ洗いにいくもんじゃないよ、って言ってたの。それなのにあの娘ったら、うっかりしたんだか、バカにしてたのかしらね、一人でバーニャへなんか洗いにいって、それもいっとう最後によ。/入って、頭を洗ってて、水をとろうとかがんだら、なんと腰掛台の下に小さい爺さんが座ってるんだって! 頭が大きくて、ひげが緑色なの! あの娘の方を見ているものだから、きゃーってとび出したのよ!
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この怪談は、1976年(昭和51)にチタ州ネルチンスクで採取されたものだが、バンニクが姿を見せるのはめずらしいことらしい。若い娘が入ってきたので、つい現れてしまったのだろうか。通常の怪談だと、誰もいないはずの真っ暗なバーニャの中から会話や呼びかける声が聞こえたり、白樺などの枝葉で身体をパシャパシャたたく音が聞こえてきたりと、人に怪しい気配を感じさせて脅かすことが多いようだ。
また、屋外にポツンと建つ人家からかなり離れたバーニャ(サウナ小屋)には、バンニクだけでなく森の精霊(レーシー)や悪魔などの魔物(妖怪)が入りこんで居すわりやすいといわれており、特に人間が活動する時間帯ではない夜間には、多くの地方でバーニャに入ってはならないと戒められている。また、そのいい伝えを無視して深夜にバーニャへ足を踏み入れたりすると、ひどい目に遭うとされている。
これは、若者が肝試しに深夜のバーニャへ出かけバンニクに殺されたケースだ。
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「夜、バーニャに行って炉の煉瓦をとってきてみせる」っていうわけ。で、/「とってこれっこないさ」/「なんでさぁ?」/そういって夜、出かけていったんだよ。でもね、煉瓦に手を出したとたん、魔モノがとび出してきて、/「ここで何やってるんだ? なんだ!?」/「煉瓦をもってかなきゃいけないんだ」/バンニクがその人をしめ殺してしまったのさ。戻ってこないわけ。さんざっぱら待ってたんだよ。きてみたら、しめ殺されてころがってたんだよ。(1979年/ネルチンスク)
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絞め殺すだけでなく、人間の生皮をはいで石の上に拡げて乾燥させる、地域によってはより恐怖度の高い残虐なバンニクもいたらしい。また、やはり人家から離れたオビン(穀物の乾燥小屋)に棲みつくオビンニクという精霊もいるが、こちらは妖怪や妖精というよりも怪獣に近い存在で、やはりバンニクと同じようなイタズラや悪さをするらしい。
おもしろいのは日本のトイレと同じように、ロシアでも小屋の方位(方角)を気にしている点だろう。バーニャ(サウナ)の設置場所や方角が悪いと、家族にさまざまな障害(病気)が現れて不幸になるといい伝えられている。日本でも、トイレの位置を北東側(鬼門)あるいは南西側(裏鬼門)に設置すると、家庭内にさまざまな災厄をもたらすといわれてきたのと同じような伝承だ。また、妖怪や精霊の邪魔になるところに小屋を建てると「霊障」にみまわれるというのも、霊が通過する「霊道」をさえぎると霊が滞留してよくないという、日本の怪談ではよく登場するシチュエーションだ。
さて、日本の代表的な密室であるトイレには「厠神」が宿るとされているが、その姿はバーニャのバンニクほど鮮明ではない。ありがちな怪異現象として、汲みとり式のトイレから手が出てきて尻を撫でたりするが、これは「厠神」ではなく河童やタヌキ、化け猫の仕業だったりする。毛深い手なので、妖怪的な“毛物”の仕業にされているようだが、この毛むくじゃらの手こそ「厠神」のものだとする出雲地方の伝承もある。
だが、日本で語られるほとんどのトイレ怪談は人間の幽霊・心霊によってもたらされるものであり、そこが精霊・妖精のイメージが強いロシアのバンニクやオビンニクとの大きな差異だという。人間の霊による代表的なトイレ怪談ケースを、同論文から引用してみよう。
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「あかずの便所」 学校、寮、旅館等集団の生活の場に釘づけになったトイレが一つあり、その理由をきく。大体は自殺や事故がらみの死亡事件のあと、幽霊騒ぎがあり、そこを使わないように閉めきった、というもの。つまり「怪の正体」ははっきりしていて、ナニモノかではなくあくまでも人間、その霊作用であり、事件の現場がトイレであったためにそこにいついた地縛霊であって、他の幽霊話と同じ、といえる。
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このよくある幽霊話と、センサーと洗浄器付きの全自動水洗トイレになってからも、下から手や顔がでてくる妖怪譚とは、昔から語り継がれてきた日本の伝統的な怪談パターンだが、近年はそれらとは明らかに傾向が異なる3種類の怪談が語られているという。
そのひとつが、「上からのぞく」怪談だ。小学生が夜、忘れ物をとりに学校へいくと、暗い体育館や廊下でワゴン(または車椅子)を押す看護婦や老婆の幽霊に出遭う。霊から「見たな~」といわれ、トイレのいちばん奥の個室に飛びこんで鍵をかけると、幽霊がキリキリキリとワゴン(車椅子)の音をさせながらトイレに入ってくる。
手前の個室からドアを開け、順番に「いな~い」といってはバタンとドアを閉め、徐々に奥の個室へと迫ってくる。ついに小学生が隠れたいちばん奥の個室の前までやっくるが、急にシーンと静かになって気配が消えてしまう。いつまでも物音がしないので、ようやく幽霊があきらめて消えてくれたかと思いフッと上を見ると、追いかけてきた霊が天井近くから、生気のない顔でジッと小学生を見下ろしていた……という結末だ。
さらに、前世紀末から語られている残り2パターンの新怪談とは次のような展開だ。
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<トイレの>中に入っている時、「赤いハンテン着せましょうか」と声があり(手が下からなのにくらべ、大概は天井から)、応じるとナイフ等がとんできてささり、とびちった血で赤いハンテンを着たようになる。バリエーションは種々あるが、この「ナニモノ」かは今だ<ママ:未だ>かって姿を見せたことがない。(中略) <花子さん>だけは新たにトイレの中にいついた怪、といえるかもしれない。北海道から沖縄まで全国の小学校の女子トイレ、三番目あたりに住み、一定のルールにのっとった呼びかけに対し、返事をする。「遊びましょ」というと「何して遊ぶ」とかいう。姿をみせることもあって、六才とか、一三才とかの女の子、遊び方は「首しめごっこ」と首をしめてきたり「殺しあい」と幾分かは恐い。(中略) が、花子の話は絶対的に子供の世界、それも小学校までにしかない。(< >内引用者註)
