下落合の町内画家展は1936年(昭和11)から。 [気になる下落合]
ずいぶん以前に、下落合在住の画家たちを集めて展覧会を開催した、「湶晨会」Click!の活動をご紹介したことがある。湶晨(せんしん)会は、東京美術学校の教授だった森田亀之助Click!が、同じ町内に住む画家たちに呼びかけて結成したものだ。
下落合1丁目323番地から下落合2丁目630番地へと転居し、下落合での暮らしが長い森田亀之助Click!が声をかけたのは、下落合4丁目2080番地の金山平三Click!、下落合2丁目604番地の牧野虎雄Click!、下落合2丁目623番地の曾宮一念Click!、そして下落合1丁目304番地の安井曾太郎Click!の4人の画家たちだった。帝展と二科からそれぞれふたりずつと、美校の教師らしい配慮のしかただが、そもそも森田亀之助Click!が展覧会を企画したのは、日本橋高島屋の美術部から依頼されてのことだった。
湶晨会展観は、敗戦色が濃厚になる1944年(昭和19)以降は開かれていないと考えていたが、意外なことに敗戦直後も日本橋高島屋で開催されている。以前にも引用したけれど、1941年(昭和16)に開かれた第1回湶晨会展観の図録(日本橋高島屋美術部)より、森田亀之助の「湶晨会に就いて」から、今回は全文を引用してみよう。
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嘗つて高島屋美術部の人達と会つた時、商売気抜きで品の佳い洋風画家展観をやつてみたいといふやうな話が出て、それに私も賛成した結果、遂、その産婆役を引受けてしまつた。本会に出品する画家達は、皆、下落合に居住し、私の宅から遠くないといふ地理的条件と、勿論旧知の人々であるといふことが、私をして此役廻りを引受けさした主な原因である。/此等画家達は、皆、洋風画壇の重鎮で、それぞれ独自の画境を持つてゐることは、更めて説明する迄もない。要するに顔振れだけ示せば、何等宣伝がましいことをする必要の無いのが、本会の特色で、またそんなことは嫌いな人ばかりである。/本年第一回の展観に安井曾太郎氏の作品が間に合はなかつたのは誠に遺憾であるが、その責任は実は私に在る。同氏が旅行で長く東京を留守にして居られた為、此会に就ての相談が遅くなり製作に良心的である氏にとりては、出品作を描くに充分な時間的余裕がなかつた訳である。で、今回だけは名前だけで参加して御貰ひしたのであるが、観覧者に対して相済まぬ。何卒、安井氏の作に関する限り、第二回展観に期待して戴き度い。
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旅行中で安井曾太郎Click!の作品が間にあわなかった第1回展は、1941年(昭和16)11月5日より9日まで日本橋高島屋のギャラリーで開催されている。そして、安井曾太郎を含め4人がそろった第2回湶晨会展観は、1942年(昭和17)5月に同所で開かれた。第1回展から半年しかたっていないが、森田亀之助が安井曾太郎を含めた4人の展観を早く開きたかったか、あるいは安井自身が早めの開催を希望したのだろう。
湶晨会展観の第3回展は、1943年(昭和18)も押しつまった12月に日本橋高島屋で開催されている。これら展覧会が特異な(というか当時の世相を考慮すれば“非常識”に映る)のは、激しさを増していた戦争に関する作品、すなわち戦時のプロパガンダ臭のする画面(戦争画)が、ほとんど皆無に等しいことだ。画家たちが、戦前の“平時”からつづけていた表現をそのまま延長した画面であり、静物画や風景画などがほとんどを占めていたからだ。
当然、日本橋高島屋の美術部と主宰者の森田亀之助は、特高Click!あるいは憲兵隊Click!から陰に日に圧力を受けていただろう。特に、森田亀之助は美校教授で国家公務員であり、文部省からの風当たりが強かったのではないだろうか。あまり語られることがないが、湶晨会展観は軍国主義政権に対する、森田と展観趣旨に共鳴した画家たちが見せた、せいいっぱいの抵抗ではなかったろうか。
そして、湶晨会は敗戦前後の空白期間をはさみ、戦後へとそのまま受け継がれる。1947年(昭和22)9月に、4年ぶりとなる第4回湶晨会展観が、場所も変わらず日本橋高島屋で開かれている。もっとも、このときは牧野虎雄が前年に死去しており、遺作が展示されていただろう。同展の図録は、残念ながら見つけることができなかったが(戦後の物資不足で刊行されなかった可能性もある)、おそらく展示された4人の作品は、従前の過去3回の展観とほとんど変わらない、敗戦により大日本帝国の「亡国」状況Click!を招来したことなど、まるでなかったかのような画面が平然と展示されていたのではないだろうか。
下落合の画家たちを集めた湶晨会展観は、東京ではあまりに狭隘な地域性の強い展覧会だったせか、美術史ではあまり注目されることがないけれど、美術界のほとんどが戦時一色となった当時、まるで戦争や当局の圧力など無視するようにつづけられた同展については、もう少し注目されてもいい美術界のエピソードのように感じている。
さて、下落合の町内に住む画家たちを集めた展覧会は、1941年(昭和16)の湶晨会が嚆矢ではない。湶晨会展観が開かれる5年前の1936年(昭和11)、下落合に住む近所の画家たちが集まり、銀座美術協会Click!(銀座4丁目 三和ビル内)の銀座通り街頭展と同時期に連動した下落合の「町会展」が、銀座にあった三昧堂書店のギャラリーで開かれている。町会展には、下落合に住む10名の画家たちが参加しており、そのうち安井曾太郎と曾宮一念、そして牧野虎雄はのちに結成される湶晨会のメンバーとしてダブっている。
