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「落合風景」を含む1925年の椿貞雄作品。 [気になる下落合]

椿貞雄アトリエ跡.jpg
 1924年(大正13)から、下落合2118番地に住んでいた椿貞雄Click!は、翌1925年(大正14)の春陽会展に「落合風景」とみられる作品をいくつか出展している。その椿貞雄アトリエを訪問したか、あるいは近所で暮らしていたとみられる同郷の高瀬捷三Click!については、彼の『下落合風景』(1924年ごろ)とともにご紹介している。
 1925年(大正14)3月に、上野公園竹之台陳列館で開催された春陽会第3回展に、椿貞雄は14点の作品を出展している。それらの作品には、下落合の風景を描いたとみられるいくつかのタイトルが読みとれるようだ。春陽会の出品作とは、『晴れたる秋』や『果実図』、『冬日小彩(1)』、『冬日小彩(2)』、『窓外斎日』、『晴れたる冬の道』、『置賜駅前風景』、『美中橋(1)』、『美中橋(2)』、『少女座像』、『江戸川上流の景』、『雪帽子冠れる少女』、『山里』、そして『窓外の道』の14点だ。
 この中で、『置賜駅前風景』『山里』の2作は置賜駅(奥羽本線)のある山形県米沢に帰省したときに描いた画面のようで、『果実図』『少女座像』『雪帽子冠れる少女』の3点は明らかにアトリエ内の仕事だろう。そして、残り9タイトルの風景画が気になるのだ。椿貞雄は、下落合2118番地に建つ住宅を借りてその2階をアトリエにしていたので、『窓外斎日』と『窓外の道』はアトリエの窓から描いた風景画の可能性が高い。また、『晴れたる秋』はアビラ村(芸術村)Click!近辺の風景を写したもので、『晴れたる冬の道』は佐伯祐三Click!と同様に、丘上に通う『アビラ村の道』Click!を描いたものではないだろうか。『冬日小彩(1)』『冬日小彩(2)』の2作も、アトリエ近辺の雰囲気がするタイトルだ。
 明らかに落合地域を描いたとみられる作品としては、『美中橋(1)』と『美中橋(2)』、そして『江戸川上流の景』が挙げられるだろう。「美中橋」は、椿アトリエから「アビラ村の道」を西へ60mほど歩き、岸田劉生が描いた『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』Click!古屋芳雄邸Click!が建つ五ノ坂Click!を一気に下ると、椿アトリエから350mほどで上落合側へわたることができた、妙正寺川に架かる竣工まもない初期型「美仲橋(みなかばし)」Click!ではなかろうか。この『美中橋(1)』『美中橋(2)』のいずれの画面かは不明だが、1925年(大正14)に刊行された「みづゑ」4月春陽会号には画像が収録されているようだ。だが、同号は稀少のせいか画面をいまだ確認できていない。
 『江戸川上流の景』は現在の神田川のことで、大洗堰Click!から千代田城Click!の外濠へと注ぐ舩河原橋までの中流域を江戸川Click!、その上流域を旧・神田上水Click!と呼称していたもので、旧・神田上水と江戸川の呼び名が統合され、現代の「神田川」になったのは1966年(昭和41)のことだ。したがって、「江戸川上流」とは落合地域を流れる旧・神田上水をさすとみられ、あるいは美仲橋を好んでモチーフにしている点を考慮すれば、旧・神田上水の支流(補助水源)である妙正寺川の風景も含まれるかもしれない。
 これらの風景を描いたとみられる作品は、時期的にみて岸田劉生Click!の影響を強く受けていた、いわゆる草土社Click!風の画面だった可能性がきわめて高そうだ。換言すれば、非常にリアリスティック(写実的)で繊細な表現であったことは想像に難くない。したがって、「落合風景」を描いた他の画家たちによるどの画面にも増して、当時の風景が精細かつ正確に記録されているのではないかと思われるのだ。
 大正末ごろの椿貞雄について、1973年(昭和48)に東出版から刊行された『椿貞雄画集』収録の、東珠樹『椿貞雄の画業』から少しが引用してみよう。
  
 そのようにして描かれた椿の作品も、劉生の作品と並べて見ると両者の性格の違いや個性的な相違は歴然としている。東京に生まれ東京に育った劉生の作品が都会的な色調を持ち、米沢生まれの椿の作品が北方的な暗さを持っているということも、宿命的な一例であるが、元来リアリズムという古典的な絵画テクニックに一番個性の相違がはっきりと見られるものである。それはルネサンス以降の絵画でも、同じような描き方をしていながらルーベンスやヴェラスケスやレンブラントの絵は素人にも見分けがつくのに、かえって抽象絵画などの新しい絵画の中に個性の違いが見分けられないものがあることを考えて見ればよくわかる。 (中略) 椿は劉生から多くのものを学んだが、なかでも最も重要なのは、西欧から伝来した油絵具という画材を使って、“日本人の絵”(本文傍点)を描こうとしたことである。
  
椿貞雄「自画像」1915.jpg 岸田劉生「椿貞雄君」1915.jpg
椿貞雄アトリエ1926.jpg
椿貞雄アトリエ1936.jpg
 関東大震災Click!の直後から、岸田劉生Click!は藤沢町の鵠沼海岸Click!から避難して名古屋経由で京都に落ち着いているが、頻繁に東京へと帰郷していた。1924年(大正13)夏にも東京へもどり、下落合のすぐ北側に住んでいた河野通勢Click!(長崎村荒井1801番地)を訪ねている。同じ夏、椿貞雄は米沢で個展を開いているが、劉生が東京にきているのを知ってふたりはどこかで会ってやしないだろうか。長女が生まれたばかりの椿貞雄は、東京で暮らすために新たな住まい探しをしている最中だったとみられる。
 大震災前後の椿貞雄の動向をみると、1923年(大正12)1月に鵠沼の家から東京へ転居し、高田馬場駅近くにアトリエをかまえている。5月に、上野公園で開かれた春陽会第1回展に出品したあと、子どもの夏休みを利用して一家で故郷の米沢に帰省している。9月早々に東京へもどる予定だったのだが、関東大震災で東京の大半が壊滅するともどれなくなり、そのまま米沢に滞在しつづけることになる。同年12月には、大阪毎日新聞社が主催する日本美術展覧会へ出品し、銀杯と賞金千円を受賞している。
 翌1924年(大正13)も、椿貞雄は山形県米沢に滞在しつづけるが、同年3月に日本橋三越Click!で開かれた春陽会第2回展に出品している。このとき、春陽会が客員制を廃止したため、旧・草土社系の岸田劉生Click!木村荘八Click!中川一政Click!、そして椿貞雄の4人は会員になっている。そして、米沢で椿貞雄の個展が開かれた直後に、下落合2118番地の2階家に転居してくるという経緯だ。
 そして、先述した1925年(大正14)3月に、上野公園で開催された春陽会第3回展へ14点もの絵を出品しているが、岸田劉生は同年をもって春陽会を退会している。おそらくこの間も、椿は劉生と密にやり取りをしており、ひょっとすると劉生は下落合を訪れているかもしれない。劉生が鎌倉へ転居する予定を聞いたのか、椿貞雄は同年中に鎌倉町の扇ヶ谷(おうぎがやつ)へ先行して転居している。翌1926年(大正15)3月になると、岸田劉生は京都生活Click!に見きりをつけて、鎌倉町の長谷にアトリエを移している。
 さて、下落合2118番地にあった椿アトリエとは、どのような雰囲気だったのだろうか。近所に住む人たちは、おかしなことに画家が家を借りたのではなく、剣術家が転居してきたのだと思いこんでいたようだ。おもに画家たちが客筋だった、おでん屋を開業していたとされる“むさしや九郎”という人物が、1929年(昭和4)に刊行された「美術新論」1月号で、『謹賀新年妄筆多罪』というエッセイを残しているので、少し長いが引用してみよう。
美仲橋.JPG
椿貞雄「冬枯の道」1916.jpg
椿貞雄「入江(伊豆風景)」1928.jpg
  
