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下練馬村の氷川明神社と小名「丸山」。 [気になるエトセトラ]

下練馬氷川社(氷川台氷川社).JPG
 先日、下練馬村の「シクジツケミ」Click!(現・練馬区桜台)とその周辺地名が気になり、台地に刻まれた谷戸や丘上を取材していたとき、石神井川へ下り氷川台へと上る段丘一帯が、下落合の雰囲気によく似ていることに改めて気づいた。石神井川の南岸は、目白崖線に似ているバッケ(崖地)Click!もつづいている。もっとも、この一帯の石神井川両岸の段丘は、神田川(古代は平川)が流れる目白崖線ほど規模は大きくはないが。
 「濕化味」の地名を調べているとき、「宿濕化味」とともに明治期には「前濕化味」(東濕化味と西濕化味に分化か?)の小名があり、石神井川にはそのエリアには濕化味橋と名づけられた橋が古くから架けられていることも知った。濕化味橋は現存しており、城北中央公園で発掘された栗原遺跡へと抜けられる橋で、同遺跡は旧石器時代から縄文・弥生・古墳・奈良・藤原(平安)と、各時代の遺物が一貫して出土した重層遺跡だ。
 すなわち、周辺の他の遺跡とあわせて考えれば、この練馬地域もまた旧石器時代から現代まで間断なく人が住みつづけてきた経緯が、落合地域とまったく同様の土地がらだということになる。また、落合地域から片山地域Click!江古田地域Click!、そして下練馬地域と西北方面を直線状に鳥瞰してみれば、これらのムラ同士では古代から人的あるいは物的な交流が頻繁にあったとみるのが、ごく自然な史的解釈なのだろう。
 下落合と下練馬およびその周辺域で、なんとなく地勢や風情がよく似ているため、『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)などで旧蹟や小名をたどってみると、下練馬村の総鎮守として位置づけられている練馬の氷川明神(現・氷川台氷川明神社)をはじめ、牛頭天王社(スサノオ社)、おびただしい数の稲荷社、弁天社、第六天社Click!金山社Click!(上練馬村)などなど、落合地域とその周辺域に酷似した地域性が浮かびあがってくる。
 また、小名を詳細に参照してみると、氷川台の氷川明神社の南側を流れる石神井川には丸山橋(この架橋は新しい)が設置され、その南の段丘一帯が「丸山」と呼ばれていたことも判明した。ちょうど、下落合氷川明神社Click!と小名「丸山」Click!とがセットになっている下落合とよく似た地勢だ。さらに、下練馬村と上練馬村では「本村(ほんむら/もとむら)」Click!と呼ばれる小名、すなわち鎌倉期あるいはそれ以前から集落があったとみられる場所が、下練馬村の氷川明神社のすぐ北北西並びに近接していることも確認できた。これも、下落合村と上落合村とでは、「本村」が川沿いのやや標高が高めな下落合村の南向き斜面にあり、下落合氷川明神社の西並びにあるのと近似している。
 このような地勢で氷川社と、全国に展開する古墳地名の「丸山」Click!とがセットになった地域には、なんらかの古墳時代における痕跡が、下落合の「丸山」のすぐ西にあった小名「摺鉢山」Click!の大きなサークル跡や、上落合の小名「大塚」Click!エリアにおける巨大なサークル跡Click!と同様に見つかるのではないかと考えたわたしは、明治期以降の地形図や1936年(昭和11)以降の空中写真をシラミつぶしに当たってみることにした。すると、あちこちに人工的と思われる地形の痕跡を見つけることができた。
 下練馬の氷川明神(スサノオ)が、下落合の氷川明神社(クシナダヒメ)と同様に大きな釣鐘型をしていたかどうかは、各時代の地形図を見ても、また空中写真を見ても樹林や田畑に覆われて判然としないが(農村地帯だったため空襲の被害は受けていない)、石神井川の北岸に古くから通う丘麓の街道、すなわち下落合の目白崖線沿いに通う雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)に相当する道筋に、大きな半円形の蛇行がいくつも確認できるのに気がついた。特に、氷川台氷川明神の西に位置する南に大きくふくらんだ半円が、ちょうど下落合氷川明神の西に位置する「摺鉢山」Click!の小名が残る、南へ大きくふくらんだ道筋に酷似しているのがわかる。この道筋から北を向くと、現在はなだらかな上り坂の住宅街が造成されている。
石神井川南岸斜面.JPG
高稲荷社.JPG
氷川台氷川明神1947.jpg
 「下落合摺鉢山古墳(仮)」Click!の記事でも書いたけれど、昔も現代も街道(道路)を通すのであれば直線状に敷設していくのが利用者にはもっとも効率的であり、あえて半円形のような曲線の道筋を通すのは、そこになんらかの“障害物”があったため、その“障害物”の周囲を迂回する必要に迫られたからだと解釈するのが妥当だろう。特に、トンネル技術も大規模な切通しを拓く土木技術も乏しかった昔日では、“障害物”を避けて道路を敷設するほうが、よほど手早く効率的だったのだ。そのような、古(いにしえ)の視線で地形図や空中写真を見ていると、興味深い事実に気づくことが多々ある。
 以上のようなことを考えている最中、友人からさらに興味深い情報が寄せられた。石神井川の南岸に位置する古くからの小名「丸山」の丘上に、巨大なサークル痕が見えるというのだ。さっそく、空中写真を年代順にたどってみると、同地区は戦前戦後を通じて本格的な宅地化が進んでいないせいか、古い時代の農道(畔および畦道)がそのまま戦後まで引きつづき残存している。その形状を観察していると、確かに大きなサークル状の痕跡になることが判明した。位置的には、西側に切れこむ宿濕化味の東谷戸と、東側に切れこむ羽根沢の谷戸との中間にある高台に見えている。
 サークルの直径は約250mで、正円形の北東部が江戸期に整備されたとみられる、埼玉(さきたま)道に薄く削られているのがわかる。正円は、東西の谷戸に沿うように南側で途切れており、前方後円墳の墳丘を崩して周囲四方へ均すように開拓すればこのような形状になるだろうか。ことに西側の土砂は、宿濕化味の東谷戸へ落とし農地を拡げるのに適していただろう。ちょうど、下沼袋の丸山・三谷ケースClick!南青山ケースClick!と同様の、大規模な土木技術が浸透した江戸期における開墾事業を想起させる。
 計測してみると、小名「丸山」に残された鍵穴型の全長は南北に約380mほどだが、先述のように墳丘の土砂を崩して周囲に均しているとすれば、下落合の「摺鉢山」と同様に200mクラスの前方後円墳、ないしはホタテ貝式古墳を想定できそうだ。その後円部の上には、1950年(昭和25)に練馬区立開進第三中学校が移転・開校しているが、その建設工事の際になにか遺物が出土してやしないだろうか。あるいは、江戸期の農地開拓で玄室や羨道の組石(房州石Click!?)、埴輪などの出土物はあらかた打ち棄てられてしまったのかもしれないが、下落合のケースのように田畑など地面を掘り起こすと、埴輪片や土器片、ときには副葬品とみられる遺物が出土する事例がなかったかどうか気になるところだ。
濕化味橋.jpg
下練馬丸山1909.jpg
埼玉道庚申塚1765明和2.jpg
 1987年(昭和62)の古い『練馬区小史』(練馬区)には、次のような記述が見えている。
  
