鎌倉で「相模湾風景」を描いた有島生馬。 [気になるエトセトラ]
かなり前に、鎌倉にあった有島生馬Click!の邸を拠点に、稲村ヶ崎で初夏のキス釣りをする俳優の森雅之と山村聰Click!の記事を書いたことがあった。森雅之は有島生馬の甥だが、その“殿様釣り”に呆れたと山村聰は書いている。
わたしは1960年代のもの心つくころから現在まで、鎌倉の街や山々は数えきれないほど歩いているけれど、ついぞ有島生馬のアトリエ=「松の屋敷」は記憶にないので、一度も訪れたことがなかったように思う。いまは、屋敷が丸ごと長野市に移築され「有島生馬記念館」となっているようだが、それも訪ねたことはない。親父は、洋画や白樺派の小説にはほとんど興味がなく、わたしはといえば泳いだり山歩き(キャンプ)に忙しかったせいか、有島生馬のアトリエが姥ヶ谷にあったことなど知らなかった。それに気づいたのは、1980年代のはじめごろ長野市への移築がニュースになってからだ。
横浜の税務官吏の家で生まれた有島生馬は、4年間にわたるヨーロッパ生活のあと、セザンヌを日本に紹介したことで知られているが、拙サイトで多く取りあげているテーマに沿っていえば、「白樺」Click!の同人画家(作家)であったことや、官展と訣別して二科会の創立メンバーに名を連ねたことだろうか。パリでは、こちらでもときどき名前が挙がる安井曾太郎Click!や南薫造Click!、高村光太郎Click!、藤田嗣治Click!、梅原龍三郎Click!らといっしょで、ときには交流もしていたようだ。
寄宿していた鎌倉の新渡戸稲造Click!邸を出て、姥ヶ谷にある生糸商のイタリア人が建てた西洋館を購入したのは、1921年(大正10)12月のことだった。1927年(昭和2)に改造社より出版された、『現代日本文学全集/第27篇』掲載の、自身による年譜から引用してみよう。
▼
大正十年/極楽寺海岸にて専ら静養、六月同村内にて転居――一月『嘘の果』を新潮社より出版。田邊松坡先生の唐宋詩醇の講義に列す。「十二月の夕陽」「うるめる春」等を二科展へ出品。――十二月姥谷松の屋敷を購入転居す。
▲
文中で「姥谷」とあるのは、現在の七里ヶ浜Click!沿いに建つ鎌倉静養館の前あたりにあった江ノ電の停車場名で、とうに廃止になって存在していない。有島生馬アトリエ=「松の屋敷」は、ちょうど姥谷ヶ駅前にあたる敷地に建っていた。
わたしは、戦前にあった姥ヶ谷駅などまったく知らないし、もの心つくころ江ノ電に乗ると姥ヶ谷から西側にかけての一帯は、丘陵や森林を片っぱしから切り崩して、赤土とコンクリートや大谷石による擁壁だらけの風景だった。ちょうど、佐伯祐三Click!が描く蘭塔坂(二ノ坂)Click!の「切割」Click!のような風情が随所で拡がり、新興住宅地(現・七里ガ浜東住宅地)を造成しているさなかで、山々に囲まれた鎌倉の風情もなにもあったものではなかった。だから、親父も連れ歩いてはくれなかったのだろうが、鎌倉の緑深い丘陵が海辺近くまでせり出した地勢で、有島生馬が「松の屋敷」を購入した大正当時は、鎌倉極楽寺村字姥ヶ谷(現・鎌倉市稲村ヶ崎3丁目)ではなかっただろうか。
「松の屋敷」を購入した当時、有島生馬は身体を壊しており、落ち着ける土地への転地療養が必要だった。医者が奨めた静養地(避寒地)は、松本順(松本良順)Click!の考えに倣ったものか、相模湾の海辺沿いにある土地だった。上記の年譜と同年の、1927年(昭和2)に改造社から出版された有島生馬『海村』から、そのときの様子を引用してみよう。
▼
