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江戸期からの中野伝承と丸山・三谷。(上) [気になる神田川]

成願寺山門.jpg
 村尾嘉陵Click!が著した『江戸近郊道しるべ』、国会図書館では『四方の道草』で、内閣文庫では『嘉陵記行』(「行」ではない)というタイトルで残されている日記には、1818年(文政元)8月26日(太陽暦では9月下旬ごろ)に中野の本郷村(現・中野区本町)から角筈村(現・新宿区西新宿)界隈を散策した記録が残っている。
 そこには、幕末にかけての開墾あるいは大正期以降の宅地開発で破壊されたとみられ、現在では存在していない「山」や「塚」の記述が見えたり、そのまわりを取り巻く周濠(空堀)が明確に記録されていたりするので貴重だ。この古墳の周濠(空堀)については、後世(おもに明治以降)の城郭をイメージした付会的な解釈がほどこされており、築造当初から空堀だったとするのが今日の科学的な有力説のひとつとなっている。
 たとえば、本郷村の成願寺(現・中野区本町2丁目)の界隈を記録した文章を、1999年(平成11)に講談社から出版された村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』Click!(現代語訳・阿部孝嗣)所収の、「成子成願寺・熊野十二社紀行」から引用してみよう。ちなみに、江戸期には現在のような区分による行政区画などまったく存在しないので、著者の村尾嘉陵は本郷村も中野村(ともに中野区)も、はたまた角筈村(現在は新宿区)も全体が「中野地域」だととらえて記述しているフシが見られる。
  
 文政元年(一八一八)陰暦八月二十六日、中川正辰同遊。成願寺(中野区本町二丁目)は禅刹である。門の扁額に多宝山とあり、寺の前を井の頭上水が流れている。小橋を渡って門から本堂まで三十五、六間(約六十五メートル)。入って左に茅葺き屋根の百観音堂が、右には鐘楼があり、方丈と庫裏が並んでいる。鐘楼の傍らには大きな杉が一株ある。庫裏の庭を通って後山に登る。山の高さは三丈ほどで、山上に金比羅の社がある。/その裏手、北西の方角に小高い塚があって、その周りに空堀の跡がある。墳にはツツジが二、三株生えている。その下に小さな五輪の笠が二つ、なかば土に埋もれて見える。言い伝えでは、この墳は性蓮長者という人の墳であり、この山はその長者が住んでいた跡であるという。
  
 成願寺は、神田上水(室町期以前は平川)の段丘斜面に建立されているので、「後山」とはその10mほどの高さのある段丘のことだ。その斜面を上った北西方向に、「空堀の跡」がある「小高い塚」が記録されている。
 古墳に興味をお持ちの方ならご存じかもしれないが、従来は古墳を取り囲む堀は「周濠」と呼ばれ、まるで近世の城郭(平城)のように水が引かれた濠にされている古墳もあるが、当初の姿は「空堀」、すなわち水を引かずに谷間を刻む「周壕」だったのではないかという、科学的な調査にもとづく研究成果が有力視されている。つまり、平野部に築かれた大型の前方後円墳などに見られる周濠は、その古墳の権威性をより高めるため後世に改造され、当初の姿が破壊された姿だということになる。あるいは、中には長い年月にわたり結果的に雨や湧水によって、水がたたえられているケースもあるのだろう。
 確かに、山の斜面や崖地に沿って築かれることが多い古墳の場合、傾斜があるため「周濠」は困難だったとみられ、換言するなら「周濠」が必要とされるのなら、なぜ平地ではなく斜面や引水が困難な丘上あるいは斜面に築かれることが大多数なのか?……という疑問への解答にもなる。村尾嘉陵が見た塚と空堀も、本来の姿を近世までとどめていた古墳の可能性が高い。もっとも、現在の同地域には古墳も、空堀もなければ金比羅の社も存在せず、一面に住宅街が拡がっているばかりだ。
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角筈十二社.JPG
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 また、この塚が「性蓮長者」の墓だとする伝説を採取しているが、これは「中野長者」伝説Click!が広く普及していった後世(室町期から江戸初期にかけて)の付会だろう。「中野長者」の時代に、死者を葬るために大きな墳墓を築造する習慣があったかどうかも検討されるべきだし(とうに墓地墓石の時代へ移行していただろう)、なによりも「中野長者」伝説と平川(のち神田上水)沿いに展開していた古墳を供養して歩いた「百八塚の昌蓮」伝説Click!とが、どこかで習合している痕跡を感じるからだ。
 中野の成願寺で語られる性蓮(一説には正蓮)と、下戸塚(早稲田)の宝泉寺Click!にゆかりの深い昌蓮とは、同じ「しょうれん」なので記録する漢字をちがえた同一人物なのか、淀橋をわたって成子坂Click!の向こうへ出かけていくとカネ持ちになって帰ってくる「中野長者」=性蓮(正蓮)と、平川沿いに展開する百八塚(古墳)に小祠を建立して供養してまわった昌蓮は、古墳盗掘の罪意識にめざめた性蓮(正蓮)のことなのか、それともたまたま僧名の音がいっしょで別人なのか……。
 そもそも村尾嘉陵も、性蓮(宝仙寺=中野)と昌蓮(宝泉寺=早稲田)とで混同しているようなのだが、なぜ室町前期(性蓮)と室町後期(昌蓮)とみられる、ふたつのエピソードが習合しているのか、史的に不明な点が多すぎるのだ。混同の要因を想像してみると(混同しているとすればだが)、中野の宝仙寺と早稲田の宝泉寺とで、こちらも同じ「ほうせんじ」という音が共通しており、時代の経過とともに混乱が生じて、両者が結びつけられて伝承されるようになったととらえるのが、もっともありえるリアルな想定だろうか。
 このあと、村尾嘉陵は神田上水を東へわたり、熊野十二社がある角筈村(現・新宿区)に入る。牧野大隅守(旗本)の抱屋敷に近い、「兜塚」を見るためだった。小普請請小笠原組2,200石だった牧野の抱屋敷は、都庁の第一本庁舎の西側、現在の新宿中央公園あたりにあった屋敷だ。同書より、再び引用してみよう。
  
 兜塚(不明)に向かう。熊野社の大門を出て、少し南へ向かうと、道の東側の林に家がある。この辺りは牧野大隅守の下屋敷(ママ)といわれているけれども、垣根もなく、小笹が生い茂っている中をかき分けて二、三間ほど行くと、その塚がある。その由来は分からないという。/ここの南は秋元左兵衛佐殿の屋敷である。この塚には樫の木を植えて、その根元と、その前にも一つ石を置いてある。樫の木の大きさは一囲み、一丈四、五尺ほどである。木は伸びており、上の方に枝が張っている。周りは杉林だ。石の大きさは二尺三寸ほどで、縦一尺二、三寸、高さ二尺ほどである。全体としては紫青色であるが所々に白石英のようなものが含まれている。前にある石の方がやや大きい。伊豆の青石かも知れない。大石を切り出したまま加工していない石だ。二つの石ともびっしりと苔に覆われている。
  