 <古墳造営の>関東での動きは鈍く、北関東を勢力圏とする毛野<ケヌ>国(毛国→群馬・栃木の平野部)が、上毛野<カミツケヌ>(のち上野)、下毛野<シモツケヌ>(のち下野)へと展開する。この毛野勢力は新文化を十分吸収したものであり、時代は弥生から次の古墳文化へと進む。時代は四世紀に入る。東京都地域では、多摩川中流域に大小の古墳Click!が造られ、今の芝公園付近にも大型の古墳Click!を残すようになるが、練馬には古墳として特に記載するほどのものはなく、広い武蔵野平野の一部として古墳時代末の開発を待った形になっていた。(< >内引用者註)
  
 北関東の強大な毛野勢力Click!については触れているものの、全体が古い記述のままで、おもに1980年代以降に関東各地でダイナミックに展開された最新の発見・発掘成果に関しては、いまだ触れられずにいる。「古墳として特に記載するほどのものはなく」ではなく、早くから江戸近郊の農地開拓が行われていたため破壊されたケースが多く、また戦後は宅地化が急速に進み調査・発掘する機会を逸しているだけではないだろうか。
 ちょっと余談だが、旧石器時代や縄文期(遺跡数および遺跡規模による)はもちろん、弥生期や古墳期を通じても坂東(関東地方)の人口は現代と同様に、他の地方を凌駕するほど多かったのではないかという、人文科学ばかりでなく社会科学をベースとした「古代経済論+人口論」の切り口が非常に興味深い。近畿圏(関西史)の視点から、明治以降は薩長政府によるおもに教育分野のプロパガンダによってイメージづけられた、古代はまつろわぬ「蛮族」の「坂東夷」が跋扈する「未開の原野」=武蔵野という皇国史観Click!のレッテル貼りが、戦後もしばらくの間つづいていた。もちろん、敵対する勢力を「蛮族」として蔑称するのは、中国や朝鮮半島から借りた政治思想的視座だ。
 けれども、1980年代以降の古代史学あるいは考古学における群馬・栃木(ケヌ地方=毛野勢力のクニグニ)の巨大古墳群をはじめ、千葉(チパ地方=南武蔵勢力のクニグニ)、埼玉(サキタマ地方=北武蔵勢力のクニグニ)、および茨城などにおける膨大な大小古墳群が次々と発見されるにおよび(南武蔵勢力圏である江戸東京地方は、早くからの都市化および近郊農地化のため破壊ないしは発掘が不可能となっている)、それら古墳群をこれほど大規模かつ大量に造営するのに必要な、当時の肥沃な生産性を基盤とした経済力とマンパワー(労働力)が、必然的に「未開の原野」の神話史観ではまったく説明がつかないからだ。特に山林が比較的多く残され、古墳調査に熱心な千葉県と群馬県(つづいて埼玉県もかな?)では最先端の古墳探査技術を駆使し、21世紀に入ってからは続々と新発見がつづいている。
下練馬村丸山1936.jpg
下練馬村丸山1947.jpg
下練馬村丸山1948.jpg
 以前、下練馬の丸山地域の東側にあたる向原地域で、妖怪譚とともに鍵穴型のフォルムが残るポイントClick!を探ったが、同様に早くからの農地化で崩されてしまった「百八塚」(無数の塚)Click!と同様の大小古墳Click!が、練馬各地に散在していたのではないか。それは、各所に見え隠れする古墳地名(小名)からも、それをうかがい知ることができる。たとえば、自衛隊練馬駐屯地の周辺には、宅地開発がはじまる前の農村時代から田畑の畔や用水を含め、驚くほどあからさまなフォルムが残されているが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:下練馬地域の総鎮守である、氷川台の氷川明神社。境内のフォルムが判然としないが、多くの氷川社Click!のように古墳上に築かれた社だろうか。
◆写真中上は、石神井川の南につづく崖線の坂道。は、崖線上に築かれている高稲荷社の擁壁。ひな壇状の擁壁は、まるでタタラClick!神奈(鉄穴)流しClick!跡を想起させるが、高稲荷は高鋳成が中世以降に転化したものか。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる氷川台氷川社の周辺で、あちこちに気になる半円形の道筋が見られる。
◆写真中下は、1955年(昭和30)ごろに撮影された濕化味橋。田畑の中に点在する、樹木が繁るこんもりとしたふくらみが気になる。は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる丸山地域。は、埼玉道の明和年紀が残る庚申塚。
◆写真下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる丸山地域。は、同じく1947年(昭和22)の丸山地域。は、急速に宅地化が進む1948年(昭和23)の丸山地域。
おまけ
 バッケ(崖地)上に設置された高稲荷社(上)で、いつの時代かは不明だがタタラ集団Click!が創建した鋳成神Click!の聖域だったものが、中世以降に農業神の稲荷へ転化しているのではないか。埼玉道の付近には、江戸期からの大農家だったとみられる屋敷(中)がいまも多く残っている。丸山地域の丘上に開校している、練馬区立開進第三中学校のキャンパス(下)。
高稲荷拝殿.JPG
下練馬大農家.jpg
丸山丘上.jpg

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いろは牛肉店の木村荘八とその周辺。 [気になるエトセトラ]

木村荘八「第八いろは」.jpg
 拙ブログでは木村荘八Click!について、岸田劉生Click!との関連などでいろいろ書いてきたが、それは同店が明治期に、わたしの実家のご近所Click!だったせいでもある。日本橋吉川町(両国広小路/現・東日本橋2丁目)に、有名な「第八いろは牛肉店」Click!(牛鍋店)があったからで、日本橋米澤町の実家とは直線距離で150mほどしか離れていない。
 木村荘八Click!の父親で創業者の木村荘平は、1906年(明治39)に67歳(数え歳:以下同)になると芝浦の自邸(芝浜館)で病没しており、跡を継いだ2代目・木村荘平(長男・木村荘蔵)には経営能力がなく、大正期に入るとまもなく倒産している。親父が生まれたとき、第八いろは牛肉店はとうに閉店していたはずだが、祖父母に連れられて通った親の世代からから、さまざまなエピソードを聞かされたのだろう、親父の昔話Click!の中にも両国広小路Click!の「いろは牛肉店」は幾度となく登場していた。
 だが、木村荘八Click!が日本橋吉川町で生まれた経緯や、洋画家をめざす以前の様子についてはあまり触れてこなかったように思う。吉川町の第八いろは牛肉店は、現在は東日本橋2丁目の両国広小路の南寄りにあった町だが、同店舗が建っていた跡はその後の両国広小路の大規模な拡幅工事とともに、現在は通りの下になってしまったとみられる。木村荘平は、もともと力士になりたかったほどガタイの大きな人物だったようだが、京の伏見で青物屋を開店していたところ明治維新を迎え、まもなく店が倒産してしまった。その後、神戸で製茶業をはじめたが、これもほどなく倒産している。
 1878年(明治11)に39歳になっていた木村荘平は、東京にやってきて一旗あげようと三田四国町(現・港区芝3丁目の一部)に大屋敷を借りて住んでいる。同町には、明治政府が設置した屠畜場があり、彼は官有物払い下げの動きに乗じて同施設を安価で手に入れた。江戸期より、大江戸(おえど)ではももんじ(獣肉)Click!が盛んに食べられていたが、牛は運搬や農耕に役立つ動物なので食べていない。だが、これからは牛肉を使った洋食や和食が流行るとみた、彼の思惑はみごとに当たることになる。
 屠畜場の入手とほぼ同時に、まずは三田に牛鍋屋Click!の1号店を開店した。江戸期からつづく、各種すき焼き料理Click!とは異なり、したじ(濃口醤油)ベースの出汁をあらかじめ張った鉄製鍋に牛肉を入れ、すき焼きClick!と近似した東京近郊の野菜や豆腐を入れて煮る料理法だった。店の経営は、いっさいを“2号さん”の岡本まさ(のち正妻)に任せている。そのときの様子を、1969年(昭和44)に学藝書林から出版された『ドキュメント日本人第9巻/虚人列伝』収録の、小沢信男『いろは大王・荘平』から引用してみよう。
  
