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大倉山の伊藤博文別荘は誤伝ではないか。 [気になる下落合]

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 全国には、大倉喜八郎Click!あるいは大倉財閥が関係する「大倉山」と名づけられた丘や山がある。本来は異なる名称だった丘や山が、大倉家の別荘が建設されたり、なんらかの事業やイベントが行われたのちに山名が変更されているケースが多い。
 たとえば、1972年(昭和47)に札幌で開催された冬季オリンピックの競技場として使われた、1931年(昭和6)建設のシャンツェのある山が「大倉山」だし、南アルプスの赤石東尾根は“大名登山”をした大倉喜八郎にちなんで「大倉尾根」などと呼ばれ、神戸の安養寺山に大倉喜八郎が別荘を建てたため、それ以降は「大倉山」(現・大倉山公園で伊藤博文の銅像台座が残されている)と呼ばれるようになった。そのほか、静岡県などにも通称「大倉山」があるそうで、探せば日本各地にまだまだあるのだろう。
 下落合にも、権兵衛坂Click!が通い昔から権兵衛山Click!と呼ばれている丘が、通称「大倉山」Click!とも呼ばれている。そして、そこには明治期に伊藤博文の別荘が建っていたという伝説Click!が残っている。わたしも何度か耳にしており、権兵衛山(大倉山)を「買収」した「大倉喜八郎(大倉財閥)」との関連で語られることが多い。口承による伝承ばかりでなく、地域資料にまでそのような記述がハッキリと見えている。1998年(平成10)に落合第一特別出張所(新宿区)から発行された『新宿おちあい―歩く、見る、知る―』収録の、長谷部進之丞『古事随想』から引用してみよう。
  
 三輪邸から細い道を右へ曲がり左側に伊藤伯爵邸(現在の落合中学) 右側に落合第四小学校(創立七〇年)があり、当時の第四小学校はまだ新しい校舎で綺麗で高台の校庭からは、新宿百人町、戸山町全景が一望に、戸山が原の三角山(今は無い)も目の前に見えました。今では高い建物が建って眺望を遮ってしまった事は寂しい限りです。
  
