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シラスが大漁だと漁師は泣いた。 [気になるエトセトラ]

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 ときどき、身厚で美味しいムロアジの干物やキンメの煮付け、懐かしいシラスなどを食べに平塚Click!大磯Click!、二宮、鎌倉Click!を散歩することがある。海岸の近くには、たいがい昔からの食堂があり、その朝に獲れた魚を食べさせてくれる。特に、わたしの大好きな大型のムロアジ一夜干しは絶品だ。地産地消が原則で、東京の魚市場経由ではあまり食べることができない、相模湾と黒潮・親潮流れる太平洋の新鮮で豊富な魚介類は、わたしが子どものころからの“舌”を形成したかけがえのない魚たちだ。
 わたしがもの心つくころ、湘南海岸のあちらこちらでは盛んに地曳き網漁Click!が行なわれていた。「湘南海岸」という大くくりの名称ではなく、それぞれの街ごとにつけられた海岸名や浜辺名ごとに、海が荒れて浜から地曳き舟が出せない日を除き、毎朝、地元の漁師たちが地曳き漁をしていた。たとえば、湘南海岸の中央にあたる平塚や大磯では、それぞれ東から西へ須賀ノ浜、袖ヶ浜、虹ヶ浜、花水川河口をはさんで北浜、こゆるぎの浜と地曳きが行なわれていて、各漁場は当時の相模湾沿いに展開していた漁業組合によって規定・管理されていたのだろう。
 地曳き漁で獲れた魚たちは、その日のうちに近所の魚屋の店先で売られるか、干物の場合は翌日から数日後になって店頭に並んだ。(魚屋が自ら干物づくりをしていた時代だ) もちろん、魚屋では地曳き漁で獲れた魚ばかりでなく、漁港にもどった漁船から揚がった新鮮な魚たちも扱っており、その種類はたいへん豊富だった。神奈川県の中央だと、三浦半島の三崎港で揚がった黒潮や親潮にのってやってくる魚たち、あるいは小田原から伊豆半島の各港で獲れた魚たちの双方が、新鮮なうちに競り落とされては魚屋に並んだ。いま考えてみれば、魚に関しては非常に贅沢な環境だったと思いあたる。
 わたしが地曳きを手伝いはじめたのは、幼稚園へ入園前後のころだろうか。午前5時半から6時ごろ、わたしの家へ遊びにきていた祖父Click!に連れられ海岸に出かけると、ちょうど網を曳きはじめるころだった。当時は、巻き上げモーターの耳障りな音の記憶がまだないので、漁師たちは腰紐と素手で曳いていたように思う。1時間ぐらい曳くのを手伝うと、沖に出て網を張った舟がだんだん浜に近づいてきて、当時は木製の小さな樽などでできた網の“浮き”が海岸に揚がりはじめる。すると、朝暗いうちからはじまった地曳き漁も終盤だ。やがて網が開かれ、かかった魚は樽や木箱に分類される。
 漁師たちは手伝った礼にと、生きたままのマサバなら1尾、ムロアジやマアジなら数尾ほどを分けてくれる。祖父はそれを喜々として持ち帰り、台所でさばいて刺身にすると、朝から葡萄酒(ワインという言葉は一般的ではなかった)を飲みながら味わっていた。1960年代の当時、相模湾の地曳き漁で獲れる魚には、マアジ、ムロアジ、メアジ、コアジ、アオアジ、マサバ、ゴマサバ、イサキ、イナダ、ブリ、マダイ、カマス、タチウオ、サワラ、ホウボウ、マイワシ、キンメ(台風の接近時か通過した直後)などがいただろう。あとは、雑魚(ざこ)の稚魚としてのシラスも大量に網へかかった。他の魚はともかく、雑魚のシラスはほとんど値打ちがなく、二束三文で売られていた。
 ちょっと余談だが、近ごろ雑魚(ざこ)のことを「じゃこ」と発音する方がいるが、西のほうの出身者だろうか? 江戸東京を舞台にした映画などで、「雑魚はすっこんでろ」を「じゃこはすっこんでろ」じゃ、セリフ的にも地域的にも変でおかしいでしょ?
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 魚屋の店先で、ざるに大盛り10~20円で売られるシラスは、たいがい生のままではなく潮水で茹でられたものが多かった。いまにして思えば、漁師たちは生シラスを市場に持ちこんでも、ほとんど値がつかなかったので、潮水で茹でてひと手間加え、“付加価値”をつけてから市場へ卸していたのだろう。まるで駄菓子同然の値段で売られるシラスは、もちろん家計にはやさしいのでわたしは毎朝、大根おろしとともに食べさせられるハメになった。いい加減ウンザリしたけれど、母親から「カルシウムがたくさんあって、虫歯にならないのよ」といわれ毎日食べつづけたが、この歳になるまで虫歯になったことがないのは、確かに相模湾のシラスのおかげかもしれない。
