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1946年(昭和21)11月の「目白文化協会」事始め。 [気になる下落合]

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 日本の敗戦からまもなく、早くも目白通り沿いの下落合1丁目483番地に開店した喫茶室「桔梗屋」Click!で、3人の男たちの世間話から目白文化協会がスタートしたようだ。3人の男とは、それぞれ当時は東京都都市計画課長で東京復興計画を策定していた石川栄耀Click!、東京日日新聞(のち毎日新聞)の編集委員で翻訳家の小野七郎Click!、そしてミツワ石鹸の宣伝部長をしていた衣笠静夫Click!だ。
 3人はコーヒーを飲みながら、敗戦前の軍国主義による暴力と対立の世の中ではなく、お互いが信頼しあい平和で「仲よく」できる社会を築こうという理想から、イギリスのクラブや中国の茶館、フランスのカフェのような知的で文化的な会話ができ、お互いの情操を高められる“場”をつくりたいということで、1946年(昭和21)11月に「桔梗会」というサークルを結成している。3人の頭の中には、「文化国家・日本」の理想が芽生えていたのだろう。毎週日曜日に喫茶室・桔梗屋に集合し、さまざまなテーマで情報を交換したり雑談を交わすというのが、当初の桔梗会の主旨だった。
 このとき、石川栄耀は豊島区椎名町1丁目1883番地(現・目白4丁目)、目白通りの北側に伸びた下落合(現・3丁目)との境界に住んでおり、桔梗屋へは通りをわたって60mほどの位置だ。小野七郎は、下落合2丁目768番地(現・下落合4丁目)に住んでおり、桔梗屋へは直線距離で380mほど、また衣笠静夫Click!はミツワ石鹸社長の3代目・三輪善兵衛邸Click!の北側、下落合1丁目360番地(現・下落合3丁目)に住んでいて桔梗屋へは同じく150mほどの距離だった。ちなみに、明治建築の移築とみられる小野七郎邸Click!は現存しており、わたしも以前にお邪魔したことがある。
 桔梗会は、組織としての会長は置かず、参加者全員が対等の“同人”ということでスタートしている。同人の資格は、なにか一芸に秀でている人、ある専門分野の知識がある人物、または「広く文化的な話題に興味を持てる人」に限られ、会員の大半が賛成したらいつでも誰でも入会できることにした。同人仲間では、そのときどきで比較的時間に余裕のある人が幹事となり、会の仕事や世話(連絡や記録など)をすることになった。
 当初の“いいだしっぺ”であるこの3人が、そもそもこのような文化的サークルの活動には最適な顔ぶれだったのだろう。石川栄耀は、荒廃した敗戦後の東京をどのように復興すればいいか、常に都市文化のフォアキャストを意識するような仕事をしていたし、小野七郎は仕事がら各界に顔が広く、さまざまな知己や人脈をもっていた。また、衣笠静夫は優れた企画力や広報宣伝力を備えており、特に美術などの芸術分野には造詣が深く、日本橋本社Click!へ来訪する周囲から嫌われていた長谷川利行Click!を支えたのは彼だった。
 しばらくすると、いわば専門家で中高年の集りだった桔梗会へ若い子たちを入会させるために、「青年部」の設置が検討されている。そこで声をかけたのが、地元で短歌会などを主宰していた吉田博・ふじをアトリエClick!の兄弟姉妹たち、中でも吉田穂高Click!を中心に勧誘したのではないかと思われる。そして、桔梗屋での小さな集りは、さまざまな層の人物たちを集めた、「目白文化協会」へと拡大・発展していくことになる。
 桔梗会をはじめ、複数の会を束ねる目白文化協会ではさすがに幹事だけでは済まず、協会の代表者を決めなければならなかったようだ。そこで、桔梗会は豊島区目白町4丁目41番地(現・目白3丁目)に住む徳川義親Click!に会長を、下落合1丁目350番地(現・3丁目)に住むミツワ石鹸社長の3代目・三輪善兵衛に副会長を依頼している。当時の様子を、1948年(昭和23)出版の石川栄耀『私達の都市計画の話』(兼六館)から少し引用してみよう。
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 その中、協会に青年部を置こうという事になり、更に町の商業をやつている人達とも関係をもつて行き度いと。/更に、駅長さん、署長さん、区長さん達とも親しくして行きたいと云ふ事になり、会の形も大変フクザツになりました。/1.目白文化協会 2.あらくさ会(目白文化協会青年部が独立して) 3.目白銀座商友会 4.目白銀座商友会青年部/3、4の商店街の人達は盟友関係になつて居りますが、直接組織の中には入りません。あらくさ会とは何やかやと盟友以上の親しい関係をつけて居りますが、此れも独立して居ます。/そして商店街の人や区長、署長、駅長等との関係は目白懇話会の形式でつける事にして居ります。いはゞ、目白文化協会は、
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 といふ形になつて働くわけです。/日本緑化協会といふのを忘れて居ましたが、此れは付近の植木屋さんを集めて焼跡緑化をやるべく結成したのです。/目白懇話会は外部のあらくさ会や商業の人達と一緒に仕事をしてゆく為めに臨時に開く臨時的なものです。/大変フクザツですが、いろいろやつて見て結局此れが一番落ちつく形でありました。/たゞ然し我々は所謂「建設されざる都市計画」をやる事を念として居りますので、勝手に五粁を半径としその中の人達を皆、目白市民と称しその人達はいつかは目白文化協会の懇話会の会員なのだとして居ります。
  
