落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。
ChinchikoPapa
2024-03-19T00:00:00+09:00
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吉川英治が描く松廼家露八への眼差し。
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上落合553番地に家を建てて住んでいた吉川英治Click!は、せっかく新築した木の香りも高い邸にはだんだん寄りつかなくなり、旅先や温泉地ですごすことが多くなっていく。浪費家でときにヒステリーを起こす、やす夫人から逃げるためだった。 吉川英治は一時期、下落合にも住んでいるようだが、上落合で建築中の自邸を監督する仮住まいの借家だった可能性が高そうだ。上落合553番地(現・上落合2丁目)の新邸は、少なくとも1928年(昭和3)には竣工していたとみられ、時事通信社が出版していた『時事年鑑』などでは、1931年(昭和6)までの居住が確認できる。1932年(昭和7)半ばには、杉並町高円寺1016番地に転居しているので、せっかく建てた新邸には彼の30歳代後半の時期、わずか5年弱しか住まなかったことになる。 そもそも、吉川英治が上落合に自邸を建設したのは、やす夫人の浪費癖を抑えるためだった。貯金をぜんぶはたいて家を新築してしまえば、やす夫人は実質的にムダづかいができなくなるという算段だったが、それでも周囲に迷惑をかける浪費癖は収まらず、おカネさえあればそれをすべてつかい切るまでの散財をやめなかった。自由につかえるカネがなくなると、癇癪を起こしては夫にまとわりつくため、吉川英治はまったく仕事に集中できなかったようだ。今日的な病名でいえば、カネを目の前にするとなんらかの強迫観念にとらわれる精神疾患の一種(パーソナリティ障害)ともいえそうだが、結局、やす夫人とは1937年(昭和12)に協議離婚することになる。 晩年には「九星気学」に凝っていた池波正太郎Click!は、この上落合時代の吉川英治について随筆『吉川氏の星』(1982年)の中で、次のように書いている。 ▼ 人間の一生は、衰運五年、盛運四年の繰り返しによっていとなまれてゆく。吉川氏の年譜によると昭和五年(三十八歳)の項に「家事かえりみず、内事複雑、出奔して沿革の温泉地を転々」とある。この年は衰運の二年目で、九紫の星は暗剣殺と重なってしまう。どうにもならぬ年まわりだ。おそらく、その前年から苦悩が始まっていたにちがいない。 ▲ 池波正太郎はこう書くが、妻を選んで生活をともにした結果、そもそも性格から生活観までがまったく合わなかったわけで、「九紫の星」に起因するかどうかは不明だが、責任の一半は確実に吉川英治自身の「人を見る眼」にあるのだろう。 吉川英治は、上落合時代に前期の代表..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-03-19T00:00:00+09:00
上落合553番地に家を建てて住んでいた吉川英治Click!は、せっかく新築した木の香りも高い邸にはだんだん寄りつかなくなり、旅先や温泉地ですごすことが多くなっていく。浪費家でときにヒステリーを起こす、やす夫人から逃げるためだった。
吉川英治は一時期、下落合にも住んでいるようだが、上落合で建築中の自邸を監督する仮住まいの借家だった可能性が高そうだ。上落合553番地(現・上落合2丁目)の新邸は、少なくとも1928年(昭和3)には竣工していたとみられ、時事通信社が出版していた『時事年鑑』などでは、1931年(昭和6)までの居住が確認できる。1932年(昭和7)半ばには、杉並町高円寺1016番地に転居しているので、せっかく建てた新邸には彼の30歳代後半の時期、わずか5年弱しか住まなかったことになる。
そもそも、吉川英治が上落合に自邸を建設したのは、やす夫人の浪費癖を抑えるためだった。貯金をぜんぶはたいて家を新築してしまえば、やす夫人は実質的にムダづかいができなくなるという算段だったが、それでも周囲に迷惑をかける浪費癖は収まらず、おカネさえあればそれをすべてつかい切るまでの散財をやめなかった。自由につかえるカネがなくなると、癇癪を起こしては夫にまとわりつくため、吉川英治はまったく仕事に集中できなかったようだ。今日的な病名でいえば、カネを目の前にするとなんらかの強迫観念にとらわれる精神疾患の一種(パーソナリティ障害)ともいえそうだが、結局、やす夫人とは1937年(昭和12)に協議離婚することになる。
晩年には「九星気学」に凝っていた池波正太郎Click!は、この上落合時代の吉川英治について随筆『吉川氏の星』(1982年)の中で、次のように書いている。
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人間の一生は、衰運五年、盛運四年の繰り返しによっていとなまれてゆく。吉川氏の年譜によると昭和五年(三十八歳)の項に「家事かえりみず、内事複雑、出奔して沿革の温泉地を転々」とある。この年は衰運の二年目で、九紫の星は暗剣殺と重なってしまう。どうにもならぬ年まわりだ。おそらく、その前年から苦悩が始まっていたにちがいない。
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池波正太郎はこう書くが、妻を選んで生活をともにした結果、そもそも性格から生活観までがまったく合わなかったわけで、「九紫の星」に起因するかどうかは不明だが、責任の一半は確実に吉川英治自身の「人を見る眼」にあるのだろう。
吉川英治は、上落合時代に前期の代表作となる、『松のや露八』の構想を練りはじめている。松廼家露八(まつのやろはち)は、新吉原Click!をはじめ各地の遊廓や花街Click!の幇間Click!(太鼓もち)だった人物だが、もともとは幕府一ツ橋家の近習番頭取・土井家の長男という旗本格の家柄で、本名は土肥庄次郎といった。土肥庄次郎(松廼家露八)ほど、明治以降の小説や随筆に数多く記録された人物はいないのではないか。1895年(明治28)に『文学界』へ連載がスタートした、樋口一葉Click!『たけくらべ』にも早々に登場している。また、それだけ江戸東京では人気の高い幇間だったのだろう。
土肥庄次郎は1833年(天保4)、小日向武島町(現・文京区水道1~2丁目)に生まれ、子どものころから剣術や槍術、砲術、馬術、泳術などを習わせられ、それぞれの腕前は免許皆伝並みだったというが、特に祖父・土肥半蔵が得意だった槍術に関しては、人に教えてまわるほどの腕だった。ところが、槍術を教えてまわると教授料の小遣いが手もとに入り、懐が温かくなると当時の若者たちがそうだったように新吉原へ入りびたり、特に幇間(太鼓もち)の芸技にあこがれて、ついには土肥家から勘当されてしまう。
家督は弟の土肥八十三郎が継ぐことになり、土肥庄次郎は両刀を腰に指して世を渡るよりは、遊芸の道で生きるほうが気が晴れると、吉原の幇間・荻江清太へ弟子入りしている。同時に、座敷長唄の一派として流行していた「荻江節」の荻江露友にも弟子入りし、荻江露八と名のるようになった。だが、同じ江戸市中で幇間として生きる荻江露八(土肥庄次郎)は、土肥家にとっては家名の恥っつぁらしで、面汚し以外の何者でもなかったため、1857年(安政4)のある日、小日向へ呼びだされて祖父や親から切腹を命じられた。ところが、介錯に名のりでた叔父・土肥鉄次郎の粋なはからいで、彼の首ではなく髷だけ落として坊主にし、庄次郎は死んだこととして「江戸処払い」(江戸追放)の処分で済んでいる。
1857年(安政4)に大江戸をあとにした露八は、大阪や長崎、京などの遊廓や待合で幇間としてすごしているが、どの町々も露八の性にはあわず、明治維新とともに大江戸へひそかに舞いもどっている。そして、なぜか土肥庄次郎の本名にもどって彰義隊Click!に参加し、弟の土肥八十三郎が隊長をつとめる第一赤隊の「第一赤隊外応接係」という、珍妙な役職を与えられている。もちろん、ほかの隊にはこんな役職はなく、そのまま解釈すれば対外スポークスマンまたは応接・接待係、あるいは間諜の役割りもあったのかもしれない。弟の土肥八十三郎にしてみれば、太鼓もちになって勘当され、江戸を追放された兄を隊士に迎えるのに、隊内でもそのポジションにかなり苦労したのだろう。
吉川英治の『松のや露八』では、弟の土肥八十三郎がなぜか「尊王攘夷」思想の持主で、江戸を出奔して倒幕に加わるという正反対の妙な展開になっている。もちろん、薩長政府流れの大日本帝国がつづく当時としては、彰義隊に肩入れをしたような小説は書きにくかったろうし、幕臣だった土肥庄次郎(松廼家露八)をかなり臆病で滑稽に描いている点も、薩長閥が生きていた当時の遠慮した表現なのだろう。もし同作が、大日本帝国が滅亡した敗戦後に書かれたとすれば、まったく異なる展開になっていたかもしれない。
土肥庄次郎(露八)は、応接・接待係にしては常に最前線で戦っている。「隊外応接」だから、やってきた敵と最前線の急先鋒として常に対峙するのは、「接待係」だからしょうがないのかもしれないが、まずは黒門Click!を出て忍川の三橋で敵を迎撃している。畳を何枚か重ねてバリケードを築き、敵の侵入を防ごうとしたが、スナイドル銃の貫通力には無力でたちまち黒門まで後退している。そこでも、スナイドル銃とアームストロング砲でひどいめに遭った露八は、いくら武術で鍛えても刀鎗や弓矢が銃火器Click!にかなうわけがないと悟り、根岸から古巣の新吉原へと落ちのびた。新吉原へ落ちのびるのが、いかにも松廼家露八(土肥庄次郎)らしくておかしいが、彼をかくまう馴染みの妓楼があちこちにあったのだろう。
それでも、彰義隊の残党狩りがきびしくなると、露八は新吉原をでて千住から飯能、伊香保と逃れ、品川沖に停泊していた榎本武揚の幕府艦隊に合流する。ここで、露八は松本良順Click!とは異なり、榎本武揚に説得され仙台から箱館(函館)へ向かおうとするが、乗船した咸臨丸が老朽化しており、暴風雨に遭って難破し静岡の駿河湾(清水港)へ漂着してしまう。ここで、露八は箱館いきをやめて新吉原へもどるが、ほどなく徳川慶喜Click!が住み幕臣たちが集まっていた静岡の花街で幇間をしている。だが、慶喜をはじめ幕臣たちが続々と東京へもどりはじめると、露八も再び新吉原に落ち着いている。
事実を追いかけるだけで、時代小説そのもののような土肥庄次郎(松廼家露八)の生涯だが、なぜ旗本をやめ太鼓もちになった露八が、ハナから負けると知れている彰義隊の戦いに舞いもどってきたのか、現代でもさまざまな解釈がなされている。彼の彰義隊への参加に、「太鼓もち風情が」と蔑んだ彰義隊頭取だった本多晋は、のちに反省して次のように述べている。1906年(明治39)に刊行された、『文章倶楽部』(臨時増刊号)から引用してみよう。
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余かつて翁(松廼家露八)の業を賤しみことありしが、倩々(つくづく)方向の世間を見れば、所謂顕官紳士なる者、五斗米の為めに其腰を屈め、朝に卿儻(きょうとう)に驕(おごり)て、夕に権門に阿附し、賄(まかない=賄賂)を収めて公事を私し、巧に法網を潜て靦然(てんぜん)耻ぢざる者少からず。翁や平素紅粉の輩に伍し、客を迎て頭を低るゝは其分なり、諛言(ゆげん)を献するは其業なり、弦歌舞踏は其芸に糊(こす)るなり、一も世に耻ることあるなし。余が是を賤みしは洒々落々たる其心事を知らざりしのみ。(カッコ内引用者註)
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いわば、彰義隊頭取の“自己批判”の文章だが、幕府の旗本も薩長政府の官吏たちも、権勢のある者たちへ心にもない阿諛追従を並べたてては日々の飯を食い、少しでも利益を得ようと媚びへつらうあさましい様子はまったく同じで、松廼家露八(土肥庄次郎)は身をもって象徴的な職業を選び、あからさまで皮肉をこめた生き方を演じて見せたのだろう……と想像している。そこにはハッキリと、近代的な自我にめざめた本多晋の思考がうかがえ、松廼家露八に対する現代的な解釈に通じるものが感じられる。
けれども、これではなぜ露八が幇間の仕事を放りだして、必敗の上野戦争に馳せ参じたのかが不明だ。それまでも、幇間を“休業”しては何度か幕府軍に加わっている。危機を迎えた幕府に恩義を、また旗本という武家としての矜持を常から感じていたのなら、幇間を廃業して幕府軍に“一浪人”として参加してもよかったはずだ。だが、露八はすぐに幇間業へと舞いもどり、いわゆる主な戊辰戦争へは参戦していない。そして、多勢に無勢で敗れるのが自明な彰義隊の上野戦争へ参戦している。これは、戦場が北へと移るとに転戦していった医師・松本良順Click!とは、明らかに異なる選択であり意志を感じる。
大江戸へ薩長軍が進駐してきた際、新吉原にもどっていた露八は、なにか我慢のできない出来事に遭遇しているのではないか。幕末に起きた薩摩の益満休之助Click!による婦女子への無差別辻斬りや火つけ押込み強盗の件か、荒廃した故郷である江戸の街の姿か、あるいはわがもの顔にふるまいはじめた傲慢な薩長への反感か、とにかく堪忍袋の緒を切るなんらかの事件ないしは事態に遭遇しているのかもしれない。それについて、松廼家露八は生涯口にすることはなく、明治以降も新吉原へ客としてやってくる、政府高官となった昔なじみの榎本武揚と酒を酌み交わしては、ひょうきんな芸を見せるだけだった。
余談だが、大江戸の街を恐怖に陥れたテロリスト・益満休之助だが、彰義隊との上野戦争で受けた銃創がもとで死亡している。だが、“流れ弾”といわれるこの銃創は背後から、すなわち「味方」から撃たれたとする解釈が現代では多く見うけられる。江戸市中で混乱を引き起こすため、婦女子をはじめとする一般市民を大量に殺傷したテロ活動の口封じのために、上野戦争のドサクサで薩長軍から消されたのではないかという解釈が主流だ。
松廼家露八が、わずか77年Click!で滅んだ薩長政府(大日本帝国)の最期を見とどけていたら、どのような感慨をおぼえただろうか? 本多晋のように解釈すれば、それでも幇間を平然とつづけていたのかもしれない。あるいは、敗戦後に吉川英治が『松のや露八』を執筆していたら、どのようなストーリー展開になっていたのだろうか? 太鼓もちでありながら、それでも鋭い武家の眼差しを失っていない彼の肖像を見るにつけ、ひょうきんで臆病で胡乱な人物には、決して描かなかったような気が強くするのだが……。
◆写真上:1931年(昭和6)まで、上落合553番地に建っていた吉川英治の新邸跡。
◆写真中上:上は、1990年(平成2)に出版された吉川英治『松のや露八』(講談社版/左)と主人公の松廼家露八(土肥庄次郎/右)。中上は、戦前に撮影された書斎で執筆中の吉川英治。中下は、上野山に建立された彰義隊戦死者碑。下は、1968年(昭和43)に浅草寺の鎮護堂に建立された112名の幇間名が刻まれた幇間塚。
◆写真中下:上は、千住の円通寺に保存された上野寛永寺の黒門。門柱や格子のあちこちが、強力なスナイドル銃で穴だらけだ。中は、同じく円通寺に眠る彰義隊士たちの墓。下は、同寺の土肥庄次郎記念碑。土肥庄次郎(松廼家露八)の実質的な墓所だが、現在は記念碑の中央から折れて上半分は碑の裏側に置かれている。
◆写真下:上は、新吉原の中央を貫く仲之町で吉原稲荷(吉原弁天)社側から眺めた大門方面。中上は、1888年(明治21)に作成された広瀬源之助『吉原細見記』の幇間リスト。中下は、晩年の松廼家露八。下左は、寺井美奈子『松廼家露八』を収録した1969年(昭和44)出版の『ドキュメント日本人9/虚人列伝』(學藝書林)。下右は、昨年(2023年)出版された目時美穂『彰義隊、敗れて末のたいこもち/明治の名物幇間 松廼家露八の生涯』(文学通信)。
★おまけ
明治末近くに描かれたとみられる、新吉原の夜景(作者不詳)。右手に見えている3階建ての楼閣は、その建物の意匠からのちに板橋へと移築された「新藤楼」だろうか。
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落合第一府営住宅での暮らしが長い河野伝。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-03-16
目白文化村Click!の第一文化村に建てられた中村正俊邸Click!や神谷卓男邸Click!の設計、安食勇治邸Click!(のち会津八一邸Click!)が建てられる直前、同邸敷地に建っていたモデルハウスClick!、また文化村倶楽部Click!の設計なども手がけている可能性が高いのが、箱根土地本社Click!に嘱託社員としてつとめていた建築士・河野伝(傳:つとう)だ。 河野伝は、大正期に目白文化村の建設がスタートする以前から、下落合の落合第一府営住宅Click!に住んでいたとみられ、F.L.ライトClick!に師事していたころから堤康次郎Click!とは知りあいだった可能性が高い。落合府営住宅の土地は、もともと堤康次郎Click!が郊外遊園地Click!のひとつである不動園Click!を前谷戸に開発していた時代に、下落合の地主(下落合出身の妻の姻戚Click!含む)との協業により、将来の住宅地開発を意識した戦略上から、東京府へ寄付した目白通り沿いの土地だった。だから、落合第一府営住宅の河野伝邸も、堤康次郎が箱根土地設計部の嘱託社員としての契約を前提に、東京府住宅協会への便宜をはかる声がかり(口利き)で建設されているのかもしれない。 下落合1502番地(落合第一府営住宅16号)の河野伝邸は、目白通りに近い北端、同じ落合第一府営住宅内の沖野岩三郎邸Click!(8号)から道路を隔てて東へ2軒隣り、土屋文明邸Click!(20号)からもやはり道路を隔てて北へ2軒隣りという位置に建っていた。河野邸の北東側には、銭湯「菊ノ湯」Click!が営業しており、風向きによっては煙突からの煤煙で洗濯物が汚れたかもしれないが、会社へは邸前の道をそのまま南へ250mほど歩けば、3分前後でレンガ建ての箱根土地本社ビルのエントランスに立つことができたろう。 河野伝は、1920年(大正9)にはすでに竣工していたとみられる同邸に住みはじめ、箱根土地本社が1925年(大正14)に国立Click!へ移転したあとも、下落合にそのまま住みつづけている。日本紳士録や興信録によれば、1941年(昭和16)現在も下落合3丁目1502番地に住んでおり、おそらく1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、自宅が全焼するまで住みつづけているとみられる。なお、たとえば1931年(昭和6)に刊行された『日本人事録』(日本人事通信社)などでは、..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-03-16T23:59:59+09:00
目白文化村Click!の第一文化村に建てられた中村正俊邸Click!や神谷卓男邸Click!の設計、安食勇治邸Click!(のち会津八一邸Click!)が建てられる直前、同邸敷地に建っていたモデルハウスClick!、また文化村倶楽部Click!の設計なども手がけている可能性が高いのが、箱根土地本社Click!に嘱託社員としてつとめていた建築士・河野伝(傳:つとう)だ。
河野伝は、大正期に目白文化村の建設がスタートする以前から、下落合の落合第一府営住宅Click!に住んでいたとみられ、F.L.ライトClick!に師事していたころから堤康次郎Click!とは知りあいだった可能性が高い。落合府営住宅の土地は、もともと堤康次郎Click!が郊外遊園地Click!のひとつである不動園Click!を前谷戸に開発していた時代に、下落合の地主(下落合出身の妻の姻戚Click!含む)との協業により、将来の住宅地開発を意識した戦略上から、東京府へ寄付した目白通り沿いの土地だった。だから、落合第一府営住宅の河野伝邸も、堤康次郎が箱根土地設計部の嘱託社員としての契約を前提に、東京府住宅協会への便宜をはかる声がかり(口利き)で建設されているのかもしれない。
下落合1502番地(落合第一府営住宅16号)の河野伝邸は、目白通りに近い北端、同じ落合第一府営住宅内の沖野岩三郎邸Click!(8号)から道路を隔てて東へ2軒隣り、土屋文明邸Click!(20号)からもやはり道路を隔てて北へ2軒隣りという位置に建っていた。河野邸の北東側には、銭湯「菊ノ湯」Click!が営業しており、風向きによっては煙突からの煤煙で洗濯物が汚れたかもしれないが、会社へは邸前の道をそのまま南へ250mほど歩けば、3分前後でレンガ建ての箱根土地本社ビルのエントランスに立つことができたろう。
河野伝は、1920年(大正9)にはすでに竣工していたとみられる同邸に住みはじめ、箱根土地本社が1925年(大正14)に国立Click!へ移転したあとも、下落合にそのまま住みつづけている。日本紳士録や興信録によれば、1941年(昭和16)現在も下落合3丁目1502番地に住んでおり、おそらく1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、自宅が全焼するまで住みつづけているとみられる。なお、たとえば1931年(昭和6)に刊行された『日本人事録』(日本人事通信社)などでは、河野伝の住所を「下落合目白文化村」としているが、彼が目白文化村に住んだことは一度もない。河野伝は、大正中期から1945年(昭和20)まで、一貫して落合第一府営住宅16号に住んでいる。また、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、残念ながら彼は収録されていない。
河野伝は、1896年(明治29)に宮崎県で生まれ、京都高等工芸学校の建築家を卒業すると、帝国ホテルClick!を建設中だったF.L.ライトに師事している。だから、書籍や資料類には建築家としての仕事について書かれたものが圧倒的に多く、拙サイトでも下落合の箱根土地本社と目白文化村開発の関係から、彼の建築分野についての仕事に多く触れてきた。けれども、昭和初期には箱根土地の開発事業、すなわち建築業務の全般から離れがちになり、河野伝の関心は明らかに音響や映像の世界へと向かっている。昭和期に入ると、ほどなく箱根土地の嘱託社員を辞めてしまったのだろう。
昭和初期の映画関係の資料では、河野伝は建築家ではなく映像分野の“業界人”として紹介され、下落合1502番地の住所には「コーノトーン研究所」の名称が付加され、建築家の肩書は副次的な扱いになっている。たとえば、1935~1936年年(昭和10~11)にキネマ旬報社から刊行された『全国映画館録』では、下落合3丁目1502番地の河野邸は「コーノトーン研究所」であり、姻戚とみられる河野亨という滝野川に住む人物が、技術部門を担当している様子がうかがえる。1936年(昭和11)には、「コーノトーン映画録音研究所」と社名を変更し、本社および工場を河野亨が住んでいた滝野川に設定している。そして、大阪に出張所を設け名古屋、高松、小樽の3ヶ所には特約店を設置している。
さらに、1941年(昭和16)には研究所の拠点を豊島区巣鴨6丁目1336番地に移転しており、事業はコーノトーン式発声映写機製作販売と明記されており、代表者も河野伝と河野亨のふたり体制となっていた。また、創業を1931年(昭和6)4月としており、コーノトーン研究所が本格的かつ組織的にビジネスを開始したのが同年なのだろう。それ以前は、あくまでも個人的な研究所の体裁だったとみられる。
1934年(昭和9)の時点で、コーノトーン研究所がすでに映画の最前線にいた様子を伝える記事が残っている。同年1月5日にキネマ週報社から刊行された「キネマ週報」の、「トーキー時代◇簡易保険局のトーキー映写機試験とその成績◇」から引用してみよう。
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当日神田日活館の競映に参加した国産トーキー業者はP.Wトーキー、コーノトーン、オールキネマ、岡本洋行の四社であつた。当日参加しなかつたもの以外に呼ばれていた者も相当あるとのことである。試験委員としては通信省技師、日活社員と買上元たる簡易保険局の人々等で、厳然たる中に試験が開始せられた。試験フヰルムは日活のウエスタン式による「丹下左膳」の一部とP.C.Lの「ほろよひ人生」の一部を使用したが、此の試験フヰルムにはそれぞれ特長があり一概に良い録音とは言はれないが国産トーキーの代表的なもので高音低音共に試験にはもつてこいのものである。
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1934年(昭和9)の時点で、コーノトーン研究所は政府機関のコンペに参加するほどに、「発声映写機」の製品開発が進んでいたことがわかる。
研究所の名がしめすとおり、コーノトーンはトーキー映画時代の音声と映像がシンクロする発声機や映写機を開発し、日本国内ばかりでなく海外へも輸出しはじめている。戦前に制作された、コーノトーンの仕組みを解説するパンフレットには、大きな広告プレートが屋上近くに設置されたビル(滝野川区滝野川にあった研究所ビルか?)がメインビジュアルとなっており、トーキー映画の普及とともにコーノトーン映画録音研究所は大きく躍進したのだろう。このころの河野伝は、同研究所の所長としてコーノトーン事業に傾注しており、すでに建築の仕事はほとんど辞めてしまったと思われる。
また、トーキー映画との関連でコーノトーン式の製品開発を「戦後」とする資料や記事も多いが、明らかに昭和期に入るとともに下落合の河野伝邸、および滝野川区滝野川の河野亨邸は「コーノトーン研究所」と名づけられており、1945年(昭和20)の敗戦の時点で、すでに20年近くにわたる研究開発の履歴を確認することができる。先の「キネマ週報」の記事や、「コーノトーン」パンフレットの制作、滝野川の河野亨邸をR&Dならびに工場敷地の本拠地とし、各地に出張所や特約店を展開していったのは1935年(昭和10)前後だから、昭和の最初期から研究開発を約10年間ほどつづけたうえで、ようやく製品化(量産化)にこぎつけたのが同年あたり……ということになるのだろう。
当時、日本の映画館では活動弁士Click!が活躍する無声映画の時代から、トーキー映画Click!が急速に普及しはじめており、映画の撮影現場ではフィルムとシンクロして音声をひろうマイクや録音機、全国の映画館ではフィルムを映写する際には音声と映像が連動して再生できる映写機が、飛ぶように売れはじめていた時期と重なっている。コーノトーン映画録音研究所は独自に開発した録音再生技術をベースに、この波に乗って大きく成長し、海外にまでコーノトーン式35mm映写機を輸出するまでになったのだろう。
また、1935年(昭和10)を契機にコーノトーン仕様をはじめ、映像と音声を同時に録画・録音し再生できるトーキー映画の撮影も活発化している。同年に誠光堂から出版された、仲木貞一,・吉田正良共著『最新トーキーの製作と映写の実際』から引用しよう。
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本邦のトーキー革新期に於ける主なる作品としては、/日本発声=大尉の娘。叫屋小梅。ふるさと。物言はぬ花。雨下天晴(支那映画)。/映音式=舶来文明街。昼寝もできない。/コーノトーン式=午前二時半。/土橋式=マダムと女房。若き日の感激。其他。/吉阪式=東京近郊巡り。漫画数篇。オリムピツクサウンドニュース。東日、大毎サウンドニュース其他。/PCL式=昭和新選組。とても笑へぬ話。純情の都。
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この中で、コーノトーン仕様を採用した監督:細山喜代松『午前二時半』(富士発声/1932年)は観たことがないが、吉阪式のおそらくドキュメンタリー映画とみられる『東京近郊巡り』(詳細不詳)が気になっている。ほぼ同時期の作品と思われるが、昭和初期の東京郊外だった落合地域を撮影してやしないだろうか。
1940年(昭和15)になると、河野伝は映画の企画製作にも取り組んでいる。同年4月には、いずれも教育ドキュメンタリー映画の『音感』と『オモチヤの科学』を製作している。滝野川のコーノトーン映画録音研究所には、映画撮影用のスタジオも設置されていたのだろう。
◆写真上:下落合1502番地(落合第一府営住宅16号)の河野伝邸跡(画面左手)で、奥のやや右手に見えている高層マンションの隣りが箱根土地本社跡。
◆写真中上:上は、河野伝が設計した第一文化村の中村正俊邸。中上は、同じく第一文化村の神谷卓男邸とのちに安食邸建設予定地に建つモデルハウス。中下は、やはり河野伝設計といわれる1926年(大正15)撮影の国立駅Click!。下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる落合第一府営住宅16号の河野伝邸。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる河野邸で右手の排煙は銭湯「菊ノ湯」。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる河野邸。中下は、河野伝(左)と1936年(昭和11)発行の「全国映画館録」収録の河野伝・河野亨「コーノトーン研究所」(右)。下左は、1935年(昭和10)発行の「全国映画館録」収録のコーノトーン映画録音研究所と各出張所・特約店。下右は、コーノトーン技術の解説パンフレット。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)の「コーノトーン発声機」媒体広告。中上は、海外まで輸出されたコーノトーン35mm映写機。中下・下は、1940年(昭和15)出版の『日本文化映画年鑑』(文化日本社)に掲載された河野伝・製作『音感』と『オモチャの科学』の紹介。
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先生と生徒が逆転した会津八一と曾宮一念。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-03-13
会津八一Click!が1929年(昭和4)ごろ、盛んに油絵を描いていたのはあまり知られていない。その作品の多くは知人にやったり、デッサンを練習したスケッチブックも弟子にあげてしまったり、目白文化村Click!にあった文化村秋艸堂Click!が山手大空襲Click!で全焼してしまったりと、あまり作品が残っていないせいもあるのだろう。 会津八一Click!は、早大文学部英文科を卒業しており、もともと西洋美術には興味をもっていたとみられる。目白豊川町Click!の自宅に、小泉八雲Click!の三男で絵ばかり描いて勉強しない小泉清Click!を下宿させたり、下落合の落合尋常小学校Click!脇に通う霞坂に自邸をかまえていた関係から、周辺の画家たちと交流したりしているので、書や画の墨筆とは別に、自然に油彩の絵筆をとってみたくなったのだろう。 下落合464番地の中村彝Click!とは一度きりしか邂逅していないが、下落合623番地の曾宮一念Click!とは落合1296番地の霞坂秋艸堂Click!時代も、また下落合1321番地の第一文化村(目白文化村)に移った文化村秋艸堂Click!時代も、会津八一が癇癪を起して「無礼者!」と破門状を送りつけられることもなく、しじゅう親しく交流している。早稲田中学校Click!では、曾宮一念Click!が5年生のとき、会津八一は英語教師として赴任してきており、クラブ活動の美育部(いわゆる美術部)では生徒指導にあたっている。同校美育部からは、中村彝や曾宮一念、萬鉄五郎Click!、鶴田吾郎Click!、野口柾夫、小泉清Click!、大内章正、内田巌Click!、吉武正紀、大泉博一郎ら数多くの洋画家を輩出している。 ちなみに、第一文化村に建っていた旧・安食勇治邸へ、会津八一が霞坂Click!から転居したのは1935年(昭和10)のことだが、安食邸の“貸家”を紹介したのが曾宮一念Click!だった可能性が高いことがわかる。テニス好きな安食一家と曾宮一念は、かなり以前からの知り合いだったようで、「この家は私の友人安食勇治氏が持主であった」(「秋艸堂をしのぶ」1965年)と書いているので、安食一家は第一文化村の邸宅を売却したのではなくどこかへ転居したあと、代わりに会津八一へ自邸を貸していたことがわかる。その仲介をしたのが、両者ともに親しい曾宮一念ではなかっただろうか。 曾宮一念は、霞坂時代にも増して文化..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-03-13T23:59:59+09:00
会津八一Click!が1929年(昭和4)ごろ、盛んに油絵を描いていたのはあまり知られていない。その作品の多くは知人にやったり、デッサンを練習したスケッチブックも弟子にあげてしまったり、目白文化村Click!にあった文化村秋艸堂Click!が山手大空襲Click!で全焼してしまったりと、あまり作品が残っていないせいもあるのだろう。
会津八一Click!は、早大文学部英文科を卒業しており、もともと西洋美術には興味をもっていたとみられる。目白豊川町Click!の自宅に、小泉八雲Click!の三男で絵ばかり描いて勉強しない小泉清Click!を下宿させたり、下落合の落合尋常小学校Click!脇に通う霞坂に自邸をかまえていた関係から、周辺の画家たちと交流したりしているので、書や画の墨筆とは別に、自然に油彩の絵筆をとってみたくなったのだろう。
下落合464番地の中村彝Click!とは一度きりしか邂逅していないが、下落合623番地の曾宮一念Click!とは落合1296番地の霞坂秋艸堂Click!時代も、また下落合1321番地の第一文化村(目白文化村)に移った文化村秋艸堂Click!時代も、会津八一が癇癪を起して「無礼者!」と破門状を送りつけられることもなく、しじゅう親しく交流している。早稲田中学校Click!では、曾宮一念Click!が5年生のとき、会津八一は英語教師として赴任してきており、クラブ活動の美育部(いわゆる美術部)では生徒指導にあたっている。同校美育部からは、中村彝や曾宮一念、萬鉄五郎Click!、鶴田吾郎Click!、野口柾夫、小泉清Click!、大内章正、内田巌Click!、吉武正紀、大泉博一郎ら数多くの洋画家を輩出している。
ちなみに、第一文化村に建っていた旧・安食勇治邸へ、会津八一が霞坂Click!から転居したのは1935年(昭和10)のことだが、安食邸の“貸家”を紹介したのが曾宮一念Click!だった可能性が高いことがわかる。テニス好きな安食一家と曾宮一念は、かなり以前からの知り合いだったようで、「この家は私の友人安食勇治氏が持主であった」(「秋艸堂をしのぶ」1965年)と書いているので、安食一家は第一文化村の邸宅を売却したのではなくどこかへ転居したあと、代わりに会津八一へ自邸を貸していたことがわかる。その仲介をしたのが、両者ともに親しい曾宮一念ではなかっただろうか。
曾宮一念は、霞坂時代にも増して文化村秋艸堂には散歩がてら足しげく通っており、料治熊太Click!ともしばしば顔をあわせていると思われる。会津は、霞坂から文化村へ転居するころ女中も変えているが、曾宮は留守がちな会津に代わって、女中の“きい女史”とともに来客の対応に追われており、会津いわく「無礼なる来客」のほとんどは彼の傲岸不遜な態度に対する苦情だった。また、霞坂秋艸堂時代の少女だった女中の“しまさん”や、文化村時代の新しい“きい女史”を呼ぶときは名前を呼ばす、いつも「オンナ!」と怒鳴って呼びつけていたそうで、曾宮一念もビックリして慣れるまで時間がかかったらしい。
会津八一が、頻繁に洋画を描いていたのは霞坂の秋艸堂時代で、弟子の安藤更生Click!がその様子を観察している。1965年(昭和40)に中央公論美術出版より800部限定で刊行された、『会津八一の洋画』収録の安藤更生「会津八一の洋画」から引用してみよう。
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先生の油絵は昭和四年に描いたものしか残ってゐない。否、昭和四年にしか洋画は描かなかったと云った方が正確だらう。四十九歳の時である。なぜ昭和四年になって油絵を描いてみる気になったかは、よくわからない。先日も、当時毎日のやうに秋艸堂へ出入りしてゐた料治熊太さんに訊いてみたが、料治さんも「ただ何となく描いてみようと思ってやってみたんだな」といふ返事だった。(中略) まづスケッチブックを買って来て、鉛筆でデッサンをはじめた。画材は書斎にあった簡単なかたちをしたものを選んで、厚い洋書、四角い紙箱、ガラスのコップ、マッチ箱などだった。曾宮さんに相談して洋画の約束などの指導を受けた。(中略) それから神田の文房堂へ行って、スケッチ箱だのパレット、絵具、画筆などの道具一式を買って来た。これも曾宮さんの示唆があったのだらう。大学が夏休みになってから、毎日裸でスケッチ判へ油絵を描いてゐた。画材はやはり身辺の文房具や書物の類だったが、紅い根來塗の小盆に厚い切子ガラスのコップをのせた静物が一番傑作で、これは誰にも与へずに、後までも秋艸堂に掛ってゐたが、戦災で焼失してしまった。
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おそらく、文房堂Click!へ画材道具を買いにいったときも、曾宮一念が同行しているのだろう。早稲田中学時代の、先生と生徒の関係が逆になってしまった会津八一だが、曾宮一念は霞坂の秋艸堂へ毎日通っては洋画の基礎を教えている。
会津八一は、書の余白に草花や百萬塔などの墨絵を以前から描いてはいたが、いわゆる“文人画”の域を出ていなかったので、絵画の勉強は3Dの物体を2Dに写すデッサンの基礎からだった。洋画に用いる道具について、その使用法からひとつひとつ学んでいる。曾宮が同行したとみられる文房堂で、会津は3号の箱と油絵の具一式をそろえている。
では、気むずかしくてなにかと怒鳴るクセのある癇癪もちの生徒の、にわか先生となってしまった曾宮一念の証言を、同画集の「秋艸堂をしのぶ」より引用してみよう。
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「普通立体を表わすには明暗の度合による」位の事は話したと思うが、会津さんは飲み込みが早く、且つ良い意味での器用な人であったと思われる。あの大柄で一見フテブテしい體に似ぬ繊細で而も確に物を把握する明敏さを持っていた。この点では鈍重とは反対な人のように思われる。最初の作は小形の李朝の水滴で陶器の質と立体とが落付いた気品を表わしていた。「岸田劉生に擬すか」と笑っていた。今度、複製される三点の画の中には、この水滴処女作が無い。その翌週には梨瓜三個を盆にのせてかいてあった。前に比してらくらくと描写され、野菜の生々しさがよく出ていた。風景や花や人物はかかなかったようである。二、三の静物をかいて案外うまく行ったのと、その頃から専門の方の多忙とで画はかかなくなったらしい。
