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下落合を描いた画家たち・織田一磨。(2) [気になる下落合]

織田一麿「高田馬場付近」1911.jpg
 ずいぶん以前に、織田一磨Click!が描いた『落合風景』Click!(1917年)をご紹介したことがある。妙正寺川をさかのぼり、落合村葛ヶ谷(現・西落合)にあった釣りのできる農業用溜池を描いたものだ。その画面が掲載された書籍、1944年(昭和19)に洸林堂から出版された織田一磨『武蔵野の記録―自然科学と藝術―』の原本が手に入ったので、もうひとつ落合地域付近の風景画をご紹介したい。
 といっても、落合村は画面に描かれた山手線の向こう側、下落合(字)東耕地と同(字)丸山のエリアがかろうじて見えるか見えないかだけで、画面のほとんどは戸塚村西原(現・高田馬場2丁目)と高田村稲荷(現・高田3丁目)だ。また、戦時中で写真製版の技術やインクが悪いせいか画面全体が暗く、描かれた家々のディテールがいまいちハッキリしない。まず、同作品につけられた制作者自身のキャプションを、同書より引用してみよう。
  
 明治四十四年は、大阪に住んでゐた時代だが、文展見物に上京した折りに、高田の馬場附近を写生したものらしい。/灰色に曇つた初冬の空から、光りのない太陽が薄く照してゐる。高田の馬場停車場のある丘を学習院裏の田圃道から写生したもので、まだ丘陵の下は一面の田畑であつた。家や工場は一軒も建つてゐなかつた。丘陵の崖地には民家が多少駅前らしく建並んでゐて、場末らしい感じである。残雪の白いのも処々にみられる。/例の通り曇り日の好きなところから、暗い文学的風景画となつてゐるが、高田の馬場辺の記録画とみれば面白いと思ふ。学習院の裏手から中野へ通ふ路なぞは、全く田舎道で、農家の他には田畑森林地帯であつた。面影橋あたりから普通の人家は無かつたものだ。現在の風景とくらべても、とても見当がつかないほどに変化してゐる。
  
 織田一磨がいう「高田の馬場」Click!とは、幕府の練兵場だった高田馬場(たかたのばば)のことではなく、山手線の駅名である高田馬場(たかだのばば)停車場のことだ。この風景を写生したのが1911年(明治44)、つまり山手線に高田馬場駅が設置されて1年たつかたたないかの風景ということになる。
 「学習院の裏手から中野へ通ふ路」とは、鎌倉期に拓かれた七曲坂Click!下の街道で、地元では古くから雑司ヶ谷道Click!(現・新井薬師道)と呼ばれてきた道のことだ。織田一磨は、おそらく目白駅で降りて坂下が東へカーブする椿坂Click!を下り、雑司ヶ谷道へと抜けると田圃の畦道に描画ポイントを決めてイーゼルを立てているのだろう。ほぼ同時期の作品に、椿坂の下から山手線の線路土手を描いた小島善太郎の『目白』Click!があるが、その描画ポイントと織田のそれは200mと離れていない。
 なぜ、高田馬場駅で下車していないのがわかるのかというと、当時は神田川の北側に渡る神高橋Click!も清水川橋もいまだ架設されていないからだ。うっかり高田馬場駅で降りてしまうと、神田川の北側へ渡るには西へかなり迂回する下落合の田島橋Click!か、それ以上に東へ大きく遠まわりとなる面影橋しか、いまだ設置されていなかった。子どものころから武蔵野を歩き慣れている織田一磨は、おそらくあらかじめ知っていたので目白駅で降り、地上駅Click!から清戸道の踏み切りClick!を西側に渡って椿坂へ出ると、学習院沿いにそのまま南へ歩いていったとみられる。
 画面右手の上空に、曇り空でぼんやりと光る太陽が描かれており、その下を電柱とともに左右に連なるのが山手線の線路土手だ。画面右手の枠外には、旧・神田上水(現・神田川)が流れる山手線の鉄橋があり、当時の川筋は現在とは異なり北から南へ、つまり画家のいるほうへ大きく蛇行しながら流れている。この鉄橋を支えていたイギリス積みのレンガも、以前にこちらでご紹介Click!している。手前に散在する白い部分は、旧・神田上水の土手沿いに溶けずに残った積雪だ。対岸には、鄙びた家々がまばらに建ち並び、ちょうど画面中央あたりに竣工したばかりの高田馬場駅があることになる。
 この画面の中で、下落合は右端に描かれた線路土手の向こう側、すなわち16年後の1927年(昭和2)に鉄道連隊によって西武線Click!が敷設され高田馬場仮駅Click!が設置される、旧・神田上水の北側ということになる。もちろん、現在ではこの作品を写生した描画ポイントに立つことはできず、十三間通りClick!(新目白通り)の南側(下り車線)の路上か、あるいはその南に建っている高田馬場ビルディングの敷地内となっている。
地形図高田戸塚1910.jpg
高田馬場ビルディング.jpg
山手線神田川鉄橋.JPG
 さて、以前にもご紹介したが、1917年(大正6)に制作された織田一磨『落合風景』についても、比較的クリアな写真とキャプション全文が判明したので、同書より改めて引用しておこう。芝区生れで麻布区育ちの織田一磨は、明治期には当然、東京15区Click!以外は郊外であり、その外周はすべて「武蔵野」という定義のしかたをしている。
  