 ただ、シラスを食べるときのひそかな楽しみもあった。シラスと呼ばれる小魚は、たいがいカタクチイワシやマイワシ、ウルメイワシ、コウナゴ(イカナゴ)などの稚魚なのだが、たまにタコやイカ、カニ、エビの“赤ちゃん”が混じっていることがあり、それを見つけるとなんだか得をしたような気分になった。当時は、現在ほど品質管理が厳密ではないので、シラスをひと山買うと思いがけない魚介類の稚魚が混じっていたりして、それを探すのが面白かったのだ。特にタコは、茹でられると赤くなるので見つけやすかった。でも、そんなことをしていると学校に遅れるので、いつも「なにしてるの、早く食べなさい!」と叱られていた記憶がある。
 小学生になったころ、ユーホー道路Click!(遊歩道路=国道134号線でいわゆる湘南道路)が、大磯の国道1号線まで舗装されてクルマの往来が徐々に増え、やがて西湘バイパスが開通するころから、相模湾の地曳きは振るわなくなっていった。おそらく海岸沿いの緑地が減り、魚たちが徐々に沿岸へ近づかなくなったのだろう。いくら網を仕掛けても、かかるのはシラスばかりで大型の魚はなかなか獲れなくなってしまった。漁師の数も減って、若い人は勤めに出て年寄りばかりになり、そのぶん網の巻き上げモーターを導入して機械化されたが、魚たちは二度と浜の近くにはもどってこなかった。
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 わたしが最後に地曳きを手伝ったのは、小学校の高学年になるころだったろうか。網にかかるのはほとんどがシラスばかりで、漁師たちはみんな暗い顔をしていたのを憶えている。威勢のいい掛け声や、網が砂浜に引き揚げられるとき、その膨らみ具合から起きた「おおーーっ!」というようなどよめきも絶え、地曳きは波音と耳障りなモーター音が響く中で静かに行われていた。たまにイワシの群れが入ることもあったが、イワシとシラスを市場へ出荷しても、当時はほとんど値がつかなかったろう。以前は、手伝うとくれていた魚もなくなり、浜辺の地曳き漁は荒んだ雰囲気に変わっていた。
 湘南各地の地曳きが、いつまで行われていたのか厳密には知らないが、自分たちの食べるぶんとモーターなどの燃料費を除けばほとんど手もとには残らず、網の修繕費や舟のメンテ費なども捻出できなかったのではないだろうか。現在、観光用に行われている地曳き漁のうち、わたしが子どものころから操業をつづける地曳き漁師の家系がはたしてどれぐらい残っているのか、調べたことがないので不明だ。
 1960年代末ごろまで操業していた、相模湾の地曳き漁師たちが生きていたら、現在の「シラスブーム」には目を丸くして驚愕するだろう。まともな魚がかからず、シラスばかりがあふれるほどに入ったいくつかの樽を前にし、暗い顔でため息をついていた漁師たちは、いまなら十分に生活が成り立つと思うだろうか。それとも、地曳き漁は手間ばかりかかって効率が悪く、港から船で沖漁に出たほうがシラスも含めて実入りがいいと考えるだろうか。おそらく、わたしが子どものころに比べれば、シラスの価格は500~1,000倍ぐらいにはなっていそうだ。
 毎日、くる日もくる日も食べさせられてウンザリした相模湾のシラスだが、この歳になるとたまに懐かしくなって食べたくなることがある。東京で売っているシラスは、しょっぱくて硬くてマズイばかりだ。その日の朝に獲れたシラスは、料亭か高級料理屋へいってしまうのだろう。だから、ときどきシラスやアジ類の干物が食べたくなると、相模湾が見える街に出かけては料理屋や旅館、食堂などで欲求を満たすことになる。
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 わたしは魚の中では、アジの仲間がいちばん好きだが、中でも大型で身厚な相模湾のムロアジには目がない。もちろんムロアジは刺身でも美味いが、うす塩で一夜干しにすると旨味が格段に増す魚だ。相模湾の海辺にある魚屋や市場を歩くと、必ず30cmをゆうに超えるムロアジの干物に出あうことができる。でも、子どものころの思い出が詰まった頭のままで出かけるわたしは、たいがい値札を見ると買うのをためらうことになる。同様に、雑魚のシラスをかけた丼飯が1,500円とかの価格を見ると、1960年代末の暗い顔をしてシラスの樽を見つめていた漁師たちのように、ハァ~ッと深いため息をつくのだ。

◆写真上:網にかかった獲れたてのシラスで、しょうが醤油かわさび醤油が美味い。
◆写真中上は、吾妻山から眺めた相模湾で、沖に連なるのは三浦半島と房総半島の山々。は、地曳き漁が行なわれていた平塚海岸の虹ヶ浜。は、潮水で茹でたシラス。子どものころは「茹でシラス」で、「釜揚げシラス」とは呼ばなかった。
◆写真中下は、大磯海岸のこゆるぎの浜。は、二宮海岸にある地曳き漁向けの舟だがおそらく観光地曳き用だろう。は、二宮海岸の穏やかな袖ヶ浦。
◆写真下は、鎌倉の七里ヶ浜。は、同じく鎌倉の由比ヶ浜から材木座海岸。は、いまでは目の玉が飛びでるほどの高級品になってしまったムロアジの開き。

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