嘉陵記行10巻表紙.jpg 嘉陵記行11巻表紙.jpg
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 中野区との区境も近い、新宿中央公園の界隈にあったとみられる兜塚(墳丘の形状が兜を伏せたようなフォルムをしていたことから名づけられものだろうか)も、いまは中央公園や住宅街に整地されとうに現存していない。ちなみに、狛江市では「兜塚」と名づけられた丘を発掘したところ、古墳と判明したので兜塚古墳と命名されている。
 この記述で興味深いのは、ふたつの大きめな石が記録されている点だろう。村尾嘉陵は、海岸沿いに見られる「伊豆の青石」と想定しているが、同じ海沿いの石材で白い貝殻化石を含んだ房州石Click!だった可能性が高そうだ。南武蔵に展開する、古墳の玄室や石材に多く使われた房総半島の先端で産出する房州石Click!を、村尾嘉陵は観察しているのではないだろうか。また、切り出したままでなんら加工されていないのも、古墳の石材を想起させる形状だ。もし後世になって運ばれてきた石材なら、なんらかの目的があったはずで、加工しないままあたりに放置することは考えにくい。
 開墾や宅地化などで、中小の古墳から出土した玄室や羨道の石材(房州石)は、それほど大きな石が使われていないので廃棄されてしまうケースが多いが、たとえば昌蓮ゆかりの宝泉寺に隣接していた富塚古墳(高田富士)Click!などのケースのように、中型以上の古墳を崩した際に出土した石材は、その付近に保存される事例が多々みられる。富塚古墳の場合は、甘泉園Click!の西側に遷座した水稲荷社本殿の裏手に、玄室に使われていた石材の多くが保存Click!されている。また、大きくてかたちの整った石材の場合は、庭園の庭石にされたり、寺社の礎石にされている事例も見られる。
 もうひとつ、この「兜塚」で気づくことは、新宿駅西口に確認できる「津ノ守山」=新宿角筈古墳(仮)Click!や、成子富士(陪墳のひとつ?)が残る成子天神山古墳(仮)Click!、あるいは淀橋浄水場Click!の工事記録にみられる多くの古墳の事績を含めて考えると、西側の神田上水(平川)や淀橋方面へと下る角筈村の斜面あるいは丘上は、古墳が連続的に築かれてきたエリアではなかったかというテーマが、再び大きく浮上することになる。
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宝泉寺.JPG
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 さて、先述の大きな房州石が、後世に江戸期からの旧家(大農家で付近を開墾の際に出土したとみられる)の庭石にされ、現存している地域がある。成願寺の裏山から北西へ2,900mほどのところ、同じ中野区内の古くから丸山・三谷地域Click!と呼ばれている旧・野方町の一帯で、中野区教育委員会が収集した後述する証言では、朽ち果てた「刀」が見つかり、その祟りが語られている地域だ。この大型古墳とみられる痕跡が残るエリアは野方駅の南側、江戸時代の行政区分でいえば下沼袋村(丸山・三谷)と新井村(三谷の一部)の村境に近い一帯だ。次回は、村尾嘉陵が歩いた旧・中野町界隈から離れ、旧・野方町へと足を向けてみよう。
                                 <つづく>

◆写真上:村尾嘉陵が訪れた、「性蓮長者」伝説が残る旧・本郷村の成願寺山門。
◆写真中上は、成願寺の本堂。は、本郷村から旧・角筈村に入ってすぐの角筈十二社。は、『嘉陵記行』に描かれた兜塚の石材挿画。
◆写真中下は、1828年(文政11)の散策をまとめた『嘉陵記行』10巻()と、1815年(文化12)の郊外散歩を収めた『嘉陵記行』11巻()。年代が前後するのは、訪れた方角や地域ごとに編まれているからだと思われる。は、落合地域を訪れたときの村尾嘉陵の散策行程。(『嘉陵記行』10巻および11巻の挿画より)
◆写真下は、下戸塚(現・早稲田界隈)から高田馬場(たかたのばば=幕府練兵場)周辺における村尾嘉陵の散策行程。高田富士の周囲に、現在は存在しない「山」と書かれたいくつかの丘があるのに留意したい。は、「百八塚」の昌蓮伝説Click!が残る早稲田大学に隣接した下戸塚の宝泉寺Click!は、水稲荷社の本殿裏に保存されている富塚古墳(高田冨士)の羨道や玄室に用いられた石材(房州石)で造られた稲荷社洞。

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弁慶は薙刀(なぎなた)など持たない。 [気になる神田川]

