S駅近くの「グリーン荘」を描く清水一行。 [気になる下落合]
グリンコート・スタヂオ・アパートメントClick!(以下グリンコート)に住んだ人物が、内部の様子について書いた記録が残っていないかどうか探したが、なかなか見つからなかった。一時、同アパートをアトリエに使用していた志賀直哉Click!や、仕事部屋にしていた林芙美子Click!、娘夫婦が住んだので一時滞在した谷崎潤一郎Click!など、同アパートの名称は随所に登場するのだけれど、内部を描写した文章はほとんどない。
ところが、思いもよらぬところから同アパートをイメージし、舞台にしたとみられる推理小説(?)に気がついた。1970年代から80年代にかけ、桃園書房から発刊されていた雑誌「小説club」に作品を連載し、1981年(昭和56)の同誌6月号に『殺意のうねり-遺恨のてんまつ』(のち『遺恨のてんまつ』に改題)を執筆した清水一行だ。
同作品は、就職して3年めの青年が自殺したアパートとして、「グリーン荘」が登場している。戦後まもなくとみられるが、グリンコートのネーミングがあまりに長すぎるせいか、同アパートはある時期から「グリン亭」に改名し、1963年(昭和38)には「旅館グリン荘」と名前を変更している。清水一行が描く「グリーン荘」は、新宿に出るのには便利な私鉄駅の、すぐ近くに建つアパートとして登場する。「小説club」掲載の『遺恨のてんまつ』より、少し引用してみよう。
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東京駅から地下鉄と私鉄を乗り継いで、郊外のS駅で降り、急ぎ足でグリーン荘アパートへ。時間は四時近く、館山から郊外のSまでの途中の景色は、まったく目に入らなかった。/残暑が厳しく、むし暑さでアパートへ辿り着いたとたんに、全身から汗が吹き出した。/管理人の佐竹は、アパートの外で近所の人と立話をしていたが、地味なワンピース姿の光子を認めると、駆け寄って支えるように抱き止めた。
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これは自殺した青年・誠司の母親・光子が、千葉県の館山から息子が借りて住んでいた「グリーン荘」へ駆けつけるときの描写だが、「郊外のS」は明らかに下落合を意識して書かれているとみられる。東京駅北口から、徒歩3分ほどの地下鉄東西線・大手町駅まで歩き、高田馬場駅で下車して西武新宿線に乗り継ぎ、ひとつめの下落合駅で降りて急ぎ足で「グリーン荘」へ向かう……という情景が、容易に想定できてしまう。
「グリーン荘」に駆けつけた母親は、母子家庭でつましく育った気弱な息子が、睡眠薬を大量に飲んで自殺する原因など考えられず、最寄りの警察署を訪ねるが遺書も残されていなかったのでまったく納得できない。また、遺体を発見した会社の同僚の男女ふたりも、新宿へボウリングをしに出かける約束をしていたので、急に自殺するとは到底考えられないと母親に証言する。けれども、警察はほどなく自殺と断定し事件性を否定するが、それに納得できない母親と、母親から謝礼をもらって調査に当たる会社の同僚たちによる「犯人さがし」がはじまる……というストーリー展開だ。
自殺した誠司の部屋は、「グリーン荘」2階の7号室という設定になっており、独身者向けに設置された1DKの部屋だった。つづけて、同作より引用してみよう。
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六十半ばで髪の白くなりかけた佐竹は、ランニングシャツ姿で光子をなだめ、二階の七号室へ先に立って案内した。七号室は西陽の当る一番外れの室で、ドアを開けると室内にこもっていたむっとする熱気が、抜け場を得て殺到してきた。(中略) 室は1DK。和室の六畳にシングルベッドと机、本棚とがあり、DKに小さな食卓やテレビ、ステレオとそれに小型冷蔵庫や洗濯機が収められている。若い独身男性の室だけに、流し場には汚れた食器が放り出してあったが、手のつけられない乱雑さという感じではすくなくともなかった。
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実際の「グリン亭」=「旅館グリン荘」(1963年~)も、7号室は2階のいちばん外れにあった。だが、部屋は南と東に窓があり、西側は6号室との間を仕切る壁で西陽は射さない。西陽を受けて暑いのは、2階のいちばん外れにあたる隣りの6号室だろう。実際の7号室はキッチン付きのワンルームだったが、「グリン亭」=「グリン荘」のワンルームは10~14坪=約18~25畳サイズのワンルーム(スタヂオ・アパート)で、室内をパーティションで仕切って部屋数を増やしたり、事務所や企業が入居して仕事ができそうな面積であり、独身者が借りるにはちょっと広すぎて贅沢すぎる。また、大学を出たばかりの独身サラリーマンが借りられるほど、家賃は安くはなかっただろう。
