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高田町の全工場・事業所調査1925年。 [気になる神田川]

東京パン看板.JPG
 前回、自由学園高等科の女学生たちが実施した社会調査レポート『我が住む町』Click!から、1925年(大正14)2月の時点で高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)に存在していた、すべての商店について記事Click!にしたが、今回は同町で操業していたすべての工場や事業所についてご紹介してみたい。
 実は、自由学園の女学生たちは1923年(大正12)の関東大震災Click!の直後から、ボランティアで被災者の家庭や避難者に牛乳を配給したり、「フトンデー」といって被災者に寝具を配布したりして、高田町ではかなり知られた学校だった。だから、翌々年の1925年(大正14)に全町調査をした際も、親切にしてくれる家庭は多かったようだ。たとえば、工場街を調査した女学生は、こんなことを書いている。
  
 地面は大変広い所でしたが、大きな工場が沢山あつて家数は少うございました。随分ひどい家に住んで居る方が多うございました。焼け跡のトタンの焼けたのを集めて住んで居る人もありました。屋根に頭のとゞく様な低い暗いきたない小さな家に住んで居る人もありました。表は茶めし屋で裏に行つて見るとまあ何と言つたらばいゝのでせう、其のきたない事と言つたらばこんな家の茶めしなどを食べたら大変です。戸を開けるとブーンと臭い香がして来て気持悪くなつた事も度々ありました。けれども一番嬉しかつたのは、皆さんがよく親切に教へて下さつた事でした。そしてもつともつとこの町をよくして下さいと言つて下さいました。
  
 全戸訪問のレポートを読むと、彼女たちは大きな屋敷に住む住民よりも、中小の家々に住んでいた住民たちから親切にされたケースが多いようだ。
 さて、同年に高田町で操業していた製造業や工場の様子を見てみよう。
被服生活品製造業.jpg
 江戸友禅や小紋、藍染めなど染色業Click!にかかわる事業所が目立つが、これらは旧・神田上水(1966年より神田川)沿いのエリアが多いのだろう。「ねりぬき屋」は、絹織物を製造する事業だが、それに図柄をほどこす「刺繍屋」も3軒記録されている。
 ほとんどが和服に関する工房だが、かんざしや笄を製造する「錺屋」が8軒も営業をつづけている。いまの若い子は知らないだろうが、下駄は使っているうちに歯が地面に擦れて減っていくので、それを入れ替える「下駄歯入れ屋」も9軒が営業していた。傘は、修理の専門工房があったようで「傘直し屋」が3軒、当時の靴下はメリヤス編みで高価だったせいか、穴の開いたものを直す「靴下かがり屋」が営業しているのも面白い。
 つづいて、家内制手工業的な工房ではなく、規模の大きな工場を見てみよう。
製造工場.jpg
 この中で、「製パン工場」が1軒とあるのは、山手線と武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が交差するあたり、高田町雑司ヶ谷池谷戸浅井原838~843番地に建設された、東京でも最大規模の東京パン工場Click!のことだ。大正の当時、東京西部に点在していたパン屋や喫茶店では、その多くが東京パンの製品を仕入れ販売していた。画家たちが、デッサンで木炭消しに使っていたのも東京パン製が多い。
 旧・神田上水沿いには、大正期に入ると「製薬工場」(4軒)や医療衛生品工場(5軒)、印刷工場(3軒)などが急増している。これらの工場は(染織工場もそうだが)、より下流の江戸川Click!(大洗堰Click!舩河原橋Click!)や神田川(千代田城外濠~柳橋Click!)沿いから、水のきれいな上流へと移転してきたものだ。
高田工業地帯1936.jpg
神田川沿い工業地帯1937.jpg
 つづいて、住宅や建築に関連する事業所を見てみよう。
住宅関連業.jpg
 1925年(大正14)の時点では、いまだ西洋館よりも日本家屋の建築に関する職業が多いようだ。ただし、手先が器用な指物師や表具師は、洋館向けの家具や調度でも、見よう見まねでこしらえてしまったにちがいない。「やすり屋」(3軒)や「鋸めたて屋」(2軒)は、おもに大工道具や工作道具のメンテナンスを行う作業場だったのだろう。
 「ポンプ屋」が6軒記録されているが、これは井戸から水を汲みあげる上水ポンプClick!の設置を手がけていたとみられる。また、変わったところでは「煙突屋」が1軒採取されているが、銭湯や工場の煙突建設や保守を請け負った会社なのだろう。
 次に高田町に散在していた、さまざまな事業所を見てみよう。
その他事業.jpg
 籐椅子など藤製の家具やバスケット、雑貨を制作する「藤細工屋」が6軒も開業していた。「貝細工屋」は、貝の螺鈿(らでん)などを用いて茶箪笥の扉や文箱、硯箱、棗(なつめ)などに装飾をほどこす工房だ。また、「鍛冶屋」が43軒も開業していたのが驚きだ。刃物や大工道具など、新興住宅地らしく工作用の道具のニーズが高かったのかもしれない。あるいは、昔ながらの農具を製造した農村時代の名残り(いわゆる「野鍛冶」)が、そのままつづいていたものだろうか。
 一方で、江戸時代とまったく変わらない職業も継続していた。「桶屋」の16軒をはじめ、「樽屋」が5軒、「提灯屋」が3軒、「水引元結屋」が4軒、「蝋燭屋」が1軒などだ。もっとも、「桶屋」は住宅の風呂や銭湯での需要があり、「樽屋」は漬け物屋や造り酒屋などで、「提灯屋」は寺社の縁日や祭礼で、「蝋燭屋」は寺社や家々の仏壇でそれぞれ変わらぬニーズがあったのだろう。
 いまでも、このあたりで見かけるのは、活版ではなくオフセットか大型プリンタになった「印刷屋」に「印版屋」(ハンコ屋)、いまでは出力サービス店や文房具店に吸収されてしまった「紙札屋」(名刺屋)、そして「らを屋」だろうか。「らを屋」(ラオ屋)は、煙管(きせる)の羅宇のヤニ取りや、雁首・吸口の修繕をする仕事だが、たまに下落合にある目白通り沿いの刀剣店「飯田高遠堂」さんの前へ、小型トラックでやってきてはピーーッという高圧蒸気の音を響かせている。最近は、パイプの清浄などもしているようで、それなりに需要があるのだろう。
松本竣介「工場(池袋)」1944頃.jpg
松本竣介「工場(池袋)」スケッチ1944頃.jpg
 最後に、以上の業種には含まれない、専門業務の施設を見てみよう。
専門業種.jpg
 まず、このあたりに病院・医院と床屋が多いのは昔もいまも変わらない。特に落合地域の歯科医院Click!は、下落合の第二文化村Click!島峰徹Click!が住んでいたからかどうかは知らないが、50~100mおきぐらいに開業している。33戸で1店の菓子屋を支える、大正末の高田町のような状況だが、ちゃんとマーケティングをしてから開業しないので、数年で閉院する歯科医も少なくない。
 当時の住宅は、風呂場がないのが通常なので、「浴場業」(銭湯)の21軒は決して多い数ではない。男性の「理髪店」は51軒だが、女性の「美容術屋」Click!(美容院)が高田町でたった1軒しか開業していない。そのぶん、日本髪を結う昔ながらの「髪結い」業が31軒も残っている。高田町の女性たちは、洋風の生活をしようとすると髪を切りに、あるいは電髪(パーマ)をかけに1軒だけしかなかった美容院へ出かけるか、あるいは自分で鏡を見ながらカットしていたのかもしれない。自由学園の女学生たちは洋装だが、髪は自分で切るか親に切ってもらっていたのだろう。
 昭和も近い1925年(大正14)の高田町だが、規模の大きな工場や企業が進出してくる一方で、江戸期とまったく変わらない商品を製造しつづけている小規模な事業所や工房が、ずいぶん残っていたのがわかる。住民の生活も、昔ながらの和様式のものと、文化住宅の洋風な暮らしとが混在しているのが、さまざまな事業所や商店の記録から読みとれる。
高田村誌1917広告1.jpg
高田村誌1917広告2.jpg
高田村誌1917広告3.jpg
 さて、自由学園の女学生たちが訪れても、なんの事業をしているのかがわからなかった「不明」の事業所が12軒ある。彼女たちは何度か足を向けているようだが、事業所内には誰もおらず、業種や業務内容が不明だったところだ。たまたま長期不在で留守だったか、よそに移転して空き家だったか、あるいは廃業した事務所だったのかもしれない。

