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上落合に住んだ「種蒔く人」の今野賢三。 [気になる下落合]

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 東京と故郷の間を、これほどせわしなく往来した人物はあまり知らない。だからか、上落合時代も含め今野賢三の軌跡は、ぼんやりと霞んでハッキリしない。1931年(昭和6)ごろから、今野賢三Click!は上落合502番地に住んでいたが、同地番に住んでいた小川信一(大河内信威)Click!蔵原惟人Click!立野信之Click!ほどに地元での印象が強くないのだ。むしろ、東京よりも故郷・秋田での印象のほうが圧倒的に強いのではないだろうか。そういえば、昭和初期の上落合502番地には国際文化研究所Click!も創設されていた。
 今野賢三が、秋田で呉服店の丁稚や新聞売り、鉄道工場の職工、洗濯屋の店員、郵便局などに勤め、やがて活動弁士Click!の仕事をするようになったのは大正初期のころだ。1915年(大正4)に東京へやってきて、本郷区駒込にあった駒込館の活動弁士になっている。同時に、このころから故郷の秋田魁新報や雑誌「成長」に小説や短歌、評論などを書きはじめている。だが、当時の彼は強い思想性とは無縁だったようで、1917年(大正6)には秋田で書いた小説『をののき』が風俗紊乱罪に問われて検挙されている。
 1919年(大正8)になると、のちに雑誌「種蒔く人」をともに発刊することになる、本郷区谷中に下宿していた金子洋文と同居している。ここで労働新聞編集部に勤務するが、すぐに退社して秋田へもどっている。1921年(大正10)になると、秋田で近江谷友治(小牧近江の叔父)から「種蒔く人」(種蒔き社)の同人に誘われて参加し、同年の2月に土崎版(秋田版)の「種蒔く人」創刊号を刊行。だが、3月号と4月号の3号が刊行されただけで、すぐに休刊している。つづいて、同年10月には東京で「種蒔く人」(東京版)を創刊し、今野賢三もそれにあわせて東京へともどることになる。
 「種蒔く人」に参加したころ、今野賢三はそれほど社会に対する強い問題意識はもっていなかったとみられる。作品が風俗紊乱で検挙されたように、彼は当時の芸術派的な作家をめざしていたと思われ、特に強く思想性や主張を前面に押しだした作品を残していない。このころの今野賢三について、1982年(昭和57)に無明舎から出版された佐々木久春・編/今野賢三・著『花塵録―「種蒔く人」今野賢三青春日記―』から引用してみよう。
  
 「種蒔く人」出発当時の今野賢三の社会主義について、彼は未だ関心が無かった、あるいは未熟であった、ということが言われる。日記をみても、弁士の生活のあい間に芸者を追いまわし、芸術の憧れに悶々としていて、思想など云々できないのではないかという人が居るかもしれない。それは当っている、しかしまちがっている。/人にとって思想とは、知的に了解することではあるまい。生活の傾向が血肉となっている、これが思想であろうと思う。だからこそ有島や太宰らが遂に共鳴できない体質の違いを感じプロレタリアートに別れを告げたのだろう。
  