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曾宮一念は洋画を教えるかたわらで、霞坂秋艸堂の様子をいろいろ観察している。会津は、昭和初期に起きた熱狂的なハトブームClick!に影響されたものだろうか、スズカケバトを何箱も飼っていた。ハトたちの世話をしながら、いちいち話しかけていたというから、霞坂では孤独な生活だったのだろう。曾宮は、スズカケバトのつがいをもらっている。佐伯祐三Click!からは、1927年(昭和2)の第2次渡仏直前に7羽のニワトリClick!をもらっているので、下落合ではなにかと鳥に縁のある曾宮一念だ。
曾宮は2羽のハトを水彩画で描き、会津八一にプレゼントしている。そのお返しに、会津八一からは「湘潚夢裡秋」と書いた色紙をもらっており、彼は中国の漢詩からの引用ではないかと推測しているが、「潚湘八景詩」をもじった会津のオリジナルではないだろうか。本来は「潚湘」と書くところ、書や字のかたち(構成)や好みから「湘潚」としているような気がする。当時、会津八一は書の構成について、「自分は新聞の活字によって文字の組立を工夫した」などと曾宮に語っているので、これが冗談でなければ書は絵画と同様、手先の技術や器用さではなく構成がもっとも重要なテーマだととらえていたことになる。また、曾宮には書跡が「一見曲っても重力の釣合をとって書けば良い」とも話している。
曾宮一念は、会津八一に関して面白い証言も、『会津八一の洋画』収録のエッセイに残している。曾宮と会津とはかなり親密だったが、同時に画家仲間でもある渡辺ふみClick!(のち亀高文子Click!)とも友人だった。つまり、ふたりの関係について双方から想いのたけを聞けた、唯一の人物が曾宮一念だったことになる。中でも驚いたのは、1931年(昭和6)に再婚相手の亀高五市が死去すると、会津八一は亀高文子に追悼文を寄せていることだ。つまり、渡辺與平Click!が死去したあともそうだが、亀高五市の死去後も懲りずにさっそく彼女を訪ねて、神戸のアトリエを訪問している。
曾宮一念は、会津との最初のきっかけを亀高文子から直接聞いている。それによれば、渡辺家に会津八一が早稲田大学の当時は学長だった高田早苗Click!(ちなみに総長は大隈重信Click!)をともなって訪ねてきたときにはじまる。
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渡辺家は早稲田の近くにあって父親が学生を愛していたので学生の出入が多かったという。(文子がいた事も一因だろうが) 或る時高田早苗博士と会津さんとが改った服装で訪ねて来た。文子に結婚を申込みに来たのだという。どう断ったか知らないが、それは受けられなかった。こんな事は詳しく聞くべきでない。「どうして断ったの?」「どことなく私は嫌いだったから」 そのイキサツはそれ以上きかなかった。ただ、與平の死後に会津さんが再び結婚を申込んだこと、更に五市の死後訪問した事をきいた。與平との事は若いローマンスとして画学生間にもてはやされたし、再婚の時は真面目な亀高船長談まで紙上にのって文子さんの立場を明にしてあった。
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「詳しく聞くべきでない」などとしながら、曾宮一念はしっかり彼女からいろいろな証言を引きだしているのがおかしい。渡辺ふみの父親である日本画家の渡辺豊洲は、娘が洋画家になりたいというのを喜び、わざわざ横浜から本郷菊坂町の女子美術学校Click!が近い家へ転居するほど、当時としてはめずらしい柔軟な考え方のできる人物だったので、愛娘が「どことなく嫌い」といえば、なにか理由をひねりだしてはモノモノしい会津からの求婚を断ったのだろう。だが、会津八一はあきらめなかった。
渡辺與平が死去したあと、会津八一は自身の肖像画Click!を描いてくれるよう渡辺ふみに依頼している。彼女にとっては気の進まない仕事だったろうが、夫に先立たれた母子家庭では少しでも収入を増やしたかったにちがいない。彼女は、当時の会津宅(高田馬場時代か?)へ出かけて仕事をしていたことも、曾宮の“取材”で明らかにかっている。
やはり、「どことなく嫌い」な人物がモチーフではいいタブローなどできるはずもなく、渡辺ふみ(亀高文子)本来の作品からほど遠く、ひどい仕上がりとなっている。また、描かれた会津八一の悲し気な表情も、理解しえないふたりの関係性を如実に表していそうだ。
曾宮一念は、ふたりが結婚しなくてよかったとしている。渡辺ふみが、再婚して画業を自由につづけられたのは、理解があり寛容だった亀高五市がいたからで、女中を「オンナ!」と怒鳴って呼びつける会津八一では、ほどなく破局したにちがいないと結んでいる。
◆写真上:1929年(昭和4)ごろ、霞坂秋艸堂で制作された会津八一『筆洗・水滴』。
◆写真中上:上は、第一文化村の安食邸で1935年(昭和10)より会津八一が借りていた文化村秋艸堂。中は、1935年(昭和10)撮影の文化村秋艸堂応接室。(以上AI着色) 下は、文化村の会津八一(1943年撮影/左)とアトリエの曾宮一念(1923年撮影/右)。
◆写真中下:上は、1965年(昭和40)刊行の限定800部『会津八一の洋画』(中央公論美術出版)。下は、会津八一のスケッチ帖に残された多彩な静物のデッサン。
◆写真下:上は、1929年(昭和4)制作の会津八一『書帙・燭台・マッチ箱』。中は、同年の『鉢・書籍』。下は、渡辺ふみ(亀高文子/左)と、まったく気のりがせずにサッサと仕事を済ませて帰りたかったのではないかとみられる渡辺ふみ『会津八一像』(1914年/右)。
★おまけ
神戸の赤艸社女子洋画研究所のアトリエで制作する亀高文子(1923年/AI着色)。
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「転げあるき」で描く蕗谷虹児と関東大震災。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-03-10
拙サイトでは、これまで1923年(大正12)9月1日に関東大震災Click!が起きた際、被災地をスケッチしてまわった有島生馬Click!と同道した竹久夢二Click!や、被災地を写生めぐりした河野通勢Click!や佐伯祐三Click!についてご紹介してきた。この中で、佐伯祐三Click!は東京では聞き慣れない大阪方言が災いしたのか、デマを信じた自警団Click!から地元の人間ではない「不穏分子」とみられ、暴行を受けているとみられる。したがって、その際に自警団に没収されたものか、関東大震災のスケッチ類は残されていない。 竹久夢二Click!は、有島生馬Click!と同行してたので自警団から誰何(すいか)ぐらいはされているだろうが、その知名度の高さから危害を加えられるようなことはなかった。被災地で見たこと聞いたこと経験したことを、同年9月14日~10月4日にかけ都新聞に画文記事『東京災難画信』として、ほぼリアルタイムで連載している。 多くの画家たちClick!が、特に被害が大きかった東京市街の被災地をめぐっていたとき、蕗谷虹児Click!はどこでなにをしていたのだろうか。前年より、宝文社から雑誌「令女界」が創刊され、その表紙イラストや物語・詩の挿画、絵はがきなどの仕事が多忙をきわめていた時期と重なるときに、関東大震災は起きている。蕗谷虹児の描く女性たちは「令女型」などと呼ばれ、他の挿画家たちの絵とは区別され特別視されるようになっていた。ちょうど、竹久夢二が描くはかなげな女性たちを「夢二型」と称したのと対照的に、彼の作品は大正デモクラシーとモダニズムを体現した女性たちの代名詞となっていた。 蕗谷虹児Click!は1923年(大正12)、湯島天神近くの上野広小路も近い本郷区坂下町(現・文京区湯島3丁目)の借家に、最初の妻である川崎りんといっしょに住んでいた。この借家では、3月には子ども(長男)も生まれ、4月には川崎りんとの婚姻届けを出している。父親は前年に病没していたが、ふたりの弟たちとはいっしょに暮していた。 この本郷坂下町の家について、蕗谷虹児の幼年期から青年期にいたるまでをたどる、1967年(昭和42)に出版された自伝小説『花嫁人形』(講談社)から少し引用してみよう。 ▼ 本郷坂下町に、吟味した材料で、自分が住むために新築している、大工の棟梁の家があった。/「こんな綺麗な新築の家に、余命いくばくもない父を、住ま..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-03-10T23:59:59+09:00
拙サイトでは、これまで1923年(大正12)9月1日に関東大震災Click!が起きた際、被災地をスケッチしてまわった有島生馬Click!と同道した竹久夢二Click!や、被災地を写生めぐりした河野通勢Click!や佐伯祐三Click!についてご紹介してきた。この中で、佐伯祐三Click!は東京では聞き慣れない大阪方言が災いしたのか、デマを信じた自警団Click!から地元の人間ではない「不穏分子」とみられ、暴行を受けているとみられる。したがって、その際に自警団に没収されたものか、関東大震災のスケッチ類は残されていない。
竹久夢二Click!は、有島生馬Click!と同行してたので自警団から誰何(すいか)ぐらいはされているだろうが、その知名度の高さから危害を加えられるようなことはなかった。被災地で見たこと聞いたこと経験したことを、同年9月14日~10月4日にかけ都新聞に画文記事『東京災難画信』として、ほぼリアルタイムで連載している。
多くの画家たちClick!が、特に被害が大きかった東京市街の被災地をめぐっていたとき、蕗谷虹児Click!はどこでなにをしていたのだろうか。前年より、宝文社から雑誌「令女界」が創刊され、その表紙イラストや物語・詩の挿画、絵はがきなどの仕事が多忙をきわめていた時期と重なるときに、関東大震災は起きている。蕗谷虹児の描く女性たちは「令女型」などと呼ばれ、他の挿画家たちの絵とは区別され特別視されるようになっていた。ちょうど、竹久夢二が描くはかなげな女性たちを「夢二型」と称したのと対照的に、彼の作品は大正デモクラシーとモダニズムを体現した女性たちの代名詞となっていた。
蕗谷虹児Click!は1923年(大正12)、湯島天神近くの上野広小路も近い本郷区坂下町(現・文京区湯島3丁目)の借家に、最初の妻である川崎りんといっしょに住んでいた。この借家では、3月には子ども(長男)も生まれ、4月には川崎りんとの婚姻届けを出している。父親は前年に病没していたが、ふたりの弟たちとはいっしょに暮していた。
この本郷坂下町の家について、蕗谷虹児の幼年期から青年期にいたるまでをたどる、1967年(昭和42)に出版された自伝小説『花嫁人形』(講談社)から少し引用してみよう。
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本郷坂下町に、吟味した材料で、自分が住むために新築している、大工の棟梁の家があった。/「こんな綺麗な新築の家に、余命いくばくもない父を、住まわせることができたらどんなによかろう。」と、一彦は思ったので、断られるのを承知のうえで、人を介して「向う二年間だけでよいから、特に貸し家として貸してもらえないものか。その代わり、家賃は出せるだけだす。」と交渉させると、/あの家は、ごらんのとおり貸し家普請ではないのだが、わしの建てた家が、それほど気に入ってくれたのなら貸してあげてもよい。」と、家主の棟梁が言ってくれたので、一彦は、言いなりの手金を払うと、この新築の家の壁の乾くのを待って、谷中の間借りの部屋から引っ越して行った。その後を追うようにして、りえ子の母が、りえ子を伴れて手伝いに来てくれた。
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「一彦」が自身の分身である蕗谷一男(虹児)であり、「りえ子」が結婚していっしょにパリへ渡航することになる最初の妻の「川崎りん」だ。このとき、家具類を「上野Mデパート」に注文したとあるが、上野広小路の松坂屋デパートだろう。
貸家普請ではなく、大工の棟梁が自宅用に建てた住宅で、造りも強固だったのだろう、大震災でもたいした被害はなく、また火災の延焼からもまぬがれている。蕗谷虹児にとって、本郷区坂下町は以前から見馴れた街だったろう。彼は極貧時代に、芝区金杉橋にあった日米図案社に近接する米屋2階の下宿から、当時は本郷坂下町にあった大日本雄弁会講談社(のち講談社)の社屋へ、頻繁に作品の挿画をとどけに通っていたからだ。
大工の棟梁が普請したこの家の間取りはかなり広く、ふたりの弟とともに住んでいた金杉橋の3畳下宿や、谷中の間借りで使用していたときの家具調度は、アッという間に片づいてしまったようだ。新築なので掃除の必要もほとんどなく、手伝いに訪れた「りえ子」(川崎りん)母子も手持ち無沙汰だったのではないか。つづけて、従来の下宿から持ちこんだ家具調度類について、『花嫁人形』から引用してみよう。
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一彦は一人で苦笑して、芝金杉橋の三畳の間借り時代から愛用してきた、手ずれで杉の木目が現れてきている机代わりの、図板に向かった。/座布団は、破けて綿が出かかっているものを古毛布でくるんだものであったし、座右の火鉢は、台所のコンロと同じ素焼きのものだったのが、長い間の一彦の手垢とあぶらで、今では赤い瀬戸焼の艶になっている。/一彦の背後の壁一坪をふさいでいる本箱も古道具屋で見つけた飾り気のないもので、それへいつかたまってしまった雑多な本がつめ込んであるが、これも部屋の飾りにはならない。何故かというと、一彦に必要な参考書ほど痛(ママ:傷)んでいて、表紙が取れたり、背皮が破けていたからであった。一彦はその本棚に凭れて、この家へ引っ越してきて、まず床の間に掛けた、山樵道人の軸に目をやるのであった。(カッコ内引用者註)
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この家で、蕗谷虹児は関東大震災に遭遇している。大震災が起きたときの様子を書いた記録は見あたらないが、前年に父親が死去していたため、彼は妻と生まれてちょうど6ヶ月の長男、それに弟たちとともに大火災Click!と風向きを気にしながら、避難の準備をしていただろう。おそらく、避難先は緑濃い湯島天神の境内か上野公園を想定していたにちがいない。だが、上野山を除いて上野駅周辺や下谷一帯はほぼ全滅状態であり、ヘタに避難していたら大火流Click!に巻きこまれて危うかったかもしれない。
迫る延焼は、幸いにも蕗谷虹児アトリエまではとどかなかった。周囲が少し落ち着いてからだろう、蕗谷虹児は被災した街々を「転げあるき」(余震や障害物が多かったのだろう)しながら、被害の様子をスケッチしてまわった。ひとりで歩いたのか、あるいは弟たちを連れていったのかは不明だが、さまざまな街角の人物像を写生している。
大震災の当初は、そのまま悲惨な被災風景と絶望に打ち沈む人物たちを描いていたが、大震災から月日がたち焼け跡にバラックが建ちはじめ、復興への歩みが少しずつはじまると、彼ならではの抒情的な女性や子どもたちの描写が見えはじめる。また、震災当初はおそらく焼け跡の風景自体がモノトーンだったのだろう、モノクロ表現だった震災画集や絵はがきも、復興のきざしが見えはじめたころからカラー印刷に変わっている。もっとも、当初のモノクロ印刷は当然、印刷会社も被害を受けているので、4色分解のオフセット印刷機が破損して使えなかったのかもしれないが。
竹久夢二は、都新聞に連載(1923年9月14日~10月4日)した「東京災難画信」では、描いた街や地域の情報を記録しているが、蕗谷虹児Click!は特に町名や地域名を記載せず、それぞれの震災画には見たまま感じたままの、被災地の情景タイトルをつけている。したがって、どこの街角を描いたのかは不明で抽象的であり記録的な震災画ではないが、反面、彼はその状況における人々の想いや感情に心を寄せているように見える。彼の描く震災画は叙事的ではなく、どこまでも叙情的なのだ。
本郷坂下町の焼け残った自宅から、蕗谷虹児はどのように被災地をめぐり歩いたのだろうか。芝金杉橋下宿から、本郷坂下町にあった大日本雄弁会講談社へよく作品をとどけに通っていたことは先述したが(カネがないので市電Click!には乗れず全行程が徒歩だった)、彼がよく歩いて知悉しているこの講談社入稿ルートは、『花嫁人形』の記述によれば金杉橋から芝を抜け、新橋、銀座、日本橋、神田を通って本郷坂下町へとたどるものだった。したがって、震災画を描きに通ったルートも、あらかじめよく知っていたこの道筋がメインだった可能性が高いのではないか。
すなわち、このルートには東京の繁華街である神田や日本橋、銀座(これらの街々は全滅Click!)が含まれており、震災画のモチーフにするにはもってこいの街々だったと思われるからだ。蕗谷虹児は坂下町の自宅を出ると、南下して外濠(神田川)に架かる昌平橋Click!をわたり、神田や日本橋、銀座の焦土Click!や住宅街の焼け跡を描いてまわったのではないだろうか。もちろん、自宅近くの上野広小路へと出て、下谷地域の上野駅や周辺の街々(上野山を除きほぼ全滅)も歩いているだろう。
こうして、蕗谷虹児の震災画は記念絵はがきとなり、第1集は『生き残れる者の嘆き』『絶望』『落ち行く人々の群』『落陽』、第2集は『戒厳令』『焼跡の日』『尋ね人』『家なき人々』などなど、震災から間もない時期に発行しつづけている。また、第4集からはカラー印刷となり、大震災の現場を直接表現して伝えるのではなく、被災者たちの感情に寄り添うように描かれた人物中心の表現へ徐々に変化していく。このあたり、画家ではなく挿画家だった蕗谷虹児ならではの表現だろう。
いまでこそ、震災の被災地を描いた記念絵はがきなどを発行・販売したら、出版社や画家は顰蹙をかい批判されるだろうが、当時はTVやラジオもなく、地元の新聞も輪転機が破壊されたため、被災地の様子を伝えるメディアがなにもなかった。東京とその周辺にいた多くの画家たちは、その惨状を全国や世界へ、あるいは後世に伝えようと筆をとっている。
◆写真上:1923年(大正12)9月5日に、陸軍所沢飛行第五大隊の偵察機が東京市街地を撮影した空中写真。麹町区の番町上空から西を向いて撮影しており、遠景に見えているのは代々幡(代々木)から原宿にかけての街並み。中央にある西洋館は赤坂離宮(現・迎賓館)で、その向こう側に拡がっているのは神宮外苑の森。
◆写真中上:上は、震災から間もなく発売された震災絵はがきで蕗谷虹児『生き残れる者の嘆き』(左)と同『絶望』(右)。中は、蕗谷虹児『落ちゆく人々の群れ』(左)と同『落陽』(右)。下は、蕗谷虹児『戒厳令』(左)と同『焼跡の月』(右)。
◆写真中下:上は、蕗谷虹児『尋ね人』。中は、カラー化された同『焼土に立つ(焼け跡のしののめ)』(左)と同『鳥も塒を焼かれたり(バラツクの夕暮)』(右)。下は、同『夜に迷ひし小鳥の如く(仮家への帰途)』(左)と『幼き者も辻に立ちたり(新聞売子)』(右)。
◆写真下:上は、1926年(大正15)ごろパリのアトリエで撮影された蕗谷虹児とりん夫人。背後にはサロン・ドートンヌ入選作の『混血児とその父母』(1926年)と、パリの日本人芸術家たち第3回展に出品する描きかけのキャンバスが見えている。中上は、1967年(昭和42)出版された蕗谷虹児の自伝小説『花嫁人形』(講談社)の函(左)と表紙(右)。中下は、1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲Click!11日前に偵察機F13Click!によって撮影された、空中写真にみる最後の蕗谷虹児アトリエ。下は、同年5月17日に撮影された第2次山手空襲Click!8日前の蕗谷虹児アトリエだが、すでに4月13日夜半の空襲で焼失しているとみられる。
★おまけ
手もとにある蕗谷虹児『花嫁人形』が、著者のサイン入りであることに読み終えてから気がついた。捺されている篆刻は、大正後期から用いられている角丸の正方形のもので、パリへ持参したものと同一だと思われる。かなりすり減って何度か彫りなおしているとみられるが、左下の枠が大きく欠けている点や文字のかたちなどから、下落合のアトリエから疎開先の山北町へと“避難”させていた、虹児のお気に入りだった篆刻の1顆なのだろう。
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下落合での制作が15年つづいた上原桃畝。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-03-07
きょうは、めずらしく日本画家を取りあげてみたい。おそらく、蘭塔坂上にアトリエをかまえた岡不崩Click!や一ノ坂上の本多天城Click!の記事以来ではないだろうか。洋画家ばかりでほとんど紹介していないが、落合地域には日本画家も大勢住んでいる。 下落合473番地にアトリエをかまえていたのは、女性の日本画家・上原登和子(上原桃畝)だ。ちょうど、中村彝Click!アトリエのすぐ西隣りの区画、目白福音教会Click!に建つメーヤー館Click!の南に隣接した位置で、夏目漱石Click!を愛媛県尋常中学校(=旧制松山中学校Click!)に招聘した、大正期には浅田知定邸Click!が建つ広い敷地内にあたる。 上原桃畝は、大正初期から小石川区原町15番地のアトリエに、1926年(大正15)まで住んでいたことが確認できるので、下落合473番地に転居してきたのは1927年(昭和2)、昭和の最初期だとみられる。そして、面白いことに下落合には1941年(昭和16)ごろまで住んでいたが、同年以降は再び小石川区原町15番地へともどっている。彼女は東京市麻布の出身だが、小石川原町の家は当時のおそらく実家だったのだろう。上原桃畝は結婚をせず、生涯日本画家として独身を張りとおした女性だ。 上原桃畝は、最初に荒木寛畝に師事したが、寛畝の死後は愛弟子で養子になっていた荒木十畝につづけて師事している。先代師匠の荒木寛畝は特異な日本画家で、江戸期は土佐藩の御用絵師を勤めていたが、明治以降は洋画家に転向している。だが、しばらくすると再び日本画家へと復帰しているので、ひとことでいえば写生を繰り返してデッサンの基礎をしっかり修得した日本画家という、当時としては特別な位置にいた人物だ。その弟子である上原桃畝もまた、デッサンの勉強から入っているとみえて、ときに洋画と見まごうような、3Dの陰影が精確な作品も残している。 『落合町誌』Click!には、上原桃畝が「邦画家」として人物一覧に掲載されているが、人となりの紹介文がない。彼女について、ここは1913年(大正2)に美術研精会から刊行された「研精美術」9月号収録の、田口黄葵『隠れたる作家上原桃畝女史』から引用してみよう。 ▼ 此の中(荒木寛畝社中)におつて巍然四囲を顧みず塵俗を超越して向上の一路を辿る女性がある。年歯漸く三十にして家庭和楽を想はず、技術と学芸の研磨に日も猶ほ足らざるが如き女性がある。同塾を訪ふ..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-03-07T23:59:59+09:00
きょうは、めずらしく日本画家を取りあげてみたい。おそらく、蘭塔坂上にアトリエをかまえた岡不崩Click!や一ノ坂上の本多天城Click!の記事以来ではないだろうか。洋画家ばかりでほとんど紹介していないが、落合地域には日本画家も大勢住んでいる。
下落合473番地にアトリエをかまえていたのは、女性の日本画家・上原登和子(上原桃畝)だ。ちょうど、中村彝Click!アトリエのすぐ西隣りの区画、目白福音教会Click!に建つメーヤー館Click!の南に隣接した位置で、夏目漱石Click!を愛媛県尋常中学校(=旧制松山中学校Click!)に招聘した、大正期には浅田知定邸Click!が建つ広い敷地内にあたる。
上原桃畝は、大正初期から小石川区原町15番地のアトリエに、1926年(大正15)まで住んでいたことが確認できるので、下落合473番地に転居してきたのは1927年(昭和2)、昭和の最初期だとみられる。そして、面白いことに下落合には1941年(昭和16)ごろまで住んでいたが、同年以降は再び小石川区原町15番地へともどっている。彼女は東京市麻布の出身だが、小石川原町の家は当時のおそらく実家だったのだろう。上原桃畝は結婚をせず、生涯日本画家として独身を張りとおした女性だ。
上原桃畝は、最初に荒木寛畝に師事したが、寛畝の死後は愛弟子で養子になっていた荒木十畝につづけて師事している。先代師匠の荒木寛畝は特異な日本画家で、江戸期は土佐藩の御用絵師を勤めていたが、明治以降は洋画家に転向している。だが、しばらくすると再び日本画家へと復帰しているので、ひとことでいえば写生を繰り返してデッサンの基礎をしっかり修得した日本画家という、当時としては特別な位置にいた人物だ。その弟子である上原桃畝もまた、デッサンの勉強から入っているとみえて、ときに洋画と見まごうような、3Dの陰影が精確な作品も残している。
『落合町誌』Click!には、上原桃畝が「邦画家」として人物一覧に掲載されているが、人となりの紹介文がない。彼女について、ここは1913年(大正2)に美術研精会から刊行された「研精美術」9月号収録の、田口黄葵『隠れたる作家上原桃畝女史』から引用してみよう。
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此の中(荒木寛畝社中)におつて巍然四囲を顧みず塵俗を超越して向上の一路を辿る女性がある。年歯漸く三十にして家庭和楽を想はず、技術と学芸の研磨に日も猶ほ足らざるが如き女性がある。同塾を訪ふて最も未来を有する閨秀作家はと問はゞ何人も此の女性即ち上原桃畝女史を推すであらう。/女子は性来頭脳の明晰な人で、従つて理智の勝つた人である。言葉を換へて言へば、頭脳の明晰なるが故に感情の興進にまかせて動くことの出来ぬ人である。然して其理智は細節に拘泥せずしてよく大局を摑み、総てを寛容する度量となつて表はれて居る。(中略) 女史は神来の興を駆つて一気画を成す天才的才能を有する人にあらずして、撓まざる努力の推積によつて成る人である。其作に感興の充溢を見る能はずして健全なる意志の発現を見るも亦当然といはなければならない。明晰なる頭脳強固なる意志の一事は万事をなして、哲学に科学に自然の探究に究めざればやまざるの努力を生じ、読書と旅行とに多大の趣味を持たしめて居る。(カッコ内引用者註)
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だいだい、上原桃畝の性格やモノの考え方がわかる紹介文だ。彼女は、師の荒木寛畝と十畝の跡を継ぐように、のち東京女子高等師範学校Click!(現・お茶の水女子大学)の美術教師に就任している。文展には何度か入選しつづけ、1919年(大正8)からはじまる第1回帝展にも、日本画部門だけでなく絵画部門全体で唯一の女性画家として入選している。
帝展の資料を探していたら、興味深い記事を見つけた。1924年(大正13)に発行された「芸天」(芸天社)12月号で、第5回帝展がらみの記事にも上原桃畝は登場しているが、そのネームの横に中村彝『老母の像』が紹介されている。もちろん、中村彝は帝展無鑑査で審査員にも任命されていたが、同年の上野竹の台で第5回帝展が終了した1ヶ月後、1924年(大正13)12月24日に下落合464番地のアトリエで死去している。
また、同記事の下には、のちの敗戦直後に下落合の蘭塔坂上に住んでいたとみられる、鎌田りよClick!のもとへ通うことになる平沢貞通Click!(平澤大璋)が、京橋の日米ビルディングで個展を開催するという記事も見えている。そのほか、落合地域にゆかりの深い洋画家たちの名前が多数登場しているので、ことさら目を惹いた記事だった。
では、第1回帝展で唯一の女性画家として入選した上原桃畝の様子を、1919年(大正8)10月11日に発行された読売新聞から引用してみよう。
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帝展の紅一点
日本画洋画彫刻三部を通じて唯一の閨秀入選者/夢の如く喜ぶ上原桃畝女史
日本画、洋画、彫刻三部を通じて入選せる女性は、僅かに日本画に六曲片双の『春光』一点を以て選ばれた上原桃畝(三八)女史一人である△此名誉ある女史を入選発表と共に昨日午後四時小石川原町の自宅に逸早く報を齎すと、流石に包み切れぬ嬉しさを見せて女史は語る 「私が? 私一人ですつて? まるで夢のやうです。私は故荒木寛畝さんに就いて習ひましたが、先生の亡き後は十畝さんにもお世話になつてゐます△文展の第四回に『つつじ』を出して入選しました、其後近年まで出品しませんでしたが一昨年来又出すやうになりました 今回入選の『春光』は寒竹に梅を配した構想で、出来るだけ青くせずに、日光を出さうと勤めました、製作には八月二十四日から△一月位かゝりました 大変厳選だといふ話ですから、無論駄目と思つてゐましたのに、本当に夢のやうです、十畝さんの退かれた後は女子高等師範学校に勤めて外の方と共に一週に三日宛図画科を受持つてゐます、家は母と姉夫婦と其の子供とで五人暮らしです△師匠の寛畝さんも私の売残りは困つたものだと屡云つてゐらつしやいました」
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上原桃畝から、師の「売残り」などという言葉を引きだすのが、男性記者による当時のインタビューらしいが、この記事からも小石川原町の家はやはり実家だったらしい様子がわかる。彼女はこのあと、実家を出て独立し下落合473番地へアトリエをかまえて転居してくるわけだが、このあたりの事情は中村彝も頼りにしていた、画壇の動向Click!に詳しい日本画家で洋画家でもある夏目利政Click!あたりがよく知っていそうな気がする。
また、大正期には広大な敷地だった下落合743番地の浅田邸だが、1926年(大正15)に浅田知定が死去すると相続のためか分割され、敷地内には三間道路が敷設されている。分割された14敷地の中のいずれかが上原桃畝のアトリエだが、1938年(昭和13)作成の「火保図」に掲載されたネームには、残念ながら上原邸は採取されておらず見あたらない。おそらく、名前が不記載の6邸(無記名7邸のうち1邸は根岸邸なので、差し引き残り6邸)のうちのいずれかが上原桃畝アトリエだろう。
下落合に転居するまで、上原桃畝は日本美術協会や日本画会、文展、帝展、帝国絵画協会、読画会などへ出品して入選を繰り返している。また、下落合では1928年(昭和3)5月に日本画会「翠紅会」の結成に参加し、主要メンバーのひとりとして活躍していた。彼女は、ときにスキャンダラスな洋画の女性画家たちとは異なり、いつも女性画家とともに行動していたらしく、旅行や外出も同輩の女性画家とよく待ち合わせては出かけていたようだ。上掲の「明晰なる頭脳強固なる意志」という人物評を見ても、自尊心が強く自身を律して、自我を貫きそうな強い意志力を備えた女性像を連想させる。
画家仲間の三木初枝と連れだち、当時の師宅を訪れた様子を1923年(大正12)に大日本藝術協会から刊行された、「藝術」2月号の荒木十畝による談話から引用してみよう。
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寒き暁から飛出して清水公園から日比谷公園へと、三四ヶ所を雪のよささうな所を廻つて歩いた、老人の冷水とでも云ふのであらう、どこへ行つても画師には出会はぬが、素人の写真道楽家のやうなのが、至る所でパチパチやつて居た、日比谷公園では年老つた婦人が寒さうな格講して雪の写生をして居た、これも老人の冷水の連中だと思ふた。/その日の午後我家の雪見にとて、上原桃畝、三木初枝両女史が訪ねてくれた、尺余の雪に朝来またまた降足したので、この日一日の風情に別条はあるまいと思うて居たが、午後には木の枝には雪が落着いて居なくなつた、その両女史の写生を乞得たのが、本誌の挿画となつた。
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同誌には、上原桃畝『軒のにはとこ』と題する色紙の雪景色が掲載されている。
1941年(昭和16)には、上原桃畝の住所は小石川区原町15番地にもどっているので、母親が病気かあるいは亡くなりかしたのだろうか。日本画家は、洋画家とは異なりリアルな風景画は描かないだろうが、『軒のにはとこ』のように庭先のスケッチぐらいは残しているかもしれない。およそ15年ほどつづいた、上原桃畝の下落合におけるアトリエ生活だった。
◆写真上:上原桃畝のアトリエがあった、下落合473番地界隈の現状。
◆写真中上:上は、蝶を追うネコを描いた上原桃畝『題名不詳』(部分)。中は、第5回日本画展に入選した同『野路』。下は、東京女子高等師範学校の教師だったせいで女弟子が多く日本画と洋画の双方を描いた荒木寛畝(左)と弟子の上原桃畝(右)。
◆写真中下:上は、1919年(大正8)10月11日刊行の読売新聞。中は、第20回読画会展に入選した上原桃畝『六月の花園』。下は、1924年(大正13)発行の「芸天」12月号に見る上原桃畝の動向で、見開きには中村彝や平沢大璋の情報が掲載されている。
◆写真下:上は、下落合時代の1928年(昭和3)5月撮影の「翠紅会」記念写真。左端が上原桃畝で、後列右からふたりめが親しかったらしい三木初枝。中上は、1931年(昭和6)出版の大山広光『文帝展二十五年史』(美術批評研究社)掲載の上原桃畝。中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合473番地界隈。下は、1923年(大正12)2月8日の大雪の日に三木初枝とともに荒木十畝邸を訪れ、庭先で色紙に描いた上原桃畝『軒のにはとこ』。
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『落合町誌』の基盤となった『落合町現状調査』。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-03-04
東京市では、1932年(昭和7)10月に迫った東京市35区制Click!を目前に、新たに形成される20区内に含まれる町村の概況について、その実態調査を前年に実施している。市庁舎内へ、新たに臨時市域拡張部という部署を新設して、市域へ新たに編入される町村へ調査員を派遣したり、さまざまなデータを収集させたりした。 1年後に、淀橋区(現・新宿区の一部)へ編入される落合町にも、東京市臨時市域拡張部から派遣された調査員が、町の様子を視察したり多種多様な自治データを収集したりしている。そして、1931年(昭和6)11月に「市域拡張調査資料」として、折りこみ地図を含めると50ページ弱のコンパクトな冊子にまとめて刊行していた。ガリ版(謄写版)による手刷りで作成された調査資料冊子は、東京市臨時市域拡張部の編集による『豊多摩郡落合町現状調査』と名づけられ関連部局に配布されている。 ところが、この資料に目を通していると、すでにどこかで読んでいる、あるいはどこかで一度目にした統計資料(表組のレイアウトまで酷似)、あるいは分類表など既視感を強く感じた。そう、1年後の1932年(昭和7)8月に落合町誌刊行会から出版される、『落合町誌』Click!の編集のしかたやレイアウトにそっくりなのだ。いや、このいい方は逆さまで、『落合町誌』の「第四篇 現勢」でで綴られている「人口」や「行政」、「財政租税」「教育」「寺社及教会」「衛生」「各種団体」「交通」「産業」「電燈瓦斯水道」などの記述や統計資料、レイアウトなど、ときに文章までが、前年に東京市臨時市域拡張部が編集した『豊多摩郡落合町現状調査』と、非常によく似ているのだ。 つまり、『落合町誌』(1932年)の「緒言」、「第一篇 維新前の沿革及歴史的考証」「第二篇 寺社の沿革」「第三篇 明治維新後期」の前半73ページまでと、後半の「第五篇 人物事業編」の216ページから最後まではオリジナルの制作コンテンツだが、真ん中の74ページから215ページ(141ページ分)まで、すなわち落合町の「現勢」を語る中心的な内容は、東京市の『豊多摩郡落合町現状調査』から、よくいえばそのままの引用または流用、悪くいえばほぼ丸ごとパクリの編集に近い構成になっていることがわかる。 いい方を換えれば、『落合町誌』の編集者兼発行者(編集責任者)である近藤健蔵は、落合町の「現勢」は東京市臨時市域拡張部による調査結果の内容をおおよそ踏襲し..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-03-04T23:59:59+09:00
東京市では、1932年(昭和7)10月に迫った東京市35区制Click!を目前に、新たに形成される20区内に含まれる町村の概況について、その実態調査を前年に実施している。市庁舎内へ、新たに臨時市域拡張部という部署を新設して、市域へ新たに編入される町村へ調査員を派遣したり、さまざまなデータを収集させたりした。
1年後に、淀橋区(現・新宿区の一部)へ編入される落合町にも、東京市臨時市域拡張部から派遣された調査員が、町の様子を視察したり多種多様な自治データを収集したりしている。そして、1931年(昭和6)11月に「市域拡張調査資料」として、折りこみ地図を含めると50ページ弱のコンパクトな冊子にまとめて刊行していた。ガリ版(謄写版)による手刷りで作成された調査資料冊子は、東京市臨時市域拡張部の編集による『豊多摩郡落合町現状調査』と名づけられ関連部局に配布されている。
ところが、この資料に目を通していると、すでにどこかで読んでいる、あるいはどこかで一度目にした統計資料(表組のレイアウトまで酷似)、あるいは分類表など既視感を強く感じた。そう、1年後の1932年(昭和7)8月に落合町誌刊行会から出版される、『落合町誌』Click!の編集のしかたやレイアウトにそっくりなのだ。いや、このいい方は逆さまで、『落合町誌』の「第四篇 現勢」でで綴られている「人口」や「行政」、「財政租税」「教育」「寺社及教会」「衛生」「各種団体」「交通」「産業」「電燈瓦斯水道」などの記述や統計資料、レイアウトなど、ときに文章までが、前年に東京市臨時市域拡張部が編集した『豊多摩郡落合町現状調査』と、非常によく似ているのだ。
つまり、『落合町誌』(1932年)の「緒言」、「第一篇 維新前の沿革及歴史的考証」「第二篇 寺社の沿革」「第三篇 明治維新後期」の前半73ページまでと、後半の「第五篇 人物事業編」の216ページから最後まではオリジナルの制作コンテンツだが、真ん中の74ページから215ページ(141ページ分)まで、すなわち落合町の「現勢」を語る中心的な内容は、東京市の『豊多摩郡落合町現状調査』から、よくいえばそのままの引用または流用、悪くいえばほぼ丸ごとパクリの編集に近い構成になっていることがわかる。
