下落合の丘上を発掘調査した大里雄吉。 [気になる下落合]
落合地域にあった古墳のうち、昭和初期に月見岡八幡社Click!の守谷源次郎Click!と考古学者の鳥居龍蔵Click!らが発掘調査チームを編成し、およそ37基の大小古墳を確認している様子を、以前、2ページにわたって記事Click!にしている。
それ以前の大正期には、下落合の丘上を中心に大里雄吉Click!がいくつかの地点で発掘調査を行っていたことが判明した。彼の名前は、少し考古学や古代史をかじった方なら、全国各地の遺跡調査の資料類にその名前が登場するので、ご存じの方も多いのではないだろうか。大里雄吉は、当時の東京府を中心に関東地方をはじめ、全国規模でおもに「石器時代」=「史前学」の発掘調査を展開していた在野の考古学者だ。むしろ在野だったからこそ、アカデミックな学閥や学会にとらわれず自由な研究が可能だったのだろう。
弥生時代以前の日本史を研究することを、当時はよくいえば「史前学」、悪くいえばウッホッホの原始人や蛮族が跋扈していた「皇民化」以前の時代であり、「皇国史観」Click!とは無縁な研究分野ということで、日本史のアカデミズムでは“冷や飯食らい”Click!の代表格だった。だからこそ、アカデミックな舞台では研究者が満足に育たず、在野の研究者や好事家に依存するしかなかったともいえる。
いまでこそ日本の縄文時代の文化は、類例を見ない土器の芸術的な形状から世界的に注目されているし、先土器(プレセラミック)時代あるいは打製石器時代と規定されていた旧石器時代Click!の遺跡から、素焼きとみられる土器Click!や磨製石器Click!が戦後次々と発見され、世界の常識や通説を180度ひっくり返す、まさにコペルニクス的な転換をした日本の旧石器時代遺跡も、海外の考古学会から特に注目を集めている。換言すれば、1945年(昭和20)の敗戦後になってようやく、自国の歴史に泥を塗りつづけた大日本帝国の「日本史」が止揚され、偏見や先入観のない科学的かつ実証主義的(感情的・宗教的・神話的ではなく論理的)な研究が可能になったということだ。
大里雄吉のすごいところは、戦後に本格的な学術調査が行なわれる遺跡のほとんどについて、大正期から昭和初期にかけすでに発掘を行っており、戦後は彼の記録を参考にしながら本格的な調査・研究がなされた遺跡も少なくない。たとえば、戦後に大がかりな発掘調査が行なわれた静岡県の登呂遺跡は、大里が大正末からすでに遺物を発見しており、1927年(昭和2)には早くも土器の側面に付着した籾殻跡から、水田跡をともなう規模の大きな弥生遺跡を予告している。これはほんの一例にすぎないが、大正期から戦前にかけての彼の調査から、戦後に発掘された遺跡群については、発見の端緒として必ず多くの資料に大里雄吉の名前が登場している。実は、下落合の目白学園落合遺跡の発掘も、大正期の大里雄吉による調査報告に由来している可能性が高い。
たとえば、1984年(昭和59)に発行された「東京考古」4月号収録の織笠昭『石器形態の復元』には、大里雄吉が発見した旧石器について次のように述べている。
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第二次世界大戦前から戦後にかけて採集され発表された資料のいくつかは、岩宿遺跡の発掘以降に先土器時代の所産としてあらためて注目されることになった。(中略) 大里雄吉氏と氏の採集した石器もまた学史のなかに記憶しておくべきだろう。(中略) ここにとりあげる石器も大里氏というひとりの個人的な努力によって半世紀の長きにわたり保管されていたものである。こうした努力については、大里氏の研究のいくつかをみても明らかである。大里氏は自身の見聞きした新発見の遺跡をまとめ地名表として発表している(略)。また雑誌に論文を投稿する他に『土器石器』という雑誌を主宰したりパンフレットを発行することによって、埋もれた資料・学史の掘り起こしに努力されている。
