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第三文化村の目白会館で暮らした人々。 [気になる下落合]

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 以前より、拙サイトでは下落合1470番地に建っていた第三文化村Click!目白会館文化アパートClick!に住んでいた、作家の矢田津世子Click!や同じく龍膽寺雄Click!、あるいは洋画家の曾宮一念Click!について触れてきていた。ただし、曾宮一念Click!の場合は綾子夫人の病気と、それに起因する離婚に関連した一時的な居住だったとみられ、ほどなく下落合623番地の自邸兼アトリエClick!にもどっている。
 目白会館文化アパートClick!には、建設とほぼ同時にアパートの管理人室、当時の呼称でいえばアパートメント主事室へ代表の電話が引かれている。竣工直後の、1927年(昭和2)に設置されたのは「大塚86-3621番」で、冒頭の「大塚」は大塚電信電話局のことだ。また、1929年(昭和4)には代表番号がひとつ増え、「牛込34-2933番」が追加されている。アパートに備えつけの電話を利用する住民たちが増え、主事室の電話を2台に増設したのだろう。だが、のちに住民たちがアパートの各部屋へ個人用の電話機を設置する事例が急増し、代表番号の電話利用は減ったのではないだろうか。「大塚86-3621番」の代表番号は1934年(昭和9)までの利用で、その後は牛込局のみとなっている。
 目白会館に住んだ住民を、昭和初期(1927~1935年)の紳士録や興信録を通じて調べてみると、その職業は多種多様だが、おしなべて裕福な住民が多かったのではないかと思われる。当時の最先端をいくモダンなアパートメントは、月々の家賃も高く、また家賃とは別に設備費や共有費(応接室や談話室、浴室、洗濯室などの利用費)も発生したとみられ、それなりに多めの収入がある人でないと住めそうもなかったからだ。芸術家を含め、個人である程度の高収入が見こめる自営業の人物や、高学歴で給料も多めなサラリーマン、大学や専門学校に勤める教授、官公庁の幹部クラスの役人などが多く見うけられる。
 まず、芸術家でみると上記の3人のほかに、1929年(昭和4)ごろから洋画家の佐藤文雄Click!が暮らしている。佐藤文雄は、近くに住む田口省吾Click!と同じ秋田県の出身で、東京美術学校Click!(現・東京藝術大学美術部)を卒業したあと、しばらくして学習院Click!の向かいにある川村学園Click!へ美術教師として勤務しているので、目白通り沿いの通勤しやすい近所に住まいを探したものだろう。下落合のあと世田谷に転居してから、戦前は牧野虎雄Click!が中心となっていた画会「旺玄社」に所属し、戦後は佐藤文雄らが中心となって「旺玄会」を起ち上げたが、顧問には牧野虎雄のほか森田亀之助Click!が名前を連ねている。いずれも、戦前は下落合の住民たちだ。
 戦前の旺玄社について、1937年(昭和12)に美術研究所から出版された『日本美術年鑑/昭和12年版』収録の、旺玄社展についての展評から引用してみよう。
  
 旺玄社は牧野虎雄外二十数名の同人に依つて組織されてゐるが、牧野を除いては所謂既成作家として知名の画家は少く、比較的年少な新進洋画家の団体である。そして出品を公募して同人作品の外二百数十点の一般出品を入選させ、総計三百六十三点を陳列して量に於ては大展覧会を開いてゐる。従つて全体として技術の程度はかなり低く、此の量に対して見るべき作品の少いことは怪しむに足りないであらう。併し一般に新奇を衒ひ或は無理をした大作と云ふ如きものが少く、真面目に自己の道を進んでゐる手頃な作品が多かつたことは好もしく見られる所であつた。
  
