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杉邨ていと久生十蘭の佐伯アトリエ。 [気になる下落合]

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 1枚の興味深い写真(AIエンジンにより着色)が残されている。1934年(昭和9)6月に、三岸好太郎・節子夫妻Click!の野方町上鷺宮407番地Click!にあった旧アトリエClick!で撮影されたものだ。左には、1ヶ月後に急死する三岸好太郎Click!が、右端には当時、山本發次郎Click!が集めた佐伯祐三Click!作品の画集を出版しようと企画中だった編集者の國田弥之輔がいる。そして、中央にいる女性がハーピストの杉邨ていClick!だ。
 おそらく、杉邨ていが國田弥之輔と連れだって三岸アトリエを訪問しているのは、翌々年の1937年(昭和12)に座右寶刊行会から出版される『山本發次郎氏蒐集 佐伯祐三画集』(限定500部)の取材なのかもしれない。1930年協会Click!から独立美術協会Click!への流れで、國田は会員だった三岸好太郎Click!に訊きたいことでもあったのだろうか。三岸アトリエを紹介したのは、三岸節子Click!と知り合いで、当時は芝区新橋1丁目21番地に住んでいた佐伯米子Click!だとみられる。ちなみに画集の出版を引きうけた、座右寶刊行会の社長だった後藤真太郎の住所は下落合2丁目735番地、すなわち昭和初期に自邸の建て替えで一時的に住んでいた、村山知義・籌子アトリエClick!と同一番地だ。
 佐伯祐正・祐三兄弟Click!の姪である杉邨ていは1927年(昭和2)8月、2回めの渡仏である佐伯一家Click!とともに、シベリア鉄道に乗ってパリへと向かっている。すでにご存じかと思うが、1928年(昭和3)の夏に夫と娘をフランスで相次ぎ亡くした佐伯米子Click!は、下落合2丁目661番地のアトリエClick!にもどってきてはいない。帰国直後から前記の芝区新橋1丁目21番地、つまり土橋Click!にあった池田象牙店Click!の実家で暮らしている。夫と娘との想い出が詰まった、下落合のアトリエではすごしたくなかったのだろう。実家暮らしは、「美術年鑑」によれば1936年(昭和11)までつづき、翌1937年(昭和12)には下谷区谷中初音町1丁目20番地に転居している。そして、佐伯米子が下落合のアトリエへもどってくるのは、「美術年鑑」によれば翌1938年(昭和13)になってからのことだ。
 この間、下落合の佐伯アトリエには誰が住んでいたのだろうか? わたしは、杉邨ていが久生十蘭の母親・阿部鑑といっしょに帰国した1932年(昭和7)から、佐伯米子が下落合にもどる直前の1937年(昭和12)までの5年間のどこかで、彼女が借りて住んでいたのではないかと想定している。もちろん、この間に杉邨ていは演奏活動を含め、大阪と東京の間を頻繁に往復していたとみられるが、東京における拠点は下落合の佐伯アトリエではなかっただろうか。大きなハープを置くのに、アトリエの広めなスペースはもってこいだ。これには、もうひとつの重要な証言がある。