ノエル・ヌエット「江戸川 下戸塚」1936.jpg
 この正月に、面白い絵葉書を2葉いただいた。ひとつは、1926年(大正15)に来日したフランス人の詩人であり、のちに浮世絵の風景画(安藤広重Click!など)に魅せられて画家あるいは版画家になるノエル・ヌエットが描いたスケッチ『江戸川、下戸塚』だ。もうひとつが、やはり浮世絵がらみで月岡芳年が明治期に描いた、『月百姿(つきひゃくし)』シリーズの100枚の中に含まれる1作『月下の斥候/斎藤利三』だ。
 まず、1936年(昭和11)5月(Mai ’36)に描かれたノエル・ヌエットのスケッチ、『江戸川、下戸塚』から観てみよう。彼は、パリに滞在していた与謝野鉄幹・与謝野晶子Click!夫妻に勧められて1926年(大正15)に来日したあと、静岡高等学校と陸軍士官学校でフランス語を教えたが、契約を終えると1929年(昭和4)に一度帰国している。そして、1930年(昭和5)に東京外国語学校(現・東京外国語大学)の招きで再来日すると、1961年(昭和36)に帰国するまで戦争をはさみ、実に足かけ35年間も日本で暮らしている。スケッチ『江戸川、下戸塚』は、二度目に来日してから6年ほどたった年に描かれた作品だ。
 旧・戸塚町の地元にお住まいの方なら、すでにお気づきだと思うのだが、下戸塚(現在の西早稲田から高田馬場2丁目あたりにかけて)に「江戸川」は流れていない。ノエル・ヌエットが描いた当時、江戸川Click!と呼ばれていたのは神田上水Click!の取水口があった大洗堰Click!から下流であり、現在の大滝橋Click!あたりから江戸川橋Click!隆慶橋Click!を経由して舩河原橋から外濠までつづく、1966年(昭和41)から神田川の呼称で統一されるようになった川筋のことだ。したがって、タイトルをつけるとすれば「旧・神田上水」がふさわしく、どうやら少し上流にきてスケッチしているにもかかわらず、ヌエットは江戸川橋つづきの「江戸川」だと勘ちがいしていたものだろう。
 画面には、独特なS字型カーブを描く旧・神田上水の川筋がとらえられており、左側の岸辺には染物工場の干し場Click!が描かれている。そこには、水洗いClick!を終えた藍染めだろうか、5月のそよ風にたなびいている光景が写されている。干し場の下には、染め物工場らしい建物や住宅が密に建ち並んでいる。川筋の右手には、板塀とともに住宅が1軒描かれているが、その背後は樹木が繁る森だろうか、住宅の連なる屋根が見えない。
 陽光は、建物の濃い影などから左手、またはやや左手前から射しており、画面の左側が南の方角だと思われる。すると、干し場にたなびいている染め物生地は、5月という季節がらを考えれば南風の可能性が高い。また、画家の視点は川の真上から、つまり旧・神田上水に架かる橋の上から西の上流(下落合方面)に向かい、スケッチブックを拡げてペンを走らせていることになる。このように観察してくると、旧・神田上水でこのようなS字カーブを描く川筋で、橋の上から上流の蛇行する川筋を眺められる位置、また「下戸塚」という地名をタイトルに挿入できるポイントは、たった1箇所しか存在していない。
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 ノエル・ヌエットは、駒塚橋の上からS字型にカーブする旧・神田上水の上流(下戸塚方面)を眺めつつ、5月の気持ちがいいそよ風にふかれながらスケッチしている。彼の右手、つまり駒塚橋の北詰めには水神社Click!(すいじんしゃ)と、目白崖線に通う胸衝坂(胸突坂)をはさんで東側に関口芭蕉庵Click!が、左手の南詰めからは東京市電が走る十三間通りClick!(現・新目白通り)と早稲田大学の旧・大隈重信邸Click!のある濃い森が垣間見えていただろう。川の左手(南側)に描かれた干し場は、当時の地番でいうと淀橋区戸塚町2丁目237番地(現・新宿区西早稲田1丁目)あたりにあった染め物工場で、川の右手は小石川区高田老松町(現・文京区目白台1丁目)となる。そして、右手に見える住宅の背後は、細川邸Click!の広大な庭園敷地(現・肥後細川庭園)の森林なのは、いまも当時も変わらない。
 彼が『江戸川、下戸塚』を描いたのと同時期、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を観察すると、この情景にピタリとはまる風景がとらえられている。当時、駒塚橋の南詰めには早稲田田圃の名残りだろうか、空き地が多かったことが見てとれる。あるいは、川沿いに工場を誘致のため新たに整地した土地なのだろうか。空中写真には、画面に描かれた干し場と思われる正方形の構築物が白くとらえられているが、この染め物工場の社名は不明だ。だが、この工場はほどなく解体されることになる。1944年(昭和19)に実施された、建物疎開の36号江戸川線Click!にひっかかり、わずか8年後には解体されている。
 ノエル・ヌエットは、東京じゅうの風景をスケッチしているが、それらの作品をもとに浮世絵風の多色刷り版画にも挑戦している。彼は、洋画を石井柏亭Click!について学んでいるが、版画は安藤広重の『名所江戸百景』Click!に触発されていたらしい。川瀬巴水Click!などの新版画を刷っていた土井貞一のもとで、1936年(昭和11)3月から『東京風景』24景を1年間かけて版行している。つまり、『江戸川、下戸塚』が描かれた当時は、土井版画工房から念願の『東京風景』シリーズを出している最中であり、東京を縦横に訪ね歩くスケッチにもより力が入っていた時期だったろう。
 彼は、東京外国語学校のほか文化学院や早稲田大、アテネ・フランセ、東京帝大などでもフランス語を教えているが、戦時中は連合軍側の「敵国人」Click!なので軽井沢へ強制収容されている。戦後は、教師生活をつづけつつ牛込(現・新宿区の一部)に住み銀座で個展も開いているが、1961年(昭和36)にフランスへ帰るか日本にとどまるか最後まで迷ったあげく帰国の船に乗った。おそらく帰国時には、もう一度訪日する気でいたのかもしれない。
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 さて、もう1枚の絵葉書は、1885年(明治18)に浮世絵師・月岡芳年Click!が描いた『月百姿』シリーズの1作で、山崎の合戦を目前にした『月下の斥候/斎藤利三』だ。斎藤利三は、明智光秀の先鋒として活躍した勇猛な武将だが、毛利戦から「大返し」をしてきた羽柴秀吉軍の様子を探りに、円明寺川をわたって斥候に出た姿を描いている。もちろん、高名な武将が危険な斥候に出て敵陣に身をさらすなど考えにくく、江戸期の「三国無双瓢軍扇(さんごくぶそう・ひさごのぐんばい)」など芝居や講談からの影響だろう。
 斎藤利三が手にしている武器は、平安期からつづく騎馬戦を目的とした長巻(ながまき)と呼ばれる刀剣の一種だ。長巻は、鑓(やり)のような長い柄に、反りの深い太刀と同様の長さ(刀剣の「長さ」は刃長=刃渡りのこと)の大段びらをしつらえたもので、平安期末から鎌倉期にかけて発達した武器だ。長さは、騎馬で振りまわしても相手と太刀打ちができるよう3尺(約91cm)前後のものが多く、鎌倉期には長さ5尺(約152cm)もの長巻を装備し、伝説では騎馬もろとも敵の武将を斬り倒す猛者もいたとされている。
 長巻は、扱いに習熟しないとむずかしい重量のある柄物だが、その威力は非常に大きく、相手をひるませるのに十分な体配(太刀姿)をしている。比叡山延暦寺の僧兵たちが、長巻で武装していたのは有名だが、朝廷や公家の館へなんらかの請願(実際は強訴とでもいうべきで脅迫・恐喝に近い)に訪れる際、ムキ出しの長巻を持った僧兵たちを引き連れていったのは、絵巻物などにも描かれて残されている。中世の寺院が武装し威力を誇示するのに、僧兵に持たせるすさまじい長巻は不可欠な武器となっていった。
 そこで、すでにタイトルからお気づきの方もいるのではないだろうか。室町期に書かれた『義経記』に登場する、大力の武蔵坊弁慶が装備していた武器は長大な長巻(ながまき)であって、徒歩(かち)戦が発達しおもに室町期以降に普及した、婦女子にも扱える短くて比較的軽量な「薙刀(なぎなた)」などではないだろう。
 「♪京の五条の橋の上~ 大のおとこの弁慶は~ 長い薙刀ふりあげて~」と、「大のおとこ」で「僧兵」の弁慶が、なんで短くて軽量な女子にも扱える薙刀なんぞを振りまわしているんだ?……ということになる。おそらく、江戸期の長巻と薙刀がゴッチャになった芝居や講談、あるいは明治以降の太刀と打ち刀の区別さえつかない時代劇からの影響だろうか、『義経記』などの伝承とは異なり「むさし」や「ひたち」など坂東武者の匂いがプンプンするふたり、武蔵坊弁慶や常陸坊海尊がたずさえていたのは長巻であって薙刀ではない。
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 まるで千代田城Click!大奥の警護女中のような、薙刀をたずさえた武蔵坊弁慶の姿は、鎌倉時代の武士が「大小二本差し」(打ち刀の大刀と脇指を腰に差す室町以降の、おもに江戸期に見られる武家の姿)をするのにも似て、滑稽きわまりない錯誤だろう。もっとも、弁慶が牛若丸の白拍子のような美貌に惚れてしまい、翻弄されるのを上気して喜ぶ「[黒ハート]どんだけ~!」のヲジサンだったとすれば、薙刀でもおかしくない……のかもしれないけれど。(爆!)

