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志賀直哉が画家になった下落合のアトリエ。 [気になる下落合]

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 1938年(昭和13)の春に、志賀直哉Click!は15年間もつづいた奈良生活を切りあげ東京へやってきている。東京を離れてから、松江、京都、鎌倉、赤城、我孫子、京都、奈良と転居していたので、約25年ぶりの東京だった。当初は戸山ヶ原Click!のすぐ近く、淀橋区諏訪町226番地(現・新宿区高田馬場1丁目)の借家に落ち着いている。
 戦前は、戸塚第二小学校(当時は戸塚第二尋常小学校)から南の諏訪通りClick!へと抜ける道が、諏訪町226番地の区画へ丁字型にぶつかって貫通していなかった。いまでは、諏訪通りへとまっすぐ抜けられるが、諏訪町226番地は日本美容専門学校の本館がある一帯の区画だ。ちなみに、親父が日本橋から学校へ通うのが遠くてたいへんなので、1943年(昭和18)の17歳のころから戦後まで下宿していた、諏訪町224番地(山手大空襲Click!から奇跡的に焼け残った)の東隣りの区画が226番地だ。
 志賀直哉は、周旋屋が紹介してくれた安普請の借家が気に入らず、もう一度探しなおすよう依頼しているが、代わりに紹介されたのが二二六事件Click!で処刑された北一輝Click!の旧宅だった。東京にやってきて早々、「226番地」に「226事件」と寝ざめの悪い数字の符合に悩まされたが、とりあえず諏訪町226番地の借家でガマンして暮らしている。そのかわり、近くに仕事場としてアパートを借りることにした。
 当時は、改造社から刊行がつづいていた『志賀直哉全集』のゲラ校正がおもな仕事で、前年に長年の懸案だった『暗夜行路』をついに完結させてから、小説はまったく書かなくなっていた。そして、同全集の月報で「私は此全集完了を機会に一ト先づ文士を廃業」すると小説家を辞める宣言をした志賀が、近くに探していた仕事場とは洋画を制作するアトリエだった。志賀はアパートを紹介してくれた友人ともども、落合地域が明治末の古くから画家たちアトリエのメッカであったのを、あらかじめ知っていたのだろう、聖母坂の下落合2丁目722番地に竣工したばかりのモダンアパート、「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」Click!の部屋を借りることにしている。
 志賀直哉から、作品を書く気力が失われたのは、現代ではさまざまな説が提出されているが、やはり、社会全体に暗く立ちこめた日中戦争の影が大きく影響し、志賀から表現するモチベーションを奪っていったのだろう。ことあるごとに、「甚だ不愉快だ、いやな世の中になつたものである」「黙つてはゐられない、業が煮える」「馬鹿な戦争で頭のはちを割られて死んだんだ」……などなど、特高Click!密告Click!されたら即座に検挙Click!されそうな言質を、周囲の家族や友人知人に会うたびに漏らしている。また、近衛文麿Click!のブレーンになっていた志賀直方のことを、「叔父は晩年ファッショになり」と書いているので、近衛政権Click!とその取り巻きをファシスト政権と位置づけていた様子がうかがえる。
 下落合にアトリエをもって通いはじめる様子を、1942年(昭和17)に小山書店から出版された志賀直哉『早春』から、少し長いが引用してみよう。
  
 翌朝、私は寝床の中で、一日のうち何時間か全く他の何ものにも煩はされる心配のない一人居の時間を持つ事が出来れば、東京でも、少しは落ちつけるだらうと思つた。アパートメントの部屋を借りるのも一策だと、そんなことを考へた。友が訪ねて来たのでそのことを話すと、下落合にいいアパートがある筈だといひ、電話でその場所を訊いてくれた。私と友と家内と三人でそれを見に出かけた。十畳に八畳、それに湯殿、台所までついた、思ひの外の部屋が空いてゐた。温水の暖房装置もあり、新しく、小綺麗で、今ゐる家より遥かに居心地もよささうであつた。/此所を借りて、私の気持は幾らか落ちつきを取もどした。昼少し前に行つて、夕方帰つて来るのだが、続いた日もあるが、何かと故障があり、三日に一度、四日に一度といふ程度で、仕事らしい仕事は出来なかつた。然し兎に角、一人静かにゐられ、仕事を仕たい時、出来るといふ安心だけでも、気持に何となく余裕が出来た。
  
