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雑司ヶ谷金山の呉越同舟。 [気になるエトセトラ]

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 立野信之が兵役Click!からもどり、アナキズムに急接近しはじめていたころ、山田清三郎Click!雑司ヶ谷金山Click!の借家に住んでいる。そこは山田の自宅であると同時に、プロレタリア文学雑誌「文芸戦線」の編集部でもあった。隣家が、ストックホルム五輪のマラソンで有名な金栗四三が住んでおり、その向こう側に菊池寛Click!の自邸があった。
 菊池邸は文芸誌「文藝春秋」の編集部も兼ねており、当時は対立する左翼系の文芸誌と“芸術派”の文芸誌とが、金栗邸をはさんで対峙していたことになる。金山稲荷社Click!から、直線距離で東へわずか100mほどのところ、高田町雑司ヶ谷金山392番地(現・雑司が谷1丁目)あたりの一画だ。菊池邸と山田邸は、同じ文芸誌の編集部があるため郵便局にはまぎらわしかったらしく、よく「文藝春秋」あての手紙や荷物が、「文芸戦線」のある山田邸に配達され、またその逆も多かったらしい。
 当初、雑司ヶ谷墓地にある古い墓地茶屋の安価な2階を借りていた「文芸戦線」編集部だが、山田清三郎の自宅とはいえようやく1戸建ての建物に移ることができた。山田は、「ひとつ『文芸春秋』とツバぜりあいをやろう!」(『プロレタリア文学風土記』より)とそのときの気持ちを書いているが、多少の茶目っ気もあったらしい。山田邸は、板塀に囲まれたごく小さな家で6畳、3畳、2畳のわずか3間しかなかったが、「文藝春秋」編集部のある菊池邸は大豪邸で、周囲からは「金山御殿」と呼ばれていた。そこには、たまに芥川龍之介Click!里見弴Click!川端康成Click!などが出入りしていた。
 その邸宅の玄関に、山田清三郎はわざわざ誤配達された郵便物をとどけにいき、「『文芸戦線』の者ですが、あなたのほうの郵便物が間違って入っていました」と、“敵情視察”がてら社員に念を押してわたしていた。それを受けとっていた社員の中には、当時東京へやってきたばかりで、菊池邸に寄宿していた大田洋子Click!もいただろう。のちに大田洋子は「女人藝術」の常連作家となり、落合地域へとやってきて暮らすことになる。
 そのころの「文芸戦線」には、葉山嘉樹や林房雄Click!黒島伝治Click!平林たい子Click!、小堀甚二、里村欣三らが執筆している。立野信之も、同誌に詩などを投稿していたが、いまいちやりたいことが見つからなかったようだ。雑司ヶ谷金山の「文芸戦線」編集部について、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された、立野信之『青春物語―その時代と人間像―』から引用してみよう。
  
 山田は、一面また非常に几帳面な男で、玄関わきの三畳をプロ連の事務所兼「文芸戦線」の編集室に使って、細君の積田きよ子を助手にし、六畳のほうは自分たちの居間に使って、両方を混同することなくキチンと生活していた。山田は文芸戦線社からいくぶんの手当をもらっていたようだが、それだけで生活できる筈はなく、当時加藤武雄の編集していた新潮社の「文章倶楽部」に「文豪遺族訪問記」とか、「文豪墓めぐり」とか、「文壇覆面訪問記」といったような雑文の連載物を書いて生活をおぎなっていた。山田はすでに「新興文学」に「幽霊読者」という短編小説を発表して新進作家として名を連ねてはいたが、まだ小説で食えるほどではなかったのである。/わたしは、と言えば、「文芸戦線」に詩をのせてもらったおかげで、執筆メンバアに加えられていたが、その後は何も書いていなかった。自分にはそんな才能はない、と思い、続々と輩出する有能な新人作家をただ羨望の眼をもって傍観していたのだった。
  