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この「トイレの花子さん」は、20世紀末から今世紀にかけ活動範囲が大きく拡がっているという。彼女は、トイレで自殺した何年何組の子とかトイレで殺された子という、妖怪ではなく人間の幽霊・心霊としての位置づけがなされ、出現場所もトイレばかりでなく理科室や体育館、音楽室、はては校庭にまで出現するようになっている。
ロシアのトイレは、昔から母なる大地の「外で用足しする」ことが多く密室にはならないため、代わりに丸太でこしらえたバーニャ(サウナ小屋)が密室怪談の温床となった。逆に日本では、江戸期から銭湯が利用されており風呂場は密室になりにくく、トイレがひとりになる空間として多くの怪談を育んできた。ロシアでは「人でないもの」=妖精・精霊の類だが、日本では多くの場合「人でないもの」=幽霊・心霊としてとらえられる傾向が顕著だ。だが、バーニャ=風呂場だから全裸、トイレ=用足しのため下半身裸と、怪異が出現してもすぐには逃げだせない(あるいは逃げ場のない)空間であるのが共通している。
戦後、日本では銭湯が廃れ、風呂付きの住宅があたりまえになると(密室化すると)、さっそく風呂場の怪談が登場している。自宅やホテル、旅館、合宿所と場所は多彩だが、いきなりシャワーの水音がして風呂に誰かがいる気配がしたり、風呂場のドアを開けてずぶ濡れの幽霊が這いでてきたりする。これは上記論文から離れた私見だが、「おひとりさま」が増えるにつれて部屋(室)レベルでなく、生活環境の全体までが密室化し、これから同じような怪談が数多く再生産されていくのではないだろうか。心霊マンション・アパートや幽霊ホテルはめずらしくなくなったが、トイレから解放されて行動範囲を拡げた「花子さん」のように、幽霊街とか心霊通りなどといったエリア単位の怪談が増えそうな気がするのだ。
◆写真上:トイレや風呂場からのぞくオバケは、こんなイメージが多いようだ。
◆写真中上:上は、ロシアの屋外に建てられるバーニャ(サウナ小屋)の内部。中は、水木しげるによる「バンニク」。下は、同じく乾燥小屋の「オビンニク」。
◆写真中下:上は、日本トイレ研究所Click!によるトイレ怪談の全国分布グラフ。関東地方は思いのほか少なめで、中部地方から近畿地方にかけてがかなり多いようだ。中は、同研究所の統計からトイレ怪談の起きる場所として学校が大半なのがわかる。下左は、1993年(平成5)に日本民話の会から刊行された機関誌『聴く 語る 創る』5月創刊号。下右は、2015年(平成27)に出版された日本民話の会・編『学校の怪談』(ポプラ社)。
◆写真下:上は、水木しげるによる「トイレの花子さん」。中は、「看護婦幽霊の便所オバケ(見たな~)」のフィギュア(TAKARATOMY)。下は、夏になるとネットのあちらこちらで顔を見かける「♪赤いハンテン着せましょか~」で独特な節まわしの稲川淳二Click!。
ほんとうに古城のような外観の目白市場。 [気になるエトセトラ]
目白駅前に建っていた、戦前の目白市場の写真が見つからない。目白市場の紹介は、戦前の高田町や豊島区の資料類で頻繁に登場するのだが、その外観写真がなかなか発見できないでいる。東京府内でも5本の指に入るほど、デパート並みの大規模な公設市場Click!だった目白市場なので、必ずどこかに写真が残っているはずだ。
以前、小熊秀雄Click!の『目白駅附近』Click!に描かれた目白市場はご紹介していたが、おおざっぱなスケッチであり建物の詳細はわからなかった。だが、もうひとり目白市場を描いた画家がいる。拙サイトでは初登場の、帝展に出品していた矢島堅土だ。1932年(昭和7)の目白駅前を描いたスケッチ『目白駅』(1932年)で、川村学園の校舎の手前に、まるで中世ヨーロッパの古城を思わせる大きな建築物がとらえられている。(冒頭画面)
また、手前に「荷物あずかり」の看板が見えている目白駅Click!の改札前には、モダンな装いの男女がいきかい、着物姿の人物がひとりもいない。左手には自動車の前部が見え、改札前の横(東側)にはダット乗合自動車Click!が乗客を待ちながら、発車時刻まで停車しているのが見えている。川村女学院Click!の独特な半円形デザインの大窓を備えた第二校舎と、目白市場との間には樹木が見えているが、同女学院の運動場が設置されていたスペースだ。けれども、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を見ると、目白市場と第二校舎の間はこれほど狭くはなく、画家の“望遠眼”による伸縮自在な構成だろう。
目白市場の上には、同市場の焼却炉とみられる煙突が突きだしており、その左手(西側)の屋上には、東京府市場協会のロゴマークが入った協会旗が掲揚されているのだろう。正円の中に、TM(Tokyo Markets)のイニシャルを重ねてデザインした、誰もが憶えやすいロゴマークだった。当時、東京府による直接間接の公設市場は府内に34館あり、中にはデパートと直接競合するような大規模な市場も建設されている。
1932年(昭和7)の時点で、もっとも敷地面積が広く建物の規模が大きかったのは、1918年(大正7)2月15日に開設された渋谷市場だ。建坪が326.62坪と広く、館内には30店舗が入居していた。東京府内の最大市場ということで、記念絵はがきなども制作されている。2番目は西巣鴨(池袋)の西巣鴨市場で、250.1坪の敷地に建ち17店舗が開店していた。3番目は青山の248坪の敷地に建っていた青山市場で、28店舗が営業していた。4番目が寺島(墨田区)にあった寺島市場で、207.27坪の敷地に10店舗が開店していた。
そして5番目に大規模だったのが、1929年(昭和4)10月3日に開業した、建坪200坪の古城のような特異なデザインのビルに、23店舗が入居していた目白市場だ。しかも、1935年(昭和10)の時点で目白市場は、同年12月20に竣工した蒲田市場と並び、最新の設備を備えたもっとも新しい公設市場だった。当時の様子を、1935年(昭和10)に東京毎夕新聞社から刊行された、『大東京の現世』より引用してみよう。
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新市部(東京市区部)に於ては蒲田及目白の二市場はその建築様式設備ともに新しく殊に目白市場は省線目白駅前にあり欧州の古城の如き優美なる外観を有し、その内部も全く百貨店(デパート)式に設計せられたる市場である。(カッコ内引用者註)
