佐伯祐三アトリエの「裏」の中村善策アトリエ。 [気になる下落合]
親父が風呂へ入ると、気持ちよさそうに呻っていた謡曲「隅田川」Click!や、唄っていた唱歌「鎌倉」Click!のほかに、北大寮歌の『都ぞ弥生』がある。なぜ、縁もゆかりもない北海道大学の寮歌を唄っていたのかは不明だが、わたしも聴きおぼえて「♪都ぞ弥生の雲紫に~花の香漂う宴遊の筵~」と、なんとか2番ぐらいまではいまでも唄える。そんな北大寮歌にしっくりくる風景画を描いた画家が、落合好きな中村善策Click!だ。
北海道は小樽出身の中村善策が描く、明るい色調と独特な構図の風景作品を評して、洋画界では「善策張り」と呼ばれていたそうだ。「劉生張り」という言葉が示すように、当時の独自な個性やオリジナリティを象徴する表現は、よく「〇〇張り」と呼ばれた時代だった。同郷で知りあいだったとみられる小林多喜二Click!も、彼の画面には惹かれていたようで、友人あての手紙にこんなことを書き残している。1936年(昭和11)にナウカ社から出版された、『小林多喜二日記』収録の「斎藤次郎への手紙」から引用してみよう。
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一九二八年十月二十日
最近こつちで画の展覧会を沢山見てゐる。中村善策の個展は、蓋し、然し何んと言はふと素晴らしいものだと思つた。最近の画は昔程の、君の所謂「色彩の交響楽」はなくなつたが、時代順に見てくると、そこから、抜けて来たのだ、といふ気がした。今日は大地社を見る。島田(正策)も本気にやつてゐる。安心してくれ。(カッコ内引用者註)
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中村善策は、1918年(大正7)に神戸YMCA外国語学校英語科に入学すると、そのまま神戸で就職するが、小樽洋画研究所が主催する展覧会へ作品を応募しつづけている。1922年(大正11)にはスペイン風邪に罹患し、一時は神戸で危篤状態に陥るが、足の関節に後遺症が残ったもののなんとか回復して故郷に帰った。このときから、小樽洋画研究所へ通い本格的に絵画の勉強をはじめている。
1924年(大正13)3月、23歳で東京にやってきて滝野川で間借りし、翻訳の仕事をしながら川端画学校へ通っている。翌1925年(大正14)には、第12回二科展へ『風景』を出品して入選、1926年(大正15)の第13回二科展では『海の見える風景』『夏の港街』『窓外展望』の3点が入選しているので、画家としては順調なすべりだしといえるだろう。だが、1928年(昭和3)に舞子夫人との結婚を機に、再度小樽へともどっている。そして、1931年(昭和6)に新美術家協会への入会とともに、小樽から下落合へと転居してくる。
このとき、下落合のどこに引っ越してきたのかアトリエの住所が不明で、鈴木良三の記憶も曖昧だ。そのときの様子を、1999年(平成11)に木耳社から出版された梶山公平Click!・編『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』では、次のように記述されている。
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昭和元(一九二六)年三十歳で落合も高田馬場近くに住み画家としての本格的な生活に入った。今の中井辺にあたる。このあたりは太平洋画会の永地秀太、一水会の新開(ママ:新海)覚雄、酒井亮吉、中出三也、甲斐仁代夫妻の諸氏も住んでいた。
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中村善策が、下落合へやってきたのは1931年(昭和6)のことで、鈴木良三の記憶には齟齬が見られる。1926年(大正15)なら、彼はまだ25歳だ。
また、落合地域に住む方がこの文章を読んだら、頭が混乱してわけがかわらないのではないだろうか。「高田馬場近く」に住みながら「中井辺」(中井駅近く)と書いているが、下落合東端の山手線線路から中井駅までは、直線距離でたっぷり1.7kmもある。また、「中出三也、甲斐仁代夫妻」Click!が当時住んでいた上高田422番地は、山手線の線路から直線距離で2.8kmも離れている。「高田馬場近く」としながら、これでは落合地域の東西約3km以内のどこかにアトリエがあったことになり、さっぱり見当がつかないのだ。
さらに、鈴木良三は「一水会」としているが、これはのちに中村善策が属する美術団体(すなわち鈴木良三がこの文章を書いた時点での所属団体)で、当時は新美術家協会に所属していた。同会の仲間には、蘭塔坂(二ノ坂)Click!上に住んでいた新海覚雄Click!がいるので、ひょっとすると金山平三アトリエClick!も近い下落合2080番地界隈に住んでいたのかもしれない。この間、彼は二科展や新美術家協会展などに出品しつづけ、1934年(昭和9)には北海道芸術家協会会員に、1936年(昭和11)には第23回二科展に『白い燈台』『独航船』を出品し、二科特待賞を受賞している。
また、この時期に「日本美術年鑑」の記録によれば下落合から豊島区長崎南町3丁目4110番地へと転居している。この番地は下落合のすぐ北隣り、目白通りをはさんで下落合側にある小野田製油所Click!の斜向かい、落合第三府営住宅Click!の真向かいにあたる一画だ。目白通りをわたり南へ下れば、目白文化村Click!を縦断し中井駅のある目白崖線の坂下へと抜けることができた。同じ新美術家協会の仲間だった新海覚雄アトリエまでは、当時の道筋をたどれば徒歩7~8分でたどり着いただろう。
翌1937年(昭和12)になると、二科会を脱退した安井曾太郎Click!や有島生馬Click!が結成した一水会に参加し、第1回展には『けむり』『山と渓流』『ポプラの道』を出品して、会員に推薦されている。また、新美術家協会展にも出品しつづけ、写生旅行がつづく多忙な制作のかたわら、1939年(昭和14)に教育美術振興会から『クレパス画の描き方』を出版するなど、このころから美術教育に関する著作を多く手がけはじめている。