◆写真上:空襲で焼けなかったエリアでは、いまでも残る「東京パン」の商店看板。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる旧・神田上水沿いの工場。は、1937年(昭和12)に撮影された目白崖線(遠景の丘)下に拡がる工業地域。
◆写真中下は、戦時中の1944年(昭和19)ごろ制作の池袋に建っていた工場を描いた松本竣介Click!『工場(池袋)』。は、同作の鉛筆スケッチ。
◆写真下:1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)巻末に収録の、各種工場や医院などの広告群(一部)。多種多様な工場や事業所、企業が広告を出稿しており、現在では大正期の高田町を知るうえでは願ってもない資料だ。

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確認や総括や了解点よりも愛してやれ。 [気になる神田川]

神田川1.JPG
 喜多條忠が、岸上大作Click!の1960年(昭和35)12月に自裁する直前まで綴っていた絶筆『ぼくのためのノート』Click!を意識し、日記風のノートをつけていたのを知ったのは、そんな昔のことではない。そこには、日々の所感や詩作が書きつらねてあり、落合地域のすぐ近くに展開していた情景も記録されている。彼の学生時代の「ノート」をわたしが読んだのは、それが書かれてから20年以上がたった1990年(平成2)ごろのことだ。
 たとえば、1967年(昭和42)のノートにはこんな様子が書かれている。1974年(昭和49)に新書館から出版された『神田川』所収の、「川」という詩から引用してみよう。
  
 夜になって/「大正製薬」の煙突についているネオンが消え
 アパートの下を流れる神田川の水が/白い泡に変わってゆく
 僕の魂が肉体を捨てて飛び去ったときにも
 太平洋の上を漂う僕の半裸体からも
 こんなに白い泡が/流水のようにして浮かんでゆくのだろう
  
 書かれている神田川は、前年に旧・神田上水から名前が「神田川」に変わったばかりのころ、汚濁がピークに達しようとしていた60年代後半の様子だ。下水口から流れこむ生活排水に含まれた合成洗剤で、堰堤Click!が設置された落差のある川面では一面に白い泡が立ち、風が強い日には泡が遠くまで吹き飛ばされていた時代だ。
 この詩を書いている部屋は、喜多條忠自身のアパートではない。同じ大学へ通う「池間みち子」が住んでいた、3畳ひと間の小さな部屋だ。そのアパートからは、神田川をはさんで北西約200mのところに、大正製薬Click!工場の煙突が見えていた。高田馬場駅のすぐ近く、戸田平橋から神田川の南岸を東へ85mほど入り、材木店の2軒隣りに建っていた赤いトタン屋根のアパートだった。住所は戸塚町1丁目129番地、それがいまの高田馬場2丁目11番地に変わるのは1974年(昭和49)になってからのことだ。
 現在は川沿いに遊歩道が設置され、神田川の南岸と建物とは4mほど離れているが、当時はアパート北側の外壁が川面に面して建っていた。この赤い屋根のアパートは、1992年(平成4)まで残っていたのが確認できる。喜多條忠は学生時代、自分のアパートへはあまり帰らず、彼女の下宿に入りびたってすごすことが多かったようだ。
 つづけて、同書の詩「僕たちの夕食」の一部を引用してみよう。
  
 あなたがドライヤーで乾かす/豊かな髪の黒い流れののように
 僕のなかで波形模様が揺れる/トイレの小窓から見える線路の上を
 長い貨物列車が通って行く/もうあの草色の山手線は車庫の中で
 疲れた足をさすって眠っているのだ/で 僕たちの食事はこれから始まる
 ワサビノリと即席アラビアン焼ソバ/ハリハリ漬けとしその実漬け
 煮干をボリボリとかじったあと/背骨をねじらせたその小さな硬い魚の頭が
 ミイラになった蛇の頭そっくりなのに気付いて
 あわてて手に持っていたものまで罐のなかにしまう
  
