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ネコの身体にトラネコの痕跡を探す。 [気になる猫]

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 謹賀新年
 今年は、1950年(昭和25)以来の寅年(庚寅:かのえとら)ということで、突然だけれどうちの♀ネコClick!の身体に残る、トラネコの痕跡を意味もなく探してみたい。うちのネコは、下落合の野鳥の森公園に棄てられていたのを拾ってきた、純粋な日本の血統書なし正真正銘Click!の野良雑種ネコだ。2001年(辛巳)の初夏に生まれたようだから、いま満8歳ということになる。
 九条武子邸Click!の庭先で餌づけされてかわいがられ、曾宮一念Click!のアタマを抱えさせ、ひょっとすると佐伯祐三Click!一家とともにパリ郊外のクラマールまで、三味線を弾きに憑いていき夢の中に化けて出たClick!かもしれない、地付き下落合ネコの40代ほど経過した末裔なのだ。
 さて、まず目につくのが両眼のすぐ上の額正面にある、キジトラ(黒トラ)の模様。この模様のせいで、まるでアタマの上にセンター分けの髪の毛があるように見えるのだ。それから、頭部から顔の横へとつづく右頬のやはりキジトラ模様は、歌舞伎の「曾我五郎十郎」の隈取りのような、あるいは新幹線が横揺れして手元が狂い、アイラインを引き損なった(右頬にはみ出してしまった)、出張中のビジネスウーマンみたいな様子をしている。
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 次に目立つのが、これまたキジトラ模様がブチッと入った右足の太腿。白毛が大半の胴体に、なぜかここだけキジトラの植林があり、遠目で見ると太腿にタトゥーを入れた、壷振りのお姐さんのような風情なのだ。そして、最後に大々的なトラ模様が入っているのが、壷振りのお姐さんには見られないシッポ。その模様は複雑で、茶トラとキジトラとが織りなす複雑な合いの子模様をとなっていて、まさに雑木林のような状況だ。さすがに、武蔵野で育った純下落合ネコの系譜なのだ。
 以上、全身で4ヶ所のトラ模様が入ったうちの♀ネコは、高い声を上げる若い女の子が大の苦手で、「キャーッ、超かわいー!」とか「わーっ、ニャンコだぁー!」とかの黄色い声を上げて不用意に近づこうものなら、シャーッと威嚇音を出して毛を逆立て、手を出せばガブッClick!と噛みつかれてたちまち血を見ることになる。ご機嫌がナナメだと、なぜか飼い主のわたしもとばっちりを受けて噛みつかれ、ときどき出血することもあるから、彼女のご機嫌をとるのはけっこうたいへんだ。
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 プライドが高く、魚介類はアジ(マアジは食べるけどムロアジは食べない)、サケ(マスは食べない)、マグロ(カジキは食べない)、カツオ、ホタテの貝柱の5種類しか食べず、カニとシラス(無塩)と鈴廣のカマボコを少々、気が向けばちくわとバターをほんの少し・・・という具合で、他の魚や魚介加工品はいっさい受けつけずに埋めるという、到底ネコとは思えない嗜好をしている。それに、なぜか和菓子の和三盆で煮た小豆と、天津甘栗をほんの少しだけ味見するのが好きらしい。
 隣家の大きなゴールデンレトリバーが「ワンッワンッ!」と近づくと、窓の内側でそっぽを向き「おまえニャンか、相手にできないニャン」と知らん顔で無視しているけれど、たまにタヌキが路地を歩いたりすると、「おまえは誰ニャン!?」ととたんに大きな声で鳴いて呼び止めようとする。
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 もちろん、タヌキはネコなどハナから相手にしていないので、さっさと近所の畑へ向かって歩き去るのだが、しばらくの間、彼女は「タヌキがいたニャン! あんたも見たニャン?」と家じゅうにニャーニャー触れまわるので、タヌキが近くに来ていることを知ることができるのだ。

■写真上:額に入ってるキジトラ(黒トラ)模様で、ちょうど真ん中に白い分け目がある。
■写真中上が、右頬に入るキジトラの隈取り。が、右太腿に入るキジトラのタトゥー風植林。
■写真中下:シッポの表裏へ縞々状に残る、ご先祖ネコたちのキジトラと茶トラの密な痕跡。
■写真下は、シッポの先端。は、下落合♀ネコの全身像。


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ほっとくと冬眠しつづけるネコ。 [気になる猫]

 