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 「仕事は出来なかつた」と書いているが、これは物書きの仕事のことであって、彼はまったく別の仕事を下落合のアトリエではじめようとしていた。
 志賀直哉は、五ノ坂下の洋館に住む林芙美子Click!「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」Click!通いとは正反対に、諏訪町226番地の家を出ると、350mほどで西武線の始点・高田馬場駅Click!まで歩き、そこから電車に乗ってひとつめの下落合駅へは4~5分で着いただろう。当時の電車はスピードも遅く、また運行ダイヤもいまほど密ではないので、実際にはかなりの時間がかかっていたと思われる。下落合駅からは、林芙美子と同様に2~3分でアパートのエントランスにたどり着けたはずだ。
 もっとも、散歩がてらで歩いていくとすれば、諏訪町の家をでたあと早稲田通りへと抜け、当時は駅前広場が存在していない山手線・高田馬場駅Click!前から斜めに栄通りClick!へと入り、田島橋Click!をわたると薬王院Click!の参道筋へでる東西道を左折して聖母坂下へと抜け、下落合のアパートへ最短でたどり着くことができる。全行程は1,700mほどなので、20分もかからずアパートの階段を上ることができただろう。林芙美子Click!が五ノ坂下から、中ノ道(やがて雑司ヶ谷道Click!)を東へ歩いた場合と東西でまったく逆コースになるが、志賀直哉の徒歩コースのほうがやや遠いことになる。だが、もしふたりが散策がてら歩いて下落合の「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」へ通ったとすれば、着物姿の林芙美子と洋装の志賀直哉とでは、同じぐらいの通い時間ではなかったろうか。
 さて、志賀直哉の下落合アトリエでは、原稿用紙に向かいながら絵を描くという、「文士廃業」後の仕事がスタートしていた。同書より、つづけて引用してみよう。
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 十年前北京で買つて来た、唐俑の犬を原稿用紙に悪戯書きに写生した事が始まりで、翌日にはスケッチブック、消ゴム、鉛筆等を求めて、その写生を始め、案外に物の形がとれるところから絵を描く事に異常の興味を覚へるやうになつた。スケッチブック三冊程を描きつぶした後、友に頼んで油絵の道具を求めて貰ひ、今度は油絵を描き始めた。/絵が描けたら幸福であらうとは前からよく頭に往来した考へであつたが、同時にそれは自分に全然不可能な事として、嘗て実行を試みた事はなかつた。奈良十三年間の交友は殆ど画家達であつたが、いたづらにも絵筆を持つた事は一度もなかつた。それが近頃急に描いて見る気になり、異常の興味を覚えるといふのは自分でも想ひがけない事だつた。
  
 こうして、不愉快きわまりない時代に絶望し厭世観に満ちた志賀直哉は、生きる気力を回復させるために、下落合で小説家から画家に“転向”した。
 下落合で描かれた画面は、本人も書いているように静物画がほとんどだったが、のちに旅先の『式根島風景』など風景画も手がけるようになった。志賀直哉は、代々木初台にあった田中平一アトリエへ通い、梅原龍三郎Click!武者小路実篤Click!といっしょにモデルClick!を雇って、人体デッサンの勉強もしている。
 梅原龍三郎は、志賀の画面を見て「丹念に腰を据ゑて書いた」と評し、のちに中川一政Click!は「厳粛なものですよ、描写はね」といったきり、誰も褒めてはくれない画面だった。ふたりにしてみれば、まったく基礎ができていないと思ったのかもしれない。また、盛んに「首狩り」Click!をしていたころの岸田劉生Click!が存命で絵を見たら「バッカ野郎!」Click!と、二度目のパンチが飛んできたかもしれない。
 1994年(平成6)に岩波書店から出版された阿川弘之『志賀直哉』によれば、下落合のアトリエや旅先などで描かれた10作品の現存が確認できるとしている。「志賀直哉作の油絵は、十四年五月式根島へ旅した時出来た『式根島風景』、藍の花瓶にさした紅白のバラ、その他、黄水仙と木瓜の絵、庭のつつじの絵等々、約十点が現存する」と書かれているが、いまから30年前の情報であり、現在では新たに発見された作品も含めると、もう少し増えているのかもしれない。
 志賀直哉が、イーゼルに固定されたキャンバスへ向かう姿は、なかなか想像しにくい。下落合のアパートでは、どの部屋をアトリエにしていたのだろうか。志賀が描写する室内の様子から、天井が2階まで吹き抜けで大きな窓のある画室仕様ではないように思う。志賀直哉は、1939年(昭和14)5月末に奈良の家を処分し、諏訪町の家から世田谷区新町2丁目370番地の住宅を購入して転居している。同時期に、下落合のアトリエも解約しているのだろう。志賀と入れ替わるように、同アパートの仕事部屋へ通ってきたのが林芙美子だった。
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 ところで、「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」は戦前の第三文化村Click!にあった目白会館文化アパートClick!、あるいは戦後の目白坂にあった目白台アパートClick!と同じように、さまざまな人物たちが去来していそうで、今後とも気をつけてみたいテーマだ。

◆写真上:1941年(昭和16)に洪洋社から刊行の『書誌情報』に掲載された、竣工から3年経過の「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」の様子(以下同)。
◆写真中上は、同アパートの出入口部。中上は、中庭から聖母坂のエントランスを眺める。中下は、同アパートの居室いろいろ。当初の洋間仕様が住民から敬遠されたのか、3年後のこの時期には室内に畳が敷かれている。
◆写真中下中上は、板張りと畳の折衷室内。中下は、2階の廊下部。は、入口から台所をのぞいたもので右手スリッパの置かれているのが玄関。
◆写真下は、1938年(昭和13)に下落合のアトリエで制作されたらしい志賀直哉『静物(仮)』。中上は、制作年不詳の同『静物(器)』。中下は、1941年(昭和16)ごろ制作の同『花瓶(仮)』。は、ほぼ同時期にアパートに通っていた志賀直哉()と林芙美子()。

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