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上落合の林武は妻のマネジメントにぞっこん。 [気になる下落合]

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 以前、画家仲間だった小林和作の紹介で、1922年(大正11)から上落合に住んでいた林重義Click!林武Click!のアトリエについてご紹介Click!している。上落合での生活は、林重義のほうが少しだけ早く上落合725番地のアトリエに、次いで林武が斜向かいの上落合716番地のアトリエに落ち着いている。そして、林武は1925年(大正14)ごろ目白通りをはさみ、落合第二府営住宅の北側にあたる長崎村4095番地へと転居している。
 この間、林武は現存している画面Click!と同一かどうかは厳密に規定できないが、上落合側から下落合の目白崖線沿いに建つ東京電燈谷村線Click!の高圧線鉄塔を描いたとみられる『落合風景』と、目白文化村Click!の第一文化村に建つ箱根土地本社(当時は中央生命保険倶楽部)Click!を描いた『文化村風景』Click!を、1926年(大正15)の第13回二科展に出品している。また、第9回二科展の『林の道』(1922年)や、第10回二科展の『道』(1923年)なども落合地域の風景を写した可能性がある。
 これら風景作品と同時に、林武は人物画や静物画を描いているが、すべての人物画は自身の連れ合いを描いたものだ。1922年(大正11)から1926年(大正15)まで制作された、人物画タイトルを列挙すると『本を持てる女』『丸まげの女』『女の顔』『妻の像』『女の首』『婦人像』と、これらすべてが幹子夫人をモデルにしている。幹子夫人については、林武が絵を描かずに遊んでいると、とたんにツネられて叱られたエピソードは以前の記事Click!でご紹介しているが、これら婦人像はモチーフに迷った林武をツネりながら、ハッパをかけて描かせたものではないだろうか。
 前の記事では、林重義が林武のアトリエへ遊びにいくと、応接してしゃべるのはおもに奥さんのほうで、林武は終始ニコニコしていたという逸話をご紹介していたが、きょうは手足がツネられてアザだらけだったかもしれない林武の、この魅力的でちょっと怖い奥さん=幹子夫人について取りあげてみたい。実は、美術資料をあれこれ参照していると、ことのほか幹子夫人のエピソードが多く残されていることに気づいたからだ。彼女は、林武の連れ合いであると同時に、美術の鑑識眼やフォアキャスティング(3~5年先を読む中計的な事業予測の現代経営学・現代経済学用語)の能力を備えた、当時としてはめずらしいスゴ腕で有能なマネージャーでありプレゼンテーターだったのだ。
 画家を“陰”あるいは“縁の下”で支える内助の功的な妻の姿は、おしなべて多くの画家たちの伝記や記事などに美談として登場しているが、画家の前面に立ち“表”でマネジメントや制作プランまでを仕切るような妻の姿は、ほとんど他に例がないのではないか。それは単なる“出しゃばり”とか“嬶天下”とは異なり、ほんとうにその道の才能がある優秀な伴侶だったと思われるのだ。現代なら、さしづめ営業・販売部門のマネージャー(事業部長)か役員をまかせられそうな雰囲気さえ漂う。ただし、自分の思いどおりに仕事をしない部下の手足をツネッて、パワハラで訴えられるかもしれないのだが。w
 渡辺幹子(のちの幹子夫人)との出逢いは、林武が早稲田大学の美術教授・紀淑雄が創立した、戸塚町荒井山474番地(現在の早大各務記念材料技術研究所の西側敷地)の日本美術学校に通っていたころだ。林武が彼女を見初め、熱い思慕から追いかけるような状況だったようだが、幹子夫人は母方の先祖がお玉が池Click!の端に道場を開設した北辰一刀流Click!の剣術家・千葉周作Click!であり、父方の先祖が江戸の漢学者の末裔だった。林武は麹町区番町が故郷なので、同じ江戸東京の出身者同士で気があったのだろう、ふたりはすぐに結婚している。1921年(大正10)の第8回二科展で、林武は『婦人像』(関東大震災Click!で焼失)が入選し、おまけに「樗牛賞」まで受賞しているが、もちろんモデルは幹子夫人だった。
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 ところが、当の林武は『婦人像』を二科展に出品した憶えなどなかった。同作が、当時の二科会では新しい表現に感じられ、審査員からも高評価を受けると予測した幹子夫人が、夫には無断でナイショにして勝手に出品したのだ。驚いたのは幹子夫人よりも、むしろ制作した林武のほうだったろう。当時の様子を、1959年(昭和34)に時の美術社から出版された、菊地芳一郎『現代美術家シリーズ/林武』から引用してみよう。
    
 当時の二科会での受賞は、とうていこんにちの展覧会氾濫を背景とする受賞選奨の安売りとは比べものにならなかった。画壇は官展と在野展との二大陣営に対立し、帝展の特選がただちに新作家としての前途を約束されたように、二科展での受賞もこれに匹敵する意義と権威をもつた。(中略) 武の受賞はこれ(中川紀元の諸作)につづくものであり、翌十一年(1922年)には「本を持てる婦人」(ママ:『本を持てる女』)・「静物」などを出品して、更に二科賞をかさねている。これについてもいろいろ伝説的な逸話がつたえられているようである。たとえば<勝気で武の芸術を信じきつていた夫人は、こんどは二科賞をとらなくちやだめよ、と武をはげまし、電柱に石を投げつけて、それがうまく命中したら二科賞だとか、下駄をけあげて、それが表にむいたら二科賞だとか、まるで子供のようなことをいつて武を元気づけた>などといわれるのも、みんな愛と希望にもえたつ若い芸術家夫妻の新生活を躍如としてほうふつとさせるものがあろう。(カッコ内引用者註)
  