 明けまして、おめでとうございます。本年もChinchiko Papalogを、よろしくお願い申し上げます。
  
 さっそく、わが家の元旦の朝は雑煮づくりからスタート。今年は、ピーコックストアに冷凍ものじゃない鴨の胸肉がたっぷりあったので、正調下町の雑煮をつくることができた。親の世代は、鴨肉をそのまま雑煮に入れていたが、わたしは長ネギといっしょに焼いてから、食べぎわに椀へ添える。そのほうが硬くならず、雑煮が脂っぽくならないからだ。鴨肉とネギを焼く、香ばしい匂いが家内に立ちこめても、うちのオバカなネコはなぜか起きてこない。もっとも、肉のたぐいはいっさい食わないネコなのだけれど・・・。
 昼になって、氷川明神の櫛稲田姫に初詣。元旦は混んでいたので簡単なお参りだけにし、破魔矢や御籤は2日にまわす。そのあと、「杏奴」でコーヒーを飲んでから帰宅。下のオスガキが、大晦日から38度を超える熱を出してダウンしていたので、朝はお節料理が売れなかったが、上のオスガキのガールフレンドが大晦日から年越しで泊まりに来ていたので、雑煮といっしょに片付けてもらう。
 周囲が正月の華やぎでにぎやかなのに、ネコは布団の中にもぐりこんだまま、ぜんぜん起きてこない。もともと、彼女とうちのネコ(♀/4歳)とは反りが合わず、顔を見るとシャーッと牙をむき出しにして、ときどき威嚇することがある。だから、大晦日から彼女の声が聞こえるので、「ふん、にゃにさ。誰が顔見せてにゃんぞやるもんか。にゃんともむかつく女にゃのさ」と、気位の高い牝ネコは起きてこないのかもしれない。大晦日、薬王院の除夜の鐘が鳴り始めてからずっとだから、かれこれ18時間も寝っぱなしだ。
 
 日が暮れて、冬空のオオイヌ座でシリウスが輝きだすころ、わたしは2回目の雑煮をつくったのだが、20時間をすぎてもネコは起きてこなかった。もう、完全に冬眠状態だ。ネコ科の肉食獣が冬眠するとは聞いたことないが、食事もせず、トイレにも起きず、ひたすら布団の中でグーグーいびきをかきながら寝つづけている。午後8時をまわって、さすがに「寝すぎだ」と家族が起こしにいくと、目のまわりをピンク色にしたネボスケ顔が、ふらふらノコノコ布団から這い出してきた。ほとんど、24時間ぶりの目醒め。一時は、意識がないんじゃないかと心配したくらい、よく寝るネコだ。
 案のじょう、24時間眠りネコは体力・気力ともに十二分で、それから数時間あまり、人がそろそろ寝ようかと思う時間に家じゅうを暴れまわったあげく、再び深夜、布団の中にもぐって寝てしまった。夏は数時間しか眠らないのに、冬はほとんど1日じゅう気持ちよさそうに寝ている。どこのネコも、こんな様子なのだろうか。

■写真上:爆睡20時間超の寝ぼすけネコと、元旦の食卓。
■写真下:神田上水の大滝橋近く、関口芭蕉庵に居ついてる双子の茶トラ。が「マツオ」で、が「バショー」。(わたしが勝手に、そう呼んでいるだけなのだが) 隣接する水神社には、常時10匹近くのネコがいるが、野良ネコは家ネコに比べて寿命が4分の1以下だという。冬場の寒さとともに、睡眠不足もあるのかもしれない。


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目白界隈のネコたち。 [気になる猫]

 わたしはイヌやネコを見つけると、つい近寄って撫でてしまう。その確率は、イヌのほうが多いだろう。・・・なぜか? ネコは人間の「されるがままにならない」から、こちらの思いどおりにはなかなか身体を触らせてくれない。そこがまた、人間を対等の“動物”と見ているらしい、ネコの面白味なのだろう。イヌとネコとどちらが好きか?・・・と問われると困るけれど、たとえばイヌのチワワとネコのキジトラならば、迷わずネコを取ってしまう。(シェパードとキジトラだったら迷うかもしれないが・・・)
  
 マヤは、こわれやすいものの間を自然に歩けるネコでした。人も、こわれやすい、はりめぐらされた関係の糸のようなものの間を、気にしていないような、しらん顔して歩きたいものです。
  
 これは、写真集『三春の小路~めじろ、わたしの猫たち~』(安藤三春著・2003年)に収められた、陶芸家・川崎毅氏の印象深い言葉だ。三春さんは、目白駅近くの自由学園明日館へと抜ける“F.L.ライトの小路”で、クラフト&アートのショップ「三春堂」を、日立目白クラブの道沿いではギャラリー「MIHARU」を経営されている。わたしも、下落合散歩のついでにときどきお邪魔をして、三春さんの楽しいお話をうかがう。また、「下落合みどりトラスト基金」では、パンフレットをショップとギャラリーの双方に置いてくださり、署名や募金で多大なご尽力もいただいている。
 
