岩波文庫の『魏志倭人伝』が、ようやく2004年版から「邪馬台国」ではなく「邪馬壱(一)国」のメイン表記に統一された。京都の在野史家である古田武彦氏が、原典である中国の『魏志』のすべてに当たって、そのどこにも「邪馬台(薹)国」などと書かれていないことを“発見”してから、実に30年以上の歳月が流れている。古田氏の最初の著作が出たのは、わたしが中学生のときだ。
 なんで、こんなおかしなことになってしまったのか? それは、江戸期の本居宣長を中心とする国学者が書いた古代日本に関する「解説本」を、そのまま後世の古代史学者が無批判に信じてしまったからだ。つまり、国粋主義的な皇国史観にもとづいた解説本=マニュアルを「原典」だと信じてしまったところに、大きな落とし穴があった。本居宣長は、『魏志倭人伝』に書かれた「邪馬壹国」という表記を、「日本は畿内大和に朝廷がおわすのだから、壹(壱)は薹(台)の誤記だ」などと勝手に造作し、ヤマトの音にできるだけ近づけようと『魏志』の内容を歪曲しつづけた。この造作、ひらたくいえばデッチ上げが文献史学に許されるなら、もういくらだって歴史は捏造できてしまう。『魏志倭人伝』でいえば、「不弥国(ふみこく)から水行二十日で投馬国(とうまこく)に至る」とあるが、「投」は「拕」の誤記で拕馬国(たまこく)、すなわち古墳が密集する東京都・多摩川の勢力圏(南武蔵勢力)に比定でき、水行二十日は黒潮に乗ったから可能だったのだ…なんてことも、カンタンに言えてしまう。(笑)
 古田氏は、『魏志』内に書かれた他の膨大な表記例を深く研究し、この史書(魏と後継国の威信をかけた国史)が、用字ひとつひとつを含めてきわめて正確かつ厳密に書かれているのを実証した。それに対して、古代史学界はいまだこの話題を避けて沈黙している。100年以上つづいた「邪馬台国」をめぐる古代史論争が根底から崩れそうなわけだから、エポケー(判断停止)状態といってもいいかもしれない。(古田氏が民間の歴史家だから、認めたら悔しいしアカデミズムの沽券にかかわるんでしょうね) 皇国史観に都合の悪い事実には、沈黙するか目をつぶるか、あたかもそれがなかったかのようにふるまいつづける…。そんな中で、学界の著作物へ頻繁に引用される、岩波書店の『魏志倭人伝』が「邪馬壱国」へ修正された意味は、とてつもなく大きい。
 関東の稲荷山古墳から、文字が金象嵌で入れられた鉄剣が発見されれば、どう贔屓目に読んでもそうは読めない「ワカタケル大王」などと解釈し、すぐに雄略天皇と結びつけたりする。鉄剣の発見された古墳が、稲荷山古墳の陪墳(主人に寄りそう家臣の墓)であることが、のちに考古学的にも科学的にも実証され、「どうやら主墳=稲荷山古墳の埋葬者を大王とするのが自然だ」と考古学者や科学者が指摘しようが、「あの鉄剣は雄略天皇が関東の豪族に下賜したもの」…という、救いようのない皇国史観がいまだまかり通っている。(この鉄剣をめぐる件については、また改めて書きたい)
 「学問をしてゆくに、実物を能く観察して、実物を離れずに、物の理法を観てゆくと云うことは、何よりも大切なことだ。どれ程理論が立派に出来上がって居ても何所かに、実物を根底にする真実性が含まれて居なければ、即ちそれは空論だ、空学だ」、下落合と目白文化村を愛した会津八一が早稲田大学新聞に書いた一節だ。願わくば、アジア諸国の歴史学者から「島国史観」などと嘲笑や冷笑されないような、科学的にも論理的にも一貫した古代史学を確立してほしい。日本史の教科書から、「邪馬台国」や「雄略天皇の鉄剣」などという怪しげな表記が姿を消すのは、いつの日のことだろう? また、30年もかかるのかな…。