小説は、少なからぬカネをもらって「犯人さがし」を手伝う会社の同僚だったふたりが、どうしても「犯人」=自殺の原因となったらしき人物を探しだし、自殺だとは認めない母親に教えなければならないハメに陥り、いつも部下に対して厳しく面罵叱責する、上司の上杉係長が自殺の原因ではないかと母親に吹聴する。ふたりの同僚も、係長の上杉には仕事に関してしじゅう怒鳴られており、多少憎しみをつのらせていた。
また、管理人の佐竹は「グリーン荘」に住む学生から、最近、誠司が同じアパートに住む人妻に熱をあげてラブレターらしき手紙をわたし、彼女から激しく拒絶されていたというウワサがあるのを聞きこみ、母親の光子に伝える。だが、母親はおとなしく誠実な息子がそのような破廉恥なことをするはずがないと、管理人の情報を信じずアタマから否定し、殺した「犯人」は息子を激しく罵倒した直属の上司・上杉係長だと断定してしまう。
こうして、母親のひとりよがりな「犯人さがし」で、上杉係長への一方的な報復計画がスタートする……というような展開だ。詳細は『遺恨のてんまつ』を参照してほしいが(文庫本の短編集に収録されているだろう)、同作に描かれる「グリーン荘」とその周辺の情景は、どこか下落合の風景を感じさせるのだ。S駅前の店舗や喫茶店なども登場するが、それらは1970年代の高田馬場駅前の情景を想起させる。
さて、清水一行とグリンコート=グリン亭(旅館グリン荘)との接点だが、戦後の一時期、彼は同アパートの1室を借りて住んでいたものだろうか。ただし、彼は同アパートの家賃を払えるような職業には就いておらず、居住していたとは考えづらい。あるいは、旅館となっていたグリン荘時代(1963年~)に部屋を借りて執筆していたか、あるいは出版社が常に借りていた部屋へ“缶詰め”にされた経験でもあったのだろうか。彼は、1966年(昭和41)から作品を発表し流行作家になっているので、1970年(昭和45)ごろまで建っていた旅館グリン荘時代に、その可能性がないとはいえない。
さらに、戦後すぐのころからグリンコートに住む誰かを訪ねに通っていて、そこから同アパートに馴染みができたものだろうか。企業小説を得意とした清水一行は戦後、意外なことに青年共産同盟に加盟して活動しており、1948年(昭和23)には全日本産業別労働組合会議本部の書記に就任している。また、翌1949年(昭和24)に18歳になると日本共産党へ入党し、労働調査協議会出版部をへてライターの道に入っている。この期間に、グリンコートを訪問する理由としては、同アパートに住んでいた全日本教職員組合書記長の平垣美代司を訪問している可能性はありそうだ。
また、同様に日本教職員組合中央執行委員で、のちに社会党の衆議院議員となる辻原弘市もグリンコートに住んでいた。全日本産業別労働組合会議のころ、あるいは労働調査協議会出版部時代に、なんらかの打ち合わせないしは取材を兼ねて、辻原弘市や平垣美代司の部屋を何度か訪ねているのかもしれない。その際、山手大空襲Click!にも焼けなかった同アパートの内部を見て歩き、少なからず印象に残ったものだろうか。
いずれにしても、清水一行と聖母坂のグリンコートとは、なんらかのつながりがあったとみられる。彼がエッセイを書いているかどうかは知らないが、その中に下落合の戦前はモダンな建築だったグリンコートを訪ねた回想などが、どこかに含まれてやしないだろうか。
清水一行の作品は一例だが、グリンコートらしき情景を描いている作家はほかにいるのだろうか。志賀直哉や林芙美子、谷崎潤一郎はもちろんだが、住民の中にも著述を生業としていた人物がいたとみられる。どなたか作品をご存じであれば、ご教示いただきたい。
◆写真上:大竹明輝による、清水一行『殺意のうねり-遺恨のてんまつ』の扉挿画。
◆写真中上:上は、1956年(昭和31)出版の『日本文学アルバム20/林芙美子』(筑摩書房)で撮影された聖母坂のグリントート・スタヂオ・アパートメント(グリン亭)。下は、1981年(昭和56)発行の「小説club」6月号に掲載された同作の扉。
◆写真中下:上・中は、大竹明輝が描く挿画。下は、同アパート2階の南端にあった7号室の平面図。7号室の下(西側)が6号室で聖母坂に面していたが、聖母坂からのエントランスとは別に東側の坂道からも同アパートへ出入りができた。
◆写真下:上は、1963年(昭和38)の「住宅明細図」にみる下落合2丁目721番地(現・下落合4丁目)の「旅館グリン荘」。中は、著者の清水一行(左)と1982年(昭和57)に同作が収められた清水一行『名門企業』(青樹社)。下は、グリンコートの2階部(実質3階部/右手)が面していた裏の坂道と斜面。聖母坂は北から南へ緩傾斜し、東西が急斜面の敷地に建っていた同アパートは、正面から眺めると屋上に3部屋がある3階建てのように見えた。だが、1階・2階・中3階のような変則的な建築構造で、実質2階建てと紹介されている。