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円本から排斥される宮地嘉六と大泉黒石。 [気になる下落合]

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 下落合3丁目1470番地の第三文化村Click!に建つ「玉翠荘」で暮らした宮地嘉六Click!と、下落合4丁目2130番地の五ノ坂下、大きめな屋敷を借りて住んだとみられる大泉黒石Click!とは、人生のいつどこで交叉したのだろうか。
 ふたりは、1917年(大正6)にはすでに知りあっていることが確認できる。宮地嘉六は、当時からロシア文学に傾倒しており、ドストエフスキーの『貧しき人々』や『虐げられし人々』には共感していたらしく、都市の最下層にうごめく人々の姿を描いている。だが、1917年(大正6)現在、大泉黒石Click!はいまだ作家として登場しておらず、浅草の北側にある今戸あたりに住んで、「牛殺し」や皮革染業関連の仕事に就いていた。
 ふたりは、ともに石川島造船所の製造現場で働いた共通点はあるが、宮地嘉六が石川島造船所に旋盤工として入ったのは1902年(明治35)のことで、かなり古い時代の話だ。一方、大泉黒石Click!が石川島造船所に書記として勤務していたのは1917年(大正6)のことで、そこには15年間もの開きがあり、ふたりの邂逅は石川島ではないだろう。宮地嘉六は1884年(明治17)の生まれで、大泉黒石は1893年(明治26)に生まれているので、ふたりには9歳ほどの年齢差があった。
 ほどなく、宮地嘉六は佐世保や呉の海軍工廠へと移っているが、三度めに東京へとやってくるのは1913年(大正2)以降のことだ。だが、当初は町工場に旋盤の熟練工として勤めたものの、再三にわたる警察の嫌がらせで工場にはいられなくなり、ほどなく牛込区(現・新宿区の一部)にあった同区議会の動向を報道する「牛込タイムス」の記者になり、それを足がかりに小説家への道を歩みはじめている。
 また、二月革命で混乱のきわみにあったペテルブルクから帰国し、授業料が払えずに第一高等学校Click!(現・東京大学)を退学したばかりの大泉黒石は、石川島造船所の書記を一時的に勤めたあと、月島から浅草亀岡町や今戸あたりを転々とする。本人の表現によれば「牛殺し」(食肉処理場)や皮革染色工場に勤務しつつ、ロシア文学史の研究をつづけている。1918年(大正7)に、日本が革命干渉でシベリアに出兵すると、ロシア語に堪能なのを買われて雑誌や新聞を舞台にしたジャーナリストの仕事をするようになる。黒石は、それを足がかりにして小説家への道を歩むことになった。
 だが、ふたりともジャーナリストあるいは作家として、ある程度名前が知られる以前から知り合いだったようで、それは大泉黒石の浅草時代にまでさかのぼりそうだ。大正の中期、浅草界隈に住んでいた文士たちが結成した親睦会に、「コスモス倶楽部」というのがあったようだ。「雨川」という人物がいいだしっぺで、無名文士の交友会のようなゆるい集まりだった。そこには当時、無名や駈けだしの芸術家たちが周辺各地から参集していたようだ。
 1919年(大正8)に玄文社から出版された大泉黒石『俺の自叙伝』収録の、「青年時代」(岩波文庫版/2023年)から引用してみよう。
  
 その頃、雨宮の保護を受けていた美術学校を出たばかりの竜造寺道雄という未来派の絵かきが、房州を食い詰めて雨宮の所へやって来る。龍造寺美梅軒と言えば知っている人があるかもしれない。名前を聞いただけでは、伊賀の上野で荒木又右衛門に討ち洩らされた鎖鎌の名人と間違えそうである。(中略) そこへ宮地嘉六が鳶色の帯を締めてやって来るところも一寸見ものだ。俺は新聞社に勤めたわけではない。相変わらず貧乏して、いつも飯を食ったような顔をしていたのだ。俺はこんなふうに牛殺しになって、また牛殺しをやめた。困ったらいつでもやる。
  
