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『高田村誌』と『高田町史』の間に。 [気になるエトセトラ]

高田町役場総舎1930.jpg
 高田地域(およそ現・目白/高田/雑司が谷/西池袋/南池袋/東池袋界隈)は、大正期から昭和初期にかけて多種多様な記録が残されている、資料(史料)的にたいへんめぐまれた地域だ。1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)と、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)の間には、先年ご紹介した自由学園Click!学生たちClick!による綿密な全町が対象のフィールドワーク(社会調査)をともなった、1925年(大正14)出版の『我が住む町』Click!や、1929年(昭和4)に三才社から出版された江副廣忠『高田の今昔』などがある。
 また、『高田町史』(1933)以降にも、江戸期から昭和初期までの高田地域について記録した資料には、元・高田町長の海老澤了之介Click!による『追憶』Click!(非売品/1954年)や『新編若葉の梢』Click!(新編若葉の梢刊行会/1958年)、森岩雄『大正・雑司ヶ谷』(青蛙房/1978年)など、周囲の地域に比べて資料類がたいへん豊富だ。これらの資料に、『北豊島郡誌』(北豊島郡役所/1918年)や『豊島区史』(豊島区役所/1951年)を加えれば、高田地域の近代から現代にかかる事跡をかなり詳しくトレースすることができる。
 このような記録は、その地域の地勢や風土、特徴、風俗、習慣、気質などを知るうえでは欠かせない貴重な資料となるのだが、残念ながら落合地域には当時のリアルタイムな記録としては、『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会/1932年)と、より古い『豊多摩郡誌』Click!(豊多摩郡役所/1916年)、『自性院縁起と葵陰夜話』Click!(自性院/1932年)ぐらいしか見あたらない。そこで、私家版でもいいから落合地域の古い記録がないかどうかを探していたら、またしても高田地域(高田町時代)の希少本を見つけた。
 ちょうど、海老澤了之介が町長に就任していた1930年(昭和5)に出版されたもので、高田町役場による『高田町政概要』(非売品)がそれだ。高田町の多種多様な当時の調査統計を、円グラフや棒グラフなどを使ってカラーでビジュアル化したり、高田町が実施している事業や施策あるいは計画の詳細を、同様にビジュアルなカラー地図や図版を使って解説したりする、これまで見たことのない行政記録だ。
 同書に近似した構成や表現は、自由学園の卒業間近な高等科2年生たちが発案し、ほぼ全校生徒が参加して実施した『我が住む町』(見やすいようカラーグラフ表現を採用している)に見られるので、高田町では彼女たちの意思や成果物を参考にし引き継ぐかたちで、同様のコンセプトにもとづき『高田町政概要』を出版しているのかもしれない。事実、自由学園の学生たちが興味をもったテーマや事象について、高田町役場側からより詳細に解説しているページがあちこちに散見される。
 豊島区の成立を記念し、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』に先駆けるように、大正中期から昭和初期にかけてのより仔細な町政の状況を紹介した同書は、『高田村誌』(1919年)と『高田町史』(1933年)の間を埋める、かけがえのない貴重な資料といえるだろう。特に統計資料では、町政が施行された1920年(大正9)以降の数字を扱うグラフが多く、前年の1919年(大正8)に出版された『高田村誌』以後の町内状況の推移を、意識的かつ積極的に紹介しているように見える。
 中でも特徴的なテーマは、自由学園の学生たちも強く意識していた関東大震災Click!以降の急激な戸数・人口増加(人口動態)の実態や、高田町予算における歳入・歳出の内訳、年度ごとの歳入・歳出の推移、町内建築物の増加推移、企業や商店をはじめ営業者数の増加率、町内車両(馬車・自動車・自転車など)の増加推移、死亡者の病名ごとに分類された累計、出生率と死亡率の変遷、道路建設計画の推移、町内の河川流域の整備状況、衛生と上下水に関する整備計画など、フィールドワークを前に自由学園の学生たちがノドから手が出るほど欲しがっていたようなデータが、1920年(大正9)を起点に(統計によっては1919年を起点に)して、1929年(昭和4)現在まで目白押しに掲載されている。
 おそらく、自由学園から寄贈された社会調査資料『我が住む町』(1925年)に刺戟を受けた町役場のスタッフたちは、その後、ほどなく町役場内に蓄積された資料を改めて整理しなおし、4年間かけて詳細な統計グラフや統計表組、イラスト、図版などを駆使した『高田町政概要』を編集しているのではないだろうか。ひょっとすると、海老澤了之介は統計のビジュアル表現について自由学園の学生たちと同様に、当時は高田町四ッ谷(家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいた、母校の教授である安部磯雄Click!に相談しているのかもしれない。
北豊島郡誌.jpg 高田村誌1919.jpg
高田町史1933.jpg 豊島区史1951.jpg
高田町政概要1930.jpg 海老澤了之介1930.jpg
 当時の町長が、海老澤了之介だったことも幸いしたように思える。彼は文化的な事業や、地域の歴史に深い興味をもつ人物であり、「高田町のいま」を後世に残しておこうと考えたのかもしれない。いや、自由学園の『我が住む町』を見て刺激を受け、町内の詳細な状況を記録しておこうと意思決定したのは、彼自身だったのかもしれない。1928年(昭和3)に海老澤了之介は、早くも助役の役職に就いていた。
 また、『高田町史』(1933年)の記述が町内の歴史的な事蹟や物語に偏重し、町政についての記述内容が薄かったのは、これまで高田町教育会による編纂だからだろうと考えてきた。だが、そうではなく3年前に『高田行政概要』を出版したばかりで、あえて再び行政の仔細について触れる必要がなかったからなのだ。東京35区制Click!が施行され、豊島区に編入されて高田町が消滅したとき、最後の町長も海老澤了之介だった。
 『高田町史』を隅々まで読むと、巻末の「町史編纂経過記」には次のような文章が掲載されている。同書より引用してみよう。
  