秋田美術展1933.jpg
花と水1957.jpg
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 同展には、「旺玄社賞」のほか「目白賞」や「中村彝賞」などが設けられ、いかにも下落合をはじめ目白駅の周辺に住む画家たちを中心に結成された画会の特色が顕著だ。たとえば、1937年(昭和12)1月に東京府美術館で開催された、第4回旺玄社展覧会の入賞者を見ると、中村彝賞には鈴木良三Click!が選ばれ、他の入賞者には佐藤文雄をはじめ深沢省三Click!深沢紅子Click!など、この近所に住んでいた画家たちの名前が目につく。なお、佐藤文雄アトリエに通った弟子のひとりには、アニメ監督の宮崎駿Click!がいる。
 ほかに芸術家としては、詩人の山路青佳が1934年(昭和9)ごろから住んでいる。和歌山県の出身で、詩誌の「詩人現代」や「日本詩壇」、あるいは「歌謡音楽」などへ詩や歌詞を掲載していた人物だが、戦後の創作の様子はよくわからない。また、音楽関係者では東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽部)出身で、1930年(昭和5)の時点では日本交響楽団(当時の略称は国響=現・NHK交響楽団)に所属していた、フルート奏者の丸山時次が住んでいる。丸山時次も、その後の消息は記録が少ないのでよくわからない。
 公務員としては、東京商科大学教授で同大学付属の東京商科専門学校の教授も兼任していた、如水会会員で歴史学者の金子鷹之助が1929年(昭和4)ごろから住んでいる。京都府の出身で、自身も東京商科大学(現・一橋大学)を卒業し1919年(大正8)から1923年(大正12)にかけての4年間、イギリスとフランス、それにドイツへ留学して帰国後に同大学へ勤務しはじめている。戦時中は、積極的に軍部や戦争へ協力したものだろうか、1947年(昭和22)に同大学を追放され免官となった。
 1931年(昭和6)ごろには、愛知県出身の航空工学の専門家で、逓信省の航空技師(航空官)だった松浦四郎が住んでいる。松浦四郎は、航空機の技術や歴史についての多彩な本を執筆しており、1933年(昭和8)には文部省嘱託となっている。おそらく、1927年(昭和2)に逓信省と帝国飛行協会の嘱託としてヨーロッパを視察旅行した、下落合801番地(転居後は下落合1丁目476番地)の安達堅造Click!ともコンタクトがあったとみられる。
 目白会館文化アパートの住民で、サラリーマンと思われる人物は3人ほど見つけることができる。まず、芝区愛宕山放送所にある(社)東京中央放送局(日本放送協会関東支部)に勤務していたのが、熊本県出身で早大電気工学科を卒業した岡松眞尚だ。電気学会の会員で、1928年(昭和3)ごろから目白会館に住んでいる。
 また、千葉県出身で1931年(昭和6)ごろから住んでいたのが、帝国海上火災保険(現・損害保険ジャパン)に勤務していた杉本貞雄という人物だ。面白いことに、杉本も航空機分野のいわば専門家で、同保険会社の航空課に勤務している。ちょうど、上記の松浦四郎と杉本貞雄の居住時期がピタリと一致するので、両者には交流があったのではないか。
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 目白会館には、土木建築会社の経営者も住んでいる。本社は東京市麻布区笄町にあり、工場(作業場)は同区の霞町に開設されていた、鈴木組の代表・鈴木茂一だ。また、第三文化村の目白会館は落合町支店として登録されているので、鈴木組は下落合とその周辺で盛んだった開発や建築を手がけていたのだろう。鈴木組は1929年(昭和4)に設立され、代表の鈴木茂一が居住していたのは1933年(昭和8)ごろからだ。新潟県出身の鈴木茂一は、一般の住宅建設も手がけたが、商業ビルやアパートメント、倉庫、競馬場、変電所など、規模の大きな土木をともなう施設の建設が得意だったようだ。
 佐賀県の出身で、東京帝大の法学部を卒業した小川忠惠という人物も、1933年(昭和8)ごろに住んでいた。法学士で、勤務先の記述が見つからないことから、弁護士の個人事務所として目白会館で開業していたものだろうか。戦前、東京帝大大学院法学政治学研究科が刊行していた法律誌「国家学会」の会員であり、同誌の刊行へ盛んに資金カンパしている様子が記録されている。戦後になると、自治体の行政に関連した著作に小川忠惠のネームが数多く見られ、特に大阪府や同府吹田市に関するものが多いので、敗戦を機会に地方公務員として勤務していた可能性がある。
 明らかに無職の住民も、目白会館には住んでいた。興信所の信用調査や、人物紹介を兼ねた興信録・紳士録などで、氏名と住所以外は空欄という山本安三郎という人物だ。1934年(昭和9)ごろに住んでいるが、無職で収入がなければ家賃が高額な目白会館には住めないので、最初は地方の裕福な家庭の学生か東京の地主ではないかと考えた。だが、のちに芭蕉研究家で俳人として有名になる山本六丁子(安三郎)に気づき、当時はすで隠居するような年齢になっていたため無職だったのではないかと思いあたった。山本安三郎の前職は医師なので、目白会館に住むころには十分な貯えがあったのだろう。
 こうして、第三文化村に建っていた目白会館の住民を調べてみると、ほとんどの人物が高収入を得られる職業だったことがわかる。当時、モダンでオシャレなアパートメントへ住むには、一戸建ての借家よりもかなり高額な家賃が必要であり、目白文化村のネームとともに一種のステータスでもあったのだろう。昭和初期のアパートメント居住者は、住所に番地を省略して記載せず、町名のすぐ下にアパート名を記すだけの場合が多い。目白会館文化アパートの場合は、「東京市外落合町目白文化村 目白会館」という表記が多く、東京市35区制Click!が施行されたあとは「淀橋区下落合目白文化村 目白会館」の住所表記が目立つ。
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 部屋番号などの具体的な表記がなくても、郵便物が住民たちへ支障なくとどくのは、目白会館を管理運営していた主事が郵便物や荷物などをまとめて受けとり、各部屋に配布するか、当該の住民が帰宅するのを待って手渡すなどのサービスをしていたからだ。いま風にいえば、いろいろ依頼できるコンシェルジュ付きの高級マンションというところだろう。

◆写真上:下落合1470番地に建っていた、目白会館文化アパート跡の現状(右手)。
◆写真中上は、1933年(昭和8)に東京朝日新聞社で開催された同郷の画家たちによる秋田美術展。は、1957年(昭和32)制作の佐藤文雄『花と水』。は、1946年(昭和21)発行の「自由美術」5月号に掲載された旺玄社→旺玄会の告知。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる目白会館文化アパート。は、1935年(昭和10)ごろに南側の斜めフカンから撮影された目白会館。は、第1次山手空襲Click!直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された目白会館。
◆写真下は、1930年(昭和5)に撮影されたモダンアパートをわたり歩く龍膽寺雄。は、目白会館時代の1932年(昭和7)に撮影された矢田津世子。は、1935年(昭和10)10月撮影の1931年(昭和6)に自ら設計し増築した「静臥小屋」Click!の南庭に立つ曾宮一念。

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