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目白市場は、開設と同時に女性販売員の募集をしたと思われ、その募集広告も残されている。府内にある34ヶ所の市場には、合計約500店舗もの小売店が入居していたが、東京府市場協会で一括して募集をかけていたようだ。ただし、協会直営で新しい目白市場と蒲田市場のみは協会が直接面接して採用し、残りの32市場は募集している店舗の責任者を紹介され、その面接を受けてから採用されていた。
販売員の募集要項を見ると、小学校または女学校の卒業者で、16歳から19歳ぐらいまでと限定されているのは、デパートガールClick!と同じだ。協会直営の目白市場は身元保証人が必要で、勤務時間は午前9時から午後8時までとなっている。ただし、この勤務時間もデパートと同様で、早番と遅番のローテーションが組まれていたのだろう。面接のあと採用が決まると、1か月前後の見習い期間をへて本採用の販売員となった。
日給は60~70銭で、現代の貨幣価値にすると382~445円ほどだろうか。時給のまちがいではと思われるかもしれないが、当時の生活必需品の物価や家賃は、現代とは異なり相対的にかなり廉価なため、早番か遅番で月26日勤務したとして15円60銭~18円20銭は、当時、女子の稼ぎとしてはまあまあだったろう。いまだ少数だった、大卒(学士)サラリーマン(男子)の初任給が50円の時代だった。ただし、勤務時間内の休み時間に弁当をとって食べると、日給から10銭が引かれたが弁当持参は自由だった。
東京府市場協会による当時の募集要項の一部を、1936年(昭和11)に発行された東京女子就職指導会・編のパンフレット『東京女子就職案内』から引用してみよう。
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東京府市場協会の監督を受けてゐる日用品市場は全市に三十四ヶ所あり売店の数は約五百ヶ店となつてゐます。/其中(そのうち)目白市場と蒲田市場丈(だ)けは協会の直営でありますが其他は只監督丈けで店の販売員の如きも各其店の所有者が自由に売子を使つてゐると云ふ風でありますから目白と蒲田を除く外の市場で販売員を希望せらるゝ人々は各其市場内の店主と交渉して就職するのであります。(カッコ内引用者註)
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矢島堅土が、『目白駅』のスケッチを描いた当時、目白市場は竣工してから3年めであり、館内の店舗はすべて埋まっていたと思われる。また、目白市場のオープンとほぼ同時に開店した、川村女学院の割烹部を中心とした「女学生市場」Click!=女学生たちによる飲食&喫茶店が、周辺の男子たちを数多く集めて大繁盛していたころだろう。
また、昭和10年代に入ると、四谷区麹町12丁目16~17番地にあった東京府市場協会では、新聞や雑誌などへ積極的に媒体広告を打ちはじめている。これは、山手線のターミナル駅前に進出しはじめた競合相手のデパートを意識しているとみられるが、デパートの隆盛とともに集客率や売上がこの時期に低減していたのかもしれない。
その大量広告による露出度アップの成果だろうか、新宿駅に近い淀橋市場Click!では事実、伊勢丹や三越新宿店をしのぐ売上を記録しており、地域の生活に根づいた安心の「公設百貨店」というイメージづくりが成功したかたちだ。東京府市場協会の広告はいずれも似かよったもので、「当協会ハ小売市場ヲ経営スル我ガ国唯一ノ公益法人ニシテ大東京市民ノ生活安定ニ資スルヲ以テ使命トス」というキャッチフレーズが添えられ、以下34ヶ所の市場名がズラリと並ぶレイアウトだった。
さて、スケッチ『目白駅』を描いた矢島堅土の添えられたキャプションを、1932年(昭和7)に日本風景版画会から出版された、『大東京百景』より引用してみよう。
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ローブ、シヤポー、サツク、パラソールと新を競つたのが、ヌーベル・モード欄。/コーンビーフの缶詰と沢庵とを、ハトロン紙か何かにくるんだのが、家庭料理欄。/ヰオリン(ママ:ヴァヰオリン)のケースや、小型のスケツチ箱を下げたのが、趣味欄。/日に焼けた、逞しい二の腕をむき出したのや、ゴルフパンツのムシウ(ムッシュ)と腕を組んだのが、スポーツ欄。等、々、々。/やがて、大東京に抱擁される、現在の、郊外の文化住宅なるものに帰つて行つたり、新らしき女性インテリの製作所たる、(日本)女子大や川村女学院に通ふ、彼女氏等で、此処では如何なるシツクな男性も、てんで眼界には這入らない。/要するに、婦人雑誌を生地で行つたのが、此の目白駅のプラツトフオームである。(カッコ内引用者註)
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当時のカタカナ用語をふんだんにつかった、やや皮肉も混じる文章だが、昭和初期に見られた目白駅前の様子を写しておもしろい。「やがて、大東京に抱擁される」と書かれているので、同年10月に東京35区Click!制が施行される以前の文章で、矢島に限らず当時の人々が(城)下町Click!=東京15区に対して、目白駅を「郊外」Click!と認識していたのがわかる。
『大東京百景』には矢島堅土による『(雑司ヶ谷)鬼子母神』や、当時は荏原郡駒沢町555番地にアトリエがあった、独立美術協会Click!の小島善太郎Click!も『哲学堂』『浅政醤油店前』『塔の側(宝仙寺)』のスケッチを描いている。それぞれのスケッチには、モチーフとその周辺について書いたキャプションが添えられているが、また機会があればご紹介したい。
◆写真上:1932年(昭和7)の『大東京百景』に描かれた、矢島堅土のスケッチ『目白駅』。
◆写真中上:同スケッチ『目白駅』の部分拡大。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる目白市場。中は、1945年(昭和20)4月2日撮影の第1次山手空襲(4月13日夜半)直前の空中写真にみる目白市場。目白市場は、同年5月25日夜半の第2次山手空襲で全焼しているとみられる。下は、1936年(昭和11)7月に制作された東京府市場協会の媒体広告。
◆写真下:3点とも1932年(昭和7)出版の『大東京百景』(日本風景版画会)のために描かれた、小島善太郎のスケッチで『哲学堂』(上)『浅政醤油店前』(中)『塔の側』(下)。