みち子アパート1963.jpg
みち子アパート1975.jpg
神田川イラスト1.jpg
 「みち子」のアパートにあった共同トイレは、おそらく西に小窓が切ってあり、山手線の線路土手がよく見えたのだろう。終電のあと、山手線を貨物列車が通過する深夜の情景だ。何度も「僕」が登場するけれど、わたしの学生時代に「僕」Click!などといったら、周囲から「おまえはいつまで僕ちゃんなんだ?」と、小中学生を見るような眼差しを向けられただろう。もっとも、喜多條忠は大阪人なので、「僕」は大人も普通につかう一人称代名詞なのかもしれない。(ただし、大人がつかう「僕」に違和感をおぼえる大阪人もいるので、大阪市内の地域方言か慣用語なのかもしれない)
 わたしが高校生のころ、1973年(昭和48)に喜多條忠が作詩した『神田川』Click!は、しょっちゅうラジオから流れていたけれど、漠然と大学の下宿が多かった早稲田から面影橋あたりの情景を唄ったものだろうと想像していた。だが、これほど落合地域に近い場所で紡がれた「物語」だとは思ってもみなかった。下落合1丁目の町境から「みち子」のアパートまで、わずか400mほどしか離れていない。高い建物がなかった当時、下落合の日立目白クラブClick!(旧・学習院昭和寮Click!)あたりの丘上からは、赤い屋根の「みち子」のアパートがよく見えていたと思われる。
 もっとも、当時のわたしは一連の“フォークソング”と呼ばれた、暗くてみじめったらしく、うしろ向きでウジウジしている歌全般がキライだったので(いまでも苦手だが)、ラジオから『神田川』とかが流れてくると選局ダイヤルを変えていた憶えがある。『神田川』の記念歌碑は、この曲を作詩したときに喜多條忠が住んでいた、東中野の神田川沿いの公園に建立されているようだが、まだ一度も出かけたことがない。
 再び同書より、1967年(昭和42)3月5日の日記を少し長いが引用してみよう。
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神田川2.JPG
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 今のみち子の置かれた位置として、もっとも重要にして深い、そして身近な問題に真剣に取りくんでいくべき時点に立っているのではないかということ、僕と彼女との今までの了解点として、羽田闘争のときには暴徒とよんだ人間に、佐世保闘争のときは心を動かされたものがあるとみち子自身が僕に書いてきたとき、そんな調子のよい世論便乗的な態度がまず批判されるべきであること、そして僕たちは意識の自覚の程度によってそれなりの努力を日常においてやっていく、それは読書することによっての精神の少しずつの変革でもよいし、とにかく真剣にやっていくということが確認されていたはずであること、それがスキーをやり、夜は連日麻雀台をかこんだという楽しい旅行のあと、今度はすぐに夏の旅行のために、帰って来ている僕のことをも無視してアルバイトをやる(中略)という発想、そこには二十五日に僕がはじめて彼女を途中で追い返したときの何らの反省も含まれていないであろうことを指摘した。/もっとも僕は今、自分でもかなり勉強してるし、いかにも前に書いたこれまでの総括を踏まえたことをやっているからこそ、彼女にこんな厳しい、それこそ若干スターリニズム的な押しつけがましいことが言えるのだが、これも今の彼女の情況を彼女自身が省みてもらいたいがために言ったのである。
  
 20歳前の、なにをしても楽しいし、なにを話しても気分がウキウキするような女子に、こんな「若干スターリニズム的」な確認や総括だらけの説教をしても、どれほどの意味があるのだろうか。(爆!) こんな日記を読んだら、いまの若い子たちはどのような感想をもつのだろう。いわく、「ってゆ~か、意味わかんないし。みち子さんに、ボクを置いてどっかへフラフラ遊びに出かけないで、いつもそばにいてほしいって、素直に頼めばいいだけの話じゃん!」……と、ただそれだけのことかもしれない。
 『神田川』の世界からほぼ50年、神田川は大きな変貌をとげてアユが遡上Click!し、タモロコやオイカワ、マハゼなどが回遊して、夏休みには小学生たちが川で水遊びClick!のできる、キンギョが棲めるまでの水質に改善された。神田川(千代田城外濠)から分岐する日本橋川では、サケの遡上も確認されている。下水の流入が100%なくなり、落合水再生センターの薬品を使わない浄水技術で、神田川の多種多様な魚やトンボなど昆虫の幼虫たちが甦った。いまでも単体では見かけるが、夕暮れに琥珀色の羽根が美しいギンヤンマの群れがもどる日も近いのかもしれない。
 いや、上落合の落合水再生センターは神田川にとどまらず、渋谷川や古川、目黒川においても、川を清浄化する実質上の給水源であり“源流”となっている。
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 1970年(昭和45)前後の神田川、どこかうらぶれた雰囲気が漂うドブ川のイメージは、すっかり払拭された。だが、それと同時に詩『神田川』に描かれた、ささやかなギターの音色が似合いそうなセピア色の世界も、常に不吉な翳りのある怖かった「あなたのやさしさ」もまた、「みち子」とともにどこかへ消えてしまった。

◆写真上:澄んだ神田川の水面には、ときどき魚影や水生生物の姿が横切る。
◆写真中上は、日記に書かれた時代の4年前にあたる1963年(昭和38)に撮影された空中写真にみる「みち子」のアパート。は、1975年(昭和50)の同所で赤い屋根が新しく葺きかえられているようだ。は、1974年(昭和49)出版の喜多條忠『神田川』(新書館)に掲載された、いかにも1970年代の匂いがする林静一の挿画イラスト。
◆写真中下は、1974年(昭和49)の「住所表記新旧対照案内図」にみる戸塚町1丁目129番地のアパート。は、神高橋の下から眺めた下流の高塚橋と戸田平橋。「みち子」のアパートは、戸田平橋の向こう側にあたる。は、同書の林静一挿画。
◆写真下は、春爛漫の神田川。は、羽化を観察するのか神田川でトンボのヤゴを採集する子供たち。は、喜多條忠『神田川』(1974年/)と当時の著者()。
おまけ
1990年代まで残っていたとみられる、戸塚町1丁目129番地(現・高田馬場2丁目)の「みち子」のアパート跡。(左手マンション) 突き当りは、川沿いの遊歩道と神田川。
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目白崖線を描写する瀬戸内晴美(寂聴)。 [気になる神田川]