そのほかの画家たちは、目白通りの北側にアトリエをかまえた下落合1丁目540番地の大久保作次郎Click!をはじめ、一ノ坂上に住んでいた下落合4丁目1995番地の川口軌外Click!、満谷国四郎Click!の隣家だった下落合2丁目572番地の三上知治Click!、第三文化村Click!エリアに大きなアトリエが建つ下落合2丁目667番地の吉田博Click!、金山平三アトリエClick!の数軒北側のアトリエにいた下落合4丁目2080番地の永地秀太Click!、画家で俳優だった下落合2丁目753番地のち下落合3丁目1447番地に転居した宮田重雄Click!、そして中村彝アトリエClick!の跡に住む下落合1丁目464番地の鈴木誠Click!の7名だ。
町会展の第1回展の様子は、1936年(昭和11)に美術発行所から刊行された「美術」5月号に掲載されている。同記事は短いので、全文を引用してみよう。
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第一回町会展/四月十一日――十七日/三昧堂
下落合在住画家の新しい試みで、銀座街頭展などと関連して、一種のフアミリアーな気分を醸し出し、大衆と作家との接触を計る(ママ:図る)上に於て今後つゞけられてほしい展覧の一つである。県出身画家の展観はよく催されるが、市内在住者が市内の一ケ所で行ふことは、かういふ手段もあるかなといふのでなくして、それ以上に有意義な試みである。牧野虎雄の「春庭」、川口軌外の「薔薇」、三上知治の「仔犬」、大久保作次郎、永地秀太、吉田博諸氏のもの、殊に宮田重雄の「かもめ」、曾宮一念の「ざぼん」、安井曾太郎の作品、鈴木誠の「花と少女」などが注目された。
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銀座通りに並ぶ商店の、ショウウィンドウに並べられた絵画作品を眺め、気に入った画廊や書店で催されているテーマ展や個展に立ち寄りながら銀ブラをする……というのが、発起人である房野德夫と銀座美術協会の趣旨なのだろう。銀座通連合会も売上が伸びると、全面的にバックアップしていた大規模な美術イベントだ。
ところが、下落合の町会展は1936年(昭和11)に第1回展が開かれたあと、第2回展以降の記録が、いくら資料を探してみても見あたらない。おそらく第1回展のみで、あとの開催がつづかなかったものとみられる。ちなみに銀座の街頭展は、その後もずっと戦時に入る1942年(昭和17)まで継続しているので、主催者の都合で取りやめたのではないと思われる。街頭展のほうは、翌1937年(昭和12)の時点で270点もの作品が各店のショウウィンドウに飾られ、年々盛大になっていった様子がうかがえる。
下落合の町会展が、一度だけしか開かれなかった要因は、三昧堂書店のギャラリーがなんらかの都合で使えなくなったか、町会展への来訪者が思いのほか少なかったか、銀座美術協会と町会展の間でなんらかのトラブルがあったのか、あるいは参加している画家たちの都合がつかなくなったものだろうか、資料類から中止の原因を突きとめることはできなかった。第2回展が開催されたとすれば、1937年(昭和11)の春のはずだが、まだ当局による芸術への圧力や締めつけ、または“非常時”の世相を反映した画家たちの自主規制は、それほど行われていなかった時期にあたる。現に、銀ブラの散策者を対象とした街頭展は、6年後までつづけられている。
1936年(昭和11)に銀座で開かれた下落合の町会展は、いったい誰の発案によるものだろうか。参加している画家たちの顔ぶれからすると、画会や世代を超えて彼らと交流があった森田亀之助のような気もするが、銀座美術協会の会員だった島津一郎Click!のネームを意識すると、アビラ村(芸術村)Click!の島津家Click!が、なんらかのかたちで参与していたものだろうか。でも、それにしては町会展に金山平三Click!が参加していないのが気になっている。前年からの反帝展・文部省=第二部会Click!の騒動で、疲弊しきってしまったせいだろうか。
◆写真上:旅行をしがちで第1回湶晨会展観に作品が間にあわなかった、展観と同じ1941年(昭和16)に制作された安井曾太郎『焼岳(上高地晩秋図)』。
◆写真中上:上は、1941年(昭和16)11月開催の第1回湶晨会展観図録(左)と、同展を発案した森田亀之助(右)。中は、同展に参加した金山平三(左)と曾宮一念(右)。下は、同じく牧野虎雄(左)と出品に間にあわなかった安井曾太郎(右)。
◆写真中下:上は、戦後1947年(昭和22)9月に開催された第4回湶晨会展観(日本橋高島屋美術部)の記録。中は、1936年(昭和11)刊行の「美術」5月号に掲載された下落合の町会展展評。下は、町会展が開かれた銀座の三昧堂書店のシール。
◆写真下:上は、第1回湶晨会展観に出品された金山平三『春』(1941年)。中は、同展に出品された曾宮一念『麦秋』(同年)。下は、同じく牧野虎雄『雨後の夕映』(同年)。
★おまけ
1933年(昭和8)に刊行された『日本美術界一覧』(美術新論社)には、金山平三の住所が目白文化村でもアビラ村でもなく、「淀橋区下落合文化村二〇八〇」などとなっている。同出版物への掲載は本人からの“自己申告”でないため、このころから住所が下落合ならなんでもかんでも「文化村」という、メチャクチャな解釈が拡がっていったように思われる。