 帰国後、東京での住まいの記録がなく、昭和初期にはハッキリしない杉邨ていの暮らしだが、1937年(昭和12)になると牛込区矢来町の牛込荘にいたことが、石田博英の証言から明確になる。つまり、佐伯米子が下落合のアトリエへもどると決意した直後、彼女は矢来町へと転居している可能性が高いことだ。1970年(昭和45)に大光社から出版された石田博英『明後日への道標』には、1937年(昭和12)に杉邨ていと同じ牛込荘に住んでいた石田が、彼女の部屋で巨大なハープと出版されたばかりの國田弥之輔・編『山本發次郎氏蒐集 佐伯祐三画集』を見せられ、以来、芸術(特に美術)に魅せられたと書いている。すなわち、その少し前まで同画集を企画・出版するために、國田弥之輔は佐伯祐三の姪である杉邨ていを東京での足がかりに、佐伯米子の実家である池田家Click!や佐伯の関係者に取材、あるいは原稿を依頼してまわっていた可能性が高いのだ。冒頭の写真も、佐伯米子に紹介されたのか、そのような取材プロセスでの1枚ではないだろうか。
 そして、パリで杉邨ていと交際していたとみられる久生十蘭Click!が帰国するのは、1933年(昭和8)になってからであり、翌1934年(昭和9)にはさっそく新劇の拠点Click!だった早稲田大学Click!大隈記念講堂Click!で「ハムレット」を上演している。以降、久生十蘭は演劇の分野で活躍しているが、1935年(昭和10)前後から小説も発表するようになっていく。それら小説の中には、地域としての「落合」や楽器の「ハープ」、「絵描き」、「アトリエ」などのキーワードをよく見かけるのが、以前から非常に気になっていた。
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 たとえば、1939年(昭和14)に発表された『昆虫図』には、アトリエで暮らす貧乏絵描きたちが登場している。隣り同士のアトリエに住む、一方の絵描きの妻殺しが同作のテーマだが、画家のアトリエが建ち並んでいた落合地域の風情を感じるのはわたしだけではないだろう。戦後の1947年(昭和22)に発表された『予言』では、「落合」と「ハープ奏者」双方のキーワードが登場している。登場人物の「石黒」は、「落合にある病院」をうまく経営しており、絵描きの「安部」はステージ上で「娘がいいようすでハープを奏いている」会場へいき、ピストルで自分の胸を撃って死にかけるが、フランスへは「船はいやだから、シベリアで行く」などと、杉邨ていや佐伯一家のような旅程を病室で語っている。
 そして、1946年(昭和21)に発表された久生十蘭『ハムレット』では、下落合の情景がより詳細に記されている。もっとも、『ハムレット』の原型となった『刺客』(1938年)の舞台は、南伊豆にある「波勝岬」(ママ:波勝崎)にある城のような大邸宅であり、下落合の情景はどこにも登場しない。では、筑摩書房版の『ハムレット』より、少し引用してみよう。
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 小松の父は外交官として長らく英国におり、落合の邸は日本でただ一つの純粋なアングロ・ロマネスクの建築で、その書庫は大英図書館と綽名されたほど有名なものでしたので、こういうディレッタンティズムを満足させるにはまず十分以上だったのです。(中略) 翌朝早く家を出てバスで落合まで行き、聖母病院の前の通りを入って行くと、突当りに小松の邸が見えだしました。数えてみますとあれからちょうど二十八年たっているわけでしたが、家の正面がすこし汚れ、車寄せのそばに防空壕が掘ってあるほかなにもかもむかしどおりになっていました。
  
