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大泉黒石が下落合にやってくるまで。 [気になる下落合]

溝口健二×大泉黒石「血と霊」1923.jpg
 大泉黒石Click!がぶっ飛んでいて面白いのは、ベストセラー作家になり原稿依頼が次々と舞いこみ多忙だったにもかかわらず、息子のひとり(大泉滉)と同様に俳優をめざしたことだ。今日ではめずらしくない“二刀流”だが、ベストセラー作家が活動(映画)俳優をめざすなど当時としてはありえないことで、彼が混血のハーフだったことによる“あいの子”差別ともあいまって、同業者(文壇)から反感をかったのではないか。彼が映画界に手をだしたことも、文壇から排斥されるきっかけになったのかもしれない。
 大泉黒石は1923年(大正12)5月、日本活動写真(のち日活)の俳優部を志望して、同社の向島撮影所へ入所している。もちろん、彼は世間に名の知られた作家であり、職業をふたつ持つことなど考えられない時代だったので、希望する俳優部ではなくシナリオライティングが専門の脚本部所属の顧問というポストへまわされている。人気の流行作家が映画会社に就職したということで、さっそく東京の新聞ダネにもなっている。
 当時の映画界は時代劇Click!が主流で、同時代の新派Click!と同様に女役も男の役者が演じるような環境だったが、大正中期の日活は松竹蒲田撮影所Click!から新進女優を引き抜いたり、『カリガリ博士』(R.ヴィーネ監督/1920年)などヨーロッパ前衛映画の影響を受けた作品の制作を試みたりと、時代の最先端をいく映画表現に挑戦する姿勢を見せていた。
 大泉黒石は、脚本部で『血と霊』という120枚ほどの短編を仕上げると、前年にデビューしたての新人監督だった溝口健二Click!と組むことになった。ちょうど、村山知義Click!がヨーロッパからドイツ表現主義を持ち帰り、月見岡八幡社Click!の南側にあたる上落合186番地の敷地へ「三角アトリエ」Click!を建設しているころだ。未来派美術協会Click!の解散から「マヴォ」Click!グループ結成と、大泉黒石のシナリオによる溝口健二『血と霊』の制作過程は、時期的にもみごとにシンクロしている。
 少し余談だが、大泉黒石によって築地小劇場へよくいっしょに連れていかれた息子の大泉滉は、1940年(昭和15)に制作された『風の又三郎』(島耕二監督/日活)の子役でデビューしている。戦後は杉村春子Click!のいる文学座Click!に所属して舞台や映画・ドラマで活躍することになるが、1952年(昭和27)に制作された溝口健二『西鶴一代女』(東宝)に出演し、田中絹代Click!と共演している。このとき、溝口健二が大泉滉へ父親と制作した映画『血と霊』について話題にしていたかどうかは不明だ。
 映画『血と霊』を溝口健二と制作しているのと同じ時期、大泉黒石は並行して『預言』を執筆している。だが、ちょうど関東大震災と重なってしまい、震災後に新光社から出版された同書(出版社が勝手に『大宇宙の黙示』とタイトルを変更してしまった)は、大震災の混乱の中で埋もれてしまいほとんど評判にならなかった。これは映画『血と霊』もまったく同様で、大震災直後の秋に公開されたため観客の入りがきわめて悪く、日活は以降、前衛映画の制作に二の足を踏むようになる。大泉黒石にとっては、重ねがさね不運な時代だった。
 このころの様子を、岩波書店から今年(2023年)に出版された四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』から、少し長いが引用してみよう。
  
 黒石が『預言』を世に問うにあたっては、いくぶん込み入った事情があった。関東大震災の直後、彼は瓦礫と化した雑司ヶ谷(ママ)に疲れ、郊外の下長崎(ママ)に転居。気分を一新して執筆を開始したまではよかったが、刊行にあたっては大震災の出版業界の混乱が災いした。/一九二四年四月、以前に『老子』で大評判を得た新光社がこれに飛びつき、大急ぎでそれを出版した。ところが困ったことに、出版社は作者の主張する『預言』という題名を無断で『大宇宙の黙示』という表題に変更して刊行したのだった。この鬼面人を驚かす題名は、あわよくば『老子』の二番煎じを狙ってのことである。杜撰なのは題名だけではなかった。書物には目次も章立てもなく、校正が不充分であったのか恐ろしく誤植が目立った。黒石は「自序」のなかで「文壇に対する私の心には、今や、軽蔑と冷笑のほかには何もない」と大見得を切ったものの、文壇からの反響はなく、大震災後の騒然とした雰囲気のなかで、『大宇宙の黙示』は何の話題にもならず埋没してしまった。
  
大石黒石「大宇宙の黙示」1923新光社.jpg 大泉黒石「豫言」1926雄文堂出版.jpg
雑司ヶ谷鬼子母神参道1919.jpg
雑司ヶ谷鬼子母神1919.jpg
 まず、「下長崎」は「南長崎」(当時は長崎村字椎名町)、あるいは「下落合」のどちらかだと思われる。文中では、「瓦礫と化した雑司ヶ谷」と書かれているが、東京郊外の高田町雑司ヶ谷は関東大震災による被害は軽微だった。
 もっとも大きな被害は、薬品棚が倒れ学習院の特別教室が全焼したもので、あとはレンガ造りの建物や脆弱な住宅などの外壁が崩れたか、場所によって住宅の屋根瓦が落ちた程度だった。建物の倒壊も見られず、したがって雑司ヶ谷地域では死者が出ていない。ちなみに、落合地域の被害は農家の古い納屋が2軒倒壊しただけで、死者は高田町(雑司ヶ谷)と同じく記録されていない。東日本大震災のときにも感じたことだが、東京市街地と丘陵地とではそもそも震動の規模が異なっていたとみられる。
 1923年(大正12)現在、雑司ヶ谷にあった当初の大泉邸の住所番地は不明だが、雑司ヶ谷鬼子母神Click!秋田雨雀邸Click!からほど遠からぬ位置にあったことはまちがいない。ちなみに、『俺の自叙伝』(岩波書店版/2023年)には華族の三条邸裏(北側)と書いてあるので、高田町(大字)雑司ヶ谷(字)美名實あるいは高田町(字)若葉(高田若葉町)のいずれかだと思われる。大泉黒石は、同業の文学者や、「鬼子母神森の会」Click!のサークルのように地元に住んでいた作家や画家たちと交流することはほとんどなかったが、秋田雨雀Click!の家にはちょくちょく遊びに寄ったようだ。そのためか、彼のトルストイ主義的アナキズム思想とも相まって、黒石はこの時期から警察にマークされるようになる。
 大泉黒石は、同じ雑司ヶ谷町内で一度転居している。そのころの生活の様子を、1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』第3巻の付録、「黒石廻廊/書報No.3」に収録された黒石の長男・大泉淳「父、黒石の思い出」から少し長いが引用してみよう。
大泉黒石プロフィール.jpg 大泉黒石「当世浮世大学」1929.jpg
大泉黒石「当世浮世大学」前川千帆.jpg
東長崎駅1935頃.jpg
  