 掛声の方では、椿貞雄先生の方が、オーソリチイであるかも知れない。先生嘗て都の西北は下落合に閑居されし時、その二階をアトリエにしてゐられたが、朝に夕に、その二階から、エイツ……糞ツ……エイツ……ウン……と掛声が漏れて来るので、近所では剣術の先生が越して来て毎日独り稽古でもしてゐるのかと思ふたさうだが、画家と知るに及んで、一驚し、それでは多分、剣士にして画家を兼ねたる宮本武蔵の子孫だらうと、且つうなづき且つ尊敬したさうだ。未だおでん屋を始めなかつた昔、一日、先生を訪れて拝眉を得た事があつたが、先生の余に問うて曰く、『貴公、囲碁を善くするや?』(中略)そこで、買ひ立ての碁盤が持ち出され、先生白を取り、余黒を取り、パチリ、コツン、と下ろし始めたが、軈て余の先生に抗議して曰く、『暫く待たれよ。先生一石を降ろす度毎に、或はエイツと叫び、或は糞ツと吠え、或はウンと唸り、たゞ一石と雖も掛声なしに打たざると云う事なく、而も其の変声甚だ大にして余の耳をツン裂き、余の霊魂をして宙外に飛ばしむ。為めに余の石動もすれば乱れんとし、充分に実力を発揮するを得ず。乞ふ、以後、掛声を止めよ。』先生、色を成して答へて曰く、『貴公、咄、何を云うか。人生行路凡て力の表現也。而して余の掛声は力の溢ふれて外に発する也。(中略)いざ、勝負を続けむ、其の石、切るぞ。エイツ…糞ツ…』そこで先生の掛声に圧倒されて、碁はさんざんに敗北して帰つた事があつたが、亦、先生は角力をも善くし、人に道で会うと、いきなり相手の肩先に手をかける癖がある。
  
 椿貞雄は、単に烏鷺を囲みながら奇声を発していただけなのだが、「若し余に向つて掛声なしに絵を描けと云う者あらば、そは余に死ねと勧むるに同じ」ともいっているので、制作中にここぞという一筆には気合を入れて大声で叫んだのだろう。近所迷惑な話だが、それが当時の下落合住民には剣術の稽古に聞こえていたらしい。
 この“むさしや九郎”という人物は、当初、美術評論家あるいは作家のペンネームだとばかり思っていたのだが、ほんとうに縄暖簾を架ける“おでん屋”だったようで、どのあたりの地域で店を開業していたのかが気になっている。
 「美術新論」を年代順にたどっていくと、1929年(昭和4)ごろから1933年(昭和8)ごろまで同誌に「やわらかい」エッセイを寄せており、最初は画家たちとの頻繁な交流から、上野あたりの路地裏で開業している店かと思ったのだが、落合地域とその周辺域に住んでいた画家たちがやたら頻繁に登場してくるのだ。しかも、細かな生活の様子までが記録されていたりする。かなり美術通のようで、帝展や二科、1930年協会Click!(のち独立美術協会Click!)、春陽会など親しく交流していた画家たちは多岐にわたっている。
鵠沼時代劉生・椿・横堀1921頃.jpg
椿貞雄油絵画会規定192503不二.jpg
椿貞雄・長女朝子1925.jpg
 たとえば、甲斐仁代Click!中出三也Click!が自転車を練習し、すぐに耳野卯三郎Click!も加わったとか、川口軌外Click!里見勝蔵Click!牧野虎雄Click!片多徳郎Click!深沢省三Click!熊岡美彦Click!三岸好太郎Click!なども登場している。むさしや九郎の店は落合地域の近く、目白駅や高田馬場駅、または東中野駅からほど近いあたりに開店していた可能性もありそうだが、おでん屋が見た聞いた画家たちのエピソード、それはまた、別の物語……。

◆写真上:「アビラ村の道」に面した、下落合2118番地の椿貞雄アトリエ跡(左手角)。
◆写真中上上左は、1915年(大正4)制作の椿貞雄『自画像』。上右は、同年制作の岸田劉生『椿貞雄君』。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる椿貞雄アトリエ跡。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同アトリエ跡。
◆写真中下は、下落合と上落合の境を流れる妙正寺川に大正期から架かる美仲橋の現状。は、1916年(大正5)制作の代々木界隈を描いた椿貞雄『冬枯の道』。は、1928年(昭和3)に制作された椿貞雄『入江(伊豆風景)』。
◆写真下は、1921年(大正10)ごろに鎌倉か鵠沼で撮影された相撲好きの画家3人。左から右へ岸田劉生、椿貞雄、横堀角次郎。は、1925年(大正14)3月に美術誌へ発表された「椿貞雄油絵画会規定」。住所が「下落合中井二,一一八」と書かれているが、コロコロ位置が変わる「中井」Click!の字名は1923年(大正12)ごろまでで、1925年(大正14)現在は下落合(字)小上2118番地が正しい(元にもどった)表記だったはずだ。は、1925年(大正14)に下落合2118番地のアトリエ庭で撮影されたとみられる椿貞雄と朝子。竹垣の向こうに見える住宅との間の道が、のちの吉屋信子邸Click!へとつづくいまだ細い道筋と思われる。

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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(7) [気になる下落合]