目白台アパート(神田川).jpg
 下落合をはじめ、落合・目白地域の一帯には数多くの作家たちが住んでいたはずだが、目白崖線の風情を描写した小説作品は意外に少ない。小金井の国分寺崖線Click!、すなわち戦後まもなくハケClick!の斜面に住んだ大岡昇平Click!は、その情景を『武蔵野夫人』Click!の中にふんだんに取りいれ、物語をつむぐ登場人物たちの効果的な“書割”として、作品全体に独自の風景を創り上げている。
 だが、落合地域だけに限ってみても、目白崖線に顕著なバッケ(崖地)Click!の様子を、効果的かつ印象的に小説へ取りいれているのは、尾崎翠Click!『歩行』Click!中井英夫Click!『虚無への供物』Click!ぐらいしか思い当たらない。たとえば、これがエッセイとなると中井英夫Click!をはじめ高群逸枝Click!檀一雄Click!吉屋信子Click!矢田津世子Click!船山馨Click!宮本百合子Click!林芙美子Click!などの文章に、しばしば目白崖線の風景が登場しているが、小説となると思いのほか少ないのだ。
 視界を落合地域からずらし、視線を崖線の斜面沿いに東へとはわせていくと、目白崖線の風景を細かく描写した作家が、本来の目白不動Click!があった目白坂沿いのバッケに住んでいた。少し前にご紹介した、目白台アパートClick!(通称:目白台ハウス)に二度にわたって住んだ瀬戸内晴美Click!(現・瀬戸内寂聴)だ。瀬戸内晴美は、ここに住んでいた1970年(昭和45)に長編小説『おだやかな部屋』を仕上げている。
 小説といっても、彼女の作品はリアルそのものの私小説だし、ときに登場人物たち(つまり恋愛対象となった男たち)が実名で登場するなど、ほとんど本人の「日記」か「忘備録」を読んでいるような具合で、わたしとしては敬遠したい作品群なのだけれど、見方を変えると、作品に描かれた周囲の環境や周辺の風景は、きわめて精緻かつ正確な描写でとらえられていることになる。
 事実、目白台アパートのある目白崖線沿いの描写は、1970年代の同所をほうふつとさせる空気を醸しだしており、わたしにとってはどこか懐かしい雰囲気さえ感じられた。では、『おだやかな部屋』から当該部分を少し引用してみよう。
  
 部屋から、そんな街を見下していると、女は、自分も広い海にただよっている長い航海中の船の一室にいるような孤独な気持がしてくる。/その上、気がつけば、四六時中、絶えることなく響いている川音が、舳先に砕かれる波音のような伴奏までつとめていた。川は、アパートの真下の丘の裾をめぐってつくられた細長い公園を、縁どり流れている。高い水音は、その運河に流れこむ幾筋もの下水口からほとばしり落ちる水があげていた。近くで見れば、汚物であふれる灰色の下水も、女の部屋の高さから見下すと、ひたすら白い飛沫をあげながら運河になだれこんでは、いくつもの激しい渦にわかれ、たちまち流れの中に融けこみ、ひと色の水の色に染めあげられてしまう。/黄昏と共に、川は闇の中に沈みこみ、川音だけが深山の滝のようにとどろきながら立ち上ってくる。空と街の境界もひとつに融け、漆黒の海にちらばる無数の漁火か、波に落ちた星影のように家々の灯がともる。
  
江戸川公園1.JPG
目白台アパート1975.jpg
尾崎翠「第七官界彷徨」.jpg 瀬戸内晴美「おだやかな部屋」.jpg
 瀬戸内晴美が眼下に見下ろす公園が、江戸川橋から椿山Click!の麓までつづく、神田川(旧・江戸川:1966年より神田川)沿いの江戸川公園であり、「下水口」から流れる「高い水音」は、当時は護岸沿いにうがたれていた下水の細い排出口ではなく、まるで滝のような音を立てるおそらく堰堤の水音だろう。この堰堤は、目白台アパートのすぐ西側、大滝橋の真下にある神田川でも有数の大きな落差で有名な大堰堤(大滝)だ。もともと、この流域には江戸期の神田上水Click!の取水口があり、まるでダムのような落差のある大洗堰Click!が築かれていた地点でもある。
 彼女は、江戸川公園を散歩する際に、おそらく汚濁した神田川をときどきのぞきこんでいたのだろう。1970年代は、同河川が汚濁のピークに達していたころだ。当時の川面を記憶する瀬戸内寂聴が、アユやタモロコ、オスカワ、マハゼなどが回遊し、子どもたちが水泳教室で遊ぶ50年後の神田川を見たら、いったいどのような描写をするのだろうか。
  
 早朝のせいもあり、五月の日曜日の街の上には、まだスモッグの霞もかからず、菱波の立った海面のように街の屋根がさざ波だってうねっている。家々の瓦屋根や、ビルのコンクリートの屋上が、洗いあげたばかりのような新鮮さで、それぞれの稜線をきっかりと際立たせている。(中略) ほんの一つまみほどの樹々の緑が、折り重なった灰色の屋根の波のまにまに浮んでいる。その緑を際だたせるのが役目のようにどの緑の島からも、金色の光芒を放つ矢車をつけた竿が点に向って真直ぐ伸びていた。(中略) 西の方に、どれよりも巨大なビルディングの骨組みが黒々とぬきんでている。まだ形骸だけのその建物の、数え切れない窓は吹き抜けにあいていて、小さな四角の中にひとつずつ切りとられた青空が、きっかりと嵌めこまれていた。(中略) ビルの更に西の空に、くっきりと富士が浮び上っている。富士のはるか裾には秩父の連山が藍色の横雲のたなびいているような影をつくっていた。
  
 当時は、高いビルや高層マンションがないので、目白台アパートからかなり遠くまで見わたせた様子がわかる。また、このころの東京は排気ガスや工場からの排煙によるスモッグが街中を覆い、わたしもハッキリ記憶しているが、午前中なのに午後3時すぎぐらいの陽射しにしか感じられなかった。喘息の子どもたちが急増し、小学校の朝礼では息苦しくなった生徒が意識を失って倒れる騒ぎが続出していたころだ。瀬戸内晴美は、空気や川の汚濁がピークだったころ、目白に住んでいたことになる。
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神田川(目白崖線).jpg
 西に見える「巨大なビルディングの骨組み」は、この小説が執筆されていた1969~1970年(昭和44~45)という時期を考えると、まちがいなく新宿駅西口の淀橋浄水場Click!跡地に建設中だった京王プラザホテルだと思われる。同ホテルは、『おだやかな部屋』が「文藝」に発表された翌年、1971年(昭和46)に竣工しているので、彼女も目白台アパートのベランダから完成したビルを眺めていただろう。
 また、瀬戸内晴美は、おそらくかなりの方向音痴ではないだろうか。彼女のいる目白崖線から、富士山は鮮やかに見えるが秩父連山はまったく見えない。富士の裾野に見えているのは、神奈川県の丹沢山塊と箱根・足柄連山であり、埼玉県の秩父連山は彼女の視線から45度ほど北側、つまり彼女の右肩のややうしろにあたる。
 瀬戸内晴美は、部屋のベランダから川沿いの江戸川公園や、バッケの急斜面を往来する人物たちを仔細に観察している。同書から、再び引用してみよう。
  
