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ダンスで投げ飛ばされた小坂多喜子。 [気になる下落合]

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 なめくじ横丁Click!の東側、上落合銀座通りにある「松の湯」からは、午後の早い時間から煙がモクモクと立ちのぼっていた。上落合(2丁目)829番地(現・上落合3丁目)のこのあたりには、早くから銭湯にやってくる客が多かったのだろう。なめくじ横丁Click!の長屋に集った作家や画家たちも、昼間から風呂に入っていたにちがいない。
 2軒つづきの長屋が3棟連なる住宅には、早くから尾崎一雄Click!檀一雄Click!が住んでいた。いちばん南側の陽当たりのいい長屋には、1928年(昭和3)に「赤旗」の初代編集長だった水野成夫(のちフジテレビ創立)と、東京帝大新人会から社会運動家になっていた村尾薩男(のち社会党代議士)が住んでいた。真ん中の棟には、1階に尾崎一雄が住んで2階には檀一雄が暮らしていた。
 当時、軍国主義やファシズムに抵抗するため、大宅壮一とともに雑誌「人物評論」を創刊していた上野壮夫Click!は、尾崎一雄Click!のもとへ原稿を受けとりに訪れたとき、北側の1棟に空き家があるのに気がついた。1933年(昭和8)の秋、上野壮夫Click!小坂多喜子Click!は小林多喜二の虐殺事件に遭遇した陰鬱な印象が残る阿佐ヶ谷を離れ、再び上落合へともどってくる。上落合には、以前からの友人知人が多く住んでおり、小坂多喜子も落ち着いた生活が送れると考えたのかもしれない。
 この長屋で、尾崎一雄・松枝夫妻と上野・小坂夫妻は親しく交際することになるが、特に小坂多喜子は創作の師として、尾崎一雄と生涯変わらぬ交流をつづけている。ほどなく、上野壮夫の故郷である茨城から、長崎のプロレタリア美術研究所Click!へ通うために、洋画家の飯野農夫也Click!が上野・小坂夫妻の家に寄宿することになる。
 上野・小坂夫妻が長屋に転居してきたことで、なめくじ横丁では当時の文学界でも稀有な光景が繰りひろげられることになった。上野・小坂家を訪ねてくるプロレタリア文学や美術の表現者たちと、向かいの尾崎一雄や檀一雄を訪問する芸術派、あるいは芸術至上主義の作家たちが、期せずして呉越同舟的に交流しているのだ。彼らは、ときに激しい議論に明け暮れ、ときに仲よく酒をくみ交わしていた。
 長屋なので、お互いの家の訪問者は丸見えであり、双方の家に誰が訪ねてくるのかを興味津々で観察している。気になる作家が訪ねてくると、自身が属する“派”などおかまいなしに話しかけては交流していたらしい。尾崎一雄は、1988年(昭和53)に講談社から出版された『あの日この日(四)』(文庫版)の中で、上野・小坂家を出入りしていた人々を記録している。同書より引用してみよう。
  
 (前略) 三畳の窓が路地に開いているので、誰かが来れば厭でも目に入る。堀田昇一、細野孝二郎Click!、本庄睦男、平林彪吾、小熊秀雄Click!、亀井勝一郎、保田与重郎、加藤悦郎Click!吉原義彦Click!、緑川貢、神近市子Click!矢田津世子Click!、横田文子、若林つや子Click!、平林英子――この平林を除いては、すべてここへ移ってから知った顔である。上野家へ来るのは、すべてプロレタリア派の作家や批評家であった。
  
 また、上野・小坂家では逆に、尾崎一雄や檀一雄の家を訪れる作家たちを記憶していた。夫妻の次女である堀江朋子の『風の詩人-父上野壮夫とその時代-』(朝日書林/1997年)によれば、尾崎一雄の家には中谷孝雄をはじめ、中島直人、木山捷平、外村繁、浅見淵、田畑修一郎、丹羽文雄Click!たちが、また檀一雄の家には太宰治Click!をはじめ、山岸外史、森敦、古谷綱武Click!、古谷綱正、立原道造Click!たちが訪れていた。上落合829なめくじ横丁1936.jpg
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 そのころの様子を、1986年(昭和61)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春―わたしの逢った作家たち―』から引用してみよう。ちなみに、当時の檀一雄Click!は画家をめざしていた時代だ。
  
 (尾崎家の)二階には檀一雄がたむろしていて、壁いっぱいに自分の画いた不可解な油絵を貼りつけて「女の腹の上で自滅する絵だ」と私にいった。檀一雄の福岡の高等学校時代の話は、天馬空をゆくような青春の奔放な楽しさに満ちていて私を煙にまき、眩惑させた。/檀一雄のところへしばしば太宰治が現われた。田舎からのお仕着せらしい黒地に白の細い縞柄の渋い高価な紬の上下を着流した太宰治が、二階の檀一雄の部屋の廊下から私たち(私と亡夫上野壮夫)の寝室をのぞき込むように睨みつけていた暗い眼付に私は出逢った。/階下六畳、三畳、二階六畳一間の全く同じ作りつけの二階家が二軒ずつ狭い路地をはさんで向い合っていた、路地奥の長屋である。檀一雄は当時留年に留年を重ねて東京帝国大学経済学部六年生であった。
  
