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私設の乗合自動車が盛んな大正末の東京郊外。 [気になる下落合]

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 これまで、落合地域を横断するダット乗合自動車Click!(のち東京環状乗合自動車Click!)や、落合地域を縦断する関東乗合自動車Click!については、何度か繰り返し記事にしてきた。これらの乗合自動車(バス)が走行していた大正期から昭和初期にかけ、東京近郊にはどのようなバス路線が存在していたのだろうか。1926年(大正15)の時点で、東京の郊外エリアを走るバス路線について少し書いておきたい。
 まず、練馬あるいは豊島園と目白駅Click!とを往復していたのは、ダット乗合自動車Click!(=合資会社ダット自動車商会は1935年に王子環状乗合自動車と合併し、のちに東京環状乗合自動車Click!)だが、大正末になると目白駅から、東京市電Click!が通う江戸川橋間を往復する乗合自動車も現れた。ただし、同バスはいわゆる停留所のある路線バスだったかどうかは不明だ。会社組織ではなく、個人による私設バスで、おそらく停留所は存在せず乗降は客の希望で行われていたとみられる。つまり、乗客が道端で手を挙げればバスは停まり、降客が車掌に知らせれば停車するというような仕組みだ。
 大正後期までは、市電が江戸川橋から目白駅まで延長されるというウワサがしきりに流れていたが、当時の市電車両の馬力では目白坂の急斜面を登ることができず、計画はあったものの途中で頓挫したか、あるいは強い馬力の車両が開発されるまで、市電路線の延長はペンディング状態になったのではないかと思われる。だが、戦後も目白駅には市電が通うことはなく、現在まで都営の路線バス(白61系統など)が運行されている。
 その目白駅から東へ向かうバス路線の嚆矢となったのが、目白駅-江戸川橋間を往復していた、川合清次郎による私設の乗合自動車だった。同バスは、「川合乗合自動車」と名づけられるべきだろうが、いわゆる商法上の匿名組合(TK)形式で個人事業による運営としてとどけられていた。1925年(大正14)の設立時から川合清次郎による経営だが、出資者をTK化することで多くの資金を集めやすくなり、また出資者はほとんど運営管理の手間や経営責任が生じないため、メリットが大きかったのだろう。
 匿名組合による目白駅-江戸川橋間の乗合自動車の様子を、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)では以下のように紹介している。
  
 乗合自動車/大正十四年四月十日、匿名組合の経営にて、目白江戸川橋間に開通し、八台を以て往復した。昭和五年より、ダツト乗合自動車が開業した。
  
 まず、ここで同誌の記述の誤りと思われる箇所を指摘しておきたい。ダット乗合自動車は大正後期から営業しているのであり、1925年(大正14)現在では目白駅-練馬駅間(のち豊島園まで延長)が運行されている。したがって、同誌が出版されるわずか3年前の「昭和五年より」は明らかな誤記だろう。大正後期に発行されていた、『東京近郊電車案内/附乗合自動車』(鉄道知識普及学会)にも、すでに目白駅-練馬駅間のダット乗合自動車(合資会社ダット自動車商会)による路線は紹介されている。
 ただし、1930年(昭和5)より目白駅(山手線)の西側を走っていた合資会社ダット自動車商会が、目白駅東側を走る川合清次郎の私設バスを吸収し、停留所もいくつか設置してダット乗合自動車を走らせていた……とも解釈できる記述だ。当時のバス事業は、企業組織による吸収・合併や、私設バスの誕生・吸収・消滅など離合集散を頻繁に繰り返しており、川合清次郎による私設バスの廃止がいつだったのかも不明であり、事実、この直後にはダット乗合自動車と王子環状乗合自動車との合併話が急浮上してくる。
 ここでちょっと余談だが、昭和初期に高田馬場駅を起点として早稲田通りを東へたどり、若松町をめぐって新宿駅へと向かうダット乗合自動車株式会社は、目白駅から練馬を往復していたダット乗合自動車(合資会社ダット自動車商会)とは別の会社だ。目白通りのダット自動車商会が合併・吸収され、すぐに東京環状乗合自動車になったあとも、高田馬場駅起点のほうの路線は、変わらずにダット乗合自動車を走らせつづけている。だが、1937年(昭和12)すぎになると、高田馬場駅前を起点にしていたダット乗合自動車株式会社も、上記の合資会社ダット自動車商会と同様に東環乗合自動車へ吸収されているようだ。
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 乗合自動車の路線を、匿名組合(TK)で経営していた川合清次郎だが、どうやら路線沿いの高田地域や落合地域、小石川地域の住民ではない。調べてみると、荏原郡入新井町不入斗1471番地(現・大田区大森北)に住む人物ではないかと思われる。資産家だったのか、さまざまな事業を経営あるいは出資していたようで、目白-江戸川橋間の匿名組合による乗合自動車ビジネスも、その事業多角化の一環だったのだろう。
 当時は会社組織ではない、個人運営の乗合自動車は別にめずらしいケースではなく、落合地域の周辺を見わたしても、新宿駅-多摩墓地を往復していた笹生萬吉による個人経営バス、池袋駅-成増を運行していた大久保暢の私設バス、中渋谷-砧村を走った北林安太郎による個人経営バス、荻窪駅-田無を往復した本橋半七による私設バス、田無-吉祥寺駅を往復した同人による私設バスなど、東京全体で見れば会社経営による路線バスよりも、個人による私設バスのほうが圧倒的に多い。
 たとえば、1926年(大正15)の東京における会社組織で運行されていた路線バスは18路線だが、個人で運営されていた私設バスのルートは36路線で2倍と、圧倒的に個人経営のバスほうが多いのが実情だった。大正末の乗合自動車について、1926年(大正15)に鉄道知識普及学会から刊行された『東京近郊電車案内/附乗合自動車』より引用してみよう。
  