志賀直哉が画家になった下落合のアトリエ。 [気になる下落合]
1938年(昭和13)の春に、志賀直哉Click!は15年間もつづいた奈良生活を切りあげ東京へやってきている。東京を離れてから、松江、京都、鎌倉、赤城、我孫子、京都、奈良と転居していたので、約25年ぶりの東京だった。当初は戸山ヶ原Click!のすぐ近く、淀橋区諏訪町226番地(現・新宿区高田馬場1丁目)の借家に落ち着いている。
戦前は、戸塚第二小学校(当時は戸塚第二尋常小学校)から南の諏訪通りClick!へと抜ける道が、諏訪町226番地の区画へ丁字型にぶつかって貫通していなかった。いまでは、諏訪通りへとまっすぐ抜けられるが、諏訪町226番地は日本美容専門学校の本館がある一帯の区画だ。ちなみに、親父が日本橋から学校へ通うのが遠くてたいへんなので、1943年(昭和18)の17歳のころから戦後まで下宿していた、諏訪町224番地(山手大空襲Click!から奇跡的に焼け残った)の東隣りの区画が226番地だ。
志賀直哉は、周旋屋が紹介してくれた安普請の借家が気に入らず、もう一度探しなおすよう依頼しているが、代わりに紹介されたのが二二六事件Click!で処刑された北一輝Click!の旧宅だった。東京にやってきて早々、「226番地」に「226事件」と寝ざめの悪い数字の符合に悩まされたが、とりあえず諏訪町226番地の借家でガマンして暮らしている。そのかわり、近くに仕事場としてアパートを借りることにした。
当時は、改造社から刊行がつづいていた『志賀直哉全集』のゲラ校正がおもな仕事で、前年に長年の懸案だった『暗夜行路』をついに完結させてから、小説はまったく書かなくなっていた。そして、同全集の月報で「私は此全集完了を機会に一ト先づ文士を廃業」すると小説家を辞める宣言をした志賀が、近くに探していた仕事場とは洋画を制作するアトリエだった。志賀はアパートを紹介してくれた友人ともども、落合地域が明治末の古くから画家たちアトリエのメッカであったのを、あらかじめ知っていたのだろう、聖母坂の下落合2丁目722番地に竣工したばかりのモダンアパート、「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」Click!の部屋を借りることにしている。
志賀直哉から、作品を書く気力が失われたのは、現代ではさまざまな説が提出されているが、やはり、社会全体に暗く立ちこめた日中戦争の影が大きく影響し、志賀から表現するモチベーションを奪っていったのだろう。ことあるごとに、「甚だ不愉快だ、いやな世の中になつたものである」「黙つてはゐられない、業が煮える」「馬鹿な戦争で頭のはちを割られて死んだんだ」……などなど、特高Click!に密告Click!されたら即座に検挙Click!されそうな言質を、周囲の家族や友人知人に会うたびに漏らしている。また、近衛文麿Click!のブレーンになっていた志賀直方のことを、「叔父は晩年ファッショになり」と書いているので、近衛政権Click!とその取り巻きをファシスト政権と位置づけていた様子がうかがえる。
下落合にアトリエをもって通いはじめる様子を、1942年(昭和17)に小山書店から出版された志賀直哉『早春』から、少し長いが引用してみよう。
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翌朝、私は寝床の中で、一日のうち何時間か全く他の何ものにも煩はされる心配のない一人居の時間を持つ事が出来れば、東京でも、少しは落ちつけるだらうと思つた。アパートメントの部屋を借りるのも一策だと、そんなことを考へた。友が訪ねて来たのでそのことを話すと、下落合にいいアパートがある筈だといひ、電話でその場所を訊いてくれた。私と友と家内と三人でそれを見に出かけた。十畳に八畳、それに湯殿、台所までついた、思ひの外の部屋が空いてゐた。温水の暖房装置もあり、新しく、小綺麗で、今ゐる家より遥かに居心地もよささうであつた。/此所を借りて、私の気持は幾らか落ちつきを取もどした。昼少し前に行つて、夕方帰つて来るのだが、続いた日もあるが、何かと故障があり、三日に一度、四日に一度といふ程度で、仕事らしい仕事は出来なかつた。然し兎に角、一人静かにゐられ、仕事を仕たい時、出来るといふ安心だけでも、気持に何となく余裕が出来た。
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「仕事は出来なかつた」と書いているが、これは物書きの仕事のことであって、彼はまったく別の仕事を下落合のアトリエではじめようとしていた。
志賀直哉は、五ノ坂下の洋館に住む林芙美子Click!の「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」Click!通いとは正反対に、諏訪町226番地の家を出ると、350mほどで西武線の始点・高田馬場駅Click!まで歩き、そこから電車に乗ってひとつめの下落合駅へは4~5分で着いただろう。当時の電車はスピードも遅く、また運行ダイヤもいまほど密ではないので、実際にはかなりの時間がかかっていたと思われる。下落合駅からは、林芙美子と同様に2~3分でアパートのエントランスにたどり着けたはずだ。
もっとも、散歩がてらで歩いていくとすれば、諏訪町の家をでたあと早稲田通りへと抜け、当時は駅前広場が存在していない山手線・高田馬場駅Click!前から斜めに栄通りClick!へと入り、田島橋Click!をわたると薬王院Click!の参道筋へでる東西道を左折して聖母坂下へと抜け、下落合のアパートへ最短でたどり着くことができる。全行程は1,700mほどなので、20分もかからずアパートの階段を上ることができただろう。林芙美子Click!が五ノ坂下から、中ノ道(やがて雑司ヶ谷道Click!)を東へ歩いた場合と東西でまったく逆コースになるが、志賀直哉の徒歩コースのほうがやや遠いことになる。だが、もしふたりが散策がてら歩いて下落合の「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」へ通ったとすれば、着物姿の林芙美子と洋装の志賀直哉とでは、同じぐらいの通い時間ではなかったろうか。
さて、志賀直哉の下落合アトリエでは、原稿用紙に向かいながら絵を描くという、「文士廃業」後の仕事がスタートしていた。同書より、つづけて引用してみよう。