曾宮一念「下落合風景」1920頃.jpg
 1920年(大正9)ごろに制作された、曾宮一念Click!の『下落合風景』が大川美術館に収蔵されている。(冒頭写真) この画面を観たのはかなり前だが、これまで描画位置がまったくわからなかった。だが、昔日の下落合と周辺の風情が各時代ごとに薄っすらと想定できるようになったいま、少しこだわって同画面を観察してみよう。
 初めてこの画面を観たとき、これは下落合を描いた風景ではないのではないか?……と考えたほどだ。どこかでタイトルの取りちがえが起きたか、あるいは後世に誤って付加された画題ではないかと想定したからだ。それには、曾宮一念Click!が画道具を携帯し20号ほどの描きかけキャンバスを手にした、似たような場所にたたずむ写真が残されていたせいでもある。下落合の画室を離れ、どこかへ旅行した際にでも撮影されたらしいその写真には、『下落合風景』と近似した風景がとらえられている。
 けれども、長期間ペンディングにしていた曾宮の『下落合風景』を、改めて仔細に見なおしてみると、1920年(大正9)ごろで唯一、想定できる場所があることに気がついた。では、描かれた画面のモチーフをひとつひとつ観察してみよう。
 一見、どこかの宅地造成地に拓かれた二間道路、あるいは切り通しのように見えている凹地で、路面には雨が降って泥寧になるのを防ぐためか、石畳とまではいかないが敷石が乱雑に敷きつめられているのが見える。左右に見える小崖のようなむき出しの土手は、地下から上がってくる湿気を防止するため、高めに土盛りされた宅地造成地だろうか。右手の小崖の上には、境界杭(標定杭)Click!のような白い棒杭が並んで2本描かれている。凹地は直線状ではなく、左手にややカーブを描きながら前方へ消えている。
 強めの陽射しは、左手やや後方から射しこんでおり、風景を見つめる画家の左側から背後にかけてが南側だろう。右手の遠景には、森林あるいは丘陵と思われるグリーンベルトが、おそらく陽射しの向きから東西方向に連なっている。その緑地帯の南端、ないしは南斜面(山麓)らしい一帯には、集落とみられる多めな家並みが描かれている。かなりの軒数が見てとれるので、付近を耕作する茅葺き農家の集落だろうか。
 以上のような観察を重ねてみるが、1920年(大正9)の現在、下落合の新興住宅地にしては、なにかしっくりこないで大きな違和感をおぼえる。どこかで大きな勘ちがい見立てちがいをしており、曾宮一念Click!が「おい、べらぼうな見当ちがいだぜ!」といっているような声が聞こえてきそうだ。当時は、いまだ近衛町Click!目白文化村Click!も、あるいはアビラ村(芸術村)Click!も存在しない時代で、下落合には華族の屋敷や別荘Click!、画家のアトリエなどが森に隠れるようにポツンポツンと建てられているような状況だった。目白通り沿いの一部を除き、モダンな住宅が連なる街並みなど影もかたちも存在しない時代だ。そんな田園風景が拡がる下落合なので、一度はあきらめかけた。
 では、まったく別の角度や視点から、曾宮一念Click!の『下落合風景』を眺めてみよう。まず、手前から奥に向かってつづく二間道路のような凹地だが、道路にしてはまったく手入れがゆきとどいていない。人が歩けるような道筋はつけられているが、雑草が生い繁るにまかせるような状態であり、もしこれが新興住宅地であれば、現地見学の顧客に与える印象がよくないのは自明のことだろう。それに、道路が直線状に拓かれているのではなく、左手へ妙にカーブしているのも新興住宅地らしくない風情に感じる。
 また、宅地造成地にしては左右の小崖に、縁石も築垣も見られない。当時なら、大谷石による住宅敷地の縁石や石垣が築かれてもおかしくない時代だ。右手の小崖に設置された棒杭は、境界杭(標定杭)にしては2本近接して並んでいるのが不自然に感じる。なぜ、境界杭の間を空けて2本建てる必要があるのだろうか。左右の小崖の上は、樹木が少なく地面が拡がっているように見え、造成を終えた新興住宅地のようにも見えるが、農耕地が拡がる地面のようにも思える。右手に見えている集落は、一帯の田畑を耕す農家なのではないか……。
曾宮一念「下落合風景」拡大1.jpg
曾宮一念「下落合風景」拡大2.jpg
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曾宮一念写生場所AI.jpg
 このように考えてくると、画面に描かれたモチーフがまったく別のものに見えてくるのだ。二間道路のように見える、凹地の底に敷かれた石は宅地の簡易舗装などではなく、水ができるだけ地下に浸透しないように敷かれた用水路の底石ではないか。右手の崖に設置されている2本の白い棒杭は、田圃に張る水を調節する小型の水門柱ではないだろうか。したがって、小崖の上には、一面に水田が拡がっているのではないか。白い棒杭が水門柱とすれば、わずかな水漏れがあるせいか、その下に描かれた草むらの色がやや鮮やかに変色しているのもうなずける。また、稲穂の背丈が伸びたとき、水門のある位置が容易に確認できるよう、アカマツの樹を目印に残しているのではないか。
 画架がイーゼルを立てているのは、宅地造成地の二間道路などではなく、下落合でも大きな用水路の底地であり、この時期には田畑に水がいきわたって、上流の水門が閉鎖され人が歩けるようになった状態の地点ではないだろうか。
 以上のように、画面の見方をまったく別の異なる解釈に変えると、1920年(大正9)現在の下落合で心あたりのある描画位置が、たった1ヶ所だが浮上してくる。すなわち、①かなりの軒数がまとまった集落が確認できる、②一帯に拡がる広めな水田地帯、③かなり大きめで河川に近いような幹線状の用水路、④上流に水門が設置され通水に融通がきくような用水路の大規模な土木工事……。これらの条件に合致するのは、当時の番地でいうなら下落合(字)南耕地928~1017番地あたりの風景となるだろう。
 すなわち、右手に見える森林の連なりは下落合の目白崖線であり、その下に見えている茅葺き屋根が多そうな集落は、いまだ一般住宅ではなく農家がほとんどの下落合(字)本村にある家並みということになる。もちろん、当時は西武線Click!など存在していない。では、なぜこの用水路に水が通っていないのか、なぜ⑤に書いたように上流へ水門を設置する必要があったのか、それは下流にある旧・神田上水Click!(1966年より神田川Click!)の田島橋付近で稼働していた、水車小屋と密接に関係しているのだろう。
 この大きな水路は、明治末から大正期にかけて拓かれたもので、明治期の古い地図には採取されていない。水車小屋の上流である、妙正寺川と旧・神田上水が落ち合う地点のやや下流にあった一枚岩(ひとまたぎ)Click!より、東へ170mほどの下落合955番地あたりから、水車小屋の下流である850番地あたりへと、ほぼ東西に抜ける大型の用水路だった。つまり、この用水路は神田川の分水流の役割りをはたしていたのだ。
 すなわち、この用水路の通水時には水車小屋の水勢が弱まってしまうため、田圃に水がいきわたった時点では水門を閉じて、旧・神田上水にある水車の水勢を確保しなければならなかったのだ。画面右手の小崖上は、目白崖線から噴出する自然の湧水で田圃の水はなんとかまかなえたのだろうが、画面左手の旧・神田上水へとつづくエリアの水田(南耕地の南部)には、この用水路の水がないと不足がちだったとみられる。また、水車小屋が専門の製粉事業者による経営でない限り、付近を耕す下落合の農民たちと水車小屋の利害は一致Click!していただろう。さらに、大雨が降った際に旧・神田上水の氾濫を未然に防止し、周辺に拡がる田圃を洪水から守るための分水路の役割りもはたしていたとみられる。
田圃の水門.jpg
田圃水門.jpg
農業用水1918.jpg
農業用水1926.jpg
 また、大正も後期に入り下落合東部の旧・神田上水沿いが工業用地として整理が進むと、この用水路が水色(水路)ではなく茶色(道路)に描かれた地図(落合町市街図/1925年)も登場している。それだけ田圃が減り、通水期間が短くなったのかもしれないが、昭和期に入り蛇行を繰り返す旧・神田上水の整流化工事計画Click!が具体化すると、この用水路付近が直線化される川筋に想定されたため、再び通水するのが常態化していったようだ。なぜなら、田島橋付近にあった水車小屋が、昭和初期にはこの用水路沿いに移転しているのを、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」で確認できるからだ。
 1923年(大正12)の関東大震災Click!を契機として、東京市街地で暮らしていた住民たちは、より安全な地盤とみられる東京郊外へと大挙して転居しはじめた。同様に、市街地で被害を受けた川沿いの工場も、いまだ水質が汚染されていない、さらに上流の敷地へと移転しはじめている。下落合では耕地整理が急速に進み、あちこちの丘上や斜面にはモダンな住宅街が建ち並び、川沿いには当時の落合町による環境保全の行政指針Click!によって、排煙による空気汚濁をともなわない大小の工場が誘致されつつあった。そのような状況の中で、この用水路の役割りは徐々に終わりを告げていったはずだ。そして、新たな旧・神田上水の計画流路に組みこまれ、川幅が拡げられて川底も深く掘削されるとともに、曾宮一念Click!が写生した『下落合風景』の風情は跡形もなく消え失せてしまった。
 1920年(大正9)の晩春、少し前にドロボーに入られた下落合544番地Click!の借家から、画道具を抱えて外出した曾宮一念Click!は、おそらく彼を下落合へ呼んでくれた中村彝Click!のアトリエに立ち寄っているだろう。そこから七曲坂Click!の道筋へでると、そのまま南へ向けて道なりに歩いていった。下落合氷川社Click!の境内西側、アカマツの樹々が並ぶ松影道Click!を抜け、一面に広がる田圃の畦道を160mほど歩いていくと、いまだイネの背丈が低い水面に陽光がキラキラと映えるなか、現在の落合橋あたりに架かる小さな土橋が見えてきた。土橋から下を見ると、用水路には水がなく雑草が生い繁って乾燥している。
 曾宮一念Click!は、土橋のたもとから用水路に下りると、少し上流に向けて歩いていった。用水路の先(上流)は左手にカーブをしていて見通せないが、右側の土手に田圃の水を抜く小さな水門があり、わずかに水漏れして草が湿っている手前に立つと、目白崖線の南斜面には北風を避けるように建てられた集落の家並みが見えている。
用水路跡1936.jpg
曾宮一念「落合風景」現状.jpg
落合橋.jpg
曾宮一念.jpg
 曾宮一念は、その集落が鎌倉時代からつづく下落合の本村Click!だというのを、おそらくいまだ知らなかったのかもしれないが、足をとめて汗をぬぐうとタバコに火を点けた。そして、おもむろに野外用のイーゼルを組み立てると、タバコをくわえたままキャンバスを固定しにかかった……。そんな情景が浮かんできそうな、大正中期の『下落合風景』なのだ。