 家の屋根に登れば鬼子母神の森が望めた程の距離であったから、父はよくそこに出かけた。父は子供達への愛情は大変強かったので、鬼子母神には自ずから足が向いたのであろう。その参道の欅並木に挟まって雀焼きの店があって、父は雀焼きをよく買って帰って酒の肴にしていた。/その後、私共は鬼子母神と池袋の中間辺りに引越した。(中略) ここでは、父は好んで和服を着ていた。背恰好、風貌は全く日本人離れしていたから、和服を着て外を歩く父を人々は振り返って見ていた。(中略) 家の後ろの程遠からぬ所を武蔵野鉄道が走っていて、時々、私は弟の灝を連れて電車を見に行った。(中略) その後、私共は東長崎(ママ)の茶畑にぽつんとある西洋館に引越した。この頃父の名も売れて、仕事が本調子になって来ていたのであろう。と言うのは、家の構えはその頃には珍しくハイカラな洋館で、ピアノを始め家具調度も然るべく整っていて、離れた所にある何軒かの人たちから、私共は坊っちゃん、坊っちゃんと呼ばれるようになっていた。私は武蔵野鉄道に乗って雑司ヶ谷の小学校に通っていたが、朝、父が駅まで見送りに来てくれることが屡々だった。
  
 高田町雑司ヶ谷の中で転居した先は、武蔵野鉄道の線路内に子どもたちが侵入できる地域(大泉淳は一度汽車に轢かれそうになっている)だから、おそらく池袋駅も近い(大字)雑司ヶ谷(字)御堂杉か(字)西原のどちらかだろう。
 この文章では、新たに「東長崎」という名称が登場している。もちろん、大正期の長崎村にこのような地名も字名も存在していないので、武蔵野鉄道の駅名だとすると、同駅から近い長崎村(字)五郎窪あるいは(字)大和田ということになる。だが、長崎村の転居先については「椎名町」、あるいは「南長崎」とする大泉淳の証言もあるようなのだ。息子が武蔵野鉄道で雑司ヶ谷の高田第一小学校へ通うために、大泉黒石がしばしば見送った駅は東長崎駅か、または椎名町駅のどちらだったのだろう?
 また、当時の長崎村は清戸道Click!(現・目白通り)沿いの(字)椎名町を除いては、一面の田畑が広がる農村地帯だった。したがって、文中に書かれているようなハイカラな西洋館が建っていたとすれば、そして同邸の主人が「全く日本人離れ」した風貌をしていれば、雑司ヶ谷のリヒャルト・ハイゼClick!が住んでいた「異人館」Click!と同様に、地元の人たちに強烈な印象を残しているはずだが、わたしは長崎地域でそのようなエピソードを一度も聞いたことがないし、資料類でも目にした憶えがない。おそらく、大泉一家の長崎村ですごした時期が短かったため、語り継がれるほどの印象を地元に残さなかったのだろう。関東大震災からほどなく、一家は下落合(現・中落合/中井含む)へと転居してくることになる。
大泉黒石とその子どもたちばかりでなく、黒石の研究者も彼の転居先やそこでのエピソードについて混乱していることが判明した、詳細はこちらの記事Click!へ。
椎名町駅付近1919.jpg
椎名町駅1935頃.jpg
 大泉淳は、林芙美子の『柿の実』(1934年)を意識したのか、「父が酒に溺れていたことはない」とわざわざ書いている。むしろ、健康には留意して生活し執筆をしていたと、林芙美子へ間接的に“反論”しているようだ。また、大泉黒石はよく即興で自己流のピアノを弾いていたらしい。今日的な表現をすれば、黒石はJazzyな演奏をしていたのだろう。下落合2130番地でも、大泉邸からは黒石のJAZZが流れて五ノ坂あたりまで聴こえていただろうか。

◆写真上:1923年(大正12)秋に上映された大泉黒石×溝口健二監督によるドイツ表現主義的映画『血と霊』(日活)だが、大震災の混乱で興行は失敗だった。
◆写真中上上左は、1923年(大正12)に新光社から出版された大泉黒石『大宇宙の黙示』(出版社がタイトル『預言』を勝手に改変)。上右は、1926年(大正15)に雄文堂出版から改めて刊行された大泉黒石『預言』中扉。は、1919年(大正8)に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の表参道。は、同年撮影の雑司ヶ谷鬼子母神境内。
◆写真中下上左は、雑司ヶ谷時代とみられる大泉黒石。上右は、1929年(昭和4)出版の大泉黒石『当世浮世大学』(現代ユウモア全集刊行会)。は、『当世浮世大学』の前川千帆Click!による挿画。は、1935年(昭和10)ごろ撮影の東長崎駅。
◆写真下は、1919年(大正8)に撮影された椎名町駅の近辺。当時はほとんどが田畑で、東京郊外の田園地帯だった。は、1935年(昭和10)ごろ撮影された椎名町駅。

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大鍛冶(タタラ)集団による操業は千人規模? [気になる下落合]