 上記でも明らかなように、小坂多喜子は作家たちを単純に「プロレタリア派」と「芸術派」にカテゴライズせず、興味のある相手をつかまえて話しこんでは交流を楽しんでいた様子がわかる。このころの彼女は、『世紀』(1929年)など丹羽文雄の作品を愛読していたようで、丹羽が尾崎家にやってきたとき松枝夫人が「丹羽さんが来ているうー」(同書)と、彼女のもとに駈けこんで知らせにくるほどだった。
 だが、プロレタリア文学にこだわる上野壮夫は、「プロレタリア派」と「芸術派」の作家に垣根を設けて接しない妻を、ひそかに苦々しく思っていたようだ。しかも1933年(昭和8)から翌年にかけては、上野・小坂夫妻も参加していた日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が、特高Click!の弾圧で解散させられる瀬戸際であり、左翼の文化運動は壊滅の危機に瀕していた。「戦旗」の3代目編集長だった上野にしてみれば、反戦さえ唱えられない軍国主義の暗黒時代に突入した最悪の状況で、「ブルジョア派」の作家たちと仲よくするとは、いったいなに考えてんだよ?……という思いがあったろう。
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 そんなある日、「プロレタリア派」と「芸術派」の作家たちが、なぜか上野・小坂夫妻の家に集まって酒盛りとなった。1階の居間には蓄音器が持ちこまれ、モダンな音楽が流れはじめた。おそらく、「芸術派」の作家たちが気軽にやってきたのは、作家を色分けしない小坂多喜子の存在が大きかったのではないか。酒を一滴も飲めない彼女は、ハワイからやってきた2世作家の中島直人から、突然ダンスをしようと強引に誘われた。以下、『わたしの神戸わたしの青春』から引用しよう。
  
 私はそれまで踊りなど踊ったことはなく、しぶっていると、向いの尾崎家の開け放たれた玄関越しの座敷からこちらのようすをじっと眺めていた中谷孝雄が、私に踊れ、踊れとしきりに目で合図を送っている。/私は中谷孝雄にけしかけられ、仕方なくまだ若いくせに頭の禿げあがった中島直人に引張られ、彼のリードで踊り始めた。すると突然隣りの部屋にいた夫が私のえり首を掴み投げ飛ばした。それは一瞬の早業で襖に大きな穴があいたほどの勢だった。気がついてみると私は隣りの部屋に腰をつき、うずくまっていた。手などいちどもふりあげたことのない、普段おとなしい夫がなぜ突然荒れ狂ったのか私には分らなかった。私はただ唖然とするばかりだった。そのとき尾崎家に残って、一部始終を見ていた浅見淵があとで中島直人に、人の奥さんと踊ってはいけないよとさとしたという話を私はきいた。
  
 このとき、小坂多喜子は「夫に嫉妬される何物も思い当らなかった」と当時を回想しているが、上野壮夫の爆発は男女間のストレートな嫉妬などではなく、ファシズムによりありとあらゆる弾圧で総退却を余儀なくされた自身の運動と作家活動への、たまりにたまったイラ立ちが一気に噴出したものだろう。それは、「芸術派」の作家とダンスをした妻に腹を立てて投げ飛ばしたところで、どうにかなるものでないことは、上野自身がいちばんよく認識していたにちがいない。
 1934年(昭和9)3月12日、当局の弾圧に抗しきれなくなった日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)は解散声明を発表し、公然と合法的に反戦をとなえる作家たちの組織は事実上壊滅した。同年9月には、小坂多喜子と上野壮夫は“なめくじ横丁”の家を引き払い、1年ほど上野の郷里である茨城県筑波郡作岡村へ引きこもることになる。
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 だが、ふたりは執筆活動をあきらめていなかった。小坂多喜子は、神近市子が創刊した「婦人文藝」に書きつづけ、上野壮夫は武田麟太郎が創刊した「人民文庫」へ執筆を継続することになる。1935年(昭和10)9月に夫妻は筑波をあとにすると、今度は上落合の西隣りにあたる中野区上高田へともどってくるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:上落合2丁目829番地の、通称“なめくじ横丁”の長屋跡。
◆写真中上は、小坂多喜子・上野壮夫夫妻が去ってから2年後の1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる“なめくじ横丁”。は、1941年(昭和16)撮影の同地域。夫妻も通ったとみられる、上落合銀座通りで営業していた松の湯の煙突から白煙が確認できる。は、1933年(昭和8)ごろに撮影された「人物評論」の上野壮夫(左)と大宅壮一。
◆写真中下は、1934年(昭和9)ごろに大宅壮一が撮影した上野壮夫と小坂多喜子。は、“なめくじ横丁”跡の現状。は、1945年(昭和20)4月2日の空襲11日前にF13Click!から撮影された同エリアで、すでに長屋は解体されているのがわかる。
◆写真下は、上落合銀座通りから“なめくじ横丁”へと入る路地。3棟の長屋は、突き当たりを左折した右手にあった。は、1982年(昭和57)に撮影された小田原市下曽我で暮らす晩年の尾崎一雄を訪ねた小坂多喜子。ふたりは1933年(昭和8)の“なめくじ横丁”時代から、終生親しく交流をつづけた。晩年の壺井栄Click!のことを「肥ったうえにも肥えて」と書く小坂多喜子だが、あまり人のことをいえないような気がするのだけれど……。

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