 明治十一年、上京して新事業にとりかかった荘平は、さっそく三田四国町の一角に牛鍋屋をひらき、ツレアイの岡本まさに経営させた。どうせ四辺は原っぱ、屠殺場の従業員やマッチ工場の職人相手の掘立小屋みたいな小食堂だった。屋号を「いろは」と名づけた。いろはは手習い学問のはじまり、初心忘るべからず。新天地で新事業に立ちむかう荘平の、率直な決意がしのばれる。/それから二十余年、「いろは」は東京中はおろか日本中にも知られるような大店になるのだ。やはり荘平の最も成功した事業といわねばなるまい。
  
 木村荘平が死去したとき、いろは牛肉店は東京で20店舗を数えるまでになっていた。牛鍋店が流行るとともに、木村荘平には大金が転がりこみ、やがて生来の女好きから愛人を次々につくることになった。だが、彼には愛人を妾宅に囲って遊ばせておくという発想がなく、次々とできる愛人にいろは牛肉店の支店を任せていくことになる。つまり、「自分の食い扶持は自分で稼いでよね」という、まことに都合のよい“経営方針”を打ちだしていた。
木村荘平.jpg 荘平・先代まさ子・現代ひさ子.jpg
木村荘八「第一いろは」.jpg
芝浜館.jpg
 彼の死後、1908年(明治41)現在で3人の妹や愛人たちに経営を任せ、営業していた店は以下のとおりだ。すでに5店舗がつぶれるか、人手にわたっていたのがわかる。
いろは牛肉店所在地.jpg
 この中で、第八いろは牛肉店が木村荘八が生まれた日本橋吉川町の店舗だ。同店の経営は、三田で知りあった当時はまだ16歳の鈴木という女性が切り盛りしている。第八いろは牛肉店の開店当時は、いまだハイティーンの年齢だったろう。木村荘八は、彼女の二男として生まれた。長男が木村荘太なのに、なぜ二男が「荘八」なのかというと、彼は木村荘平の正妻や愛人の間でできた子どもたちのうち、8番目に生まれた男の子だからだ。父親が死去したとき、木村荘八はまだ14歳の中学生だった。
 ところで、落合地域からいろは牛肉店の牛鍋が食べたいと思ったら、明治末では牛込通寺町(現・神楽坂6丁目の一部)の第十八いろは牛肉店が、最寄りの店ということになる。落合地域から、街道筋である現在の早稲田通りをそのまま神楽坂方面へ歩けば、3.5~4.0kmほどで同店に到着できる。たとえば、目白駅や高田馬場駅あたりからだと、当時の未整備な道筋を考慮しても、およそ歩いて40~50分前後で店の暖簾をくぐれただろう。
 余談だけれど、わたしの学生時代まで神楽坂には、いくつかの古い牛鍋屋が営業をつづけていた。座敷の2階に上がると、窓の手すり越しに神楽坂の毘沙門横丁を眺めながら牛鍋をつつくことができた。牛鍋は、すき焼きとは異なり出汁を先に張るので、薬研(やげん=七色唐辛子Click!)や山椒をかけて食べることが多かったが、中でも毘沙門天(善國寺)の南隣りにあった「牛もん」が安くて気どらず、古い建物で風情もあり好きだった。
 さて、第十八いろは牛肉店は木村荘平の愛人が経営していたか、あるいは子どもがいたのかは不明だが、つごう30人にものぼる彼の子どもたちの構成は以下のとおりだ。
木村荘平子ども.jpg
 実に男子13人・女子17人で、このうち生まれてまもなく早逝した子どもを除くと、男子11人・女子10人の息子や娘たちがいたことになる。
 木村荘平は、妻や愛人たち、それに子どもたちを養うために次々と事業を起こしていった。三田で屠畜場を経営していたのは先に触れたが、その東京家畜市場の社長をはじめ、東京諸畜売肉商(食肉店)組合の頭取、東京博善会社(火葬場)の社長、東京本芝浦礦泉会社の社長、日本麦酒醸造会社(現・ヱビスビール)の社長などなどを兼業し、はては東京商会議所議員、日本商家同志会顧問、東京市会議員、東京府会議員などまでつとめている。この中で、現在も事業が社名そのままで存続しているのは、東京に7ヶ所の斎場を運営している博善社のみだ。もちろん、上落合の落合斎場Click!も同社の経営となっている。
木村荘八「牛肉店帳場」1932.jpg
木村荘八「第十いろは牛肉店」1953.jpg
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 木村荘八は、父・荘平のことを「興味が湧かず、親愛感を起さない」、「『滑稽』で『ヘンてこ』で大べらぼうClick!」(『続現代風俗帖』)と書いているが、彼が17歳になり兄の荘太が結婚すると、第八いろは店は兄夫婦が経営することになり、荘八と母親は浅草東仲町(浅草広小路)にある第十いろは店を任されることになった。
 そこには、1890年(明治23)に21歳で別荘地Click!大磯Click!に没した長女の木村栄子(曙)が住んでいた店であり、中学生の木村荘八は彼女のいた部屋をあてがわれている。そして、23歳もちがう一面識もない姉の使っていた机も、そのまま彼が受け継いだ。1953年(昭和28)に東峰書房から出版された、木村荘八『続現代風俗帖』から引用してみよう。
  
 机には曳出しが二つあると云つたが、見ると、その一方はカラで、向つて右の方だけに厚さ一寸程の黒のクロース表紙のノートと、いはゆる「唐ちりめん」のやうな小切れを菊形にはいでふつくらと綿を入れて作つた古びた肘突き(さしわたし四五寸)。この二品と、曳出しの奥に、一つまみ程、紫紺色の毛糸屑がつくねてあつた。(中略) 曙さんは手細工に奇用(ママ)だつたと伝へられたから、勿論肘突きは曙さんの手製であつたらうし、毛糸は手編みものの残りでもあらう。ノートは小説の原稿の書いてあるものだつた。/僕は僕のモノにしてから、机はよごしたし、曳出しの中は乱雑にしたけれども、三つの品物はいつも「尊敬」と「愛情」を持つて丁寧にしてゐた。毛糸屑の入れ場には困りながら、いつも別にその辺へつまんで入れておいた、その手触りも、今懐しく思ひ返すことが出来る。
  
 木村曙は、1889年(明治23)に読売新聞へ連載小説『婦女の鑑』を連載したのをはじめ、次々に新聞各紙へ連載作品を執筆するなど、明治以降に出現した女性作家の第1号だった。その活動は、同じ歳の樋口一葉Click!よりも5~6年ほど早い。
 彼女は、東京高等女学校(現・お茶の水大学付属高等学校)を出ると、フランス語と英語に堪能なため、文部省からフランス留学を命じられた女性の随行員としてヨーロッパへ留学しようとしたが、父親の荘平に反対され、浅草広小路の第十いろは店の帳簿係に就いている。その仕事の合い間に、のちに荘八が使う書机で次々と作品を執筆していたのだろう。
第八いろは牛肉店.jpg
木村栄子(曙).jpg 木村荘八.jpg
木村曙机.jpg
木村荘八と岸田劉生.jpg
 木村荘八がもの心つくころ、すでに死去した木村栄子は「曙さん」と呼ばれ偶像化されており、木村一族(おもに女性)から尊敬されていた。だが、伝説的な存在ではあっても、彼には姉としての情が湧かず、あくまでも高名な女性作家として「曙さん」を眺めている。

