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村山アトリエのひどい「びっくりソファ」。 [気になる下落合]

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 下落合に建っていた、西洋館の内部を撮影した写真を眺めていると、客間や居間などには必ず横長の、あるいはひとりがけのソファが置かれている。まるでお約束のように、洋間の応接室には皮張りの、または布張りで白いカバーがかけられた、座るとフカフカしそうなソファが据えつけられ、前のテーブルにはシガレットセットや灰皿などが置かれている。中には、畳部屋に置かれたソファなども写っており、当時はそれだけで洋風な生活スタイルを象徴していたのだろう。
 ソファの起源は古く、わたしはヨーロッパのフランスあたりが発祥地だと思っていたけれど、実は中東アジアの「セッティ」が源流だというのを最近知った。ラクダの乗りにくさを緩和するために、コブの上につけられたクッション入りの座椅子状のものがセッティ(settee)だ。特にヒトコブラクダは乗りにくく、シンプルな皮革製の鞍だけではすぐにも尻が痛くなるのを、その昔わたしも経験している。現在では、ふたり以上がかけられる長いソファをセッティと呼ぶそうだが、イギリスではチェスターフィールド(chesterfield)と家具メーカーの名で呼ばれ、ほかにフランス語ではベッドをさすカウチ(couch)が米国では通称ソファの意味に使われているらしい。
 いまの背もたれに肘かけがついたソファの形状は、18世紀のフランスで固定化されたといわれている。もともとは、王侯貴族の城や館などに置かれていた家具だが、フランス革命以降はさまざまなデザインのソファが一般市民へも普及していく。日本では、明治以降に普及することになるが、最初は大きな屋敷を建てられ応接室が設置できる華族やおカネもちの間にだけ普及し、そのほとんどはヨーロッパからの輸入家具だった。ところが、明治も後期になると家具職人たちが見よう見まねで洋家具を手がけるようになり、大正期に入ると洋家具調度が専門のインテリア会社までが出現している。
 洋家具を工作する家具職人、特にソファを手がける職人で思いだすのが、江戸川乱歩Click!が1925年(大正14)に発表した『人間椅子』だろう。ここに登場する家具職人は、従来は手がけたことのない革張りのひとりがけソファの注文を受け、試行錯誤を繰り返しながら製造に取り組んでいる。やがて、クッションの代わりに自分がその中に入ってしまい、腰かける女性の身体をまさぐるようになる変態男なのだが、その一節を2004年(平成16)に光文社から出版された『江戸川乱歩全集』第1巻の同作から少し引用してみよう。
  
 丁度その頃、私は、嘗つて手がけたことのない、大きな皮張りの肘掛椅子の、製作を頼まれて居りました。此椅子は、同じY市で外人の経営している、あるホテルへ納める品で、一体なら、その本国から取寄せる筈のを、私の雇われていた、商会が運動して、日本にも舶来品に劣らぬ椅子職人がいるからというので、やっと註文を取ったものでした。それ丈けに、私としても、寝食を忘れてその製作に従事しました。本当に魂をこめて、夢中になってやったものでございます。/さて、出来上った椅子を見ますと、私は嘗つて覚えない満足を感じました。それは、我乍ら、見とれる程の、見事な出来ばえであったのです。私は例によって、四脚一組になっているその椅子の一つを、日当りのよい板の間へ持出して、ゆったりと腰を下しました。何という坐り心地のよさでしょう。フックラと、硬すぎず軟かすぎぬクッションのねばり工合、態と染色を嫌って灰色の生地のまま張りつけた、鞣革の肌触り、適度の傾斜を保って、そっと背中を支えて呉れる、豊満な凭れ、デリケートな曲線を描いて、オンモリとふくれ上った、両側の肘掛け、それらの凡てが、不思議な調和を保って、渾然として「安楽」という言葉を、そのまま形に現している様に見えます。
  
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 文中にも登場しているように、肘かけと背もたれがついたフカフカのソファは、当時は「安楽椅子」あるいは「長椅子」と呼ばれて高価な西洋家具のひとつだった。大正期はまだまだ値段が高く、なかなか庶民には手がとどかない家具だったが、昭和期に入ると国産のソファの値が下がって爆発的に普及し、和洋折衷住宅の応接室や洋間などには、必ず備えられる家具のひとつになっていく。
 大正期の住宅街である、下落合の目白文化村Click!近衛町Click!アビラ村Click!、あるいは華族屋敷などに建てられた西洋館の写真や絵はがきClick!を見ていると、応接室(客間)や居間(洋間)、サンルームなどには必ずソファが写っている。これらの多くはヨーロッパからの輸入家具なのだろうが、応接室や居間ができてもソファが置かれないと、なんとなくサマにならないような洋風生活の慣習が、大正期には徐々に浸透していったのだろう。現在のように、ホットカーペットや床暖房がない当時、床に座椅子やクッションを好きに散らして、じかに寝そべるなど考えられなかった時代だった。
 下落合に数多く建てられた華族邸や洋館、和洋折衷館などに置かれたソファを観察すると、ソファの生地をそのままむき出しにして配置されたものよりも、布製のカバーをスッポリ覆うようにかけられたものが多い。ソファの生地に使われるのは革製をはじめ、ビロード地のような厚手の高価な生地や、毛足が長めなフェルト地のような布地、まるでカーテンか絨毯のように細かな刺繍がほどこされた織りの厚い高級生地が多く、それらが汚れるのを防ぐためにカバーをかけるのだろう。通常は、汚れがすぐにわかる白いシーツのような布地のカバーが多いが、ときにストライプや花模様の入ったカバーも見かける。海外では、あまりカバーをかけたソファは見かけないので、おそらく定期的に洗濯でき衛生が保たれるように配慮した、清潔好きな日本ならではのスタイルなのだろう。
 このように、洋間にはソファという組み合わせが“合言葉”のように思われていた時代なので、昭和初期に勤め人(サラリーマン)家庭が洋間のある住宅を建てた場合、特にそれが居間や客間だったりする場合には、多少無理をしてでも高価なソファとテーブルのセットをそろえていたのだろう。おカネに余裕がなく、安いソファなどを買ったりすると、クッションになっているスプリングがすぐに緩むか壊れるかして、長くはもたなかった。
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 訪問者たちが、そんな壊れたソファに座らされた記録が、上落合186番地の村山知義・籌子アトリエClick!に残っている。いわゆる「三角アトリエ」Click!での出来事だが、1970年(昭和45)に東邦出版社から刊行された村山知義『演劇的自叙伝1』で、アトリエ内部の様子を記述している文章にソファ(長椅子)が登場している。同書より引用してみよう。
  