◆写真上:1920年(大正9)ごろ制作された曾宮一念『下落合風景』。
◆写真中上中上中下は、画面のポイントとなる部分の拡大。は、旅先で同じような凹地形の場所を写生をする曾宮一念(AI着色)。
◆写真中下中上は、現代の水田でも見かける小型水門だが鉄製かコンクリート製が多い。中下は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる描画ポイント。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント周辺。
◆写真下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる描画ポイント周辺と旧・神田上水の新流路。中上は、描画ポイント付近から北西の方角を眺めた風景の現状。中下は、描画ポイント近くに架かる落合橋。は、戦後に撮影された写生中の曾宮一念。
おまけ
 曾宮一念が同時期に描いた『風景』(1920年)も、相変わらず以前から気になっている。画面の左手が西にちがいなく、どこかで一度目にしている風景のように感じるのだが……。
曾宮一念「風景」1920.jpg

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出社する幽霊社長と吸血魔が跳梁する下落合。 [気になる下落合]

下落合605現状.jpg
 そろそろ初夏なので恒例の怪談、下落合を舞台にしたオバケClick!の物語をふたつほど。
  
 おそらく1950年代の話だと思うが、下落合の自邸から出社したある企業の「山川」という社長が、会社で脳溢血を発症して急死した。ふだんから酒豪で知られていた社長だったが、健康維持のために秘書へジュースをもってくるよう頼んだあと、それに口をつけようとして前かがみになったとたんに倒れ、そのまま蘇生しなかった。
 遺体は救急病院から下落合に運ばれ、晩に通夜が行なわれたが、その場でさまざまな「怪異」が起きたのだという。枕辺に寄り添う、社長秘書だった女性は「怪異」を目撃して倒れてしまい、夫人や詰めかけた重役たちも膝を立てて逃げ腰になった。そのときの様子を、1959年(昭和34)に大法輪閣より出版された長田幹彦『霊界五十年』から引用してみよう。
  
 午前の二時頃になってじっとみていると俄然彼の喉仏がぴくりと動いた。と、一しょに急に笑っているような表情になって頬がぶるぶるけいれんしだした。ぼくはぎょッとした。ニタニタと笑ったように思えたが、たしかに口をあけたのである。よくみると少し口をあけて何か吐きだそうとして頬をまげている。(中略) それがどうしたはずみにか上の入歯がだんだんぬけて落ちてきた。とたんに唇がそっとあいて、丁度噴き笑ますような恰好になったのである。
  
 このほか、納棺のあとに棺桶の蓋をたたく音を夫人が聞いたりしている。……う~ん、これはどう考えても死後硬直で、死者の筋繊維が収縮を起こして動いている(ように見える)だけだと思うが、親友の著者は「怪異」として記録している。
 だが、ほんとうの怪異と呼べる現象は、社長の葬儀後しばらくしてからはじまった。下落合から会社へ、相変わらず社長が出社してくるのだという。よほど経営面で気がかりなことがあったものか、社長秘書だった「波川」という女性や、社員たちにまで目撃者があらわれるようになった。「松原」という社員は、退社しようとして階段を下りていると階下からふうふう荒い息を吐きながら、うつむいて上ってくる社長を何度も目撃した。しかも、社長がお気に入りだったセルの縞柄コートを着ていたという。
 同じく紺縞のコートを着た社長を、秘書だった「波川」も夕方から夜にかけて何度か見かけていた。また、給仕の「小暮」という青年も、同じ姿をした社長の幽霊を見ている。同書より、著者と社員3人が同時に目撃した階段の怪談を、少し長いが引用してみよう。
  
 その日の夕方、丁度五時頃階段のところへいってみた。みんなにいうと、ほかの会社の人にでも聞えるとうるさいからとお互に口をつぐんで、ぼくと松原さんと波川さんとそれから小使の小暮と四人でそろそろおりていった。(中略) 「あらッ、あそこから上ってらっしゃるのは社長じゃないかしら。どうもよく似てらっしゃいますね」(中略) 「そんなばかなことはないだろう。日東陶器の専務もそっくりだからね」/そういいかけてぼくも眼をすえてみると、帽子をあみだに被ってゆっくら上ってくるのはどうみても山川君にちがいないのである。/「やッ山川君!」/と思わず声をかけたのはぼくであった。と、山川君はうえを仰いできッとなったが、急ににッと笑って、何もいわずに、左の手をあげて軽いあいさつを送った。それは彼のくせであった。(中略) 山川君はそれを聞くとふいと姿が小さくなってふっと消えた。まるで望遠レンズを遠くへしぼるような、あっけない感じであった。(中略) ぼくはこんなところでかたまって話していて、もしや人に聞かれるといけないと思ったので、みんなをつれて階下のコーヒー店へいった。幸いおそくてあたりに人がいないので、/「ねえ、小暮さん、幽霊の話はそれくらいにしないと人に聞えると大変だよ。このビルじゅうの評判になるからね。実は波川さんも松原さんもたしかにみるというんで、私も今日は検分にきたんですよ。たしかに出るね」/「そうでござんしょ。掃除婦の人にもみた女があるんですよ」/「誰だね」/「おいくって後家さんの、痩せたお嫁さんがいるでしょ。あの人ですよ」
  
