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昔日の乾漆像を復活させた山本豊市。 [気になる下落合]

山本豊市アトリエ跡.jpg
 つい最近知ったのだが、もの心つくころ湘南電車Click!(東海道線)に乗って横浜や東京へ出るとき、いつも目にしていた大船駅前の大船観音寺(曹洞宗)に建立されている大船白衣観音(びゃくいかんのん)を、戦後に改めて完成させたのは、下落合1丁目297番地にアトリエをかまえていた彫刻家・山本豊市なのだそうだ。
 大船観音が計画されたのは戦前だが、戦争で工事がすぐにいき詰まり、山本豊市が観音の面差しを含めてデザインし、1960年(昭和35)にようやく完成している。おそらく、完成からしばらくして親に連れられ同寺を訪れているのだろう、白亜の巨大な観音前の階段で撮影された、小学校低学年ぐらいの写真がわが家のアルバムに残るが、わたしはおぼろげな記憶しかない。むしろ、同観音の北東側にあった横浜ドリームランド(廃園)へと向かう、モノレールの駅(確かすぐに廃止)のほうが印象に残っている。
 大船観音は戦後、第二次世界大戦で犠牲になったアジア全土の死者、および広島と長崎の原爆犠牲者を弔うためのシンボルとなり、今日でも境内には色とりどりの折り鶴が絶えない。大船観音は、ことのほか女性らしい容貌をしているが、山本豊市はその面差しを制作するにあたり、奈良市にある法華寺の本尊・十一面観音立像を想起しながら創作したと書いている。わたしも何度か訪れている、法華寺の十一面観音は好きな仏像のひとつで、柔和な表情だが唇に残る朱色が妙になまめかしい印象を受ける。蓮の花や葉が飛翔する光背(こうはい)に、当初の彩色が薄っすらと残る同観音像は面白いので、確か中学の夏休みに美術の宿題で水彩に描いて提出したけれど、洋画がベースの美術教師から「なんだこれは?」と、一顧だにされなかった思い出がある。w
 大船観音について、1979年(昭和54)7月28日に発刊された日本経済新聞より、山本豊市のエッセイ「わが心の像」から引用してみよう。
  
 ところで私は、戦後間もなく、つくりかけのまま放置されていた鎌倉市にある大船の大観音を新たに作り上げたことがある。観音の頭上にいただく化仏の大きさが身のたけ1メートル50ほどもあろうかという大きな観音だった。30分の1ぐらいのミニチュアを作って拡大した。その制作の間じゅう、この十一面観音の顔が脳裏にシュッシュッと現れては消えた。
  