 そんな三春さんが出版された『三春の小路~めじろ、わたしの猫たち~』は、目白界隈で暮らすネコたちの様子をとらえた写真集。下落合もそうだけれど、目白通りをはさんで向かいの目白3丁目あたりも、ほんとうにネコが多い。四季折々、ネコたちの表情をつれづれ撮影したのがこの作品集だ。ネコは、あまり表情が変わらず、いつもすましているように感じるのだが、実は、感情の起伏に応じてさまざまな表情をしてみせる。気を許した人間だけにしか見せない、そんな無防備かつ感情があらわになった刹那の表情が、この写真集にはいっぱいだ。かくいうわたしの家にも、もともとは野鳥の森へ棄てられていた、そこいらの得体の知れない雑種ネコが1匹、居ついて暮らしている。
 「こわれやすいものの間を自然に歩けるネコ」という言葉に惹かれるのは、川崎氏の後段と同様、「こわれやすいものの間をうまく歩けない人間」という想いに、どこかで結びつくからなのか。それは、わたしの場合、人間同士が織りなす関係の難しさ・・・という意味ではない。こわれやすい自然を、ことさら意図的に破壊しようとする人間の姿は、ネコやタヌキの目から見れば、とても不器用で醜いありさまなのかもしれない。ネコ嫌いの人間はたくさんいるが、人間嫌いのネコやタヌキだって、下落合や目白にはたくさんいるだろう。

■写真上:たたきの上に残された足跡、「嵐の日のわすれもの」。
■写真下は、写真集『三春の小路~めじろ、わたしの猫たち~』(encounter the cats in Mejiro/安藤三春著/遊人工房・2003年)。は、TVをジッと見入る「Rei」。写真集はショップでも、サイト通販でも入手可能。


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予知能力が、あるのかないのか・・・? [気になる猫]

 誰かが帰ってくる5~10分ぐらい前になると、うちのネコはとたんに落ち着かなくなる。玄関のある方角へ向けて、ニャオニャオとうるさく鳴きつづける。家族の帰宅時間が一定なら、その習慣からなんとなくタイミングでわかるのだろうが、うちはみんなバラバラの時間に帰宅することが多い。それなのに、あたかもどこかのアンテナで察知しているかのように、なぜか帰宅直前にいきなりこのような状態になる。(写真上)
 不思議なことだと思いながら、そんな様子をいつも眺めているのだが、まるで盛りのついたネコのように、・・・いやネコなのだが、うるさくニャオニャオと喚きたてる。だんだんと家に近づいてくるのがわかるかのように、鳴き声は少しずつ高まっていく。そして、玄関の鍵がカチャッと音を立てると、まるで勝ち誇ったかのように、「どお、あたしの言ったとおりでしょ。帰ってきたわよねえ、ほら」・・・と、人の顔を得意げに見やるのだ。ちなみに、家族ではなく知らない人がやってくるときには、この反応はまったく起こらない。

 一度、上のオスガキが帰ってくる直前、やはりニャオニャオとわめいていたのだが、「ほら、帰ってきたでしょ、ネ?」・・・と満足げに振り向いたまではよかったが、そのあとにガールフレンドが「こんにちは!」とつづいて入ってくると、とたんに牙をむき出しにしてシャーーーッと威嚇した。「あんたなんか、待ってたんじゃないわよ!」と言っているかのようだった。それ以来、彼女はうちのネコが苦手になってしまったようだ。
 でも、このネコ、地震にはまったく鈍感なのだ。初期微動が始まってから、ようやく「ンニャ?」と眠そうな頭をもたげるだけ。どこまで信用していいのかわからない、いかにもネコらしい気まぐれ予知能力なのだ。

■写真「誰か帰ってくるのか?」・・・「おい、誰か帰ってくるのかよ?」・・・「ねえ、誰が帰って来るんだよう?」・・・「おいってば」、「うるさいわニャ!」。


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冬のヒナタ。 [気になる猫]

 「枯葉ネコ」だ。ちなみに、fuRuさんのブログにトラックバックさせていただいたけれど、ほんのわずかしかつながりが・・・ない。(><;☆\ ネコが、陽のあたった落ち葉の中でうっとりしている。とても気持ちよさそうだ。冬は野良ネコにとってはつらい季節なのだろうが、こういう楽しみもあるんだね。そういえば、わたしも枯葉の中で寝たことがあった。別にホームレスをしてたからじゃなくて(^^;、友だちと丹沢(神奈川県)へキャンプに行ったときのこと。
 ヤビツ峠からかなり入った、渓流沿いにテントを張っていた。でも、テントの中では暑苦しくていつまでも眠れず、外でそのまま寝るには風邪を引くのが心配・・・。夏山といっても、夜中はグンと冷えるのだ。そこで、身体を厚く積もった広葉樹の落ち葉でくるみながら寝てみた。ポカポカとほどよく温かく、テントの防水加工の臭いで息苦しくもなく(当時は、まだ布製テントと金属ペグの時代)、とても快適な一夜だった。
 子供のころ、海辺にあった黒松の防砂林の落ち葉を集めて、よく「陣地」を作っては遊んだこともある。なぜか厳冬に、この遊びをした記憶が多いところをみると、落ち葉で囲った「陣地」がとても暖かかったからに違いない。落ち葉にくるまるなんて遊び、いまの子は知らないだろう。大人がせっせと清掃し、ダイオキシンの発生源になるからと落ち葉焚きもせずにゴミ袋へ直行。からっ風に舞う落ち葉が温かいなんて、いまの子はたぶん知らないに違いない。


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