いい方を換えれば、『落合町誌』の編集者兼発行者(編集責任者)である近藤健蔵は、落合町の「現勢」は東京市臨時市域拡張部による調査結果の内容をおおよそ踏襲し、落合町の歴史や暮らしている住民たちの紹介に力点を置いて編集したかった……ということになるだろうか。では、落合町の現勢について、東京市の『豊多摩郡落合町現状調査』に収録された「町勢現況」から少し引用してみよう。
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妙正寺川ノ西南大字上落合ノ地ハ中野町野方町ニ起レル岡脈連亘シテ一帯ノ高台ヲナシ東北部下落合ノ地ハ目白台ニ連ル一帯ノ高阜ニシテ小丘陵ノ起伏スルモノ多ク展望開ケ且ツ樹林ニ恵マレ最適ノ住宅地タリ。又町ノ北方大字葛ヶ谷ノ地方ハ概シテ平坦ナル畑地ヲナセリ。(中略) 前述セル如ク本町ノ地勢ハ妙正寺川ノ流域及大字葛ヶ谷ノ地ヲ除ク外ハ土地高燥ニシテ起伏ニ富ミ展望開ケテ好個ノ住宅地ヲナス。サレバ全町ヲ通シテ良住宅多ク目白文化村、翠丘住宅地等特ニ名高シ。/交通機関ハ省線目白駅ノ便ヲ有スルト共ニ西武電車線ノ町内ヲ縦貫スルモノアリ。然レドモ町ノ西北部地方ハ未ダ交通上不便ナル地域アリ。/将来此ノ方面ニ交通機関ノ完備スルハラバ本町ノ殆ンド全部ハ住宅地トシテ発展ヲナスベキ状勢ニアルモノナリ。
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下落合の南側と上落合の東側を流れる、旧・神田上水Click!(1966年より神田川Click!)の流域については存在が忘れられているし、目白文化村Click!と同時期(1922年)に開発がスタートした近衛町Click!やアビラ村(芸術村)Click!の記載がないが、「翠丘住宅地」(ママ:翠ヶ丘Click!)すなわち今日では十三間通りClick!(新目白通り)の貫通で分断されてしまい、ほとんどネームが伝承されなくなってしまった、六天坂Click!から西坂Click!あたりにまでかけての丘陵地帯に形成された住宅街については触れている。
もうひとつ、「西武電車線」という地元ではあまり聞き慣れない用語がつかわれているが、同書に挿入された地図には「西部電気鉄道」と記載されているので、地元や同時代の各種地図、あるいは当時のマスコミの一般用語として普及していた「西武電鉄」Click!と書くところを、新宿駅から荻窪方面へ通っていた通称「西武電車」Click!(西武軌道線)と混同したか、あるいは西武鉄道が媒体広告を使い繰り返し浸透を図った、「西武電車」Click!の愛称(戦前は普及しなかった)を踏襲したものだろうか。
さて、『豊多摩郡落合町現状調査』(1931年)に掲載された多種多様な統計表は、1930年(昭和5)に実施された国勢調査にもとづいて掲載されている。それを、ほぼそのまま表組のかたちや項目、レイアウトまで借用したのが『落合町誌』(1932年)の「第四篇 現勢」だ。これに、数字が判明している表には1931年(昭和6)分の実数値を追加して掲載しているが、不明なものは東京市の表組のまま1930年(昭和5)現在で収録している。ほかに、町長や町会議員、町議会、各尋常小学校や教育機関の紹介、在郷軍人会の活動などを付加し、「第四篇 現勢」は東京市の資料に比べやや肉厚に編集されている。
編集責任者の近藤健蔵は、公的資料を参照すればすぐに情報を入手できる「第四篇 現勢」の大半の情報は、東京市が調べた『豊多摩郡落合町現状調査』をほぼそのまま踏襲し、むしろ歴史や名所・史跡の紹介、そして住民や町内の事業紹介に注力したかったように見える。近藤健蔵は、もともと東京市電気局に勤務しており、退職してからは上落合721番地で化粧品・文房具店を開業している。その人物像を、『落合町誌』のほぼ最後に掲載された文章から引用してみよう。
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栗原新和会副会長 近藤健蔵 上落合七二一
軒滴石を穿つと言ふ諺がある、人生に於ける如何なる小さな努力でも其の継続に依つて相応の結果を得、収穫を挙ぐると云ふ事は疑もない事実である。之が氏の社会公共に対する思想行動の核心を為すものにして、亦方今町衛生委員、栗原新和会副会長、第二小学校児童保護会評議員として郷党の間に声望ある所以に外ならない、氏は近藤兼吉氏の長男にして落合の地に生れ、大正二年東京市電気局に勤め、昭和元年退職後化粧文房具商を経営する、努力鉄膓の士である、一面前記公職に推されて治績尠からざる而巳乃木講社の先達と為り或は自治研究会の組織に介在する等、孜々(しし)として当町文化の発展に資するところ多大である、(以下略)
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東京市の電気局に、わずか13年ほどしか勤務しなかったのは、おそらく先代の跡を継ぐためだったのではないか。先代の近藤兼吉は、上落合の地主だったのかもしれない。彼は上落合にもどり、「化粧文房具店」を開業している。
上落合721番地は、ちょうど中井駅の南側、寺斉橋Click!をわたってすぐ右手の角地だ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、その位置に「文具店」のネームを見つけることができる。これが、文房具および化粧品を扱っていた近藤商店だろう。また、『落合町誌』を発行した落合町誌刊行会も同地番となっているので、ここが実質的に同誌編集局の役割りをはたしていたにちがいない。
編者の近藤健蔵は、同誌「自序」の中で「顧れば本書の編録に着手せしより約半歳」と書いているので、『落合町誌』は約6ヶ月で編纂されたことがわかる。これほど短期間で、400ページを超える町誌を編集・執筆できたのは、まさにベースとして東京市による『豊多摩郡落合町現状調査』が存在したからだろう。しかも、かつて彼は東京市に勤めていた。同誌の「自序」より、もう少し引用してみよう。
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然るに落合町には古来其の歴史を語るべき記録がない、発達変遷の跡を知るべき郷土史がない、落合町に生れ、落合町に人と為り、落合町に居住する人々の多数は、愛国の至誠を培ふべき、郷土に関して何等の知識を有たない、之れ不肖自ら揣らずも此の編纂を企画したる所以である、乍併(しかしながら)修史の事業の容易ならざるは史家にあらざるも亦肯定するに難からず、而も短日稿を脱し倉卒編を了したるを以て、精粗繁簡、素より欠陥なきを保せずと雖(いえども)、町史の大本を示し、現勢を述べ、自治政の実態を叙し得たることは、三万町民諸氏の前に捧ぐるに躊躇しない。
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これを読んでも分かるが、わずか6ヶ月で出版するには、他資料からの援用が不可欠だったにちがいない。しかも、近藤健蔵は5~6年前まで東京市の職員であり、『豊多摩郡落合町現状調査』の存在は、当時の同僚あるいは来町した調査員から聞いて知っていた可能性が高い。また、だからこそ出版の6ヶ月前、すなわち1932年(昭和7)の2月あたりに執筆を開始し、同年8月の前半に脱稿、8月27日に滝野川で営業していた土井軍平印刷所へと入稿し、8月31日には発行という短い制作リードタイムが可能だったのだろう。
近藤健蔵は、もともと文章を書くのが好きだったのではないか。よく作家たちに「商店を経営するならどんな店?」というような昭和期のアンケートを見かけるが、「(古)本屋」や「文房具屋」と答える人が多かった記憶がある。文房具類は、物書きのもっとも身近な道具だ。彼は元来、文章を書くのも読むのも好きだったからこそ、400ページをゆうに超える『落合町誌』を、わずかな期間で編集できたのかもしれない、そんな気が強くするのだ。
◆写真上:西へ入る道路が山手通りの敷設でつぶされた、寺斉橋南詰めの近藤健蔵が経営する化粧文具店があった上落合721番地あたりの現状。
◆写真中上:東京市による、ガリ版刷りの『豊多摩郡落合町現状調査』の内容。
◆写真中下:上左は、東京市が発行した『豊多摩郡落合町現状調査』(1931年)表紙。上右は、近藤健蔵が出版した『落合町誌』(1932年)函と背。中・下は、『豊多摩郡落合町現状調査』に掲載の落合町地図。1930年(昭和5)7月には西武電鉄の下落合駅Click!は聖母坂の下に移動しているが、同地図では下落合氷川明神前のままになっている。
◆写真下:上は、『落合町誌』の中扉(左)と著者・編者の近藤健蔵(右)。中は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」にみる上落合721番地界隈。下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる上落合721番地で「文具店」のネームが収録されている。
★おまけ
下落合を取材中に近藤健蔵も目にしてたとみられる、大正期から変わらない下落合風景。
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どこまでホントか小原龍海へのインタビュー。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-03-01
上落合1丁目482番地の龍海寺は空襲で焼失し、戦後は上落合1丁目230番地に移転した同寺の小原龍海Click!へ、戦後間もない1950年(昭和25)の夏に取材した雑誌があった。同年に漫画社から発行された、「漫画/見る時局雑誌」7月号だ。 この中で語られていることが、いや多彩な資料類に残され小原龍海の言質として記録されていることが、どこまでが事実でどこからが虚構なのかはまったく不明だ。そもそも、本名としていた小原唯雄さえ偽名だとする長野県松本市小柳町の出身者による証言も残っており、本姓は小原ではなく北陸や信州に多い「海岸(うみぎし)」という苗字だったという。それが、突然「小原」姓になり「華族の養子に入った」と町内に吹聴して歩き、徴兵検査には華族然としたフロックコートを着て現れたという。 また、松本市郊外にあった真言宗の海岸寺(かいがんじ/廃寺)へ「海岸(うみぎし)」の本姓で乗りこみ、自分は寺の跡とりだと称して無理やり同寺の住職に就いたようだ。そして、同寺に残されていたといわれる古文書には、黄金300枚が境内に埋められていると書かれていたと“発表”し、欲に目がくらんだ村人たちを集めては境内のあちこちを発掘してまわった。もちろん、境内からは黄金など1枚も出てこなかった。そして、1928年(昭和3)に海岸寺を放りだし、1体の観音像を手に東京へとやってきている。 この観音像については、前回の記事でも触れたように、東京へやってきた当初は「日本橋の入船町で(略)観音さまを拾った」(昭和初期)として、上落合の自宅を改造した「寺院」の祭壇で奉っていたはずだ。ところが、戦後になると「淀橋のある古道具屋でおふくろにすゝめられて廿円で買った観音像が高村光雲さんの鑑定の結果偶然五百年以上のものと分りとたんに坊主になる気になつたんですよ」(1950年)と、まったく異なる証言をしている。「坊主になる気になつた」のは、「海岸」という本姓を根拠に松本市の海岸寺へ乗りこんだときのはずで、別に観音像を手に入れてからではなかったはずだ。 先述の「漫画/見る時局雑誌」7月号より、小原の証言を少し引用してみよう。 ▼ 幼少のころ御多分にもれずおふくろの『よしの』が近所の占師にあたしの手相を見て貰つたところ、『太閤様とそつくり寸分違わぬ、天下取りの相じや』といわれて喜んだことゝ云つたら、あたしに何度も何度も繰返しましたよ。当時はもつと可愛らしく自分の口か..
気になるエトセトラ
ChinchikoPapa
2024-03-01T23:59:59+09:00
上落合1丁目482番地の龍海寺は空襲で焼失し、戦後は上落合1丁目230番地に移転した同寺の小原龍海Click!へ、戦後間もない1950年(昭和25)の夏に取材した雑誌があった。同年に漫画社から発行された、「漫画/見る時局雑誌」7月号だ。
この中で語られていることが、いや多彩な資料類に残され小原龍海の言質として記録されていることが、どこまでが事実でどこからが虚構なのかはまったく不明だ。そもそも、本名としていた小原唯雄さえ偽名だとする長野県松本市小柳町の出身者による証言も残っており、本姓は小原ではなく北陸や信州に多い「海岸(うみぎし)」という苗字だったという。それが、突然「小原」姓になり「華族の養子に入った」と町内に吹聴して歩き、徴兵検査には華族然としたフロックコートを着て現れたという。
また、松本市郊外にあった真言宗の海岸寺(かいがんじ/廃寺)へ「海岸(うみぎし)」の本姓で乗りこみ、自分は寺の跡とりだと称して無理やり同寺の住職に就いたようだ。そして、同寺に残されていたといわれる古文書には、黄金300枚が境内に埋められていると書かれていたと“発表”し、欲に目がくらんだ村人たちを集めては境内のあちこちを発掘してまわった。もちろん、境内からは黄金など1枚も出てこなかった。そして、1928年(昭和3)に海岸寺を放りだし、1体の観音像を手に東京へとやってきている。
この観音像については、前回の記事でも触れたように、東京へやってきた当初は「日本橋の入船町で(略)観音さまを拾った」(昭和初期)として、上落合の自宅を改造した「寺院」の祭壇で奉っていたはずだ。ところが、戦後になると「淀橋のある古道具屋でおふくろにすゝめられて廿円で買った観音像が高村光雲さんの鑑定の結果偶然五百年以上のものと分りとたんに坊主になる気になつたんですよ」(1950年)と、まったく異なる証言をしている。「坊主になる気になつた」のは、「海岸」という本姓を根拠に松本市の海岸寺へ乗りこんだときのはずで、別に観音像を手に入れてからではなかったはずだ。
先述の「漫画/見る時局雑誌」7月号より、小原の証言を少し引用してみよう。
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幼少のころ御多分にもれずおふくろの『よしの』が近所の占師にあたしの手相を見て貰つたところ、『太閤様とそつくり寸分違わぬ、天下取りの相じや』といわれて喜んだことゝ云つたら、あたしに何度も何度も繰返しましたよ。当時はもつと可愛らしく自分の口からは何ですが芸術的天分があつたというんでしようか、絵、彫刻、音楽何でも好きで美校か音楽学校へ行きたかつたが松本商業に入つた悲しさ、資格がなく明大専門部商科へ入つて上京しました。そこを卒業してヘルマンエンドアレキサンダー株式会社という羊毛輸入会社の東京支店長となり、次いで自分のちつぽけな会社をつくり社長となつたものです。
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どうやら、信州松本には豊臣秀吉の手相を見たことがある占い師が、明治時代まで生きていたようなのだが、ヘルマン&アレキサンダーというドイツの文献学者のような名前を冠した会社も、実際に東京で営業していたかどうかは不明だ。
その後、元・首相だった伯爵・清浦奎吾の八男である、フランスから留学帰りの清浦末雄(当時は陸軍騎兵少尉)と親しくなり、その家庭へ出入りするうちに同じフランス留学組だった、東久邇宮稔彦(当時は陸軍歩兵第三聯隊長)とも親しくなっていったという経緯のようだ。この3人は、「既存の宗教は大嫌い」「宗教改革が必須」という点で意気投合したといわれ、マルクス主義の書籍まで読みまわしていたらしい。このときから、小原龍海は東久邇宮の邸へ自由に出入りするようになったようだ。
二二六事件Click!が起きた1936年(昭和11)の夏、信州の浅間温泉で遊山していた小原龍海は、駒込警察署に詐欺罪と不敬罪の容疑で逮捕された。上落合に龍海寺を建立する計画とともに、有力者たちへ観音像を見せてまわり、東久邇宮をはじめ松井石根(陸軍)、大西瀧治郎Click!(海軍)、山本五十六Click!(海軍)、関屋敏子(声楽家)などから多額の寄付金を集めては生活費や遊興に費やしたという詐欺容疑だった。大西瀧治郎は上落合の近所なので、小原はふだんから訪問していたのかもしれない。
不敬罪の容疑は、東久邇宮からもらった菊紋入りの衣装を着て、横浜鶴見の総持寺へ出向き、随世式(出家し住職になるための儀式)へ出席したという理由からだった。これら一般刑事犯の摘発・検挙は、特高警察Click!(思想を取り締まる高等警察組織)ではなく、通常は捜査二課が担当する事件のはずだが、小原の証言は戦後になると「特高に逮捕され思想・宗教弾圧を受けた」という話にすりかわっていく。
上落合へ龍海寺を建てるために集めた資金は、詐欺罪で逮捕されるころにはあらかた消費してしまったらしく、新たに大口の資金源が必要になった。そこで、トンネル工事で莫大な財産を築き、先代からそれを相続していたケンブリッジ大学卒の星野正一に近づき、142万円を寄進させることに成功している。当時の物価指数にもとづき、現代の価値に換算すると42億円ほどに相当する巨額だ。この資金を元手に、小原は「お堂なんてケチ臭い。ひとつ立派な昭和の代表的建築として残るお寺を建てようと決心」して、自宅近所の上落合1丁目482番地に1,000坪の土地を購入し、周辺住民たちの想像をはるかに超えた豪壮な伽藍(18間四方)が建ち並ぶことになった。
建築材を多めに調達していた小原龍海は、余った部材で建設した住宅を多額の寄付をした星野正一にプレゼントしたが、星野は1939年(昭和14)に召集され海外へ出征したため、空き家になった星野邸を勝手に売却・処分してしまい、そのカネを龍海寺の追加普請費に組みこんでしまった。そこで、1942年(昭和17)に今度は詐欺横領罪で戸塚警察署Click!に再び検挙され、巣鴨拘置所で5ヶ月間も拘留されて有罪となった。だが、1年余の執行猶予がついたため服役はまぬがれている。このとき、曹洞宗の総持寺からも縁切り(破門)をいいわたされている。だが、この事件も戦後のインタビューでは捜査二課による詐欺横領事件ではなく、特高警察による「宗教弾圧」事件にすりかわっていく。
この事件をきっかけに、上落合の龍海寺は詐欺師の坊主Click!が建てた寺として、往来から投石を受けるまでになり、小原龍海は本堂の縁側に日本刀をもちだして、前通りを往来する人々を威嚇していたという。戦局の悪化もあり、小原は広大な龍海寺を軍需省に貸して同省の職員寮とし、自分は東京を離れ茨城県笠間町で、徴用学生たちとレンガ製造工場を運営している。そして、敗戦を迎えると首相になった東久邇宮稔彦のもとへ、再び頻繁に出入りするようになった。
前掲の雑誌「漫画」で小原龍海は、臆面もなく自賛してこんなことをいっている。
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『私はリベラリストです。しかも芸術的です。/彫刻は高村光雲に親しく習つて、もう玄人の域に達しているといわれるし、絵は子供の時からやるし、楽器と来たらマンドリン、ギター、チエロ、ピアノ何でもやります。これでどこか柔くこなされている所が態度に出て、之が人に好かれるのでしよう』『それに医学、経済、法律、哲学何でも読むから経済方面が得意でない東久邇氏に何かと相談を受ける、この間も会社の種類を聞かれたところですよ』(中略) 処が彼の敵は、市井の裏町から身を起して高貴な連中に交る立志伝的怪物が誰も身につけている思わせぶりな断片的教養目次的学問、本は最初の一ページと最後の一句だけ読んで、マルクスの資本論だろうがカントの純粋理性批判だろうが言葉の響だけしか知らないくせに、さも精読したかのようにその一節を連ねて絶え間なくしゃべる、あのデイスインテリの一人とコツピドク彼をくさしている。/小原龍海さんが何故身上残したかの秘密は案外こんな所にあるのかも知れない。
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戦後は、すでに高村光雲の弟子ということにもなっていたようだが、一度だけ会ったことのある人のことを「師匠」「弟子」「先輩」「後輩」「子分」「同窓」「学友」「親友」「友人」と親しげに表現して相手の警戒心を解き信用させるのは、昔もいまも詐欺師の常套手段であることに変わりはない。「ボクは芸能界の〇〇や映画監督の〇〇と親しいから、今度会ったら口をきいといてやるよ」などと口からでまかせをいいながら、いたいけな少女を騙す事件は現代でもたまに聞く。
「禅宗ひがしくに教総本山」の寺兼事務所は、麻布市兵衛町の東久邇宮邸の焼け跡に建設された。ここでも小原龍海は、建設業者への支払いを手形にしてなかなかカネをわたさず、竣工直前にひと悶着を起こしている。建設業者の支店長が、たまたま小原と同郷の松本出身で、彼の前歴や前科をよく知る人物だったため、支払いを受けるまで新築の建物はすべてクギづけして使用禁止にしてしまった。したがって、1950年(昭和25)4月15日の小原龍海から東久邇稔彦への得度式(同教開教式)は、「総本山」では実施することができなかった。
◆写真上:いわゆる「高輪御殿」といわれた、高輪3丁目の広大な東久邇宮邸跡(一部が現・高輪の森公園)で、西武鉄道へ売却後はホテルの施設だらけだ。
◆写真中上:上・中は、いまも上落合に残る龍海寺の大谷石による旧境内の築垣。下は、山手大空襲で焼け戦後に130mほど北東へ移動した上落合の龍海寺跡。
◆写真中下:上は、1950年(昭和25)に発刊された「漫画/見る時局雑誌」7月号(漫画社)による小原龍海へのインタビュー記事。中は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる龍海寺の焼け跡。撮影の角度から、北側には大谷石による高い築垣が見えている。下は、高輪の東久邇宮邸の庭園跡とみられるエリアに残る古墳状のふくらみ。
◆写真下:上は、前掲の「漫画/見る時局雑誌」7月号に掲載されたコラム。中左は、麻布市兵衛町にあった東久邇邸の門に掲げられた「禅宗ひがしくに教総本山」。中右は、1958年(昭和33)に撮影された教祖の東久邇稔彦。下は、「ひがしくに教」の得度式(開教式)。
★おまけ
高輪は東側が東京湾に向いたバッケ状の地域で、どこか下落合の地形に似ている。空襲の被害が比較的少なかったせいか、明治期から戦前までの近代建築があちこちに残っている。上から下へ、1924年(大正13)築の西洋館から下っていく高輪の典型的なバッケ階段、ヴォーリズClick!設計の旧・朝吹邸、ロールスロイスが停まっていた旧・竹田宮邸、目の前が交番の旧・高松宮邸、そして1933年(昭和8)築の高輪消防署。
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第三文化村の須藤福次郎邸を拝見する。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-02-27
設計上は和洋折衷館だが、外観がほとんど和館という意匠は、目白文化村Click!の住宅ではむしろめずらしいだろう。洋間は、玄関を入ってすぐ左手(北側)に位置する8畳大の応接室のみで、あとの生活空間はすべて畳敷きの日本間構成となっている。下落合667番地の第三文化村に建っていた、会社役員の須藤福次郎邸だ。 この住宅が特異なのは、西側の門や玄関のある八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)から見ると1階建ての平屋なのだが、西ノ谷(不動谷)Click!側から見あげると2階建てに見えることだ。つまり、西ノ谷(不動谷)に面した東側の急斜面を削って地階を設置し、実質上は2階建ての住宅となっている点だろう。地階は4部屋を除き、まるで清水寺の舞台のように太い柱が多数設置され、1階部分の居住空間を支える構造となっている。 須藤邸が、第三文化村における最南端の敷地に建設されたのは、1926年(大正15)の遅い時期だと思われる。同年も押しつまった12月に、帝国建築協会から出版された「世界建築年鑑」第6号に竣工後の写真や図面が収録されており、須藤家が入居した直後に撮影されていると思われる。設計は猪巻貫一で、施工したのは以前にこちらの記事でもご紹介した、第一文化村の外れで営業していた下落合1536番地の宮川工務所Click!だ。同工務所の社屋は、目の前に拡がる目白文化村や箱根土地本社Click!にアピールするためか西洋館の意匠だが、須藤邸のような純日本家屋の建設も得意だったらしい。 第三文化村の南側は、西ノ谷(不動谷)をはさんで東西に細長く南へとつづく敷地で、大正末には西側の丘上にはすでに住宅が建てられていたが、谷間をはさんだ東側にはすでに住宅敷地は造成されていたものの、なかなか住宅が建設されなかった。敷地の東側に青柳ヶ原Click!の丘陵があったため、午前中もかなり時間がたたないと陽光が射しこまず、それが住宅建設の遅れた要因だろう。あるいは、投機目的で敷地は売れていたものの、条件が悪くてなかなか転売できなかったものだろうか。1931年(昭和6)に、国際聖母病院Click!と聖母坂Click!を建設するため青柳ヶ原の上部が大きく削られてからは、陽射しの障害がなくなり1940年(昭和15)ごろから住宅が次々と建ちはじめている。 須藤福次郎邸の敷地は、1935年(昭和10)ごろになると銀座ワシントン靴店Click!の創業者・東條舟..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-02-27T23:59:59+09:00
設計上は和洋折衷館だが、外観がほとんど和館という意匠は、目白文化村Click!の住宅ではむしろめずらしいだろう。洋間は、玄関を入ってすぐ左手(北側)に位置する8畳大の応接室のみで、あとの生活空間はすべて畳敷きの日本間構成となっている。下落合667番地の第三文化村に建っていた、会社役員の須藤福次郎邸だ。
この住宅が特異なのは、西側の門や玄関のある八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)から見ると1階建ての平屋なのだが、西ノ谷(不動谷)Click!側から見あげると2階建てに見えることだ。つまり、西ノ谷(不動谷)に面した東側の急斜面を削って地階を設置し、実質上は2階建ての住宅となっている点だろう。地階は4部屋を除き、まるで清水寺の舞台のように太い柱が多数設置され、1階部分の居住空間を支える構造となっている。
須藤邸が、第三文化村における最南端の敷地に建設されたのは、1926年(大正15)の遅い時期だと思われる。同年も押しつまった12月に、帝国建築協会から出版された「世界建築年鑑」第6号に竣工後の写真や図面が収録されており、須藤家が入居した直後に撮影されていると思われる。設計は猪巻貫一で、施工したのは以前にこちらの記事でもご紹介した、第一文化村の外れで営業していた下落合1536番地の宮川工務所Click!だ。同工務所の社屋は、目の前に拡がる目白文化村や箱根土地本社Click!にアピールするためか西洋館の意匠だが、須藤邸のような純日本家屋の建設も得意だったらしい。
第三文化村の南側は、西ノ谷(不動谷)をはさんで東西に細長く南へとつづく敷地で、大正末には西側の丘上にはすでに住宅が建てられていたが、谷間をはさんだ東側にはすでに住宅敷地は造成されていたものの、なかなか住宅が建設されなかった。敷地の東側に青柳ヶ原Click!の丘陵があったため、午前中もかなり時間がたたないと陽光が射しこまず、それが住宅建設の遅れた要因だろう。あるいは、投機目的で敷地は売れていたものの、条件が悪くてなかなか転売できなかったものだろうか。1931年(昭和6)に、国際聖母病院Click!と聖母坂Click!を建設するため青柳ヶ原の上部が大きく削られてからは、陽射しの障害がなくなり1940年(昭和15)ごろから住宅が次々と建ちはじめている。
須藤福次郎邸の敷地は、1935年(昭和10)ごろになると銀座ワシントン靴店Click!の創業者・東條舟壽(たかし)の実弟が、屋敷を建てて住んでいたとうかがっているので、須藤邸は建設からわずか10年ほどしか建っていなかったことになる。1936年(昭和11)撮影の空中写真や、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照するとすでに東條邸が確認できるので、仕事の関係から須藤家は新築の家を手放しどこかへ転居しているのだろう。
須藤福次郎は、第三文化村に自邸を建てたころ日本果実工業社の取締役に就任していたが、1935年(昭和10)にはすでに日和通鉱社の取締役に移籍しており、その後、自身で起業したとみられる日本鉱発社の代表に就任している。ひょっとすると、1935年(昭和10)ごろに日和通鉱社を退社して独立し、日本鉱発社を設立する際、その資金調達のためにせっかく建てた自邸を売却しているのかもしれない。
1926年(大正15)の暮れに、帝国建築協会から出版された「世界建築年鑑」第6号に収録の、竣工した「須藤福次郎邸」の説明文から引用してみよう。
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東京府下落合町字落合(ママ:下落合)第三文化村 須藤福次郎邸
同建築物は省線電車目白駅の西北(ママ:西南西)約八丁の地点に在り附近一帯文化住宅を以て一村を作り震災後郊外文化村として面目を一新す 俗に目白文化村又は落合文化村(ママ)とも云ふ 其の内同邸は第三区文化村(ママ)に在り地面の傾斜せるを適当に応用して地下室となし研究室、見本室、書斎、物置等となす 外観美しく室内間取の最も宜しき点多し 応接室は洋式にして居間次の間客間茶の間等は純日本式とす。(カッコ内引用者註)
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文中では、「震災後郊外文化村として」と書かれているが、もちろん下落合の目白文化村や近衛町Click!、あるいは落合第一・第二府営住宅Click!は関東大震災Click!以前から建設されている。また、松下春雄Click!が画題にしたように「下落合文化村」Click!という表現は地元でも聞いたことがあるが、「落合文化村」はあまり聞かないネームだ。
玄関を入ると、左手が洋間の応接室だったことは先述したが、突きあたりの廊下を右に折れると右手(西側)に板張りの台所があり、つづいて8畳の茶の間がある。おそらく、家族はこの茶の間で食卓を囲んだのだろう。茶の間からは、浴室へと入ることができた。また、茶の間を突っきると、庭に面した南側の広い廊下へと抜けることができた。この廊下の右手(西側)には、トイレへの入口があり、トイレは小用と大用に分かれていた。
玄関を入り、廊下の向かいには3畳の狭い女中部屋とトイレがあり、廊下を南へ歩くと左手(東側)には床のある居間(8畳)に次の間(8畳)、そして床のある客間(8畳)がつづいている。客間は、玄関つづきの廊下からは直接入れず、次の間あるいは茶の間を抜けると入室することができた。この中で、いちばん南側に面し広い廊下に接している客間が、もっとも陽当たりがよく快適な空間だったと思われる。須藤邸の敷地は広いので、南側の広い廊下から眺める庭園も、和式の凝った造りをしていたのかもしれない。
また、地階は屋内の階段から下りるのではなく、庭を東側へまわると両開きのドアから入ることができたようだ。地階には12畳大の研究室、8畳大の書斎、同じく8畳大の物置、そして3畳大の見本室を利用することができた。書斎や見本室は、それぞれ研究室を通らないと利用できないが、物置は研究室からではなく、応接室や女中部屋のある北側からまわると入口のドアが設置されていたようだ。
さて、須藤福次郎は研究室や見本室、書斎などでなにを研究していたのだろうか。のちに、鉱業系の企業の取締役へ就任しているところをみると、なにか鉱物関連の研究開発あるいは採集を行っていたのかもしれない。研究室の隣りに見本室が設置されているのも、なにか鉱物関連の成果や採集した標本を展示して訪問客に見せる部屋だったものか。これら地階の部屋は、西ノ谷(不動谷)の急斜面を利用して設計され、東側に面して大きめな窓がいくつも並んで穿たれていたため、昼間なら十分な採光が得られただろう。だから、“地下”の部屋という雰囲気は、まったくしなかったにちがいない。
目白文化村の第三文化村Click!は、1924年(大正13)に売り出されたが、早々に全敷地が売約済みとなったにもかかわらず、なかなか住宅が建設されなかった。つまり、関東大震災後に投機目的の“不在地主”が、郊外住宅敷地の買い漁りをしていた時期と販売が重なったため、土地投機の対象にされたからだ。だが、西ノ谷(不動谷)に面した西側の尾根筋、すなわち八島さんの前通りClick!(星野通り)沿いは、大正末から次々と邸宅が建設されている。1926年(大正15)の時点で、北から南へ広い敷地に建つ大塚邸、〇あ井邸(1文字不明)、そして須藤福次郎邸の3棟だ。
けれども、10年後の昭和10年代になると、これらの邸宅はすでに解体されて、同じく北から南へ吉田博・ふじをアトリエClick!、佐久間邸、そして東條邸へと建て替えられている。その間には、金融恐慌や世界大恐慌をはさんでいるので、他の目白文化村内でも住民の動きが激しい時期だが、須藤邸は1935年(昭和10)ごろまでそのままだったとみられるため、恐慌の影響ではなく別の理由から転居しているのではないかと想定している。
ここで、面白いことに気がついた。広い須藤福次郎の南側に接しているのは、佐伯祐三Click!がときどき訪問していた笠原吉太郎アトリエClick!だ。同アトリエを訪問しなくても、佐伯祐三は散歩の途中で、建設工事中の須藤邸はよく見かけて知っていただろう。ときに大工たちの仕事を、飽きずにジッと眺めていたかもしれない。つまり、佐伯は工事中の須藤邸へ入りこんで、または竣工して須藤家が転居してくる以前の、まだ無人だった同邸の北側敷地に入りこんで、「下落合風景」シリーズClick!の1作『目白の風景』Click!を仕上げているのではないかという可能性だ。
あるいは、須藤一家が住みはじめてから、ひとこと須藤家へ断りを入れて邸の北側にイーゼルを立てているのではないか。なぜなら、『目白風景』の手前(画面下)を観察すると、佐伯の背後になんらかの建築物があり、画家が立つ位置へ影を落としているのが明らかだからだ。この“影”が、建設途中の須藤邸か竣工後の同邸かは不明だが、少なくとも1926年(大正15)の暮れには完成していたと思われるので、おそらく同年の晩秋以降に制作された可能性が高い。そして、以前の記事でも触れたが、周囲の草木の様子から冬の情景のようにも思えるので、1926年(大正15)の冬あるいは翌1927年(昭和2)の冬ないし早春のころの仕事のように思える。
佐伯祐三は、須藤邸の玄関引き戸をガラガラっと開けると、西ノ谷(不動谷)に面した敷地内で写生をしてもいいかどうか訊ねた。須藤福次郎は出社して不在であり、女中が取り次いで応対したのは奥さんだったろう。夫人は、聞き慣れない関西弁にとまどいながら、汚らしい格好Click!をした絵の具の染みだらけの佐伯を、頭の先からつま先までジロジロ眺めたあと、「よござんすよ。Click! でも、そこらを汚さないでくださいましな」とでも答えたかもしれない。「1時間ほどでっさかい、よろしゅう頼んますわ」という佐伯の息が、まだ陽が当たらず西側の玄関で蔭っているせいか白かった……そんな情景を想像してしまうのだ。
◆写真上:1926年(大正16)の暮れ、第三文化村に建設された須藤福次郎邸。
◆写真中上:上は、須藤邸の居間。中上は、同じく客間。中下は、同邸の応接室。下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる須藤福次郎邸。須藤邸の敷地は広く、母家のあった側が下落合667番地で南側の庭が678番地だった。
◆写真中下:上は、須藤邸の1階平面図。中上は、同邸の地階平面図。中下は、同邸の八島さんの前通りと谷間に面した側面図。下は、南北の側面図。
◆写真下:上は、須藤邸跡の現状(画面左手)。中は、1926~1927年(大正15~昭和2)の冬に制作されたとみられる佐伯祐三『目白の風景』。下は、写生中の佐伯祐三。
★おまけ
1938年(昭和13)の「火保図」にみる、西ノ谷(不動谷)に面した第三文化村の邸宅で、すでに3棟とも建て替えられている。下は、西ノ谷(不動谷)に面した須藤邸跡(画面左手)。
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落合とは反対側の渋谷を描く花沢徳衛。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-02-24
これまで拙サイトでは、落合地域やその周辺域を流してまわる物売りClick!について、大正期から現代にいたるまであちこちの記事Click!でご紹介Click!してきた。おそらく、伝承されたり記録に残っているのはごく一部のみで、そのほかにも数多くの物売りがふれ歩きしていたのではないかと想像している。今回は、従来の記事に登場してこなかった、東京近郊におけるふれ歩き商売について書いてみたい。 参照するのは、落合地域と同じ東京郊外の住宅街として発展し、新宿駅をはさみちょうど反対側にあたる渋谷地域における大正期の記録だ。神田生まれで渋谷に育ち、斎藤与里Click!へ師事した洋画家で俳優の、ここは花沢徳衛に登場してもらおう。1987年(昭和62)に新日本出版社から刊行された花沢徳衛『幼き日の街角』から、彼自身の挿画でご紹介したい。同書は、季節を追って正月にはじまり年間を通じて、おもに大正期の渋谷の街角で見られた風俗や、季節の風物詩を追いかける構成になっている。 花沢徳衛がようやく物心ついたころの渋谷風景を、同書より引用してみよう。 ▼ 私は一九一一年東京神田の生まれ。「へェ神田ッ児ですか」なんてよくいわれるが、私が物心ついた頃、一家は渋谷に住んでいたから、神田のことはまるで知らない。私は自分の故郷は渋谷だと思っている。しかし現今の渋谷はあまりにも様変りが激しく、故郷として懐かしむよすがもない。そこで、私が幼い頃街角で見かけた風物を、想い出しては描いたのがこの絵本である。/私たち一家が渋谷で住んでいたのは、豊多摩郡と荏原郡の境を流れる三田用水に近い、東京府下豊多摩郡渋谷町大字中渋谷六七六番地(現渋谷区神泉)の地で、少し駅に向って歩けば荒木山(現円山)の色街があり、三田用水を渡って駒場に出れば、輜重兵第一大隊、近衛輜重兵大隊、騎兵第一聯隊と兵隊屋敷が並び、世田谷には砲兵旅団があったから、渋谷は馬と兵隊の通行のはげしい町だった。 ▲ 花沢徳衛は神田生まれだが記憶がないため、江戸東京の習慣Click!にしたがえば自身のことを「渋谷っ子」と規定していた。彼は「中渋谷676番地(現渋谷区神泉)」と書いているが、同番地は現・渋谷区円山町23番地で、「神泉」は京王井の頭線の最寄りの駅名だ。神泉の谷から、南の丘上に通う道沿いが中渋谷676番地にあたる。もちろん、いまだ神泉駅など存在せず、彼のいう「駅に向って歩けば」は、自宅から道玄坂上にで..