◆写真上:1936年(昭和11)5月に制作された、ノエル・ヌエットの『江戸川、下戸塚』。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる駒塚橋と旧・神田上水の界隈。は、駒塚橋の描画ポイントから神田川の上流域(下戸塚方面)を眺めた現状。は、駒塚橋の北詰めにある水神社(左)と胸衝坂(胸突坂)をはさんだ関口芭蕉庵(右)。
◆写真中下は、1885年(明治18)制作の月岡芳年『月下の斥候/斎藤利三』。は、長巻と薙刀のちがいを図化したもの。実際には、長巻は薙刀に比べてもっと長大だ。
◆写真下は、2葉とも鎌倉期の1296年(永仁4)ごろの情景を描いた『天狗草紙絵巻』。同作では公家の館へ、興福寺の僧侶が長巻で武装した僧兵を引き連れ強訴(脅迫)にきている。は、3尺(約91cm)を超えるものもめずらしくなかった長大な長巻。江戸期に大刀として使用するため、刃長を大きく磨り上げられ(短縮され)茎を切断されている。は、江戸期になると婦女子による武術の主流となる薙刀で30~50cm間のサイズがほとんど。
おまけ
 江戸期に茎(なかご)を切られて加工され、大刀として使われていた「長巻直し」。約70cmの長さ(刃長)があるが、もとの長さは80cmをゆうに超えていただろう。長巻直し.jpg

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雑司ヶ谷金山にいた石堂派のゆくへは? [気になる神田川]

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 現在の千代田城Click!の一部城郭に包括されたエリアに、太田道灌が江戸城Click!を構築したのが1457年(康正3)であり、江戸東京は570年近い日本で最古クラスの城下町ということになる。もっとも、江戸城と千代田城とでは規模がまったく異なるため、城下に形成された(城)下町Click!も室町期と江戸期とではケタちがいの規模だ。
 道灌の江戸城が、鎌倉幕府の御家人・江戸氏の本拠地だったとみられるエト゜(岬)の付け根に築かれた室町時代の中期、または全国的に戦乱が激しくなった室町後期から末期、あるいは千代田城が築かれて徳川幕府がスタートした江戸時代の最初期に、おそらく近江の石堂村から雑司ヶ谷村の金山にやってきて住みついた刀剣集団、石堂一派Click!がいたことはすでに記事にしている。
 石堂派が近江から各地に展開するのは、おもに室町末期から江戸初期にかけてなので(刀剣美術史に、いわゆる「戦国時代」や「安土桃山時代」は存在しない)、おそらくその流れの一環として江戸へやってきているとみられる。当時の石堂鍛冶はほぼ4流に分派しており、江戸石堂派をはじめ大坂石堂派、紀州石堂派、筑前石堂派などを形成し、新刀から新々刀(江戸末期)の時代を通じて鍛刀している。
 雑司ヶ谷村の金山に工房をかまえた石堂派は、江戸石堂派の一派とみるのが自然だが、より古い時代(室町期)から住みついていたとすれば、これまでの刀剣史には記録されていない、もっとも早い時期に近江から分岐した石堂一派とみることもできる。1800年代の初めに、昌平坂学問所地理局によって編纂された『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)には、石堂派が工房をかまえたのは「土人」(地元民の意)によれば「往古」と書かれている。同書より、引用してみよう。
  
 金山稲荷社
 土人鐵液(カナグソ)稲荷ととなふ、往古石堂孫左衛門と云ふ刀鍛冶居住の地にて、守護神に勧請する所なり、今も社辺より鉄屑(鐵液のこと)を掘出すことまゝあり、村民持、又この社の西の方なる崕 元文の頃崩れしに大なる横穴あり、穴中二段となり上段に骸及び國光の短刀あり、今名主平治左衛門が家蔵とす、下段には骸のみありしと云、何人の古墳なるや詳ならす、(カッコ内引用者註)
  