 黄色のパラソルは橋を渡りきり、子供の遊び場を素通りし、散歩道を斜めに横切って、丘の崖にむかってくる。(中略) 丘の中腹にひょっこり二人の日曜画家があらわれる。(中略) その中腹の台地は四阿のある頂よりは街が一望に見渡せる。ちょうどそこからは樹々の高さが自然に下方へ流れていて、視界がさえぎられないのだ。小学生が先生に引率されて写生にくる時も、そこに一番たくさん子供たちが坐りこむ。(中略) パラソルの女が更に近づいてくる。丘の道は、四阿のある頂きの広場から左右にのびていて、右の道は、急な石段が桜並木の間をぬけ、子供の遊び場へ向って下りている。左の道はなだらかなだらだら坂の道が合歓の並木にはさまれて丘をS字形に縫いながら、裾の散歩道につながっていく。この道は途中から細い小路をいくつか左右にのばし、それは丘の樹々の中にまぎれこみ、女の部屋からも捕えることの出来ない恋人たちのかくれ場所をあちこちに包みこんでいる。
  
 「黄色いパラソル」の女が渡ってきたのが、水音が響く大堰堤の上に架かる大滝橋であり、その北詰めにはいまも変わらず遊具が設置された、子どもたちの小さな遊び場がある。先生に引率されてくる小学生たちは、目白台アパートのすぐ西側にある関口台町小学校の生徒たちだろう。子どもたちが座りこむ見晴らしのいい斜面からは、早稲田から新宿方面にかけ起伏に富んだ街並みがよく見わたせる。
 まったく同じ位置にイーゼルをすえ、南を向いてタブローを仕上げた画家がいた。上落合1丁目にアトリエをかまえていた、吉岡憲Click!『江戸川暮色』Click!だ。瀬戸内晴美が目白台アパートに住む、およそ20年前の風景を写しとっている。
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 「黄色いパラソル」を追いかけていた瀬戸内晴美の目は、崖線の濃い樹々の間に隠れて、真昼間から男と逢引きしている姿を見つける。「いやだわ、またスリップの紐切っちゃった。困るわ、今日はレースだから、すけちゃうんですもの」と、女と男の会話妄想がどんどん膨らんでいく。瀬戸内晴美は、執筆の合い間にベランダへ出て、目白崖線の急斜面に集まる恋人たちの逢引きを、克明に観察しつづけた。「どうしてあいびきする人妻はみんなサンダルを穿き、買物籠をさげるのだろうか」などと、日活ロマンポルノの「団地妻シリーズ」にありがちな、広告のボディコピーのようなことをつぶやいている。

◆写真上:江戸川公園側から、目白崖線の丘上に建つ目白台アパートを望む。
◆写真中上は、ひな壇状に擁壁が設置された江戸川公園のバッケ。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる目白台アパートと冬枯れの江戸川公園。下左は、『歩行』が収録された2014年(平成26)出版の尾崎翠『第七官界彷徨/瑠璃玉の耳輪』(岩波書店)。下右は、1977年(昭和52)出版の瀬戸内晴美『おだやかな部屋』(集英社)。
◆写真中下:目白崖線沿いに拡がる、緑深い現代の風景。
◆写真下は、椿山の西側に水神を奉った水神社。は、目白台アパートの下を流れる神田川。は、シルト層Click!がむき出しになった豊橋あたりの神田川。

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弦巻川を上流へたどると稲荷山。 [気になる神田川]

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 以前、弦巻川(鶴巻川)の流域に残る地名の「目白」や「金山」、「神田久保」とともに目白不動や幸神社(こうじんしゃ)、金山稲荷などについて、3回連載のまとめ記事Click!を書いたことがあった。池袋の丸池に発し、東の護国寺から大洗堰Click!下の江戸川Click!(1966年より神田川)に向けて流れ下る、弦巻川の中流域一帯に着目したものだが、今回はもう少し上流のエリアへ視界を移して地勢を概観してみたい。
 少し前に、目白界隈に住む人々の記憶に残る雑司ヶ谷異人館Click!の記事を書いたが、その坂下にある弦巻川の河畔に沿った道には、宝城寺と清立院が並んで建立されている。もともと雑司ヶ谷村の飛び地(雑司ヶ谷旭出町)だった地域で、昔から向山と呼ばれた急斜面に寺々は建っている。その丘上の中島御嶽地域には、東京府が開設した雑司ヶ谷旭出町墓地(現・都立雑司が谷霊園)が拡がっている。向山は、丘上から弦巻川の流れに向けて急激に落ちこむバッケ(崖地)Click!地形で、大鍛冶たちのタタラ製鉄Click!にはもってこいの地形だ。ちなみに、丘上の地名である御嶽とは御嶽権現のことであり、金(かね=鉄)や金属を溶かす火の神・カグツチ(迦具土)と結びつく信仰のひとつだ。
 南面する向山の中腹には、由緒由来がこれまで不明でハッキリせず、稲荷にはおなじみのキツネたちが存在しない、白鳥稲荷大明神がひっそりと鎮座している。そして、白鳥稲荷大明神社が建立された斜面に通う坂道は、いまでも昔日のまま「御嶽坂」と呼ばれつづけている。1932年(昭和7)に暗渠化された、弦巻川の跡から向山の斜面を眺めると、現代のひな壇状に整地された住宅や寺々を眺めていても、砂鉄を採集したタタラ製鉄のカンナ(鉄穴・神奈)流しClick!を想像することができる。
 すなわち、白鳥稲荷大明神とは本来が「鋳成大明神」ではなかっただろうか? 地形的に見れば、白鳥稲荷社は目白(のち関口)の目白(=鋼の古語)不動に近接した幸神社(荒神社)や、神田久保の谷間に面した金山稲荷(鐡液鋳成=カナグソ)と酷似した地勢に気づく。音羽から谷間をさかのぼっていった大鍛冶集団が、いや、雑司ヶ谷村西谷戸(現・西池袋)の丸池(成蹊池)Click!から流れを下ったのかもしれないが、この地にも滞在してカンナ流しを行なった……そんな気配が強く漂っているのだ。
 さて、白鳥稲荷大明神社から、さらに弦巻川を400mほど上流へたどると、平安初期の810年(弘仁元)ごろより「稲荷山」と呼ばれてきた丘がある。この稲荷山も、本来はタタラ製鉄による「鋳成山」とよばれていたのではないかとつい疑いたくなるが、実は稲荷山のテーマはそこではない。稲荷山という丘名を山号に用いていたのが、雑司ヶ谷の巨刹である威光寺(のち法明寺と改名)だった。
 法明寺は、平安初期の建立当初の寺名では「稲荷山威光寺」と呼ばれている。そして、後世に寺名の「威光」を山号にしてしまい、改めて寺名を法明寺と呼ぶようになった。また、稲荷山の威光稲荷に安置されていたのは、キツネのいる後世の一般的な社(やしろ)ではなく、法明寺の縁起資料によれば「威光尊天」と呼ばれる仏神で、もともとは鳥居など存在しない威光稲荷の堂宇だったのがわかる。
 このあたりの経緯を、1933年(昭和8)出版の『高田町史』(高田町教育会)から引用してみよう。ちなみに、江戸期の文献とは異なり、神仏分離・廃仏毀釈が行われた明治以降の資料では、威光山法明寺と威光稲荷社(堂)は明確に分離して記録されている。それは、法明寺鬼子母神堂(雑司ヶ谷鬼子母神Click!)の境内にある、明らかに稲荷神が奉られ、鳥居が林立している社(やしろ)のことを、ときに武芳稲荷堂と表現するのと同様のケースだ。
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 法明寺奥庭の小高き山上に、威光稲荷と云ふ一堂がある。祭神は他の稲荷と異り、威光尊天と称へ、今を去る千百余年前、慈覚大師自作の像で、嵯峨天皇の御宇、弘仁元年に勧請し、山号を稲荷山と称へた。後ち威光山と改めて以来、普く善男善女を守護し、又水火災、盗難、剣難、病難を除くとて信仰崇敬される。法明寺縁起には『当山鎮守開運威光尊天』とある。之は仏教の堂宇とすべきか、神社の中に入るべきかと惑ふも、世人は之を神として参拝をして居る。
  