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十年前北京で買つて来た、唐俑の犬を原稿用紙に悪戯書きに写生した事が始まりで、翌日にはスケッチブック、消ゴム、鉛筆等を求めて、その写生を始め、案外に物の形がとれるところから絵を描く事に異常の興味を覚へるやうになつた。スケッチブック三冊程を描きつぶした後、友に頼んで油絵の道具を求めて貰ひ、今度は油絵を描き始めた。/絵が描けたら幸福であらうとは前からよく頭に往来した考へであつたが、同時にそれは自分に全然不可能な事として、嘗て実行を試みた事はなかつた。奈良十三年間の交友は殆ど画家達であつたが、いたづらにも絵筆を持つた事は一度もなかつた。それが近頃急に描いて見る気になり、異常の興味を覚えるといふのは自分でも想ひがけない事だつた。
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こうして、不愉快きわまりない時代に絶望し厭世観に満ちた志賀直哉は、生きる気力を回復させるために、下落合で小説家から画家に“転向”した。
下落合で描かれた画面は、本人も書いているように静物画がほとんどだったが、のちに旅先の『式根島風景』など風景画も手がけるようになった。志賀直哉は、代々木初台にあった田中平一アトリエへ通い、梅原龍三郎Click!や武者小路実篤Click!といっしょにモデルClick!を雇って、人体デッサンの勉強もしている。
梅原龍三郎は、志賀の画面を見て「丹念に腰を据ゑて書いた」と評し、のちに中川一政Click!は「厳粛なものですよ、描写はね」といったきり、誰も褒めてはくれない画面だった。ふたりにしてみれば、まったく基礎ができていないと思ったのかもしれない。また、盛んに「首狩り」Click!をしていたころの岸田劉生Click!が存命で絵を見たら「バッカ野郎!」Click!と、二度目のパンチが飛んできたかもしれない。
1994年(平成6)に岩波書店から出版された阿川弘之『志賀直哉』によれば、下落合のアトリエや旅先などで描かれた10作品の現存が確認できるとしている。「志賀直哉作の油絵は、十四年五月式根島へ旅した時出来た『式根島風景』、藍の花瓶にさした紅白のバラ、その他、黄水仙と木瓜の絵、庭のつつじの絵等々、約十点が現存する」と書かれているが、いまから30年前の情報であり、現在では新たに発見された作品も含めると、もう少し増えているのかもしれない。
志賀直哉が、イーゼルに固定されたキャンバスへ向かう姿は、なかなか想像しにくい。下落合のアパートでは、どの部屋をアトリエにしていたのだろうか。志賀が描写する室内の様子から、天井が2階まで吹き抜けで大きな窓のある画室仕様ではないように思う。志賀直哉は、1939年(昭和14)5月末に奈良の家を処分し、諏訪町の家から世田谷区新町2丁目370番地の住宅を購入して転居している。同時期に、下落合のアトリエも解約しているのだろう。志賀と入れ替わるように、同アパートの仕事部屋へ通ってきたのが林芙美子だった。
ところで、「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」は戦前の第三文化村Click!にあった目白会館文化アパートClick!、あるいは戦後の目白坂にあった目白台アパートClick!と同じように、さまざまな人物たちが去来していそうで、今後とも気をつけてみたいテーマだ。
◆写真上:1941年(昭和16)に洪洋社から刊行の『書誌情報』に掲載された、竣工から3年経過の「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」の様子(以下同)。
◆写真中上:上は、同アパートの出入口部。中上は、中庭から聖母坂のエントランスを眺める。中下・下は、同アパートの居室いろいろ。当初の洋間仕様が住民から敬遠されたのか、3年後のこの時期には室内に畳が敷かれている。
◆写真中下:上・中上は、板張りと畳の折衷室内。中下は、2階の廊下部。下は、入口から台所をのぞいたもので右手スリッパの置かれているのが玄関。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)に下落合のアトリエで制作されたらしい志賀直哉『静物(仮)』。中上は、制作年不詳の同『静物(器)』。中下は、1941年(昭和16)ごろ制作の同『花瓶(仮)』。下は、ほぼ同時期にアパートに通っていた志賀直哉(左)と林芙美子(右)。
上落合の林武は妻のマネジメントにぞっこん。 [気になる下落合]
以前、画家仲間だった小林和作の紹介で、1922年(大正11)から上落合に住んでいた林重義Click!と林武Click!のアトリエについてご紹介Click!している。上落合での生活は、林重義のほうが少しだけ早く上落合725番地のアトリエに、次いで林武が斜向かいの上落合716番地のアトリエに落ち着いている。そして、林武は1925年(大正14)ごろ目白通りをはさみ、落合第二府営住宅の北側にあたる長崎村4095番地へと転居している。
この間、林武は現存している画面Click!と同一かどうかは厳密に規定できないが、上落合側から下落合の目白崖線沿いに建つ東京電燈谷村線Click!の高圧線鉄塔を描いたとみられる『落合風景』と、目白文化村Click!の第一文化村に建つ箱根土地本社(当時は中央生命保険倶楽部)Click!を描いた『文化村風景』Click!を、1926年(大正15)の第13回二科展に出品している。また、第9回二科展の『林の道』(1922年)や、第10回二科展の『道』(1923年)なども落合地域の風景を写した可能性がある。
これら風景作品と同時に、林武は人物画や静物画を描いているが、すべての人物画は自身の連れ合いを描いたものだ。1922年(大正11)から1926年(大正15)まで制作された、人物画タイトルを列挙すると『本を持てる女』『丸まげの女』『女の顔』『妻の像』『女の首』『婦人像』と、これらすべてが幹子夫人をモデルにしている。幹子夫人については、林武が絵を描かずに遊んでいると、とたんにツネられて叱られたエピソードは以前の記事Click!でご紹介しているが、これら婦人像はモチーフに迷った林武をツネりながら、ハッパをかけて描かせたものではないだろうか。
前の記事では、林重義が林武のアトリエへ遊びにいくと、応接してしゃべるのはおもに奥さんのほうで、林武は終始ニコニコしていたという逸話をご紹介していたが、きょうは手足がツネられてアザだらけだったかもしれない林武の、この魅力的でちょっと怖い奥さん=幹子夫人について取りあげてみたい。実は、美術資料をあれこれ参照していると、ことのほか幹子夫人のエピソードが多く残されていることに気づいたからだ。彼女は、林武の連れ合いであると同時に、美術の鑑識眼やフォアキャスティング(3~5年先を読む中計的な事業予測の現代経営学・現代経済学用語)の能力を備えた、当時としてはめずらしいスゴ腕で有能なマネージャーでありプレゼンテーターだったのだ。