◆写真上:日本橋吉川町にあった、木村荘八が描く記憶画『第八いろは牛肉店』。
◆写真中上上左は、晩年の木村荘平。上右は、明治前期に撮影の左から右へ「現代ひさ子夫人・木村荘平・先代まさ子夫人」のキャプション。1908年(明治41)出版の松永敏太郎『木村荘平君伝』(錦蘭社)の掲載写真で、早い話が「愛人ひさ子・荘平・正妻まさ子」ということだ。は、木村荘八が描いた記憶画で三田四国町の『第一いろは牛肉店』。は、同町の木村荘平邸(芝浜館)に集合し木村夫妻と愛人たち(孫含む)の記念写真。
◆写真中下は、第八いろは牛肉店を描いた木村荘八の記憶画『牛肉店帳場』(1932年)。は、木村荘八の記憶画で長男の結婚で吉川町から引っ越した浅草広小路の『第十いろは牛肉店』。建物1階に、「曙女史室」の吹き出しがみえる。は、同店の居間を描いた記憶画だろうか木村荘八『室内婦女』(1929年)。新聞を読む母親と、遊びにきた近所の少女と外出するのか髪を結いなおす妹(士女)を描いているのかもしれない。
◆写真下は、前出の『木村荘平君伝』に掲載された第八いろは牛肉店の写真だが暗くてよくわからない。中上は、木村一族の長女で明治最初期の小説家だった木村曙(栄子/)と木村荘八()。中下は、浅草の第十いろは店で木村荘八が受け継いだ木村曙の書机。は、1912年(大正元)ごろに撮影されたフュウザン会の木村荘八(右)と岸田劉生(左下)。

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「どこを切っても金太郎」的な昔話の世界。 [気になるエトセトラ]

金時社1.jpg
 またまたキャプションがなく、記憶にもない山の写真が出てきた。今度はアルバムに貼付されず、ネガとともに袋に入ったままのカラー写真だ。わたしが大きくなった小学生3~4年の姿なので、カラーフィルムが普及したころのものだろう。
 山の斜面から、すでに冠雪した大きな富士山がとらえられており、その富士の容姿から神奈川県西部の山か、静岡県東部の山から眺めたものだとわかる。家族が登っている山はそれほど高くはなく、写真を次々にめくると登山道がわりの涸れ沢や、根府川石らしい石仏(江戸期)が写っている。家族が山道をゆく写真を見ていくうちに、社(やしろ)の写真が出てきた。拝殿本殿の背後に、大きな山を背負っているので“ご神体”は背後の山岳そのものか、そこにあるなんらかの記念物だろうと想定して、しばらくプリントをめくるうちに「まさかり(鉞)」が岩に添えられているので、ようやく気がついた。
 これらの写真は、足柄下郡の箱根町にある金時(公時)社と、奥の院がある裏山ではないだろうか。金時社は、その北側の約8kmほどのところに位置する、静岡県小山町の不老山南峰の山麓にも同名で建立されていてまぎらわしいが、社の背後に見える冬枯れした山のかたちが、明らかに箱根外輪山の金時山なので神奈川県側だと規定することができる。
 写真の後半では、矢倉沢峠近くにある同社の奥の院や、金時手鞠石と金時宿り石とみられる風景も記録されている。これらの巨石や巨岩が、「金太郎」が祭神として奉られる以前、山麓にある金時社の本来の主柱(祭神)であり、おおもとの信仰は縄文時代からつづくとされる、巨岩・巨石信仰の聖域だったのではないだろうか。金時と結びつけられたのは、金太郎伝説がちまたで知られるようになった、中世以降の付会によるものだろう。
 場所が不明だった前回の山岳写真Click!は、金時山を登山する小学校低学年のわたしがとらえられていたけれど、それから数年ののち、今度は金時山の山麓(南側)にある金時社とその裏山に登っていたことが判明した。この写真の情景も、わたしはまったく記憶に残っていないが、親たちが繰り返しわたしを連れて金時山とその周辺域を訪れているところをみると、ことさら「♪ま~さかりか~ついで金太郎~」の「♪あ~しがらや~まのやまおくで~」界隈が気に入っていたものだろうか。w
 余談だけれど、子どものころに東京の街を歩いていて飴屋を見つけると、親父がよく金太郎飴を買ってくれた。家へ土産として買ってくる中にも、何度か金太郎飴が混じっていたように思う。口に含んでも特にそれほど感動はせず、砂糖の味しかしないただ甘いだけの昔ながらの飴なのだが、親父にとっては子どものころの懐かしい菓子のひとつだったのだろう。江戸東京では、明治以降にできた新しい飴菓子だが、「どこを切っても金太郎」という親父の言葉とともによく憶えている。同時に、「なにを演っても池辺良」という親父の口グセは、この「どこを切っても金太郎」から派生した慣用句なのだろう。w
 さて、この足柄にいた暴れん坊で力もちの、破天荒な金太郎が京に進出して坂田公時になった……などという伝説は、中世以降のできの悪い付会ではないだろうか。(説話の成立は1200年以降の鎌倉時代) 確かに金太郎の怪童伝説は、足柄とその周辺域に現代までエンエンと口承伝承されてきてはいるが、藤原時代に源頼光に見いだされ彼の四天王のひとりとなって「鬼」の酒呑童子を退治する……なんて説話は、物語の語り部がちまたに登場する中世以降の“説話”あるいは“講談”の類であって、足柄の金太郎と坂田公時は生まれ育った地域も異なるまったくの別人ではないかと思っている。
 坂田公時とは、京近くの坂田郡(滋賀県長浜市)にいた「公時(金時)」という人物ではないだろうか。そもそも金太郎の容姿自体が、朝廷と対峙する「大江山」の酒呑童子と同様に、「足柄山」のまつろわぬ坂東の「鬼」のような、ダイナミックな姿をしているではないか。
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 足柄の金太郎については、もうひとつ面白い伝説が残っている。すなわち、金太郎が深く信仰していたのは、クニノトコタチにはじまる日本古来の7天神のうち、6番目に位置する日本列島の自然創造神である「大六天(第六天)」神Click!だったことだ。
 東日本には、中でも富士の裾野やその周辺域には、古来から数多く奉られた大六天(第六天)の社Click!だが、そんな日本古来の信仰をもつ金太郎が、同じく大六天(第六天)Click!の女神カシコネとオモダルを信仰して昔からヤマトと対峙する、丹波や丹後つづきの大江山にいる酒呑童子を攻撃するなど、不自然きわまりない筋立てとして映る。ましてや、ヤマトがアマテラスを担ぎだし、当時は創立数百年にすぎない新興宗教だった伊勢社を、坂東の足柄にいた金太郎が許容するとも信仰するとも思えないのだ。
 足柄の地に伝承された金太郎伝説が、どこかの時代に大きく歪曲され、無理やり源頼光の四天王伝説と結びつけられたのではないだろうか。あるいは、そのような伝説を創造することで、なにかと朝廷と対峙・対立し、まつろわぬ気味の坂東を手なずけるための、慰撫工作(帰属=まつろわせる物語)だったのかもしれない。藤原時代は、特にその後期から常に武者(つわもの)=侍(さむらい)の進出に、朝廷や公家が戦々兢々としてすごした時代であり、その強大な勢力の中心地は古墳期からすでに鋭く対立(上毛野・南武蔵連合vs北武蔵)していた、原日本色の強い坂東(関東地方)なのは明らかだった。
 少し横道へそれるが、先日、民俗学系の動画を見ていたら「桃太郎伝説」に触れ、番組では「鬼がかわいそう」という結論だったのが面白かった。「鬼」が、せっせと生産努力してようやく貯めたのかもしれない財宝をたくさん所持しているから、家来を集めて「鬼」が住む島を勝手に攻撃して侵略し、それらの財宝を強盗し簒奪する桃太郎は、もう極悪非道でムチャクチャひどい侵略者だ……というのが番組のオチだった。w これは、平安期を舞台にした説話「一寸法師」も同様だが、まったくそのとおりだと思う。
 これらの物語には、後世になると「鬼」が「里人を苦しめた」からという、免罪符のような一文がマクラとして付け加えられるようになる。だが、本来の伝説は『日本書紀』の「景行天皇条」に見られるのとまったく同様に、北陸地方や関東地方は「土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし(土地が肥沃で収穫量も多く広大なので、侵略して盗ってしまえ)」という天皇の命令と同一の発想から生まれているのだろう。こうして、古墳期以来とみられる「丹」地方(出雲王朝の同盟国だったといわれている)や「越」地方(翡翠の女王ヌナカワの国)、そして坂東地方との対立は陰に日に深まっていったように思える。
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 これらは架空の物語らしく伝承されてはいるけれど、先の酒呑童子伝説の丹波・丹後や、同じく岡山(出雲勢力の東端?)あたりの桃太郎伝説には、ヤマトへの帰属を拒否する原日本勢力による、なんらかの史的な背景があって誕生した説話の臭いがプンプンしている。もちろん、そのおおもとには記紀に描かれた近畿地方の「土蜘蛛(ツチグモ)」や「国栖(クズ)」の退治伝説をはじめ、史的根拠が希薄な「ヤマトタケル神話」(征伐伝説)が、これら昔話の規範として横たわっているのだろう。
 さて、足柄伝説の金太郎は、明らかに山岳の民であって農業を生業(なりわい)とする平野部の定住民とは異なっている。中には「山姥(やまんば)」の息子だという説もあるが、どうだろうか? 「山姥」という呼称自体が、山岳民の女性につけられた蔑称のように聞こえるのは、農業を営み自分たちとは異なる生活をしている、農民から見た山岳地帯にいる異業種の人々を「テンバ(転場)」や「サンカ(山窩)」、「ミブチ(箕打ち)」Click!「ヒョットコ(火男)」Click!などと呼んで蔑んだのと、同質の眼差しを感じるのだ。
 だから、そのような“得体の知れない”山の民の中に、ことさらバカ力のある強靭かつ大きな肉体をもった、農地のある里では見たこともないような男児が出現し、それが里人たちに目撃されるようになったとすれば、すぐさまイエティ(雪男)のように脅威化し、実態以上の尾ヒレをつけて伝説化されただろう。今日では、「きんたろう」と発音される金太郎だが、古代から中世においては「金」=黄金(こがね)ではなく「かね」=鉄Click!を意味する名詞だから、本来は「かねたろう」と呼ばれていたのかもしれない。「太郎」はもちろん、「坂東太郎」というような呼称と同様に、「隋一のもの」「もっとも際だったもの」「最高のもの」というような意味あいだ。
 ひょっとすると、探鉱師(山師)Click!タタラの集団Click!、あるいは山にいた小鍛冶の工房(刀鍛冶から見たいわゆる蔑称「野鍛冶」Click!)で生まれたのかもしれない金太郎だが、金属にまつわる伝承が付随するのも、そのようなニュアンスを色濃く感じさせる。すなわち、金太郎は砂鉄を製錬した目白(鋼)Click!で鍛えたと思われる巨大なまさかり(鉞)をかついで山を徘徊していたのであり、武器ともなりうる強力な刃物の存在は、その背後に大鍛冶・小鍛冶Click!の仕事を強く連想させる。常にまさかり(鉞)を携帯し、力仕事が得意な金太郎は、山仕事をするかたわら鉞や鉈(なた)、鋸(のこ)などの刃物を鍛えていた山鍛冶の系譜だろうか。
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 金太郎にしろ桃太郎にしろ、また一寸法師にしろ、「鬼」がいるからむやみやたらに攻撃して退治しようというような、「どこを切っても金太郎」的で好戦的な昔話はそろそろ止揚して、先の面白かった動画のように、もう少し民俗学的なアプローチによる研究や解釈が強調されてもいい時代だろう。そういえば、太平洋戦争中に制作された戦時アニメ『桃太郎 海の神兵』(松竹/1944年)でも、対戦国は十把ひとからげに「鬼」とされていた。