気になるエトセトラ
ChinchikoPapa
2024-02-24T23:59:59+09:00
これまで拙サイトでは、落合地域やその周辺域を流してまわる物売りClick!について、大正期から現代にいたるまであちこちの記事Click!でご紹介Click!してきた。おそらく、伝承されたり記録に残っているのはごく一部のみで、そのほかにも数多くの物売りがふれ歩きしていたのではないかと想像している。今回は、従来の記事に登場してこなかった、東京近郊におけるふれ歩き商売について書いてみたい。
参照するのは、落合地域と同じ東京郊外の住宅街として発展し、新宿駅をはさみちょうど反対側にあたる渋谷地域における大正期の記録だ。神田生まれで渋谷に育ち、斎藤与里Click!へ師事した洋画家で俳優の、ここは花沢徳衛に登場してもらおう。1987年(昭和62)に新日本出版社から刊行された花沢徳衛『幼き日の街角』から、彼自身の挿画でご紹介したい。同書は、季節を追って正月にはじまり年間を通じて、おもに大正期の渋谷の街角で見られた風俗や、季節の風物詩を追いかける構成になっている。
花沢徳衛がようやく物心ついたころの渋谷風景を、同書より引用してみよう。
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私は一九一一年東京神田の生まれ。「へェ神田ッ児ですか」なんてよくいわれるが、私が物心ついた頃、一家は渋谷に住んでいたから、神田のことはまるで知らない。私は自分の故郷は渋谷だと思っている。しかし現今の渋谷はあまりにも様変りが激しく、故郷として懐かしむよすがもない。そこで、私が幼い頃街角で見かけた風物を、想い出しては描いたのがこの絵本である。/私たち一家が渋谷で住んでいたのは、豊多摩郡と荏原郡の境を流れる三田用水に近い、東京府下豊多摩郡渋谷町大字中渋谷六七六番地(現渋谷区神泉)の地で、少し駅に向って歩けば荒木山(現円山)の色街があり、三田用水を渡って駒場に出れば、輜重兵第一大隊、近衛輜重兵大隊、騎兵第一聯隊と兵隊屋敷が並び、世田谷には砲兵旅団があったから、渋谷は馬と兵隊の通行のはげしい町だった。
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花沢徳衛は神田生まれだが記憶がないため、江戸東京の習慣Click!にしたがえば自身のことを「渋谷っ子」と規定していた。彼は「中渋谷676番地(現渋谷区神泉)」と書いているが、同番地は現・渋谷区円山町23番地で、「神泉」は京王井の頭線の最寄りの駅名だ。神泉の谷から、南の丘上に通う道沿いが中渋谷676番地にあたる。もちろん、いまだ神泉駅など存在せず、彼のいう「駅に向って歩けば」は、自宅から道玄坂上にでて電車道を通り、600~700mほどでたどり着ける山手線・渋谷駅のことだ。
渋谷は落合と同じく豊多摩郡に属しており、ちょうど花沢徳衛が物心つくころの、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)によれば、渋谷の人口は70,057人(16,494戸)であり、同時期の落合は1,292人(237戸)なので、よほど渋谷のほうが郊外住宅地として拓けるのが早く、すでに市街地が形成されていた様子がわかる。だからこそ、多種多様なふれ売りが各地から集合してきたのだろう。ちなみに、新宿駅のある当時の淀橋町は28,812人(6,933戸)で、渋谷のほうが市街地化が早かった様子がわかる。
さて、正月は江戸の馬鹿囃子(ばかっぱやし)とともに獅子舞いClick!がやってくるのは同じだが、落合地域ではあまり聞かない物売り・ふれ売りをご紹介したい。まるで祭りのような派手な衣装を着た男女が5~6人、家財道具のような荷物を積んだ大八車Click!でやってきて、往来や店先など場所もかまわず、いきなり餅つきをはじめる「粟餅や」が渋谷に現れている。落合地域では聞かないが、親父Click!からは日本橋の昔話とともに聞かされた江戸期からつづく商売だ。その様子を、同書より引用してみよう。
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(前略)せいろを仕掛けたへっついには火がはいったままで、煙をなびかせてやってきて、営業中の商家の前でもかまわず、総がかりで手早く荷を降ろして店を開く。/店先をふさがれた商家でも、そこは東京市内とちがい郊外の町のこと、一刻店先がにぎやかになっていいや、とばかり平気である。/やがて鳴物入りで歌を唄いながら餅つきがはじまる。見物人が道にあふれ、往来もくそもあったものではない。一商売すますと「おやかましゅう」と一言残して、さっと消えて行く。
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この「粟餅や」には子連れもあり、親父の話では子どもたちに派手な服を着せては、音曲にあわせて躍らせるケースもあったようだ。ひょっとすると、東京市内からの転居者も多かった落合町にも、大正後期には姿を見せていたかもしれない。
「子どもだまし」も、小学校の門前に姿を見せている。香具師(やし)あるいはテキヤと呼ばれる露天商は、わたしの子どものころにもいて校門前に見世を拡げていたが、学校かPTAかは忘れたけれど、「買ってはいけません」というお触れがでたことを記憶している。
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小学校の先生のような背広を一着に及び、子どもたちが前に立つと、ペン先がガラスでできた万年筆を一本取り上げ、いきなりあき缶の底にたたき込み、缶の底をガラスペンで穴だらけにしてしまう。次にそのペンで紙にすらすらと丸や直線を書いて見せる。万年筆は子どもたちの憧れの品である。買って帰ると、インクがボタボタ出すぎたり出なかったりで使い物にならなかった。/X光線というのを売る奴がいた。径二センチの長さ一〇センチほどの黒いクロスを張ったボール紙の筒にレンズが付いている。これを使えば何でも透視できるというのだ。買って帰ると、何を見ても外見とはちがうモヤモヤした物が見える。こわして見たら中に鳥の羽根がはいっていた。
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「これ、不良品だよ!」と、校門前の「子供だまし」にクレームを入れようとするが、下校時間をすぎればとうにどこかへ消えている。見つけたとしても、「そりゃ悪かった、新しいのをあげる」といって交換するが、間をおかず尻に帆かけて逃亡するのだろう。テキヤと同じで、それでも文句をいおうものなら、「万年筆が5銭で買えるか!」などと開き直ったりするので、子どもたちにとっては興味津々だが怖い対象でもあっただろう。
渋谷には、市内と同様に角兵衛獅子もやってきたようだ。これも江戸期からの風物詩で、はるばる越後(新潟県)から農閑期に出稼ぎでやってくる人たちだったが、明治以降は専門職として成立していたのだろう。たいがいふたり以上の子どもを連れていて、太鼓にあわせ子どもたちに曲芸のような獅子舞いを踊らせる。
大正期には、困窮する農村から売られてきた子も多く、親方からアクロバットのような芸をきびしく仕込まれ、悲惨な生活を送る子も少なくなかったにちがいない。食事さえ満足にさせてもらえず、やせ細った子どもたちに同情して見物客は財布のヒモをゆるめるのだが、それが親方のつけ目でもあった。もちろん、子どもたちは小学校へなど通っていない。
渋谷にも、富山の薬売りClick!はやってきている。中には、ツキノワグマの剥製を背負って歩く富山の胆売りもいたようで、子どもたちはもう嬉しくてパニックのような騒ぎになっただろう。子どもたちは、富山から歩いてくるものとばかり思っていたようだが、団体で汽車に乗り東京へ着くと、決められたテリトリーへそれぞれ散開していったらしい。現代の富山の薬売りは、もちろん最寄りの東京支社・支店からやってくる。
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「奥州仙台さい川の名産孫太郎虫――」何の薬か分らないが、孫太郎という人が川で死んだ時、遺体にたくさんついていた虫だというのを聞いて気味悪かった。/熊の胆売りは、自分の商品が正真正銘の物であることを印象づけるため、暑さの中をご苦労にも熊の剥製を背負って歩いていた。/特殊構造の天秤棒で細長い薬ダンスを担ぎ、ガチャガチャ、リズミカルな音をたてて歩く定斎やさん。この人たちは決して被り物をかぶらない。この薬を飲んでいれば、決して暑さに負けない、といいたいのである。
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東京市内には、官設の消防署があったが郡部の渋谷にはなく、落合地域とまったく同様に鳶職を中心とした消防組Click!が組織されていた。江戸期と同じ印半纏に猫頭巾という姿で、消防ポンプはあったが纏(まとい)もちが先頭をきって走っていた。
「ほうかいや」も門口にきては、さまざまな芸を見せていたようだ。「ほうかいや(法界屋)」は全国を流浪する旅芸人のことで、演歌師とも呼ばれていたようだが、わたしは見たことがないし知らない。また、落合地域の資料にも記録が見えない。八木節や安来節など有名な民謡を奏でながら、小さな子どもたちに踊らせては駄賃をとる、角兵衛獅子に近い芸人たちだったようだ。楽器も三味線や月琴、胡弓、尺八、太鼓などさまざまで、江戸期から街中にいた新内流しClick!の門づけのような存在だったのだろう。
新聞の号外売りは、なにか事件があればどこの街でも新聞店から大きな鈴を腰につけて走りでてたろうが、大正期ともなれば宣伝屋もよく姿を見せるようになる。「♪ラ~メちゃんたらギッチョンチョンでパイのパイのパ~イ」はわたしもすぐに唄えるが、1918年(大正7)ごろにつくられエノケンClick!が浅草で唄って大ヒットした『東京節』Click!だ。親父が風呂場などで口ずさんでいるのを聴いて、いつのまにか自然に憶えたのだが、親父が生まれるかなり以前の曲なので、おそらく祖父母あるいは年長のオトナから教わったのだろう。宣伝広告屋のBGM(客寄せ歌)として、街中ではよく使われていたようだ。
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一九二一年初夏のある日、裏長屋に住んでいた九歳の私は、突然表通りから聴こえてくる大音響にビックリして飛び出した。表通りへ出て見ると、それは「ギッチョンチョン」とは全く関係のない化粧品の広告で、馬力とよばれていた荷馬車を大きな箱で擬装し、それに広告文が書かれ、音は箱の上に仕掛けた拡声器から出ていた。
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落合地域にも、「♪ラ~メちゃんたらギッチョンチョン」の広告屋がきたかどうかは証言がないので不明だが、大正期に新宿で開店していたカフェ「ブラジル」の広告ビラを、上空から撒いていた飛行機が目白学園Click!の校庭に墜落Click!しているほどなので、おそらく「♪パ~リコとバナナでフライフライフラ~イ」もきているのではないか。ちなみに、連れ合いや友人たちに訊いてみたら「♪ギッチョンチョンでパイのパイのパ~イ」と難なく唄えたので、祖父母の世代から広く東京じゅうで唄い継がれてきた曲ではないだろうか。
上記の『東京節』の動画にも登場するが、渋谷にはラオ屋も頻繁にきている。もっとも、下落合にある飯田高遠堂Click!の前で、わたしはピーーッと蒸気音を景気よく鳴らす小型トラック仕様のラオ屋を見かけているので、いまでも下落合・目白地域にはキセルの愛好者がいるのだろう。渋谷には、幕府の鷹匠の末裔である「鳥刺し」もきているが、幕府鷹狩り場Click!で野鳥も多い御留山Click!のある下落合にも、鳥刺しはやってきているにちがいない。
◆写真上:江戸期に将軍鷹狩り用のタカの生餌を捕まえた幕府鳥刺しは、明治になると野鳥を捕獲して売る小鳥屋へ転職した。以下、挿画はすべて花沢徳衛。
◆写真中上:上・中上は、粟餅屋と子どもだまし。中下は、1911年(明治44)作成の「渋谷町全図」にみる花沢宅位置。下は、現在の同番地界隈(画面左)。
◆写真中下:上・中上は、江戸期から街中ではお馴染みの角兵衛獅子と多彩な意匠でやってくる富山の薬売り。中下・下は、ほうかいや(法界屋)と渋谷町消防組。
◆写真下:上・中は、「ギッチョンチョン」の広告屋といまでも見かけるラオ屋。下は、1987年(昭和62)出版の花沢徳衛『幼き日の街角』(新日本出版社/左)と著者(右)。
★おまけ
子どものころTVを観ていると職人の親方や大工の棟梁、ガンコな爺さん、老舗の職人、ベテランの刑事などで頻繁に登場した花沢徳衛。かなり歳をとってからのバイプレーヤーの姿しか知らないが、若いころから洋画家をめざしていて個展も何度か開催しているらしい。
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ずっと女性が気がかりな林泉園の青柳有美。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-02-21
秋田県の出身で、関口教会Click!(東京カテドラル聖マリア大聖堂)で神父をつとめながら、明治女学校Click!の教師として女学生たちに教え、巌本善治Click!とともに女学生の専門誌「女学雑誌」を刊行していた人物に青柳有美がいる。その後、実業之世界社に入社し、雑誌「女の世界」を刊行する編集責任者となった。 「女の世界」は、男も買って読む女性誌として特殊な人気があり、女性の性や恋愛、生理、私生活などについてコト細かに取材・観察した記事内容となっている。拙ブログでは、「女の世界」に出稿した宮崎モデル紹介所Click!の広告を見て応募し、中村彝Click!のアトリエでモデルになった小島キヨClick!のエピソードをご紹介している。そして、小島キヨは辻潤Click!と結婚して落合地域で暮らすことになる。 その後、青柳有美は新聞記者などをへて東邦電力社員となり、下落合367番地の「近衛新町」Click!へ松永安左衛門Click!が開発した林泉園住宅地Click!に住み、さまざまな著作の執筆生活に入ることになった。大正末ごろに下落合へ転居してきて、1936年(昭和11)ごろまで住んでいたようだ。前回ご紹介した菊地東陽邸跡Click!から、南東へ直線距離で170mほどのところの西洋館にいた。職業の肩書としては、「東邦電力社員」のほか「文筆業」「恋愛評論家」「女性修身教育家」「女性評論家」などと呼ばれていたようだ。 また、その著作というのが『女学生生理』(1909年)をはじめ、『世界の新しいふらんす女』(1913年)、『最新結婚学』(1915年)、『女の裏おもて』(1916年)、『男女和合の秘訣』(同)、『女の話と男の話(お夏清十郎 恋の姫路)』(1917年)、『新性慾哲学』(1921年)、『女征伐』(同)、『接吻哲学』(同)、『恋愛読本』(1926年)……などなど、およそ女性をテーマにした妙な本を数多く執筆し、ほとんど“変態”ではないかと思うような文章を残している、落合地域ではめずらしい物書きだ。 「名古屋女」の筋肉や皮下脂肪について、ちょうどよい具合だと研究してみた、1913年(大正2)に明治出版社より刊行された青柳有美『日本美人論』から引用してみよう。 ▼ 日本の地図を披(ひら)いて見ると、名古屋地方は北海道を頭とし九州を尾にして居る本土の中央にある。東京になると早や北に片寄り過ぎる。京都になつても、モウ南に寄り過ぎ..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-02-21T23:59:59+09:00
秋田県の出身で、関口教会Click!(東京カテドラル聖マリア大聖堂)で神父をつとめながら、明治女学校Click!の教師として女学生たちに教え、巌本善治Click!とともに女学生の専門誌「女学雑誌」を刊行していた人物に青柳有美がいる。その後、実業之世界社に入社し、雑誌「女の世界」を刊行する編集責任者となった。
「女の世界」は、男も買って読む女性誌として特殊な人気があり、女性の性や恋愛、生理、私生活などについてコト細かに取材・観察した記事内容となっている。拙ブログでは、「女の世界」に出稿した宮崎モデル紹介所Click!の広告を見て応募し、中村彝Click!のアトリエでモデルになった小島キヨClick!のエピソードをご紹介している。そして、小島キヨは辻潤Click!と結婚して落合地域で暮らすことになる。
その後、青柳有美は新聞記者などをへて東邦電力社員となり、下落合367番地の「近衛新町」Click!へ松永安左衛門Click!が開発した林泉園住宅地Click!に住み、さまざまな著作の執筆生活に入ることになった。大正末ごろに下落合へ転居してきて、1936年(昭和11)ごろまで住んでいたようだ。前回ご紹介した菊地東陽邸跡Click!から、南東へ直線距離で170mほどのところの西洋館にいた。職業の肩書としては、「東邦電力社員」のほか「文筆業」「恋愛評論家」「女性修身教育家」「女性評論家」などと呼ばれていたようだ。
また、その著作というのが『女学生生理』(1909年)をはじめ、『世界の新しいふらんす女』(1913年)、『最新結婚学』(1915年)、『女の裏おもて』(1916年)、『男女和合の秘訣』(同)、『女の話と男の話(お夏清十郎 恋の姫路)』(1917年)、『新性慾哲学』(1921年)、『女征伐』(同)、『接吻哲学』(同)、『恋愛読本』(1926年)……などなど、およそ女性をテーマにした妙な本を数多く執筆し、ほとんど“変態”ではないかと思うような文章を残している、落合地域ではめずらしい物書きだ。
「名古屋女」の筋肉や皮下脂肪について、ちょうどよい具合だと研究してみた、1913年(大正2)に明治出版社より刊行された青柳有美『日本美人論』から引用してみよう。
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日本の地図を披(ひら)いて見ると、名古屋地方は北海道を頭とし九州を尾にして居る本土の中央にある。東京になると早や北に片寄り過ぎる。京都になつても、モウ南に寄り過ぎだ。名古屋地方は実に日本々土の中央で全く中京である。随(したがつ)て、名古屋女の筋肉は南方人の如くカラカラして固つても居らねば、又北方人の如く多量の皮下脂肪に覆はれて、ダブダブしても居らず、肥らず痩せずといふ中庸を得て居ることになる。(中略) 名古屋女の筋肉の発達が、巧に中庸を得て過不足無く、肥つているやうでも緊縮(しま)つたところがあり、観る眼に美しく感ぜらるゝのは無理も無い。(カッコ内引用者註)
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こんな文章がエンエンとつづき、「名古屋女」の筋肉や皮下脂肪がひきしまってちょうどよく、ほかにも別々の章立てで「顎」「唇」「鼠歯」「肌」「皮膚」「鼻」「声」「言葉」「指」「額」「眼」「白膜」「髪」「尻」「胸」「足」はては排泄物と研究が進み、おしなべて「美人」だから具合がいいのだという「研究論文」となっている。
おそらく、名古屋の新聞社に就職した際、名古屋の女性とつき合いでもしたのだろうか、そのときに味わった感想をそのまま文章化しているようにさえ思える。これを、明治女学校の教師であり、関口教会の神父をつとめていた人物が書いているのだから、「変態教師」で「変態神父」だったのではないかと、あらぬ想像してしまうのだ。
このように、女性が気になって気になってしかたがない、「筋肉フェチ」か「皮下脂肪(ふくらみ)フェチ」の「美人論」者かと思いきや、妙なところで「女修身」などをもちだして、朝鮮半島の儒教倫理・道徳のようなことをふりまわして蔑視し、それを押しつけようとするので大の「女好き」だけれども、おそらく「女性礼賛者」では決してないのだろう。
ところが、そのわずか4年後の1916年(大正5)に広文堂書店から出版された『人情論』では、あれだけ全身から排泄物までベタ褒めしていたはずの「名古屋女」は、「魯鈍」で「ダラシな」く、「ドス黒き顔」をして「肉」ばかりということにされており、「三河女」こそが素晴らしい女ということになっている。同書より、少しだけ引用してみよう。
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三河女は智的表情に富めり。名古屋女の如く、魯鈍してダラシなき相貌を有するものに非ず。その飽くまでも智的にして、顔面に鋭敏なる組織と表情とのあるは、是れ実に三河女の特色なり。(中略) 三河女の皮膚の色は、其マレー乃至土蜘蛛血液の不足なるだけそれだけ、名古屋女よりも白し。名古屋女の如きドス黒き顔色は、之を三河女に見るべからず。
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「名古屋女」は、すでに「土蜘蛛(つちぐも)」Click!の血が色濃く流れているなどとされてしまい、「三河女」の肌や身体、顔つきこそが白くて美しいということになり、もう途方もなくメチャクチャな内容の「研究論文」となっている。これを素直に解釈すれば、好きだった「名古屋女」にはあっさりフラれてしまい、その後につき合ったのが静岡出身の「三河女」だった……ということにでもなるだろうか。
繰り返すが、これを明治女学校の教師であり、関口教会の神父だった人物が書いているのだから、青柳有美は女学生や女性信者たちにも“評判”の、「危ない教師」で「危ない神父」だったのではないかと、ほとんど確信的に思えてしまうのだ。
ところが「名古屋女」につづき、期待の「三河女」も彼にとっては「土蜘蛛」ならぬ「国栖」のトラウマになってしまったものか、大正の後半になると「昨今の日本女は」と国家単位に普遍化し、地方・地域色はもちろん個々人の人格や個性をいっさいがっさい捨象・無視した、根拠薄弱な(自身の体験内でのみ組み立てた狭隘な)一般論(?)に収斂していき、先述した朝鮮半島の儒教的道徳観(「女修身」)のような眼差しで、「女には気をつけろ」と東邦電力の社員たちへ講演・訓示するようにまでなっていく。
これはわたしの想像だが、細かく観察するような眼差しを女性に向けてはいるものの、実はハナからなにも見ても認識してもおらず、自身が勝手に想い描く理想的な“女性像”(ごく私的な枠組み)が前提として厳然と存在し、それを求めて生身の女性とつき合った結果、それらの“型”にはまった理想が次々と崩れて裏切られ、理想とはほど遠い側面を見いだしたり、相手から愛想をつかされてフラれたりするごとに、地方地域の名を冠した「女」たちが「土蜘蛛」に変身しているのではなかろうか。
大正後期になると、彼の著作には「名古屋女」も「三河女」も姿を見せなくなり、代わって「日本の女」「仏国の女」というように国家単位による女性一般のくくり(要するに十把一絡げで大雑把かつデタラメな主体設定)がやたら多くなる。青柳成美の基盤となっている女性観について、「巴里の女美術家」つまり女性画家を書いた文章が典型例なので、1913年(大正2)に東亜堂から出版された『世界の新しいふらんす女』から少し引用してみよう。
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(女性画家は)少しでも名の知れてるやうなのになると、自惚で、我儘で、我慢で、利己的で、何んとも仕様が無いものだ。その上大抵、多弁至極と来る。女らしい優しいところが全く無い。こんな女を女房にした男は、如何に嬶天下に甘んずる西洋人でも、一生浮ぶ瀬の無いのに歎声を発ざるを得ざる次第と相成る。画室にでも籠つて、こんな女美術家が懸命に描いてるところを見ると、更に層一層の不快を感ぜざるを得ない。(カッコ内引用者註)
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この直前の文節で、日本女子大卒の高等教育を受けた女が、「お針は出来ず女の道は何一つ心得て居無」いからダメ的な文章も書いているので、およそ青柳有美が“ぴんから兄弟”のようなワードとともに抱いていた彼本来の女性観が透けて見える。
上記の文章からも、女性は謙虚で、謙譲で、我慢強く、利他的で、無口で、男に対しては優しくなければウソで、男を陰でバックアップして浮かぶ瀬へと押し上げてくれなければならず、女美術家などもってのほかだ……と、ほとんど洋画家・柏原敬弘Click!や「画見博士」こと芳川赳Click!よりも“重症”な、女性コンプレックスの持ち主だったことがうかがわれる。ほかにも、このあと女性作家や職業婦人など自立している女性には端からケチをつけ、ケシカラン的な文章を書き連ねていてかなり異常で異様に映る。
彼は秋田県で、いちおう東日本に属する地方の出身のはずだが、江戸東京地方にやってきてこれほど地元の文化や風俗Click!、生活習慣に馴染まない(馴染めない)東北人もかえってめずらしい。同時期に下落合に住んでいた、同じ秋田出身の矢田津世子Click!などは、彼の目から見れば「とんでもない土蜘蛛女」ということになりそうだ。
このような人物が、原日本の生活文化Click!が色濃く残る江戸東京Click!で暮らしていながら、キリスト教の神父とは無縁な中国・朝鮮半島由来の儒教倫理・道徳(特に「女修身」)をありがたく拝借し、率先して没入していくのは当然のなりいきで、東邦電力の社員(自分も社員なのだが)に向けた講演では、「女に気をつけろ」的な言質が急増していくことになる。1926年(大正15)に電気之友社から出版された『電気技工員講習録』に収録の、林泉園住宅の東邦電力社員たちへ向けた講演「電気修身」(爆!)から引用してみよう。
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苟(かりそめ)にも上役から言ひ付けられたことだと成れば、多少そこに無理があると思つても、他人へ迷惑の懸らぬ限り、何んでも「ハイハイ」と苦い顔一つ見せず、よろこんで之を遵奉てゆくところが、是れ人間としての美しい處で無いか。(中略) 若い男が、やり損なつて一生を棒に振つてしまふに至るのは、十中の八九まで酒と女が原因に成る。恐ろしいものは酒と女とだ。第一酒と女とは、金銭の懸る仕事で、ロハなんかで出来るものでは無いのである。殊に昨今物価騰貴の折柄、諸事倹約を旨とせねばならぬ時に、酒を飲んだり女にトボケたりして居つては、迚(と)ても生活が立つて行かぬのだ。(カッコ内引用者註)
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してみると、「名古屋女」も「三河女」もマジメにつき合った恋愛相手などではなく、やたらカネばかりかかる、その筋の“商売女”だったとも思えてくる不用意な発言だ。
どうやら酒も恋愛(女)も、自分自身が選択して楽しむべき主体的な行為であることは、どこかへ丸ごと置き忘れ去られ、「怖ろしいもの」=「酒と女」がこの世に存在するから悪いとまでいいたげな「修身」講演だ。こういう没主体的な言質を吐いているからこそ、なんでも滅私奉公で「ハイハイ」ということをきかない、「高等教育」を受けた「多弁至極」で論理的な女たちにやりこめられ、教師も神父の職も辞めざるをえなかったのではないか?