 この記述では、なぜ威光山の山号以前に、同寺が稲荷山と呼ばれていたのか経緯が不明だ。さまざまな文献を参照しても、威光寺(のち法明寺)の裏山が、なぜ稲荷山と呼ばれていたのか、そして、なぜそれが山号に採用されたのかを解説したものは見あたらない。稲荷山の山号が威光山に変わったのは、鎌倉中期に天台宗(真言宗説もあり)だった威光寺を日蓮宗に改宗しているからで、日蓮の弟子である日源が訪れて寺名を山号にし、法明寺へと改名したことにはじまる。
 ところが、明治末まで威光稲荷の小山状の境内には、洞穴の開いていたことが記録されている。記録したのは、付近を散策していた歌人で随筆家の大町桂月だ。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」に対し、「乱臣なり賊子なり」と評した国粋主義者の大町桂月だが、わたしには彼の書いた江戸東京の習俗を嘲笑する散策文もまったくもって気に入らない。上方落語で、江戸東京の街をことさらバカにして蔑むときにつかう“マクラ”、「伊勢屋に稲荷に犬の糞」と同じような臭気がするからだ。でも、ほかに明治期の記録が見つからないので、1906年(明治39)に大倉書店から出版された大町桂月『東京遊行記』から、しかたがないので引用してみよう。ちなみに、大町桂月は法明寺のことを、一貫して「明法寺」と誤記(わざとかもしれない)しつづけている。
  
 目白停車場より出でゝ、都の方へニ三町も来れば、左の方数町を隔てゝ、森が二つ三つあるを見るべし。その手前の森が鬼子母神堂の在る処にして、次ぎのが、明法寺(ママ:法明寺)の在る処也。/鬼子母神堂の横手より左に一二町ゆけば、仁王門あり。その仁王尊の像は、運慶の作にかゝると称す。その内が、明法寺(ママ)也。祖師堂釈迦堂あり、しめ縄を帯びたる大欅、落雷の為めに半身を失ひて、半身なほ栄えたり。奥に稲荷あり、仏に属して、威光天と称すれども、朱の鳥居の多きこと、羽田の穴守稲荷に次ぐ。祠堂は、改築中也。傍に、穴あり、多く紙片をくゝりつけたるは、穴の中の主に祈るなるべし。東京の愚俗、依然として、狐を拝す。(カッコ内引用者註)
  
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 現在の威光稲荷では埋められたのか、境内には見あたらない小山から洞穴が出現し、明治末の時点まで保存されていたのを記録した貴重な証言だ。ちなみに、1977年(昭和52)に新小説社から出版された中村省三『雑司ヶ谷界隈』には、「いくつもの狐穴」と記録されているが東側の学校建設で埋められてしまい、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』では、「洞の入口は二つあった」と書かれている。
 この洞穴が、いつ出現したのかは不明だが、威光稲荷のある小山が狐塚Click!稲荷塚Click!、あるいはもっとさかのぼって旧・山号である稲荷山Click!と称される機縁になっているとすれば、古墳を示唆する重要な証拠のひとつだろう。
 威光稲荷の洞穴が、古墳の羨道あるいは玄室かは不明だが、江戸東京のみならず全国的な江戸期における稲荷信仰のおかげで、狐塚・稲荷塚・稲荷山などの地名・丘名や保存されてきた洞穴が、次々と調査されて古墳であると規定され、古代史を解明する大きな考古学的成果をもたらしてきたのは見逃せない事実だ。今日的にみるなら、あながち「愚俗」とはいい切れないだろう。
 法明寺の本堂は、1923年(大正12)の関東大震災Click!で倒壊し、また1945年(昭和20)の空襲でも焼失している。関東大震災で倒壊したとき、本堂は西へ50mほど移動して再建された。1947年(昭和22)の空中写真を見ると、空襲で焼けた本堂の東側に旧・本堂のあった大きな空き地がとらえられている。この空き地には、戦後に雑司が谷中学校が建設され、現在は南池袋小学校となっている。大震災後の本堂の移動で、参道を含めた周辺の道筋が大きく変わっているのも重要なポイントだろう。
 1922年(大正11)の1/3,000地形図を参照すると、旧・本堂のあった背後の斜面が丘上から丘下にかけて、ちょうど円形にくびれていたのがわかる。このくびれを、前方後円墳のくびれとして仮定し、威光稲荷を後円部の玄室位置(中心点)、狐塚を羨道の一部が露出した位置とすると、稲荷山の南斜面へへばりつくように築造された大型古墳を想定することができる。墳丘の土砂を南斜面に流して、威光寺(のち法明寺)の境内を造成したことになるが、その規模は全長200mほどだろうか。
 また、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)の空中写真を素直に観察すれば、法明寺の旧・本堂の跡地が明らかに他の境内の土色とは異なり、黒っぽく正円形のフォルムにとらえられている。また、東へつづく古い道筋には、前方部のかたちをなぞったとおぼしき形状を発見することができる。旧本堂跡に後円部があったとすれば、東側に前方部が位置し、その全長は120~130mほどになるだろうか。その場合、威光稲荷の本堂(本殿)が建っている小山と、その北東側にある狐塚は主墳に付属した陪墳Click!×2基(あるいは風化した50m規模の前方後円墳型の陪墳×1基)ということになりそうだ。
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 もうひとつ、法明寺本堂の南側に位置する鬼子母神堂(雑司ヶ谷鬼子母神)も、もともとは前方後円墳だったとする説がある。確かに、本堂が造営された境内をめぐる築垣はいまだ孤状を描いており、東へのびる参道が前方部という想定なのだろう。法明寺の稲荷山と相対するように、雑司ヶ谷鬼子母神の境内は弦巻川をはさんだ南側の段丘に位置しており、その北向き斜面へへばりつくように造営されている。古墳時代の人々が、古墳を築造する候補地として選定するには、確かに見晴らしのいい好適地のように思える。