◆写真上:富士の裾野までが間近に見わたせる、金時社の裏山にある山稜。
◆写真中上:親からもらった古いカメラで撮影したらしい、金時社の周辺に展開する風景。
◆写真中下は、1960年代半ばごろの金時社と背後に聳える金時山。は、かなり樹々が成長した金時社の現状。は、杉林につづく金時社の参道。
◆写真下は、金時社奥の院にある巨岩。当時は岩の上に祠が建ち鉞が置かれていたが、現在は存在しないようだ。は、金時社奥の院のさらに山奥に置かれた金時宿り石の裂け目。は、金時宿り石の現状と昭和初期の制作と見られる観光絵はがき。近年は『鬼滅の刃』の「一刀石」に見立てられ、アニメの聖地として観光スポットになっているらしい。

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下練馬の「シクジツケミ」と「ハネサワ」再考。 [気になるエトセトラ]

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 最近、練馬地域の字名で「谷」とついている地名が、東京南部や神奈川県南部(鎌倉Click!など)と同様に「ヤツ」と発音されていたのを知った。もちろん「谷戸」という地名も残されているが、これが「ヤツ」と発音されていたのか、あるいは漢字表記に引っぱられ近代には「ヤト」と発音されていたのかは不明だ。たとえば、1800年代のはじめ(化政年間)に記録された『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)には、上練馬村の字名「海老ヶ谷」は「エビガヤツ」と記録されている。
 「ヤツ」あるいは「ヤト」は、もともと原日本語(アイヌ語に継承)の「yat(ヤト゜)」に漢字が当てはめられたと思われ、英語の発音に近い「t」=「ト゜」を、近世以降の日本語の「ツ」と発音するか「ト」と発音するかで地域の地名音、あるいは当てはめる漢字が変わってきているのではないかと想像している。ちなみに「yat(ヤト゜)」は、直接的には人体の「わきの下」を意味するが、両側をバッケ(崖地)Click!にはさまれた台地や丘陵に切れこむ、多くは突きあたりに湧水源をともなう谷間の呼称、いまでいう文字どおり“谷戸”地形の場所がそう呼ばれている。
 練馬の「谷(やつ)」発音に刺激され、以前に落合地域の富士講である月三講社Click!について、周辺地域への拡がりを調べた際、江古田駅の北にある江古田富士Click!へ登った記事Click!を書いたのを思いだした。現地を訪れる際、1909年(明治42)に作成された1/10,000地形図を参考にしたのだが、そこに「宿濕化味」や「羽根澤」という字名を見つけて惹かれたのを記憶している。宿濕化味は「シクジツケミ」、羽根澤は「ハネサワ」と発音されていたのだが、もうひと目で昔からの地名音に漢字を無理やり当てはめた様子がうかがえるので、ずっとアタマの片隅にひっかかっていたのだ。そこで、今回は現地の地形をこの目で確かめるため、初めて昔日の下練馬村の同地を歩いてみた。
 「宿濕化味」と「羽根澤」のエリアを、「埼玉道」を軸に歩きまわったあと、『新編武蔵風土記稿』や『練馬区史』、その他の資料類を諸々参照したのだが、地名の由来や字名としての解説は、わたしの見るかぎり掲載されていなかった。ちなみに、埼玉道(江戸期は「さきたまどう」と発音されていただろうか)は、清戸道Click!(現・千川通り)から分岐して下練馬村の総鎮守・氷川明神の北をまわり、大山街道Click!や川越街道と交叉したあと、荒川早瀬の渡しから埼玉(さきたま)へと抜ける道筋のことだ。「宿濕化味」と「羽根澤」は、埼玉道のちょうど東西に位置する字名として近年まで残っていた。
 まず、「宿濕化味」について『新編武蔵風土記稿』を参照すると、小名として「濕化味(シゲミ)」が採取されているのが判明した。「(宿)濕化味=ジツケミ」ではなく、「シゲミ」とルビがふってある。ところが、「濕化味」の小名の上に「宿」が付くと「シクジツケミ」と発音されたようで、またもうひとつ字名として「前濕化味(マエジツケミ)」というエリアのあったことが判明した。まず、江戸後期の『新編武蔵風土記稿』から引用してみよう。
  ▼
 下練馬村
 (前略)日本橋より三里許、民戸四百二十六、東は上板橋村西は上練馬村、南は中荒井村北は徳丸本村及脇村なり、東西二十八町南北一里程、こゝも蘿蔔を名産とす、当所は河越街道中の馬次にして、上板橋村へ二十六町、新座群下白子村へ一里十町を継送れり、道幅五間、此道より北に分かるゝ道は下板橋宿へ達し、南へ折るれば相州大山道への往来なり、御打入以来御料所にて今も然り、(中略)/小名 今神 濕化味(ルビ:シゲミ) 三間在家 早淵 田抦 宮ヶ谷戸 宿 本村
  