 天井はなく、同じく防腐剤塗りの屋根裏を見せ、壁の三面に一杯につくりつけの本棚があり、白漆喰塗りの壁には私の作品がいっぱいにブラ下げてある。上の方の物を取るための大きな真赤な脚立と、大きなイーゼルと、手洗い鉢と、ベッドと、机と、長椅子。この長椅子が古道具屋から買って来たもので、バネがすっかりいかれているので、「どうぞ」といわれて掛けた客が、みんなストンとお尻が落ちて、足がピョンと跳ねあがるので「びっくりソファ」といわれていた。(中略) アトリエ兼寝室なので、部屋の東北の端に大工に造って貰ったベッドが置いてある。これに、カーテンと同じ粗製の麻布のベッド・カヴァがかかっていて、椅子の足りない客はみんなこの上に坐った。小林多喜二Click!蔵原惟人Click!中野重治Click!鹿地亘Click!立野信之Click!佐々木孝丸Click!も、みんな「びっくりソファ」やこのベッドのズックのカヴァの上に何度も坐ったはずである。
  
 アトリエ内の家具調度を細かく描写した文章だが、何人かの訪問者が近接して打ち合わせができるよう、イスの代わりに使われていた作りつけのベッドの近くに、スプリングが壊れた「びっくりソファ」が置かれていた様子がわかる。気になるのは、アトリエ内は天井板が張られず屋根裏が見えており、そこへ外壁と同様の防腐剤(クレオソート)Click!を塗布していることだ。クレオソートは定期的に塗布するため、塗られた直後の打ち合わせは刺激臭が強く、来訪者は辟易したのではないだろうか。
 この「びっくりソファ」が、村山アトリエの内部を撮影した写真類や、アトリエで踊るClick!マヴォな人たちClick!の写真のどこかに写ってないかどうか探したのだけれど、残念ながら見つけることができなかった。村山知義がアトリエを建設した際、同時期に古道具屋で買ったとみられるが、上記の人々が足をピョンと跳ねあげて座ったところをみると、1930~1931年(昭和5~6)ごろまで村山邸で使われていたのかもしれない。
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 スプリングが壊れたソファは、深く沈みこむと底近くの木枠の角あるいは底板へ尻が当たり、かなり痛かったのではないだろうか。クッションのスプリングが、ついにかぶせられた布地を突きぬけて飛びだし、その先端が誰かのお尻に刺さらなかったかどうか心配だ。w

◆写真上:第二文化村に建っていた、松下邸Click!の客間に置かれていたソファ。
◆写真中上は、1956年(昭和31)に江戸川乱歩『人間椅子』(東京創元社版)の挿画として制作された棟方志功Click!「人間椅子」。中上は、下落合の吉屋信子邸Click!にあったソファ。中下は、第一文化村の永井邸Click!の応接間に置かれたソファ。は、御留山Click!に建っていた相馬邸Click!応接室Click!に置かれたソファ。
◆写真中下は、下落合にいまも健在な小林邸Click!の居間に置かれたソファ。中上は、佐伯米子アトリエClick!にあったソファ。中下は、下落合の近衛新邸Click!の応接室に配置されたソファ。は、同じく近衛新邸のもうひとつ別の応接室に置かれたソファで人物は左から右へ近衛温子、近衛昭子Click!近衛秀麿Click!
◆写真下は、旧・遠藤邸Click!(解体)の畳敷きの和室に作りつけられためずらしい和風ソファ。中上は、モデル用に使用した中村彝アトリエClick!のソファ(レプリカ)。中下は、池之端の岩崎邸Click!サンルームのソファ。は、音羽の鳩山邸応接室に置かれたソファ。
おまけ
 1926年(大正15)刊行の美術誌「芸天」12月号(芸天社)に掲載された、村山知義の上落合から下落合へのアトリエ転居通知Click!を見つけた。めずらしいので、ご紹介しておきたい。
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