 落合地域にお住まいの方ならすぐにピンとくるが、「聖母病院の前の通り」を(西へ)入っていくと突き当りは第三文化村Click!になる。そこに豪壮な「アングロ・ロマネスク」の意匠をした「小松の邸」が建っていたことになっているが、戦前、そのような建築が第三文化村にあった事実はない。強いていえば、「聖母病院の前の通り」から南北に通う「八島さんの前通り」Click!(星野通りClick!)へとでる手前の左手角地には、落合地域では二度にわたる山手大空襲Click!からも焼け残ることになる、やはり第三文化村のエリア内にあたる石材を多用して堅牢な吉田博・ふじをアトリエClick!が建っていた。
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 同じ筑摩書房の、都築道夫『久生十蘭-「刺客」を通じての史論-』から引用しよう。
  
 改作<『ハムレット』>は東京の落合――聖母病院の前を入ったところ、というから、現在の新宿区中落合二丁目で、いわゆる目白文化村のとば口あたり。昭和二十年五月二十五日の大空襲(あのへんは四月十四日<ママ>にも被害をうけているけれど、作ちゅうの記述から推理すると、その日はとうに過ぎている)の夜が、クライマックスになっている。(< >内引用者註)
  
 「四月十四日」は、4月13日夜半の第1次山手空襲Click!が正確だが、『ハムレット』は5月25日夜半の第2次山手空襲Click!までが物語の終盤となっている。そして、下落合に昔からお住まいの方ならお気づきだろう。第三文化村へと向かう「聖母病院の前の通り」の途中、中島邸Click!(のち早崎邸=旧・鶏舎Click!)と辻邸の間の路地を入ると、40mほどで佐伯アトリエの門前にたどり着けたのは1938年(昭和13)以前のことだった。
 つまり、やたら聖母病院界隈の描写に詳しい土地勘のある久生十蘭が、聖母病院前のバス停(当時は関東乗合自動車Click!「国際聖母病院前」Click!)で降り、聖母坂Click!を少し上ったところを左折して「聖母病院の前の通り」を歩いたとすれば、眼のすみで左手の奥にある大きな吉田博・ふじをアトリエClick!を認めながら、手前で路地を(北へ)右折して佐伯アトリエの門前へと、すぐに立つことができたはずだ。だが、それは1938年(昭和13)以前の話で、それ以降は私道の路地は、旗竿地だった高田邸の門やアプローチとしてふさがれてしまい、佐伯アトリエへは南側(病院側)から入ることができなくなった。
 つまり、この私道だった路地がふさがれる前、それは久生十蘭がフランスから帰国し、杉邨ていが佐伯アトリエを東京の拠点として使っていたとみられる、1933年(昭和8)から1936年(昭和11)までの3年間、久生十蘭にしてみれば通いなれたバス路線であり道筋ではなかったろうか。このふたりが、いつまで付き合っていたのかは不明だが、杉邨ていは1944年(昭和19)に虫垂炎から腹膜炎を併発し31歳で早逝しているので、少なくとも交際は1942年(昭和17)に久生十蘭が結婚する以前までなのだろう。
 どなたか、1935年(昭和10)前後に佐伯アトリエからのハープの音色をご記憶の方、または親世代がそんなことをいっていたという伝承をご存じの方はおられないだろうか?
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 このような観点から『ハムレット』を読み直すと、どこか一部に杉邨ていへのトリビュートを含んでいるように感じてしまうのは、はたしてわたしだけだろうか。もちろん、久生十蘭は1946年(昭和21)に同作を執筆していた際、通いなれた「聖母病院の前の通り」の佐伯アトリエへと右折する路地が、とうにふさがれていたことなど知らなかっただろう。

◆写真上:1934年(昭和9)6月に撮影された、三岸アトリエの杉邨ていと國田弥之輔。
◆写真中上は、1927年(昭和2)8月の渡仏直前に大阪の光徳寺で撮影されたAI着色Click!による14歳の杉邨てい(右)と佐伯米子(左)。は、パリへ到着しアトリエを借りたばかりの佐伯一家と杉邨てい。は、1937年(昭和12)に國田弥之輔の編集で刊行された『山本發次郎氏蒐集 佐伯祐三画集』(座右寶刊行会)の奥付。
◆写真中下は、1966年(昭和41)に雑誌「新評」10月号に再録された久生十蘭『ハムレット』とその挿画。は、久生十蘭()と杉邨てい()。
◆写真下は、1925年(大正14)作成の「出前地図」にみる青柳ヶ原(のち聖母病院)へと抜けられる養鶏場の路地。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる中島邸と辻邸にはさまれた路地。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる旗竿敷地の高田邸の門からアプローチへとふさがれた早崎邸(旧・中島邸)東側の路地。
おまけ
 1945年(昭和20)5月17日にF13Click!から撮影の佐伯アトリエと周辺。アトリエから北側と西側の第三文化村の大半は延焼していそうだが、吉田アトリエから南は焼けていない。
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