◆写真上:下落合367番地の、林泉園住宅地Click!にあった青柳有美邸跡(左手)。
◆写真中上:上は、1897年(明治30)からの巣鴨庚申塚時代に撮影された明治女学校キャンパス。中は、関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)。下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる東邦電力林泉園住宅地の青柳有美邸。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる青柳有美邸。中は、1909年(明治42)に出版された『女学生生理』(丸山舎出版部/左)と、1913年(大正2)に出版された『日本美人論』(明治出版社/右)。下は、1916年(大正5)に出版された『人情論』(広文堂書店/左)と、1921年(大正10)に出版された『接吻哲学』(日本性学会/右)。
◆写真下:上は、かなり売れいきがよかったとみられる1926年(大正15)出版の『恋愛読本』(二松堂/左)と、1932年(昭和7)の明治図書出版協会版の復刻『恋愛読本』(右)。中は、下落合時代の青柳有美。下左は、「電気修身」が収録された1926年(大正15)出版の『電気工員講習録』(電気之友社)。下右は、林泉園の自宅で読書をする青柳有美。
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下落合の菊地東陽邸を拝見する。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-02-18
七曲坂筋Click!の三間道路をはさみ、浅田知定邸Click!の向かいの下落合(1丁目)476番地には、オリエンタル写真工業Click!を創立した菊地學治(東陽)が住んでいた。同じく下落合476番地に住んでいた、UDトラックスの創業者である安達堅造Click!邸から路地をはさんだ南隣りの敷地だ。1945年(昭和20)4月13日夜半に、目白駅から目白通り沿いが爆撃された第1次山手空襲Click!で、ともに全焼していると思われる。 菊地東陽は、オリエンタル写真工業が設立された1919年(大正8)の翌年、早くも下落合の借家で家族や招聘した外国人技師らとともに暮らしている。当初の菊地邸は下落合604番地で、ほぼ同時代には松居松翁Click!が住み、のちに牧野虎雄Click!がアトリエをかまえる地番と同一の区画だ。1925年(大正14)に作成された「出前地図」や、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を参照すると、子安地蔵通りから西へ少し入った路地の角地に、菊地東陽邸を確認することができる。佐伯祐三Click!が「下落合風景」シリーズClick!の1作として描いた、『浅川ヘイ』Click!=浅川秀次邸の北東隣り、曾宮一念アトリエClick!から斜(はす)に道路をはさんだ2軒北東隣りが菊地邸だった。 昭和期に入ると、オリエンタル写真工業の経営が軌道にのり、菊地東陽は1931年(昭和6)に先の下落合476番地へ大きな自邸(西洋館)を建設して転居している。このあたり、下落合801番地に住んでいた安達堅造が、UDトラックスの事業が軌道にのるとともに、下落合476番地に大きな屋敷(西洋館だとみられる)を建てて転居しているのによく似た経緯だ。自邸を新築したばかりの、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」より、菊地學治の項目を引用してみよう。 ▼ オリエンタル写真工業株式会社々長兼技師長(号東陽)菊池(ママ:地)學治 下落合四七六 山形県人菊池(ママ:地)宥清氏の三男にして明治十七年二月を以て生れ同四十二年家督を相続す 夙に米国に航り写真工芸の研鑽に努め帰朝後オリエンタル写真工業会社を創立、社長謙技師長の重椅に座し見識を以て汎く社内外の信望を聚む、家庭夫人より子は神奈川県人小松松太郎氏の長女である。 ▲ 菊地學治は、子どものころから「芸術号」として「東陽」を名のっており、おそらく表..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-02-18T23:59:59+09:00
七曲坂筋Click!の三間道路をはさみ、浅田知定邸Click!の向かいの下落合(1丁目)476番地には、オリエンタル写真工業Click!を創立した菊地學治(東陽)が住んでいた。同じく下落合476番地に住んでいた、UDトラックスの創業者である安達堅造Click!邸から路地をはさんだ南隣りの敷地だ。1945年(昭和20)4月13日夜半に、目白駅から目白通り沿いが爆撃された第1次山手空襲Click!で、ともに全焼していると思われる。
菊地東陽は、オリエンタル写真工業が設立された1919年(大正8)の翌年、早くも下落合の借家で家族や招聘した外国人技師らとともに暮らしている。当初の菊地邸は下落合604番地で、ほぼ同時代には松居松翁Click!が住み、のちに牧野虎雄Click!がアトリエをかまえる地番と同一の区画だ。1925年(大正14)に作成された「出前地図」や、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を参照すると、子安地蔵通りから西へ少し入った路地の角地に、菊地東陽邸を確認することができる。佐伯祐三Click!が「下落合風景」シリーズClick!の1作として描いた、『浅川ヘイ』Click!=浅川秀次邸の北東隣り、曾宮一念アトリエClick!から斜(はす)に道路をはさんだ2軒北東隣りが菊地邸だった。
昭和期に入ると、オリエンタル写真工業の経営が軌道にのり、菊地東陽は1931年(昭和6)に先の下落合476番地へ大きな自邸(西洋館)を建設して転居している。このあたり、下落合801番地に住んでいた安達堅造が、UDトラックスの事業が軌道にのるとともに、下落合476番地に大きな屋敷(西洋館だとみられる)を建てて転居しているのによく似た経緯だ。自邸を新築したばかりの、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」より、菊地學治の項目を引用してみよう。
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オリエンタル写真工業株式会社々長兼技師長(号東陽)菊池(ママ:地)學治 下落合四七六
山形県人菊池(ママ:地)宥清氏の三男にして明治十七年二月を以て生れ同四十二年家督を相続す 夙に米国に航り写真工芸の研鑽に努め帰朝後オリエンタル写真工業会社を創立、社長謙技師長の重椅に座し見識を以て汎く社内外の信望を聚む、家庭夫人より子は神奈川県人小松松太郎氏の長女である。
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菊地學治は、子どものころから「芸術号」として「東陽」を名のっており、おそらく表札にも菊地東陽と書いていたのだろう、1938年(昭和13)に作成された「火保図」掲載の下落合476番地の家は、「菊地東陽」邸として採取されている。ちなみに、オリエンタルの社名は菊地の号「東陽」が「東洋」の音と一致し、なおかつ社名の15画は経営的にも縁起がよいといわれたため採用されたと伝えられている。
菊地東陽の実家は、山形県山形市七日町で祖父の時代から古い写真館を営んでおり、彼は子どものころからスタジオや写真技術を身近に見て育っているのだろう。1898年(明治31)に14歳になると東京をはじめ各地の写真館で修行し、4年後に山形県の菊地写真館を一度は継いでいる。だが、より深く写真技術を学びたくなったのか、19歳になった1903年(明治36)に再び東京へやってきて、鹿島写真館の経営を任されている。それもつかの間、翌年には米国へ渡りシアトルの写真館に就職している。
シアトルで働いたあと、ほどなくポートランドでセンチュリー写真館を創業、つづいてニューヨークへ進出し3軒の写真館を開設している。1909年(明治42)にはポートレート専門の出張カメラマンとなり、それが繁昌して翌年にはニューヨークにキクチスタジオを創業し、同時に写真感光乳剤の研究開発に注力している。1919年(大正8)に帰国すると、実業家で初代社長となった植村澄三郎とともに、オリエンタル写真工業設立へと動きだした。
菊地と植村が、落合村(1924年より落合町)葛ヶ谷660番地(現・西落合2丁目)に工場建設を決めたいきさつを、1941年(昭和16)刊行の『菊地東陽伝』より引用してみよう。
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落合の奥の葛ヶ谷を通り掛つて、丁度昼飯時なので、哲学堂の公園で休憩して居ると、偶々此処に、清水が流れて居り、また尨々たる原野が打続いて居つて、幽邃であつた。しかも、井上円了博士の創設になる哲学堂には、植村翁も幾度か来られ、此処を流れる渓流に鉤を垂れられたといふ清游の地であつた。(中略) この地の水質や水量を調査研究されたところ、水質もよく水量も多く、乳剤工場には全く理想的な地であるといふので、早速此地を選び、工場の建設に着手されたのである。(中略) 見渡せば大根畑、竹藪、田圃、緑の森や丘があるきりで、他に何にもなく、たゞ哲学堂と三井墓地がしよんぼりレリーフのやうに浮出してゐた。
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井上哲学堂Click!の斜面から湧く豊富な清水と、文中に「渓流」と書かれている妙正寺川Click!を活用して、落合や野方など周辺地主たちの共同出資により建設されたのが、郊外遊園地の「野方遊楽園」Click!(野方プールClick!)だった。開園は1923年(大正12)なので、オリエンタル写真工業の第1工場が竣工すると、まもなく開園していることがわかる。
工場地の決定から12年後、初代社長だった植村澄三郎のあとを継ぎ2代目社長&技師長となった菊地東陽は、1931年(昭和6)に下落合476番地へ自邸を建設している。同邸は、近くの大屋敷だったとみられる安達堅造邸を凌駕するほど大きく、また住宅敷地はL字型をしており安達邸の2倍ほどの面積がありそうだ。現在の位置でいうと、七曲坂筋に建っている下落合地域交流館(旧・ことぶき館)の南側、および西側一帯の敷地だ。
米国生活が長かったせいだろうか、少なくとも外観からは洋館仕様だったと思われるが、庭園には踏み石や灯籠などが見えているので、完全に洋式だったわけではなさそうだ。菊地邸は、1938年(昭和13)の火保図によれば、頑丈なコンクリートの不燃塀に囲まれているが、おそらく現在も赤い洋瓦が載る南欧風(スパニッシュ風)のデザインをした塀は、一部修復されたとはいえ空襲からも焼け残った当時のままなのだろう。
昭和初期にはブームだったのだろうか、広いテラスや芝庭に面した大窓の軒下には、折りたたんで収容できたとみられる日除けテントが張りだしている。白と濃い色の縞模様だが、AIの推論エンジンClick!は赤ないしは濃いオレンジ色と認識しているようだ。おそらく、菊地邸の母家の屋根も赤ないしは濃いオレンジではなかっただろうか。ただし、画像が粗いのでカラーの解釈がどこまで正確かは不明だ。庭園やテラスに張りだす日除けのテントといえば、近衛町Click!に建っていた下落合416番地の長瀬邸Click!も、やはり折りたたみ式のタテ縞テントを採用していたので、当時の洋館建築では流行の設備だったのかもしれない。
『落合町誌』(1932年)には、菊地東陽とともにオリエンタル写真工業の紹介文も掲載されている。彼の名前がしばしばまちがっているのが気になるが、少し引用してみよう。
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社長菊池東洋(ママ:菊地東陽)氏は此の自覚に醒めて夙に米国に留学すること十有八年、其の間写真感光製品の乳剤研究に腐心し、偶々欧米漫遊中の伯爵勝精氏の知る処となり、協力苦心の結果優秀なる乳剤の発明に成功し、茲に相携て帰朝し、発明乳剤を基礎とし本邦に於て写真工業を興さん事を企て之を渋澤栄一子爵に謀れり、子爵亦写真工業の国産として緊要なる所以を感得せられ、該企業を植村澄三郎氏に委嘱せらるゝ処となり、同氏は其の友人知己を説き資金六萬万円を得てこゝに本社を創立するに至つた、これが大正八年九月二十二日にて、其の芽生へである。而して第一次事業として写真用感光製品の内印画紙の製造を企画し工場の設計建築其の設備に二ヶ年余を費し、大正十年十二月始めて本社の製品を市場に出せり。
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文中に登場している勝精(かつくわし)は、勝海舟Click!の養子で幕府15代将軍の德川慶喜Click!の九男であり、オリエンタル写真工業の取締役に就任している。同時に渋沢栄一Click!の四男である渋沢秀雄Click!も、同社の監査役に名前が見える。また、大倉喜八郎Click!も同社に出資していたようで、養子の大倉粂馬も取締役に名を連ねていた。
同社は、文中にもあるように1921年(大正10)に初めて印画紙製品を市場へ投入するが、当初は海外製品に押されて売れいきがまったく伸びなかった。だが、1923年(昭和12)9月に関東大震災Click!が起きると、首都圏にストックされていた海外製の印画紙のほとんどが焼けてしまい、同社が販売する国産印画紙の需要が急激に高まった。
大震災をきっかけに、同社の事業が軌道にのることになるが、『落合町誌』が刊行された1932年(昭和7)の当時、同社は12種類の印画紙を販売し、さらにガスライト印画紙、プロマイド印画紙と乾板、つづいて本格的なフィルムの製造に着手している。資本金も増資し、技術の進化や品質の向上とともに、日本の市場から海外製品を徐々に駆逐していった。
下落合476番地の菊地東陽邸跡の南側には、キクチ科学研究所Click!の本社屋が建っている。主力製品はプロジェクター用スクリーンやAVシステム、映像関連の各種ソリューションを提供するベンダーだ。前世紀のスチール写真から、デジタル映像分野への進出は、先見の明を備えた菊地東陽の遺伝子を、そのまま現代まで受け継いでいるのだろう。
◆写真上:下落合476番地に建っていた菊地東陽邸(AI着色)。『オリエンタル写真工業株式会社三十年史』と『菊地東陽伝』では、いずれも菊地邸を「目白文化村」としているが、同邸は東京土地住宅の「近衛新町」Click!に隣接する位置に建っていた。
◆写真中上:上は、1897年(明治30)撮影の山形市七日町にあった菊地東陽の実家・菊地写真館。中上は、ニューヨークのキクチスタジオで撮影された菊地東陽。中下は、竣工して間もないオリエンタル写真工業第1工場。その向こうに、野方遊楽園の大きなプールが見えている。下は、1928年(昭和3)ごろ撮影の第1工場で左手には野方配水塔。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合604番地の菊地邸。中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合1丁目476番地の菊地邸。中下・下は、菊地邸跡の現状で当時のものと思われる洋塀が残る。
◆写真下:上は、社長時代の菊地東陽(左)と『菊地東陽伝』(1941年)の中扉(右)。中上は、テントが張られた菊地邸のテラス。中下は、菊地邸の竣工記念写真で右から4人目が菊地東陽。下は、1921年(大正10)に撮影されたオリエンタル写真工業のオフィス風景。
★おまけ
1932年(昭和7)に野方遊楽園(野方プール)の跡地を埋め立てて竣工した、オリエンタル写真工業第2工場の全景とファサード。右下に妙正寺川に架かる四村橋Click!が見え、第2工場の背後にある丘は井上哲学堂で遠景は松が丘Click!の住宅地。下の写真は、菊地東陽が1929年(昭和4)に設立した落合町葛ヶ谷676番地のオリエンタル写真学校Click!の全景。
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上落合・龍海寺の小原唯雄と東久邇宮稔彦。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-02-15
1941年(昭和16)に第3次近衛文麿Click!内閣が総辞職後、東久邇宮稔彦Click!を首班とする戦争回避の内閣が構想されるが、木戸幸一の反対にあって頓挫した。近衛による宮崎龍介Click!の密使と同様、東久邇宮は蒋介石Click!との和平会談を模索するが、さっそく東條英機Click!につぶされている。結局、敗戦とほぼ同時の1945年(昭和20)8月17日に、“敗戦処理内閣”の首班に指名されたが、在任期間がわずか54日で総辞職している。 これほど自身の思想・主張と、就任したポストや時勢の推移が乖離しつづけた人物もめずらしいだろう。日中戦争の際、華北の第二軍司令官に就任しながら、日中戦争には終始反対であり一貫して批判的だった。また、陸軍大将に就任しながら南部仏印への進駐や日米戦争には猛反対し、戦時中は和平を模索する工作の中心的な人物となっていく。 東久邇宮稔彦は、陸軍士官学校をへて陸軍大学を卒業したあと、1920年(大正9)にフランスへ留学するとフランス陸軍大学も卒業している。このとき、フランス革命について詳しく学んだとみられ、皮肉なことに王政や封建制を打倒した資本主義の政治思想である、階級観をベースとした自由主義や民主主義に強く共鳴したとみられる。日本からの帰国命令にしたがわずに無視し、愛人と7年間もフランス生活をつづけた。印象派のモネに弟子入りして洋画を習い、文学の愛読書はトルストイClick!だったという。自身の立場をかえりみず、革命歌=La Marseillaise(現・フランス国家)を唄うのが十八番(おはこ)となり、1990年(平成2)に102歳で臨終の間際にも、うわごとでこの革命歌を唄ったという。 敗戦と同時に首相に就任すると、戦時中に憲兵隊から弾圧されつづけた反戦・平和運動家であり、和平工作のメンバーだった賀川豊彦Click!を招いて、内閣参与としているのは有名なエピソードだ。東久邇宮内閣が総辞職したあと、「敗戦の責任をとる」として東久邇宮稔彦は賀陽宮恒憲らとともに皇籍を離脱をしている。そして、1946年(昭和21)5月に貴族院も辞職し、同年にはGHQの指令により公職追放となった。ちなみに、このときいっしょに皇籍を離脱した賀陽宮は、その後、下落合の目白文化村Click!に転居してくる。 戦後、東久邇宮は新宿西口の闇市で、乾物屋「東久邇商店」を開店している。だが、当然のことながら商売はうまくいかず..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-02-15T22:44:07+09:00
1941年(昭和16)に第3次近衛文麿Click!内閣が総辞職後、東久邇宮稔彦Click!を首班とする戦争回避の内閣が構想されるが、木戸幸一の反対にあって頓挫した。近衛による宮崎龍介Click!の密使と同様、東久邇宮は蒋介石Click!との和平会談を模索するが、さっそく東條英機Click!につぶされている。結局、敗戦とほぼ同時の1945年(昭和20)8月17日に、“敗戦処理内閣”の首班に指名されたが、在任期間がわずか54日で総辞職している。
これほど自身の思想・主張と、就任したポストや時勢の推移が乖離しつづけた人物もめずらしいだろう。日中戦争の際、華北の第二軍司令官に就任しながら、日中戦争には終始反対であり一貫して批判的だった。また、陸軍大将に就任しながら南部仏印への進駐や日米戦争には猛反対し、戦時中は和平を模索する工作の中心的な人物となっていく。
東久邇宮稔彦は、陸軍士官学校をへて陸軍大学を卒業したあと、1920年(大正9)にフランスへ留学するとフランス陸軍大学も卒業している。このとき、フランス革命について詳しく学んだとみられ、皮肉なことに王政や封建制を打倒した資本主義の政治思想である、階級観をベースとした自由主義や民主主義に強く共鳴したとみられる。日本からの帰国命令にしたがわずに無視し、愛人と7年間もフランス生活をつづけた。印象派のモネに弟子入りして洋画を習い、文学の愛読書はトルストイClick!だったという。自身の立場をかえりみず、革命歌=La Marseillaise(現・フランス国家)を唄うのが十八番(おはこ)となり、1990年(平成2)に102歳で臨終の間際にも、うわごとでこの革命歌を唄ったという。
敗戦と同時に首相に就任すると、戦時中に憲兵隊から弾圧されつづけた反戦・平和運動家であり、和平工作のメンバーだった賀川豊彦Click!を招いて、内閣参与としているのは有名なエピソードだ。東久邇宮内閣が総辞職したあと、「敗戦の責任をとる」として東久邇宮稔彦は賀陽宮恒憲らとともに皇籍を離脱をしている。そして、1946年(昭和21)5月に貴族院も辞職し、同年にはGHQの指令により公職追放となった。ちなみに、このときいっしょに皇籍を離脱した賀陽宮は、その後、下落合の目白文化村Click!に転居してくる。
戦後、東久邇宮は新宿西口の闇市で、乾物屋「東久邇商店」を開店している。だが、当然のことながら商売はうまくいかず、つづけて新宿で喫茶店を開いたり、自身の所有する骨董品を売る骨董屋を開店したが、いずれも短期間でいきづまり営業をやめている。これら商売の元手を出し斡旋をしていたのが、戦前から東久邇宮の取り巻きのひとりだった、小原唯雄という人物だった。東久邇宮は、愛人だった新橋芸者「秀菊」を落籍し、多摩川沿いに住宅を用意して通ったが、その愛人との手切れ金も、元・宮内庁長官の田島道治『拝謁記』第2巻(岩波書店/2022年)によれば、小原唯雄が用意したカネだったらしい。
さて、この小原唯雄(龍海)という人物は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で建物(本堂)が全焼Click!したが、戦後もそのまま上落合に住みつづけている。上落合1丁目482番地に建っていた、その名も自身の僧名を冠した龍海寺だ。戦前から戦中にかけての地図類を参照すると、同番地に寺院のマークは採取されていないので、当時、公認された宗教法人であったのかどうかは不明だ。ただし、空中写真を観察すると、かなり大きな伽藍の大屋根や方丈が確認できる。
この小原唯雄(横浜の鶴見総持寺で得度したことになっている僧名「龍海」)について地元の資料を調べてみると、『落合町誌』(落合町誌刊行会/1932年)に記載はないが、1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会から刊行された『昔ばなし』に、龍海寺と小原龍海の記述を見つけた。その記述によれば、小原唯雄はずいぶん以前から上落合に住んでおり、龍海寺の敷地を購入したのは昭和初期のことで、大屋敷をかまえていた林卯之輔という人物から入手していたのがわかる。同書より、小原と龍海寺について少し長いが引用してみよう。
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昭和の初め頃のことである。日本橋の入船町で落合の住人「小原」氏が観音さまを拾った……と言う新聞記事があった。その観音さまの落し主が現れないので、小原さんがその観音さまをお守りすることになった。松田のお米やさんのウラの辺りに、大きなお堂を建てて入船観音として小原さんがおまつりしたのである。昭和十年前後に林卯之輔さんは、このお屋敷を誰方に御売りになって引越をされた。(中略) このお屋敷は全部壊わされて整地された。それから間もなく一抱もある大きなケヤキの柱などが運び込まれた。そのうちに彫刻をする人なども来て、物スゴイ大工事をやり出した。現在の大谷石の石垣は当時のものである。結局のところ入船観音の小原さんが、ここにお寺を建てるそうだ……と言うことになった。当時の私など、想像することも出来なかった大規模なものであった。長い年月を経て、大きな立派なお寺が建ち、大岩奇岩を配した立派なお庭が出来、竜海禅寺と呼ばれた。
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小原唯雄という人物は、もともと上落合に住んでいたらしいが、突然、日本橋入船町で観音像を「拾った」ころから、にわかに仏教に帰依して禅師となり、自宅の場所を寺院に改造して信仰をはじめる……という、いかにも怪しくいかがわしい経緯に感じるのはわたしだけではないだろう。ほんとうに、日本橋で観音像を「拾った」のだろうか? 事実、戦後になると観音像は骨董屋で購入して、「高村光雲に鑑定を依頼」したところ貴重な古仏だと判明したということになっている。ちなみに1936年(昭和11)の夏、小原は詐欺罪と不敬罪で駒込署に逮捕され、数日前まで中條百合子Click!が入れられていた留置所で拘留されているが、これも戦後になると特高による宗教弾圧にすりかわっているようだ。
この小原唯雄が、それまで住んでいた上落合の自宅とは、龍海禅寺を建築中に大工たちへ仕事場として提供していた、上落合1丁目215番地ではないだろうか。ちょうど、のちに龍海寺が建立される広い敷地の斜向かい、つまり上落合会館通りをはさみ旧・林卯之輔邸の北側あたりだが、建築現場へ材木などの資材や加工した調度品を運びこむにはなにかと都合がいい場所だ。1938年(昭和13)の「火保図」を参照すると、建設途中のため龍海寺はいまだ採取されていないが、215番地の大きな建物には「小原仕事場」(作業場)の文字が記載されている。村山知義・籌子アトリエClick!から、北へ130mほどのところだ。
戦後、1950年(昭和25)になると東久邇稔彦は小原龍海と組み、「ひがしくに教」を開教して教祖となった。これも小原の入れ知恵らしいが、特に布教活動を行うわけでもなく、宗教法人になれば税金がかからないため生活がラクになるというのが目的だったようだ。東久邇家では、戦前の生活と同様に使用人たちも全員そのまま雇用していたので、彼らの人件費を支払うのに窮していたのだという。だが、政府は「ひがしくに教」を宗教法人とは認めず、東久邇と小原のもくろみは外れている。
このエピソードひとつを見ても、戦前から小原龍海が東久邇宮のごく近くにいて、なにかとその名前を利用しながら、政財界から膨大なカネを集めていたのが透けて見える。上落合に巨大な龍海寺が竣工すると、政財界人たちの“寺詣り”がはじまった。もちろん、その中には東久邇宮稔彦もいた可能性が高い。つづけて、同書より引用してみよう。
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やはり今の鳥居のあたりに入口があり、私などはお庭に入って木の香が新らしいお寺を見上げたものである。このお寺には墓地がなかった。檀家がなかったのであろう……しかし、毎日のように立派な自動車に乗った政財界の偉い人がお詣りに来ていた。(中略) ところが、昭和二十年五月の大空襲で、この大伽藍も一夜にして灰塵となってしまった。(中略) 戦後、竜海寺は汚水処理場前の通りに面して移築されている。そしてこの広大な敷地は、南半分が公園に、北半分が一般の住宅に……となったが、昭和三十七年八幡神社が、今の八幡公園のところから遷宮(引越し)して来たのである。
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毎日のように参詣していた政財界人たちは、小原龍海になにを“お願い”しにきていたのだろう。なにやら、ラスプーチン的な地位を想像させるが、皇室や貴族院、陸軍などに顔がきく小原は、戦前・戦中はなにかと利用価値が高かったのだろう。小原は彼らから喜捨や(観音の)拝観料、参詣料の名目で莫大なカネを集めていたとみられる。
1968年(昭和43)に、松本清張Click!の取材を受けた東久邇稔彦は、小原龍海と「ひがしくに教」について次のように話している。2011年(平成23)に文藝春秋から出版された浅見雅男『不思議な宮さま―東久邇宮稔彦王の昭和史―』から、一部を孫引きしてみよう。
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「あれはある人が小原唯雄という坊さんを紹介したんです。りっぱな禅宗の坊さんだから……と。小原はわたしに、いま敗戦で日本人は精神的に虚脱状態になっている。どうして生きていったらいいかわからない。だから立派な教えによってそういう世間の人たちを救うべきだ、といいました。わたしも賛成して、小原にまかせたら、『ひがしくに教』と名をつけていろいろ宣伝して、ああいう大きなことになってしまったのです」「あなた(小原)にすべておまかせする、というようなことで、くわしいことはまったく知らないんです」「(小原の目的は)それによってカネを集めることだったらしい。本人はだいぶ集めたようです」
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著者も指摘しているように、この松本清張への証言はウソで、東久邇宮稔彦と小原唯雄の深い関係は戦前から戦後までずっとつづいていた。だからこそ、小原龍海は上落合に大伽藍を建てる莫大な資力が得られたのだし、地元の証言「立派な自動車に乗った政財界の偉い人」が毎日のように「お詣り」に訪れていたのだろう。
山手大空襲で本堂が全焼したあと、龍海寺の跡地は北側が住宅地に南側が公園になったが、1962年(昭和37)に月見岡八幡社Click!が公園跡に遷座してくる。当の龍海寺は戦後、新・八幡通りClick!に面した落合下水処理場Click!の向かい、上落合1丁目230番地へと移転している。その後、埼玉県へ「ひがしくに教」とともに移転したといわれているが定かでない。上落合では、1970年代まで建物を確認することができる。上落合の小原龍海については、さまざまなエピソードを残しているので、また機会があれば記事にしてみたい。
◆写真上:上落合1丁目482番地の龍海寺跡(右手全体)で、大谷石の擁壁(解体)がある手前の住宅街から月見岡八幡社までの全敷地(約1,000坪)が境内だった。
◆写真中上:上は、1945年(昭和20)8月17日に組閣された東久邇宮内閣。重光葵(外相)、米内光政Click!(海相)、近衛文麿Click!(国務相)らが並ぶ。中は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる建設中の龍海寺と小原仕事場(作業場)。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる小原仕事場と龍海寺建設予定地。
◆写真中下:上は、1945年(昭和20)4月2日の空中写真にみる龍海寺の大屋根。中は、東久邇宮稔彦(左)と小原龍海(右)。下は、1950年(昭和25)4月15日撮影の「ひがしくに教」開教式で、右端が小原龍海で左隣りが東久邇稔彦。
◆写真下:上左は、冒頭写真に写る大谷石擁壁の角にあった龍海寺の境界石で「小原」の字が刻まれている。上右は、2011年(平成23)に出版された『不思議な宮さま』(文藝春秋)。中は、1966年(昭和41)作成の「住所表記新旧対照案内図」にみる上落合1丁目230番地に移転した龍海寺。下は、1975年(昭和50)の空中写真にみる龍海寺。
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下落合の日常生活を綴る沖野岩三郎。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-02-12
1921年(大正10)ごろから下落合1505番地(のち1510番地→1932年以降は下落合3丁目1507番地)に住んだ沖野岩三郎Click!は、当時の下落合に展開していた風景を織りまぜた作品を、小説やエッセイを問わずしばしば書いている。 年譜などでは、1921年(大正10)に下落合へ転居したことになっているが、1920年(大正9)に書かれた小説『地に物書く人』(民衆文化協会出版部)にはすでに下落合が登場しており、もう少し早い時期に引っ越しあるいは自宅が竣工するまでの仮住まいの借家に転居しているのではないか。あるいは、たまたま郊外散歩をした際に、下落合をハイキングClick!してその風情が気に入り、転居前の作品に登場させているのだろうか。 いずれにしても当時の下落合は、東京府住宅協会Click!による第一および第二の落合府営住宅Click!の敷地へ、会員たちの注文住宅があらかた竣工していただろうが、1922年(大正11)から販売される目白文化村Click!や近衛町Click!は影もかたちもなく、沖野岩三郎の自宅である落合第一府営住宅8号Click!の南側に口を開けた前谷戸Click!周辺には、箱根土地が開発した郊外遊園地Click!の不動園Click!が開園しているばかりで、一帯は東京郊外の典型的な田園風景だったろう。目白通りには、いまだダット乗合自動車Click!によるバス路線Click!も存在せず、目白駅からは俥(じんりき)が通う時代だった。 1920年(大正9)に執筆された『地に物書く人』(文生書院)では、市街地に開院している女医の「由子」が、郊外の下落合へ往診する様子が描かれている。沖野岩三郎Click!が、牧師時代から東京府住宅協会の会員となり、住宅建設資金の定期積み立てをしていたとすれば、同年の時点で自邸が建設されつつある様子を見に、しばしば下落合を訪れていた可能性がありそうだ。当時の東京府による落合府営住宅は、借家ではなく建設資金の積み立てによる一戸建ての持ち家住宅制度だった。同書より、下落合が登場するあたりを引用してみよう。 ▼ 「済まないが妻が少し病気なので御苦労願へないでせうか。」/伊藤は言い難さうに斯う云つて由子の顔を滋々と見入つた。/「参りますワ どちらでございますか(。:ママ)」/「どうも少し遠方でございますが。」/「遠方だつて宜しうございますワ。」/「下落合ですが御出で下さいますか。..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-02-12T23:59:59+09:00
1921年(大正10)ごろから下落合1505番地(のち1510番地→1932年以降は下落合3丁目1507番地)に住んだ沖野岩三郎Click!は、当時の下落合に展開していた風景を織りまぜた作品を、小説やエッセイを問わずしばしば書いている。
年譜などでは、1921年(大正10)に下落合へ転居したことになっているが、1920年(大正9)に書かれた小説『地に物書く人』(民衆文化協会出版部)にはすでに下落合が登場しており、もう少し早い時期に引っ越しあるいは自宅が竣工するまでの仮住まいの借家に転居しているのではないか。あるいは、たまたま郊外散歩をした際に、下落合をハイキングClick!してその風情が気に入り、転居前の作品に登場させているのだろうか。
いずれにしても当時の下落合は、東京府住宅協会Click!による第一および第二の落合府営住宅Click!の敷地へ、会員たちの注文住宅があらかた竣工していただろうが、1922年(大正11)から販売される目白文化村Click!や近衛町Click!は影もかたちもなく、沖野岩三郎の自宅である落合第一府営住宅8号Click!の南側に口を開けた前谷戸Click!周辺には、箱根土地が開発した郊外遊園地Click!の不動園Click!が開園しているばかりで、一帯は東京郊外の典型的な田園風景だったろう。目白通りには、いまだダット乗合自動車Click!によるバス路線Click!も存在せず、目白駅からは俥(じんりき)が通う時代だった。
1920年(大正9)に執筆された『地に物書く人』(文生書院)では、市街地に開院している女医の「由子」が、郊外の下落合へ往診する様子が描かれている。沖野岩三郎Click!が、牧師時代から東京府住宅協会の会員となり、住宅建設資金の定期積み立てをしていたとすれば、同年の時点で自邸が建設されつつある様子を見に、しばしば下落合を訪れていた可能性がありそうだ。当時の東京府による落合府営住宅は、借家ではなく建設資金の積み立てによる一戸建ての持ち家住宅制度だった。同書より、下落合が登場するあたりを引用してみよう。
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「済まないが妻が少し病気なので御苦労願へないでせうか。」/伊藤は言い難さうに斯う云つて由子の顔を滋々と見入つた。/「参りますワ どちらでございますか(。:ママ)」/「どうも少し遠方でございますが。」/「遠方だつて宜しうございますワ。」/「下落合ですが御出で下さいますか。」/「下落合? 目白の近くでございませう。」/「江ゝさうです、御足労ですナ。」/斯んな会話の後で由子は革袋を提げて伊藤と一緒に家を出た。行つてみると若い美しい細君が寝てゐた。由子の診断は妊娠といふ事であつた。/「精々一ケ月の御苦しみですよ、最う直ぐ快くなりますから。」/由子は夫婦と十分間ばかり話し合つて帰つて来た。細君は九州辺の小さい華族の娘だといふ事であつた。(中略) 下落合を畑の中にある伊藤の家に行つて見ると細君の雪子は三十九度七分の熱で呻吟してゐた。しかし診察してみると扁桃腺が腫た為に来た熱と知れた。/チブスにでも罹つたのでは無いかと、心配してゐた一同の愁眉は開けた。(カッコ内引用者註)
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大正中期の落合地域には、いまだ西洋医が開業しておらず、往診がたいへんなので市街地の医者は「遠方」の下落合へはきてくれなかった様子が、「伊藤」の口ぶりからうかがえる。往診は、診察道具が入っている「革袋」を提げた「由子」が、「伊藤」とともに山手線に乗って目白へ出かけているのだろう。零落した華族の妻が伏せる、「畑の中にある伊藤の家」には目白駅前から俥(じんりき)Click!で通ったとみられる。
この小説から15年後、1935年(昭和10)に子供の教養社から出版された沖野岩三郎のエッセイ『育児日記から』には、目白通り沿いの沖野邸とその周辺の風景や、孫の「遥(はるか)」と「ナオミ」の世話をする様子が描かれている。沖野家へ養子に入った沖野節三と妻の寿美子の子どもたちなのだが、夫妻はヨーロッパの大学へ留学しており、帰国するまで祖父母の沖野岩三郎・ハル夫妻が面倒をみることになった。
エッセイを読むと、沖野夫妻の当時の生活や孫が通った白百合幼稚園Click!など、周辺の様子がうかがえて興味深い。同書には写真も掲載されており、沖野邸や庭の風景、幼稚園での情景などがわかる貴重な資料となっている。同書より、少し長めに引用してみよう。
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「お家はどこですか。」/「ここです。」/「ここはお家ですけれど、迷ひ児になつた時は、ここと言(ママ)つてもわかりませんよ、下落合の府営住宅ですつて云ふんです。」/「下落合の府営住宅」/「よろしい。もし巡査さんが、何番地かつてきいたら、千五百七だと云ふんですよ。さあ云つてごらん。」/「三百七五。」/「千五百七ですよ。」/「わかつた。」/(中略) 遥の機械学に一つの疑問が生じた。それは遥の最初に見た乗合自動車が旧式で、動き出す前に、前方でぐいぐい廻したのを見て、遥はこれを「ぐいぐい」といつて、そのまねをした。三越から買つて来た自分の自動車の発車に先だつても、必ず此のぐいぐいをやつて、それから発車したものである。/(中略) 遥の故郷は東京郊外の下落合なのです。彼がここに産れてここに育つた三年間の印象は、吾吾には想像の出来ない深いものをもつてゐるのです。遥が謂ふ所の「うら・畑」そのうら・畑は遥の始(ママ)めて三輪車を運転した所であり、そこで彼は始めて牡丹の花を見、つつじを見、桔梗を見、苺を見、ぐみを見、いちじくを見、その他いろいろの草木を始めて見た所なのです。/(中略) 彼が生来始めて土を踏みしめて立つた下落合の土と彼とは、永久に断つことの出来ない深い関係をもつてゐるのです。彼が始めて通つた白百合幼稚園、それは彼が成長後どこの大学を卒業しても、その感化から逃れることの出来ない幼稚園なのです。毎日、家を出て、あの小学校の所から坂を下って、駈け込んで行つた幼稚園内の空気は、彼が人間社会に於ける最初の社交場であつて、そこに過した二箇年の歳月は、実に尊い彼の人生経験場だつたのです。時時ねだつて見せにつれて行つてもらつた省線や武蔵野線。(中略) 夜が更けて、十一時十二時になると、始めて目白を通過する貨物列車の轟きが聞える。
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沖野邸の南側にあった庭で咲く、草木の様子が詳細に書きとめられている。おそらく「遥」ちゃんは、大正後期から目白通りを走りはじめたダット乗合自動車Click!の、クランク棒をボンネットの前でまわしてエンジンをかける旧式タイプのバスを記憶しているのだろう。沖野邸から西側に通う三間道路を北に歩いて目白通りへ出ると、ちょうど目の前がダット乗合自動車の車庫を兼ねた発着場Click!だった。
佐々木久二Click!の妻である佐々木清香Click!が経営する、下落合1147番地(のち1146番地)の白百合幼稚園Click!については過去の記事でも随所に登場している。佐々木清香は尾崎行雄Click!の愛娘であり、妹の雪香Click!もまた下落合の相馬邸Click!に嫁いでいる。「小学校の所から坂を下って」は、落合第一尋常小学校Click!の東側にある霞坂Click!を下りていくと、途中から市郎兵衛坂Click!と合流し、ちょうど妙正寺川畔にある白百合幼稚園(佐々木久二邸Click!敷地)の真ん前に出ることができた。
「省線」は山手線のことだが、「武蔵野線」は武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)のことだ。おそらく、沖野夫妻が散歩がてら、孫たちに汽車や電車を見せに連れていったのだろう。少し余談だが、武蔵野鉄道のことを沖野岩三郎のように「武蔵野線」、あるいは「武蔵野鉄道線」と表記する資料を何度か目にした憶えがある。ちょうど、下落合を走る西武鉄道村山線のことを、地元はもちろんマスコミなども通称「西武電鉄」Click!と呼んでいたように、当時、地元の住民たちが武蔵野鉄道をどのように名づけ呼称していたのかが、かなり前から気になっている。
さて、いまは住宅でふさがれているが、リニューアル後の沖野邸は南に面した庭門とは別に、北側に正門と玄関が設けられていた。そこを出で、L字状に歩けば60mほどで目白通りへと抜けることができた。その門を入った玄関には、大正末から呼び鈴が設置されており、しばしばイタズラに悩まされたようだ。“ピンポンダッシュ”ならぬ呼び鈴ダッシュで、頻繁に起きていたイタズラらしい。ずいぶん以前に、上落合186番地Click!に建っていた「三角アトリエ」Click!で、近所の子どもたちによる“ピンポンダッシュ”のエピソードClick!をご紹介していたが、沖野邸では子どもばかりでなく大人もやっていたようだ。
昭和に入ると、呼び鈴はそれほどめずらしくないと思うのだが、ボタンを見るとどうしても押してみたくなる人たちが少なからずいたようなのだ。現在では、ボタンを押すとともにカメラが作動し来訪者の動画を記録するので、このイタズラは減っているだろう。1940年(昭和15)に美術と趣味社かに刊行された、沖野岩三郎『宛名日記』から引用してみよう。
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私の家には今呼鈴を取りつけてある。取りつけたのは、もう十六年前であるが、最初の頃は表を通る者が、無茶苦茶にそれを押した。それが決して子供だけでなく、大きな男が頻りにいたづらをしたものである。/妻は飯が焦げつきさうなのを放つて置いて、飛んで行つてみると、誰もゐない。またかと思つて出て行かないでゐると、大事のお客が来て待ちぼけてゐる。今度こそ待ちかねた彼の人だと思つて出て見ると、髪のもぢやもぢやした掠屋(金を強請に来る掠奪屋の事)が眼を光らしてゐたりするので、一時は其の呼鈴を取外さうかとさへ思つた事がある。
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沖野岩三郎の家にさえ、アナキストかサンディカリストか、はたまた左翼ゴロかは不明だがヤクザまがいの「リャク」が訪れたところをみると、彼は昭和期に入ってから稼ぎのいい作家のように周囲からは見られていたようだ。それとも、「求めよさらば与えられん」(マタイ伝)をそのまま実践する、キリスト者を装った単なるたかり屋だったものだろうか。
沖野岩三郎の小説はともかく、大正中期から以降のエッセイ類には自邸のある下落合が頻出している。近所で起きた出来事はもちろん、周辺に拡がる風景などを家族たちの姿にからめて描写することが多いようだ。また機会があれば、沖野家の下落合をご紹介したい。
◆写真上:1930年(昭和5)ごろ、下落合の沖野邸門前で撮影された家族の記念写真。右端にハル婦人、右からふたりめの隠れがちなのが沖野岩三郎。(AI着色)
◆写真中上:上は、1931年(昭和6)にヨーロッパから米国へ旅行した際にチューリッヒで撮影された沖野岩三郎。下左は、1920年(大正9)に出版された沖野岩三郎『地に物書く人』(文生書院)。下右は、よく使われる沖野岩三郎のポートレート。
◆写真中下:上は、1930年(昭和5)ごろに下落合の自邸庭先で撮影された孫たち。中は、1935年(昭和10)ごろに撮影された沖野家の記念写真。(AI着色) 下左は、1935年(昭和10)に出版された沖野岩三郎『育児日記から』(子供の教養社)の内扉。下右は、1940年(昭和15)に出版された沖野岩三郎『宛名日記』(美術と趣味社)。
◆写真下:上は、1935年(昭和10)ごろ撮影された白百合幼稚園のひな祭り。中は1935年(昭和10)の「淀橋区詳細図」でたどる沖野遥ちゃんとお祖父ちゃんの登園コース。下は、沖野岩三郎が孫を白百合幼稚園まで送っていったかなり急傾斜の霞坂。霞坂をくだると市郎兵衛坂と合流し、ほどなく白百合幼稚園の屋根と園庭が見えてきたはずだ。
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あまりにもあからさまな下練馬地域のフォルム。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-02-09
「濕化味(シツケミ/シゲミ)」Click!の地名音に惹かれて、前回の下練馬地域に残る小名「丸山」Click!を調べているとき、あまりにもあからさまなフォルムを発見して絶句したことがあった。落合地域をはじめ新宿区域にも、古墳地名Click!とともに大きな幾何学模様Click!がいくつか存在することは、過去記事Click!で何度Click!も触れてきているとおりだが、これほど明確に古墳の形状が現代まで残されているのは、耕地整理と宅地開発が市街地よりもかなり遅く、戦後になって行われた練馬地域全体の特徴だろうか。 インターネット上で同地域の情報を調べていると、これらの幾何学的なかたちは昭和期におけるモダンな住宅街の形成テーマとともに語られていることが多い。すなわち、多摩川台(のち田園調布)Click!や国立学園都市Click!と同様に、このような円形の、あるいは方形の道路網が整備されたのだろうというとらえ方だ。だが、歴代の空中写真を参照すれば明白だが、これら整った正円や方形の幾何学フォルムは、戦後、同地域で耕地整理が進捗し住宅街が形成される以前、すなわち周辺が田園風景で農家が散在する時代から、田畑の畔や畦道、境界、農道がこのような形状をしていた様子が歴然としている。 モダン住宅街の特徴は、これら正円(あるいは半円)・方形の中心には鉄道駅や広場があるのが通例だが、下練馬に地下鉄・有楽町線が成増駅まで延長され、氷川台駅や平和台駅が設置されたのは1983年(昭和58)になってからのことだ。しかも、これらの駅は確認できる幾何学フォルムからは大きく外れており、円形や方形の中心はもちろんそれまで田畑→耕地整理→宅地のままだった。むしろ、旧来の田畑の畔や畦道、境界(地形的に段差や窪地が形成されていたとみられる)に沿って、後世に宅地化の道路敷設や宅地造成が進められた結果とみるのが自然だろう。中でも、もっとも典型的な“鍵穴”型をしている、平和台駅に近いフォルムを取りあげてみよう。(冒頭写真) 現在の住所でいうと、平和台4丁目から北町4丁目~7丁目に展開する、巨大な前方後円墳とみられる痕跡だ。 この一帯(平和台4丁目)は、江戸期の小名では「西本村」「丸久保」と呼ばれた地域であり、近くには「大山」「中ノ台」「庚申塚」「富士山」(北町4~7丁目)などの小名が散在する。この中で、「富士山」は北町の氷川明神社にある富士塚にちなんだ、または富士講C..