 幽霊になってまで出社する社長は、怖いというよりどこかうら哀しさを漂わせている。給料日を前に資金繰りが気になるのか、銀行の借入返済が心残りなのか、社債の償還と株主総会が心配なのか、いずれにせよ仕事に縛られて現われる幽霊はどこか悲しくて哀れだ。
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長田幹彦「霊界五十年」1959.jpg 長田幹彦「幽霊インタービュー」1952出版東京.jpg
 もうひとつは、気分を変えて怪談というよりも「怪人」の物語だ。拙サイトでも何度か、名探偵・明智小五郎が活躍する江戸川乱歩Click!の作品をご紹介してきた。落合地域の南側にあった、戸山ヶ原Click!を舞台とする怪人二十面相Click!との対決や、上落合や小滝台住宅地Click!の近くに拡がる戸山ヶ原の一本松Click!を舞台にした令嬢誘拐事件Click!など、落合地域の周辺では「重大事件」が次々に起きていた。
 だが、これらの犯罪はほとんどが戦前の、しかも大正末から昭和初期にかけての事件であり、敗戦後に、つまり20世紀も後半になってから、怪人二十面相が落合地域の周辺に出現したという話は聞かない。ところが、1960年代の後半に下落合にはとんでもない「怪人」が姿を現わし、町内はもちろん世間を騒がせていたのだ。この「怪人」は、自分のことを吸血コウモリの魔人と称しており、人間と同じような姿になった吸血魔は下落合の上空を飛びまわりながら、平然と人の首筋に噛みつき生き血を吸って殺害するなど、怪人二十面相などよりもよほど凶悪で怖ろしい魔人だった。
 1960年代後半といえば、名探偵・明智小五郎は老人ホームで明智文代または花崎マユミの介護を受けるか、あるいはすでに鬼籍に入っていたかもしれない時代なので、この事件の捜査に乗りだすのには無理があり、吸血魔人と対決したのは同じく探偵で、中央線・中野駅近くの「上品な屋敷」に事務所をかまえる神津恭介だった。
 「一世の名探偵」というショルダーで呼ばれる神津恭介は、自分のことを「名探偵」などといってしまう明智小五郎ほど自信過剰で背負(しょ)ってはいないが、かんじんなところで大ボケをかましてミスをしたり、どうやら易者に手相を見せて占ってもらってたりする頼りなさが難点だけれど、明智のように「ははははははは」と強がって無意味に笑ったりしないところが、謙虚な姿勢といえばいえるだろうか。
 そんな吸血コウモリの魔人殺人鬼からとどいた怖ろしい脅迫状を、1967年(昭和42)にポプラ社から出版された高木彬光『消えた魔人』から引用してみよう。
  
 「下落合六〇五番地の幽霊屋敷といえば、たしかにここですね。この家へ、あすの夜十二時に持ってこいというのです」/「この家へあすの十二時に……」(中略) その脅迫状というのを見せてもらった恭介は、だまって二、三度うなずきました。/『三月三十一日午前〇時、下落合六〇五番地、通称幽霊屋敷という建物へ、例の聖書を持参せよ。さもなくば、汝の命は、この野ねずみのように、生血を吸いとられて失われるであろう。吸血魔』/その筆のあとは、たしかに恭介にも見おぼえのある、吸血魔のものにちがいありません。ああして河野利三郎のところに送られた脅迫状と、おなじ人物が書いたことには、うたがうよちもないのです。
  
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高木彬光「消えた魔人」1967ポプラ社.jpg 高木彬光.jpg
 『消えた魔人』では、下落合の街並みが大正期から昭和初期にかけての古い屋敷が建ち並ぶ、まるで不気味で怪しい幽霊屋敷だらけのようなイメージで描かれており、多摩川河畔の蝙蝠屋敷と下落合の幽霊屋敷に出現した人の生き血をすする吸血魔は、空中を飛びまわりながら殺人を重ねていくという、もう前代未聞の事件になっていくのだ。この洋館が建ち並ぶ戦前からの屋敷街のイメージは、ほぼ同時代に描かれていた楳図かずおの「へび女」Click!の舞台に通じるものがあるだろうか。
 しかも、わかりにくい迷路のようになった下落合の道筋を背景に、警視庁から派遣された大勢の武装警官隊が空飛ぶ吸血魔を追いまわし、とうとう逃げ場のない怪しげな袋小路に追いつめて、拳銃をバンバン撃(ぶ)っ放しているにもかかわらず、魔人が霧のように消滅して逮捕できずに逃げられてしまうという、ぜんたい1960年代後半の下落合はどうなっていたのか、まともなちゃんとした街として機能していたのかよ、大丈夫か?……などと、心配になってしまうほどの不気味さを漂わせているのだ。
 吸血魔のアジトである幽霊屋敷にされてしまった大きな洋館、「毎晩幽霊が出たり死人が出たりする」らしい大屋敷、下落合(2丁目)605番地(現・下落合4丁目)は目白通りから子安地蔵通りClick!を入ってすぐ右手(西側)の一画、ほんの一時的に前田寛治Click!の借家があったとみられる火の見櫓の向かい側の屋敷であり、かつて牧野虎雄Click!片多徳郎Click!曾宮一念Click!などのアトリエが建ち並んでいた北東側のエリアにあたる。
 この番地に、大きな西洋館などあったかな?……と調べてみると、確かに戦前には大きな敷地に洋館と見られる野萩徳太郎邸(1938年/大正末は野萩浜次郎邸)が建っていた。ただし、野萩邸は下落合605番地ではなく西隣りの敷地で606番地だ。「なんで宅が、幽霊屋敷なんですの!?」という野萩家のお怒りの声が聞こえてきそうだが、同邸は戦災で全焼しており、高木彬光は戦前に見られた下落合の街並みを、1960年代に思いだしながら再現して書いたものか、あるいはまったく出まかせの想像だろうか。
 ちょっとネタバレになるけれど、この事件の首謀者であり「満洲」Click!ハルビンClick!で結成された蝙蝠団のメンバーたちがおもしろい。下落合にいた「蝙蝠の銀次」をはじめ、「ルパンの五郎」「ピストルの政」「男爵新吉」、紅一点の「まぼろしのお花」と5人組の犯罪組織だが、どこか芝居の『青砥稿花紅彩画(あおとぞうし・はなのにしきえ)』Click!に似ているとともに、モンキー・パンチによる『ルパン三世』Click!を思い浮かべてしまう方も少なくないのではないか。拳銃の名人である「ピストルの政」や、高級車を鮮やかに乗りまわす「まぼろしのお花」など、次元大介や峰不二子のイメージと重なりそうだ。
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 モンキー・パンチは、ポプラ社から出版されたばかりの『消えた魔人』をどこかで読んでやしないだろうか。くしくも、高木彬光の『消えた魔人』は1967年(昭和42)の7月に刊行され、『ルパン三世』は同年の翌8月に、まるで示しあわせたかのように発表されている。

