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「どこを切っても金太郎」的な昔話の世界。 [気になるエトセトラ]

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 またまたキャプションがなく、記憶にもない山の写真が出てきた。今度はアルバムに貼付されず、ネガとともに袋に入ったままのカラー写真だ。わたしが大きくなった小学生3~4年の姿なので、カラーフィルムが普及したころのものだろう。
 山の斜面から、すでに冠雪した大きな富士山がとらえられており、その富士の容姿から神奈川県西部の山か、静岡県東部の山から眺めたものだとわかる。家族が登っている山はそれほど高くはなく、写真を次々にめくると登山道がわりの涸れ沢や、根府川石らしい石仏(江戸期)が写っている。家族が山道をゆく写真を見ていくうちに、社(やしろ)の写真が出てきた。拝殿本殿の背後に、大きな山を背負っているので“ご神体”は背後の山岳そのものか、そこにあるなんらかの記念物だろうと想定して、しばらくプリントをめくるうちに「まさかり(鉞)」が岩に添えられているので、ようやく気がついた。
 これらの写真は、足柄下郡の箱根町にある金時(公時)社と、奥の院がある裏山ではないだろうか。金時社は、その北側の約8kmほどのところに位置する、静岡県小山町の不老山南峰の山麓にも同名で建立されていてまぎらわしいが、社の背後に見える冬枯れした山のかたちが、明らかに箱根外輪山の金時山なので神奈川県側だと規定することができる。
 写真の後半では、矢倉沢峠近くにある同社の奥の院や、金時手鞠石と金時宿り石とみられる風景も記録されている。これらの巨石や巨岩が、「金太郎」が祭神として奉られる以前、山麓にある金時社の本来の主柱(祭神)であり、おおもとの信仰は縄文時代からつづくとされる、巨岩・巨石信仰の聖域だったのではないだろうか。金時と結びつけられたのは、金太郎伝説がちまたで知られるようになった、中世以降の付会によるものだろう。
 場所が不明だった前回の山岳写真Click!は、金時山を登山する小学校低学年のわたしがとらえられていたけれど、それから数年ののち、今度は金時山の山麓(南側)にある金時社とその裏山に登っていたことが判明した。この写真の情景も、わたしはまったく記憶に残っていないが、親たちが繰り返しわたしを連れて金時山とその周辺域を訪れているところをみると、ことさら「♪ま~さかりか~ついで金太郎~」の「♪あ~しがらや~まのやまおくで~」界隈が気に入っていたものだろうか。w
 余談だけれど、子どものころに東京の街を歩いていて飴屋を見つけると、親父がよく金太郎飴を買ってくれた。家へ土産として買ってくる中にも、何度か金太郎飴が混じっていたように思う。口に含んでも特にそれほど感動はせず、砂糖の味しかしないただ甘いだけの昔ながらの飴なのだが、親父にとっては子どものころの懐かしい菓子のひとつだったのだろう。江戸東京では、明治以降にできた新しい飴菓子だが、「どこを切っても金太郎」という親父の言葉とともによく憶えている。同時に、「なにを演っても池辺良」という親父の口グセは、この「どこを切っても金太郎」から派生した慣用句なのだろう。w
 さて、この足柄にいた暴れん坊で力もちの、破天荒な金太郎が京に進出して坂田公時になった……などという伝説は、中世以降のできの悪い付会ではないだろうか。(説話の成立は1200年以降の鎌倉時代) 確かに金太郎の怪童伝説は、足柄とその周辺域に現代までエンエンと口承伝承されてきてはいるが、藤原時代に源頼光に見いだされ彼の四天王のひとりとなって「鬼」の酒呑童子を退治する……なんて説話は、物語の語り部がちまたに登場する中世以降の“説話”あるいは“講談”の類であって、足柄の金太郎と坂田公時は生まれ育った地域も異なるまったくの別人ではないかと思っている。
 坂田公時とは、京近くの坂田郡(滋賀県長浜市)にいた「公時(金時)」という人物ではないだろうか。そもそも金太郎の容姿自体が、朝廷と対峙する「大江山」の酒呑童子と同様に、「足柄山」のまつろわぬ坂東の「鬼」のような、ダイナミックな姿をしているではないか。
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 足柄の金太郎については、もうひとつ面白い伝説が残っている。すなわち、金太郎が深く信仰していたのは、クニノトコタチにはじまる日本古来の7天神のうち、6番目に位置する日本列島の自然創造神である「大六天(第六天)」神Click!だったことだ。
 東日本には、中でも富士の裾野やその周辺域には、古来から数多く奉られた大六天(第六天)の社Click!だが、そんな日本古来の信仰をもつ金太郎が、同じく大六天(第六天)Click!の女神カシコネとオモダルを信仰して昔からヤマトと対峙する、丹波や丹後つづきの大江山にいる酒呑童子を攻撃するなど、不自然きわまりない筋立てとして映る。ましてや、ヤマトがアマテラスを担ぎだし、当時は創立数百年にすぎない新興宗教だった伊勢社を、坂東の足柄にいた金太郎が許容するとも信仰するとも思えないのだ。
 足柄の地に伝承された金太郎伝説が、どこかの時代に大きく歪曲され、無理やり源頼光の四天王伝説と結びつけられたのではないだろうか。あるいは、そのような伝説を創造することで、なにかと朝廷と対峙・対立し、まつろわぬ気味の坂東を手なずけるための、慰撫工作(帰属=まつろわせる物語)だったのかもしれない。藤原時代は、特にその後期から常に武者(つわもの)=侍(さむらい)の進出に、朝廷や公家が戦々兢々としてすごした時代であり、その強大な勢力の中心地は古墳期からすでに鋭く対立(上毛野・南武蔵連合vs北武蔵)していた、原日本色の強い坂東(関東地方)なのは明らかだった。