 化仏(けぶつ)だけで1.5mもあるケタちがいのサイズだが、鎌倉や奈良の大仏よりもはるかに大きく、半身の高さが25.39mもある大観音だった。
 東京出身の山本豊市が、新宿御苑近くのアトリエ周辺が戦災で焼け野原となり、下落合に転居してアトリエをかまえたのは敗戦直後のことだ。下落合1丁目297番地は、ちょうど北側に御留山Click!を背負う南斜面で、丘下の雑司ヶ谷道Click!(鎌倉支道)の南側にはいまだ工場や水田が拡がり、アトリエからは新宿駅東口の「中村屋の土蔵造りの屋根」が見えたと回想している。新宿御苑の近くにアトリエをかまえたのは、1929年(昭和4)に5年間のフランス留学から帰国してすぐのころだった。
 1899年(明治32)に東京で生まれた山本豊市は、戸張孤雁Click!に師事して彫刻を学んでいる。1924年(大正13)に念願のフランスへ留学すると、グラン・ショミエールに通いながら彫刻家ブルデルについて学んでいるが、「君の彫刻は彫刻ではない、絵だ」といわれてしまう。ここまでは、拙サイトではおなじみの清水多嘉示Click!とまったく同じ経路だが、清水多嘉示がブルデルのもとにとどまり学びつづけたのに対し、山本豊市は弟子はとらないといわれていたマイヨールに強く魅かれている。
 そこで、山本はマルリー・ル・ロワにあるマイヨールのアトリエを訪ねると、弟子はとらないが作品は見てやるということになり、近所に転居した山本は制作した作品を批評してもらいに、ほぼ毎日マイヨールのアトリエへ通うようになる。ときにマイヨールは、山本のアトリエにやってきて指導してくれることもあったようだ。こうして、ロダンから本格的にはじまる日本の近代西洋彫刻は、ブルデル(清水多嘉示)とマイヨール(山本豊市)の系譜がそろい、両者が帰国するとともに大きく開眼していくことになる。ちなみに、清水多嘉示Click!と山本豊市は1929年(昭和4)にふたり仲よく連れだって帰国しているので、師事する彫刻家は別でも留学中は親しく連絡をとりあっていたのだろう。
大船白衣観音像(大船観音寺).jpg
法華寺十一面観音立像.jpg
不空羂索観音立像(東大寺法華堂).jpg
阿修羅像(興福寺).jpg
 さて、山本豊市というと彫刻家として知られているが、奈良時代の乾漆技法を現代によみがえらせた人物としても有名だ。奈良期の乾漆像といえば、すぐにも東大寺三月堂(法華堂)の不空羂索観音立像(ふくうけんじゃくかんのんりゅうぞう)や、興福寺の阿修羅像が思い浮かぶが、これら高名な乾漆像がどのような技法や制作過程で造られたのか、その技術が途絶えて詳細は不明だった。それに興味をおぼえた山本豊市は、試行錯誤を繰り返しながら現代版乾漆像の創作に成功している。
 乾漆像はブロンズ像とは異なり、特に人体を制作した際に表面(肌面)が金属質の光沢をもちすぎず、しっとりと潤いのある質感を表現できる。やや時間が経過した乾漆像は、地肌の透明感が増すのか人体をそのまま固めたような、リアルで生々しい味わいが生じるように見える。また、人体に限らず布やモノなどもテカテカ光りすぎず、落ち着いた雰囲気を醸しだせるメリットがある。だが、半永久的に保存できるブロンズ像とは異なり、乾漆像は長時間が経過するとヒビ割れや剥脱の劣化が進むので、漆表面の定期的なメンテナンスが必要となるデメリットも付随するだろう。
 山本豊市は帰国後、奈良や京都などをまわって仏像を研究するが、乾漆技法に惹かれた直接の原因は、昭和10年代には「非常時」の戦時体制となり、彫刻に必要な物資が不足したからだという。ブロンズなど金属はもちろん、石膏や粘土など彫刻には不可欠な材料が手に入りにくくなったためだ。戦時下では、金属不足でブロンズ像を鋳造できないため、石膏像に着色して出品する彫刻家も多かったようだ。だが、石膏像に色を塗るのがイヤだった山本豊市は、戦時でも不足せずふんだんにある漆に目をつけた。そして、ブロンズ像の代わりに乾漆像の制作を思い立つ。
 1936年(昭和11)の改組第1回帝展には、早くも乾漆彫刻として制作された『岩戸神楽』が出品されている。戦後の代表作としては、1955年(昭和30)制作の『裸女』をはじめ、1957年(昭和32)制作の『とぶ』、1963年(昭和38)制作の『仰』、さらに1968年(昭和43)制作の『立女』と、コンスタントに乾漆作品を発表している。そして、1970年(昭和45)ごろになると、展覧会では出品する乾漆彫刻の点数が増えていったようだ。
山本豊市「無題」乾漆.jpg
山本豊市「坐女」1949.jpg
山本豊市「坐女」乾漆.jpg
山本豊市「髪」乾漆部分.jpg
 当時の様子を、1972年(昭和47)に三彩社から出版された『画室訪問』に収録の、1970年(昭和45)に行われたインタビュー「山本豊市」から少しだけ引用してみよう。
  