気になるエトセトラ
ChinchikoPapa
2024-02-09T23:59:59+09:00
「濕化味(シツケミ/シゲミ)」Click!の地名音に惹かれて、前回の下練馬地域に残る小名「丸山」Click!を調べているとき、あまりにもあからさまなフォルムを発見して絶句したことがあった。落合地域をはじめ新宿区域にも、古墳地名Click!とともに大きな幾何学模様Click!がいくつか存在することは、過去記事Click!で何度Click!も触れてきているとおりだが、これほど明確に古墳の形状が現代まで残されているのは、耕地整理と宅地開発が市街地よりもかなり遅く、戦後になって行われた練馬地域全体の特徴だろうか。
インターネット上で同地域の情報を調べていると、これらの幾何学的なかたちは昭和期におけるモダンな住宅街の形成テーマとともに語られていることが多い。すなわち、多摩川台(のち田園調布)Click!や国立学園都市Click!と同様に、このような円形の、あるいは方形の道路網が整備されたのだろうというとらえ方だ。だが、歴代の空中写真を参照すれば明白だが、これら整った正円や方形の幾何学フォルムは、戦後、同地域で耕地整理が進捗し住宅街が形成される以前、すなわち周辺が田園風景で農家が散在する時代から、田畑の畔や畦道、境界、農道がこのような形状をしていた様子が歴然としている。
モダン住宅街の特徴は、これら正円(あるいは半円)・方形の中心には鉄道駅や広場があるのが通例だが、下練馬に地下鉄・有楽町線が成増駅まで延長され、氷川台駅や平和台駅が設置されたのは1983年(昭和58)になってからのことだ。しかも、これらの駅は確認できる幾何学フォルムからは大きく外れており、円形や方形の中心はもちろんそれまで田畑→耕地整理→宅地のままだった。むしろ、旧来の田畑の畔や畦道、境界(地形的に段差や窪地が形成されていたとみられる)に沿って、後世に宅地化の道路敷設や宅地造成が進められた結果とみるのが自然だろう。中でも、もっとも典型的な“鍵穴”型をしている、平和台駅に近いフォルムを取りあげてみよう。(冒頭写真) 現在の住所でいうと、平和台4丁目から北町4丁目~7丁目に展開する、巨大な前方後円墳とみられる痕跡だ。
この一帯(平和台4丁目)は、江戸期の小名では「西本村」「丸久保」と呼ばれた地域であり、近くには「大山」「中ノ台」「庚申塚」「富士山」(北町4~7丁目)などの小名が散在する。この中で、「富士山」は北町の氷川明神社にある富士塚にちなんだ、または富士講Click!が富士登山に向かう街道筋に見られる小名だが、「大山」は大山講の阿夫利社詣での街道筋にふられた小名だろうか? 「大山」や「大塚」は全国に展開する古墳地名の典型例であり、「大山(大仙)古墳」Click!「大山〇号墳」などが各地に存在している。また、「中ノ台」も突起地形を表す小名であり、田畑の中に起立している墳丘を想起させる呼称だ。タタラ集団Click!が奉った「荒神」が、江戸期に流行した庚申信仰Click!で転化したかもしれない、小名「庚申塚」があるのも地域的に興味深い特徴だ。ちなみに、小名「庚申塚」は平和台4丁目(西本村)に現存する庚申塔とは別の存在だ。
平和台4丁目側、前方後円墳フォルムの東に位置する江戸期からの小名「丸久保」は、円形に窪んだ地形(湧水をともなう)からそう呼ばれていた可能性が高いが、これも古墳の周壕(濠)を感じさせる名称だ。事実、“鍵穴”フォルムの東側には、戦後まで灌漑用水が通っており、また正円形の北西側にも灌漑用水の流路が確認できる。
平和台駅北側に位置する前方後円墳のフォルムをした畑地だが、全長を計測するとおよそ500mをゆうに超えている。もちろん、500m級の前方後円墳(日本最大となってしまう)があったわけではなく、他の耕地開拓事例と同様に墳丘を崩しその土砂で周壕(濠)を埋め、さらに外周域へ均して整地化Click!していったのだろう。江戸近郊の開拓が盛んに行われ、生産性の向上が急務だった江戸前期の事業だったかもしれない。
小名「大山」の存在とともに、この地域には「塚」と認識できるレベルではなく、「山」と表現されるような大規模な突起(下落合の摺鉢山Click!のように)があった可能性を否定できない。墳丘が崩されて均され、整地化した農地Click!にされたとはいえ、少なくとも300mを超える前方後円墳を想定するのは、あながちピント外れではなさそうに思う。それほど、地形図や空中写真を参照すると、まるでナスカの地上絵のように、田畑の中に忽然と出現する幾何学形なのだ。
一帯は、1950年代まではほとんど畑地(一部は田圃)だが、それ以降の時代になると農家以外の家屋が急増して住宅街が形成されている。だが、現在でも同フォルムの周辺には、農地(おもに練馬のダイコン畑)が随所に残っている。江戸期に行われた、大規模な農地開拓の土木工事で古墳の膨らみは跡形もなく、ほとんど平地に均されてしまったとみられるが、ここは実際に現地を歩いて検証してみるに限る。では、さっそく平和台へ出かけてみよう。
平和台駅から北東へ300mほど歩くと、前方後円墳フォルムの南端に当たる東西道(前方部南端)にたどり着くことができる。この前方部の形状の底辺となる、西北西から東南東にのびるほぼ直線の道路はゆうに250mを超えており、これほど規模が大きい古墳だったとみられる痕跡を歩くのは、青山墓地に隣接した南青山ケースClick!や目黒駅東口の森ヶ崎ケースClick!以来かもしれない。中野三谷ケースClick!や新宿駅西口の角筈ケースClick!などが、ひとまわり小さなサイズに感じられるスケールだ。
前方部から後円部へ地形を確認しながら歩いていくと、江戸期の徹底した土木技術による農地開拓が行われたのだろう、前方部はほとんど平地化されているが、後円部はちょうど環状8号線と補助235号線が交差する正円の中心部あたりから、おもに南側と北側へ明らかに傾斜していることがわかる。つまり、後円部北側の一画は現在、パイの4分の1ピースほどが陸上自衛隊の練馬駐屯地として削られて不明だが、後円部だったとみられる正円部は、中心部の盛りあがっている地形が歴然としている。
後円部とみられる、二重の円形に道路が敷設された道筋を歩いていると、なんともいえない不思議な気分になってくる。効率のよい道路の敷設や宅地開発なら、必ず直線状に拓かれるべき道筋が、わざわざきれいな正円形に敷かれている。そこに建つ住宅群やアパートも、畑地時代からつづく変形の敷地が多く、それぞれ妙な向きで建設されている。中央にある内側の小さな正円形を、墳丘が崩される以前に存在した本来の後円部のサイズだとしても直径は200mほど、南に延びる前方部を加えれば、やはり全長300mをゆうに超えるサイズの前方後円墳を想定することができる。
また、外側の大きな正円形の東側=外廓の位置に、同じ曲線の境界(畔)跡を確認できるので、崩された墳丘の土砂は西側よりも、おもに東側へより多く運ばれて周壕(濠)や谷戸(久保・窪地)の埋め立てに使われたのかもしれない。特に後円部の地下は羨道や玄室が存在する位置なので、周囲の公園や庭先に大きめな房州石Click!が、庭石Click!などになって残されていないかどうか気になったが、今回の散策では発見できなかった。
さらに、前方部の東側、古墳フォルムのほぼ造り出しClick!にあたるような位置に、西本村稲荷社と同御嶽社、それに庚申塔がまとめて配置されているのも気になった。なぜなら、大型古墳の急斜面を活用して古代以降のタタラ集団Click!が神奈(鉄穴)流しClick!を行った事蹟かもしれず、稲荷は「鋳成」の庚申は「荒神」への江戸期における転化が疑われるからだ。換言すれば、これらの社(聖域)や塔などの史蹟は、崩される以前の墳丘のどこかに奉られていたものが、江戸期に入り農地開拓とともにこの位置に移され、社や塔への信仰とともに名称も変更された可能性がある。「久保」や「窪」Click!の地名、すなわち湧水源には噴出する地下水とともに砂鉄の堆積場Click!が形成されやすいのも史的事実だ。
さて、地下鉄・平和台駅の北側に位置する前方後円墳のフォルムを、便宜上、西本村古墳(仮)と名づけてみよう。同古墳(仮)だけでなく、古い時代の空中写真から周囲の状況はどうなっていただろうか? 特に、戦後もしばらくしてから宅地開発にともなう道路敷設が進捗する以前、いまだ農地と農家が散在するのみで、一面に広がる田畑の畔や畦道、境界、農道などがあるるだけの、この地域にどのような光景が見えるのだろうか? 戦前の空中写真を年代順に参照すると、その結果は一目瞭然だった。西本村古墳(仮)の周辺には、同じように幾何学的なフォルムだらけだったのだ。
いまだ、多くの農地が耕地整理も宅地開発も行われていない、陸軍航空隊が撮影した1944年(昭和19)の比較的鮮明な空中写真を参照すると、西本村古墳(仮)の南東側、すなわち氷川台側に大型の円形および方形のかたちを見ることができる。これは、大型の前方後円墳跡とみられるフォルムと同一エリアに、大型の方墳あるいは前方後方墳とみられる痕跡が並列していた、目黒駅東口の上大崎今里ケースClick!に近似している。また、西本村古墳(仮)のすぐ近くにも、やや小さめな正円形のフォルムを確認することができる。これらは、主墳に付属した陪墳の古墳群跡だろうか。
さらに、西本村古墳(仮)の南には周壕(濠)跡とみられる形状まで残る、やはり前方後円墳のフォルムが明らかに見てとれる。これだけ古墳跡とみられる痕跡が残るエリアでは、ある墳丘を崩して周壕(濠)を埋め立てる際、周壕(濠)域の面積が大きい古墳のケースは、周囲の余った墳丘の土砂もあわせて埋め立てに活用したのかもしれない。
これらの幾何学フォルムの数々は、氷川台駅から平和台駅の先まで、およそ一辺が2km前後の方形エリアに集中して存在している。関東地方でいえば、100mを超える古墳が密集している埼玉(さきたま)古墳公園、あるいは千葉県の内房線にある青堀駅周辺に集中する50基ほどの大小古墳群に近似した光景といえるだろうか。北武蔵勢力とみられる埼玉(さきたま)古墳群も、千葉県に展開する南武蔵勢力とみられる古墳群も、大規模な農地開拓や宅地開発が行われなかったために、今日までその形状をよく残している史蹟だ。
今日、関東各地の宅地開発が進んでいない地域では、微細な土地の隆起や農地の形状を上空からの熱赤外照射や、X線照射によって観察する空中考古学が盛んだ。特に、群馬県や栃木県では大きな成果をあげており、それまで未発見だった大型古墳や玄室などが次々と発見されている。現代の住宅街の上空から、それらの照射は不可能だが、それに代わるなんらかの観察・分析法が見つからないものか、今後のテクノロジー進化に期待したい。
◆写真上:耕地整理が行われる以前、戦前の1944年(昭和19)に撮影された空中写真にみる下練馬の「西本村」から「丸久保」界隈。北側の陸軍練馬倉庫から拡大された陸軍用地が、後円部の痕跡だったとみられる北側に喰いこんでいる。
◆写真中上:上・中は、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる同所のフォルム。陸軍の用地は米軍に接収され、物資の集積場として使用されていたようだ。下は、現在でも農地で多く栽培されている練馬のダイコン畑。
◆写真中下:1944年(昭和19)の空中写真と、①~⑯はその現状を撮影したもの。田畑の境界や畔、畦道、農道などがそのまま住宅道路になっている。戦後の耕地整理の際、あらかじめ幾何学的なフォルムの農地がモダンな形状に見えたディベロッパーが、そのまま道路を敷設して宅地開発を行ったものか。写真⑯は近くに西本村稲荷や庚申塔がある道筋で、墳丘の土砂がおもに東側の埋め立てや整地に使われたとみられる痕跡。
◆写真下:上は、戦前1944年(昭和19)と戦後1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる氷川台から平和台にかけて随所に確認できる幾何学的なフォルム。この時代には、いまだに墳丘の残滓が残る地点があったかもしれない。中・下は、西本村稲荷社と保存された庚申塔。
★おまけ1
同じようなフォルムが展開していた、目黒駅の東側に拡がる上大崎地域。こちらは、前方後円墳や方墳(前方後方墳?)とみられる墳丘の土砂が、江戸期に谷戸や谷間の埋め立て・整地=耕地開拓に使われず、森ヶ崎や今里の形状は後世までそのまま残っていた。
★おまけ2
大型・中型古墳が密集したエリアが、そのまま大規模な公園化された埼玉(さきたま)古墳公園(上)と、内房線・青堀駅(千葉県富津市)の周辺に展開する大小の古墳群(下)。後者の青堀駅は、駅前のグリーンロータリーからして50mほどの前方後円墳(上野塚古墳)であり、内房線線路の南側には周壕(濠)をともなう大型古墳や陪墳などが密集して築造されている。千葉県は出雲圏の鳥取県を抜いて現在、古墳ランキングでは全国2位となっているが、頻繁に発見ニュースを耳にする群馬県は、もうすぐ5位の京都府を抜きそうな勢いだ。けれども、1457年(康正3)に太田道灌が江戸城Click!を築城して以来、農地化と都市化が急速に進んだ江戸東京地方では、その大多数が破壊され農地や家屋の下になってしまったのだろう。
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下練馬村の氷川明神社と小名「丸山」。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-02-06
先日、下練馬村の「シクジツケミ」Click!(現・練馬区桜台)とその周辺地名が気になり、台地に刻まれた谷戸や丘上を取材していたとき、石神井川へ下り氷川台へと上る段丘一帯が、下落合の雰囲気によく似ていることに改めて気づいた。石神井川の南岸は、目白崖線に似ているバッケ(崖地)Click!もつづいている。もっとも、この一帯の石神井川両岸の段丘は、神田川(古代は平川)が流れる目白崖線ほど規模は大きくはないが。 「濕化味」の地名を調べているとき、「宿濕化味」とともに明治期には「前濕化味」(東濕化味と西濕化味に分化か?)の小名があり、石神井川にはそのエリアには濕化味橋と名づけられた橋が古くから架けられていることも知った。濕化味橋は現存しており、城北中央公園で発掘された栗原遺跡へと抜けられる橋で、同遺跡は旧石器時代から縄文・弥生・古墳・奈良・藤原(平安)と、各時代の遺物が一貫して出土した重層遺跡だ。 すなわち、周辺の他の遺跡とあわせて考えれば、この練馬地域もまた旧石器時代から現代まで間断なく人が住みつづけてきた経緯が、落合地域とまったく同様の土地がらだということになる。また、落合地域から片山地域Click!、江古田地域Click!、そして下練馬地域と西北方面を直線状に鳥瞰してみれば、これらのムラ同士では古代から人的あるいは物的な交流が頻繁にあったとみるのが、ごく自然な史的解釈なのだろう。 下落合と下練馬およびその周辺域で、なんとなく地勢や風情がよく似ているため、『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)などで旧蹟や小名をたどってみると、下練馬村の総鎮守として位置づけられている練馬の氷川明神(現・氷川台氷川明神社)をはじめ、牛頭天王社(スサノオ社)、おびただしい数の稲荷社、弁天社、第六天社Click!、金山社Click!(上練馬村)などなど、落合地域とその周辺域に酷似した地域性が浮かびあがってくる。 また、小名を詳細に参照してみると、氷川台の氷川明神社の南側を流れる石神井川には丸山橋(この架橋は新しい)が設置され、その南の段丘一帯が「丸山」と呼ばれていたことも判明した。ちょうど、下落合氷川明神社Click!と小名「丸山」Click!とがセットになっている下落合とよく似た地勢だ。さらに、下練馬村と上練馬村では「本村(ほんむら/もとむら)」Click!と呼ばれる小名、すなわち鎌倉期あるいはそれ以前から集落があったとみられる場所が、下練馬村の..