 ふたりは、お互いが石川島造船所にいたことを知り親しくなったものか、あるいはロシア文学に惹かれているので共通の話題が多かったものか、小説家をめざしている者同士なのでサークル仲間として知りあったのか、はたまたアナキズム的な思想から親近感をおぼえたのか、そのあたりの経緯はいっさい不明だ。少なくとも、宮地嘉六の側の資料からは、大泉黒石の名前はいまのところ見つからない。
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 だが、同じ小説家といっても宮地嘉六と大泉黒石とでは、その表現が正反対の印象を受ける。宮地嘉六は、初期プロレタリア作家などといわれるが、現実の社会的な矛盾や状況をうまくすくいあげて(ルポルタージュのように)描き、「どうしたら、このような課題を解決できるのか?」と読者に思わせる、いま風にいえば「社会派」の作家だ。一方、大泉黒石は舞台が日本である作品が多いものの、とりあえずは現実社会とは一定の距離を保ちつつ、純粋に創造した物語の語り部としての作品がほとんどだ。
 いい方を変えれば、宮地嘉六Click!は当時の文壇では主流だった、自身の体験や感想をそのまま表現する「自然主義」(=日本では「私小説」「体験作家」のこと)の傾向が顕著であり、ほぼすべての作品はその影響下から抜けでてはいない。だが、大泉黒石Click!のほうはまったく正反対で、日本の「私小説」の流れ=文壇をいっさい無視し断絶したところに作品が起立しており、「日記にでも書いときゃいいじゃんか」レベルの作品はほとんどなく、純粋にフィクションとしての小説(物語)が成立しえている。
 2006年(平成18)に刊行された「昭和文学研究」第53集(昭和文学会)では、紙やWebなどメディアを問わず現代文学の衰退に直結する要因が指摘されている。同誌に掲載された「研究展望」より、槙林滉二『文学、文学研究にかかわる断想』から少し引用してみよう。
  
 先の円本問題、この教科書問題等を考えると、山本芳明氏流に言えば、やはり「文学」「文学者」「文学思潮」などは何らかの形で作られていったところがあるのではないかと思わせられる。そこいらを、もう一度、洗い直してみたらと思う気持ちがしきりにする。円本全集出版の背後で、大泉黒石、宮地嘉六、宇野千代などの評価は遅れてきたのではないか。そこにあるものよりも、あらされたものの上で、文学や文学思潮は作られてきたのではないか。ふと、何か深淵を見る思いがする。
  
 「円本問題」とは、昭和初期の文学全集(円本)Click!に収録されるような作家たちは、「文壇」+出版社にとっておおぼえめでたい人物の作品ばかりであり、当時の「文壇」はといえば自然主義をはきちがえた「私小説」家ばかりが牛耳っていた世界なので、そこから外れるような作家たちは決して全集には入れられない……という課題だ。同様に「教科書問題」とは、そのような「文壇」に属し、その作品の質とはまったく関係のないところで、政治的に“功績”のあった作家の作品のみが、文部省(文科省)の教科書に採用されるという意味だ。政治権力により、政府に都合の悪い課題や科学的なテーマについて研究する学者たちを追いだした、昨今の日本学術会議と同質の繰り返される“排除の論理”だ。
 ましてや、ときの社会を疑問視し、目につく社会課題を抽出し、政府にダメだししてタテつくような作品など文部省はもちろん、「文壇」にさえ取りあげられるはずもない……ということを意味する。この一文は、しごくあたりまえな芸術の圧殺手法について語っているにすぎないのだが、改めて21世紀の今日に文学研究者さえが、あえて指摘し触れざるをえないほど、現代における日本文学の衰退は危機的な状況を迎えているということなのだろう。上記のテーマは、別に大正期から戦前までの文学界にかぎらず、戦後の文学全集Click!や教科書に掲載される作品についても、そのままストレートに当てはまるテーマにはちがいない。
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 換言すれば、世界文学の視野からすると、当時の文壇主流だった「日記」レベルの「私小説」家の大半は、ほとんど価値のない「作品」であり、その無価値で面白くもないモノが小説として流通していたのが当時の日本文学界の姿であり、今日の日本文学の“成立基盤”そのものを危うくしているのではないか?……ということになる。著者は、「知識人論も色褪せ、文壇が消え、作家個人を賞玩した私小説的興味など皆無に近」くなり、「極限状況の剥落、第一、二次大戦の風化、戦中文学の忌避、戦後文学は幻影だったのか。宗教的戒律も今や遠く、遠藤周作が急激に色褪せている」と嘆く。
 わたしもまた、もう一度、できれば徹底的に「洗い直してみたら」としきりに思うクチだ。特に現代文学に直結する、19世紀あたりから世界各地で書かれてきた文学とは、どのような作品が優れていると判断され、後世へと受け継がれてきているのか、少し“グローバルスタンダード”に拡げた視界から、改めて再度、特に戦前に流行った「円本」(文学全集)に収められているような作品群を「洗い直してみたらと思う」のだ。
 宮地嘉六や大泉黒石Click!の作品には、主人公の強固な思想を形成する「敵」が大なり小なり必ず登場してくる。それは、別に戦場などでの「敵」ではなく、人生における「敵」であり、自身の生や思想の前に立ちはだかる“壁”=矛盾として現われ、あるいは社会課題として位置づけられるものの存在のことだ。だが、それをそもそも「敵」や“壁”=矛盾、課題として認識しない、あるいはその存在さえ認識できないのであれば、そこにはハナから物語も思想も成立しえない。槙林滉二は、つづけてこうも書く。
  