◆写真上:子安地蔵通り沿いにあたる、下落合605番地界隈の現状(右手)。
◆写真中上は、幽霊の社長が出社してくるのは戦災をまぬがれたこんなビルだろうか。下左は、1959年(昭和34)出版の長田幹彦『霊界五十年』(大法輪閣)。下右は、1952年(昭和27)出版の長田幹彦『幽霊インタービュー』(出版東京)。
◆写真中下は、下落合を跳梁する吸血魔で挿画・岩井泰三。は、1967年(昭和42)出版の高木彬光『消えた魔人』(ポプラ社/)と著者()。
◆写真下は、下落合の路地へ追いつめた吸血魔を銃撃する武装警官隊。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる下落合605番地とその周辺の街角。は、1960年代の下落合はこのような大正建築(1965年撮影)があちこちに残る街並みだったろう。
おまけ
 高木彬光が想定する吸血魔のアジトは、こんな雰囲気の西洋館だろうか。野萩邸と同様に、「なんで宅が、吸血魔のアジトなんざんしょ!?」とさっそく叱られそうだ。
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耳野卯三郎アトリエを往復する金山平三。 [気になる下落合]

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 以前、宮本恒平Click!が敗戦間近な1945年(昭和20)1月に板キャンバスへ描いた、『画兄のアトリエ』Click!という作品をご紹介したことがあった。降雪のあと、中野区上高田1丁目421番地に建っていた耳野卯三郎アトリエを写生したものだ。
 耳野卯三郎Click!は、1916年(大正5)3月に東京美術学校を卒業しており、宮本恒平Click!は1920年(大正9)3月の卒業なので、美校では4年先輩の「画兄」ということになる。ふたりはふだんから親しく交流していたようで、宮本恒平は下落合(現・中落合/中井含む)の西外れまで歩き、バッケ坂Click!を下りて妙正寺川をわたるとバッケが原Click!を横断しては、丘の中腹にある耳野アトリエを頻繁に訪れていたようだ。だが、敗戦間近な時期にもうひとり、耳野卯三郎アトリエへ何度か往復していた画家がいる。アビラ村(芸術村)Click!に住んでいた、下落合4丁目2080番地の金山平三Click!だ。
 耳野卯三郎は夫人とともに、金山平三夫妻Click!とは親しかった。戦前、金山アトリエClick!で開催されていた社交ダンス教室Click!の常連であり、南薫造Click!夫妻や大久保作次郎Click!夫妻などにまじって、少し前には上落合2丁目545番地の材木屋の2階に住んでいた、大田洋子Click!の連れあいである黒瀬忠夫Click!から、社交ダンスの手ほどきを受けている。だから、耳野夫妻はともに金山平三とはお馴染みであり、洋画界の“巨匠”が突然訪ねてきても不思議ではないのだが、金山が上高田のアトリエを訪問したのは散歩や写生のついでなどではなかった。耳野卯三郎に、折り入って頼みがあったのだ。
 戦争も末期になると、東京のあちこちでB29の少数編隊による散発的な空襲Click!がつづくようになっていた。そして、1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲Click!では、(城)下町Click!の東半分にあたるほぼすべての街々が焼き払われている。それを見ていた東京西部の住民たちは、「明日はわが身だ」と急いで生まれ故郷や姻戚を頼って地方へ疎開したり、あわてて自宅の庭先に掘った防空壕Click!へ、だいじな家財を運びこんだりしている。そして、同年4月13日夜半の第1次山手空襲Click!を迎えることになる。
 午後11時ごろからはじまった、山手地区(山手線の東側一帯)を中心とするこの空襲では軍事施設や鉄道駅、河川沿いの工場地帯、幹線道路沿いの繁華街などを中心にねらった爆撃であり、のちの同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!のように、焼け残った住宅街を無差別に絨毯爆撃していく空襲とはやや異なっていた。だが、同空襲による延焼で、多くの住宅街が延焼に巻きこまれて焦土と化している。
 金山平三は、おそらく東京大空襲を目のあたりにして、アトリエに保存している自身の気に入った作品群を心配したのだろう、作品の疎開を考えはじめたにちがいない。金山平三は、自作をなかなか売ろうとはせず(だから貧乏だったのだが)、自分でよく描けたと思う作品はアトリエにストックしておくのが常だった。金山夫妻が、山形県の最上川が流れる河畔の横山村(現・大石田町)への疎開を決心するのは、同年5月(第2次山手空襲の直前)なので、それまでに作品類を疎開させる必要があったのだ。
 そこでひらめいたのが、周囲にあまり住宅が建てこんでおらず、町内の避難地にも指定されていた広大なバッケが原が目前に広がる、上高田の耳野卯三郎アトリエだった。金山アトリエでは、4月13日夜半の空襲で目白文化村Click!の方角に火の手が迫るのも見えていただろうし、金山夫妻も真夜中に中井御霊社Click!か、そのバッケ(崖地)Click!下まで退避していたかもしれない。自身のアトリエも、いつ空襲で炎上するかわからない状況の中で、耳野卯三郎のアトリエならB29から焼夷弾や爆弾を落とされることはない、もし落とされたとしても周囲の環境から延焼する可能性が低いと判断したのだろう。また、耳野アトリエとは別に、山梨の知人宅にも作品の何点かを疎開させている。
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 だが、結果はすべて裏目に出てしまった。下落合の金山平三アトリエだけが無傷で空襲をくぐり抜け、山梨の疎開先と耳野卯三郎アトリエが空襲で全焼してしまったのだ。そのときの様子を、飛松實のインタビューで金山自身が悔しそうに語っている。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。
  
 「何くそと思って描き溜めた自信作の大部分を、戦争中耳野君のアトリエや山梨の方へ疎開させたところ、それが皆空襲で焼けてしまった。焼けなかった私のアトリエに残っていたこの作品だけで『これが金山か』と言われるかと思うと情けなくなる。こんなことを言うと負け惜しみととられるから誰にも言ったことはないけれど……。」
  
 このとき、戦前に描いた金山平三の重要な作品が、疎開先ですべて灰になってしまった。なお、空襲で耳野卯三郎アトリエが焼けたのを、「4月」としている年譜をかなり見かけるが、耳野本人が記憶しているように5月の第2次山手空襲Click!のほうだろう。また、4月であれば金山平三はまだ下落合にいたので、耳野アトリエが焼失したのなら戦後ではなく、もっと早い時期に自作が灰になったのを知っていたはずだ。したがって、山形の疎開先からもどったときに、自作の焼失で愕然とすることはありえないだろう。
 金山平三は、B29のアビラ村(芸術村)Click!への来襲も予想し、直線距離で780mほど離れた耳野アトリエへ、せっせと出来のいい自作を選んで運んでいる。おそらく、山梨の知人宅への作品疎開が先で、空襲の影響から交通や郵便事情が急激に悪化したため、耳野アトリエへの作品疎開があとからの出来事のように思われる。金山平三が、作品の保管を依頼しに耳野アトリエを訪れたのは、1945年(昭和20)の4月ではなかったかと想定している。4月13日夜半の第1次山手空襲のあと、アトリエに残っている作品群に強い危機感をおぼえ、山梨への作品疎開が困難になったのちに、上高田まで出かけているのではないだろうか。
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 では、今度は飛松實による耳野卯三郎への手紙によるインタビューの様子を、少し長めになるが同書『金山平三』よりつづけて引用してみよう。
  