 2歳のとき父親を病気で喪い、母親の手ひとつで育てられた今野賢三は、幼いころから丁稚奉公にでて辛酸をなめつくす生活を経験している。おそらく、若いころの宮地嘉六Click!大泉黒石Click!と同様に、苦労をしながら底辺に生きる「プロレタリアート」は、いつも彼のすぐ隣りにいただろう。だからこそ秋田で、そして東京で「種蒔く人」への参加を通じて急速に思想的な深化をとげ、そこに表現された思想へストンと「血肉」とともに当てはめることができたのではないかと思われる。
 1922年(大正11)になると、「種蒔く人」6月号から小牧近江に代わり、今野賢三は同誌の編集・発行・印刷の責任者を引き受けている。「種蒔く人」に参画してわずか1年半の間に、彼は劇的かつ貪欲に社会主義思想を吸収し、自身が依って立つ「血肉」の思想としていったのではないだろうか。同年の8月には、佐々木孝丸Click!らと劇団「表現座」を結成し、次いで秋田へと帰り有島武郎Click!秋田雨雀Click!を招いて各地を講演してまわっている。
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 このときから、今野賢三はまるでなにかに憑かれたように活動し、数多くの作品を執筆していく。そして、彼は若いころから師事していた有島武郎から徐々に離反している。関東大震災Click!が起きたとき、彼は31歳になっていた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 「種蒔く人」の編輯人・発行人・印刷人は大正十一年六月号以降、小牧から今野が引き継いだ。ますます社会主義文芸の方向へおもむく。それは師と仰ぐ有島武郎が苦悩したところであり、今野にとっては有島とのわかれとなるところでもあった。有島の作品「酒狂」に対する今野の感想に、有島は礼状を書いている。「酒狂」は有島の年譜において大正十二年一月となっているが、雑誌発売は前年十一年の十二月のようである。
  
 関東大震災の直前まで、今野賢三は有島武郎と交流していた様子がわかる。
 だが、1923年(大正12)9月の関東大震災による混乱のドサクサにまぎれ、アナキストや社会主義者が拉致・連行され虐殺される甘粕事件Click!や亀戸事件が発生し、近代ではまれにみる残虐な国家権力による犯罪が起きると、それを契機に労働運動や社会主義運動に対する弾圧が日々激しさを増していった。大震災の影響で、「種蒔く人」はやむなく休刊するが、それは印刷所が罹災して刊行できなくなったのと同時に、「種蒔く人」の方向性をめぐり同人たちの間で以前から対立が起きていたせいもあるだろう。
 1924年(大正13)になると、「種蒔く人」の実質的な終刊号となる「種蒔き雑記」が刊行される。この中で、同誌の中心となって活動していた小牧近江と金子洋文は、亀戸事件をめぐる経緯や記録に詳しく取材したルポルタージュを発表した。この作品は、初期プロレタリア文学運動における記録文学の記念碑とされているものだ。
 同年4月には、「種蒔く人」の再建会議が開かれるがどうしても意見が一致せず、ついに種蒔き社はそのまま解散することになった。そのかわり、同年6月には新たな文芸誌として「文芸戦線」を創刊することに決まった。同誌第2号(7月号)の表紙には、同人として今野賢三や金子洋文、中西伊之助Click!、武藤直治、村松正俊、柳瀬正夢Click!前田河広一郎Click!松本弘二Click!、小牧近江、佐野袈裟美、佐々木孝丸Click!青野季吉Click!平林初之輔Click!の13人の名前が印刷されている。
 「文芸戦線」創刊号で、青野季吉は種蒔き社の解散について、「樽蒔く人」の評論家・平林初之輔の発言をめぐる小牧近江と金子洋文、中西伊之助らとの対立に触れている。創刊号より、青野季吉『「文芸戦線」以前―「種蒔き社」解散前後』から少し引用してみよう。
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 震災中に起った社会的事実の手痛い経験は私たちにいろんなことを教えた。乃至はいろんなことを確かめさせた。そこで『種蒔き社』の同人中に無産階級解放運動の執る可き道に関して、意見の上で多少の距離が生じた。そこで旧『種蒔き社』の如き、行動の一単位としての意義をも持っていた団体は、その場合自ら不便なものとならざるを得なかった。文芸方面に於てはよし共同の戦線を張ることが出来ても、無産階級解放運動の他の方面では、特に主として行動に現われたる方面では、これまでの『種蒔き社』の行き方で一致することは困難となった。そこで行動の方面では各自が新境地に向って進み、共同の戦線を張るならば文芸方面に局限せねばならぬこととなった。そこで行動の一単位としても意義を持っていた『種蒔き社』という群(グループ)を解体しなければならぬこととなった。