 一言で言えば、「敵」が見えないのである。そして、朧化した抵抗体の中で、文学や思想は、その存立の意味が問われている。「研究展望」を行う、その背景にある思想や思考の中軸の措定が難しい。文学研究はどこに行くのか。見えない「敵」こそ、まさに最も大きな現代の課題ではないかと説いても、しかし、さてどう事を動かすのか。ニートの意味の再考を思う。再度繰り返す、文学も文学研究もどこへ行くのか。
  
 資本主義革命思想は、強烈かつ必然的な階級観の形成と、主体(人間)の自由への希求意志から出発している。自身が置かれている立脚点そのものを思想化し、そこに立ち現われた「敵」=矛盾(自由意志を阻害するあらゆる存在)を認識して、社会を、世界を“よりよいもの”へと変革していこうとする巨大な思想運動だったはずだ。その大きな潮流(社会主義や共産主義、アナキズムなど異なる政治・社会思想を包含した流路)の中で、世界の現代文学ははぐくまれ、これまで多種多様な物語(成果物)を紡いできた。
 だが、その資本主義政治(革命)思想や社会思想が朦朧化し、忘れ去られたあげくに「敵」=矛盾や課題さえ見失うような社会が招来しているとすれば、もはや宗教的原理主義を掲げるアラブ諸国よりも脆弱な社会になり果てているのかもしれない。思想面はともかく、日本文学に「存立の意味」が見失われた大きな要因には、そもそも大泉黒石Click!や宮地嘉六らを排斥した「私小説」家たちの、狭隘で視野狭窄症で「井里的青蛙」的な「日記」レベルの作品が横溢した、当時の「文壇」が大きく作用していたのはまちがいないだろう。
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 宮地嘉六と大泉黒石は、同じ下落合の町内に住みながら、はたして大正期からの交流はつづいていたのだろうか。ふたりの住居は、昭和初期のころには直線距離で1200mほどしか離れていない。ひょっとすると、子どもたちの証言に残る大泉黒石が連れ歩いた先の友人たちの家に、第三文化村「玉翠荘」にいた宮地嘉六も含まれていたのではないだろうか?

◆写真上:宮地嘉六は旋盤工として、大泉黒石は書記として働いた石川島造船所跡の現状。佃島Click!の佃小橋からの眺めで、高層マンションの一帯が石川島Click!
◆写真中上は、宮地嘉六()と2000年(平成12)に慶友社から出版された『宮地嘉六全集』()。中左は、作家活動をはじめたころの大泉黒石。中右は、1979年(昭和54)の創刊から息が長い「昭和文学研究」第85集(2022年)。下左は、宮地嘉六が晩年に惹かれたH.B.ゴーゴリ。下右は、宮地も大泉も惹かれたФ.M.ドストエフスキー。
◆写真中下は、1917年(大正6)の二月革命で混乱するロシアの街角で大泉黒石はそのただ中にいた。は、代表的な円本『明治大正文学全集』(春陽社/1927年)。
◆写真下は、下落合3丁目1470番地の第三文化村内で暮らした宮地嘉六の「玉翠荘」跡。は、五ノ坂下を右手の路地に入ると下落合4丁目2130番地の大泉黒石邸跡。左手の緑のある敷地は、洋画家の林唯一アトリエClick!跡。

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