 神田川の上流が落合村を流れてゐる姿である。落合といつても、哲学堂附近で、中野に近い落合であるが、今は定めし人家で埋まつて、斯うした野趣は消失したらうと思ふ。この当時は釣魚の好適地として、漁人がよく出掛けた場所である。この図と同時代の作は他にも四五点あるが、水彩画界へ出品して売約になつた釣人の図も其内の一枚である。/春は摘草、釣魚、写生に近い郊外遊楽地として哲学堂附近へはよく出掛けたものだ。今の吉祥寺なぞよりは、はるかに自然景観が優れてゐたし、気分も武蔵野的であつた。其処には規則といふものが定められてゐなかつた。人は生活を楽しみ感情を育てた。/雑草の芽は、春の陽光に光彩をはなち、虫は飛び廻つてゐた。武蔵野の感情は豊富に散乱して人は好むがまゝに酌みとつて帰つた。
  
 織田一磨は、「神田川の上流」と書いているが、旧・神田上水の支流のひとつである妙正寺川(江戸期の名称は北川Click!)のことを書いている。大正の中期、上高田にある光徳院の妙正寺川をはさんだ対岸(北東側)、落合村(大字)葛ヶ谷(字)御霊下には大きめな溜池が造られ、周辺の水田をうるおす灌漑用水として活用されていた。この溜池は、葛ヶ谷地域の耕地整理(西落合の成立)とともに埋め立てられ、昭和初期にはすでに消滅している。妙正寺川の水を活用した溜池は、現在の西落合2丁目にある西落合公園と付属の運動場あたりにかけて、南北に長く横たわっていた。
 織田一磨の『武蔵野の記録』にはもうひとつ、落合風景を描いたスケッチが挿画として掲載されている。現在の早稲田通りが走る、上落合の丘上から北を向いて描いた線画で、畑を耕すふたりの農夫を前景に、奥の北向き斜面には新たに建設された住宅の屋根が見えている。1921年(大正10)に描かれたスケッチで、『中野附近(落合)』とタイトルされている。上落合も、妙正寺川の川沿いを中心に耕地整理が進みはじめたころで、このような光景が東部を中心にあちこちで見られはじめていただろう。
織田一麿「落合風景」1917.jpg
西落合公園.jpg
 織田一磨は、同書で「武蔵野」Click!の位置づけにこだわっているが、次の一文がその認識の基底にあると思われる。このとらえ方は、おそらくわたしの親の世代までの「武蔵野」Click!認識と、ほぼ同様だったのではないだろうか。
  
 武蔵野、武蔵野と言つたが、それは地域的にどこを指すかといふに、常識的にいふと、南は多摩川、北は入間川、東は隅田川、西は奥多摩の山麓で限られた広大な地域だといへる。徳川時代の江戸市中、現代の東京市の大部分も、また武蔵野の内に包まれてゐる。然し何時の頃からか知らないが、江戸市街は武蔵野から区別されて、/本郷もかねやす迄を江戸とよび/川柳にも詠まれてゐる通り、本郷でさへ三丁目迄が江戸で、それから先の赤門あたりは武蔵野に属してゐたものらしい。/町家の尽きるところで、江戸市中は終つて、その先に大名屋敷なぞが散在しても、武蔵野と呼称したものらしいと察しられる。主として、山手方面に近い地点が江戸と武蔵野の境界線であつたのらしい。
  
 著者は、「南は多摩川」「東は隅田川」と規定しているが、わたしはもう少し範囲が広いとらえ方だ。それは、古墳期に育まれた文化の広さや範囲、すなわち文字どおり「南武蔵勢力」や「北武蔵勢力」の拡がりを意識すると、南は多摩川を越えて神奈川県まで深く入りこみ、東は隅田川はおろか江戸川を越えて、南武蔵勢力に古墳の石材(房州石Click!)を供給していた千葉県南部までの、広大な拡がりを想定している。「武蔵国」という枠組みや江戸期の朱引墨引は、ずいぶんあとに成立した“行政区画”の概念にすぎない。
 ただし、「武蔵野」と聞いて一義的にイメージするのは、雑木林が点々とつづく広い草原と、段丘から噴出する清廉な湧水で形成された泉が無数につづく情景で、海浜部の風情とは相いれないのかもしれないが、わたしは「文学的風景」ではなく、基層を形成する文化的なつながりや拡がりから、改めて「武蔵野」をとらえてみたいと考えている。
織田一麿「中野附近(落合)」1921.jpg
地形図上落合1918.jpg
上落合坂道.JPG
 織田一磨は、丘が連なる麻布育ちなのだが、自身が住む地域を乃手Click!ととらえてはいるものの、「江戸と武蔵野の境界線」あたり、すなわち江戸市街地とは考えずに「武蔵野」だととらえていたようだ。大正期から昭和初期にかけ、やはり麻布で育った義父Click!が聞いたら、はたしてカウンターパンチをお見舞いするだろうか?

◆写真上:1911年(明治44)の厳寒期に制作された織田一磨『高田馬場附近』。
◆写真中上は、同作とほぼ同時期の1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる描画ポイント。同年に建設される高田馬場停車場は、いまだ建設中だったのか採取されていない。は、同作の描画ポイントの現状。おそらく、イーゼルを立てたのは十三間通り(新目白通り)の下り車線路上か正面に見えている高田馬場ビルディングの敷地あたり。は、山手線の神田川鉄橋に残されていたイギリス積みのレンガガード。先の工事でコンクリートに覆われてしまい、現在は見ることができない。
◆写真中下は、1917年(大正6)に制作された織田一磨『落合風景』。は、大きな溜池があったあたりに造られた西落合公園で広い運動場が付属している。
◆写真下は、同書挿画の1枚で1921年(大正10)にスケッチされた織田一磨『中野附近(落合)』。は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる上落合。は、上落合の丘上に通う鶏鳴坂Click!の1本西隣りにある北向きの急坂を上から見下ろしたところ。

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