 この「往古」とされる時代が、記述から200年ほど前の室町末か江戸初期のことであれば、近江の石堂派が分岐して全国に展開した時期と重なり、史的にみても不自然ではないが、「往古」が室町中期のことであれば、石堂派はもっと早くから分岐をしていたことになる。ただし、いつの時代の小鍛冶(刀鍛冶)も当然マーケティングは重視しており、需要がない地域へ工房をかまえることはありえない。
 室町前期から中期にかけ、京の室町とともに関東の足利氏が本拠地にしていた鎌倉では刀剣の需要は高かったし、室町後期には(後)北条氏の本拠地だった小田原へ、多くの刀鍛冶が参集している。室町中期、太田道灌の居城があった時代を考えても、石堂派が工房をかまえた雑司ヶ谷村の地理的な位置が、やや中途半端に感じるのはわたしだけではないだろう。太田氏の需要を意識していたのなら、より地金(目白=鋼)も手に入りやすい江戸城近くの城下町に工房をかまえるのが自然だ。あるいは、豊島氏の需要を意識していたものか。
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「日本山海名産図会」タタラ製鉄1754.jpg
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 石堂派が分岐した流れ、あるいは刀剣需要の趨勢を考えてくると、『新編武蔵風土記稿』に収録された地元民の「往古」は、おそらく江戸に徳川氏が移封されることが決まり、近い将来に幕府が開かれることがすでに予想されていた室町末期、あるいは開幕後の江戸初期であると想定したほうが、石堂派の伝承や経緯を踏まえるのなら自然だろう。そして、歴史に興味のある方ならお気づきだと思うが、『新編武蔵風土記稿』の記述には、複数の時代の事跡が混同して証言されている可能性が高いのがおわかりだろう。
 まず、室町末期から江戸初期にかけて古刀時代から新刀時代へと推移する時期、刀剣の原材料である目白(鋼)Click!を製錬する大鍛冶(タタラ製鉄)の仕事と、多種多様な目白(鋼)をもとにさまざまな折り返し鍛錬法で刀剣を鍛える、小鍛冶(刀鍛冶)の仕事とは完全に分業化されており、刀鍛冶の工房跡から鐵液(かなぐそ:金糞=スラグないし鉧の残滓)が出土することは基本的にありえない。江戸後期に、砂鉄を用いたタタラの復興による目白(鋼)精製を唱え、事実、上州館林藩秋元家の江戸藩邸内(浜町中屋敷)にコスト高なタタラ用精錬炉を構築している、新々刀の水心子正秀Click!のような存在はむしろ例外だ。
 雑司ヶ谷村の石堂派が住みついた地名が金山であり、その前に口を開けていた谷間が神田久保Click!であり、谷間を流れていた川が江戸期には金川(弦巻川)Click!と呼ばれていたことにも留意したい。時代は不明だが、明らかにタタラを生業とする産鉄集団が通過した痕跡であり、鐵液(かなぐそ)は彼らが残した廃棄物だろう。金山稲荷の周辺に限らず、タタラの鐵液は下落合の目白崖線沿い(戦時中の山手通り工事現場)からも多く出土している。この集団が、いつごろ通過したものかはさだかではないが、タタラの鋳成神(いなりしん)あるいは荒神(こうじん)を奉った社が建立されており、田畑が拡がるころには改めて農耕神としての金山稲荷社へと再生されているのだろう。
 そして、金山から出現した洞穴についても、古墳末期の横穴古墳の一部なのか鎌倉期の“やぐら”なのか、考古学的な記録がないので不明だ。ただし、鎌倉期の“やぐら”形式の墳墓は土葬ではなく火葬が前提だったとみられ、遺体をそのまま横たえるというような埋葬事例は、鎌倉各地の“やぐら”群には見られない。むしろ、下落合の横穴古墳群Click!と同様に羨道や玄室を備え、遺骸を敷き石の上に横たえた古墳末期(または奈良最初期)の横穴古墳とみるのが地勢的にも自然だが、それでは「國光」の短刀の説明がつかない。
 この短刀が鎌倉期から室町期の作品であれば、出現した古墳の人骨に祟らないで成仏を願う魔除けの守り刀として、屋敷地の所有者あるいは当時の村の分限者が遺体の上に置いたものだろうか。ちょうど、戸山ヶ原Click!穴八幡社Click!に出現した古墳の羨道や玄室とみられる洞穴に、後世になって観音や阿弥陀仏などを奉っているのと近似した感覚だ。
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 もうひとつ、石堂孫左衛門という刀工の名があるが、江戸石堂派の初代・石堂是一(武蔵大掾是一)の名前とは一致しない。初代・是一の本名は「川上左近」と記録されているので、雑司ヶ谷村の孫左衛門ではない。同じく江戸石堂派の支流である、石堂是次や石堂是長、石堂常光の系譜、または遅れてやってきた近江石堂の佐々木一峰系とも異なるようだ。これらの石堂派は、初代・石堂是一よりも少し時代が下って記録される刀工名であり、室町末から江戸初期を連想させる孫左衛門とは別の系統だろう。
 また、大坂石堂の(多々良)長幸一派とも、紀州石堂の為康系とも、さらに筑前石堂の守次系とも異なるとみられる。おそらく、室町末期から江戸初期にかけて、近江の石堂村をいち早くあとにして江戸に入った刀鍛冶の一派が、とりあえず目白(鋼)のいわれが深い雑司ヶ谷の金山に工房をかまえ、江戸の街が繁華になるにつれ、より需要が高い市街地へ工房を移転させているか、あるいは石堂派の本流である石堂是一の一派に吸収され、石堂工房の一員として鍛刀をつづけたのではないかと思われる。
 さて、山麓に大洗堰Click!が設置され「関口」という江戸地名が定着する以前、すなわち神田上水Click!が掘削され上水と江戸川とが分岐する以前の平川Click!時代、目白山(のち椿山Click!)と呼ばれた丘陵に通う目白坂の中腹に、足利から勧請された不動尊が「目白不動」Click!と名づけられた室町末期から江戸最初期のころ、川砂鉄などからタタラで洗練する目白(鋼)は、刀鍛冶に限らず、農業用具や大工道具など鉄製の道具類を鍛える「野鍛冶」たちにとっては、いまだ非常に身近な存在だったろう。
 タタラによる目白(鋼)には、もちろん硬軟多彩な特徴があり、またタタラの首尾によって高品質な鋼から質の悪い鋼まで、不均一の多種多様な“地金”が精製される。その中で、もっとも品質がいい目白(鋼)は、その硬軟によって刃金(鐵=はてつ)・芯金・皮金・棟金と使い分けられ、おもに刀剣や鉄砲、甲冑などの武器製造に用いられた。また、それよりも劣る品質の鋼は、鉄製の生活用品や農機具・大工道具などの製造へとまわされている。だが、江戸期になると高品質な目白(鋼)をあえて用いて、耐久性が高く品質のよい日用鉄器を生産し、諸藩の財政再建のため地域の名産品や土産品にする動きも出てきている。
 余談だけれど、刀剣用の目白(鋼)のことを「玉鋼(たまはがね)」とも表現するが、これは明治以降に海軍が貫通力の高い徹甲弾を開発する際、刀剣に使われた頑丈で耐久性の高い鋼を採用していたことからくる新造語で、弾頭に用いる鋼だから「玉(弾)鋼」と呼ばれるようになった。したがって、江戸期以前の刀剣について語るとき、たとえば「幕府お抱えの康継一派は、品質のいい玉鋼を使ってるよね」といういい方は、「江戸期の南部鉄器には、品質のいい精巧なケトルがあるよね」というに等しく、時代的にチグハグでおかしな表現になってしまう。やはり、江戸期以前は単に鋼(はがね)、または目白(めじろ)と表現するのが妥当だと思うし、後者のケースは「鉄瓶」と表現するのがふさわしいだろう。w
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 先日、ようやく日本刀剣美術保存協会が主宰する「出雲タタラ」で製錬された、最高品質の目白(鋼)を手に入れることができた。(冒頭写真) 通常は、現代刀の刀鍛冶に支給され、なかなか手に入れることができないのでうれしい。鋼(はがね)というと、暗い灰色あるいは濃灰色の黒っぽい金属塊を想像される方が多いと思うが、刀剣用の目白(鋼)はまったく異なる。まるで白銀(しろかね)のようにキラキラと光沢があり、鉄のイメージからはほど遠く地肌が白け気味で輝いている。なぜ、昔日の大鍛冶・小鍛冶たちがタタラ後の鉧(ケラ)の目に混じる高品質な鋼を「目白」と名づけたのかが、すぐさま納得できる出来ばえだ。