 「その時分は今のように家もたくさんありませんし、私の屋敷内にも大きな木が繫っておりました。空襲など思いもよらんという情況でした。『君のアトリエはどうも大丈夫らしいから預ってくれないか』と持って来られたのが十三点、数日たって更に三点を加えられて、『これ皆僕の好きな絵なんだ』と言われました。皆磯谷の良い額縁にはめられていました。/大体十二号から八号ぐらいで、ダリヤの絵も、菊もありました。佐原あたりの水門を描かれた赤茶けた冬景色など好きでたまらぬような感じでした。思い出しても胸が痛みます。東京最後の空襲で、たしか五月二十日だったと思います。旅行中だった私は、帰ってみると、黒こげの柱だけが立っていました。その時先生が来られて、私の肩をだいて泣かれました。そして淋しかろうと、大石田の『雪どけ道』四号を額縁に入れて持って来て下さいました。其後更に十二号のダリヤの絵も下さって、すべてを烏有にした私を慰めて下さいました。」
  
 「磯谷」とは、明治期に創業の額縁専門店で、いまも営業をつづけている老舗だ。戦後30年近くたってからの、しかも晩年の耳野卯三郎へのインタビューなので、記憶に若干の齟齬が見られるけれど、耳野自身もアトリエが空襲で焼けるとは思ってもみなかった様子が伝わる。「五月二十日」は5月25日夜半の第2次山手空襲のことだが、金山平三が「私の肩をだいて泣かれ」たのは、疎開先の大石田作品を持参していることからも、戦後1946年(昭和22)以降の出来事だろう。
 このころには、バラックの簡易建築だったのかもしれないが、耳野アトリエが再建されている様子が、1947年(昭和22)撮影の空中写真に見えている。戦後、曾宮一念Click!は東京にくるたびに耳野アトリエを訪問しているが、戦前からの耳野アトリエは焼失しており、戦後に再建されたばかりのアトリエを訪ねていたことがわかる。
 この空襲では、耳野卯三郎の作品類も大量に失われたとみられるが、なによりも金山平三の重要な作品を焼いてしまったことで、自責の念にとらわれたのではないだろうか。それを察してか、自作を耳野に贈っているのは、金山平三の繊細な心づかいだろう。
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 バッケが原に向いた丘上に建つ耳野卯三郎アトリエが、なぜ空襲で焼けてしまったのか当時の地図や空中写真を参照すれば、およそ想像することができる。耳野アトリエのすぐ北側(当時は四村橋Click!をはさみ西落合2~3丁目)は、妙正寺川の両岸にオリエンタル写真工業Click!の大規模な工場群や、同社が経営する学校校舎などが林立しており、米軍が上空から見れば一大工業地域に見えただろう。空襲では、それらの建屋をねらって焼夷弾や250キロ爆弾が集中的に投下され、オリエンタル写真工業の第1工場Click!オリエンタル写真学校Click!の校舎が全焼している。おそらく、耳野卯三郎のアトリエはその巻きぞえを食ったとみられる。同工場群をねらったM69集束焼夷弾が、たまたま風にでも流されたのか南の丘上で炸裂し(当時の通称では「はぐれ焼夷弾」と呼ばれていた)、そのうちの1発が不運にもアトリエの屋根を直撃し、突きぬけて屋内へ落下したのかもしれない。

◆写真上:2012年(平成24)11月に撮影した、解体寸前の金山平三アトリエ。
◆写真中上は、1945年(昭和20)1月制作の宮本恒平『画兄のアトリエ』に描かれた耳野卯三郎アトリエ。中上は、1934年(昭和9)制作の第15回帝展特選となった耳野卯三郎『庭にて』。中下は、第15回帝展の会場写真で中央に耳野の『庭にて』が見えている。は、戦後の1957年(昭和32)に制作された耳野卯三郎『鳥籠と撫子』。
◆写真中下は、1917年(大正6)制作の金山平三『氷すべり』。中上は、1923年(大正12)制作の同『室内』。中下は、1928年(昭和3)制作の同『菊』。は、1941年(昭和16)ごろのちに疎開することになる横山村近くで制作された同『最上川』。
◆写真下は、旅先の金山平三。(AI着色/提供:中島香菜様) 中上は、庭先の耳野卯三郎。中下は、金山平三の作品疎開ルート。は、戦後に再建された耳野卯三郎アトリエ。
おまけ
 1935年(昭和10)ごろの空中写真にみる、耳野卯三郎アトリエと西落合側のオリエンタル写真工業の工場群。下は、上高田1丁目421番地の丘上に通うバッケ(崖地)階段。正面に見える茶色のマンションがオリエンタル写真学校の跡で、その向こう側が第1工場跡。
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下落合に多く見られたフィニアルあれこれ。 [気になる下落合]

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 かなり以前になるが、目白通りを歩いていたら、煙突がなくなった銭湯「福の湯」Click!の屋根上に、ひときわ大きく立派なフィニアルを発見して、しばらく見とれてしまった。そういえば、わたしの学生時代に下落合(現・中落合/中井含む)を歩くと、さまざまなデザインのフィニアルをあちこちで見かけた。そのような家が建て替えられると、再びフィニアルが載せられることなく現代住宅の屋根仕様になっていった。だから、リニューアルされた建物に新たなフィニアルを見かけて、ことさらめずらしく感じたのだ。
 フィニアルとは、屋根の切妻や尖塔部分に乗せられる装飾のことで、日本語では頂華とか飾り立物、小尖塔、屋根飾りなどと訳されている。下落合には、この鎗先のような尖がりフィニアルが、いちばん多かったように思う。いまでも各所で見かけるが、鎗先のような意匠をはじめ、多種多様なデザインのものがある。戦災から焼け残った邸もあれば、改めて戦後に再建された邸にもフィニアルを載せた屋根が見られた。
 戦前のフィニアルについて、建築業界ではどのように定義されていたのだろうか。1938年(昭和13)に昭文社出版部から刊行された『古今工芸図彙』から引用してみよう。
  
 フィニアル Finial
 ゴシツク式建築の破風、尖塔、天蓋等の末端に使用された花や葉の形状を表はした一種の装飾で、第十二世紀のゴシツク建築に初めて使用されて以来、漸次各世紀に夫々形状の変遷を示しつゝ十六世紀に及んだが、ゴシツク建築の衰頽と共に其使用は全く廃せらるゝに至つた。十三世紀頃のものは四角形で、四枚の葉が四方に出で、上部尖端に蕾を附けて居る。十三世紀の中葉に至つて葉は二段となり、後期に於けるものは多角形に一層精巧なる装飾が施され、十五世紀には葉形が取除かれ、十六世紀には屋根の傾斜面のクロツケツトで代用され、フィニアルの特性は茲に全く消失した。
  