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大正期、大里雄吉は日本橋区蛎殻町3丁目12番地に住んでいたが、昭和期に入ると杉並区天沼1丁目55番地(のち天沼2丁目9番地)に転居しており、そこで武蔵野文化協会に参加して盛んに東京各地の遺跡を発掘調査している。その日常的な活動が、戦後になって東京郊外だった特に豊多摩郡や北豊島郡、荏原郡などの遺跡発見・発掘に直結した様子がうかがわれる。彼の興味は東京だけでなく、近県の関東地方全域におよび、さらには北海道や東北、中部、関西にまで足跡を残している。また、彼は考古学以外にも民俗学や文学(特に石川啄木Click!について)、中国文化史などにも造詣が深く、いくつかの研究書を発表している。
大里雄吉は、下落合の丘上ではどのような地点の発掘調査を行っているのだろうか。1928年(昭和3)に岡書院から出版された、東京帝国大学が編纂している『日本石器時代遺物発見地名表 追補第1/訂5版』より、落合町のみをリストアップしてみよう。ちなみに、戦前につかわれていた「石器時代」というネーミングは、旧石器時代や縄文時代、弥生時代を区別することなく、すべてゴッチャにした日本の「原始時代」という概念だ。
①落合町 下落合 近衛新町 土器
②落合町 下落合 薬王院附近 土器
③落合町 下落合 大上 土器
④落合町 下落合 大上 自性院ノ東ノ丘陵 土器
この中で、①の「近衛新町」については以前の記事でも触れているが、②の「薬王院附近」とはどこのことだろう。時代は昭和最初期で、下落合横穴古墳群Click!は未発見(1966年発見)であり、同寺東側の一帯からは縄文・弥生期の土器片が頻繁に見つかるエリアだ。新宿区による埋蔵文化財包蔵地の試掘調査で、2005年9月には野鳥の森公園つづきの解体された住宅の跡地から、縄文・弥生期の土器片が発見されたし、つい先日、2024年9月にも同公園の南側に建っていた住宅跡地から土器片が採取されている。
だが、「薬王院附近」が同寺の西側であれば、以前に「摺鉢山」Click!の小名とともに想定した下落合摺鉢山古墳(仮)Click!のエリアにかかるため、土器片ではなく埴輪片Click!だった可能性もありそうだ。このあたり、関東には大規模な古墳Click!は存在しない……などといわれていた当時の「常識」=皇国史観Click!を踏まえると、大里雄吉がどこまで土器片と埴輪片を区別していたかは不明だ。③の「大上」は、おそらく目白学園Click!の丘一帯のことだろう。敗戦直後から現代まで、大規模な発掘がつづいている目白学園落合遺跡Click!に眠っていた、縄文・弥生・古墳期のいずれかの土器片だとみられる。
④の「自性院ノ東ノ丘陵」は、地理的にいえば葛ヶ谷(西落合)エリアで渋澤農園があったあたりだ。大正末になると、佐伯祐三Click!の連作「下落合風景」Click!の1作「渋澤農園分譲地」Click!として宅地造成が進んだ一帯で、大里雄吉は樹林が伐り倒された赤土が露出する開発予定地で、記載の土器片を採取しているのかもしれない。
また、自性院Click!は境内西側から古墳の羨道とみられる横穴が記録されており、同寺自体が古墳上に築かれた可能性がある。したがって、薬王院ケースと同様に「土器」とは書かれていても、埴輪片だった可能性もありそうだ。ちなみに、自性院の所在地はいまは西落合となっているが、大正期の当時は「下落合大上」エリアに含まれていた。大里雄吉は、残念ながら当時の葛ヶ谷Click!(西落合)地域へは、本格的な調査の足を伸ばしていないようだ。
さて、上掲の①~④の発掘地点を見ると大里雄吉の発掘調査ポイントと、鳥居龍蔵+守谷源次郎の調査チームのそれとがまったく重複していないことにお気づきだろうか。大里雄吉は、おもに下落合の丘上にある「石器時代」遺跡を調査し、鳥居龍蔵+守谷源次郎チームは上落合の全域と、目白崖線の急斜面を中心に古墳の調査を実施している。これは換言すれば、鳥居龍蔵+守谷源次郎の発掘調査チームは、下落合の丘上はすでに大里雄吉が大正期から調査をしていた(あるいは調査をつづけている)のを知悉しており、それ以外の場所を選んで調査を実施していた……とも解釈できるのだ。