◆写真上:向山の中腹にある、由緒由来が不明な白鳥稲荷大明神社。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる白鳥稲荷社とその周辺地域。は、元神が出雲・簸川(氷川)の鷲大明神ないしはクシナダヒメの雑司ヶ谷大鳥社(上)と、都電・雑司ヶ谷駅の南側から宝城寺・清立院の方面を向いて撮影したもので手前を流れるのは弦巻川(下)。は、キツネのいない白鳥大明神の拝・本殿。
◆写真中下は、1922年(大正11)の1/3,000地形図にみる弦巻川の谷間に向かいあった稲荷山斜面の法明寺と北向き斜面の雑司ヶ谷鬼子母神。は、1919年(大正8)に撮影された稲荷山の威光稲荷堂(上)と、現在の威光稲荷堂(社)と奥に狐塚のある境内(下2葉)。は、1947~1948年(昭和22~23)に撮影された焼跡の法明寺と周辺域。
◆写真下は、現在の法明寺本堂(右手)と境内。は、金子直德が寛政年間(1789~1801年)に著した『和佳場の小図絵』挿入の絵図より。は、先の写真に想定古墳域を描き入れたもので、威光稲荷と旧・法明寺本堂を各主墳にして描き分けてみた。

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野方町丸山に点在する古墳の痕跡。 [気になる神田川]