 「文芸戦線」の雑司ヶ谷金山編集部(山田の自宅)は、夏目漱石Click!をはじめ作家の墓が多い雑司ヶ谷墓地のすぐ近くなので、「文豪墓めぐり」はすぐに思いつきそうなシリーズ連載企画だ。また、当時の雑司ヶ谷Click!には作家や画家たち芸術家が数多く住んでいたので、その地元ネットワークを活用していろいろな記事が書けたのだろう。ちなみに「プロ連」とは、日本プロレタリア文芸連盟の略称だ。また、「文芸戦線」編集部には執筆している作家たちが頻繁に来訪するので、その紹介やツテを頼る仕事もできたにちがいない。これは、2軒隣りの「文藝春秋」編集部でも同様で、さまざまな作家たちが出入りしていた。小林多喜二通夜1933.jpg
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 そのころ、立野信之は演劇や映画に興味をおぼえていたのか、それらの人脈をたどって自身の居場所を見つけようとしている。それを聞きつけた山田清三郎から、前衛座Click!の旗揚げに参加しないかと誘われた。築地小劇場で上演される予定のルナチャルスキー『解放されたドン・キホーテ』(千田是也/辻恒彦・共訳)の舞台で、演出は後藤新平の孫にあたる佐野碩、舞台装置は村山知義Click!柳瀬正夢Click!だった。
 ほどなく、立野信之は六義園の北側にあるモダンな住宅地・大和郷に住んでいた、佐野碩の自宅へ通いはじめている。この前衛座で、彼は前記の人々のほかに小野宮吉や関鑑子、久坂栄二郎、林房雄Click!佐々木孝丸Click!、花柳はるみらと知りあっている。立野は佐野邸で舞台装置の準備にまわされ、ついでに「旗持ちの廷臣」の役で舞台に出演しているが、村山知義は「反動宰相」役で、山田清三郎と佐々木孝丸は「革命家」役で、林房雄や葉山嘉樹らは「門衛」や「廷臣」役などで同作品に出演しており、文芸部も美術部も俳優部も関係のない垣根を越えた混成舞台だった。
 前衛座の旗揚げ公演は、劇団員の予想を上まわる大成功をおさめた。東京帝大の林房雄つながりで、帝大新人会のメンバーとも「文芸戦線」や前衛座を通じて交流することになり、当時は帝大のマルクス主義芸術研究会に属していた中野重治Click!鹿地亘Click!、川口浩、小川信一、辻恒彦、谷一らが合流して、日本プロレタリア文芸連盟結成への端緒となった。当時の様子を、1961年(昭和36)に現代社から出版された佐々木孝丸『風雪新劇志-わが半生の記-』から引用してみよう。
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 私の周囲は、数ヵ月前とは較べものにならないほどの、若々しい活気に溢れていた。帝大新人会メンバーのうちの、文学・芸術に関心をもつ学生たちによって作られていた“マルクス主義芸術研究会”(マル芸と略称)の連中が、大挙してプロ連や文芸戦線の組織の中へ入り込んできたことが、これらの組織に活力素を注射することになったのだ。林房雄、中野重治、久坂栄二郎、佐野碩、鹿地亘、小川信一、川口浩、などが主なメンバーで、学生以外からは、築地小劇場の俳優千田是也や小野宮吉なども加わっていた。千田や小野が築地小劇場をやめるようになったのは、このマル芸の面々に尻をひっぱたかれたのが最大の原因だろう。
  
 だが、多くのグループを包括して組織がふくらんだプロ連は、さまざまな「セクト主義」を産むことになり、理論闘争の支柱になっていた福本和夫Click!からの影響で、分裂につぐ分裂を繰り返すことになる。中でも、マル芸の谷一や鹿地亘が「福本イズム」の急先鋒で、無産者団体の離合集散に拍車をかけた。弾圧する警察当局にとっては、まことに都合がいい運動の分裂と弱体化が促進されていった。
 山田清三郎は、身の危険を感じたのか雑司ヶ谷金山から高円寺に転居していたが、分裂騒ぎの中で対立する「セクト」の葉山嘉樹や小堀甚二、里村欣三らから家をとり囲まれ、眠れない一夜をすごしている。彼らは手に手に棍棒をもってウロついていたので、いつ押し入ってきて袋だたきに遭うかわからないような状況だった。「セクト主義」によるテロルは、別に1960年代以降の新左翼による「内ゲバ」だけのことではない。佐々木孝丸は当時の組織内対立のことを、早くから「セクト主義」というワードで表現している。
 山田清三郎や立野信之らが、落合地域にやってくるのはこの直後のことだ。このとき、立野は山田清三郎からなにか小説を書かないかと誘われている。立野の記憶によれば、「葉山はマドロスの体験を書いて作家になったのだし、黒島伝治はシベリヤ出兵の体験を書いて作家になった。平林たい子は放浪の体験を、小堀甚二は鉄道工夫や大工の体験を、里村欣三はルンペンの体験を書いて作家になったんだ……君も軍隊生活の経験があるんだから、それをモトにして何か書けないかね?」と、山田に激励されたようだ。
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 1928(昭和3)3月に起きた三・一五事件Click!の弾圧をきっかけに、蔵原惟人Click!の呼びかけで全日本無産者芸術連盟(通称ナップ)が結成され、分裂していた運動や組織に再び合同の機運が生じた。そして、機関紙「戦旗」Click!が発行されはじめている。上記に登場した数多くの人々が、上落合あるいは下落合に転居してくるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:空襲をまぬがれた雑司ヶ谷金山界隈には、古い住宅があちこちに残っている。
◆写真中上は、1933年(昭和8)2月21日深夜の小林多喜二の通夜にて。は、山田清三郎()と葉山嘉樹()。は、山田清三郎邸(「文芸戦線」編集部)があった雑司ヶ谷金山392番地界隈。左手奥の茶色いマンションが菊池寛邸(「文藝春秋」編集部)があったあたりで、そこから手前にかけて金栗四三邸と山田清三郎邸が並んでいた。
◆写真中下は、右翼のボスを演じる佐々木孝丸()と近衛文麿Click!を演じる千田是也()。は、大和郷に住んでいた佐野碩()と前衛座の女優・花柳はるみ()。
◆写真下は、1935年(昭和10)2月21日に神田神保町の中華料理店で開催された「あの人(小林多喜二)を偲ぶ会」に参集した面々。は、雑司ヶ谷金山の山田清三郎邸や菊池寛邸と同じ道筋(弦巻通り)に建っていたサンカ小説の三角寛邸。

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