菅谷たたら場.jpg
 目白崖線に残る、古代か中世かは不明だがタタラ遺跡Click!とみられる金糞=鐵液Click!が出土した3地域について、少し前の記事に書いた。また、神奈(鉄穴)流しを必要とせず、あらかじめ良質の砂鉄が堆積している天然の神奈(鉄穴)流し場について、香取神宮の金久保谷と目白駅Click!のある金久保沢Click!についてもつづけて記事にしている。
 その際、各地を移動して目白(鋼)Click!を製錬した古代の大鍛冶(タタラ)集団は、100人単位の大所帯だったのではないかと書いた。そのヒントとなるような数字が、1885年(明治18)の出雲地方で記録されている。まず、大鍛冶(タタラ)を専業としていた小村の記録から見てみよう。島根県飯石郡吉田村吉田菅谷の菅谷タタラ集落では、戸数が34戸で158人の村人が生活していた。そのうち、労働人口は52人で、大鍛冶(タタラ)を専業とする職に携わっていた人は32名となっている。残り労働人口20名は山仕事や農作業などで、他の106人はその扶養家族あるいは仕事をもたず地域で扶養していた人々だ。
 大鍛冶(タタラ)にかかわる32名(32戸)の内わけは、次の表のとおりだ。
菅谷タタラ人数.jpg
 この32名が、大鍛冶(タタラ)作業をするすべてではない。彼らは、その多くの役職が部門長格であり、その下に派遣職工(アルバイト職人)として村外から参加する、一時雇いのスタッフたちが周辺地域に数多く存在している。たとえば、足踏み鞴(ふいご)を24時間(×3日間)にわたって約2時間(1刻)交代で踏みつづけ、大鍛冶(タタラ)作業ではもっともきつい力仕事のひとつである、代番子(かわりばんこ)が含まれていない。彼らは、周辺の地域から集められた健脚自慢の人たちだったろう。
 読者のみなさんはすでにお気づきかと思うが、なにかの行為を交代で担当することは「かわりばんこ」であり、「たたらを踏む」「ひょっとこ(火男)」Click!などと同様に現代に伝わるタタラ用語のひとつだ。また、菅谷タタラ場の山子は、単に山の樹林を伐採して炭焚(炭焼き)に引きわたすだけでなく、菅谷地域に定住している彼らは、伐採した跡地には数十年後に再び樹木を調達できるよう、積極的に植林作業も行っていたと思われる。
 1885年(明治18)ごろ行われていた、政府から支給される大鍛冶(タタラ)の特別手当ては、村下の最高責任者が米9合/日、炭坂(副村下)の初心者が2合/日で、ベテランになればなるほど炭坂は米1合/日単位で増え、村下に近い特別な扶持米が与えられていた。これらは上席の特別な賞与だが、各職工の通常の日当(通常の生活費)は、村下・炭坂・炭焚・番子が1升2合/日、鋼造・内洗が1升/日などと決められていた。もちろん、これだけでは食べていくのがきついので、家族たちは神奈(鉄穴)流しが行われなくなった跡地などを利用して耕し、田畑で米や野菜などを栽培していたのだろう。鉄の需要が急増し、もっとも景気がよかった日露戦争(1904~1905年)のころは、扶持米に代わり賃金が支払われたようで、村下が10銭/日、炭坂が8銭/日という記録が残っている。
 近世に入ると、わざわざ砂鉄を採集する神奈(鉄穴)流しでは、短期間で十分な砂鉄量が集まらないため、各地で営業する砂鉄採集の専門業者から大量に購入したり、周辺の山々の樹木を伐採して木炭を焼けば、すぐに森林が丸裸になってしまうので、製錬に必要な不足分の莫大な木炭を炭業者へ注文したり、タタラ炉を築造する鑪土(粘土)を集めるのは非常に手間と労力がかかるので、粘土の専門業者へ発注したり、山火事や火災などで燃えた焼木(やけぎ)を、生木よりも短時間で木炭化が可能なためどこからか調達したりと、大鍛冶(タタラ)集団自体の作業も非常に効率化・省力化され、大幅に分業化が進捗していたのがわかる。
もののけ鉄穴流し.jpg
 これらをひとつの大鍛冶(タタラ)集団のみでまかなうとすれば、すぐにも100人単位の人数が必要なことは自明だろう。明治期には、ここまで生産性の向上による作業の省力化・分業化が進んでいたが、古代の大鍛冶(タタラ)が製錬事業を行うためには、厖大な職人や労働力が必要であり、その移動はちょっとした“民族の大移動”だったろう。
 明治期の出雲に残った菅谷タタラ場では、不足する資材を専門業者から大量に仕入れ、それでも足りない人材を数多く臨時雇用していたが、その人数は各職で123人にもおよんだ。これに、菅谷タタラの専門職の責任者たち32人を加えると、近現代でさえ大鍛冶(タタラ)を行うのに合計155人のスタッフが必要だったことになる。明治期の、かなり効率化され省力化された大鍛冶(タタラ)作業でさえ、150人以上の人員が必要なことを考えると、古代の作業ではどれほど多くの人員を必要としたのかがおおよそ見えてくる。
 彼ら大鍛冶(タタラ)の作業には、少なくとも200人を下ることはなかっただろう。この200人という数字は、あくまでも大鍛冶(タタラ)の仕事を直接手がける職人数であり、その家族たちを含めれば大規模な集団を想定することができる。上記の菅谷タタラ場をモデルとすれば、集落の人口158名のうち52名が労働人口であり、大鍛冶(タタラ)仕事を専業としているのが32名で他の職(林業など)が20名と記録されているから、単純な比率計算をすると大鍛冶の家族は97名、その他の家族は34名(=計158名)という見当になる。つまり、大鍛冶(タタラ)1人あたりの家族構成は、平均3.031名ということになる。
 これを、古代の大鍛冶(タタラ)集団に当てはめるのはかなり乱暴な気もするが、父母に子どもひとりの3人家族としても、200人の大鍛冶(タタラ)職人の集団には400人以上の家族、つまり最低でも計600人余の集団の形成を想定することができる。複数の子どもや老人たちを想定すれば、各地を移動する集団はさらに大規模なものになっただろう。もちろん、当時の乳幼児死亡率は現代と比べものにならないし、老人の平均寿命も短かったにちがいないので、単純に5~6人家族を想定するわけにはいかないが。
 さて、菅谷タタラ場にある村下家系の堀江家には1883年(明治16)に記録された、一度の大鍛冶(タタラ)作業で購入した資材などの物品(分業化が進み専門業者から購入)、およびその際に雇用した職人や人夫へ賃金を支払った支払台帳(「製鋼所壱代ニ付入用物件及代価」/雲南市教育委員会所蔵か?)が残っている。以下、その項目を一覧表化してみよう。
菅谷タタラ経費.jpg
もののけ炭焼き.jpg
 ここに記録されている砂鉄や木炭、鑪土(粘土)などの資材数値は、これがすべてではなく菅谷タタラ場周辺で採れたそれら地元の資材や人材に加え、これらの資材と人材を他所から調達している数値(入用物件及代価)だとみられる。
 この中で、「村下」と書かれているのは、タタラの製錬炉を監督する他の地域から招いた村下、あるいはベテランの炭坂(村下助手)が含まれているとみられる。それだけ、作業規模が大きめな大鍛冶(タタラ)作業だったのではないだろうか。また、番子が18人ということは、1つの炉に3人ひと組で2時間おきの「代番子(かわりばんこ)」が通常だから、5~6つのタタラ炉を構築して同時にパラレルで操業した可能性が考えられる。
 また、堀江家には大鍛冶(タタラ)事業における、年間の支出と収入を記録した収支決算書(1883年度)が伝わっている。以下、明治期の大鍛冶(タタラ)の営業成績を見てみよう。
菅谷タタラ収支決算.jpg
 これでは43.7%もの大赤字となり、まったく事業の採算がとれていなかったことがわかる。それでも、菅谷タタラ場がつぶれなかったのは、良質な銑鉄や鉧(けら)、目白(鋼)に対する兵器生産の需要が、当時は国家事業として重要視されていたからだ。菅谷タタラ場の大鍛冶(タタラ)操業は、1921年(大正10)までつづけられている。
 明治期には、おもに海軍を中心に貫通力の高い徹甲弾の開発が進んでおり、鋼を弾頭に装着することで、敵艦の頑丈な装甲を貫通する砲弾の研究が行われていた。その徹甲弾に用いられる良質な鋼は「玉(弾)鋼」と呼ばれ、刀剣に使用する目白(鋼)とほぼ同質のものが使われていたという。明治以降、現代にいたるまで刀剣に用いられる良質な目白(鋼)のことを「玉鋼」と表現するのは、当時の呼称が慣例化したものだ。
 良質な銑鉄や鉧、そして目白(鋼)を製錬する大鍛冶(タタラ)集団が、地域の有力者や政治勢力、各時代の武家幕府、あるいは近代国家などの政治権力に優遇されたのは、いつの時代でも変わらず同様だったろう。ちょうど、徳川幕府の庇護を受けた佃島Click!の漁民たちが、室町期の江戸城下(太田道灌)Click!のころから操業をつづける地元の漁民たちとの間で、少なからず対立Click!を生じたのと同様に、もともとその地域に住んでいた農耕民や林業民と大鍛冶(タタラ)集団との間には、数多くの深刻な軋轢や訴訟沙汰を生んでいたにちがいない。
もののけタタラ炉.jpg
 目白崖線に沿った河川を遡上していく大鍛冶(タタラ)集団が600人以上、ときには1,000人規模の集団であったとすれば、地域で生活する村単位の農民たちだけでは、とても彼らに対抗できなかったにちがいない。ましてや、彼らが権力者から庇護される職能集団であれば、農民たちはどうすることもできず、彼らのすることを黙認せざるをえなかったのではないだろうか。また、タタラ集団が大規模であった場合、構成メンバーの全員が一度期に移動するのではなく、次のタタラ操業地に適した場所を捜索する探鉱グループ(山師)Click!や、樹木を伐採して炭を焼く山子・炭焚集団が“本隊”に先行するケースもあったかもしれない。

◆写真上:島根県飯石郡吉田村菅谷地域(現・雲南市吉田町)に残る菅谷タタラ場の集落。現在は「鉄の歴史博物館」Click!が開館し、往年の面影を伝えている。
◆写真下:『もののけ姫』(宮崎駿監督/1997年)に描かれた、室町期とみられる大鍛冶(タタラ)の移動集団。同作でも、明らかに出雲と思われるタタラ場が舞台として登場している。上から下へ、崖地での神奈(鉄穴)流し、炭焚(炭焼き)、そして丸型製錬炉によるタタラ操業。現代のタタラでは、丸型の炉ではなく角型の炉で砂鉄を製錬するのが一般的だ。

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日本文壇から排斥された「世界文学」の大泉黒石。 [気になる下落合]