◆写真上:日刀保の出雲タタラで、3昼夜かけて製錬された「1級A」の目白(鋼)。10トンの砂鉄から約2.5トンの鉧(ケラ)を製錬し、その鉧からわずか100kgほどしか採取できない。現代の製鉄技術でも、これほど高純度な目白(鋼)は精錬不能だ。
◆写真中上は、1799年(寛政11)に法橋關月の挿画で刊行された『日本山海名産図絵』。描かれているのはバッケ(崖地)Click!の神奈(カンナ)流しで、川や山の砂鉄を採取する職人たち。は、同じく『日本山海名産図絵』に描かれたタタラ製鉄の様子。大きな溶鉱炉に風を送る足踏み鞴(ふいご)を利き足で踏みつづけ、炉の中の様子を利き目で確認しつづけるため、火男(ひょっとこ)たちは中年をすぎると片目片足が萎え、文字どおりタタラを踏んで歩くようになったと伝えられる。は、雑司ヶ谷の金山に通う坂道。
◆写真中下は、出雲タタラの炭足し。1回3昼夜のタタラで、約12トンもの木炭が消費される。は、炉に砂鉄を投入している様子。は、タタラで精錬された約2.5トンの鉧(ケラ)で、ここからとれる高品質な目白(鋼)は100kgほどにすぎない。
◆写真下は、神奈流しの跡に造成された出雲の棚田。雑司ヶ谷の神田久保にあった棚田もおそらく神奈流しの痕跡で、地名の“たなら相通”に倣い神奈久保が神田久保に、神奈山が金山に、神奈川が金川(弦巻川)に転化したとみられる。は、初代・石堂是一が焼いた備前伝の刃文。匂(におい)出来で匂口がしまる互(ぐ)の目か、のたれ気味の広直(ひろすぐ)に典型的な丁子刃を焼いている。錵(にえ)出来で銀砂をまいたような錵本位の相州正宗を頂点とする、豪壮な相州伝(神奈川)が伝統的に好まれる関東では流行らなかった。事実、江戸中期から石堂派は急速に相州伝へ接近し、「相伝備前」と呼ばれる相州伝刀工へと変貌していく。は、初代・石堂是一の茎(なかご)銘で「武蔵大掾佐近是一」と切っている。

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神田川の空を彩る染物工房の記憶。 [気になる神田川]

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 この前、歳のせいなのか「Uber Eats」がとっさに出てこなくて、たぶん通じるだろうと思い「最近、よくウーパールーパーが走ってるのを見るね」といったら、相手はほんの少し笑いながら「外食や買い物に出ない人が多いんだよね」と答えてくれた。
 わたしが小学校の低学年のころ、「そめものや(染物屋)」と「せんたくや(洗濯屋)」を混同していいまちがえていた記憶がある。母親が箪笥から着るものを持ちだし「染物屋」へ染めなおしに出かけるのを見て、「洗濯屋」(クリーニング)に出かけたのだろうと思いこんでいたのだ。だから、着てるものが古びて汚くなると染物屋に持っていけば、きれいになってもどってくると思いこんでいたらしい。おそらく誰かとの会話でも、恥ずかしいことに洗濯屋のことを染物屋と呼んでいたかもしれない。
 小学生のときは、外で遊んでドロドロになって帰るのが常だったので、母親からため息まじりに「この白い下着の汚れは、洗濯機では落ちないわ」といわれたとき、「染物屋にもってけばきれいになるんじゃない?」と訊いて、ようやく勘ちがいに気づくことになった。母親いわく、「パンツを染物屋に持ってってど~するのよ!」。以来、わたしのいいまちがいはなくなった。
 このエピソードで思い出すのは、中村伸郎Click!周辺の“爆笑コント”だ。1986年(昭和61)出版の中村伸郎『おれのことなら放つといて』(早川書房)から引用してみよう。
  
 私たち老化夫婦の対話は、時には他愛もなく長閑でもある。/「一寸買いものに行ってくる」/と私が立ち上ったら、女房が、/「どこへ行くンです」/ときいた。私の家の近くにセブンイレブンというスーパーがあり、食料品ばかりでなく、原稿用紙、ボールペン、録音テープその他色々ある。だから、それを、/「イレブン・ピーエム」/と私が言ったら、女房は平気な顔で、/「八ッ切りの食パンを一袋、買ってきて下さい」/と言った。セブンイレブンの近くに煙草屋があり、暗い店先に、眼の窪んだ九十二歳のお婆さんが店番をしていて、私が、/「セブンイレブンを下さい」/と言うと、お婆さんは黙ってセブンスターをくれる。
  
 自由学園Click!女学生Click!たちによる商店Click!企業Click!の個別訪問では、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)にもかなり多かった、神田川沿いに展開する染色業Click!の工場や工房がほとんど登場していないので、わたしの思い出とともに少し書いてみたい。
 わたしの学生時代、神田川沿いや妙正寺川沿いには「乾し場」と呼ばれる、染物を天日で乾燥させる大きな物干し台のような構造物が、まだいくつか残っていた。この「乾し場」は、家々の屋根よりもよほど高く、遠くからでも視認できた。特に藍染めの長大な布が干してあったりすると、それが風にたなびいて美しく、まるで空に漂う鯉のぼりの吹き流しのように映えていた。それらの藍染めは浴衣地か、日本手ぬぐいの素材に使われたのだろう。戦前に撮影された神田川沿いの写真を眺めていると、あちこちに「乾し場」を見つけることができる。
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 授業が終わり、交通費を浮かすために神田川沿いを歩いてアパートに帰ろうとすると、1970年代末なので十三間通りClick!(新目白通り)はいまだ工事中のまま、神田川の改修工事がスタートしていたせいか、現在のようにずっと川沿いを歩ける遊歩道などなく、1本外れた道路を歩いたり、再び川沿いに出て歩いたりを繰り返しながら下落合方面に向かっていった。都電荒川線の早稲田電停あたりから豊橋をわたると、すぐ右手に大きな乾し場があり、ときどき染物が風に揺れて美しかった。その乾し場が、佐藤染業のものであることを知ったのは、ずいぶんあとのことだ。
 神田川沿いの染色業は、江戸期には神田紺屋町で開業していた工房が多く、明治から大正にかけて江戸川Click!(現・神田川の大滝橋あたりから舩河原橋までの旧称)沿いへと移転し、関東大震災Click!以降はより上流で水がきれいだった戸塚地域や落合地域、また神田川へ落ち合う妙正寺川沿いへと展開したケースが多い。同じ豊橋近くで開業していた、武蔵屋染工場の記録が残っている。1994年(平成6)に豊島区郷土資料館から発行された、「町工場の履歴書」展図録から引用してみよう。
  