画家を“陰”あるいは“縁の下”で支える内助の功的な妻の姿は、おしなべて多くの画家たちの伝記や記事などに美談として登場しているが、画家の前面に立ち“表”でマネジメントや制作プランまでを仕切るような妻の姿は、ほとんど他に例がないのではないか。それは単なる“出しゃばり”とか“嬶天下”とは異なり、ほんとうにその道の才能がある優秀な伴侶だったと思われるのだ。現代なら、さしづめ営業・販売部門のマネージャー(事業部長)か役員をまかせられそうな雰囲気さえ漂う。ただし、自分の思いどおりに仕事をしない部下の手足をツネッて、パワハラで訴えられるかもしれないのだが。w
渡辺幹子(のちの幹子夫人)との出逢いは、林武が早稲田大学の美術教授・紀淑雄が創立した、戸塚町荒井山474番地(現在の早大各務記念材料技術研究所の西側敷地)の日本美術学校に通っていたころだ。林武が彼女を見初め、熱い思慕から追いかけるような状況だったようだが、幹子夫人は母方の先祖がお玉が池Click!の端に道場を開設した北辰一刀流Click!の剣術家・千葉周作Click!であり、父方の先祖が江戸の漢学者の末裔だった。林武は麹町区番町が故郷なので、同じ江戸東京の出身者同士で気があったのだろう、ふたりはすぐに結婚している。1921年(大正10)の第8回二科展で、林武は『婦人像』(関東大震災Click!で焼失)が入選し、おまけに「樗牛賞」まで受賞しているが、もちろんモデルは幹子夫人だった。
ところが、当の林武は『婦人像』を二科展に出品した憶えなどなかった。同作が、当時の二科会では新しい表現に感じられ、審査員からも高評価を受けると予測した幹子夫人が、夫には無断でナイショにして勝手に出品したのだ。驚いたのは幹子夫人よりも、むしろ制作した林武のほうだったろう。当時の様子を、1959年(昭和34)に時の美術社から出版された、菊地芳一郎『現代美術家シリーズ/林武』から引用してみよう。
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当時の二科会での受賞は、とうていこんにちの展覧会氾濫を背景とする受賞選奨の安売りとは比べものにならなかった。画壇は官展と在野展との二大陣営に対立し、帝展の特選がただちに新作家としての前途を約束されたように、二科展での受賞もこれに匹敵する意義と権威をもつた。(中略) 武の受賞はこれ(中川紀元の諸作)につづくものであり、翌十一年(1922年)には「本を持てる婦人」(ママ:『本を持てる女』)・「静物」などを出品して、更に二科賞をかさねている。これについてもいろいろ伝説的な逸話がつたえられているようである。たとえば<勝気で武の芸術を信じきつていた夫人は、こんどは二科賞をとらなくちやだめよ、と武をはげまし、電柱に石を投げつけて、それがうまく命中したら二科賞だとか、下駄をけあげて、それが表にむいたら二科賞だとか、まるで子供のようなことをいつて武を元気づけた>などといわれるのも、みんな愛と希望にもえたつ若い芸術家夫妻の新生活を躍如としてほうふつとさせるものがあろう。(カッコ内引用者註)
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文中の『本を持てる女』も幹子夫人がモデルであり、そのとき林武自身が撮影したとみられる写真も残っている(冒頭写真)。著者は「勝気」だと書いているが、江戸東京の女子がマネジメント全般を仕切るのはごく普通で、伝統的に当たり前Click!のことだ。
幹子夫人は、単に「勝気で武の芸術を信じ」ていたというよりも、他の逸話からも強く感じるのだが、彼女自身がクールな独自の芸術観をもち、それを先どりしながら林武の耳に吹きこんだようにさえ思える。1922年(大正11)に二科展へ出品し、「二科賞」を受賞した『本を持てる女』や『静物』にも、彼女のアドバイスが少なからず入っているのではないか。電柱に石を命中させ、下駄を蹴りあげて“表”をだすのも(ずいぶん練習したと思われるが)、明らかに夫に自信をもたせ暗示にかけようとしている意図が感じられる。
だが、二科展での入選作や受賞作は売れるだろうが(ちなみに大震災で焼失した「樗牛賞」の『婦人像』は120円で売れていた)、それだけでは生活費のすべてをまかなうことは困難だった。そこで、画家達は画商や画廊と親しくなったり、ときに佐伯祐三Click!のような頒布会を運営してもらいながら、作品を広く販売することになる。けれども、幹子夫人はいずれの手法もとらず、夫の芸術がわかるのは自分だけだと考えていたものか、自身がマネージャー兼セールスレディとなって、ビジネス街の重役や美術好きをターゲットに、鋭意アプローチ&美術トークを繰り広げてゆく。
そして、しまいには林武の作品を進んで購入してくれた人物を中核とした、独自の営業ルートを構築しつつ販売ネットワークを拡大していき、林武のパトロン的な人脈まで形成していくほどの手腕だった。もはや画家の妻としてのスタンスではなく、林武の作品を独占して販売する、プロの画商のように思える展開だ。同書より、林武を横にすえながら、当時の様子を幹子夫人本人に少し長めだが語ってもらおう。
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樗牛賞、二科賞をもらつたからというので、誰も画を買いにきてくれるわけではないでしよう。(中略) そこでこうなつてはもう何もかも一切体あたりで行くほかないというので、わたしは林の作品をかかえて名刺一枚で丸の内の会社街へ画を売りに出かけたわけです。絵を売り歩くなんて辛いものですよ。わたしは幼いときから家は零落していたが、父系が学者だつたし、母はまたどちらかといえば、お金を軽蔑するような気風(きっぷ)の中で大きくなりました。そんなわたしが、お金のために絵を売り歩くのだから、いくら亭主の画を信頼していても、時には自信を失つてポロポロ涙をこぼしながら街を歩いたこともありますが、画が売れなかつたというので、空手で家へ帰つては林にすまないでしよう。作品は小品だから、十円札一枚つかまないうちにはどんなに夜中になつても家へは帰らない決心で歩きました。しかし、それでもあの当時よろこんで買つて下つた人が、いまも大きな心の支持者になつてくれております。(中略) いまはなくなられましたが久原鉱業の遠藤良三さん(中略)というお方は、たいへん厚意的で絵はよくわからぬが、奥さんの熱心なところを買いましょうというわけで、自分で買つたりいくたび人にも世話して下さつたりしました。