大泉黒石.jpg
 下落合4丁目(現・中井2丁目)の五ノ坂下に、大泉黒石Click!が引っ越してきたのは、関東大震災Click!の直後、1924年(大正13)のことだった。それ以前は、1921年(大正10)から高田村雑司ヶ谷に住んでいたが、短い期間だけ長崎村に住んだあと下落合へ転居している。ちなみに、関東大震災のときはすでに南長崎(ママ)にいたとする黒石の長男・大泉淳の証言もあり、このあたり震災の混乱もあってか記憶が錯綜しているようだ。
その後、大泉黒石とその子どもたちのみならず、黒石の研究者たちも転居先とそれにともなうエピソードについて混乱していることがわかった。詳細はこちらの記事Click!へ。
 長崎村の住所を、「椎名町」とする年譜が存在しているが、椎名町Click!は江戸期の清戸道Click!(およそ現・目白通り)沿いの下落合村と長崎村の両側に形成された街道町Click!の名称、あるいは北へ500mほど離れた武蔵野鉄道の駅名であって、1923年(大正12)現在の住所は長崎村(字)椎名町が正確な表記だろう。おそらく、大泉黒石は目白通りも近い長崎村の最南部(のちに南長崎と呼ばれる長崎村側の椎名町Click!)に住んでいたとみられる。このあと、大泉一家は東京土地住宅Click!が1922年(大正11)以来、「アビラ村」(芸術村)Click!と名づけて開発していた下落合の西部、目白文化村Click!の西側へと転居してくる。
 この「アビラ村」(芸術村)Click!での大泉邸は、五ノ坂から路地を西側へ家1軒分入りこんだ旗竿地、大正期の二瓶貞次郎邸が建っていた西隣りの、下落合2130番地の大きな屋敷だと思われる。大震災の前から、大泉黒石はベストセラー作家として活躍しており、また映画監督・溝口健二と組んで『血と霊』(日活)を制作するなど、彼の生涯でもっとも多忙で収入が多かった時期にアビラ村(芸術村)へ移り住んでいる。だから、一家全員に加え書生を3~4人置けるほど、家賃が50円/月の大きな屋敷を借りられたのだろう。黒石は家族とともに、この屋敷で1942年(昭和17)までの17~18年をすごすことになる。
 なぜ、下落合2130番地の屋敷だと規定できるのかといえば、すでに大正期から五ノ坂下に建っており、のち1932年(昭和7)に林芙美子・手塚緑敏夫妻Click!が転居してくる“お化け屋敷”Click!(林の自称)、大泉邸と同じく家賃が50円/月だった和洋折衷館の「裏庭」に位置する大きな屋敷は、同地番の1棟しか存在していないからだ。大泉邸の子どもたちは、“お化け屋敷”の裏庭から林・手塚邸へ遊びに訪れている。また、林芙美子は大泉邸の庭になるみごとな落合柿Click!を、うらやまし気に眺めていた。
 1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を参照すると、のちに林芙美子・手塚緑敏Click!夫妻が住む下落合2133番地の屋敷には平山季明という人物が住んでいる。この裏庭に面する屋敷は、1926年(大正15)現在で北・北東・東側の3邸しかなく(西側は未開発のままだった)、北側の斜面に接した同じく下落合2133番地は本間長一邸、北東の斜面に面していた下落合2130番地は佐藤吉三郎邸と記録されている。だが、裏庭の東側に面した下落合2130番地の邸には名前が記載されていない。路地の奥にある旗竿地だったせいか、五ノ坂に面した二瓶貞次郎邸を採取しただけで、同明細図の調査員は調査漏れに気づかなかったか、あるいは表札を出していなかった可能性がありそうだ。
 平山季明一家がどこかへ転居したあと、1932年(昭和7)に上落合850番地Click!尾崎翠Click!旧居跡Click!から、林芙美子・手塚緑敏夫妻が下落合2133番地の屋敷に住むようになると、その裏庭に面した(林・手塚邸の台所からは見上げる位置にあたる)大泉黒石邸についての文章が残っている。1934年(昭和9)に改造社から刊行された、「旅だより」収録の『柿の実』という「随筆」だ。これがエッセイ=事実でなく、一部が林芙美子の想像による創作(フィクション)だったことが、のちに大泉黒石の二女・大泉淵によって、やや怒り気味の文章で否定されている。まずは、林芙美子の『柿の実』から引用してみよう。
  
 夏中空家であつた隣家の庭に、私がねらつてゐた柿の木があつた。無性に実をつけてゐて、青い粉をふいてゐた柿の実が毎日毎日愉しみに台所から眺められたのに、あと二週間もしたら眺められると云ふ頃、七人の子供を引き連れた此家族が越して来たので、私はその柿の実を只うらやましく眺めるより仕方がなかつた。(中略) 台所から覗くと淵子ちやんがもう柿を噛りながら唄をうたつてゐる。/「淵子ちやんお父さまは……」/「お酒のんでンの」/「お母さまは」/「おちごと」/「お兄さまは」/「ガツコ」/「お姉さまは」/「お母さまのお手つだひ」/「洽子さんは」/「ガツコ」……。
  
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 まず、1924年(大正13)から下落合の五ノ坂下に住んだ大泉家が、なぜか林芙美子が転居してきた1932年(昭和7)以降に転居してきたことになっているのに、読まれている方々はすでにお気づきだろう。大泉黒石が下落合に住んで8年後、『放浪記』Click!がヒットした林芙美子が夫とともに、五ノ坂下の屋敷へ引っ越してきているのが事実だ。
 また、大泉淵と林芙美子との会話にもフィクションが混じっているとみられる。文中で林芙美子は、「大泉黒石と云ふひとにまるで知識がない」と書いているが、そんなことはないはずだ。昭和初期の同時代、日本文学(=「私小説」)の文壇から激しく排斥されようとしていた、「私小説」家とは無縁な日本人とロシア人のハーフだったベストセラー作家を知らなかったはずはない。少し前まで、大泉黒石は『放浪記』がヒットした林芙美子よりも、よほど原稿料の実入りがよかったはずだ。だからこそ、アビラ村(芸術村)の大きな屋敷を借りて、大家族を養うことができたのだろう。
 1988年(昭和63)に緑書房から出版された、『大泉黒石全集』付録の「黒石廻廊/書報No.1」(1988年2月25日)より、大泉黒石の二女・大泉淵の証言を聞いてみよう。
  
 林芙美子の随筆の中に、「お父様は?」、「お酒のんでるの」。「お母様は?」、「お父様のご飯つくってるの」と書いてあるけれども、私は、「お父様はお仕事してるの」、と言ったつもり。子供にもプライドや体裁はあるものです。
  