 武蔵屋はもと神田の紺屋で、のち江戸川に移り、関東大震災で焼けて高田に移転してきました。この頃からインジゴ(合成藍)やドイツの化学染料の「バット」で浴衣地や手拭いを染めていました。当時の神田川は水量も多く、水が澄み、流れがゆるやかで温かいので、「みずもと」(水洗い)の時に糊がすぐ落ちてよかったといいます。/修行先の武蔵屋には乾し場が3つあり、普段は30~40人が働き、10月から暮れにかけて年始回り用手拭いの注文で最も忙しい時期は、新潟から出稼ぎ職人が来て総勢70~80人となりました。当時としては大規模な染工場だったといえるでしょう。(中略) 昭和25年頃幸次郎氏は武蔵屋の名前を引き継ぐ形で、三島橋近くの戸塚町に染工場を設け、井戸水による染色を始めました。その後新目白通りの拡幅工事により、下水道が完備していた現在地に移転しました。/近年浴衣や手拭の需要が減少し、工場では職人不足で型付けや染色技術の伝承が困難になってきています。
  
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 佐藤染業についての記述はないが、おそらく武蔵屋染工場と同じような経歴をたどってきたのだろう。豊橋(戦前)から三島橋(戦後)、そして高田2丁目(1994年現在)へと移転した武蔵野染工場は廃業したが、わたしの学生時代に乾し場が印象的だった佐藤染業は、いまだに健在だ。もっとも、川沿いの風物詩だった乾し場はとうに撤去され、いまでは構内の脱水機と乾燥機で染物を乾かしているのかもしれない。
 1974年(昭和49)に東宝で制作された、『神田川』(出目昌伸・監督)という映画がある。フォークの『神田川』Click!のヒットで、たくさんの観客動員を当てこんだ稼ぎ目的の作品だが、冒頭シーンからして旧・隆慶橋が登場し、東詰めの角地にあった「みみずく家」Click!(タバコ屋)の建物が懐かしい。ずいぶん昔に、いい映画と好きな映画はちがうという記事Click!を書いたけれど、映画のストーリーそっちのけで、当時の風景にジーンとしてしまうのは、おそらく歳のせいだろう。
 映画の筋などどうでもよく(ただし高橋惠子はキレイだけれどw)、70年代の神田川の風景や、わたしの歩いていた街角があちこちのシーンで登場するのを飽きずに眺めていたりするのは、きっと外出する機会が減って精神的に内向化しているせいだろう。この道をそのまま左へ少し歩けば、1974年(昭和49)の下落合なんだけどな、そこではちょうど別のドラマClick!が撮影されてたはずなんだ……などと思いながら、シーンを早送りして風景や街角を何度か見返してしまう。
 映画『神田川』には、豊橋やその右岸にあった小さな稲荷大明神(たぶん個人邸のものだったのか現在は行方不明)、そして佐藤染業の社屋と大きな乾し場が登場している。ヒロインの高橋惠子(当時は関根恵子)の住んでいるのが、佐藤染業の西隣りにある古い木造アパートの2階という想定だったからだ。佐藤染業の従業員たちは撮影当時、『神田川』のロケを楽しみながら見ていたのだろう。
 染物工場の中には、かつて田島橋Click!の北詰め、下落合69番地にあった三越染物工場Click!からの仕事を引き請けていた工房も、高田町には少なくなかったという。いつか記事に書いた、戸塚町で営業していた林染工場Click!と同様のケースだ。
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 だが、浴衣や手ぬぐいの需要が下がるにつれ、染色工場からクリーニング工場へ転換する事業者も現れた。染色業とクリーニング業とでは、洗いや乾燥の工程で、どこか設備が似通っていたからかもしれない。すると、わたしの小学生時代、「染物屋」と「洗濯屋」の勘ちがいも、あながち大きなピント外れではないような気がしてくるのだ。

◆写真上:神田川の豊橋付近で、稲荷は画面左手に見える車止めあたりにあった。
◆写真中上は、1930年(昭和5)に神田川改修工事の竣工直後に撮影された写真で高い乾し場が印象的だ。おそらく、三島橋から上流の面影橋を眺めたところ。は、1955年(昭和30)ごろに豊橋から撮影された佐藤染業の乾し場。は、豊橋から下流を眺めたところだが桜並木に隠れて佐藤染業が見えない。
◆写真中下は、1971年(昭和46)と1975年(昭和50)の空中写真にみる佐藤染業の乾し場。は、1974年(昭和49)撮影の同社乾し場。(『神田川』より)
◆写真下は、1974年(昭和49)撮影の豊橋際にあった稲荷。(同前) は、戦前に撮影された豊橋際の武蔵屋染工場。下左は、1994年(平成6)発行の「町工場の履歴書」展図録(豊島区郷土資料館)。下右は、1974年(昭和49)の映画『神田川』(東宝)DVD。

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高田町の全工場・事業所調査1925年。 [気になる神田川]

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 前回、自由学園高等科の女学生たちが実施した社会調査レポート『我が住む町』Click!から、1925年(大正14)2月の時点で高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)に存在していた、すべての商店について記事Click!にしたが、今回は同町で操業していたすべての工場や事業所についてご紹介してみたい。
 実は、自由学園の女学生たちは1923年(大正12)の関東大震災Click!の直後から、ボランティアで被災者の家庭や避難者に牛乳を配給したり、「フトンデー」といって被災者に寝具を配布したりして、高田町ではかなり知られた学校だった。だから、翌々年の1925年(大正14)に全町調査をした際も、親切にしてくれる家庭は多かったようだ。たとえば、工場街を調査した女学生は、こんなことを書いている。
  
 地面は大変広い所でしたが、大きな工場が沢山あつて家数は少うございました。随分ひどい家に住んで居る方が多うございました。焼け跡のトタンの焼けたのを集めて住んで居る人もありました。屋根に頭のとゞく様な低い暗いきたない小さな家に住んで居る人もありました。表は茶めし屋で裏に行つて見るとまあ何と言つたらばいゝのでせう、其のきたない事と言つたらばこんな家の茶めしなどを食べたら大変です。戸を開けるとブーンと臭い香がして来て気持悪くなつた事も度々ありました。けれども一番嬉しかつたのは、皆さんがよく親切に教へて下さつた事でした。そしてもつともつとこの町をよくして下さいと言つて下さいました。
  