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彼女は、林武の作品の魅力を飛びこみ先の顧客へていねいにプレゼンし、その人物が林ファンになるころには次の顧客を紹介してもらう、あるいはその顧客が中心となってスター型の顧客ルートを開拓する……というような、非常に地道な販売ルートの構築をめざしていったようで、彼女が語る上記の言葉は、まるでトップセールスの営業レディが自身の経験談を、同職の後輩に語っているかのような雰囲気さえ感じる。
このあと、林武は1926年(大正15)に二科会会友となり、ほぼ同時に前田寛治Click!や里見勝蔵Click!らが結成した1930年協会Click!に参画している。1930年(昭和5)には、二科会を脱退して独立美術協会Click!の創立メンバーとなっているが、これらの行動もまた、美術界のトレンドに敏感で先読みのできる、幹子夫人のアドバイスによるのかもしれない。
◆写真上:1922年(大正11)ごろ撮影された、洋装の「本を持てる女」=幹子夫人。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)ごろ撮影の林武・幹子夫妻。中上は、寺斉橋Click!から眺めた林武アトリエ跡の上落合716番地(左手)で当時は中井駅がない。中下は、1922年(大正11)制作で「二科賞」を受賞の林武『本を持てる女(妻)』。下は、1927年(昭和2)制作の第2回1930年協会展に出品された同『女の顔(妻)』。
◆写真中下:上は、同じく1930年協会第2回展に出品された林武『女の顔(妻)』。中上は、1929年(昭和4)制作の1930年協会第4回展に出品された同『扇子を持てる女(妻)』。中下は、1929年(昭和4)制作の同展に出品された同『ブルーズの女(妻)』。下は、1934年(昭和9)に滞在先のヨーロッパで描かれた同『女の顔(妻)』。
◆写真下:上は、戦前の幹子夫人(左)と1955年(昭和30)ごろ撮影されたとみられる幹子夫人(右)。中は、1958年(昭和33)に制作された林武『妻の顔』。下は、頼りがいのある妻をまたまたモデルにして制作中とみられる、1955年(昭和30)ごろ撮影された林武。
下落合が端緒の資産家令嬢連続誘拐事件。 [気になる下落合]
敗戦後の連合軍が占領する混乱期、落合地域では米軍による政治的な鹿地亘拉致・誘拐事件Click!や、松川事件にからんだとみられる亀井よし子誘拐事件Click!など、キナ臭い誘拐事件や謀略事件が起きていたが、身代金が目的の“純粋”な営利誘拐事件の戦後第1号は、下落合2丁目761番地(現・下落合4丁目)に住む日本帝国工業の専務取締役・清水厚Click!の令嬢誘拐事件だ。同誘拐事件が、のちの「住友令嬢誘拐事件」へと直接つながるのだが、殺人をともなう凶悪犯罪とはやや性格が異なり、また少女たちが犯人をかばうような証言をしているため、「凶悪」とはやや異なる犯人像が印象づけられている。
犯人の樋口芳男は、10代で未成年だった戦時中の1944年(昭和18)にも、松平子爵の女子学習院初等科5年生だった雅子嬢を3日間連れ歩いて逮捕され、判決後に八王子少年刑務所に収監されている。ところが、米軍に予告されていた1945年(昭和20)8月2日の八王子大空襲Click!の直前、7月30日に刑務所から脱走し、敗戦直後に起きた上記の資産家令嬢を次々とねらった誘拐事件で逮捕されるまで逃走をつづけている。
警察が「資産家令嬢連続誘拐事件」と名づけた、その発端となる下落合の清水家の事件について、1974年(昭和49)に神奈川県警察本部から刊行された『神奈川県警察史/下巻』より、「資産家令嬢清水潔子誘拐事件」の資料より引用してみよう。
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樋口芳男が敢行した誘拐事件である。昭和二一年三月十四日午後三時一〇分ごろ、東京女子大(ママ:日本女子大)付属国民学校初等科六年清水潔子(一二歳)を学校の帰途待ち伏せし「私は警察の者だが、あなたはある誘拐団に狙われている。私はあなたのお父さんから頼まれてあなたを守っている」と誘拐し、茨城県那珂郡自連町古徳の実母のもとへ連れこみ、実母には甲府の戦災孤児だといつわり六月一〇日までいた。その後北海道に飛び雨籠郡深川村の養狐場の番人となり、潔子は女事務員として働かせた。しかしこの長い逃避行中、潔子は樋口を“優しい兄さん”として少しも疑わなかった、といわれる。(カッコ内引用者註)
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今日から見れば、警察を名乗った犯人の言葉を容易に信じてしまう、12歳の少女を不可解に感じるかもしれないが、世の中は敗戦直後の騒然とし殺伐とした混乱期であり、資産家の家をねらった強盗や殺人、泥棒事件はめずらしくなく、食糧難により毎日多くの餓死者がでるような状況だった。また、当時の警察官は今日のようにきちんと制服を着ている者は少なく、特に都市部ではその多くが復員兵のようなボロボロのカーキ色をした兵隊服、あるいはくたびれた国民服にゲートルを巻き「警視庁」の腕章姿が多かった。
また、ちまたには空襲で親を失った戦災孤児があふれ、樋口が茨城の村にある実家へ少女を連れ帰り、「戦災孤児を助けた」などといえば、なんら不自然さを感じずに受け入れられるような社会だった。樋口は実家に潔子嬢をあずけ、一度東京へともどり下落合の清水家に連絡をつけて、娘を預かっていると母親を脅し1,000円を払わせている。娘が行方不明になって3日め、清水家では初めてこれが誘拐事件だと知ったのだろう。
同年5月、逃亡先だった北海道の勤務先でも、両親を失った20歳そこそこの男と少女が、就職口を探している「兄妹」というふれこみであれば、詳しい経歴などをチェックすることなく、気の毒に思って雇用したのだろう。樋口がどこかで盗んだものか、「引揚証明書」を持っていたのも“強み”だった。野坂昭如Click!が書いた『火垂るの墓』Click!のような子どもたちが、食べ物を求め各地をさまよい歩いているような時代だった。
北海道でのふたりは牧場の管理事務や、「兄」の樋口は日雇人夫で、「妹」は子守りや掃除婦として働き、函館から札幌、旭川へ転々としている。仕事がなくカネがないとき、樋口は自分の食事は抜いて潔子嬢には必ず食べさせていたという。このころから、本来は被害者であるはずの彼女は、樋口に大きな信頼を寄せるようになった。今日的にいえば、典型的な「ストックホルム症候群」となるのだろうが、屋外などで寝ざるをえない場合は蚊に刺されないよう、ひと晩じゅう就寝中の彼女から蚊を追うなど、犯人の「自己犠牲」をともないながら事件は妙な展開になっていく。