 少し横道へそれるが、先日、民俗学系の動画を見ていたら「桃太郎伝説」に触れ、番組では「鬼がかわいそう」という結論だったのが面白かった。「鬼」が、せっせと生産努力してようやく貯めたのかもしれない財宝をたくさん所持しているから、家来を集めて「鬼」が住む島を勝手に攻撃して侵略し、それらの財宝を強盗し簒奪する桃太郎は、もう極悪非道でムチャクチャひどい侵略者だ……というのが番組のオチだった。w これは、平安期を舞台にした説話「一寸法師」も同様だが、まったくそのとおりだと思う。
 これらの物語には、後世になると「鬼」が「里人を苦しめた」からという、免罪符のような一文がマクラとして付け加えられるようになる。だが、本来の伝説は『日本書紀』の「景行天皇条」に見られるのとまったく同様に、北陸地方や関東地方は「土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし(土地が肥沃で収穫量も多く広大なので、侵略して盗ってしまえ)」という天皇の命令と同一の発想から生まれているのだろう。こうして、古墳期以来とみられる「丹」地方(出雲王朝の同盟国だったといわれている)や「越」地方(翡翠の女王ヌナカワの国)、そして坂東地方との対立は陰に日に深まっていったように思える。
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 これらは架空の物語らしく伝承されてはいるけれど、先の酒呑童子伝説の丹波・丹後や、同じく岡山(出雲勢力の東端?)あたりの桃太郎伝説には、ヤマトへの帰属を拒否する原日本勢力による、なんらかの史的な背景があって誕生した説話の臭いがプンプンしている。もちろん、そのおおもとには記紀に描かれた近畿地方の「土蜘蛛(ツチグモ)」や「国栖(クズ)」の退治伝説をはじめ、史的根拠が希薄な「ヤマトタケル神話」(征伐伝説)が、これら昔話の規範として横たわっているのだろう。
 さて、足柄伝説の金太郎は、明らかに山岳の民であって農業を生業(なりわい)とする平野部の定住民とは異なっている。中には「山姥(やまんば)」の息子だという説もあるが、どうだろうか? 「山姥」という呼称自体が、山岳民の女性につけられた蔑称のように聞こえるのは、農業を営み自分たちとは異なる生活をしている、農民から見た山岳地帯にいる異業種の人々を「テンバ(転場)」や「サンカ(山窩)」、「ミブチ(箕打ち)」Click!「ヒョットコ(火男)」Click!などと呼んで蔑んだのと、同質の眼差しを感じるのだ。
 だから、そのような“得体の知れない”山の民の中に、ことさらバカ力のある強靭かつ大きな肉体をもった、農地のある里では見たこともないような男児が出現し、それが里人たちに目撃されるようになったとすれば、すぐさまイエティ(雪男)のように脅威化し、実態以上の尾ヒレをつけて伝説化されただろう。今日では、「きんたろう」と発音される金太郎だが、古代から中世においては「金」=黄金(こがね)ではなく「かね」=鉄Click!を意味する名詞だから、本来は「かねたろう」と呼ばれていたのかもしれない。「太郎」はもちろん、「坂東太郎」というような呼称と同様に、「隋一のもの」「もっとも際だったもの」「最高のもの」というような意味あいだ。
 ひょっとすると、探鉱師(山師)Click!タタラの集団Click!、あるいは山にいた小鍛冶の工房(刀鍛冶から見たいわゆる蔑称「野鍛冶」Click!)で生まれたのかもしれない金太郎だが、金属にまつわる伝承が付随するのも、そのようなニュアンスを色濃く感じさせる。すなわち、金太郎は砂鉄を製錬した目白(鋼)Click!で鍛えたと思われる巨大なまさかり(鉞)をかついで山を徘徊していたのであり、武器ともなりうる強力な刃物の存在は、その背後に大鍛冶・小鍛冶Click!の仕事を強く連想させる。常にまさかり(鉞)を携帯し、力仕事が得意な金太郎は、山仕事をするかたわら鉞や鉈(なた)、鋸(のこ)などの刃物を鍛えていた山鍛冶の系譜だろうか。
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 金太郎にしろ桃太郎にしろ、また一寸法師にしろ、「鬼」がいるからむやみやたらに攻撃して退治しようというような、「どこを切っても金太郎」的で好戦的な昔話はそろそろ止揚して、先の面白かった動画のように、もう少し民俗学的なアプローチによる研究や解釈が強調されてもいい時代だろう。そういえば、太平洋戦争中に制作された戦時アニメ『桃太郎 海の神兵』(松竹/1944年)でも、対戦国は十把ひとからげに「鬼」とされていた。

◆写真上:富士の裾野までが間近に見わたせる、金時社の裏山にある山稜。
◆写真中上:親からもらった古いカメラで撮影したらしい、金時社の周辺に展開する風景。
◆写真中下は、1960年代半ばごろの金時社と背後に聳える金時山。は、かなり樹々が成長した金時社の現状。は、杉林につづく金時社の参道。
◆写真下は、金時社奥の院にある巨岩。当時は岩の上に祠が建ち鉞が置かれていたが、現在は存在しないようだ。は、金時社奥の院のさらに山奥に置かれた金時宿り石の裂け目。は、金時宿り石の現状と昭和初期の制作と見られる観光絵はがき。近年は『鬼滅の刃』の「一刀石」に見立てられ、アニメの聖地として観光スポットになっているらしい。

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