気になるエトセトラ
ChinchikoPapa
2024-02-06T23:59:59+09:00
先日、下練馬村の「シクジツケミ」Click!(現・練馬区桜台)とその周辺地名が気になり、台地に刻まれた谷戸や丘上を取材していたとき、石神井川へ下り氷川台へと上る段丘一帯が、下落合の雰囲気によく似ていることに改めて気づいた。石神井川の南岸は、目白崖線に似ているバッケ(崖地)Click!もつづいている。もっとも、この一帯の石神井川両岸の段丘は、神田川(古代は平川)が流れる目白崖線ほど規模は大きくはないが。
「濕化味」の地名を調べているとき、「宿濕化味」とともに明治期には「前濕化味」(東濕化味と西濕化味に分化か?)の小名があり、石神井川にはそのエリアには濕化味橋と名づけられた橋が古くから架けられていることも知った。濕化味橋は現存しており、城北中央公園で発掘された栗原遺跡へと抜けられる橋で、同遺跡は旧石器時代から縄文・弥生・古墳・奈良・藤原(平安)と、各時代の遺物が一貫して出土した重層遺跡だ。
すなわち、周辺の他の遺跡とあわせて考えれば、この練馬地域もまた旧石器時代から現代まで間断なく人が住みつづけてきた経緯が、落合地域とまったく同様の土地がらだということになる。また、落合地域から片山地域Click!、江古田地域Click!、そして下練馬地域と西北方面を直線状に鳥瞰してみれば、これらのムラ同士では古代から人的あるいは物的な交流が頻繁にあったとみるのが、ごく自然な史的解釈なのだろう。
下落合と下練馬およびその周辺域で、なんとなく地勢や風情がよく似ているため、『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)などで旧蹟や小名をたどってみると、下練馬村の総鎮守として位置づけられている練馬の氷川明神(現・氷川台氷川明神社)をはじめ、牛頭天王社(スサノオ社)、おびただしい数の稲荷社、弁天社、第六天社Click!、金山社Click!(上練馬村)などなど、落合地域とその周辺域に酷似した地域性が浮かびあがってくる。
また、小名を詳細に参照してみると、氷川台の氷川明神社の南側を流れる石神井川には丸山橋(この架橋は新しい)が設置され、その南の段丘一帯が「丸山」と呼ばれていたことも判明した。ちょうど、下落合氷川明神社Click!と小名「丸山」Click!とがセットになっている下落合とよく似た地勢だ。さらに、下練馬村と上練馬村では「本村(ほんむら/もとむら)」Click!と呼ばれる小名、すなわち鎌倉期あるいはそれ以前から集落があったとみられる場所が、下練馬村の氷川明神社のすぐ北北西並びに近接していることも確認できた。これも、下落合村と上落合村とでは、「本村」が川沿いのやや標高が高めな下落合村の南向き斜面にあり、下落合氷川明神社の西並びにあるのと近似している。
このような地勢で氷川社と、全国に展開する古墳地名の「丸山」Click!とがセットになった地域には、なんらかの古墳時代における痕跡が、下落合の「丸山」のすぐ西にあった小名「摺鉢山」Click!の大きなサークル跡や、上落合の小名「大塚」Click!エリアにおける巨大なサークル跡Click!と同様に見つかるのではないかと考えたわたしは、明治期以降の地形図や1936年(昭和11)以降の空中写真をシラミつぶしに当たってみることにした。すると、あちこちに人工的と思われる地形の痕跡を見つけることができた。
下練馬の氷川明神(スサノオ)が、下落合の氷川明神社(クシナダヒメ)と同様に大きな釣鐘型をしていたかどうかは、各時代の地形図を見ても、また空中写真を見ても樹林や田畑に覆われて判然としないが(農村地帯だったため空襲の被害は受けていない)、石神井川の北岸に古くから通う丘麓の街道、すなわち下落合の目白崖線沿いに通う雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)に相当する道筋に、大きな半円形の蛇行がいくつも確認できるのに気がついた。特に、氷川台氷川明神の西に位置する南に大きくふくらんだ半円が、ちょうど下落合氷川明神の西に位置する「摺鉢山」Click!の小名が残る、南へ大きくふくらんだ道筋に酷似しているのがわかる。この道筋から北を向くと、現在はなだらかな上り坂の住宅街が造成されている。
「下落合摺鉢山古墳(仮)」Click!の記事でも書いたけれど、昔も現代も街道(道路)を通すのであれば直線状に敷設していくのが利用者にはもっとも効率的であり、あえて半円形のような曲線の道筋を通すのは、そこになんらかの“障害物”があったため、その“障害物”の周囲を迂回する必要に迫られたからだと解釈するのが妥当だろう。特に、トンネル技術も大規模な切通しを拓く土木技術も乏しかった昔日では、“障害物”を避けて道路を敷設するほうが、よほど手早く効率的だったのだ。そのような、古(いにしえ)の視線で地形図や空中写真を見ていると、興味深い事実に気づくことが多々ある。
以上のようなことを考えている最中、友人からさらに興味深い情報が寄せられた。石神井川の南岸に位置する古くからの小名「丸山」の丘上に、巨大なサークル痕が見えるというのだ。さっそく、空中写真を年代順にたどってみると、同地区は戦前戦後を通じて本格的な宅地化が進んでいないせいか、古い時代の農道(畔および畦道)がそのまま戦後まで引きつづき残存している。その形状を観察していると、確かに大きなサークル状の痕跡になることが判明した。位置的には、西側に切れこむ宿濕化味の東谷戸と、東側に切れこむ羽根沢の谷戸との中間にある高台に見えている。
サークルの直径は約250mで、正円形の北東部が江戸期に整備されたとみられる、埼玉(さきたま)道に薄く削られているのがわかる。正円は、東西の谷戸に沿うように南側で途切れており、前方後円墳の墳丘を崩して周囲四方へ均すように開拓すればこのような形状になるだろうか。ことに西側の土砂は、宿濕化味の東谷戸へ落とし農地を拡げるのに適していただろう。ちょうど、下沼袋の丸山・三谷ケースClick!や南青山ケースClick!と同様の、大規模な土木技術が浸透した江戸期における開墾事業を想起させる。
計測してみると、小名「丸山」に残された鍵穴型の全長は南北に約380mほどだが、先述のように墳丘の土砂を崩して周囲に均しているとすれば、下落合の「摺鉢山」と同様に200mクラスの前方後円墳、ないしはホタテ貝式古墳を想定できそうだ。その後円部の上には、1950年(昭和25)に練馬区立開進第三中学校が移転・開校しているが、その建設工事の際になにか遺物が出土してやしないだろうか。あるいは、江戸期の農地開拓で玄室や羨道の組石(房州石Click!?)、埴輪などの出土物はあらかた打ち棄てられてしまったのかもしれないが、下落合のケースのように田畑など地面を掘り起こすと、埴輪片や土器片、ときには副葬品とみられる遺物が出土する事例がなかったかどうか気になるところだ。
1987年(昭和62)の古い『練馬区小史』(練馬区)には、次のような記述が見えている。
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<古墳造営の>関東での動きは鈍く、北関東を勢力圏とする毛野<ケヌ>国(毛国→群馬・栃木の平野部)が、上毛野<カミツケヌ>(のち上野)、下毛野<シモツケヌ>(のち下野)へと展開する。この毛野勢力は新文化を十分吸収したものであり、時代は弥生から次の古墳文化へと進む。時代は四世紀に入る。東京都地域では、多摩川中流域に大小の古墳Click!が造られ、今の芝公園付近にも大型の古墳Click!を残すようになるが、練馬には古墳として特に記載するほどのものはなく、広い武蔵野平野の一部として古墳時代末の開発を待った形になっていた。(< >内引用者註)
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北関東の強大な毛野勢力Click!については触れているものの、全体が古い記述のままで、おもに1980年代以降に関東各地でダイナミックに展開された最新の発見・発掘成果に関しては、いまだ触れられずにいる。「古墳として特に記載するほどのものはなく」ではなく、早くから江戸近郊の農地開拓が行われていたため破壊されたケースが多く、また戦後は宅地化が急速に進み調査・発掘する機会を逸しているだけではないだろうか。
ちょっと余談だが、旧石器時代や縄文期(遺跡数および遺跡規模による)はもちろん、弥生期や古墳期を通じても坂東(関東地方)の人口は現代と同様に、他の地方を凌駕するほど多かったのではないかという、人文科学ばかりでなく社会科学をベースとした「古代経済論+人口論」の切り口が非常に興味深い。近畿圏(関西史)の視点から、明治以降は薩長政府によるおもに教育分野のプロパガンダによってイメージづけられた、古代はまつろわぬ「蛮族」の「坂東夷」が跋扈する「未開の原野」=武蔵野という皇国史観Click!のレッテル貼りが、戦後もしばらくの間つづいていた。もちろん、敵対する勢力を「蛮族」として蔑称するのは、中国や朝鮮半島から借りた政治思想的視座だ。
けれども、1980年代以降の古代史学あるいは考古学における群馬・栃木(ケヌ地方=毛野勢力のクニグニ)の巨大古墳群をはじめ、千葉(チパ地方=南武蔵勢力のクニグニ)、埼玉(サキタマ地方=北武蔵勢力のクニグニ)、および茨城などにおける膨大な大小古墳群が次々と発見されるにおよび(南武蔵勢力圏である江戸東京地方は、早くからの都市化および近郊農地化のため破壊ないしは発掘が不可能となっている)、それら古墳群をこれほど大規模かつ大量に造営するのに必要な、当時の肥沃な生産性を基盤とした経済力とマンパワー(労働力)が、必然的に「未開の原野」の神話史観ではまったく説明がつかないからだ。特に山林が比較的多く残され、古墳調査に熱心な千葉県と群馬県(つづいて埼玉県もかな?)では最先端の古墳探査技術を駆使し、21世紀に入ってからは続々と新発見がつづいている。
以前、下練馬の丸山地域の東側にあたる向原地域で、妖怪譚とともに鍵穴型のフォルムが残るポイントClick!を探ったが、同様に早くからの農地化で崩されてしまった「百八塚」(無数の塚)Click!と同様の大小古墳Click!が、練馬各地に散在していたのではないか。それは、各所に見え隠れする古墳地名(小名)からも、それをうかがい知ることができる。たとえば、自衛隊練馬駐屯地の周辺には、宅地開発がはじまる前の農村時代から田畑の畔や用水を含め、驚くほどあからさまなフォルムが残されているが、それはまた、次の物語……。
◆写真上:下練馬地域の総鎮守である、氷川台の氷川明神社。境内のフォルムが判然としないが、多くの氷川社Click!のように古墳上に築かれた社だろうか。
◆写真中上:上は、石神井川の南につづく崖線の坂道。中は、崖線上に築かれている高稲荷社の擁壁。ひな壇状の擁壁は、まるでタタラClick!の神奈(鉄穴)流しClick!跡を想起させるが、高稲荷は高鋳成が中世以降に転化したものか。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる氷川台氷川社の周辺で、あちこちに気になる半円形の道筋が見られる。
◆写真中下:上は、1955年(昭和30)ごろに撮影された濕化味橋。田畑の中に点在する、樹木が繁るこんもりとしたふくらみが気になる。中は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる丸山地域。下は、埼玉道の明和年紀が残る庚申塚。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる丸山地域。中は、同じく1947年(昭和22)の丸山地域。下は、急速に宅地化が進む1948年(昭和23)の丸山地域。
★おまけ
バッケ(崖地)上に設置された高稲荷社(上)で、いつの時代かは不明だがタタラ集団Click!が創建した鋳成神Click!の聖域だったものが、中世以降に農業神の稲荷へ転化しているのではないか。埼玉道の付近には、江戸期からの大農家だったとみられる屋敷(中)がいまも多く残っている。丸山地域の丘上に開校している、練馬区立開進第三中学校のキャンパス(下)。
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大泉黒石の墓所は化石ちらしの青御影石。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-02-03
下落合に二度も住んでいた大泉黒石Click!について、いろいろと記事をアップし全集をはじめ作品群に目を通したところ、とても面白いので急に墓詣でを思いたった。拙ブログに登場し、ことさら人物像に興味が湧き魅力を感じて、血縁でもないのに進んで墓参までしたくなったのは、過去に鎌倉幕府における実質上の将軍=CEOだった政子さんClick!、芝居「東海道(あずまかいどう)四谷怪談」Click!ではなぜか怨霊にされてしまった(田宮)於岩さんClick!と、芝居「松竹梅雪曙(しょうちくばいゆきのあけぼの)」の八百屋お七Click!、一家3人が眠る麹町の佐伯祐三Click!の墓所Click!ぐらいしかいない。 大泉黒石の墓所は、西武池袋線・小平駅前に拡がる都立小平霊園にある。昭和初期から、箱根土地Click!が国立Click!の学園都市と連動するように、鉄道敷設まで計画して宅地開発していた地域だが、実際に住宅街が形成されたのは戦後になってからのことだ。大泉黒石が眠るのは、霊園西側にあたる一画だった。まるで公園のような墓所で、ところどころにはベンチがすえられ、ハイキングを楽しむような雰囲気で墓参できるようになっている。実際、芝生にシートを拡げランチの準備をしている家族連れもいた。 さっそくお参りを済ませ、大泉家の青黒っぽく見える墓石をよく観察すると、いわゆる青御影石(ブルーパール)と呼ばれる石材で、一面に青白く光る貝殻の化石が混じっているのがわかる。強めの光が当たると、これらの貝化石がまるで螺鈿のようにブルーやピンクなど真珠色に輝くので、文字どおり「パール」と呼ばれるゆえんだ。三浦半島などでの化石採集Click!が好きだった、大泉黒石にはピッタリの墓石といえるだろうか。 ところで、読売新聞の転居欄で1926年(大正15)9月現在、下落合744番地Click!に大泉黒石の転居先を見つけたとき、わたしは自分でも呆れる初歩的なミスをしていたのに遅まきながら気がついた。それは、大泉黒石の落合地域と周辺域における、めまぐるしい転居を追いかける記事を書いた際、板橋区中新井1丁目71番地と板橋区下石神井町北1丁目305番地の転居先を、双方とも「練馬区」Click!に訂正してしまったことだ。これはありえない恥ずかしいミスで、東京35区Click!に板橋区はあっても練馬区は存在しない。板橋区に「練馬地区」はあったが、練馬区が板橋区から分離・独立する..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-02-03T22:48:09+09:00
下落合に二度も住んでいた大泉黒石Click!について、いろいろと記事をアップし全集をはじめ作品群に目を通したところ、とても面白いので急に墓詣でを思いたった。拙ブログに登場し、ことさら人物像に興味が湧き魅力を感じて、血縁でもないのに進んで墓参までしたくなったのは、過去に鎌倉幕府における実質上の将軍=CEOだった政子さんClick!、芝居「東海道(あずまかいどう)四谷怪談」Click!ではなぜか怨霊にされてしまった(田宮)於岩さんClick!と、芝居「松竹梅雪曙(しょうちくばいゆきのあけぼの)」の八百屋お七Click!、一家3人が眠る麹町の佐伯祐三Click!の墓所Click!ぐらいしかいない。
大泉黒石の墓所は、西武池袋線・小平駅前に拡がる都立小平霊園にある。昭和初期から、箱根土地Click!が国立Click!の学園都市と連動するように、鉄道敷設まで計画して宅地開発していた地域だが、実際に住宅街が形成されたのは戦後になってからのことだ。大泉黒石が眠るのは、霊園西側にあたる一画だった。まるで公園のような墓所で、ところどころにはベンチがすえられ、ハイキングを楽しむような雰囲気で墓参できるようになっている。実際、芝生にシートを拡げランチの準備をしている家族連れもいた。
さっそくお参りを済ませ、大泉家の青黒っぽく見える墓石をよく観察すると、いわゆる青御影石(ブルーパール)と呼ばれる石材で、一面に青白く光る貝殻の化石が混じっているのがわかる。強めの光が当たると、これらの貝化石がまるで螺鈿のようにブルーやピンクなど真珠色に輝くので、文字どおり「パール」と呼ばれるゆえんだ。三浦半島などでの化石採集Click!が好きだった、大泉黒石にはピッタリの墓石といえるだろうか。
ところで、読売新聞の転居欄で1926年(大正15)9月現在、下落合744番地Click!に大泉黒石の転居先を見つけたとき、わたしは自分でも呆れる初歩的なミスをしていたのに遅まきながら気がついた。それは、大泉黒石の落合地域と周辺域における、めまぐるしい転居を追いかける記事を書いた際、板橋区中新井1丁目71番地と板橋区下石神井町北1丁目305番地の転居先を、双方とも「練馬区」Click!に訂正してしまったことだ。これはありえない恥ずかしいミスで、東京35区Click!に板橋区はあっても練馬区は存在しない。板橋区に「練馬地区」はあったが、練馬区が板橋区から分離・独立するのは、東京23区制が成立した戦後、1947年(昭和22)になってからのことだ。したがって、それぞれの『文芸年鑑』(改造社版/第一書房版)が記録しているとおり、双方の住所は「板橋区」のままが正しい。
ということで、落合地域とその周辺域における大泉黒石Click!の転居先を、もう一度改めて整理してみよう。まず、いま現在判明している住所でもっとも早い時期のものが、1921年(大正10)の高田町雑司ヶ谷442番地、すなわち黒石自身が『俺の自叙伝』の中で「三条家と背中合わせに偉大なる冠木の門」と書いている家だ。このあと、小さな子どもたちが汽車を見に出られるほど、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)にごく近いエリアに転居している可能性が高いが、以下、その転居ルートを追いかけてみよう。
高田町雑司ヶ谷442番地(1921年) → 同町雑司ヶ谷?(1923年ごろ/武蔵野鉄道近く) → 長崎村五郎窪4213番地(1924年) → 長崎町大和田2028番地(1926年) → 落合町下落合744番地(1926年9月~) → 高田町鶉山1501番地(1930年) → 板橋区中新井1丁目71番地(1932年) → 板橋区下石神井北1丁目305番地(1936年) → 淀橋区下落合4丁目2130番地(1936年~)……ということになる。大泉黒石は“引っ越し魔”なので、この間にまだ判明していない住所がいくつかあるのかもしれない。
上記の住所で、高田町鶉山1501番地の家を、前回は『文芸年鑑』(改造社版)の記録に沿って1932年(昭和7)としていたが、1930年(昭和5)には同住所に住んでいたことが判明した。1988年(昭和63)に緑書房から出版された『大泉黒石全集』第8巻に添付の「黒石廻廊/大泉黒石全集書報」No.8には、日本画家で作家の岸大洞による『巡査と雪まみれの組打ちとなった黒石』が収録されており、文中には1930年(昭和5)の暮れあたりに高田町鶉山の大泉邸を訪ねるくだりが登場している。
大泉黒石が、下落合744番地に住んだ大正末から昭和初期にかけて、彼はどのような文学表現の位置にいたのだろうか。1926年(大正15)は、ちょうど『人間廃業』(文録社)と『人間開業』(毎夕社出版部)を相次いで出版した時期と重なる。その様子を、2013年(平成25)に河出書房新社から出版された大泉黒石『黄夫人の手―黒石怪奇物語集―』収録の、由良君美『無為の饒舌』から少し引用してみよう。
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無為の地点に坐りこみ、文壇の狭隘な偏見のなかで生き残ろうとすれば、黒石にとってなお可能であったのは、偽作のレトリックを鋭ぎすますことであった。『人間廃業』はその題名から、すでに昭和無頼派を予想させるものがあるが、『人間失格』の湿り気はこれっぱかしもなく、爽快な饒舌の大洪水である。レトリックの美事(ママ)さにおいて、おそらく黒石文学のひとつのピークであろう。ここにも黒石の中国思想とロシア文学の教養は沁みでているが、落語や戯作者の修辞を完全にこなした自在な駆使ぶりは、驚嘆に価する。(中略) とりわけ面白いのは、黒石独自の日本人論で、アナーキズムとボルシェヴィズムを流行のように口にしながら、いずれは日本人の?せ我慢が尻尾をだして自滅するまで大挙して日本刀を振りまわす時勢が来るであろう予測を、「<アナ>と翻えり、<ボル>と揺れる……瑞穂国の枝や葉」に仮託して、辛辣に衝く部分である。風俗諷刺も抱腹絶倒の箇所にみち、これこそ大正文化史の生きた見本である。
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昭和期に入ると、「私小説」家たちが群れる「文壇」からは、「純文学」ではなく「通俗小説」だと規定されて意図的に締めだされ、文学関連の雑誌社・出版社からは「文壇」が手をまわして排斥された黒石は、日本各地を旅して旅行記や紀行文を発表することが多くなる。下落合744番地から高田町鶉山1501番地へ転居したころは、群馬県の沼田から月夜野町、湯宿温泉、栃木県の奥日光などをまわって、盛んに山岳紀行や温泉紀行を執筆している。おそらく、当時は“日本の秘境”といわれた山岳地帯あるいは秘境温泉を、黒石は山岳雑誌や新聞社と連携しながら、ほとんど取材・踏破しているのではないかとさえ思える。
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1930年(昭和5)11月15日に、群馬県月夜野町にいた作家・綿貰六助を訪ねた大泉黒石は、その足で湯宿温泉に向かっている。雪が降る深夜の三国街道を、和服にマントを羽織りリュックサックを背負った姿で歩いていた黒石は、さっそく怪しまれて非常警戒中だった巡査の不審訊問にひっかかった。非常警戒中だったのは、前日に首相の浜口雄幸が東京駅で銃撃される事件が起きていたからだ。
黒石が反抗的だったのだろう、拘引しようとする巡査と乱闘になった。黒石は身体が大きいので、巡査が組み伏せられそうなところへ加勢が入り、黒石はその場で逮捕されている。先述の岸大洞による、『巡査と雪まみれの組打ちとなった黒石』から引用してみよう。
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折しもタクシーで通り合わせた教員と運転手と三人掛りで先生(大泉黒石)を車に押し込め、沼田警察署の“ブタ箱”入り。しかし、ロシア皇帝縁類の文士であると翌日聞いた署長が、お見舞い酒を買い、先生は留置場を出た。その後、湯宿温泉に泊まり、法師温泉へ行き、三国山へ登る途中で吹雪に見舞われた。先生は難行中、先夜、月夜野町で車に押し込まれた際に打った胸の痛みが再発。/忌ま忌ましさに宿を谷川温泉に移し、「三国の処女雪」と題した紀行文を書き、十二月八日から四回、国民新聞学芸欄に連載し、即日郵送してくれた。(カッコ内引用者註)
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沼田警察署の署長は、「ロシア皇帝縁類の文士」だとして釈放しているが、大泉黒石Click!の父親アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチは、ペテルブルグ大学卒の法学博士で帝政ロシアの領事官だったが、トルストイClick!と同郷のヤースナヤ・ポリャーナにあった農家の出身であり、ロシア皇帝との縁故関係はない。署長が詫びに酒を買って差し入れているので、署員の中に黒石の愛読者がいて「皇帝縁類の文士」だというウソを、文学に疎かった署長に吹きこんだのかもしれない。大正末から昭和初期、ロシア革命の混乱を避け日本に亡命したロシア人は、それほどめずらしい存在ではなかった。
翌1931年(昭和6)の春、大泉黒石は栃木県の鬼怒川温泉にいた。講談社から黒石に声がかかり、すでに紀行作家としても有名だった彼に執筆を依頼している。この企画は、作家や画家たちに日光から鬼怒川、塩原を回遊してもらい紀行文を書いてもらうという趣旨で、参加したのは黒石のほか竹久夢二Click!、洋画家・水木伸一、漫画家・麻生豊Click!、詩人・福田正夫、そして作家・田中貢太郎Click!の6名だった。この中で、田中貢太郎は黒石を「文壇」から排斥するのに加担した人物なので、お互いやや気まずかったのではないだろうか。
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このとき、現地を案内したのは栃木の詩人・泉漾太郎だが、大泉黒石は彼が新婚だと知ると水木伸一が描いた色紙の絵に、「せまくともおらが家だぞ蝸牛」の俳句を賛している。詩・歌・句にも造詣が深い黒石だが、「蝸牛」は少し早い季違いだと感じただろうか。
石碑(いしぶみ)や古語父の里の蕎麦の花
姫に肖(に)て貴きものを女郎花(おみなえし)
山の宿やお膳の上の螽斯(きりぎりす)
干柿や五戸の部落の冬構へ 黒石
◆写真上:小平霊園にある、貝化石混じりの青御影石を用いた大泉黒石の墓。
◆写真中上:上は、大泉黒石の墓石全景。中・下は、1934年(昭和9)に出版された大泉黒石『山と渓谷』(浩文社)に挿入された大泉黒石の漫画とスケッチ。
◆写真中下:上は、1930年(昭和5)出版の大泉黒石『峡谷と温泉』(二松堂/左)と、1934年(昭和9)出版の同『山と峡谷』(浩文社/右)。中は、上記『山と渓谷』(浩文社)掲載の黒石スケッチ。下は、黒部渓谷をわたる大泉黒石(パーティ右先登/AI着色)。
◆写真下:上左は、2013年(平成25)に出版された大泉黒石『黄夫人の手』(河出書房新社)。上右は、1988年(昭和53)に出版された『大泉黒石全集』第8巻(緑書房)。中は、上記『山と渓谷』(浩文社)に掲載の黒石漫画で1931年(昭和6)の日光~塩原紀行(講談社主宰)の1シーンだとみられる。下は、盛んに山登りをするようになったころの大泉黒石。
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いろは牛肉店の木村荘八とその周辺。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-01-31
拙ブログでは木村荘八Click!について、岸田劉生Click!との関連などでいろいろ書いてきたが、それは同店が明治期に、わたしの実家のご近所Click!だったせいでもある。日本橋吉川町(両国広小路/現・東日本橋2丁目)に、有名な「第八いろは牛肉店」Click!(牛鍋店)があったからで、日本橋米澤町の実家とは直線距離で150mほどしか離れていない。 木村荘八Click!の父親で創業者の木村荘平は、1906年(明治39)に67歳(数え歳:以下同)になると芝浦の自邸(芝浜館)で病没しており、跡を継いだ2代目・木村荘平(長男・木村荘蔵)には経営能力がなく、大正期に入るとまもなく倒産している。親父が生まれたとき、第八いろは牛肉店はとうに閉店していたはずだが、祖父母に連れられて通った親の世代からから、さまざまなエピソードを聞かされたのだろう、親父の昔話Click!の中にも両国広小路Click!の「いろは牛肉店」は幾度となく登場していた。 だが、木村荘八Click!が日本橋吉川町で生まれた経緯や、洋画家をめざす以前の様子についてはあまり触れてこなかったように思う。吉川町の第八いろは牛肉店は、現在は東日本橋2丁目の両国広小路の南寄りにあった町だが、同店舗が建っていた跡はその後の両国広小路の大規模な拡幅工事とともに、現在は通りの下になってしまったとみられる。木村荘平は、もともと力士になりたかったほどガタイの大きな人物だったようだが、京の伏見で青物屋を開店していたところ明治維新を迎え、まもなく店が倒産してしまった。その後、神戸で製茶業をはじめたが、これもほどなく倒産している。 1878年(明治11)に39歳になっていた木村荘平は、東京にやってきて一旗あげようと三田四国町(現・港区芝3丁目の一部)に大屋敷を借りて住んでいる。同町には、明治政府が設置した屠畜場があり、彼は官有物払い下げの動きに乗じて同施設を安価で手に入れた。江戸期より、大江戸(おえど)ではももんじ(獣肉)Click!が盛んに食べられていたが、牛は運搬や農耕に役立つ動物なので食べていない。だが、これからは牛肉を使った洋食や和食が流行るとみた、彼の思惑はみごとに当たることになる。 屠畜場の入手とほぼ同時に、まずは三田に牛鍋屋Click!の1号店を開店した。江戸期からつづく、各種すき焼き料理Click!とは異なり、したじ(濃口醤油)ベースの出汁をあらかじめ張った鉄製鍋に牛肉..
気になるエトセトラ
ChinchikoPapa
2024-01-31T23:59:59+09:00
拙ブログでは木村荘八Click!について、岸田劉生Click!との関連などでいろいろ書いてきたが、それは同店が明治期に、わたしの実家のご近所Click!だったせいでもある。日本橋吉川町(両国広小路/現・東日本橋2丁目)に、有名な「第八いろは牛肉店」Click!(牛鍋店)があったからで、日本橋米澤町の実家とは直線距離で150mほどしか離れていない。
木村荘八Click!の父親で創業者の木村荘平は、1906年(明治39)に67歳(数え歳:以下同)になると芝浦の自邸(芝浜館)で病没しており、跡を継いだ2代目・木村荘平(長男・木村荘蔵)には経営能力がなく、大正期に入るとまもなく倒産している。親父が生まれたとき、第八いろは牛肉店はとうに閉店していたはずだが、祖父母に連れられて通った親の世代からから、さまざまなエピソードを聞かされたのだろう、親父の昔話Click!の中にも両国広小路Click!の「いろは牛肉店」は幾度となく登場していた。
だが、木村荘八Click!が日本橋吉川町で生まれた経緯や、洋画家をめざす以前の様子についてはあまり触れてこなかったように思う。吉川町の第八いろは牛肉店は、現在は東日本橋2丁目の両国広小路の南寄りにあった町だが、同店舗が建っていた跡はその後の両国広小路の大規模な拡幅工事とともに、現在は通りの下になってしまったとみられる。木村荘平は、もともと力士になりたかったほどガタイの大きな人物だったようだが、京の伏見で青物屋を開店していたところ明治維新を迎え、まもなく店が倒産してしまった。その後、神戸で製茶業をはじめたが、これもほどなく倒産している。
1878年(明治11)に39歳になっていた木村荘平は、東京にやってきて一旗あげようと三田四国町(現・港区芝3丁目の一部)に大屋敷を借りて住んでいる。同町には、明治政府が設置した屠畜場があり、彼は官有物払い下げの動きに乗じて同施設を安価で手に入れた。江戸期より、大江戸(おえど)ではももんじ(獣肉)Click!が盛んに食べられていたが、牛は運搬や農耕に役立つ動物なので食べていない。だが、これからは牛肉を使った洋食や和食が流行るとみた、彼の思惑はみごとに当たることになる。
屠畜場の入手とほぼ同時に、まずは三田に牛鍋屋Click!の1号店を開店した。江戸期からつづく、各種すき焼き料理Click!とは異なり、したじ(濃口醤油)ベースの出汁をあらかじめ張った鉄製鍋に牛肉を入れ、すき焼きClick!と近似した東京近郊の野菜や豆腐を入れて煮る料理法だった。店の経営は、いっさいを“2号さん”の岡本まさ(のち正妻)に任せている。そのときの様子を、1969年(昭和44)に学藝書林から出版された『ドキュメント日本人第9巻/虚人列伝』収録の、小沢信男『いろは大王・荘平』から引用してみよう。
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明治十一年、上京して新事業にとりかかった荘平は、さっそく三田四国町の一角に牛鍋屋をひらき、ツレアイの岡本まさに経営させた。どうせ四辺は原っぱ、屠殺場の従業員やマッチ工場の職人相手の掘立小屋みたいな小食堂だった。屋号を「いろは」と名づけた。いろはは手習い学問のはじまり、初心忘るべからず。新天地で新事業に立ちむかう荘平の、率直な決意がしのばれる。/それから二十余年、「いろは」は東京中はおろか日本中にも知られるような大店になるのだ。やはり荘平の最も成功した事業といわねばなるまい。
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木村荘平が死去したとき、いろは牛肉店は東京で20店舗を数えるまでになっていた。牛鍋店が流行るとともに、木村荘平には大金が転がりこみ、やがて生来の女好きから愛人を次々につくることになった。だが、彼には愛人を妾宅に囲って遊ばせておくという発想がなく、次々とできる愛人にいろは牛肉店の支店を任せていくことになる。つまり、「自分の食い扶持は自分で稼いでよね」という、まことに都合のよい“経営方針”を打ちだしていた。
彼の死後、1908年(明治41)現在で3人の妹や愛人たちに経営を任せ、営業していた店は以下のとおりだ。すでに5店舗がつぶれるか、人手にわたっていたのがわかる。
この中で、第八いろは牛肉店が木村荘八が生まれた日本橋吉川町の店舗だ。同店の経営は、三田で知りあった当時はまだ16歳の鈴木という女性が切り盛りしている。第八いろは牛肉店の開店当時は、いまだハイティーンの年齢だったろう。木村荘八は、彼女の二男として生まれた。長男が木村荘太なのに、なぜ二男が「荘八」なのかというと、彼は木村荘平の正妻や愛人の間でできた子どもたちのうち、8番目に生まれた男の子だからだ。父親が死去したとき、木村荘八はまだ14歳の中学生だった。
ところで、落合地域からいろは牛肉店の牛鍋が食べたいと思ったら、明治末では牛込通寺町(現・神楽坂6丁目の一部)の第十八いろは牛肉店が、最寄りの店ということになる。落合地域から、街道筋である現在の早稲田通りをそのまま神楽坂方面へ歩けば、3.5~4.0kmほどで同店に到着できる。たとえば、目白駅や高田馬場駅あたりからだと、当時の未整備な道筋を考慮しても、およそ歩いて40~50分前後で店の暖簾をくぐれただろう。
余談だけれど、わたしの学生時代まで神楽坂には、いくつかの古い牛鍋屋が営業をつづけていた。座敷の2階に上がると、窓の手すり越しに神楽坂の毘沙門横丁を眺めながら牛鍋をつつくことができた。牛鍋は、すき焼きとは異なり出汁を先に張るので、薬研(やげん=七色唐辛子Click!)や山椒をかけて食べることが多かったが、中でも毘沙門天(善國寺)の南隣りにあった「牛もん」が安くて気どらず、古い建物で風情もあり好きだった。
さて、第十八いろは牛肉店は木村荘平の愛人が経営していたか、あるいは子どもがいたのかは不明だが、つごう30人にものぼる彼の子どもたちの構成は以下のとおりだ。
実に男子13人・女子17人で、このうち生まれてまもなく早逝した子どもを除くと、男子11人・女子10人の息子や娘たちがいたことになる。
木村荘平は、妻や愛人たち、それに子どもたちを養うために次々と事業を起こしていった。三田で屠畜場を経営していたのは先に触れたが、その東京家畜市場の社長をはじめ、東京諸畜売肉商(食肉店)組合の頭取、東京博善会社(火葬場)の社長、東京本芝浦礦泉会社の社長、日本麦酒醸造会社(現・ヱビスビール)の社長などなどを兼業し、はては東京商会議所議員、日本商家同志会顧問、東京市会議員、東京府会議員などまでつとめている。この中で、現在も事業が社名そのままで存続しているのは、東京に7ヶ所の斎場を運営している博善社のみだ。もちろん、上落合の落合斎場Click!も同社の経営となっている。
木村荘八は、父・荘平のことを「興味が湧かず、親愛感を起さない」、「『滑稽』で『ヘンてこ』で大べらぼうClick!」(『続現代風俗帖』)と書いているが、彼が17歳になり兄の荘太が結婚すると、第八いろは店は兄夫婦が経営することになり、荘八と母親は浅草東仲町(浅草広小路)にある第十いろは店を任されることになった。
そこには、1890年(明治23)に21歳で別荘地Click!の大磯Click!に没した長女の木村栄子(曙)が住んでいた店であり、中学生の木村荘八は彼女のいた部屋をあてがわれている。そして、23歳もちがう一面識もない姉の使っていた机も、そのまま彼が受け継いだ。1953年(昭和28)に東峰書房から出版された、木村荘八『続現代風俗帖』から引用してみよう。
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机には曳出しが二つあると云つたが、見ると、その一方はカラで、向つて右の方だけに厚さ一寸程の黒のクロース表紙のノートと、いはゆる「唐ちりめん」のやうな小切れを菊形にはいでふつくらと綿を入れて作つた古びた肘突き(さしわたし四五寸)。この二品と、曳出しの奥に、一つまみ程、紫紺色の毛糸屑がつくねてあつた。(中略) 曙さんは手細工に奇用(ママ)だつたと伝へられたから、勿論肘突きは曙さんの手製であつたらうし、毛糸は手編みものの残りでもあらう。ノートは小説の原稿の書いてあるものだつた。/僕は僕のモノにしてから、机はよごしたし、曳出しの中は乱雑にしたけれども、三つの品物はいつも「尊敬」と「愛情」を持つて丁寧にしてゐた。毛糸屑の入れ場には困りながら、いつも別にその辺へつまんで入れておいた、その手触りも、今懐しく思ひ返すことが出来る。
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木村曙は、1889年(明治23)に読売新聞へ連載小説『婦女の鑑』を連載したのをはじめ、次々に新聞各紙へ連載作品を執筆するなど、明治以降に出現した女性作家の第1号だった。その活動は、同じ歳の樋口一葉Click!よりも5~6年ほど早い。
彼女は、東京高等女学校(現・お茶の水大学付属高等学校)を出ると、フランス語と英語に堪能なため、文部省からフランス留学を命じられた女性の随行員としてヨーロッパへ留学しようとしたが、父親の荘平に反対され、浅草広小路の第十いろは店の帳簿係に就いている。その仕事の合い間に、のちに荘八が使う書机で次々と作品を執筆していたのだろう。
木村荘八がもの心つくころ、すでに死去した木村栄子は「曙さん」と呼ばれ偶像化されており、木村一族(おもに女性)から尊敬されていた。だが、伝説的な存在ではあっても、彼には姉としての情が湧かず、あくまでも高名な女性作家として「曙さん」を眺めている。
◆写真上:日本橋吉川町にあった、木村荘八が描く記憶画『第八いろは牛肉店』。
◆写真中上:上左は、晩年の木村荘平。上右は、明治前期に撮影の左から右へ「現代ひさ子夫人・木村荘平・先代まさ子夫人」のキャプション。1908年(明治41)出版の松永敏太郎『木村荘平君伝』(錦蘭社)の掲載写真で、早い話が「愛人ひさ子・荘平・正妻まさ子」ということだ。中は、木村荘八が描いた記憶画で三田四国町の『第一いろは牛肉店』。下は、同町の木村荘平邸(芝浜館)に集合し木村夫妻と愛人たち(孫含む)の記念写真。
◆写真中下:上は、第八いろは牛肉店を描いた木村荘八の記憶画『牛肉店帳場』(1932年)。中は、木村荘八の記憶画で長男の結婚で吉川町から引っ越した浅草広小路の『第十いろは牛肉店』。建物1階に、「曙女史室」の吹き出しがみえる。下は、同店の居間を描いた記憶画だろうか木村荘八『室内婦女』(1929年)。新聞を読む母親と、遊びにきた近所の少女と外出するのか髪を結いなおす妹(士女)を描いているのかもしれない。
◆写真下:上は、前出の『木村荘平君伝』に掲載された第八いろは牛肉店の写真だが暗くてよくわからない。中上は、木村一族の長女で明治最初期の小説家だった木村曙(栄子左/)と木村荘八(右)。中下は、浅草の第十いろは店で木村荘八が受け継いだ木村曙の書机。下は、1912年(大正元)ごろに撮影されたフュウザン会の木村荘八(右)と岸田劉生(左下)。
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「どこを切っても金太郎」的な昔話の世界。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-01-28
またまたキャプションがなく、記憶にもない山の写真が出てきた。今度はアルバムに貼付されず、ネガとともに袋に入ったままのカラー写真だ。わたしが大きくなった小学生3~4年の姿なので、カラーフィルムが普及したころのものだろう。 山の斜面から、すでに冠雪した大きな富士山がとらえられており、その富士の容姿から神奈川県西部の山か、静岡県東部の山から眺めたものだとわかる。家族が登っている山はそれほど高くはなく、写真を次々にめくると登山道がわりの涸れ沢や、根府川石らしい石仏(江戸期)が写っている。家族が山道をゆく写真を見ていくうちに、社(やしろ)の写真が出てきた。拝殿本殿の背後に、大きな山を背負っているので“ご神体”は背後の山岳そのものか、そこにあるなんらかの記念物だろうと想定して、しばらくプリントをめくるうちに「まさかり(鉞)」が岩に添えられているので、ようやく気がついた。 これらの写真は、足柄下郡の箱根町にある金時(公時)社と、奥の院がある裏山ではないだろうか。金時社は、その北側の約8kmほどのところに位置する、静岡県小山町の不老山南峰の山麓にも同名で建立されていてまぎらわしいが、社の背後に見える冬枯れした山のかたちが、明らかに箱根外輪山の金時山なので神奈川県側だと規定することができる。 写真の後半では、矢倉沢峠近くにある同社の奥の院や、金時手鞠石と金時宿り石とみられる風景も記録されている。これらの巨石や巨岩が、「金太郎」が祭神として奉られる以前、山麓にある金時社の本来の主柱(祭神)であり、おおもとの信仰は縄文時代からつづくとされる、巨岩・巨石信仰の聖域だったのではないだろうか。金時と結びつけられたのは、金太郎伝説がちまたで知られるようになった、中世以降の付会によるものだろう。 場所が不明だった前回の山岳写真Click!は、金時山を登山する小学校低学年のわたしがとらえられていたけれど、それから数年ののち、今度は金時山の山麓(南側)にある金時社とその裏山に登っていたことが判明した。この写真の情景も、わたしはまったく記憶に残っていないが、親たちが繰り返しわたしを連れて金時山とその周辺域を訪れているところをみると、ことさら「♪ま~さかりか~ついで金太郎~」の「♪あ~しがらや~まのやまおくで~」界隈が気に入っていたものだろうか。w 余談だけれど、子どものころに東京の街を歩いていて飴屋を見つけると、親父がよく金太郎飴を買ってくれた。家..