 本来の意味あいとしては、天に伸びる尖塔部の強調やなんらかの宗教的な装飾、ないしは一族の象徴としての屋上立物だったようだが、それらの意味がすべて失われ、近代に入ると単純に屋根上の装飾品と化していったようだ。
 通常、フィニアルが屋根に乗せられるのは西洋館であり、まれには和洋折衷館にも飾られていた例があるのかもしれない。日本の現代住宅の外観は、そのほとんどが戦前の洋館と変わらないため、フィニアルを載せてもそれほど違和感のあるデザインには見えないだろうが、やはり住宅の装飾物には流行り廃りがあるのだろう。
 大正期から昭和期にかけ、風景を写生した絵画作品にも鎗先のようなフィニアルは数多く登場している。たとえば、「下落合風景」シリーズClick!を描いた佐伯祐三Click!『門』Click!では、八島邸の赤い屋根瓦の上に取りつけられた鎗型のフィニアルが描かれている。同じ鎗型のフィニアルは、現在の目白文化村Click!の第一・第二文化村でも目にすることができる。また、中村彝Click!の死去後にアトリエへ入居した鈴木誠Click!のアトリエも、戦後しばらくは鎗型フィニアルを屋上に載せていた。
 1916年(大正5)に竣工した、その中村彝アトリエの屋根上に飾られていたのは、まるで波止場の船をもやう桟橋のビット、あるいは烏帽子Click!かシダ植物のゼンマイを思わせるような、面白いかたちをしたフィニアルだった。中村彝が描いた『落合のアトリエ』Click!では、少し傾斜が足りないように描かれているが、当時の写真を見るとサメやイルカの背びれ、あるいはサーフボードのフィンのようにも見える。また、『落合のアトリエ』に描かれているのは、上記の変わったフィニアルだけでなく、和室や台所のある屋根上には立方体のような別種のフィニアルが載っていたようだ。この傾斜したゼンマイ型フィニアルは、中村彝アトリエの近くに建っていた井手邸Click!の屋根でも見ることができた。
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 フィニアルは絵画だけでなく、小説にも頻繁に登場している。特にヨーロッパの翻訳小説では、「屋根飾り」とか「尖頂飾り」とか訳されているが、欧米の住宅では現在でもフィニアルを飾る事例が多いのだろうか。建築材について解説する、1998年(平成10)に日本消費者協会が刊行した「月刊消費者」8月号では、米国のミステリー作家・リリアン.J.ブラウンの『猫はスイッチを入れる』を例に、フィニアルについて説明している。
  
 3フィートほどの高さの細長い装飾品。四角い脚部に真鍮の玉がが乗っていて、さらにその先に剣のように尖った黒い金属がのびている。競売人が、この品物を取り出したとき、オークションの会場は一瞬、静まりかえった。/フィニアルとは、西洋建築の尖頂装飾のことをいう。頂華とも呼び、切妻や小塔(ピナクル)などの頂点にとりつけられている。特にピナクルは、シャフトと呼ばれる細柱とフィニアルから成り立っている。ピナクル自体も控壁や軒先の胸壁の上、塔頂の四隅などに造られる装飾用の小塔だ。ゴシック建築物によく使われている垂直性を強調するための装飾だという。もっとも、小説に出てくるフィニアルはそんなご大層なものではない。多分、民家の切妻屋根の頂上を飾っていたのだろう。
  
 四角い立方体、あるいは篆刻や角印のようなかたちをしたフィニアルも見かける。いずれも下落合東部に現存する邸宅だが、鎗先型のフィニアルに比べておとなしく、外観からおだやかで落ち着いた印象を受ける。佐伯祐三が、第一文化村の南側にあたる宇田川邸Click!の敷地界隈を描いた『風のある日』Click!(1926年)にも、立方体らしきフィニアルを載せた2階建ての住宅が登場している。
 鋭角なデザインではなく、立方体の上に球体をあしらったフィニアルも、第二文化村の嶺田邸には載っていた。まるで、五重塔の水煙(すいえん)Click!上にある宝珠(頂部)のようなデザインで、西洋館でありながら、どこかアジア的な香りのするデザインをしていた。また、変わったところでは目白通りに面した、下落合の目白聖公会Click!が挙げられるだろうか。主屋根の頂部には、もちろん十字架が立てられているのだが、エントランス部の切妻上には十字架をくずした、独特なデザインのフィニアルが設置されている。1929年(昭和4)の建築当初に創作された、目白聖公会ならではのオリジナルデザインのフィニアルなのだろう。これを見ると、いつも卍くずしの欄干がめぐる、宇治の黄檗山・萬福寺を思いだしてしまう。
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 さて、西洋館の屋上に載るフィニアルばかりご紹介してきたが、日本家屋=和館にもフィニアルは立っている。いや、フィニアルというより和館だから飾り立物というべきだろうか。日本の立物は、洋館のフィニアルとは異なり、明確な意味のあるものが多い。鯱(しゃちほこ/しび)や鬼瓦には、魔除けや厄疫除けの意味あいが強い。下落合の東部には、鯱を載せている日本家屋が現存するし、佐伯祐三が1926年(大正15)に描いたとみられる『見下シ』Click!には、鯱を載せた池田邸Click!の赤い屋根が描かれている。また、住民が沖縄出身の方だろうか、屋根上にシーサーを載せている邸も現存する。これも、明らかに魔除けや疫除けの意味がこめられているのだろう。
 これらのフィニアルには古いものになると、それを製造した職人名が入れられているケースがあるという。独自のデザインをしたものは、やはりオリジナリティを誇りたいのか作者の痕跡を残したくなるのだろう。今世紀に行われた、上野の東京国立博物館にある表慶館の改修工事で、フィニアルから作者名が判明している。2006年(平成18)に発行された「東京国立博物館ニュース」第678号の、「表慶館の改修」記事から引用してみよう。
  
 ドームの上には、フィニアルと呼ばれる細くとがった飾りが垂直にたっています。フィニアルは槍の芯木を銅板で覆って造られていました。すでに銅板ははがされており、そこにあるのは寄木細工のような木組みの本体でした。ぐるっと回ってみると、驚いたことにフィニアルに名前が彫られていました。「明治四十一年 高濱直吉 五十三才之造」/この木組を造った職人が自分の名前を刻んだものなのでしょう。誇らしげに刻まれた文字を目にしたとき、しばし言葉を失いました。
  
 まるで、刀剣の茎(なかご)Click!に刻まれているような銘文だが、フィニアルの芯に鎗柄が使われていたのには驚きだ。表慶館のフィニアルは長めなので、長柄鎗が使われているとすると芯は4m以上はあったのかもしれない。材質は、おそらく堅い赤樫だろう。
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 このように、古い時代のフィニアルには、どこかに作者の名前が刻まれている可能性がある。昭和の初期以前に邸を建築されている方、あるいはその時代の部材を使われて住宅を建てられている方は、リニューアルされる際、試しに確認してみてはいかかだろうか。

◆写真上:「福の湯」の屋根上に飾られた、尖鋭で大きな鎗型のフィニアル。
◆写真中上は、1926年(大正15)に佐伯祐三が描く八島さんの『門』(部分)。中上中下は、目白文化村の鎗型フィニアル。は、鈴木誠アトリエの同フィニアル。
◆写真中下からへ、1916年(大正5)制作の中村彝『落合のアトリエ』(部分)、復元後の中村彝アトリエに載る近似フィニアル、よく似たワラビ型フィニアルが載っていた井手邸(提供:植田崇郎様)、1926年(大正15)制作の佐伯祐三『風のある日』(部分)、角型フィニアルが載る久七坂筋の邸、同様のフィニアルが載る下落合公園近くの邸。
◆写真下からへ、下落合ではあまり見かけない球体状のフィニアルが載る第二文化村の嶺田邸、目白聖公会の十字架をくずした独特なデザインのフィニアル、1926年(大正15)制作の佐伯祐三『見下シ』(部分)に描かれた池田邸の鯱(しび)、子安地蔵通り沿いにある鯱が載った和館、そして落合地域でもめずらしい屋根上にシーサーのフィニアルが載る邸。
おまけ
 表慶館の屋根上には、明治末とみられる多彩なフィニアルが載せられている。芯に鎗柄が使われていたのは、中央のドーム上に建てられた細長いフィニアル(赤矢印)だ。
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