 この文章を読むかぎり、大倉山の丘上にあたる場所(現・落合中学校の敷地内)には、明治期に伊藤博文の別荘が建っていたことになっている。つまり、伊藤博文が土地を借りるか購入して自ら別荘を建てたか、神戸にある安養寺山(標高55m:のち大倉山)と同様の由来で、大倉喜八郎が所有していた土地に大倉別荘を建て、それを伊藤博文(ときに松方正義)がまるで自分の別荘のように利用していたため、地元では伊藤博文の別荘として認知されやすかった……というような経緯が想定できる。
 確かに、目白崖線沿いには明治期から華族やおカネ持ちの別荘や本邸が建ち並び、崖線沿いの東から西へ椿山(目白山)の山県邸Click!や目白台の細川邸Click!、稲荷前(現・戸塚町)の大隈邸Click!、三島山(現・甘泉園)の清水徳川邸Click!、雑司谷旭出(現・目白)の戸田邸Click!あるいは徳川義親邸Click!、下落合の徳川邸×3邸(好敏邸Click!義恕邸Click!義忠邸Click!)、近衛邸(篤麿邸Click!文麿邸Click!)、相馬邸Click!箕作邸Click!大島邸Click!谷邸Click!川村邸Click!津軽邸Click!武藤邸Click!などなどが散見される。だから、伊藤博文邸があったという伝承を聞いても、それほどの不自然さは感じられない。
 だが、伊藤博文の邸といえば、わたしが子どものころから遊びにいっていた大磯Click!の本邸「滄浪閣」Click!(当時は中華料理レストランだった)のほか、このあたりでは小田原や夏島(横須賀)など神奈川県の別荘群が知られるが、下落合の別荘はついぞ聞いたことがなかった。また、大倉喜八郎が向島(本所区小梅町)に建てた別荘「蔵春閣」や、先述した神戸・大倉山の大倉別荘を伊藤博文が利用していたという経緯は聞いても、下落合という地名はまったく目にしたことがない。
 大倉喜八郎が、伊藤博文と初めて会ったのは、1872年(明治5)に岩倉使節団がヨーロッパをまわった際、同じく視察旅行にきていた大倉喜八郎とロンドンやローマなどで邂逅したということになっている。しかし、当初はそれほど親しくはなく、帰国後の大倉喜八郎が急接近していったのは大久保利通だった。1878年(明治11)に大久保利通が紀尾井坂で暗殺され、伊藤博文が内務卿に就任したあたりから、全国の集治監(刑務所)の建設でふたりの関係は緊密になっていく。だから、政商・大倉喜八郎が伊藤博文に別荘建設の便宜をはかったり、自身の別荘を自由に使わせたりしていたのは、1878年(明治11)から伊藤が暗殺される1909年(明治42)までの間と想定することができる。
地形図1880.jpg
地形図1909.jpg
大倉喜八郎別荘(本所区小梅町).jpg
 さて、下落合の権兵衛山(大倉山)にあったとされている伊藤博文別荘だが、1880年(明治13)に作成された日本初の本格的なフランス式カラー地形図Click!(縮尺1/20,000)から、伊藤博文が朝鮮で暗殺される1909年(明治42)に作成された1/5,000地形図にいたるまで、さまざまな地図類をあれこれ参照しても、下落合の権兵衛山(大倉山)には建物が1棟も採取されていない。同所に建築物が記載されはじめるのは、伊藤博文の死後、大正期に入ってからのことだ。つまり、参謀本部の陸地測量部Click!が作成した地図類の信憑性を優先するとすれば、大正期に入るまで権兵衛山(大倉山)には建物らしい建物は存在しておらず、旧・土地台帳の地目どおり「山林」だったことになる。
 では、大倉喜八郎ないしは大倉財閥の所有地だったから、権兵衛山は「大倉山」と呼ばれるようになった……という伝承は、はたして事実なのだろうか? 大倉山の由来について、詳しく記述した地元の資料がいつまで探しても見つからないので、わたしはついにじれったくなり、法務局で一般公開されている旧・土地台帳を総ざらえすることにした。地元で「大倉山」と認識されている、権兵衛山のいくつかのポイントとなる地番をピックアップして、旧・土地台帳の登録者名を次々と確認していく非常にめんどくさい作業だ。
 現在は権兵衛坂が通う、権兵衛山(大倉山)の斜面両側あるいは丘上の敷地は、旧・土地台帳に掲載された古い地番でいうと、下落合(字)丸山280~320番地ということになる。実際の台帳表記では、さらに地番の土地が細分化されているから、たとえば「二百八十九-七」とか「二百七十五番地-十」などの表記で分筆されていく。
 旧・土地台帳を参照すると、権兵衛山は江戸期から明治期にかけて、そのほとんどが一貫して薬王院Click!の所有地だったことがわかる。同院の伽藍(元文年間に焼失)や境内が、現在の藤稲荷Click!(御留山)近くにあったころの名残りなのかもしれない。いまの薬王院の堂宇や境内は、1878年(明治11)に御留山Click!から移転したあとのものだ。だが、同院が移転したあとも権兵衛山は薬王院の所有地であり、その土地が販売されはじめるのは、1890年(明治23)の高田家への譲渡、1902年(明治35)の衆議院議員だった堀部家への売却など、明治期も後半になってからのことだ。そして、これらの経緯が明治期の大倉喜八郎あるいは大倉財閥、さらには伊藤博文とはなんら関係がない点にも留意したい。
 旧・土地台帳に、初めて「大倉」の名前が登場するのは1914年(大正3)11月3日だ。つづけて1917年(大正6)12月3日にも、追加で土地を取得しているのがわかる。1914年(大正3)に、権兵衛山の土地(下落合丸山288~289番地)を購入したのは、当時は小石川区関口台町72番地に住んでいた大倉発身で、大倉喜八郎の妹の養子、つまり喜八郎の甥にあたる人物だ。ちなみに、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、同人の名前は掲載されておらず、1938年(昭和13)の「火保図」にも権兵衛山に同邸が収録されていないので、権兵衛山へ実際に大倉邸が建ったのはそれ以降ということになる。
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大倉喜八郎別邸「共壽亭」.jpg
神戸大倉山別荘.jpg
 大倉みち(道子)は喜八郎のすぐ下の妹で、養子に迎えたのが石沢発身(大倉発身)と溝口直介(大倉直介)のふたりの男子だった。大倉発身は1874年(明治7)生まれなので、下落合の権兵衛山を購入したときは40歳ということになる。彼は、つづけて所有地を拡張していったのか、のちに下落合(丸山)275番地の土地も手に入れている。このころから、下落合では「大倉組の大倉さん」が権兵衛山の土地を購入したということで、地元の住民は権兵衛山のことを通称「大倉山」と呼ぶようになったとみられる。
 大倉発身(1874~1954年)は、大倉組へ入社のあと東海紙料の重役から日本ミシン製造の社長に就いた人で、ほかに大倉組や大倉商事、月島機械の取締役に就任している。また、1954年(昭和29)に大倉発身が死去すると、相続による書き換えだろう、1955年(昭和30)10月2日には子息の大倉昌(1912~1988年)名義に変更されている。わたしが見つけた、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内図帳」に掲載の「大倉」家は、大倉昌邸ということになる。大倉昌は、日産自動車から月島機械の取締役に就任した人物だ。
 さて、この記事を読まれた方は、もうお気づきではないだろうか。大倉喜八郎が伊藤博文と緊密な関係にあった時代に、下落合の権兵衛山には両者に関連するなにものをも見いだすことができない。また、大倉喜八郎の甥にあたる大倉発身が、権兵衛山に土地を購入して下落合に転居してくるのは、伊藤博文がとうに死去したあとのことであり、下落合の大倉家(大倉敷地)と伊藤博文には直接的な接点はない。そして、下落合の権兵衛山は大倉喜八郎でも大倉財閥でもなく、大正期に大倉発身の個人名義で購入された、自邸を建設するための土地取得であったことも重要なポイントだ。
 いつのころからだろうか、大倉発身が自邸用に購入した土地のウワサが、「大倉喜八郎または大倉財閥の権兵衛山買収」という大きな話へとすりかわり、おそらく権兵衛山が「大倉山」と呼ばれるようになった大正期のころから、神戸の大倉山(安養寺山)の伊藤博文別荘(実は大倉喜八郎別荘)のエピソードと混交してしまい、「下落合の大倉山には伊藤博文の別荘があった」という、まことしやかな伝説が語られるようになったのではないか。
大倉みち.jpg 大倉喜八郎.jpg
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 長谷部進之丞『古事随想』では、落合中学校の敷地あたりに別荘があったとされているが、そのころにはかなり尾ヒレがついた伝説が語られていたのではないだろうか。明治期の権兵衛山(大倉山)に、伊藤博文や大倉喜八郎=大倉財閥に関連する痕跡は、少なくとも各種地図類や旧・土地台帳を参照するかぎり、どこにも存在していない。そこには、大倉千之助(大倉喜八郎の父親)の娘・大倉みち(道子)の子孫が、大正期に権兵衛山の広い土地を購入し、同じ目白崖線つづきの関口台町から下落合へ転居してきているという事実だけだ。