気になるエトセトラ
ChinchikoPapa
2024-01-28T23:59:59+09:00
またまたキャプションがなく、記憶にもない山の写真が出てきた。今度はアルバムに貼付されず、ネガとともに袋に入ったままのカラー写真だ。わたしが大きくなった小学生3~4年の姿なので、カラーフィルムが普及したころのものだろう。
山の斜面から、すでに冠雪した大きな富士山がとらえられており、その富士の容姿から神奈川県西部の山か、静岡県東部の山から眺めたものだとわかる。家族が登っている山はそれほど高くはなく、写真を次々にめくると登山道がわりの涸れ沢や、根府川石らしい石仏(江戸期)が写っている。家族が山道をゆく写真を見ていくうちに、社(やしろ)の写真が出てきた。拝殿本殿の背後に、大きな山を背負っているので“ご神体”は背後の山岳そのものか、そこにあるなんらかの記念物だろうと想定して、しばらくプリントをめくるうちに「まさかり(鉞)」が岩に添えられているので、ようやく気がついた。
これらの写真は、足柄下郡の箱根町にある金時(公時)社と、奥の院がある裏山ではないだろうか。金時社は、その北側の約8kmほどのところに位置する、静岡県小山町の不老山南峰の山麓にも同名で建立されていてまぎらわしいが、社の背後に見える冬枯れした山のかたちが、明らかに箱根外輪山の金時山なので神奈川県側だと規定することができる。
写真の後半では、矢倉沢峠近くにある同社の奥の院や、金時手鞠石と金時宿り石とみられる風景も記録されている。これらの巨石や巨岩が、「金太郎」が祭神として奉られる以前、山麓にある金時社の本来の主柱(祭神)であり、おおもとの信仰は縄文時代からつづくとされる、巨岩・巨石信仰の聖域だったのではないだろうか。金時と結びつけられたのは、金太郎伝説がちまたで知られるようになった、中世以降の付会によるものだろう。
場所が不明だった前回の山岳写真Click!は、金時山を登山する小学校低学年のわたしがとらえられていたけれど、それから数年ののち、今度は金時山の山麓(南側)にある金時社とその裏山に登っていたことが判明した。この写真の情景も、わたしはまったく記憶に残っていないが、親たちが繰り返しわたしを連れて金時山とその周辺域を訪れているところをみると、ことさら「♪ま~さかりか~ついで金太郎~」の「♪あ~しがらや~まのやまおくで~」界隈が気に入っていたものだろうか。w
余談だけれど、子どものころに東京の街を歩いていて飴屋を見つけると、親父がよく金太郎飴を買ってくれた。家へ土産として買ってくる中にも、何度か金太郎飴が混じっていたように思う。口に含んでも特にそれほど感動はせず、砂糖の味しかしないただ甘いだけの昔ながらの飴なのだが、親父にとっては子どものころの懐かしい菓子のひとつだったのだろう。江戸東京では、明治以降にできた新しい飴菓子だが、「どこを切っても金太郎」という親父の言葉とともによく憶えている。同時に、「なにを演っても池辺良」という親父の口グセは、この「どこを切っても金太郎」から派生した慣用句なのだろう。w
さて、この足柄にいた暴れん坊で力もちの、破天荒な金太郎が京に進出して坂田公時になった……などという伝説は、中世以降のできの悪い付会ではないだろうか。(説話の成立は1200年以降の鎌倉時代) 確かに金太郎の怪童伝説は、足柄とその周辺域に現代までエンエンと口承伝承されてきてはいるが、藤原時代に源頼光に見いだされ彼の四天王のひとりとなって「鬼」の酒呑童子を退治する……なんて説話は、物語の語り部がちまたに登場する中世以降の“説話”あるいは“講談”の類であって、足柄の金太郎と坂田公時は生まれ育った地域も異なるまったくの別人ではないかと思っている。
坂田公時とは、京近くの坂田郡(滋賀県長浜市)にいた「公時(金時)」という人物ではないだろうか。そもそも金太郎の容姿自体が、朝廷と対峙する「大江山」の酒呑童子と同様に、「足柄山」のまつろわぬ坂東の「鬼」のような、ダイナミックな姿をしているではないか。
足柄の金太郎については、もうひとつ面白い伝説が残っている。すなわち、金太郎が深く信仰していたのは、クニノトコタチにはじまる日本古来の7天神のうち、6番目に位置する日本列島の自然創造神である「大六天(第六天)」神Click!だったことだ。
東日本には、中でも富士の裾野やその周辺域には、古来から数多く奉られた大六天(第六天)の社Click!だが、そんな日本古来の信仰をもつ金太郎が、同じく大六天(第六天)Click!の女神カシコネとオモダルを信仰して昔からヤマトと対峙する、丹波や丹後つづきの大江山にいる酒呑童子を攻撃するなど、不自然きわまりない筋立てとして映る。ましてや、ヤマトがアマテラスを担ぎだし、当時は創立数百年にすぎない新興宗教だった伊勢社を、坂東の足柄にいた金太郎が許容するとも信仰するとも思えないのだ。
足柄の地に伝承された金太郎伝説が、どこかの時代に大きく歪曲され、無理やり源頼光の四天王伝説と結びつけられたのではないだろうか。あるいは、そのような伝説を創造することで、なにかと朝廷と対峙・対立し、まつろわぬ気味の坂東を手なずけるための、慰撫工作(帰属=まつろわせる物語)だったのかもしれない。藤原時代は、特にその後期から常に武者(つわもの)=侍(さむらい)の進出に、朝廷や公家が戦々兢々としてすごした時代であり、その強大な勢力の中心地は古墳期からすでに鋭く対立(上毛野・南武蔵連合vs北武蔵)していた、原日本色の強い坂東(関東地方)なのは明らかだった。
少し横道へそれるが、先日、民俗学系の動画を見ていたら「桃太郎伝説」に触れ、番組では「鬼がかわいそう」という結論だったのが面白かった。「鬼」が、せっせと生産努力してようやく貯めたのかもしれない財宝をたくさん所持しているから、家来を集めて「鬼」が住む島を勝手に攻撃して侵略し、それらの財宝を強盗し簒奪する桃太郎は、もう極悪非道でムチャクチャひどい侵略者だ……というのが番組のオチだった。w これは、平安期を舞台にした説話「一寸法師」も同様だが、まったくそのとおりだと思う。
これらの物語には、後世になると「鬼」が「里人を苦しめた」からという、免罪符のような一文がマクラとして付け加えられるようになる。だが、本来の伝説は『日本書紀』の「景行天皇条」に見られるのとまったく同様に、北陸地方や関東地方は「土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし(土地が肥沃で収穫量も多く広大なので、侵略して盗ってしまえ)」という天皇の命令と同一の発想から生まれているのだろう。こうして、古墳期以来とみられる「丹」地方(出雲王朝の同盟国だったといわれている)や「越」地方(翡翠の女王ヌナカワの国)、そして坂東地方との対立は陰に日に深まっていったように思える。
これらは架空の物語らしく伝承されてはいるけれど、先の酒呑童子伝説の丹波・丹後や、同じく岡山(出雲勢力の東端?)あたりの桃太郎伝説には、ヤマトへの帰属を拒否する原日本勢力による、なんらかの史的な背景があって誕生した説話の臭いがプンプンしている。もちろん、そのおおもとには記紀に描かれた近畿地方の「土蜘蛛(ツチグモ)」や「国栖(クズ)」の退治伝説をはじめ、史的根拠が希薄な「ヤマトタケル神話」(征伐伝説)が、これら昔話の規範として横たわっているのだろう。
さて、足柄伝説の金太郎は、明らかに山岳の民であって農業を生業(なりわい)とする平野部の定住民とは異なっている。中には「山姥(やまんば)」の息子だという説もあるが、どうだろうか? 「山姥」という呼称自体が、山岳民の女性につけられた蔑称のように聞こえるのは、農業を営み自分たちとは異なる生活をしている、農民から見た山岳地帯にいる異業種の人々を「テンバ(転場)」や「サンカ(山窩)」、「ミブチ(箕打ち)」Click!、「ヒョットコ(火男)」Click!などと呼んで蔑んだのと、同質の眼差しを感じるのだ。
だから、そのような“得体の知れない”山の民の中に、ことさらバカ力のある強靭かつ大きな肉体をもった、農地のある里では見たこともないような男児が出現し、それが里人たちに目撃されるようになったとすれば、すぐさまイエティ(雪男)のように脅威化し、実態以上の尾ヒレをつけて伝説化されただろう。今日では、「きんたろう」と発音される金太郎だが、古代から中世においては「金」=黄金(こがね)ではなく「かね」=鉄Click!を意味する名詞だから、本来は「かねたろう」と呼ばれていたのかもしれない。「太郎」はもちろん、「坂東太郎」というような呼称と同様に、「隋一のもの」「もっとも際だったもの」「最高のもの」というような意味あいだ。
ひょっとすると、探鉱師(山師)Click!やタタラの集団Click!、あるいは山にいた小鍛冶の工房(刀鍛冶から見たいわゆる蔑称「野鍛冶」Click!)で生まれたのかもしれない金太郎だが、金属にまつわる伝承が付随するのも、そのようなニュアンスを色濃く感じさせる。すなわち、金太郎は砂鉄を製錬した目白(鋼)Click!で鍛えたと思われる巨大なまさかり(鉞)をかついで山を徘徊していたのであり、武器ともなりうる強力な刃物の存在は、その背後に大鍛冶・小鍛冶Click!の仕事を強く連想させる。常にまさかり(鉞)を携帯し、力仕事が得意な金太郎は、山仕事をするかたわら鉞や鉈(なた)、鋸(のこ)などの刃物を鍛えていた山鍛冶の系譜だろうか。
金太郎にしろ桃太郎にしろ、また一寸法師にしろ、「鬼」がいるからむやみやたらに攻撃して退治しようというような、「どこを切っても金太郎」的で好戦的な昔話はそろそろ止揚して、先の面白かった動画のように、もう少し民俗学的なアプローチによる研究や解釈が強調されてもいい時代だろう。そういえば、太平洋戦争中に制作された戦時アニメ『桃太郎 海の神兵』(松竹/1944年)でも、対戦国は十把ひとからげに「鬼」とされていた。
◆写真上:富士の裾野までが間近に見わたせる、金時社の裏山にある山稜。
◆写真中上:親からもらった古いカメラで撮影したらしい、金時社の周辺に展開する風景。
◆写真中下:上は、1960年代半ばごろの金時社と背後に聳える金時山。中は、かなり樹々が成長した金時社の現状。下は、杉林につづく金時社の参道。
◆写真下:上は、金時社奥の院にある巨岩。当時は岩の上に祠が建ち鉞が置かれていたが、現在は存在しないようだ。中は、金時社奥の院のさらに山奥に置かれた金時宿り石の裂け目。下は、金時宿り石の現状と昭和初期の制作と見られる観光絵はがき。近年は『鬼滅の刃』の「一刀石」に見立てられ、アニメの聖地として観光スポットになっているらしい。
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下落合の輸入する人、輸出する人。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-01-25
国立公文書館の史料を漁っていると、ときどき興味深い案件に出くわすことがある。海外から日本へモノを輸入する人や、逆に国内から海外へモノを輸出しようとしている人が、当該の役所へさまざまな課題で申し入れや問い合わせをしている文書だ。 下落合1639番地の第二文化村Click!に住んだ吉田良継という人は、「満洲」の安東県にあった国営「鴨緑江採木公司」に勤めていたが、もともとは外務省の官僚で同省から鴨緑江採木公司へ出向していたのだろう。1931年(昭和6)1月7日、正月が終わってすぐに古巣の外務省を訪ねている。「採木公司」とは、森林から材木を伐りだす製材業者だが、鴨緑江採木公司は日本と中華民国の両政府が共同出資して設立された合弁企業だった。 鴨緑江採木公司は、「満洲」の鴨緑江流域で伐りだした材木を原木のまま、あるいは製材して各地へ輸送(輸出)する業務を行っており、外務省から派遣された吉田良継はそこで1930年(昭和5)ごろまで「渡支課長」をしていた。おそらく、外務省を訪れた当時の彼は、材木を日本へ輸入する同公司の東京支社勤務になっていたか、あるいは長期出張で帰国し目白文化村の自邸にいたとみられる。なぜなら、彼が外務省に残していった名刺には、「満洲」ではなく日本の住所が印刷されていたからだ。 当時、「満洲」の河川流域に拡がる膨大な森林資源は、中華民国と日本(植民地化していた朝鮮含む)ともに建築資材としての需要が高く、また両国の製紙工業においても需要がうなぎ上りに急増していた。したがって、製材業者の「満洲」進出が盛んとなり、中華民国からも日本からも、数多くの企業が現地で採木会社を設立している。日本からは、三井財閥や大倉財閥Click!、南満洲鉄道、王子製紙など大小さまざまな企業が進出し、伐採権を得た決められたエリアでの採木と植林を行っている。 鴨緑江採木公司の吉田良継が外務省を訪れた用件は、中華民国側が同公司へもう一度厳密な測量のやり直しをする旨を伝えてきているが、日本側から改めて測量チームを派遣して立ちあわせる必要はなく、鴨緑江採木公司側で対応するから任せてほしいというような内容だった。1931年(昭和6)1月7日に起草された稟議書から、その概要を引用してみよう。 ▼ 採木公司帽児山分局管内伝採区域外採伐ニ関スル件/本件ニ関シ客年十二月十九日附機密第五一三号 今般採木公司両理事長ニ於テヲ以テ 御禀申ノ趣了承採伐協定ニ依ル..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-01-25T23:59:59+09:00
国立公文書館の史料を漁っていると、ときどき興味深い案件に出くわすことがある。海外から日本へモノを輸入する人や、逆に国内から海外へモノを輸出しようとしている人が、当該の役所へさまざまな課題で申し入れや問い合わせをしている文書だ。
下落合1639番地の第二文化村Click!に住んだ吉田良継という人は、「満洲」の安東県にあった国営「鴨緑江採木公司」に勤めていたが、もともとは外務省の官僚で同省から鴨緑江採木公司へ出向していたのだろう。1931年(昭和6)1月7日、正月が終わってすぐに古巣の外務省を訪ねている。「採木公司」とは、森林から材木を伐りだす製材業者だが、鴨緑江採木公司は日本と中華民国の両政府が共同出資して設立された合弁企業だった。
鴨緑江採木公司は、「満洲」の鴨緑江流域で伐りだした材木を原木のまま、あるいは製材して各地へ輸送(輸出)する業務を行っており、外務省から派遣された吉田良継はそこで1930年(昭和5)ごろまで「渡支課長」をしていた。おそらく、外務省を訪れた当時の彼は、材木を日本へ輸入する同公司の東京支社勤務になっていたか、あるいは長期出張で帰国し目白文化村の自邸にいたとみられる。なぜなら、彼が外務省に残していった名刺には、「満洲」ではなく日本の住所が印刷されていたからだ。
当時、「満洲」の河川流域に拡がる膨大な森林資源は、中華民国と日本(植民地化していた朝鮮含む)ともに建築資材としての需要が高く、また両国の製紙工業においても需要がうなぎ上りに急増していた。したがって、製材業者の「満洲」進出が盛んとなり、中華民国からも日本からも、数多くの企業が現地で採木会社を設立している。日本からは、三井財閥や大倉財閥Click!、南満洲鉄道、王子製紙など大小さまざまな企業が進出し、伐採権を得た決められたエリアでの採木と植林を行っている。
鴨緑江採木公司の吉田良継が外務省を訪れた用件は、中華民国側が同公司へもう一度厳密な測量のやり直しをする旨を伝えてきているが、日本側から改めて測量チームを派遣して立ちあわせる必要はなく、鴨緑江採木公司側で対応するから任せてほしいというような内容だった。1931年(昭和6)1月7日に起草された稟議書から、その概要を引用してみよう。
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採木公司帽児山分局管内伝採区域外採伐ニ関スル件/本件ニ関シ客年十二月十九日附機密第五一三号 今般採木公司両理事長ニ於テヲ以テ 御禀申ノ趣了承採伐協定ニ依ル測量協定産点測量ノ際 実施ニ付キ政府ヨリ正式委員派遣ノ義ハ見合ス意合ス意嚮ナリニ付 同公司ニ於テ適宜取運アル様伝達方可能御取計相成度此段回答中進ス
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この文面では、両国で測量した樹木の伐採協定による境界につき、政府より正式な測量委員を派遣する必要はないというような趣旨だが、吉田良継は口頭で「満洲」鴨緑江における課題を、外務省の担当者に詳しく話しているとみられ、翌1月8日に手描きではなく和文タイプで作成された稟議書ではかなり詳細な内容となっている。
それによると、中華民国側が改めて測量を申し出ているのは、鴨緑江採木公司を同国と日本の合弁会社から中華民国の傘下に収めるための布石ではなく、先年に議決された森林保護政策の一環だとして、日本から改めて委員を派遣する「実地測量」(立ち会い)は不要としている。また、当初に両国が取り決めた採木境界線を越えて伐採しているのは、同公司側も中華民国側の採木業者も同様なのが判明しており、中華民国側による再測量は両者の越境採木を防止するにはちょうどいい機会だと考えていたようだ。
同時に、公司側が越境伐採した際は、中華民国側へ採木ぶんの税金を改めて納めており、同国と公司の関係が悪化したことはないとしている。そして、中華民国側の測量には1週間ほどかかると報告しており、この間の測量による境界規定その他の実務は、鴨緑江採木公司のわれわれ現地スタッフに任せてほしいとしている。
吉田良継が、外務省にこのような稟議書を提出したおかげで、当時の「満洲」における採木業者別の木材の生産量や地域別輸出量、投下資本量、従業員数、木材種類など、詳細な林業統計「木材ニ関スル統計」(1931年1月)が添付されることになり、いまとなっては貴重な史料となっている。それによれば、鴨緑江採木公司は本社が安東(現・安東省)にあり、1908年(明治41)に両国の共同出資で設立されている。1931年(昭和6)の時点で資本金は300万円で、おもに鴨緑江の右岸を採木地域としており、森林の育成と採木、材木の輸出をおもな業務としていたことがわかる。
1929年(昭和4)時点で、安東地域における木材は紅松や杉松、落葉松、その他が採木されており、合計18万4,824石の生産量だった。材木単位の「石」は、1尺(30.3cm)×1尺×1丈(10尺)の立方体のことで、1石=0.27m3ということになり、鴨緑江流域を含む安藤地域では年間約50,000m3の木材が生産されていたことになる。地元「満洲」での消費はもちろん、輸出(輸入)先は日本や中華民国、朝鮮などがあり、1929年(昭和4)現在でもっとも輸入が多かったのは中華民国だった。
さて、上記は昭和初期に日中合弁会社の生産品(木材)を日本へ輸入する事例だが、今度は輸出するケースを見てみよう。目白文化村の北側、下落合1500番地すなわち落合第一府営住宅Click!18号に住んでいた大里雄吉という人は、1928年(昭和3)に日本の古い貨幣や刀剣、書画骨董、標本類を海外へ輸出する事業を起ち上げようとしていた。
ちなみに、大里雄吉邸は下落合1501番地に住んだ土屋文明Click!邸の2軒東隣りの家だ。1928年(昭和3)1月27日に、外務省へ問い合わせた文書の一部を引用してみよう。
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謹啓 公務御繁忙の析柄甚た恐縮なの次第に候ヘでも左記の要件に関し、御示教を仰ぎ度此段奉懇願候/二伸、参銭郵券一葉同封申上候 拝具/一、通用を廃止せられたの古代金銀貨、金銀製品、並ニ古代刀剣類の輸出は、可能に候哉。若し手続を要するとせば、その手続の詳細。/ 二、北米合衆国に於ては、距今五十年以上の古物は、無税にて入国を許可する由に候ヘども、果して事実に候哉。若し事実とすれば距今五十年以上の古物を内容とする荷物の送達にあたり、通関に必要なる心得。/三、我国に於て、国外撤出を禁制せる品目の詳細。/北米合衆国、英蘭、愛蘭、豪洲、印度、加奈太の税関の本邦輸出品(書画骨董品、博物学上の標本)に対する課税方法と、該国に於ける輸入禁制品目。/以上
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これを受けとった外務省の担当者は、「手間のかかることを……。同業者に取材して、自分で調べればわかることなのに」と、まずは思っただろう。でも、納税者からの問い合わせなのでシカトして回答しないわけにはいかず、同年2月14日に「書画骨董博物標本通関等ニ関スル各国取扱振ニ関スル件」として回答している。
それによれば、古い金銀貨幣や刀剣類(書画骨董など)の輸出に関する手続きは、外務省ではなく大蔵省に訊いてくれという回答だった。また、米国は100年以上の古物に関しては無税だと思うが、詳しくは米国の大蔵省(財務省)に問い合わせしてほしいし、海外への輸出を禁止されている品目については大蔵省に訊いてくれと回答している。
また、米国は学術的あるいは公共的な目的をもって輸入される書画骨董には20%課税で、イギリス・オランダ・アイルランドは無税、オーストラリアは学術的あるいは公共的な目的をもつ書画骨董は無税だが、それ以外の営利目的の同品輸入は20%課税、インドは学術的あるいは公共的な目的をもって輸入される書画骨董には15%課税だが、博物標本に関しては無税、カナダは書画骨董や博物標本に関しては基本的に無税だが、営利目的の書画骨董の輸入に関しては17.5%課税、また特に絵画(油彩画・水彩画・パステル画)には価格の22.5%課税……などなどと回答している。
ところが、大里雄吉はこの回答に納得できず、また大蔵省へ問い合わせようとはせずに、米国では100年以上たった美術品に関しては無税ということで、その詳細については米国大蔵省(財務省)に確認してくれとのことだが、その規則や手続きについてもっと詳しく教えてくれと、同年2月20日に再度外務省へ問い合わせをしている。同時に、上掲各国の関税法規についての詳細をもっと解説してくれとの要望を添えた。
これに対し、外務省では「そんなこと、うちに訊かれても困るしわからないから、米国領事館に訊いてよね」と回答している。確かに日本の外務省が、米国の税関に関する最新の各種手続きや関税の詳細情報について把握しているとは思えないので、これは無茶な要求だろう。また、各国の関税法規については回答しておらず、「そんなの同業者に取材するか、図書館か本屋さんにいって自分で調べてよ」と、ノド元まで出かかったかもしれないが、それではケンカになるのであえて触れなかったのかもしれない。
下落合の大里雄吉という人は、100年以上前の骨董品に関する情報にこだわっているので、おそらく慶長期以降の大判小判や分銀、または江戸期以前も含む刀剣類を輸出しようとしていたのかもしれない。だが、どう考えても問い合わせをする先は外務省ではなく、輸出先を予定している各国の領事館だと思うのだが、彼は外務省にこだわりつづけている。
◆写真上:大里雄吉が海外輸出を計画したらしい、江戸期の貨幣と刀剣。金の含有量が約84%といわれる慶長小判と、長曾根興里入道虎徹Click!の鋩(きっさき)。
◆写真中上:上左は、目白文化村の吉田良継が1931年(昭和6)1月7日に外務省を訪れて具申した稟議書類。上右は、訪れた際に残した吉田良継の名刺。中上は、上記の申入書を吉田良継の詳細な説明を含め正式にタイピングしたもの。中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合1639番地界隈。吉田家はすでに転居したのか、同地番には「佐藤」と「松田」のネームが採取されている。下は、吉田邸跡の現状。
◆写真中下:上・中は、吉田良継関連の稟議書類に添付された1931年(昭和6)1月に関東庁殖産課が作成した「木材ニ関スル統計」の一部。下は、第一府営住宅の大里雄吉が外務省に問い合わせた書画骨董などの輸出に関する手続きや課税についての手紙。
◆写真下:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合1500番地(第一府営住宅内)の大里雄吉邸。中は、同住所にあった大里邸跡(左手前)。下は、2枚とも外務省が作成した「あ~、もう、やんなっちゃった」感がにじみ出ている手書き回答書案。
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上落合に住んだ「種蒔く人」の今野賢三。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-01-22
東京と故郷の間を、これほどせわしなく往来した人物はあまり知らない。だからか、上落合時代も含め今野賢三の軌跡は、ぼんやりと霞んでハッキリしない。1931年(昭和6)ごろから、今野賢三Click!は上落合502番地に住んでいたが、同地番に住んでいた小川信一(大河内信威)Click!や蔵原惟人Click!、立野信之Click!ほどに地元での印象が強くないのだ。むしろ、東京よりも故郷・秋田での印象のほうが圧倒的に強いのではないだろうか。そういえば、昭和初期の上落合502番地には国際文化研究所Click!も創設されていた。 今野賢三が、秋田で呉服店の丁稚や新聞売り、鉄道工場の職工、洗濯屋の店員、郵便局などに勤め、やがて活動弁士Click!の仕事をするようになったのは大正初期のころだ。1915年(大正4)に東京へやってきて、本郷区駒込にあった駒込館の活動弁士になっている。同時に、このころから故郷の秋田魁新報や雑誌「成長」に小説や短歌、評論などを書きはじめている。だが、当時の彼は強い思想性とは無縁だったようで、1917年(大正6)には秋田で書いた小説『をののき』が風俗紊乱罪に問われて検挙されている。 1919年(大正8)になると、のちに雑誌「種蒔く人」をともに発刊することになる、本郷区谷中に下宿していた金子洋文と同居している。ここで労働新聞編集部に勤務するが、すぐに退社して秋田へもどっている。1921年(大正10)になると、秋田で近江谷友治(小牧近江の叔父)から「種蒔く人」(種蒔き社)の同人に誘われて参加し、同年の2月に土崎版(秋田版)の「種蒔く人」創刊号を刊行。だが、3月号と4月号の3号が刊行されただけで、すぐに休刊している。つづいて、同年10月には東京で「種蒔く人」(東京版)を創刊し、今野賢三もそれにあわせて東京へともどることになる。 「種蒔く人」に参加したころ、今野賢三はそれほど社会に対する強い問題意識はもっていなかったとみられる。作品が風俗紊乱で検挙されたように、彼は当時の芸術派的な作家をめざしていたと思われ、特に強く思想性や主張を前面に押しだした作品を残していない。このころの今野賢三について、1982年(昭和57)に無明舎から出版された佐々木久春・編/今野賢三・著『花塵録―「種蒔く人」今野賢三青春日記―』から引用してみよう。 ▼ 「種蒔く人」出発当時の今野賢三の社会主義について、彼は未だ関心が無かった、あるいは未..
気になる下落合
ChinchikoPapa
2024-01-22T23:59:59+09:00
東京と故郷の間を、これほどせわしなく往来した人物はあまり知らない。だからか、上落合時代も含め今野賢三の軌跡は、ぼんやりと霞んでハッキリしない。1931年(昭和6)ごろから、今野賢三Click!は上落合502番地に住んでいたが、同地番に住んでいた小川信一(大河内信威)Click!や蔵原惟人Click!、立野信之Click!ほどに地元での印象が強くないのだ。むしろ、東京よりも故郷・秋田での印象のほうが圧倒的に強いのではないだろうか。そういえば、昭和初期の上落合502番地には国際文化研究所Click!も創設されていた。
今野賢三が、秋田で呉服店の丁稚や新聞売り、鉄道工場の職工、洗濯屋の店員、郵便局などに勤め、やがて活動弁士Click!の仕事をするようになったのは大正初期のころだ。1915年(大正4)に東京へやってきて、本郷区駒込にあった駒込館の活動弁士になっている。同時に、このころから故郷の秋田魁新報や雑誌「成長」に小説や短歌、評論などを書きはじめている。だが、当時の彼は強い思想性とは無縁だったようで、1917年(大正6)には秋田で書いた小説『をののき』が風俗紊乱罪に問われて検挙されている。
1919年(大正8)になると、のちに雑誌「種蒔く人」をともに発刊することになる、本郷区谷中に下宿していた金子洋文と同居している。ここで労働新聞編集部に勤務するが、すぐに退社して秋田へもどっている。1921年(大正10)になると、秋田で近江谷友治(小牧近江の叔父)から「種蒔く人」(種蒔き社)の同人に誘われて参加し、同年の2月に土崎版(秋田版)の「種蒔く人」創刊号を刊行。だが、3月号と4月号の3号が刊行されただけで、すぐに休刊している。つづいて、同年10月には東京で「種蒔く人」(東京版)を創刊し、今野賢三もそれにあわせて東京へともどることになる。
「種蒔く人」に参加したころ、今野賢三はそれほど社会に対する強い問題意識はもっていなかったとみられる。作品が風俗紊乱で検挙されたように、彼は当時の芸術派的な作家をめざしていたと思われ、特に強く思想性や主張を前面に押しだした作品を残していない。このころの今野賢三について、1982年(昭和57)に無明舎から出版された佐々木久春・編/今野賢三・著『花塵録―「種蒔く人」今野賢三青春日記―』から引用してみよう。
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「種蒔く人」出発当時の今野賢三の社会主義について、彼は未だ関心が無かった、あるいは未熟であった、ということが言われる。日記をみても、弁士の生活のあい間に芸者を追いまわし、芸術の憧れに悶々としていて、思想など云々できないのではないかという人が居るかもしれない。それは当っている、しかしまちがっている。/人にとって思想とは、知的に了解することではあるまい。生活の傾向が血肉となっている、これが思想であろうと思う。だからこそ有島や太宰らが遂に共鳴できない体質の違いを感じプロレタリアートに別れを告げたのだろう。
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2歳のとき父親を病気で喪い、母親の手ひとつで育てられた今野賢三は、幼いころから丁稚奉公にでて辛酸をなめつくす生活を経験している。おそらく、若いころの宮地嘉六Click!や大泉黒石Click!と同様に、苦労をしながら底辺に生きる「プロレタリアート」は、いつも彼のすぐ隣りにいただろう。だからこそ秋田で、そして東京で「種蒔く人」への参加を通じて急速に思想的な深化をとげ、そこに表現された思想へストンと「血肉」とともに当てはめることができたのではないかと思われる。
1922年(大正11)になると、「種蒔く人」6月号から小牧近江に代わり、今野賢三は同誌の編集・発行・印刷の責任者を引き受けている。「種蒔く人」に参画してわずか1年半の間に、彼は劇的かつ貪欲に社会主義思想を吸収し、自身が依って立つ「血肉」の思想としていったのではないだろうか。同年の8月には、佐々木孝丸Click!らと劇団「表現座」を結成し、次いで秋田へと帰り有島武郎Click!や秋田雨雀Click!を招いて各地を講演してまわっている。
このときから、今野賢三はまるでなにかに憑かれたように活動し、数多くの作品を執筆していく。そして、彼は若いころから師事していた有島武郎から徐々に離反している。関東大震災Click!が起きたとき、彼は31歳になっていた。同書より、つづけて引用してみよう。
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「種蒔く人」の編輯人・発行人・印刷人は大正十一年六月号以降、小牧から今野が引き継いだ。ますます社会主義文芸の方向へおもむく。それは師と仰ぐ有島武郎が苦悩したところであり、今野にとっては有島とのわかれとなるところでもあった。有島の作品「酒狂」に対する今野の感想に、有島は礼状を書いている。「酒狂」は有島の年譜において大正十二年一月となっているが、雑誌発売は前年十一年の十二月のようである。
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関東大震災の直前まで、今野賢三は有島武郎と交流していた様子がわかる。
だが、1923年(大正12)9月の関東大震災による混乱のドサクサにまぎれ、アナキストや社会主義者が拉致・連行され虐殺される甘粕事件Click!や亀戸事件が発生し、近代ではまれにみる残虐な国家権力による犯罪が起きると、それを契機に労働運動や社会主義運動に対する弾圧が日々激しさを増していった。大震災の影響で、「種蒔く人」はやむなく休刊するが、それは印刷所が罹災して刊行できなくなったのと同時に、「種蒔く人」の方向性をめぐり同人たちの間で以前から対立が起きていたせいもあるだろう。
1924年(大正13)になると、「種蒔く人」の実質的な終刊号となる「種蒔き雑記」が刊行される。この中で、同誌の中心となって活動していた小牧近江と金子洋文は、亀戸事件をめぐる経緯や記録に詳しく取材したルポルタージュを発表した。この作品は、初期プロレタリア文学運動における記録文学の記念碑とされているものだ。
同年4月には、「種蒔く人」の再建会議が開かれるがどうしても意見が一致せず、ついに種蒔き社はそのまま解散することになった。そのかわり、同年6月には新たな文芸誌として「文芸戦線」を創刊することに決まった。同誌第2号(7月号)の表紙には、同人として今野賢三や金子洋文、中西伊之助Click!、武藤直治、村松正俊、柳瀬正夢Click!、前田河広一郎Click!、松本弘二Click!、小牧近江、佐野袈裟美、佐々木孝丸Click!、青野季吉Click!、平林初之輔Click!の13人の名前が印刷されている。
「文芸戦線」創刊号で、青野季吉は種蒔き社の解散について、「樽蒔く人」の評論家・平林初之輔の発言をめぐる小牧近江と金子洋文、中西伊之助らとの対立に触れている。創刊号より、青野季吉『「文芸戦線」以前―「種蒔き社」解散前後』から少し引用してみよう。
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震災中に起った社会的事実の手痛い経験は私たちにいろんなことを教えた。乃至はいろんなことを確かめさせた。そこで『種蒔き社』の同人中に無産階級解放運動の執る可き道に関して、意見の上で多少の距離が生じた。そこで旧『種蒔き社』の如き、行動の一単位としての意義をも持っていた団体は、その場合自ら不便なものとならざるを得なかった。文芸方面に於てはよし共同の戦線を張ることが出来ても、無産階級解放運動の他の方面では、特に主として行動に現われたる方面では、これまでの『種蒔き社』の行き方で一致することは困難となった。そこで行動の方面では各自が新境地に向って進み、共同の戦線を張るならば文芸方面に局限せねばならぬこととなった。そこで行動の一単位としても意義を持っていた『種蒔き社』という群(グループ)を解体しなければならぬこととなった。
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青野季吉は、「種蒔く人」同人の対立から距離を置いていたので、一連の動きを総括した文章が書けたのだろう。翌年、「文芸戦線」の同人を中心に日本プロレタリア文芸連盟が結成されている。これら一連の動きの中で、「種蒔く人」の編集・発行・印刷の責任者だった、かんじんの今野賢三の姿や動向がぼんやりとして見えにくい。
この間、彼は膨大な作品を発表しつづけており、生涯でもっとも執筆活動が盛んだった多作期とも重なる。また、「文芸戦線」が発刊されるとともに、彼は再び東京と秋田を頻繁に往復し、大山郁夫の講演会や労農党秋田支部結成に奔走している。そして、秋田で小作農を組織化して農民運動を展開するなど、どちらかといえば東京での「理論」や「議論」よりも故郷の現場での「実践」へ、理屈をこねまわすよりも目の前で困難な課題に直面している人々をどうするのかへ、ことさら注力していたフシが見える。
その後、日本プロレタリア文芸連盟内の対立から労農芸術家連盟の結成時においても、今野賢三は主導的な位置にはおらず、仲間とともに行動をともにするといった感じが強い。彼は執筆するかたわら、無産大衆党の堺利彦Click!を秋田へ同行して講演会を開いたり、堺の東京市議会への立候補をサポートしたりした。そして、1930年(昭和5)に秋田で小作争議を指導して翌1931年(昭和6)に検挙され、4ヶ月にわたって拘留されている。今野賢三が上落合502番地へとやってくるのは、秋田で無罪判決を勝ちとり釈放されたあと間もない時期だった。この年、彼は秋田魁新報へ40回連載の新聞小説も執筆するなど、相変わらず創作意欲はきわめて旺盛だった。
今野賢三が、上落合502番地の住居へいつまで住んでいたのか不明だが、この間、労農文化連盟→左翼芸術家連盟→労農芸術家連盟へと順に参加しているが、彼は「理論闘争」よりも創作活動に専念しており、1934年(昭和9)には小説や評論などとともに、秋田の故郷である『土崎発達史』を刊行している。このあと、思想弾圧で思うように執筆活動ができなくなってからも、『土崎港町史』(1941年)を出版するなど、終生にわたって生まれ故郷・秋田へのこだわりや愛着が強く感じられる。
上落合502番地の区画には、小川信一や蔵原惟人、立野信之らが住んでいることは先述したが、すぐ南隣りの上落合503番地には壺井繁治・壺井栄夫妻Click!が住み、南西隣りの上落合504番地には今野大力Click!が家族とともに暮らしていた。ちょうど今野賢三が上落合に住みはじめたころ、特高の拷問とその後のいい加減な治療で重体に陥った今野大力とその家族が、上落合503番地の壺井邸Click!に身を寄せ静養していたはずだ。また、南側の道路をはさんだ上落合506番地には、時代は異なるが一時期は神近市子Click!も住んでいる。
◆写真上:プロレタリア文学運動の嚆矢とされる「種蒔く人」だが、一連の組織あるいは運動の方向性をめぐる対立やゴタゴタでは印象が薄い今野賢三。
◆写真中上:上は、「種蒔く人」の中心メンバーで左から今野賢三、金子洋文、小牧近江(AI着色)。中は、秋田市立図書館のシンボル「種蒔く人」記念碑。下左は、1921年(大正10)刊行の「種蒔く人」創刊号(土崎版)。下右は、1982年(昭和57)出版の佐々木久春・編/今野賢三・著『花塵録―「種蒔く人」今野賢三青春日記―』(無明舎)。
◆写真中下:上左は、秋田や東京を往復しながら活動弁士をしていた時代の今野賢三。上右は、1934年(昭和9)に撮影された労農芸術家連盟時代の今野賢三。中は、1888年制作のゴッホ『種をまく人』だが文芸誌「種蒔く人」のシンボルとなったのはミレー作の画面のほうだ。下左は、1924年(大正13)6月に創刊された「文芸戦線」の7月号(2号)には表紙に同人13人の名が印刷されている。下右は、晩年に撮影された今野賢三。
◆写真下:上は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる上落合502番地。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。下は、道路左手の奥が上落合502番地の現状。
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