医師の勧告に従つて、愈々鎌倉極楽寺村の海岸に転地療養を決行したのは、大正九年十一月のことだつた。これといつて悲観しもしなかつたが、前途の成行は自分でも見当がつかなかつた。近親のものなどは私自身より反つて心を痛めてゐたのではなかつたかと思ふ。当時は音無橋の東岸に建つ、新渡戸博士の別荘に寓居してゐたが、翌年の暮から現在の松の屋敷といふ二十年も前に、さる伊太利人の造つた別荘を譲り受けて居住するやうになつた。この屋敷のことは嘗つて「廃屋」と題して、神戸附近のことにして短編を書いたことがある。(中略) それに極楽寺海岸は気候や風景としては至極気に入つていたのであるが、文字でするスケツチの対象としては余り単調で、全くモデルに乏しいものであつた。もしこれが一つの漁村であり、何軒かの漁士(ママ:師)でも住んでゐる村であつたならば、小品の材料はいくらでも得られるだらうにと屡々思つたのである。
▲
有島生馬は当初、明らかに転地療養のために購入した姥ヶ谷の別荘だったはずなのだが、徐々にこの地ですごす時間が多くなり、戦後になると最終的には彼の本邸、すなわち終の棲家として姥ヶ谷の「松の屋敷」に住みつづけることになった。戦後、森雅之と山村聰が釣りの拠点として利用したのは、本邸になってまもない1950年代のことだろう。ただし、美術や文芸の年鑑類には、あくまで本邸は麹町区麹町下六番町10番地(のち六番町3丁目5番地)のままとなっており、麹町の家は東京における仕事の拠点であり、世間と交流する「公邸」だと位置づけていたのかもしれない。
10代のころから有島生馬の弟子だった東郷青児Click!は、たびたび「松の屋敷」の師邸を訪ねている。戦前は、屋敷の北側に位置する姥ヶ谷駅と江ノ電沿いにつづく道路だけで、南側の海岸沿いを走る自動車道路(ユーホー道路Click!=湘南道路Click!)は藤沢止まりで存在せず、南庭と海岸とがつづいていて屋敷から裸のまま海へ入れたと証言しているので、現代の“マイビーチ”のような感覚だったのだろう。
有島生馬は文中で、スケッチをするには単調すぎて「全くモデルに乏しい」と書いているが、これは小説を創作する際のテーマ性に乏しいという意味あいだ。確かに昭和初期は、稲村ヶ崎と腰越の中間にあたる姥ヶ谷界隈は、人家も乏しく人影を見るのさえまれではなかったろうか。聞こえるのは、しじゅう耳について離れない通奏低音のような相模湾の潮騒と、やわらかくたわみやすいクロマツの枝をわたる風の音ばかりで、人間の営みは昭和初期からブームになる物好きなハイカーたちClick!や、夏になると近くの別荘にやってくる海水浴客Click!だけだったにちがいない。
だが、「全くモデルに乏しい」のは小説を書くにあたっての話であって、絵画のモチーフとしてはまったく正反対だったようだ。有島生馬は、相模湾沿いに拡がる海辺の風景を大量のタブローやスケッチ類に残している。実は、この記事を書こうと思いついたのは、彼の作品に相模湾の情景が数多く含まれているのに気づいたからだ。
「松の屋敷」周辺をモチーフにした風景画は、姥ヶ谷に住みはじめてからまもなく描いた、『岬と海水浴場』(1922年/のちに改題して『稲村ヶ崎』)が最初だろうか。昭和期に入ってからも、引きつづき何点か描いているとみられるが、わたしが目にしたのは戦後になって、「松の屋敷」が本邸となり常住するようになってからの作品群だ。
