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『岡崎キイ伝』が編まれれば面白そうだ。 [気になる下落合]

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 中村彝Click!が下落合のアトリエへ転居した1916年(大正5)8月の下旬から、結核の悪化で徐々に衰弱していく彼の身のまわりの世話をした人物に、神田猿楽町からやってきた岡崎キイClick!がいる。彼女は一貫して世話をしていたわけではなく、ときに彝とケンカをしては猿楽町にあった甥で官吏(内閣あるいは大蔵省の印刷局か?)の福原誠邸に帰ってしまうので、彝はときに独り暮らしとなった。1924年(大正13)に彝が死去Click!する際は、下落合464番地のアトリエで彼女は台所仕事をしていた。
 岡崎キイは、『芸術の無限感』(岩波書店/1926年)収録の洲崎義郎Click!あての手紙によれば、中村彝から「岡崎さん」でも「キイさん」でもなく、「をばさん」と呼ばれていた。岡崎キイについて、もっとも多くの文章を残したのは同じ水戸出身の鈴木良三Click!だろうか。1977年(昭和52)に中央公論美術出版から刊行された『中村彝の周辺』では、落合時代の人物編で1章を設けて彼女のことを6ページにわたり記述している。
 けれども、同稿は岡崎キイの家出中にやってきたヴァイオリンを弾く太田タキClick!のことや、彝が岡崎キイをモデルに制作した『老母像』についての記述が多めなため、純粋に岡崎キイ自身の生活や経歴について触れた文章はそれほど多くない。鈴木良三が『中村彝の周辺』に書いた「岡崎キイ」は、こんな出だしではじまっている。
  
 大正五年、落合の林泉園にアトリエが建って、とにかく一人ぼっちの彝さんは気ままに自炊生活をはじめたが、やはり疲れが出て病勢が悪化することになってしまったので、少年時代の友人福原誠、脩兄弟が見かねて福原の叔母に当る岡崎キイが、土佐藩士(ママ:藩主)山内侯の側室だったが、当時、(福原)誠方に身を寄せていたから、わけを話し、とりあえず面倒を見てやるように頼み、キイも狭い(神田)猿楽町の誠の家に、多勢の居候達と同居するよりはましだろうと思って引受けたのであった。(カッコ内引用者註)
  
 夏目利政Click!が設計したとみられる下落合800番地Click!のアトリエに住み、当時は中村彝のもっとも身近にいた人物のひとりである鈴木良三Click!の証言なので、およそ信憑性が高いと思われる岡崎キイ像だ。また、鈴木良三は岡崎キイについて、1978年(昭和53)に学習研究社から出版された『NHK日曜美術館・第10集』で、「叔父の伯母にあたる岡崎キイがいたわけです」とインタビューに答えているので、鈴木良三は福原家とは姻戚関係があり、岡崎キイは遠縁の女性だったのかもしれない。余談だが、福原兄弟の弟の福原脩は当時、水戸徳川家の家令として勤務しており、関東大震災Click!後の勤務先は徳川圀順の屋敷があった、くしくも兄と同じ町名の渋谷猿楽町(猿楽塚古墳にちなむ)だった。
 文中の「林泉園」Click!というネームは、1923年(大正12)に東京土地住宅Click!が販売した近衛新町Click!を、東邦電力Click!松永安左衛門Click!が購入してからつけられた、谷戸を中心とする住宅地の名称Click!なので、彝がアトリエを建てた1916年(大正5)当時は、いまだ近衛家Click!「落合遊園地」Click!のままだったはずだ。また、彝と意地の張りあいになって家出をしたほか、岡崎キイは腎臓が弱く治療のために入院していた時期もあったらしく、その期間はアトリエを留守にしていたようだ。
 鈴木良三は、神田区猿楽町の福原誠邸に岡崎キイが「居候」していたように書いているが、明治期から猿楽町には彼女が経営する学校があった。東京都公文書館の行政文書(学校関連)によれば、1901年(明治34)に友成はるという人物から、「女子裁縫専修学校」の経営を移譲されており、同年には同校校舎を神田区三崎町から彼女が居住していた福原邸のある近くの神田区猿楽町へと移転している。
 これは、おそらく同時代の加賀藩士の妻だった河村ツネが設立した、「女子裁縫専門学校」(現・豊島岡女子学園)にならって設立されていたもので、岡崎キイは創立メンバーに名を連ねていたとみられる。大正期にかかる10年以上を、東京都公文書館に保存された資料によれば、彼女は同校の責任者(校長)としてすごしていたはずだ。
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 また、岡崎キイは山内家で男子を出産しており(ただし出産後すぐに山内家の嫡流として引き離されただろう)、山内家からの手当てが月々彼女のもとへとどいていた。女子裁縫専修学校を辞して引退しても、生活に困窮していた様子はなく、中村彝の世話は岡崎キイの善意、あるいは老後の“生きがい”的な感覚から出たものとみられ、だからこそ彼女は彝とは常に対等の立場で接していたように思われる。彼女は「家政婦」ではないので、ときどきアトリエから“家出”をしても、誰からもとがめられる筋合いはなく、また別に生活には困らなかった様子がうかがえる。
 曾宮一念Click!は、「目鼻が大柄の老美人」=岡崎キイが毎日近くにいるのだから、「をばさん」をモデルに描けばいいのにと何度か中村彝に勧めているが、「オバさんは美人だが残酷性が人相に表れていてイヤだ」(曾宮一念『東京回顧』/創文社・1967年)といって断っている。彼女の目や表情に宿る「残酷性」は、大名家(華族)の奥座敷でさんざん側室としての辛酸をなめ、江戸期から明治期という激動の時代の中で苦労を重ねつづけ、翻弄された人生を映す「人相」だったろう。むしろ、人がめったに経験したことのない時代の物語を数多く秘めた、ことさら厳しく峻烈な表情をしていたのではないか。
 彼女について、生年から取材して記述しているのが、1988年(昭和63)に常陽藝文センターから刊行された「常陽藝文」6月号の特集記事だ。記事から、少し引用してみよう。
  