 私小説主流の日本文壇から、虚偽の情報やウワサ(“主犯”は村松梢風Click!田中貢太郎Click!らといわれている)を流され、「日本人」とは見なされない“あいの子”差別とともに意図的に排斥されようとしていた大泉黒石は、より質が高く視野の広い「世界文学」(当時の日本文学=「私小説」ではない)や旅行記に取り組もうと、必死に原稿用紙と向かいあっていたはずで、育ち盛りの子どもたちを養うために酒を飲んでいるヒマなどなく、どう考えても大泉淵の証言どおり「お仕事してるの」が事実だったろう。
 事実にもとづいて書かれているとされる随筆やエッセイの類にも、ついフィクション(虚偽)が混じるのは小説家の性(さが)としてはいたしかたのない側面もあるのは、全身小説家Click!の“嘘つきミッちゃん”の記事でも触れたが、上記のケースはヘソ曲がりなわたしから見れば、林芙美子は当時の私小説家が群れ集う文壇から「異端」とされ、はじき出されようとしている大正期のベストセラー作家へ、文壇主流派の意向を忖度して彼の“落ちぶれた姿”を描いてみせた……と考えるのは、あまりにもうがちすぎだろうか。尾崎翠Click!を鳥取で「殺し」てみたり、矢田津世子Click!の大切な作品原稿を押入れの奥に隠して「行方不明」にしたりと、没後に次々と明らかになった彼女の行状を考えると、ついつい疑ってしまうのだ。
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 大泉黒石は、1893年(明治26)にロシア外交官と長崎税関長の娘・本山ケイとの間に生まれ、日本名を大泉清、ロシア名をアレクサンドル・ステパノヴィチ・キヨスキーと名乗っていた。生まれてすぐ母親を亡くし、当初は日本で育ったが10歳のとき父親が死去してロシアの叔母のもとへ引きとられ、モスクワの小学校へ転校している。11歳のとき、父親の故郷であるヤースナヤ・ポリャーナを訪れ、76歳で浮浪者のような身なりのレフ・トルストイClick!と会話している。彼が生涯、晩年のトルストイズム的アナキズムの思想に共鳴しつづけたのは、このときの出会いが強烈な印象として焼きついたからだろう。
 1907年(明治36)の14歳のとき、叔母に連れられロシアからフランスに移住すると、モーパッサンの研究に夢中になり雑誌に「ヴィクトル・ユゴー博物館印象記」などを寄稿して評判になる。その後、スイスやイタリアをへて日本に帰国している。1915年(大正4)にロシアのペテルブルグの高校へ進学するが、二月革命に遭遇し身の危険を感じて帰国、三高(現・京都大学)に進学したが学費が払えず退学している。東京に転居してくると、父親の遺産で一高(現・東京大学)へ入学するが、遺産がつきて退学を余儀なくされた。
 こうして、大泉黒石は小説家をめざすことになるが、彼の視野は世界レベルであり日本語はもちろんロシア語、フランス語、英語、ドイツ語に堪能で、のちに中国語(漢文)にも精通していった。日本文学(私小説)にはない魅力をたたえた彼の作品は、次々とベストセラーになるが「大泉黒石はロシア語ができない」(村松梢風による悪質なフェイク情報)をはじめ、当時、ベストセラーをいまだ持たない小説家たちの嫉妬による、低劣な虚偽のウワサがあまた出版界に流され、それが彼の出自であるハーフに対する差別意識とあいまって、出版社からの原稿依頼が徐々に減っていくことになる。
 先述の『大泉黒石全集』全9巻(造型社)は、「全集」と銘打ってはいるが第1シリーズのみで、出版社の都合により第2シリーズは刊行されなかった。したがって、大泉黒石の作品群の多くが戦後未刊のままに終っている。今年(2023年)になって、岩波書店Click!は大泉黒石『俺の自叙伝』(岩波文庫)をはじめ彼の関連本を次々に刊行しはじめた。おそらく、『大泉黒石全集』(完全版)をいずれ出版する布石なのだろう。
 1960年代に、日本文学では「異端」「特異」などとされていた夢野久作Click!久生十蘭Click!江戸川乱歩Click!小栗虫太郎Click!ら(私小説ではなく完全なフィクションや物語を創造する力量のある、世界ではあたりまえの作家たち)が見直されたときも、大泉黒石にスポットライトが当たることはなかった。それは、彼がハーフであるがゆえに「日本文学」の範疇とは見なされなかったものか、あるいは大正末から昭和初期にかけてイヤというほど流された「彼は虚言癖」というウワサ(世界文学の視野から見れば「特異」な私小説が中心だった日本文壇だが、そもそも小説家が“虚言癖”でなくてどうするのだ? 別の国であれば、「彼は虚言癖」は一笑にふされただけで終わりだったろう)が、出版界で生きていたせいなのか、またはフェイク情報や排斥に加担した作家たちが、いまだ存命だったせいだからだろうか。
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大泉黒石「俺の自叙伝」2023.jpg 四方田犬彦「大泉黒石」岩波書店2023.jpg
 もうひとつ、わたしには気になることがある。同じく、昭和初期に日本文壇からも当局からも敵意をもって意図的に排斥されようとしていた(その急先鋒は小林秀雄Click!だ)、私小説とは無縁な大正期からのベストセラー作家に吉屋信子Click!がいる。まったく同じ時期に、下落合に住みあわせていたこのふたりだが、下落合2113番地の吉屋信子邸Click!と下落合2130番地の大泉黒石邸とは、五ノ坂をはさみ直線距離でわずか80m弱しか離れていない。このふたりの接点がどこかにないかどうか、わたしはここしばらく探しつづけている。

◆写真上:その容姿から、下落合2130番地邸の書斎で撮られたと思われる大泉黒石。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる平山邸裏庭の東側に面した大泉邸とみられる屋敷。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同邸。大泉邸西側の林芙美子が住んでいる手塚邸が「牛塚」邸と誤採取され、大泉邸東側の二瓶邸が「二藤」邸と誤採取されるなど、「火保図」は表札名の読み誤りが目立つ。は、大泉邸があった五ノ坂から西へ入る袋小路。左手奥の茶色い建物が大泉邸跡で、正面に見えるグレーの四角い建物が林芙美子・手塚緑敏邸の北側に面した裏庭跡。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大泉邸。は、1940年(昭和16)ごろの空中写真にみる大泉邸。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・大泉邸。下落合西部はほとんど空襲を受けておらず、戦前からの屋敷がそのまま建っていたが、旧・林・手塚邸は裏庭がなくなり北側へ増築されているのがわかる。
◆写真下上左は、1922年(大正11)に出版された大泉黒石『老子とその子』(春秋社)。上右は、1972年(昭和47)にようやく出版された同『人間廃業』(桃源社)。は、1923年(大正12)に監督・溝口健二×大泉黒石で制作された表現主義的映画『血と霊』(日活)の1シーン。関東大震災の直後に上映されたものの、震災の混乱で観客を集めることができず評判にはならなかった。下左は、今年(2023年)に出版された大泉黒石『俺の自叙伝』(岩波書店)。下右は、同年出版の四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』(岩波書店)。
おまけ
 アブラゼミの蝉時雨のなかで聴きづらいが、下落合の居心地がいいのか北帰行しないマガモが、家の裏でウロウロしながら毎日鳴きつづけている。この声を聞くと、うちのヤマネコは女子のくせに「打(ぶ)っ殺すニャ!」と殺気立ちながら網戸に手をかけて威嚇する。

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山手線と目白停車場は「迷惑至極ニ御座候」。 [気になる下落合]

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 先に、佐伯祐三Click!の「下落合風景」シリーズClick!の1作『ガード』Click!にからめて、日本鉄道(株)が敷設する品川-赤羽線(現・山手線)で構築される線路土手により、金久保沢Click!湧水流Click!(主流)が遮断されてしまうため、(下)高田村と下落合村の双方で田圃(下落合側は東耕地と丸山の水田/高田側は八反目の水田)の灌漑用水の水路確保が、敷設当時の大きな課題だったことを書いた。だがそれ以前に、そもそも線路土手を築き線路を通すこと自体にも、大きな問題が発生していたようだ。
 1884年(明治17)3月に、下落合村や上落合村をはじめ、葛ヶ谷村、江古田村、上鷺宮村、下鷺宮村、上沼袋村、下沼袋村、新井村、上高田村、中荒井村、中村の計12村が共同で東京府知事あてに、「鉄道停車場御設置願」を提出している。これは、前月の同年2月に提出された北豊島郡の各町村による「鉄道停車場設置追願」に連動しているとみられ、北豊島郡からさらに各村へ働きかけが行われたとみられる。
 東京都が日本鉄道に関する公文書として保管している、上落合村と下落合村が含まれた「鉄道停車場御設置願」を、2006年(平成18)に豊島区立郷土資料館から刊行された『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』(調査報告書 第18集)から引用してみよう。
  