 当時、高田町に関する著書としては、大正八年一月二十五日発行、山口霞村氏著『高田村誌』櫻井北洲氏著『高田総覧』あり、次て昭和四年五月三日発行、江副廣忠氏の『高田の今昔』等あり。而して同五年六月十五日、高田町役場庁舎改築落成式に際し、高田町は『高田町政概要』を発行せり。/惟ふに之等の著書は地誌又は行政に付き記述せられたるものにして、史実として多く見るべきもの無かりき。/本史は専ら本町に関し、古来より遺されたる史実的文献、並に口碑伝説等を収集調査し、以て郷土史として其の史跡を永久に伝ふることに努めたり。
  
 つまり、詳しい町政の内実については『高田町政概要』を参照してもらい、『高田町史』は最初から地域の歴史や伝承に重点を置いた、いわば“風土記”的な構成を編集のコンセプトとしていたのがわかる。海老澤了之介にしてみれば、『高田町史』のほうがはるかに編集しがいのある、面白い仕事だったのではないだろうか。
人口及戸数推移グラフ1930.jpg
人口動態推移グラフ1930.jpg
高田町職業紹介所1930.jpg
 自由学園の『我が住む町』では、高田町内の道路の悪さや下水道の不備、塵埃処理にともなう衛生環境の未整備などが挙げられていたが、『高田町政概要』では特に上下水道と河川の整備や疾病、塵埃掃除(ゴミ収集)など衛生について独立した章を設けて記述しているのは、『我が住む町』に取りあげられている課題の多くが、そのまま町政に対する“町民の声”(フィードバック)だと判断していたのかもしれない。
 特に、自由学園の学生たちが各戸訪問で苦情が多かった塵芥掃除と汚物掃除は、1927年(昭和2)3月に町内で開業する清掃業者を作業員も含め丸ごと買収して町営とし、同年4月から町営事業としてサービスや料金の平準化と清掃作業の均一・徹底化を行なっている。また、下水道の不備については、『高田町政概要』が出版された1930年(昭和5)に、なんとか実地調査および測量が終わった段階だった。
 下水道計画の進捗が遅れていたのは、関東大震災後の住民増加により道路計画が数多く発生していたせいで、住宅の急増に対し道路の敷設さえ遅延ぎみで間に合わず、道路と一体化していた当時の下水道計画もまた遅れに遅れていたようだ。計画変更による二度手間を避けるために、町内の道路計画がある程度フィックスしてから下水道整備にかかろうとしていたのが、『高田町政概要』が出版された1930年(昭和5)ごろのことだった。ちょうど、宅地開発の爆発的な増加に下水道はおろか、上水道の整備がまったく追いつかないでテンテコ舞いだった、1960~1970年代の神奈川県Click!のような状況だったのだろう。
 『高田町政概要』では、当時の苦労を次のように記述している。
  