同年8月、逃亡生活が北海道から石川県の金沢へ移ると、さすがに「お父さんから頼まれ」た「警察の者」というのがウソであることに気づき、潔子嬢は樋口へ何度も「ほんとうのことをいつて下さい」と迫っている。樋口はそれに負け、自分が八王子の少年刑務所から脱獄した囚人であること、身代金目的で彼女を誘拐したことをなぜか正直に告白している。ところが、彼女は「ほんとうのことをいつて下さつた」と逆に喜び、別に警察へ駈けこむこともなく、世話になった家の同年代の娘にブローチを買いにでかけている。また、兼六園公園では樋口と並んで記念写真にも収まっている。
8月中、ふたりは京都にでて久世郡の大阪逓信講習所淀分署に勤め、樋口は農業助手として勤務し、潔子嬢は女中として住みこみで働いた。彼女には逃げるチャンスはいくらでもあったろうが、このとき樋口の計画か潔子嬢の提案かは不明だが、下落合の清水家へ身代金要求の手紙をだしている。文面は潔子嬢の筆跡だったが、彼女が脅されて無理やり書かされたとは思えない。以下、神奈川県警の同資料から引用しよう。
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ここで樋口は潔子の実家に身代金一万五〇〇〇円を要求した文書を同女に書かせ、九月二日京都七条郵便局から速達で発送した。潔子の父母は一万五〇〇〇円を用意し、警視庁刑事一〇人に守られて京都に向ったが、ちょっとの油断から樋口に金をまきあげられたうえ逃走された。しかし潔子は無事父母のもとへもどった。樋口はこの長い潔子との生活中同級生の住友邦子の話をきき、第二の犯行を計画したのである。
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9月10日に東本願寺で、母親による身代金の受けわたしが行なわれたが、警視庁の刑事たちは犯人を刺激するのを危惧した母親にまかれて現場にはいなかった。境内に潔子嬢が現れたのでカネを置き、母娘は東本願寺から立ち去っている。樋口は、置かれた1万5,000円を手に入れるとどこかへ姿を消した。潔子嬢を無事に保護したものの、10人も刑事を張りこませながら大失態を演じた面目丸つぶれの警視庁は、彼女がもっていた兼六園での記念写真から、犯人が八王子少年刑務所を脱走した樋口芳男ではないかと見当をつけている。
そのころ樋口は、9月12日に藤沢市辻堂の白百合高女付属国民学校に通う、5年生の少女に声をかけたが怪しまれて失敗。つづけて、潔子嬢から聞きだした元・同級生の住友邦子(12歳)が下校するのを、9月17日に同校の近くで待ちぶせした。樋口に「警察の者だが重大事件が起き、いまあなたは悪い人にねらわれているので守ってあげる」と声をかけられた邦子嬢は、「はい、わかりました」といってすんなり同行している。
彼女があっさり信じてしまったのは、きたる9月23日の三菱財閥の解散を皮きりに、GHQによる財閥解体が進められようとしており、住友財閥の周辺も騒然としていて“重大事件”だらけだったからだ。彼女は大人たちの狼狽ぶりから、まもなくこれまでに経験したことのないような重大事が起こりそうなリアリティを強く感じていたのだろう。神奈川県警は、誘拐を目撃していた友人たちの証言をまとめ、犯人は「年齢が二十四、五歳/身長一・六メートルぐらい/面長で色黒、月形の眉/右目の下に大きな泣き黒子/口元に吹き出物があり、女のような優しい言葉を使う」という特徴をつかんでいる。
9月20日、邦子嬢が誘拐されてから4日めに、下落合の潔子嬢は両親に付き添われて警視庁へ出頭し、犯人の顔には「吹き出物」と「泣き黒子」があったと証言している。同日、警視庁と神奈川県警は樋口芳男を全国に指名手配した。こうして9月23日の朝、岐阜県警中津川署は雑貨商の家に宿泊していた樋口を逮捕し、いっしょだった邦子嬢を保護している。彼女は警察に、初めて映画を観たり果物を買って食べたり変装したりと、いままで経験したことのない1週間でおもしろかったという趣旨の証言を残している。
当時、世間は犯罪であふれており、刑事事件については逮捕から起訴、裁判期間の短縮が司法界の大きな課題だった。樋口が逮捕されてから1ヶ月後、早くも横浜地裁で一審判決が下されている。1963年(昭和38)出版の、『司法沿革誌』(法務省)から引用してみよう。
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十月三十一日 樋口芳男に対する営利誘拐、恐喝、逃走事件の第一審判決(横浜地方裁判所)/被告人は、営利誘拐罪により服役中、刑務所から逃走し、東京都淀橋区下落合帝国工業専務清水厚長女潔子(十三歳)を誘拐し、身代金一万五千円を喝取し、更に、横浜市戸塚区東俣野町住友吉左衛門長女邦子(十二歳)を誘拐して検挙されたもので、被告人に対し懲役十年が言い渡された。
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記者や関係者が詰めかけた傍聴席には、江戸川乱歩Click!の姿が目撃されている。
樋口は千葉刑務所に収監されたが、3日後に新憲法公布で恩赦となり、服役は9年3ヶ月に減刑されている。また、6年後の1952年(昭和27)には講和条約の恩赦で7年6ヶ月に減刑され、刑務所では模範囚だったものか刑期満了以前の1954年(昭和29)1月に仮釈放されている。服役中に学んだ自動車運転の技術を活かし、ドライバーになって家庭を作ることをめざしたようだが、1961年(昭和36)に窃盗の疑いで再び警視庁築地署に逮捕されている。
◆写真上:七曲坂Click!の上、下落合2丁目761番地にあった清水厚邸跡の現状。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合の清水厚邸。中は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同邸。下は、事件の翌年1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同邸。
◆写真中下:上は、1946年(昭和21)9月23日の読売新聞に掲載された金沢市兼六園を散歩するふたりの記念写真。中は、令嬢誘拐事件を記録した神奈川県警の捜査資料。下は、1946年(昭和21)9月23日に岐阜県中津川で逮捕された樋口芳男。
◆写真下:上は、事件発生後に刑事たちが詰める横浜市の住友吉左衛門邸の玄関前。下は、1946年(昭和21)10月31日に横浜地裁で一審判決を受ける樋口芳男。