 南豊島郡下落合村外二村北豊島郡中新井村外一村東多摩郡江古田村外六村各戸長及右村々総代、茲ニ奉請願候旨、謹シテ開陳仕候、既ニ客歳八月第弐拾九号公布ヲ以テ当府下品川ヨリ埼玉県下川口ニ至ル汽車線路布設相也候趣詳知仕候、就テハ該線路ノ途北豊島郡高田村ニ係ル清戸往還筋ノ傍ラニ該停車場ノ御設置相成度、之レ出願ノ要点ナリ、而テ此地位ハ甲州街道ト中仙道ノ間道ニテ埼玉神奈川両県地方内ヨリ繭生糸并ニ製茶ノ諸物貨ヲ京浜両地ニ運輸スルノ便路即チ清戸道ト称スル該道ノ咽喉ヲ占メ専ラ農商通行ノ多キコト他道ニ譲ラサルモ従来車馬ノ運輸ノ用ニ供スルモノ乏シキカ故ニ(後略/以下上落合・下落合など各村列記)
  
 1884年(明治17)2月21日付けで、北豊島郡各町村から東京府知事あてに出された「鉄道停車場設置追願」のほうには、高田村をはじめ高田千登世町、雑司ヶ谷村、高田若葉町、雑司ヶ谷旭出町、長崎村、上板橋村、下練馬村、上練馬村、中新井村、谷原村などの戸長や総代の署名が添えられている。これらの文書に書かれている「清戸往還」「清戸道」Click!は、多少道筋は異なるものの、ほぼ現在の目白通りのことだ。
 ところが、停車場の設置以前に、日本鉄道が線路を敷設するための土地買収で、当時の土地の実勢価格とは合わない低い買収額を提示したのだろう、さっそく紛糾しているようだ。1884年(明治17)4月21日付けの、東京府の地理課と租税課が作成した文書には、地権者からのクレームが数多く寄せられていた様子が透けて見える。同資料より、当該文書を引用してみよう。ちなみに、最初期の路線計画では品川-赤羽間ではなく、品川-川口間として予定されていたため、公文書での表記はすべて「品川川口間鉄道」と表記されている。
  
 品川々口間鉄道北豊島郡滝野川村より(ママ)南豊島郡下落合村ニ至ル間曩ニ地券面代価ヲ以テ買上之義、別紙丁号之通御達相成候処、今般実地売買相場ト格別之相違有之趣ヲ以、現今相当代価ヲ以買上之義、丙号之通願出因テ評価人ニ付シ調査為致候(後略)
  
 せっかく鉄道が敷設されると思ったら、提示された用地の買取価格が実勢地価よりもはるかに低い額だったので、線路沿いの多くの地主が納得できず腹を立てたのだろう。実際に取引きされている実勢地価ではなく、農地に適用される固定資産税評価額などで買取り地価を計算されたのでは、所有者はたまったものではないだろう。現在でさえ、土地の実勢価格に比べ、固定資産税の評価額はその5~6割程度に抑えられている。
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 線路沿いの地主たちが、土地の“半額セール”をやらされるのに激怒した様子は、「田畑乏敷場所ニテ手作等ニ差支甚難渋仕候間、何卒相当代価ヲ以テ御買上被成下度候」(新田堀之内村)、「右代価ニテハ各所有者ニ於テ難渋仕候間、相当代価ヲ以御買上ケ被成下度、此段奉願候也」(池袋村)、「小村同様之土地ニて(ママ)畑地少ク甚難渋仕候間、何卒相当代価ヲ以御買上被成下度候」(巣鴨村)、「御買上相成候て(ママ)ハ、実ニ各自迷惑仕候義ニ御座候」(高田村)と、沿線の村々からは次々と抗議の文書がとどいていた。特に、停車場を予定されている高田村の文書は、その表現がことさらきつい印象を受ける。
 また、わずか1年前にはあれほど熱心だった高田村金久保沢の停車場誘致だが、やはり土地の買収問題で相当こじれている。ことに、高田村の地主たちは東京府あての「鉄道線路ニ係ル停車場御買上ノ義ニ付歎願」では、ついに「迷惑至極」とまで書いている。
  
 今回私共所有地之内鉄道停車場敷地ノ為メ、曽テ公用土地買上規則第四則前項ニ拠リ、該地券面ヲ以御買上相成候旨御達有之候、然ルニ目下農家非常困難之場合ニ際シ、前顕御規則ニ拠リ御買相成ては(ママ)実ニ各自迷惑至極之義ニ御座候、何卒前情御洞察之上、相当之代価ヲ以御買上被成下旨、此段奉歎願候也
  
 この文書は、1885年(明治18)4月16日に東京府知事へ提出されたものだが、おそらく高田村金久保沢の停車場敷地に関しては、鉄道線路の敷設および線路土手の構築とは異なり、停車場の建物(駅舎)とその関連施設を建設するために、農地ではなく宅地並みの評価額で「御買上」してくれなければ、地主たちにしてみれば「迷惑至極」だといいたかったように思える。3名の地主署名に加え、当時の高田村戸長・新倉徳三郎Click!の署名も添えられている。以降、明治期の「土地収用法」をカサにきた日本鉄道と、沿線住民との対立は訴訟沙汰も含め豊島線(現・山手線)の建設では、さらに深刻化していくことになる。
 しかも、カンのいい読者や鉄道マニアの方なら、すでにお気づきではないかと思うが、この停車場用地の買収をめぐる歎願書(というかほとんど抗議書に近い)が、目白停車場Click!が開業したと鉄道史へ「公式」に記録されている同年3月16日よりも、1ヶ月もあとの日付だという点に留意したい。開業したとされる3月16日は、プラットホームに汽車が停車するだけで、目白停車場の駅舎(初代・地上駅)建設工事の進捗はおろか、存在すらしていなかったのではないか。今日、「〇〇駅が開業」というと、すでに駅舎が完成して改札口がオープンしているイメージが強いが、1885年(明治18)3月16日の目白停車場「開業」は、ずいぶん様相が異なっていたとみられる。
 「開業」していたとすれば、駅員は踏切番小屋のようなところにいて、切符の検札や販売をおこなっていたのだろうか。ちなみに、用足しはどうしたのだろう。敷地の買収でもめにもめていて駅舎が存在しない目白停車場では、佐伯祐三方式Click!だったのだろうか。(爆!) 周囲には、金久保沢の奥に向かって田圃や茶畑などを埋めたてた、一面の空き地が拡がる原っぱと、湧水源の近くには雑木林、谷の東側(椿坂側)には江戸期に植林されたとみられる杉林だけだった。もっとも、当初は駅員が誰もいない無人停車場で、汽車の車掌が乗降客へ切符の販売から検札までを行っていた可能性もあるだろう。
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 保存された歎願書によれば、同年4月16日の時点で「鉄道停車場敷地」は、地主が「買上代価」にまったく納得・同意しておらず、いまだ土地売買契約書に署名・捺印していない様子が明確に見てとれる。土地の名義が日本鉄道側に変更されなければ、いくら東京府が間に立ち土地売買の仲介・斡旋をしていたとしても、「停車場敷地」の予定地へ駅舎などの施設建設を勝手に着工できなかったろう。
 また、『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』には、金久保沢の湧水源から流れでる用水路が線路土手で遮断されて溜池(明治以降は血洗池)へ流入しなくなってしまうため、線路土手をくぐる暗渠水路(用水路ガード)の設置を申請する文書も保存されている。高田村の戸長だった新倉徳三郎Click!から東京府知事へあてた、1886年(明治19)3月1日の文書「鉄道御布設ノ為メ村道及田養水路変換御設置上申」だ。同資料より、再び引用してみよう。
  