 文中の、目白文化村青年部が独立した「あらくさ会」は、青年たちが徳川義親Click!に会の命名を依頼してつけられた名称だった。徳川義親は、出雲国造神賀詞より「厳(いつ)の真屋に麁草を厳の席(むしろ)と苅り敷きて」の祝詞にちなみ、「麁草(あらくさ)会」と名づけている。おそらく、江戸期の領地だった熱田宮の出雲神(スサノオ)にちなんでいるのだろうが、高田地域(現・目白地域)の総鎮守である高田氷川社の主柱も同じスサノオなら、落合地域の総鎮守・下落合氷川社も、また長崎(椎名町)地域の総鎮守・長崎氷川社(現・長崎神社)の主柱も出雲神のクシナダヒメだ。
 目白文化協会の懇話会では、半径5kmの人たちを「目白市民」とする計画だったようだが、いくらなんでもこれでは範囲が広すぎるだろう。下落合の喫茶室・桔梗屋を起点にすると、北へ5kmは板橋区の志村であり、南は渋谷区の明治神宮拝殿・本殿、東は文京区の根津神社(スサノオ)あたり、西は中野区の鷺宮駅ぐらいまで達する。もっとも、当時はそこらじゅうに焼け野原が拡がっており、これほど範囲を拡大して「目白市民」にしないと、人が呼びにくい状況だったのかもしれない。
 さて、目白文化協会の中核・桔梗会では「文化寄席」を企画し、徳川邸内に設立された徳川生物学研究所の講堂で講演会を開催している。徳川義親や三輪善兵衛(三輪善太郎)をはじめ、「文化の小話の会、科学小話の会、西洋音楽の会、日本の音楽と舞踊の会、講談落語の名人会、納涼話の会、世界めぐりの会、幸田露伴を偲ぶ会」などを開いた。この中で、「納涼話の会」はもちろん怪談会Click!のことだ。
 また、喫茶室・桔梗屋で行われる例会では、「文化小話の会」の縮小版だったようだが、座談会のようなかたちにもなったらしく、会員たちを飽きさせないために音楽(喫茶室なので蓄音機+レコードだろうか?)や手品なども披露された。また、徳川邸の講堂で開かれる各種の講演会は、「日曜大学」という名称で各地に出張しており、石川栄耀が同書を書いたころ(1947年ごろ)は埼玉県の飯能にまで出かけている。
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 文化寄席とは別に、「文化祭」という行事も開かれ「一、道路の舗修と街燈をつける事、一、音楽会、一、美術祭、一、舞踏祭、一、戯曲祭、一、運動祭、一、会員演芸祭、一、漫談祭、一、子供祭、一、緑化祭」などが行なわれた。いちばん人気があった美術祭は、目白通りの商店にあるショウウィンドウに、周辺に住む画家たちの油絵を架けて、それを観賞してまわるイベントだったが、これは戦前の銀座美術協会Click!による銀座通り街頭美術展を模したものだろう。また、落合在住の画家たちが集合した「町内画家展」Click!も、1936年(昭和11)から銀座で開催されており、それらの画家たちによる充実した美術イベントだったため、評判を呼んだのではないだろうか。
 目白文化協会に参加した美術関係者は、ほとんどが下落合の在住者であり、同協会のテーマで制作したのが下落合1丁目348番地にアトリエをかまえ、周辺の子弟を中心に画塾を主宰していた海洲正太郎Click!だ。同協会で海洲正太郎は、『明日の目白』と題する版画を制作している。以前、吉田遠志Click!のご子息で海洲画塾に通っていた吉田隆志様Click!よりご教示いただいたのが同作だ。この時期、戦災で全焼した谷中真島町の本部にかわり、太平洋画会研究所Click!の本部は下落合の海洲アトリエに置かれていた。
 余談だが、ご子孫がまとめて遺品を処分したものだろうか、新型コロナウィルス禍がはじまる2020年ごろに、上記の版画『明日の目白』を含む『首吊りの木』『当代美人画』など海洲正太郎の絵画や素描作品、スケッチブック、書簡・ハガキ20点などが神田でまとめて売りにだされていたのを記憶している。
 1950年(昭和25)に徳川義親が話した「漫談」の中で、目白文化協会について語っている箇所がある。この講演録を掲載した1950年(昭和25)発行の「汎交通」5月号(日本交通協会)より、徳川義親『漫談/マレーの虎狩』から引用してみよう。
  