 全戸訪問のレポートを読むと、彼女たちは大きな屋敷に住む住民よりも、中小の家々に住んでいた住民たちから親切にされたケースが多いようだ。
 さて、同年に高田町で操業していた製造業や工場の様子を見てみよう。
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 江戸友禅や小紋、藍染めなど染色業Click!にかかわる事業所が目立つが、これらは旧・神田上水(1966年より神田川)沿いのエリアが多いのだろう。「ねりぬき屋」は、絹織物を製造する事業だが、それに図柄をほどこす「刺繍屋」も3軒記録されている。
 ほとんどが和服に関する工房だが、かんざしや笄を製造する「錺屋」が8軒も営業をつづけている。いまの若い子は知らないだろうが、下駄は使っているうちに歯が地面に擦れて減っていくので、それを入れ替える「下駄歯入れ屋」も9軒が営業していた。傘は、修理の専門工房があったようで「傘直し屋」が3軒、当時の靴下はメリヤス編みで高価だったせいか、穴の開いたものを直す「靴下かがり屋」が営業しているのも面白い。
 つづいて、家内制手工業的な工房ではなく、規模の大きな工場を見てみよう。
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 この中で、「製パン工場」が1軒とあるのは、山手線と武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が交差するあたり、高田町雑司ヶ谷池谷戸浅井原838~843番地に建設された、東京でも最大規模の東京パン工場Click!のことだ。大正の当時、東京西部に点在していたパン屋や喫茶店では、その多くが東京パンの製品を仕入れ販売していた。画家たちが、デッサンで木炭消しに使っていたのも東京パン製が多い。
 旧・神田上水沿いには、大正期に入ると「製薬工場」(4軒)や医療衛生品工場(5軒)、印刷工場(3軒)などが急増している。これらの工場は(染織工場もそうだが)、より下流の江戸川Click!(大洗堰Click!舩河原橋Click!)や神田川(千代田城外濠~柳橋Click!)沿いから、水のきれいな上流へと移転してきたものだ。
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 つづいて、住宅や建築に関連する事業所を見てみよう。
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 1925年(大正14)の時点では、いまだ西洋館よりも日本家屋の建築に関する職業が多いようだ。ただし、手先が器用な指物師や表具師は、洋館向けの家具や調度でも、見よう見まねでこしらえてしまったにちがいない。「やすり屋」(3軒)や「鋸めたて屋」(2軒)は、おもに大工道具や工作道具のメンテナンスを行う作業場だったのだろう。
 「ポンプ屋」が6軒記録されているが、これは井戸から水を汲みあげる上水ポンプClick!の設置を手がけていたとみられる。また、変わったところでは「煙突屋」が1軒採取されているが、銭湯や工場の煙突建設や保守を請け負った会社なのだろう。
 次に高田町に散在していた、さまざまな事業所を見てみよう。
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 籐椅子など藤製の家具やバスケット、雑貨を制作する「藤細工屋」が6軒も開業していた。「貝細工屋」は、貝の螺鈿(らでん)などを用いて茶箪笥の扉や文箱、硯箱、棗(なつめ)などに装飾をほどこす工房だ。また、「鍛冶屋」が43軒も開業していたのが驚きだ。刃物や大工道具など、新興住宅地らしく工作用の道具のニーズが高かったのかもしれない。あるいは、昔ながらの農具を製造した農村時代の名残り(いわゆる「野鍛冶」)が、そのままつづいていたものだろうか。
 一方で、江戸時代とまったく変わらない職業も継続していた。「桶屋」の16軒をはじめ、「樽屋」が5軒、「提灯屋」が3軒、「水引元結屋」が4軒、「蝋燭屋」が1軒などだ。もっとも、「桶屋」は住宅の風呂や銭湯での需要があり、「樽屋」は漬け物屋や造り酒屋などで、「提灯屋」は寺社の縁日や祭礼で、「蝋燭屋」は寺社や家々の仏壇でそれぞれ変わらぬニーズがあったのだろう。
 いまでも、このあたりで見かけるのは、活版ではなくオフセットか大型プリンタになった「印刷屋」に「印版屋」(ハンコ屋)、いまでは出力サービス店や文房具店に吸収されてしまった「紙札屋」(名刺屋)、そして「らを屋」だろうか。「らを屋」(ラオ屋)は、煙管(きせる)の羅宇のヤニ取りや、雁首・吸口の修繕をする仕事だが、たまに下落合にある目白通り沿いの刀剣店「飯田高遠堂」さんの前へ、小型トラックでやってきてはピーーッという高圧蒸気の音を響かせている。最近は、パイプの清浄などもしているようで、それなりに需要があるのだろう。
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 最後に、以上の業種には含まれない、専門業務の施設を見てみよう。
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 まず、このあたりに病院・医院と床屋が多いのは昔もいまも変わらない。特に落合地域の歯科医院Click!は、下落合の第二文化村Click!島峰徹Click!が住んでいたからかどうかは知らないが、50~100mおきぐらいに開業している。33戸で1店の菓子屋を支える、大正末の高田町のような状況だが、ちゃんとマーケティングをしてから開業しないので、数年で閉院する歯科医も少なくない。
 当時の住宅は、風呂場がないのが通常なので、「浴場業」(銭湯)の21軒は決して多い数ではない。男性の「理髪店」は51軒だが、女性の「美容術屋」Click!(美容院)が高田町でたった1軒しか開業していない。そのぶん、日本髪を結う昔ながらの「髪結い」業が31軒も残っている。高田町の女性たちは、洋風の生活をしようとすると髪を切りに、あるいは電髪(パーマ)をかけに1軒だけしかなかった美容院へ出かけるか、あるいは自分で鏡を見ながらカットしていたのかもしれない。自由学園の女学生たちは洋装だが、髪は自分で切るか親に切ってもらっていたのだろう。
 昭和も近い1925年(大正14)の高田町だが、規模の大きな工場や企業が進出してくる一方で、江戸期とまったく変わらない商品を製造しつづけている小規模な事業所や工房が、ずいぶん残っていたのがわかる。住民の生活も、昔ながらの和様式のものと、文化住宅の洋風な暮らしとが混在しているのが、さまざまな事業所や商店の記録から読みとれる。
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 さて、自由学園の女学生たちが訪れても、なんの事業をしているのかがわからなかった「不明」の事業所が12軒ある。彼女たちは何度か足を向けているようだが、事業所内には誰もおらず、業種や業務内容が不明だったところだ。たまたま長期不在で留守だったか、よそに移転して空き家だったか、あるいは廃業した事務所だったのかもしれない。

◆写真上:空襲で焼けなかったエリアでは、いまでも残る「東京パン」の商店看板。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる旧・神田上水沿いの工場。は、1937年(昭和12)に撮影された目白崖線(遠景の丘)下に拡がる工業地域。
◆写真中下は、戦時中の1944年(昭和19)ごろ制作の池袋に建っていた工場を描いた松本竣介Click!『工場(池袋)』。は、同作の鉛筆スケッチ。
◆写真下:1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)巻末に収録の、各種工場や医院などの広告群(一部)。多種多様な工場や事業所、企業が広告を出稿しており、現在では大正期の高田町を知るうえでは願ってもない資料だ。

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