 ――しかし、今、乾漆といえば唐招提寺の鑑真和上像とか、興福寺の阿修羅像などが、直ぐ思い出される乾漆の名作ですけれど、いちばん盛んだった奈良時代以降、この伝統は断絶していたんでしょう。研究のためにはどんな資料がありましたか。
 「何もないんですよ。乾漆の技術は中絶しましたけれど、漆そのものは伝っていましたし、乾漆の作り方も一応聞いていました。しかし漆のことはよくわからないのでまづ(ママ:まず)漆の勉強から始めたわけです。ある老人の塗師がいましてね。その人に来て貰って勉強しました。この老人ひどい聾でしてね。二人で話していると声が大きくなるので、まるで喧嘩してるみたいなんですよ。またこのおじいさんは親切な人でいろいろの資料を探して来てくれましてね。とても助かりました。」
  
 1970年代の初めごろから、山本豊市の展覧会ではブロンズや木彫り、大理石、テラコッタなどよりも乾漆彫刻の作品が増えていったようだ。
 山本豊市の手法は、やはり奈良期の仏像に多い塑像Click!でまず下地をつくり、その表面を漆でコーティングする技術で、一見すると金属のように感じるが手でなでると木彫りに近いような感触だったらしい。その感触を、実際に触ってみた柳亮は『彫刻の10人』(日動画廊/1959年)の中で、「木よりは緻密で表面張力に富み、金属のように光を撥ね返えす硬さはなく、中和な光沢と滑らかさのうちに、肉づけのもつ弾力や材質からくる作調の暖かみを有効に保有させる利点」をもっていると書いている。
 乾漆彫刻の質感は、たおやかな仏体を表現するのに適していたように、山本豊市にとってはやわらかな人体を表現するには最適な技法だったのだろう。ブロンズ像は、いくらやわらかな曲線で表現しても、金属の硬さや冷たさのほうが勝ってしまうが、乾漆像は指で押すとへこみそうな弾力性や、体温を感じさせる表現が可能なように見える。
山本豊市アトリエ1960.jpg
山本豊市1984.jpg
山本豊市@下落合.jpg
山本豊市「三人」新樹会展1961「協力の像」.jpg
 下落合の山本豊市は、新宿区に関連する作品も残している。新宿中央公園には、1457年(康正3)に江戸城Click!を築いた太田道灌Click!にちなむ山吹の里Click!伝説『久遠の像』が建っており、また東京メトロの新宿駅プロムナードには地下鉄建設にちなむレリーフ『協力の像』が設置されている。だが、『協力の像』は山本豊市が新樹会展に出品した『三人』(1961年)と同一の作品であり、当時の営団地下鉄が流用を依頼したものだろうか。

◆写真上:下落合1丁目297番地の、山本豊市アトリエ跡の現状(左手)。
◆写真中上は、大船駅を通過するたびに目につく大船観音寺の大船白衣観音像。中上は、大船観音の制作中に山本豊市が想い浮かべていた奈良・法華寺の十一面観音立像。中下は、乾漆像といわれて思い浮かぶ東大寺三月堂(法華堂)の不空羂索観音立像。は、乾漆像の代表作で認知度が高い興福寺の阿修羅像。
◆写真中下は、制作年不詳の山本豊市『無題』(乾漆)。中上は、1949年(昭和24)制作の同『坐女』(乾漆)。中下は、そのバリエーションとみられる制作年不詳の同『坐女』(乾漆)。は、制作年不詳の同『髪』(部分/乾漆)。
◆写真下は、1960年(昭和35)に作成された「東京全住宅案内帳」にみる山本豊市アトリエ。中上は、1984年(昭和59)に撮影された空中写真にみる同アトリエ。中下は、下落合のアトリエで制作する山本豊市。は、1961年(昭和36)制作の山本豊市『三人』(ブロンズ)。なぜか、東京メトロ・新宿駅のプロムナードでは、レリーフ『協力の像』とタイトルされ設置されている。新宿駅の地下鉄工事および地下街建設で、営団+国鉄+新宿区の3者協力を記念したものだろうか。でも、なぜ3者のシンボルが全裸の女性なのかは不明だ。

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