◆写真上:下落合にある権兵衛山(大倉山)の、ピーク(頂上)あたりの現状。
◆写真中上は、1880年(明治13)作成のフランス式1/20,000カラー地形図にみる権兵衛山。は、1909年(明治42)に伊藤博文が暗殺された同年作成の1/5,000地形図。この間の地図には、家屋が採取されていない。は、本所区小梅町にあった大倉喜八郎の向島別荘で、喜八郎が死去するまで久保井ゆう・大倉雄二母子が住んでいた。
◆写真中下は、わたしにもおなじみの大磯にある伊藤博文本邸「滄浪閣」。ここの中華料理を食べ、こゆるぎの浜Click!北浜Click!で泳ぐことが多かった。は、小田原にある大倉喜八郎の別荘「共壽亭」。喜八郎は、1890年(明治23)から1907年(明治40)まで大磯の東小磯に別荘をもっており、小田原の「共壽亭」はその移築建築かもしれない。は、神戸の大倉山(安養寺山)に建っていた大倉喜八郎の別荘(左)と伊藤博文の銅像(右)。
◆写真下は、大倉千之助の子どもである大倉みち<道子>()と大倉喜八郎()。は、法務局で公開されている旧・土地台帳の権兵衛山(大倉山)界隈の記録の一部。同地域の大半が、江戸期から大正の初めまで薬王院もちの地所だったことがわかる。
おまけ1
 そういえば、目白台の広大な細川家の敷地内に残る、細川護立邸はあまりご紹介してこなかったので改めて最新の現状写真をピックアップ。
細川護立邸.JPG
おまけ2
 大倉喜八郎の別荘があった、神戸の大倉山に残る伊藤博文の銅像台座。伊藤博文が頻繁に同別荘を利用していたため、彼の別荘だと認識していた神戸市民も多かった。
大倉山公園伊東博文像台座.jpg

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