 下落合のアトリエには、病身の彝を親身になって世話してくれた岡崎きい(キイとも書く)という老女がいた。きいは安政五年(一八五八)生まれで、水戸家の御殿女中をしていたときに土佐藩の山内容堂の目にとまり、その側室となった女性であった。彝の友人の福原脩の親戚で、当時、暇をとって福原家の世話になっており、彝の婆や役にはうってつけだった。この女性は、彝が下落合に移り住んだ直後から彝の面倒をみるようになり、途中、持病の腎臓病がひどくなって入院したために彝のもとを離れたことなどはあった(中略) 当初は、それぞれのわがままから衝突も多かったというふたりだったが、やがてお互いの孤独な境遇を理解し、気持ちが通じ合うようになっている。
  
 これによれば、彼女は幕末から大江戸に住み大名(華族)が訪問する水戸家の上屋敷、すなわち後楽園Click!のある小石川の水戸徳川家上屋敷で「御殿女中」をしていたことになっている。しかし、1868年(慶応4)の明治維新でさえ彼女はまだわずか10歳であり、「御殿女中」をしていたのは明治以降のことだろう。また、山内豊信(容堂)は維新後、まもなく中風の発作を起こして半身不随で病床にあり、1872年(明治5)に死去しているので、水戸徳川家を訪問したのは山内家の別の人物(明治維新時に22歳だった最後の16代藩主・山内豊範)だったのではないかと思われる。山内豊範は1886年(明治19)に40歳で死去しているが、岡崎キイは彝の死去から3年後の1927年(昭和2)に他界している。
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岡崎キイの窓.jpg
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 鈴木秀枝の著で跋・曾宮一念Click!の『中村彝』(木耳社・1989年)では、岡崎キイについて「(福原脩の)縁故の者で、若い頃土佐の山内侯の側室となり、現当主の母親に当る老女岡崎キイが選ばれた」とある。1916年(大正5)現在の山内家当主は山内豊景であり、その父親は上記の山内豊範だ。また、山内豊景は1875年(明治8)に生まれており、その3年前の1872年(明治5)に死去している山内容堂が父親であるはずがない。やはり、岡崎キイが側室として仕えたのは山内豊範であり、彼女が17歳のときに豊景を生んだことになる。
 さて、中村彝に関する著作類はたくさんあるが、その中で描かれている岡崎キイ像について見てみよう。いくつかの資料をランダムに参照すると、以下のようになる。