 品川々口間鉄道御布設ニ付、当村千五拾六番地之村道及田養水路(ママ:用水路)ノ義、線路敷地内ニ相成、現今通行及ヒ水路ニ差支候旨、各地主より(ママ)申出ニ付、実地取調候処、目下差支候間、御検査之上、別紙図面之通リ、同番地先ヘ巾壱間五合村道并巾壱間ノ水路、更ニ御設置被成下候度、此段上申候もの(ママ)也(カッコ内引用者註)
  
 上申書には、道路や水路に関する図面が添付されていたようだが、『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』には収録されていない。だが、以前に目白駅の橋上駅化Click!でご教示いただいた平岡厚子様Click!より、高田村の上申書前後に作成したとみられる図面を数種類お送りいただいた。それを参照すると、金久保沢1056番地の「村道」とは、線路土手の構築で下敷きになってしまった道路で、その不便を解消するため新たに設置された学習院側に通う椿坂Click!のことだろうか。
 また、線路土手を横切る用水路は、以前にご紹介した「北豊島郡図」(1887年)に描かれたとおり、目白停車場の前をしばらく線路と並行に南下したあと、西側からガード状の用水路が線路を斜めにくぐって、東側へと抜ける仕様を想定していたのがわかる。
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 小島善太郎Click!と佐伯祐三が東西の線路土手に描いた、椿坂の下部にあったとみられる線路をくぐり、(字)東耕地や(字)丸山へと灌漑用水を供給する用水路のガードについては、豊島区が編纂した『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』では区外となるのでもちろん収録されていないが、東京都公文書をはじめどこかに同資料が保管されてやしないかとても気になっている。さらに、その佐伯祐三が描く下落合ガードだが、線路土手で下落合村から高田村へと抜ける雑司ヶ谷道Click!(現・新井薬師道)が遮断されてしまうため、当初は土手を上って下りる面倒な踏み切り仕様だったことも判明しているので、機会があればまた書いてみたい。

◆写真上:下落合ガードの脇にあった、山手線の線路に上る土手階段。ガードが設置される前の踏み切りには、こんな階段が設置されていただろうか。
◆写真中上は、大正初期の目白停車場(日本鉄道が設置した初代・地上駅とは明らかに設計図面が異なる2代目・地上駅と思われる)の記憶をもとに描かれたスケッチ。この地上駅は、1922年(大正11)の橋上駅化までつづく。は、目白通りから金久保沢へ下る先週火事があったバッケ階段。は、下落合側から下るバッケ(崖地)Click!坂。
◆写真中下は、1970年代後半に撮影された目白駅東側の目白貨物駅跡。は、休日の朝でほとんど人がいない目白貨物駅跡の東側に通う椿坂(高田側の呼称は旧・西坂)。は、同じく山手線沿いに目白駅までつづく下落合側の坂。
◆写真下:「品川川口間鉄道」(現・山手線)の敷設時に、高田村側からの要望で計画された金久保沢の湧水源から線路土手の下を横切る用水路図面3種。

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平均湿度60%超の国における油絵の美とは? [気になる下落合]

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 これまで、下落合に中村彝Click!のアトリエがあるせいか、彝の視点からあるいは彼の近くにいた人々の一方的な視点から、周囲の風景や人物について記述することが多かった。特に中村彝とは相いれなかった人々、彼の病状が悪化する前(新宿中村屋Click!アトリエClick!以前)、若いころの横柄で傲慢だったらしい性格Click!や、美術表現などでことさら対立した人々の側からの視点を、ほとんどご紹介してこなかったのに気づく。
 中村彝は、結核が進行して衰弱する以前は血気盛んで議論好き、ときには暴力で相手をねじ伏せようとまでしたのは、1915年(大正4)8月に思いどおりにならない相馬俊子Click!との恋愛で、日本刀Click!を振りまわしたことでもうかがえる。自分の思いどおりにならないと、すぐにキレやすいわがままな人物像をそこに見いだせるようだ。先に「議論好き」と書いたが、さまざまな記録や証言を参照すると、彼の場合は自身の意見に賛同ないしは一部でも同意しない相手とは、ほとんどハナからケンカ腰ではなかったろうか。
 その傲慢な性格が弱まったのは、病状と恋愛とに諦念が混じるようになった、下落合464番地Click!にアトリエを建て転居してきてからのように見える。悪化する病状や、小サイズのタブローでさえ弱まりつづける体力と相談しなければ描けなくなっていく制作活動を通じて、無鉄砲さが消え「メメント・モリ」的な心境に変化した、あるいは人と対峙する余力があるなら制作へ……といった、明らかに死を意識しはじめたことによる性格の変化なのだろう。彼の周囲にいた、下落合の親しい友人たちの気づかいや思いやりも多分にあったとみられ、彝の尖った感情や精神は日々やわらげられたのかもしれない。
 だが、そんな“丸くなった”はずの彝の性格でも、怒りとともに罵倒せずにはいられない相手がいた。新宿中村屋時代から対立をつづけていた、もちろん岸田劉生Click!だ。中村彝のような性格の人物は、痛いところ(弱点など)を突かれると、あるいは自身の思いどおりの論旨へ収着しないと、改めて自身の言動や表現を振り返り検証する余裕もなく、より強烈な激情とともに怒りを爆発させかねないタイプのように思える。
 新宿中村屋時代から彝のアトリエを訪問していた岸田劉生について、1977年(昭和52)の中央公論美術出版から刊行された鈴木良三Click!『中村彝の周辺』から引用してみよう。
  
 岸田(劉生)も正宗(得三郎)も彝さんにとってはライバルとしてよい相手だったのだろう。お互いに激論を交えていたそうである。/彝さんのアトリエに押しかけて来た岸田は深更に到るも論が果てず、帰りそこねてとうとう彝さんのところへ泊り込むことになってしまった。あとでこれを聞いた清宮彬が岸田に、「中村彝は肺病なんだぞ、おまへ肺病がこわくないのか」とおどかされ、岸田は真青に顔の色をかえてふるえていたそうである。従ってそれ以来あまり挑戦して来なくなったらしいが、彝さんは「要するに岸田の絵なんて悪写実だよ」と屡々私達にももらしていた。(カッコ内引用者註)
  