 文中の『本を持てる女』も幹子夫人がモデルであり、そのとき林武自身が撮影したとみられる写真も残っている(冒頭写真)。著者は「勝気」だと書いているが、江戸東京の女子がマネジメント全般を仕切るのはごく普通で、伝統的に当たり前Click!のことだ。
 幹子夫人は、単に「勝気で武の芸術を信じ」ていたというよりも、他の逸話からも強く感じるのだが、彼女自身がクールな独自の芸術観をもち、それを先どりしながら林武の耳に吹きこんだようにさえ思える。1922年(大正11)に二科展へ出品し、「二科賞」を受賞した『本を持てる女』や『静物』にも、彼女のアドバイスが少なからず入っているのではないか。電柱に石を命中させ、下駄を蹴りあげて“表”をだすのも(ずいぶん練習したと思われるが)、明らかに夫に自信をもたせ暗示にかけようとしている意図が感じられる。
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林武「扇子を持てる女」1929.jpg
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 だが、二科展での入選作や受賞作は売れるだろうが(ちなみに大震災で焼失した「樗牛賞」の『婦人像』は120円で売れていた)、それだけでは生活費のすべてをまかなうことは困難だった。そこで、画家達は画商や画廊と親しくなったり、ときに佐伯祐三Click!のような頒布会を運営してもらいながら、作品を広く販売することになる。けれども、幹子夫人はいずれの手法もとらず、夫の芸術がわかるのは自分だけだと考えていたものか、自身がマネージャー兼セールスレディとなって、ビジネス街の重役や美術好きをターゲットに、鋭意アプローチ&美術トークを繰り広げてゆく。
 そして、しまいには林武の作品を進んで購入してくれた人物を中核とした、独自の営業ルートを構築しつつ販売ネットワークを拡大していき、林武のパトロン的な人脈まで形成していくほどの手腕だった。もはや画家の妻としてのスタンスではなく、林武の作品を独占して販売する、プロの画商のように思える展開だ。同書より、林武を横にすえながら、当時の様子を幹子夫人本人に少し長めだが語ってもらおう。
  
 樗牛賞、二科賞をもらつたからというので、誰も画を買いにきてくれるわけではないでしよう。(中略) そこでこうなつてはもう何もかも一切体あたりで行くほかないというので、わたしは林の作品をかかえて名刺一枚で丸の内の会社街へ画を売りに出かけたわけです。絵を売り歩くなんて辛いものですよ。わたしは幼いときから家は零落していたが、父系が学者だつたし、母はまたどちらかといえば、お金を軽蔑するような気風(きっぷ)の中で大きくなりました。そんなわたしが、お金のために絵を売り歩くのだから、いくら亭主の画を信頼していても、時には自信を失つてポロポロ涙をこぼしながら街を歩いたこともありますが、画が売れなかつたというので、空手で家へ帰つては林にすまないでしよう。作品は小品だから、十円札一枚つかまないうちにはどんなに夜中になつても家へは帰らない決心で歩きました。しかし、それでもあの当時よろこんで買つて下つた人が、いまも大きな心の支持者になつてくれております。(中略) いまはなくなられましたが久原鉱業の遠藤良三さん(中略)というお方は、たいへん厚意的で絵はよくわからぬが、奥さんの熱心なところを買いましょうというわけで、自分で買つたりいくたび人にも世話して下さつたりしました。
  
 彼女は、林武の作品の魅力を飛びこみ先の顧客へていねいにプレゼンし、その人物が林ファンになるころには次の顧客を紹介してもらう、あるいはその顧客が中心となってスター型の顧客ルートを開拓する……というような、非常に地道な販売ルートの構築をめざしていったようで、彼女が語る上記の言葉は、まるでトップセールスの営業レディが自身の経験談を、同職の後輩に語っているかのような雰囲気さえ感じる。
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制作中の林武.jpg
 このあと、林武は1926年(大正15)に二科会会友となり、ほぼ同時に前田寛治Click!里見勝蔵Click!らが結成した1930年協会Click!に参画している。1930年(昭和5)には、二科会を脱退して独立美術協会Click!の創立メンバーとなっているが、これらの行動もまた、美術界のトレンドに敏感で先読みのできる、幹子夫人のアドバイスによるのかもしれない。

◆写真上:1922年(大正11)ごろ撮影された、洋装の「本を持てる女」=幹子夫人。
◆写真中上は、1921年(大正10)ごろ撮影の林武・幹子夫妻。中上は、寺斉橋Click!から眺めた林武アトリエ跡の上落合716番地(左手)で当時は中井駅がない。中下は、1922年(大正11)制作で「二科賞」を受賞の林武『本を持てる女(妻)』。は、1927年(昭和2)制作の第2回1930年協会展に出品された同『女の顔(妻)』。
◆写真中下は、同じく1930年協会第2回展に出品された林武『女の顔(妻)』。中上は、1929年(昭和4)制作の1930年協会第4回展に出品された同『扇子を持てる女(妻)』。中下は、1929年(昭和4)制作の同展に出品された同『ブルーズの女(妻)』。は、1934年(昭和9)に滞在先のヨーロッパで描かれた同『女の顔(妻)』。
◆写真下は、戦前の幹子夫人()と1955年(昭和30)ごろ撮影されたとみられる幹子夫人()。は、1958年(昭和33)に制作された林武『妻の顔』。は、頼りがいのある妻をまたまたモデルにして制作中とみられる、1955年(昭和30)ごろ撮影された林武。

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