 之が(下水道計画が)最善を期する為めには、本町の道路計画及び神田上水の一部防水及排水の設備をも考慮せる計画にあらざれば、町永久施設の意義をなさざるのみならず、(東京府の)認可後に於て設計を変更し再び実地設計に依り認可を得るのは、実に煩雑を生じ事業の進捗に大なる影響があるを感じ、昭和四年十二月二十九日高田町下水調査費四千九百余円を臨時費とし町会に提出して其協賛を得、昭和五年一月十日茂庭博士を顧問に招聘し、一月十四日実地調査員として嘱託六名工夫二名人夫四名を採用し直ちに諸般の準備を整へ、同月十八日より実地に就き下水道中心線の先点に着手し、爾来鋭意調査の進捗に努めたる (カッコ内引用者註)
  
 文中に登場する「茂庭博士」とは、土木工学の専門家だった茂庭竹生のことだろう。
建物累年比較グラフ1930.jpg
下水構造イラスト1930.jpg
高田第五尋常小学校(目白小学校)1930.jpg
 『高田町政概要』は、落合地域の東隣りにあたる高田町の大正後期から昭和初期にかけての生活を、こと細かに知ることができる点で『高田町史』よりも格段に優れている。馬車や自動車ばかりでなく、自転車にも60銭の税金がかけられていたのも初めて知った事実だ。この地域の街の様子を詳しく知ることができる、願ってもない一級資料だろう。これから内容を読みこんで、なにか面白いテーマを見つけたら順次記事にしてみたい。

◆写真上:1930年に撮影された、目白通り沿いに建つ高田町役場総舎。手前は拡幅工事中の目白通りで、町役場は現在の警視庁目白合同庁舎の敷地にあった。役場の右(東側)隣りに見えているのは、火の見やぐらを備えた高田町消防組本部。
◆写真中上は、『北豊島郡誌』(1918年/)内扉と『高田村誌』(1919年/)。は、『高田町史』(1933年/)と『豊島区史』(1951年/)。下は、1930年(昭和5)に出版された『高田町政概要』(高田町役場/)と、当時の町長だった海老澤了之介()。
◆写真中下は、『高田町政概要』に掲載された1920~1929年の「人口及戸数」推移グラフ。は、同じく「人口動態数」推移グラフ。は、高田町立の職業紹介所。
◆写真下は、『高田町政概要』に掲載された「建物累年比較」推移グラフ。は、町内に敷設計画が進められていた各種下水道の構造イラスト。は、1929年(昭和4)に開校したばかりの目白駅前にある高田第五尋常小学校(現・目白小学校)。手前は拡幅工事が進捗する目白通りで、目白文化村Click!の前谷戸埋め立て写真Click!佐伯祐三Click!『目白の風景(中井の風景)』Click!と同様に、建築資材である大量の大谷石が道路端に集積されている。
おまけ
今年も、夏の到来をつげるお客様。サブノートPCのマウスほどもある、すごい力もちの巨大なカブトムシ♀だ。成虫になったばかりなのかボーッとしていて、キュウリに塗ったメープルシロップで水分補給をしたあと、うちのヤマネコに見つかるとかなりヤバいので外へ逃がしたけれど、網戸にたかってなかなか森へ帰らない。
カブトムシ.JPG

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