 文中の「蘿蔔」は、もちろんいまも練馬名産の美味しいダイコンのことだし、「河越街道」は現在は川越街道と書かれる道路のことだ。下練馬村は、下落合村や上落合村と同じく幕末まで行政や農地が徳川幕府直轄の村、いわゆる「天領」だったことがわかる。
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 この中で、小名の「濕化味」のほかに同じく小名に「宿」とあるのに留意したい。「宿(しゅく/しく)」は、明らかに中世以降の日本語と思われるが、実は「宿濕化味(シクジツケミ)」が近世の小名と昔日の古地名がくっついた字名ではないかとみられる資料が残されている。『練馬区史・歴史編』には、江戸期の「御年貢割附状」や「御年貢皆済目録」などが収録されていて、その中に「宿濕化味」とともに「前濕化味」という小名も採取されているからだ。「前」もまた、「宿」と同様に近世に付けられた日本語だとみられる。
 この「宿濕化味」と「前濕化味」は、明治以降もそのまま小名として残っていたらしく、下練馬村の村会議員を決める1880年(明治13)の「村会規則」まで継続している。
  
 北豊島郡下練馬村々会規則(明治十三年八月廿一日)/第一章 総則
 (中略)/第十条 村会ノ議員ハ二十五名トシ、其撰挙ノ部分ヲ定ムル左ノ如シ/一ノ部 議員三人 下練馬村字上宿下宿/二ノ部 議員二人 同村字下田柄/三ノ部 議員二人 同村字本村/四ノ部 議員二人 同村字今神/五ノ部 議員二人 同村字前湿化味/六ノ部 議員三人 同村字南三軒在家 北三軒在家/七ノ部 議員三人 同村字宿湿化味 (以下略)
  
 ところが、明治末の1/10,000地形図には、「宿濕化味」は見えるが「前濕化味」は見あたらない。単なる採取漏れなのか、郵便制度などの影響から字名の再編が行われ「前濕化味」が消滅したのかは不明だが、あるいは少しあとになって「東濕化味」と「西濕化味」という地域名が見られ、これが「前濕化味」が分化したものだろうか。さらに、「宿濕化味」も一部が「宿化味」に分化しているようだ。以上の記録により「濕化味(湿化味:シツケミ/シ(ツ)ゲミ)」こそが、どうやら古地名らしいことが判明した。
 以前の記事では、大ざっぱな考察しかしなかったけれど、今回はもう少していねいに考えてみよう。まず「シツ」(sit=シト゜)は、以前にも書いたように原日本語では「丘陵・尾根・峰」という意味になるが、以前は曖昧に解釈していたケミ(以前はkemiで「血?」としていた)については、「ke(ケ)」=「削る・えぐる」で、「mim(ミム:ムは唇を結んで鼻音の「ん」に近い)」=「肉」と解釈すると、「シト゜・ケ・ミ(ム)」を地名的に意訳すれば「丘陵の削れた(えぐれた)場所」となるだろうか。
 地形図を見ただけでも判然としているが、実際に「(宿)濕化味」を歩いてみると、現在の開進第三中学校の西側へ谷戸地形が喰いこみ、またひとつの小丘を越えると再び深い谷戸地形で大きく削られている。つまり、丘陵がふたつの谷戸によって深くえぐられるように削られている一帯に、「(宿)濕化味」の古地名が伝えられていることがわかる。その東側(中学校寄り)の谷戸の突きあたり、湧水源があったとみられる場所には、マンホールが多数設置された、人が通るのもやっとの細い路地が現存しており、いまでも下落合のあちこちにある谷戸と同様に、湧水が地下の暗渠を流れつづけているのだろう。
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 では、埼玉道の東側=「羽根澤」の地形はどうだろうか。「羽根澤」は、現代では真ん中の「根」が取れてしまって「羽沢」と書かれているが、これで「はねざわ」と読ませているのだろう。だが、もともと原日本語がベースだったとすれば、「羽(ハ・パ)」に「根(ネ)」と発音していたはずであり、以前にも書いたように「パ・ネ(pa-ne)」=「(良質な)水のある所/沢/渓流/湧水」の意味だと思われる。「澤」は、後世に古地名「パネ/ハネ」本来の意味がわからなくなってから附属した語であり、期せずして「パネ澤」つまり「沢々」の重言になってしまった可能性が高いように思われる。これは、海岸線にめずらしく塩分を含まない湧水が流れ、田圃を耕作できたとみられるパ・ネに「田」を付けた、「羽田」(ここでも「根」が取れている)と同様のケースではないだろうか。
 実際に「羽根澤」(羽沢)地域を歩いてみると、こちらも大きな谷戸が丘陵へ深く切れこんでいる地形であり、その規模は「宿濕化味」に見られるふたつの谷戸よりも大規模で南北に長い。湧水源の手前(北側)にある谷戸の斜面には、「羽沢ふじ公園」の緑地帯が残されており、それを南へたどると湧水源だったと思われる環七から北側へ急激に落ちこむ小谷へと抜けることができる。いや、現在ではすっかり地形改造が進んでおり、環七から落ちこむのは同通りの法面かもしれず、「羽根澤」谷戸の突きあたりは環七を突き抜け、もう少し南へとつづいていたのかもしれない。
 「羽根澤」の渓流は、「宿濕化味」の小流れよりは規模が大きかったらしく、1/10,000地形図でも流れがハッキリと水色で描かれている。この湧水源近くの丘上には、「新桜台もくせい緑地」が練馬区によって保存されていた。サルスベリをはじめ、クスノキ、タイサンボク、ケヤキ、キンモクセイ、カエデ、シャリンバイなど、武蔵野の樹木や懐かしい庭木がところ狭しと生えている。
 もうひとつ、「羽根澤」の東(上板橋村/現・練馬区)に位置する「小竹」地名だが、この由来も地元には確とした伝承がなく古くから「不明」とされているようだ。前回の記事では、「kotan-ke(コタン・ケ)」=「村の地/本村」としたが、それは上板橋村・下板橋村の両村(現在の小竹は練馬区に編入されているが、江戸期は上板橋村の小名で板橋エリアだった)に、古くからの集落拠点に付けられる「本村(もとむら・ほんむら)」Click!の小名がなく、「小竹」がその位置に相当する“村”だったのではと想定したからだ。
 だが、現場の地形や地勢を考慮し改めて再考してみると、「kotan-kes(コタン・ケ(ス)/sは英語の複数形清音と同じ)=「村の端/村の終わり」とも解釈できることに気がついた。「小竹」は、なんらかのエリアの境界線に位置する地域だった可能性もありそうだ。地形を見ると、小竹が下練馬からつづく丘陵の東端に位置する半島のようにせり出した台地であり、古くから人々の集落があった地域の終端(崖淵)……というような古地名だろうか。
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 練馬地域には、落合地域と同様に氷川社や稲荷(鋳成?)社、弁天社が点在し「久保(窪)」Click!の地名も散見される。これら古地名と思われる地域と重なり、タタラ集団Click!が通過した痕跡があると面白いのだが、金糞(スラグ)Click!鉧(ケラ)Click!などが出土するタタラ遺跡Click!が、下練馬地域のどこかで発掘されているかどうか、わたしは不勉強で知らない。