●「岡崎キイは土佐藩主山内侯の側室だった老婦人で気位の高い水戸っぽであった。山内家から月々仕送りのあったキイは気ままな一人暮らしであったが、親戚の居候になっているよりはましだろうと彝の世話を引受けた」(米倉守『運命の図像』/日動出版部・1983年)
●「家政婦の岡崎キイや、その場に居た曽宮一念などに声をひそめて死期を告げたのである」(川崎久一『死んでも一枚の絵を描きたい』/柏崎週報社・1984年)
●「同郷の水戸生れで、かつて土佐、山内侯の側室として、現当主の生みの親である岡崎キイを家政婦として得ていた」(匠秀夫『中原悌二郎』/木耳社・1969年)
●「落合にアトリエを新築してからまもなく、岡崎キイという家政婦が、彝の世話をすることになった」(青少年育成茨城県民会議『郷土史にかがやく人びと』/1971年)
●「彼の身辺の世話をしてくれた岡崎キイという老女で、彝の兄の友人の親戚にあたる人であった」(石子順造『近代日本の母像』/講談社・1976年)
●「下落合に水戸出身の高橋義雄の援助を受けてアトリエを新築し、徳川家の家令福原脩の叔母岡崎キイの世話を受ける」(茨城新聞社『茨城県大百科事典』・1981年)
●「画家が亡くなる前の数年を心をこめて看護した、遠縁にあたる岡崎きいである」(『近代日本絵画全集・第10巻』/講談社・1963年)
●(中村彝の)「身のまわりには親戚にあたる岡崎きいという老女が住みこんで世話をした」(河北倫明『近代の洋画人』/中央公論美術出版/1959年)
●「晩年の彝のよき看護者だった遠縁の岡崎きいをモデルとして、「老母の像」を描き、秋の第五回帝展に出品した」(河北倫明『近代日本美術の潮流』/講談社/1978年)
●「大正五年には府下下落合村(ママ)にアトリエを建築しこれより老婆岡崎きい氏の助けを受けた」(『大日本人名辞書』/大日本人名辞書刊行会・1927年)

 既述のように、彼女は学校経営を引退し楽隠居で気ままにすごしていたので、紹介所から派遣されるような「家政婦」ではなく、また彝の「遠縁」「親戚」でもない。
 岡崎キイに焦点をあてて見ると、水戸生まれの彼女は10歳のときに明治維新を迎え、水戸徳川家の屋敷(向島の小梅邸=現・隅田公園)で奥女中を勤めるために東京へとやってきて、同屋敷を訪問した山内家の当主(16代・山内豊範)に見そめられて側室に迎えられ、ほどなく男児(豊景)を出産している。だが、1886年(明治19)に山内豊範が40歳の若さで死去して暇をもらうと(キイは28歳)、神田三崎町から同猿楽町で友成はるが創立したとみられる女子裁縫専修学校の教師および校長をつとめ、同校を辞して楽隠居の老後生活を送っていたところへ、突然、中村彝の世話を依頼され下落合へとやってくる。
 猿楽町の甥の家に寄宿するのは窮屈で、楽隠居の生活にもやや飽きていた彼女は、画家を少しでも結核の症状から恢復させ、できるだけ寿命をのばして仕事をさせるのが生きがいとなり、自身の知っている占いでも迷信でもClick!なんでも駆使して奮闘しはじめる……。
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 彼女の一代記は、激しく移り変わる世の中とともに、ダイナミックで波瀾曲折だらけだったにちがいない。江戸-明治-大正時代を通じ、まったく異なる環境で生きた女性の姿を、『岡崎キイ伝』として精細に調べ映してみると、面白い物語が紡げるのではないだろうか。

◆写真上:中村彝アトリエ記念館に再現されている、岡崎キイが暮らした3畳間。
◆写真中上は、1915年(大正4)ごろに静坐会Click!本行寺Click!近くにあった中村彝の下宿で撮影された岡崎キイ(左)と彝(右)。は、アトリエ竣工後の間もない時期に撮影された岡崎キイと彝。は、ほぼ同時期にアトリエのテラスで撮影された岡崎キイと鶴田吾郎Click!。居間に座るのは、メガネをかけた宮芳平Click!だろうか。
◆写真中下は、岡崎キイが学校を経営していた神田猿楽町の街並み。は、岡崎キイが暮らした部屋の窓(手前左)。は、同女が起居した3畳間。
◆写真下は、中村彝が死去する半年前の1924年(大正13)5月27日に撮影されたアトリエ庭の園遊会での岡崎キイと中村彝。は、中村彝の葬儀における岡崎キイ。キイの右隣りには宮芳平が、太平洋画会研究所の花輪の奥には満谷国四郎Click!の姿が見える。は、アトリエから岡崎キイの3畳間や台所、勝手口へと通じる廊下の出口(イス背後)。「美人だが残酷性が人相に表れてい」る岡崎キイが、いまにも顔をのぞかせそうだ。
おまけ
 岡崎キイは下落合のアトリエは方角が悪いからと、一時的に中村彝を高田村雑司ヶ谷へ転居させているが、転居先の家は雑司ヶ谷のどこにあったのだろうか。上は坂の多い雑司ヶ谷の街並みで、下は関東大震災後の福原脩の勤務先である水戸徳川家の屋敷があった渋谷猿楽町の街並みと、同町名の由来となった、いまやビルに囲まれる猿楽塚古墳の墳丘。
雑司ヶ谷住宅街.JPG
渋谷猿楽町住宅街.JPG
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