 私は目白文化協会の会員でありますが、この目白文化協会というのは、目白に住んでおります音楽家、画家、学者などが十五人から二十人大概毎週日曜日の午前に集つております。この目白文化協会はこの間雑誌に書かれたり新聞に出たので、割合興味を持たれております。(中略) この文化協会はなかなか調法ななもので、各地にこの文化協会のようなグループができたら大変都合がいいじやないかと思います。私共の目白文化協会は今年で丁度五年(ママ:4年)になりますが、今日まで無事にこの会が繋がつておるのは、文化協会と言いながら会費も取らず会則もない、ただ好きな者は必ず集まるというだけのことでありまして、ひまさえあればきつと集まるというだけで今日まで繋がつております。これはやはり集まりの一つの方法であろうと思う。余り規則を作つて会長や理事長や理事があつたりすると却つてできない、何もなくぼんやり集まつて、好きな人が世話をするというのが、無責任になりそうであつて、実際はそうでなく、うまく繋がるということであります。
  
 厳密にいえば、徳川義親が語っているのは目白文化協会の中の桔梗会のことで、毎週日曜日に喫茶室・桔梗屋で開かれていた、「会長や理事長や理事」のいない同人組織による例会のことだ。なお、目白文化協会の副会長だったミツワ石鹸社長の三輪善兵衛も、徳川邸の講堂で開かれた「文化寄席」に出演しているが、残念ながら講演録は見つからなかった。
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 石川栄耀によれば、1947年(昭和22)の時点で会員数は50名前後だったという。職業別では学者が10名、教育関係者が3名、政治関係者が1名、画家が7名、彫刻家が2名、音楽関係者が4名、狂言関係者が1名、演劇関係者が2名、文芸関係者が5名、新聞関係者が1名、講談関係者が1名、実業関係者が9名、その他の職業が4名という構成だったらしい。こうしてみると、会員の半数近くが芸術・芸能分野の人々で占められていたのがわかる。

◆写真上:「文化寄席」が開かれた、目白の徳川生物学研究所跡(現・德川黎明会)。
◆写真中上は、石川栄耀()と小野七郎()。は、衣笠静夫()と徳川義親()。は、2008年(平成20)に撮影した喫茶店・桔梗屋跡の桔梗屋書店。なお、桔梗屋書店は目白通りをはさんだ斜向かいで現在も営業中だ。
◆写真中下は、桔梗屋跡の現状。中上は、桔梗屋で撮影された目白文化協会の「桔梗会」記念写真で撮影は小野七郎だと思われる。(提供:堀尾慶治様Click!) 中下は、1947年(昭和22)制作の海洲正太郎『明日の目白』。は、1948年(昭和23)出版の石川栄耀『私たちの都市計画の話』(兼六館/)と同書の奥付()。
◆写真下は、1950年(昭和25)発行の「汎交通」5月号(日本交通協会/)と、同誌に収録された徳川義親『漫談/マレーの虎狩』の講演録()。は、目白文化協会青年部が独立した麁草(あらくさ)会主催の演劇記念写真で織田作之助『ドモ又の死』などが上演された。(以下 提供:堀尾慶治様) は、麁草会の若者たちで後列左から2番目が堀尾様。

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