◆写真上:出発点で終着点となった、古墳がベースといわれる江古田富士(浅間社)。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる「宿濕化味」。は、丘上の開進第三中学校を囲む樹林。は、「宿濕化味」に喰いこむ谷戸の湧水源。新道(じんみち)Click!のような風情だが、いまも湧水が地下を流れているのだろう。
◆写真中下は、同年の地形図にみる「羽根澤」。は、谷戸の斜面にある「羽沢ふじ公園」。は、環七も近い「羽根澤」谷戸の湧水源手前の路地。
◆写真下は、同年の地形図にみる「小竹」。中左は、内藤家に残された『御年貢位付』文書。中右は、1980~1982年(昭和55~57)に出版された『練馬区史』(練馬区役所)。は、「羽根澤」湧水源近くの丘上にある「新桜台もくせい緑地」のサルスベリ。
おまけ
 1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる、下練馬地域()と江古田富士()。下練馬の上空からは、「宿濕化味」と「羽根澤」の湧水源あたりに濃い緑の繁っているのが判然としている。また、江古田富士を円墳ではなく前方後円墳とすれば、前方部は現在の江古田斎場側にあっただろうか。江古田富士の右手にも、なんらかのサークル状の痕跡がうかがえるので、一帯は古代の古墳領域だった可能性もありそうだ。
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喫茶店が不良のたまり場なんて知らない。 [気になるエトセトラ]

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 あけまして、おめでとうございます。なんだか、年末とはとても思えない暮れの暖かさでしたが、案のじょうケヤキをはじめ落葉樹の葉が枝々から落ちず、年越しの落ち葉掃きとなってしまいました。本年も拙ブログを、どうぞよろしくお願いいたします。
  
 大正期から昭和初期のエッセイや小説に登場する、「喫茶店」Click!とは具体的にどのようなものだったのだろうか? 今日でも、喫茶店は存続しているけれど、ときに「カフェ」や「珈琲店」という名称で営業しており、多くの店では酒を置いていない。
 現代の喫茶店といえば、コーヒーClick!や紅茶、ジュースなどをメインの飲み物として用意し、軽めの食事も提供する“お休み処”、あるいは友人たちとの会話を楽しみ、ビジネスの打ち合わせをするロビーや会議室がわり、ときには執務室や書斎がわりに仕事をするサテライトオフィス的な場所……というイメージが強いだろうか。そこでは、アルコールや本格的な料理は出さず、あくまでもコーヒーClick!や紅茶の喫茶がメインだ。
 日本初の喫茶店である、1888年(明治21)に下谷五軒町(現・上野)に開店した「可否茶館」や、1911年(明治44)に京橋銀座でオープンした「カフェパウリスタ」(現存)、「カフェプランタン」(1945年閉店)、「カフェライオン」(ビアホールに転業し現存)なども、コーヒー喫茶が中心でアルコール類は提供していない。江戸期でいえば煎茶と軽食(団子や餅菓子、饅頭など)を出す水茶屋のことで、戦後の1950年代からつかわれた用語でいえば、これら明治期にスタートした店は「純喫茶」であるのが基本だった。
 ところが、時代を経るとともに「喫茶店」や「カフェ」には、別の意味あいが付加されるようになってくる。当初は、「純喫茶」だったはずの喫茶店にビールやウィスキーが置かれるようになり、「カフェ」は喫茶店とは無縁な、酒が主体のバーやキャバレーのように変貌していく。大正後期に「喫茶店」といえば、アルコールが置かれるのは普通になったし、「カフェ」にいたっては媚態をしめす女子たちが隣りの席へと座る、キャバレーかバーのように変貌していった。寺斉橋Click!の北詰めで、萩原朔太郎Click!の妻だった萩原稲子Click!がママをしていた下落合1910番地の喫茶店「ワゴン」Click!では、常連の檀一雄Click!太宰治Click!が1杯10銭のウヰスキーをひっかけながら入りびたっていた。
 同様に、喫茶ではなく新鮮な搾りたての牛乳を飲ませるミルクホールや、鉄道駅の近くにはミルクスタンドも明治末から開店しているが、後者はともかく前者のミルクホールは大正期に入ると、白いエプロン姿のきれいなお姉さんがニコッと笑いながらミルクを注いでくれるようになり、そのうちアルコールも置くようになって、やはり夜間営業ではキャバレーかバーのような風情に変わっていった。
 余談だが、親父は千代田小学校Click!から帰るとカバンを持ったまま、東日本橋で開店していた近くのミルクホールClick!でサンドイッチを食べミルクを飲みながら、「学」のあるお姉さんにその日の宿題をみてもらっていたそうだが、宿題が難しいから教えてもらっていたのではまったくなく、このきれいなエプロン姿のお姉さんに逢いたいために通っていたのだと、いまになって思いあたる。w 昭和10年代のミルクホールは、昼間はミルクに軽食を出す喫茶店のような営業をしていたが、夕方になると酒も出すバーのように店内の様子が一変していたのだろう。トナリ近所が顔なじみで気心の知れた(城)下町Click!だからこそ、親も許していた小学生のミルクホール通いだと思われる。
 では、当初の喫茶店の様子を、1924年(大正13)に日本評論社から出版された水島爾保布『新東京繁盛記』より、現代語訳が掲載された『モダン東京案内』(平凡社/1989年)から引用してみよう。ちなみに、著者はブラジル政府が肝煎りで援助した銀座の「カフェパウリスタ」が、地元でコーヒーを飲むことが習慣化したきっかけであり、コーヒーClick!の日常化を根づかせたのは同店だと規定しているが、確かに日本初の喫茶店は下谷の「可否茶館」だけれど、わたしもまた東京にコーヒーが根づき、その喫茶習慣が本格的に拡がっていったのは同店が嚆矢だと認識している。
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 ブラジルから特産のコーヒーが輸入され、同政府の補助経営によってカフェ・パウリスターというのが開かれたのはそう古いことではない。燕のようなボーイが評判され、キャビンのような部屋の造りが喧伝され、それから鬼のように黒く地獄のように熱く恋のように甘い――ということがコーヒーの条件だなどと宣伝された。今日でこそブラジルのコーヒーなんて三等品が何うして単独で飲めようなどと、禿鷹のような頸をフラフラさせて、さもボスポラス海峡の夕陽は眩しかったってえような顔をするヘチャムクレ共も敢て珍しくはないが、その当時はコーヒーといえば角砂糖へ小豆の粉を焦がして入れたようなものしかなく、それすら余程内容充実した家庭でなければ常備してはいなかったんである。少なくとも日本人がコーヒーってものについて彼是いえるようになった事も、亦コーヒーってものが一般に普及されるようになった事も、ブラジル政府の宣伝及びパウリスタ―の宣伝が大分与っているし、カフェってものの発祥も少なからず助長している。
  