もちろん、1901年(明治34)生まれの大里雄吉は、30歳ほども年上の大先輩である鳥居龍蔵をよく知っていただろうし、事実、講演会をともにすることも多かった。1920年(大正9)7月24日に、鳥居龍蔵と大里雄吉が同席した東京帝大での講演会の様子を、武蔵野文化協会が刊行する「武蔵野」第3号から引用してみよう。
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安倍叔君は大学内の史蹟として旧前田邸を大学へ寄付せられしことより構内の石像並に古墳等の紹介をされた。次に上羽貞幸氏は西ヶ原の貝塚が煙滅せんとしつゝあることを警告せられ。盥田力蔵氏は越中島に於ける陶磁片の研究談あり。次に鳥居龍蔵氏は浅草待乳山の有史前の考察談ありて小憩し三島海雲氏より其研究になる清涼飲料にして且つ特効栄養剤たるカルピスの説明及び実物の御披露ありて一同其美味を賞した。次に井下清氏の浅草公園古墳盛土と待乳山の土質研究談、大里雄吉氏の岩淵町の遺跡談等あり尽る処を知らざるも門限のある関係上十時少し前閉会散会した。
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これは、武蔵野文化協会が東京帝大の会場を借りて開催した講演会の様子だが、三島海雲Click!がカルピスClick!についての研究発表を行っているのが面白い。彼もまた、武蔵野文化協会の会員だった。鳥居龍蔵と、その発掘調査チームが発表した待乳山古墳Click!や浅草寺境内の古墳群Click!のレポートも興味深いが、東京帝大のキャンパスにあった旧・加賀藩前田家上屋敷の古墳とは、同屋敷庭園の築山Click!のひとつにされていた「椿山古墳」のことだろう。同古墳は保存されず、現在は赤門脇の総合研究棟から医学部の南側一帯に墳丘群があった。
余談だが、下落合1500番地に建っていた落合第一府営住宅Click!18号に住み、外務省へ書画骨董などの海外輸出について、執拗に問い合わせを繰り返していた大里雄吉Click!という人物がいるが、同姓同名の別人だろうか。考古学者の大里雄吉は、日本橋区内と杉並区内での居住は確認できるが、落合町ないしは淀橋区下落合での居住記録は見あたらない。もし、下落合の大里雄吉が同一人物であれば、より詳細な目白崖線沿いの調査記録があってもよさそうなのだが……。また、もうひとつ余談をつづきのエピソードだが、鳥居龍蔵は1953年(昭和28)の1月に下落合の国際聖母病院Click!で、肺炎のため82歳で死去している。
◆写真上:1920年(大正9)の夏、京王線の柴崎駅前に集合した武蔵野文化協会の遺跡調査チーム一行。この日は、調布周辺の遺跡調査が目的だが、各時代ごとに興味のある調査チームに分かれて目的地の遺跡へ向かっているようだ。
◆写真中上:上は、落合斎場裏にあたる斜面の横穴古墳群を発掘中の鳥居龍蔵(右)と守谷源次郎(左端)の調査チーム。下は、1924年(大正13)に日本学術普及会から刊行された「歴史地理」11月号の大里雄吉の「石器時代遺跡新発見地名表」。
◆写真中下:全国にわたる「石器時代」の遺跡を網羅する、1928年(昭和3)に東京帝国大学が編纂し岡書院から出版された『日本石器時代遺物発見地名表』。大里雄吉の発掘成果も同書に掲載されているが、その発見数と調査遺跡の多さに圧倒される。
◆写真下:上は、調布の光照寺で発見された板碑を調査中の武蔵野文化協会メンバー。中は、深大寺付近で休憩する同協会メンバー。調査には、家族連れも参加していたようだ。下は、2005年(平成17)9月に下落合4丁目の丘上を試掘調査する新宿区の考古学チーム。この調査では、縄文時代と弥生時代の遺物(土器片)が出土している。