さて、下落合へ再び転居してくるのはこの年だ。中村善策の画集や図録の年譜では、1943年(昭和18)に「下落合へ移る」としているものが多いが、『クレパス画の描き方』(1939年)の奥付を見ると、すでに下落合2丁目666番地となっている。したがって、長崎南町から下落合への転居は1938~1939年(昭和13~14)のころだと思われる。またしてもごく近所に転居しており、長崎南町の旧アトリエから下落合の新アトリエまでは、直線距離で640mほどしか離れていない。すなわち、中村善策の新アトリエは、下落合2丁目661番地の佐伯祐三アトリエClick!(当時は佐伯米子Click!アトリエ)に近接した区画だ。
再び、前掲の『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』の証言から引用してみよう。
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そして昭和十八(一九四三)年になって佐伯君の裏へ引っ越して来たのであった。善策さんは非常な名文家でもあり、『山下新太郎先生制作余談』や油絵の描き方や風景画の実技、油絵のスケッチ、風景画の四季淡彩スケッチの描き方、風景画の技法分解などを書き、和歌も、書も、日本画もなかなかうまくこなした。殊にいい喉をして江差追分を歌わせると実に名調子で、聴衆をホロリとさせるものがあった。
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鈴木良三は、下落合への再転居を1943年(昭和18)としているが、これは当時の画集や図録に掲載されていた年譜の誤記を踏襲したものだろう。
さて、1938年(昭和13)現在、下落合2丁目666番地には10軒もの住宅が建っている。このうち、明らかに以前から住んでいた住民は、八島知邸Click!と納三治邸Click!で変わっておらず、残りの8軒のうちのいずれかが中村善策アトリエということになる。この中で、納三治邸の庭先にある小さな1軒の貸家は除いてもよさそうだ。なぜなら、この貸家は吉田博・ふじをアトリエClick!の真向かいにあり、もしこの住宅が中村善策のアトリエだとすれば、鈴木良三は「佐伯君の裏」あるいは「佐伯君のアトリエと直ぐ背中合わせ」とは書かず、当時は鶴田吾郎Click!とともに訪問していた吉田アトリエの前と書いていたはずだからだ。
そう考えると、佐伯祐三アトリエの正面玄関を「表」とすれば、その「裏」(北北西側)であり「背中合わせ」にある住宅とは、八島知邸の敷地北側に建っていた3軒の666番地の住宅のうちいずれか1軒、さらには北から南へと入る袋小路の突きあたり、すぐ西側に建っている住宅がもっとも佐伯アトリエに近く、“怪しい”ということになる。あるいは、「背中合わせ」を優先すれば、星野通りClick!(八島さんの前通りClick!)に玄関が向いて建つ、いちばん西端の家が「(住宅の)裏」同士が向きあっていることになり、「背中合わせ」の中村善策アトリエということになるだろうか。
1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、屋敷林に囲まれた佐伯アトリエは延焼をまぬがれたが、すぐ北北西側にあった中村善策アトリエは全焼している。二科展へ出品したすべての作品と、他のタブローあわせて200点以上が焼失しているが、中村夫妻は長野県へ疎開していて無事だった。戦後、中村善策は下落合でのアトリエ再建をあきらめたのか、上落合へ転居している。どうやら、中村善策も落合地域の風情に惹かれたひとりのようで、死去するまで同地域を離れていない。
戦後のアトリエは、上落合1丁目217番地(現・上落合1丁目8番地)の小さな住宅を購入している。だが、しばらくすると増築して本格的なアトリエやリビングと、2階部を拡張する大がかりなリフォームを実施している。このころには、スペイン風邪の後遺症である足の関節炎が悪化したためか、ステッキを手に写生旅行へでかけるようになっていた。
◆写真上:1951年(昭和26)に制作された、中村善策の生まれ故郷『小樽港』。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)制作の中村善策『独航船』。中上は、1937年(昭和12)制作の同『けむり』。中下は、同年制作の同『椿の庭』。下は、1939年(昭和14)出版の同『クレパス画の描き方』(教育美術振興会)中扉(左)と奥付(右)。奥付を見ると、すでに下落合2丁目666番地に転居済みだったことがわかる。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる下落合2丁目666番地界隈。中上は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された同番地界隈。中下は、下落合2丁目666番地の中村善策アトリエがあった区画(右手)。下左は、1978年(昭和53)に撮影された制作中の中村善策。下右は、新美術家協会に集った若い画家たちを描いた竹田道太郎『画壇青春群像』(雪華社/1960年)。
◆写真下:上は、1940年(昭和15)に制作された中村善策『秋』。中上は、1953年(昭和28)に制作された同『日本橋附近』。2041年といわず、ぶざまな高速道路を取っぱらったまともな日本橋Click!のこのような姿を1日でも早く見たい。中下は、1964年(昭和39)に制作された同『石狩の野』。下は、1968年(昭和43)に制作された同『張碓のカムイコタン』。
★おまけ
1957年(昭和32)の空中写真と1960年(昭和35)の「東京全住宅案内帳」にみる、上落合1丁目217番地の中村善策アトリエ。袋小路の奥に建てられているが、同アトリエはつい最近まで現存しており、中村彝アトリエClick!の現存を確認したとき以来の驚きだった。