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 江戸東京には、「丸山」あるいは「円山」という字名(あざな)が散在している。いや、東京ばかりでなく丸山(円山)は、摺鉢山Click!稲荷山Click!天神山Click!などと同様に、全国規模の典型的な古墳遺跡地名でもある。下落合でも、丸山Click!という地名が江戸初期の資料からも確認でき、江戸末期には下落合氷川明神社Click!の東側に位置づけられている。そして、丸山の西側(下落合847番地)には摺鉢山Click!という地名が、明治末あるいは大正初期まで残されていたことも判明した。
 落合地域の周辺を見まわすと、下落合の西隣りにあたる野方町(現・中野区)にもまた、丸山の字名がそのまま現代まで地名として存続している。(丸山のエリアは、戦前より少し西へズレているようだが) しかも、相対的に市街化が少し遅れたせいか、丸山塚や稲荷塚、狐塚、経塚など、散在する古墳とみられる塚名までが伝えられているケースが多い。また、南の沼袋地域から北の江古田地域(武蔵野鉄道=現・西武池袋線の駅名ではないので「えごた」発音)にかけての妙正寺川とその支流沿いには、下落合と同様に出雲の氷川社が展開する一帯でもある。
 わたしが、野方町の丸山が気になったのは、明治末の陸地測量部による1/10,000地形図の字名を参照し、すぐに1947年(昭和22)の焼跡が拡がる空中写真を確認してからだ。以前、西武新宿線の沼袋駅近くにある出雲の沼袋氷川明神社Click!が、東京に点在するあまたの氷川明神Click!と同様に、もともとは古墳ではないかという記事を、地名相似とからめて書いたことがあったが、野方の丸山はその北北西の地域にあたる。わたしが目を見はったのは、沼袋氷川明神社から丸山の地名があった丸山塚とのちょうど中間点にある、明治寺および久成寺の境内と墓地のかたちだ。
 明治寺はその名のとおり、明治末の1912年(明治45)に建立された新しい寺だが、別名「百観音」として知られており、一部の境内が公園として開放されている。その境内は、南へと下る妙正寺川の河岸段丘上の“ヘリ”に位置しており、見晴らしのいい場所だ。そして、境内のフォルムが古墳時代初期の三味線のバチ型をした宝莱山古墳Click!と同様、前方後円墳の前方部に酷似しているのだ。寺々の墓域となったせいか境内の形状がよく保存され、現代の空中写真でもハッキリとそのかたちを確認することができる。そして、明治寺の本堂はおそらく後円部の中心点、つまり地中にある玄室の真上に建てられていそうな点も非常に興味深い。この前提で古墳のサイズを想定すると、その全長は東西方向へ約220mほどになるだろうか。記述の便宜上、この前方後円墳状のかたちをした境内を、明治寺古墳(仮)と呼びたい。
 さっそく現地を訪ねてみると、いまだ三味のバチ型に沿って地面の盛りあがりを確認することができる。特に南側は墓域にしたせいか、土地が落ちこむ形状そのまま墓地内に擁壁が設けられ、北側は前方部とみられるゆるいカーブの道路に沿って低い築垣がつづいている。後円部は、なんらかの膨らみがあったことを示す道筋が残されているけれど、1936年(昭和11)の空中写真で確認しても大半が新しい道路の敷設と、昭和初期の宅地化で失われているようだ。、明治寺古墳(仮)は、沼袋氷川明神社から北西へ300mほど、古墳と規定されている丸山地域の丸山塚からもわずか120mという至近距離に位置する。
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 さて、丸山塚は現在公園として整地され、昔日には塚状に盛りあがっていた地面の凹凸も存在していない。北側の新青梅街道ぎわには、大きな中野区のビル施設が建設されており、形状や起伏まで含め古墳の全域が破壊されたケースだ。ただし、公園の隅にはかつて墳丘(北側に前方部のある帆立貝式古墳か?)のどこかに奉られていたとみられる、小さな祠が残されていた。この小祠は、室町期の戦の記念として「豊島二百柱社」とされているようなのだが、明らかに造形は稲荷の祠であり後世の付会ではないだろうか。地元では、江戸期から丸山塚を別名・稲荷塚と呼んでいたことが記録されており、この経緯は世田ヶ谷の上野毛に保存されている稲荷丸塚古墳とそっくりだ。
 また、丸山塚古墳の名称は東京のみならず、周辺域では甲府市内にも存在している。甲府の丸山塚古墳(甲斐銚子塚古墳附)は全長約70~80mほどの円墳だが、野方の丸山塚もまた戦前戦後の空中写真で見るかぎり、古墳域は100m弱ほどの規模とみられる。甲府の丸山塚古墳の南西100m余のところには、4世紀後半に築造された大型の前方後円墳、全長約170mの甲斐銚子塚古墳が築造されている。丸山塚古墳と明治寺古墳(仮)の関係もまた、築造位置の近さから甲府のケーススタディのように、被葬者同士でなんらかの関係性を示す墳墓だったものだろうか。
 丸山塚からさらに北へとたどり、近くを江古田川(妙正寺川支流)が流れる、段丘上の江古田氷川明神社までのエリアは経塚、狐塚、稲荷塚と、なんらかの古墳があったことを示すメルクマールの密集地帯だ。その名称からも明らかなように、これらの塚状の突起あるいは出現した羨道・玄室などの洞穴は、おもに室町期から江戸期にかけ説明しやすいなんらかの物語や解説が付与され、そう呼ばれるようになったことは、全国の古墳事例をみても想像に難くない。このサイトでも、池袋の狐塚Click!や百人町の真王稲荷塚Click!について、ずいぶん以前にご紹介していた。
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 丸山塚から北東へ約250mほど、中野区立歴史民俗資料館の真裏にあたる経塚は、すでに墳丘が崩されて久しいらしく、住宅の庭先のような風情になっている。江戸期から、地蔵の石仏が安置されていたようだが、塚名だけが後世に継承されているだけで、もともとの墳丘のかたちや規模は調査がなされていないので不明だ。設置されたプレートによれば、それほど大きな塚ではなかったらしいが、江戸期の開墾ですでに本来の姿を失っていたのかもしれない。
 経塚の北北西約110mのところには、稲荷塚と狐塚が隣り同士で並んでいる。江古田川に向かい、急激に下るバッケClick!(崖地)状の斜面に、双子のような墳丘が築造されていたのかもしれない。戦前の空中写真を参照すると、周囲を畑地に開墾されつくした中の畦道沿いに直径数十メートルの塚が2基、ポツンと取り残されているのが見てとれる。あるいは、もともとひとつの古墳だったものが、開墾中に玄室と羨道の洞穴が別々に出現したため、それぞれ稲荷塚と狐塚の別名がつけられた可能性もある。その場合、墳丘の規模は30mほどになるが、古墳の羨道と玄室部のみが崩されずに残されたと考えると、墳丘はさらに大きかったのかもしれない。
 そして、稲荷塚と狐塚の北東約150mのところに、下落合氷川明神の境内と近似した釣り鐘型をし、現状の地形からも、また戦前の空中写真でも、鍵穴型のフォルムを類推できる江古田氷川明神社が鎮座している。また、江古田氷川社の北側には、湾曲した江古田川(妙正寺川支流)に向かって大きく半島状に張りだした丘があり、1920年(大正9)より東京市結核療養所Click!(江古田結核療養所=中野療養所)が設置されていた。このサイトでは、同療養所の副所長で中村彝Click!の主治医だった遠藤繁清Click!が登場している。この見晴らしのいい丘上にも、いくつかの古墳があったのではないかと思われるが、中野療養所の建設とともに丘全体が大規模開発されており、その痕跡は確認できない。
 さらに、戦後の焼跡写真では、江古田氷川明神社から千川上水Click!に近接する武蔵大学Click!のキャンパス(練馬区)まで、もともとは古墳らしいサークル状の痕跡をいくつか確認できるが、中野区側のように塚名は今日まで伝承されていない。以前、練馬の向原地域に残る古墳の痕跡Click!を追いかけたことがあったが、中野から練馬、さらに板橋の渓流が流れる谷戸の丘上ないしは斜面には、古墳時代全期を通じて大小の墳墓が連続して築造されていた可能性が高い。それは、周辺で発掘される古墳期の集落跡とともに、あながち無理な想定でもないだろう。
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 1941年(昭和16)に陸軍が東京の西北部を撮影した、斜めフカンの空中写真Click!が残されている。中野では、北側の中野療養所から南の沼袋駅方面までを撮影した1枚が残されているが、沼袋氷川明神社から明治寺古墳(仮)、丸山塚古墳、経塚、狐塚、稲荷塚、そして江古田氷川明神社までがパノラマ状にとらえられており圧巻だ。これらの痕跡以外にも、田畑の中にはそれらしいサークルやお椀を伏せたような盛り上がりが確認できるので、江戸期から大規模な開墾が行われていたとはいえ、さらに多くの古墳とみられる遺跡が残されていたのではないだろうか。

◆写真上:沼袋氷川社と丸山塚とではさまれるように位置する、明治寺の広大な境内。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる沼袋氷川明神社のかたち。は、同社の境内に残る御嶽社Click!稲荷社Click!、さらに明治政府による「日本の神殺し」政策Click!に抗しオモダルとカシコネの夫婦神がそろった第六天(天王社)Click!の3社。は、1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる各遺跡の位置関係。
◆写真中下のモノクロ2葉は、1947年(昭和22)の空中写真に見る丸山塚古墳と明治寺古墳(仮)のかたち。からへ、明治寺の広い境内×2枚と北側のカーブを描く築垣、公園となった丸山塚の現状。左隅に、もともとは稲荷とみられる小祠が写っている。
◆写真下は、1941年(昭和16)と1947年(昭和22)の空中写真にみる経塚、狐塚・稲荷塚、そして江古田氷川明神社。からへ、ほとんど痕跡が残っておらず地蔵尊が奉られている経塚跡、かつて急斜面に存在し現在は公園化された稲荷塚と狐塚跡、空襲で焼けなかった江古田氷川明神の階段(きざはし)と拝殿。
記事末写真:中野療養所の上空から南を向いて撮影された1941年(昭和16)の斜めフカン写真で、江古田氷川社から沼袋氷川社まで遺跡の位置関係が一目瞭然だ。
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