 (東京郊外の発展は)震災の影響即ちこれが其の一、土地会社が郊外に住宅地を設定して都会生活に飽きた人達を田園生活に導く機会を与へたことが其の二、近郊電車の企業熱が勃興して大東京の拡大を予想し交通不便なる郊外に急速に交通の整備を為しつゝあることが其の三であつて、之等の原因が或は因となり或は果となつて郊外発展を助長激成せしめたものと見るべきである。殊に最近に於ける顕著なる傾向は乗合自動車の一大流行であつて東京市内は勿論郊外に於てすら苟(いやしく)も自動車を通じ得べき幹線道路には必ずバスの姿を見ざる所なきまでに全盛を極め、電車の通じない所では郊外居住者唯一の送迎機関となり、電車の通ずる所では其の補助機関として、或は電車の競争機関として盛んに活動して居る。即ち最近に於ては郊外発展の第四原因に乗合自動車の普及発達といふ新らしい項目を加えなければならぬ事になつたのである。(カッコ内引用者註)
  
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 さて、大正末から昭和初期にかけ、東京の市街地から郊外に拡がるバス路線をもっとも多く経営していたのが、下谷区北稲荷町46番地(現・台東区東上野)に本社があった、渡辺六郎が経営する東京乗合自動車(株)だ。同社は、乗合自動車の東京市における嚆矢的な存在で、大正期から都市におけるバス運行の順位をロンドンやパリ、ニューヨークに次いで世界第4位にまで押しあげた実績をもっていた。
 同社では、上野・浅草・新橋線(新橋-日本橋-神田須田町-上野-雷門-浅草橋-日本橋-新橋)の循環型路線をはじめ、新橋札ノ辻線(新橋-金杉橋-札ノ辻)、押上線(雷門-押上)、洲崎線(大手町-永代橋-洲崎)、神宮線(青山六丁目-明治神宮)など、東京市内では7路線を運行していた。また、郊外の新宿周辺では新宿築地茅場線、すなわち新宿駅-(四谷)大木戸-麹町九丁目-桜田門-東京駅-茅場町-築地を結ぶ、東京を西北から南東へ横断するようなコースでバスを走らせている。さらに、郊外では新宿堀之内線として新宿駅-中野(鍋屋横町)-堀の内にも、路線バスを運行していた。
 また、市街地の乗合自動車としては吾妻橋-玉ノ井間を往復していた玉ノ井線、吾妻橋-鐘淵間の鐘淵線を運行していた隅田乗合自動車があるが、同社と上記の東京乗合自動車の2社で、東京市街地の市電以外による路線網はほぼ整備されていた。ほかにも、たとえば目黒乗合自動車(目黒駅-等々力)、代々木乗合自動車(渋谷駅前-淡島前)、日東乗合自動車(中渋谷-豊沢-世田ヶ谷役場前)、北林乗合自動車(道玄坂上-砧村喜多見)、甲州街道万歳乗合自動車(甲州街道-多摩墓地)など大正末の時点でバス会社は存在していたが、それらの路線はすべて東京郊外を走る乗合自動車だった。ちなみに、甲州街道がなぜ「万歳!」なのか、妙な社名なので調べてみたが意味不明だった。
 さらに、大正末には東京名所をまわる「東都遊覧自動車」=観光バス事業もスタートしている。東京遊覧バス(今日の「はとバス」Click!)は、いくつかのコースに分かれて運行され、上野公園をはじめ、千代田城(宮城)とその周辺、明治神宮とその周辺、高輪泉岳寺、芝増上寺(芝公園)、愛宕神社、日比谷公園、浅草観音、靖国神社などをめぐっていた。
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 ちょうどこのころ、落合町下落合では目白文化村Click!を、東大泉村では大泉学園Click!を、谷保村には国立学園都市Click!を、そして小平村では小平学園都市Click!を開発・経営していた箱根土地Click!も、乗合自動車事業へ進出していた。調べてみると、東京市街地から学園や住民を誘致するために、計画が進捗しつつある開発地のバス事業を多く手がけていたのがわかる。たとえば、国分寺-東村山駅を結ぶバス路線や、練馬-東大泉を結ぶバス路線などだ。昭和期に入ると、箱根土地によるバス路線はもう少し増えているのかもしれない。

◆写真上:都バス路線・白61系統の新宿駅西口から練馬駅までの表示だが、江戸川橋から目白駅経由で練馬駅まではダット乗合自動車とほぼ同じコースを走る。
◆写真中上は、快進社(ダット自動車工場)Click!で生産された「ダット41型応用乗合自動車改装車」。は、1932年(昭和7)に目白通りを走る41型のダット乗合自動車。は、ほぼ同時期の撮影と思われる目白通りを走るダット乗合自動車。
◆写真中下は、昭和初期に撮影されたダット乗合自動車とバスガールたち。(提供:小川薫様Click!) は、1929年(昭和4)に撮影された目白駅前で発車待ちをするダット乗合自動車。は、目白通りを走る現在の東京都バス・白61系統。
◆写真下は、関東大震災Click!直後に東京市が交通機能回復のために800台を緊急輸入したフォードT型バス=「円太郎バス」。は、1926年(大正15)撮影の歌舞伎座Click!前を走る円太郎バス。は、同年撮影の東京遊覧バスだがこれも円太郎バスのようだ。

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