たとえば、1948年(昭和23)に稲村ヶ崎から海岸沿いを遠望して描いた『由比ヶ浜』や、1957年(昭和32)に自邸を描いた『真夏の庭』、1961年(昭和36)に江ノ島の夜景を描いた『夜の島』、1969年(昭和44)に再び自邸を描いた『母の日』などだ。また、相模湾沿いに湘南海岸を西へたどり、1969年(昭和44)には『茅ヶ崎の夕富士』などという作品も残っている。夜の江ノ島を描いた『夜の島』は、回転する江ノ島灯台の白と赤の光とともに、その風情がひときわ懐かしい。子どものころ、夏など2階の部屋で寝ていると須賀港(馬入川=相模川河口にある漁港)に設置された灯台の光と、江ノ島灯台のそれとが交互に夜空に映えて見え、潮風の生臭いベランダから飽きもせずに眺めていた。
「松の屋敷」について、1976年(昭和51)に中央公論美術出版から刊行された有島生馬『思い出の我』収録の、長女・有馬暁子の「あとがき」から引用してみよう。
▼
私は冠木門の扉の上の門額に「松の屋敷」と、鋳物で五分位の厚みのある文字がうちつけてあり、門柱に、「ヴィヴァンティ」という表札のかかっている入口まで、初めて来た時から興味があった。/庭内に入ると松が群生し、月桂樹、枇杷、珊瑚樹、無花果、棕櫚、芭蕉が伸び放題伸び異国情緒にあふれ、少女の私にはすべてが寓話的に見えた。/那智黒が敷かれ、柾に囲まれた小径は玄関まで続いていた。当時壁がベイジュ色、わくを茶のペンキで塗った瓦屋根の総二階で、海側から見ると四角い家屋のように見えるが、北側へ廻ると東西に十七坪ほど翼のように張り出していた。/東側の翼が大震災の時、倒壊したので父は裏庭へ移築した。(中略) 「松の屋敷」の松は残念ながら一九六〇年頃湘南海岸を荒した松食虫に襲われて全滅してしまった。
▲
有島暁子の証言によれば、彼女が初めて「松の屋敷」を訪れたときには、いまだイタリア人生糸商の表札がそのままだったようだ。また、当初から「松の屋敷」という額が架けられており、しかも外観が西洋館にもかかわらず、なぜか北側の玄関先には冠木門がしつらえられていた。文中には、地面が砂地でもよく育つサンゴジュやマサキ、イチジクなど、当時の相模湾沿いに多かった(わが家にもあった)庭木の名前が登場して懐かしい。
文中に「松食虫」禍が書かれているが、湘南海岸から鎌倉海岸では1960年代を通じてマツクイムシが猛威をふるった。海岸沿いにつづく防砂林が危機的な状況となり、神奈川県ではヘリコプターから繰り返し殺虫剤を散布している。散布当日は、洗濯物や蒲団を干せずに窓や戸を閉め切って、家内に薬剤が入りこむのを防いでいた。散布されていたのは、いまから見れば猛毒のDDTやBHCだったと思うが、そのせいで子どものころは楽しみのひとつだった、クロマツ林に生えるハツタケの採集Click!を親から禁止されたのが残念だった。
◆写真上:材木座にある光明寺の裏山から、先端に江ノ島がのぞく稲村ヶ崎を眺める。
◆写真中上:上は、「松の屋敷」を拠点に釣りをしていた森雅之(左)と山村聰(右)。中上は、1922年(大正11)制作の有島生馬『岬と海水浴場(稲村ヶ崎)』。中下は、1978年(昭和53)の空中写真にみる有島生馬邸(松の屋敷)。下は、同邸の外観。
◆写真中下:上は、1978年(昭和53)に姥ヶ谷側から撮影された「松の屋敷」。中上は、同年撮影の相模湾が見わたせるテラス。ただし、当時は庭先を国道134号線に断ち切られて海辺には直接下りられず、クルマの騒音もうるさかっただろう。中下は、同邸ですごす晩年の有島生馬。下は、1948年(昭和23)制作の有島生馬『由比ヶ浜』。
◆写真下:上は、1957年(昭和32)制作の有島生馬『真夏の庭』。中上は、1961年(昭和36)制作の『夜の島』。中下・下は、1969年(昭和44)制作の『茅ヶ崎の夕富士』『母の日』。