 わたしが子どものころ、親とともに入った喫茶店には、カウンターの背後に洋酒壜がズラリと並んでいる店もあった。それは、カフェロワイヤルやアイリッシュコーヒーなどを作るためのものもあったろうが、夕方以降は客の注文があればそのまま酒類も出していたのだろう。そういった店は、不良少年のたまり場ともなっていたにちがいない。
 そのような、喫茶店かバーかわからない曖昧な店と区別するために1950年代に入るとアルコールを出さない“健全な店”のことを、あえて「純喫茶」と呼ぶようになったにちがいない。また、昼間は喫茶店のような“顔”で営業し、陽が落ちるとバーのような“顔”になる店のことを、「スナック」と呼びだしたのも1960年前後のことだろう。また、純粋に喫茶が目的の店ではなく、それなりに食事にも力を入れて出す店のことを、「軽食喫茶」と呼称するのも流行したように思う。
 わたしがよく通った「JAZZ喫茶」Click!は、純粋な喫茶のみでストイックに音楽へ耳を傾ける店と、アルコールも置いている店(ただし強い酒は出さない)と、ほぼ半々ぐらいの割合だったように記憶している。また、何度か入った「名曲喫茶」では、アルコールはご法度で置いていなかった。確かに、酒で酔っぱらって大声でしゃべる環境からは、そもそもほど遠いのがクラシックの名曲喫茶だった。
 柴田翔の『されどわれらが日々』(文藝春秋/1964年)に描かれた、六全協以降に登場したと思われる「歌声喫茶」に、わたしは一度も入ったことがないので不明だが、なんだか上条恒彦のような髭づらのヲジサンがビールジョッキ片手に『人間の歌』を唄い、前髪を斜めにたらした山本圭のようなヲニーサンが『若者たち』を唄っているようなイメージがあるのだけれど、きっとわたしの勝手ないつもの妄想なのだろう。
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 昭和初期から戦後にかけ、「喫茶店など不良がいくところです!」などといわれ、酒やタバコの味を覚えるには最適な場所だったらしいが、わたしも高校3年生のとき(1970年代)に喫茶店でタバコの味を覚えている。小学生だった親父の、昭和初期のミルクホール通いに比べれば、なんの艶っぽさもないチャチな遊びにすぎない。(爆!) わたしはいっぱしの不良などではなかったが、戦前の神田神保町の喫茶店街は、ほんとうの不良のたまり場として東京市内では有名だった。「喫茶横丁」などと呼ばれた神田神保町の喫茶店街について、稲上健之助の『神田・喫茶室点描』を『犯罪都市』(平凡社/1990年)より引用してみよう。
  
 最近、雨後の筍の如くに簇生した喫茶店が如何に近代珈琲人の趣向と並行線を辿らんと否、現に辿りつつあるか、茲に千万の呶呶(どど)を費す前に喫茶室が描くニュアンスとセンジュアとの交錯明暗を記して見よう。/喫茶店が持つスタイルの千態万様は到底この筆紙に尽せ相もないが、特異な風貌を持った茶寮を摘記して各の角度から神田喫茶室アワンチウル(アヴァンチュール)を描いて見たいと思う。(中略) 『諸君、あの路次を一度這入って御覧! 大小幾多の赤い灯、青い灯の蘭灯を掲げた喫チャ店(ママ)が宛ら古代迷宮図の如くに諸君を誘惑しようと待ち構えていますぞ! そこは諸君は知らないだろうが、喫茶横丁と言って世界的に恐れられている不良マクツ(魔窟)である……』と薬本売りが月に向って喝破した、其の所謂喫茶横丁又の名をジャズ通り――。恐らく東京市中で此の喫茶横丁ほど喫茶店が軒々相摩して密集している地帯は見出されないであろう。(カッコ内引用者註)
  
 文中に登場する「ジャズ」とは、今日でいうビ・バップ革命以降のインプロビゼーションを主体としたモダンJAZZ(さらにそれ以降のコンテンポラリーJAZZ)のことではなく、しっかり譜面のあるダンスミュージックとそこから派生した初期のビッグバンドによるスウィングジャズのことで、現代のいわゆるJAZZとは異なる音楽のことだ。JAZZをご存じない方(たとえば名曲喫茶が好きな方)には、ヘンデルとヒンデミッドを同列同次元に並べて扱ってしまうほどのおかしさ……とでも表現すればおわかりいただけるだろうか。
 稲上健之助がいた昭和初期、「ジャズる」という言葉が流行ったようで上記の文中にも登場するが、「浮かれて踊って大騒ぎする」というような、不良用語としてつかわれていたらしい。喫茶店にいるキレイなお姉さんがシナをつくり、帰りぎわに扉を開けながら「又いらっしゃいねえ」と耳もとで囁いて見送ってくれるので、当時の学生たちはまた小遣いをせっせと貯めて「ジャズり」にこなくちゃと思ったのだろう。今日の、即興的になにかをアドリブでこなす「ジャズる」とは、まったく異なる用法だったらしい。
 わたしは学生時代、アルバイトでコーヒーショップのカウンターClick!を1年ぐらいつづけたが、平日のモーニングセットがある日は早起きをしなければならず、かなりつらかったのを憶えている。モーニングセットのない日曜・祝日に比べ、勤務が平日の場合は1時間ほど早く起きて、卵を茹でたり斤単位でとどくパンを切ってトーストの準備をしたり、野菜類を洗って適当に切りガラスの小皿へ盛っておかなければ、開店に間にあわないからだ。
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 「こんなサービスを考えたのはどこのどいつだ!」と、ブツブツ野菜を切っていたのだけれど、どうやら1936年(昭和11)にオープンした銀座の「トリコロール」で、コーヒーとエクレアをセットで提供しだしたのが、東京におけるモーニングセットの嚆矢らしい。

◆写真上マッキンブルーClick!が光り、JAZZが流れる喫茶店で飲むコーヒーはことのほか美味だ。以下は、大正末から昭和初期に開店していた各地の喫茶店。
◆写真中上は、早稲田の学生街にあった喫茶店「いなほ」。は、神楽坂の花街にあった喫茶店「紅屋」。は、収容客数が多い新宿の大型喫茶店「華城」。
◆写真中下は、新宿にあったオシャレな喫茶店「大陸」。は、新宿にあった和風の意匠の喫茶店「江戸むらさき」。は、神田を代表する喫茶店「フロリダ」。
◆写真下:喫茶部から、独特な“フルーツパーラー”へと進化した3店。は、江戸期から有名な水菓子屋で本店をはじめフルーツパーラーの嚆矢となった中橋(現・京橋)「千疋屋」Click!は、同じく江戸期からの水菓子屋で神田にあった「万惣」Click!は、松本順Click!の教え子・福原有信Click!が明治になって創立した銀座の「資生堂」Click!喫茶部。

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