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 青野季吉は、「種蒔く人」同人の対立から距離を置いていたので、一連の動きを総括した文章が書けたのだろう。翌年、「文芸戦線」の同人を中心に日本プロレタリア文芸連盟が結成されている。これら一連の動きの中で、「種蒔く人」の編集・発行・印刷の責任者だった、かんじんの今野賢三の姿や動向がぼんやりとして見えにくい。
 この間、彼は膨大な作品を発表しつづけており、生涯でもっとも執筆活動が盛んだった多作期とも重なる。また、「文芸戦線」が発刊されるとともに、彼は再び東京と秋田を頻繁に往復し、大山郁夫の講演会や労農党秋田支部結成に奔走している。そして、秋田で小作農を組織化して農民運動を展開するなど、どちらかといえば東京での「理論」や「議論」よりも故郷の現場での「実践」へ、理屈をこねまわすよりも目の前で困難な課題に直面している人々をどうするのかへ、ことさら注力していたフシが見える。
 その後、日本プロレタリア文芸連盟内の対立から労農芸術家連盟の結成時においても、今野賢三は主導的な位置にはおらず、仲間とともに行動をともにするといった感じが強い。彼は執筆するかたわら、無産大衆党の堺利彦Click!を秋田へ同行して講演会を開いたり、堺の東京市議会への立候補をサポートしたりした。そして、1930年(昭和5)に秋田で小作争議を指導して翌1931年(昭和6)に検挙され、4ヶ月にわたって拘留されている。今野賢三が上落合502番地へとやってくるのは、秋田で無罪判決を勝ちとり釈放されたあと間もない時期だった。この年、彼は秋田魁新報へ40回連載の新聞小説も執筆するなど、相変わらず創作意欲はきわめて旺盛だった。
 今野賢三が、上落合502番地の住居へいつまで住んでいたのか不明だが、この間、労農文化連盟→左翼芸術家連盟→労農芸術家連盟へと順に参加しているが、彼は「理論闘争」よりも創作活動に専念しており、1934年(昭和9)には小説や評論などとともに、秋田の故郷である『土崎発達史』を刊行している。このあと、思想弾圧で思うように執筆活動ができなくなってからも、『土崎港町史』(1941年)を出版するなど、終生にわたって生まれ故郷・秋田へのこだわりや愛着が強く感じられる。
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 上落合502番地の区画には、小川信一や蔵原惟人、立野信之らが住んでいることは先述したが、すぐ南隣りの上落合503番地には壺井繁治・壺井栄夫妻Click!が住み、南西隣りの上落合504番地には今野大力Click!が家族とともに暮らしていた。ちょうど今野賢三が上落合に住みはじめたころ、特高の拷問とその後のいい加減な治療で重体に陥った今野大力とその家族が、上落合503番地の壺井邸Click!に身を寄せ静養していたはずだ。また、南側の道路をはさんだ上落合506番地には、時代は異なるが一時期は神近市子Click!も住んでいる。

◆写真上:プロレタリア文学運動の嚆矢とされる「種蒔く人」だが、一連の組織あるいは運動の方向性をめぐる対立やゴタゴタでは印象が薄い今野賢三。
◆写真中上は、「種蒔く人」の中心メンバーで左から今野賢三、金子洋文、小牧近江(AI着色)。は、秋田市立図書館のシンボル「種蒔く人」記念碑。下左は、1921年(大正10)刊行の「種蒔く人」創刊号(土崎版)。下右は、1982年(昭和57)出版の佐々木久春・編/今野賢三・著『花塵録―「種蒔く人」今野賢三青春日記―』(無明舎)。
◆写真中下上左は、秋田や東京を往復しながら活動弁士をしていた時代の今野賢三。上右は、1934年(昭和9)に撮影された労農芸術家連盟時代の今野賢三。は、1888年制作のゴッホ『種をまく人』だが文芸誌「種蒔く人」のシンボルとなったのはミレー作の画面のほうだ。下左は、1924年(大正13)6月に創刊された「文芸戦線」の7月号(2号)には表紙に同人13人の名が印刷されている。下右は、晩年に撮影された今野賢三。
◆写真下は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる上落合502番地。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。は、道路左手の奥が上落合502番地の現状。

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