 鈴木良三は中村彝の身近な親友のひとりなので、岸田劉生を揶揄して、ことさら彝の肩をもっているような表現に留意する必要があるだろう。この一文につづき、劉生が高名になったのは早逝したからで、それが「天才扱いにする好材料」であり「希少価値」だからだと書いている。だが、鈴木良三は美術愛好家の眼差しを忘れている。
 この文章が書かれた1977年(昭和52)の時点で、やはり早逝した佐伯祐三Click!長谷川利行Click!は「天才扱いにする好材料」であり「希少価値」だったにもかかわらず、彼らの作品群が改めて陽の目をみて話題になるのは、ようやく没後30~40年もの時間が経過したあとのことだった。だが、大正期に大きく注目された中村彝とその作品群は、彼が早逝しているにもかかわらず、残念ながら一時期は世間から忘れ去られていったかのように見える。
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 岸田劉生を「りゅうせい」と読める人は多いが、中村彝は「なんて読むの?」という人たちが、わたしの経験も含めていまでも圧倒的に多い。それを、画商が「早逝」したから「希少価値」として売りだしに注力したせいだ、あるいはマスコミが「天才扱い」したからだだけでは、あまりに美術愛好のインフラを形成するArt lover(ファン)たちの眼差しをないがしろにし、バカにしすぎた言葉だろう。美術ファンにとっては、どこまでいっても作品を好きか嫌いか(美しいと思うかそうでないか)、またはどちらでもないかの世界であって、その作品の時代的な存在意味(表現技巧や美術史での位置づけ)は二の次なのだ。
 初めて協和音やモードさえ廃して、より自由な無調の世界へと踏みだしたE..Dolphy(fl)やO.Coleman(as)は、フリーJAZZを創造した音楽家として大きな存在意味をもつが、彼の演奏が「好き!」というのとは別問題だ。(わたしは、どちらでもないけれど) 新ウィーン楽派のA. SchönbergやA. Webernは、現代音楽に直結するさまざまな作品を残したが、その作品の好き嫌いと、彼らの音楽史における学術的な存在や意味とは、またぜんぜん別世界のテーマなのだ。(わたしは、Schönbergはこよなく好きだけれど)
 だから、日本的(あるいは東洋的)な香りがプンプンする泥臭くてグロテスクで、どこか湿度が60%以上もありそうな環境下、西洋絵の具で描く劉生の構成や色合いの画面が「好き!」「美しい!」と感じる人が大勢いたとして、それは彼が「早逝」して「希少価値」だからでも、周囲が「天才扱い」したからでもないと考えている。ましてや、“大衆ウケ”しそうな表現効果をねらってもいない。むしろ当時の画壇からいえば、劉生の作品群は中村彝が身を置くアカデミズム(文展・帝展)から外れた異端的な存在だった。
 数多くの美術ファンが、劉生の画面に「好き!」Click!と感じる美を見いだし、彼の絵を求めたがゆえに画名が広く知れわたり、いまにつづく劉生ブームが形成されているのだろう。それは「悪写実だよ」では済まない、西洋の画道具を手段として借りうけ制作されたにもかかわらず、どこか日本人の琴線に響く「美」に対する好みや嗜好、感覚に直結するモチーフであり表現でもあるからだろう。
 中村彝は1919年(大正8)、下落合のアトリエで岸田劉生の作品を酷評している。
  
 態々見にいらつしやる価値ハ(ママ)ありません。場中で僅かに見るべき、岸田君の如きも自然の各相と特質とを再現するのに、全然その方法を誤ついいる。画面が硬く寒く貧しくなるその原因ガ(ママ)どこにあるか、それについての反省と努力とガ(ママ)全然かけて居るとしか思へません。木村荘(ママ:八)、その他ニ(ママ)至つては全く熱も生命もない形式的な神秘的耽美に過ぎません。林檎一個が持つて居るあの偉大なる「マッス」ヤ(ママ)異常なる輝きに関しては彼らの画面ハ(ママ)何の感激も脅威をも語つて居ない(カッコ内引用者註)
  
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 これは、柏崎にいるパトロンのひとり洲崎義郎Click!あての手紙(同年12月)の中で綴られている、第7回草土社展(赤坂溜池・三会堂)の感想だが、彝は同時期に美術誌あるいは新聞へも展評(もちろん酷評)を書いているとみられる。
 この年、鵠沼時代Click!の岸田劉生は草土社展ばかりでなく、白樺派10周年記念に連動した生前最大の個展(京橋加賀町・日本電報通信社)が開催され、同展はつづけて京都(京都府立図書館)でも開かれている。劉生にとっては、生涯でもっとも繁忙な時期にあたり、また鵠沼で立てつづけに「麗子像」を(ついでに「麗子漫画」シリーズClick!をw)制作していた時期にも相当する。『劉生日記』Click!を見ても、その忙しさや慌ただしさが感じられるが、そんな多忙のなか劉生は中村彝の酷評に目を通しているようだ。
 それに対する劉生の反応が彼の死後、1940年(昭和15)に河出書房から出版された岸田劉生『美乃本体』に、「雑感集」の1編として収録されているので引用してみよう。
  
 僕の画を一顧の価もないやうな態度で批評し去った人の画を見たが、あまりつまらないものなので、へーと思つた。その人の画のつまらない事は前から知つてはゐたが、その画は又あまりに下らないものだつた。/かういふ画を描いてゐてよく、あんな事が言へたものだと思つた。その人にとつては、ああいふものを描く事が芸術上正しい事なのかしら。(中略) 兎に角どちらにしろ、ああいふ画を描いてゐるといふ事は、芸術になくてはならぬものに対して不明であり、さういふ欲望を真に知らないものである事を證明してゐるのだから、ああいふ画を描く人から、僕が悪口を言はれても名誉になつて不名誉にならぬ事は事実だ。/馬の耳に念仏は通じないのだ。通じなくても念仏のせゐではないのだから。
  
 「美」はきわめて感覚的かつ直感的なものであり、言語として表現できない領域を多分に含んでいるのだから、いくら言葉を探して選び表現をしつくして議論しても、わからない奴には死ぬまでわからないのでムダと、突き放しているような文章だ。
 岸田劉生にしてみれば、中村彝の作品は日本における「美」や油絵の具という西洋画道具の表現課題にほっかむりした、レンブラントやルノワール、セザンヌなどの安直なコピーあるいは単なる西洋かぶれのエピゴーネン(模倣追随者)で、「バッカ」野郎Click!にしか見えなかっただろう。「芸術になくてはならぬものに対して不明」とは、日本における「西洋画」表現ならではのオリジナリティ(を創造する「さういふ欲望」)を指していると思われる。「日本で西洋製の油絵の具を拝借し、あえて美を表現・追求する意味とはなにか?」という、制作の大前提となる絵画表現の大きな命題が、なぜ無視され(あるいは意図的に知らんぷりされて忘れられ)、置き去りにされているんだよ?……と感じていたのかもしれない。
第7回草土社展ポスター1919(清宮彬).jpg
岸田劉生「魔邪鬼と踊る麗子」1920頃.jpg
 岸田劉生は、「僕の画にだつて欠点はあるだらう」と書き「欠点は欠点だ」と認めている。その上で、中村彝と同様にガンコで意固地な彼は、自作について「その欠点をかくしきつてゐる芸術的魅力がある」と自画自賛している。確かに劉生のいうとおり、彼の作品(漫画含むw)は晩年の日本画(京都時代)はともかく、いまでもその深い魅力を失ってはいない。

◆写真上:2013年(平成25)に復元直後の、中村彝アトリエの屋根に載るフィニアル。
◆写真中上は、上落合503番地に住んだ辻潤Click!の妻になる小島キヨClick!を描いた中村彝『椅子によれる女』(1919年)。は、1925年(大正14)に画廊九段で開かれた「中村彝遺作展覧会」目録。下左は、1917年(大正6)ごろ撮影された岸田劉生と麗子Click!下右は、下落合464番地のアトリエにおける中村彝(撮影:清水多嘉示Click!)。
◆写真中下上左は、1941年(昭和16)出版の岸田劉生『美乃本体』(河出書房)。上右は、1977年(昭和52)出版の『近代画家研究資料/岸田劉生Ⅲ』(東出版)。は、1920年(大正9)制作の麗子が鵠沼の畑を走る岸田劉生『早春ノ一日』。は、下落合2113番地に住んだ古屋芳雄Click!を描いた岸田劉生『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』。
◆写真下は、清宮彬が制作した1919年(大正8)の第7回草土社展ポスター。は、最近発見された劉生の連作漫画で蓄音機の音楽にあわせ『妖怪と踊る麗子』(1920年ごろ)。

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