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パナマ運河の設計図提出を拒んだ青山士。 [気になる下落合]

パナマ運河を通過するアイオワ級戦艦ミズーリ.jpg
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 昭和に入ってからだが、下落合には土木建築家の青山士(あきら)が住んでいた。土木建築家Click!は、おもに社会インフラの大規模な建造物や構造物を設計・建設するのがおもな仕事であり、建物作品を設計・建設する建築家に比べて相対的に地味な存在だ。建築作品は人目を惹くが、社会インフラの建造物は「あって当たり前」あるいは「目に触れることがまれ」な存在であり、あえて“作品”として人目を惹くことはあまりない。
 現代でいえば、社会インフラ系のシステム開発あるいは基盤技術の設計・開発の技術者は目立たないが、その上に構築される多種多様なサービスやアプリケーションを開発・提供する技術者が、ICTの“花形”のように映るのと同様の感覚だろうか。基礎研究や基盤技術のR&Dが中心の「上流」開発と、個々のカスタマーやコンシューマーに接して目立つサービスを直接提供する「下流」開発にも、同じようなことがいえるかもしれない。
 青山士は、約8年間にわたりパナマ運河の設計・建設にたずさわった唯一の日本人技師であり、17年間にわたる荒川放水路の設計・建設を主導し、また信濃川の大河津分水路の改修工事も指揮した人物だ。つまり、現代の東京でいくら台風や大雨が降っても、隅田川Click!(大川または旧・荒川)が氾濫しないのは青山士が設計した荒川放水路(現・荒川)のおかげだし、パナマ運河を通過し大西洋の艦船が太平洋へと抜けられるのも、運河の少なからぬ部分の設計・建設を担当した青山士のおかげ……というわけだ。
 でも、パナマ運河を通過したり同運河のニュースに接するとき、または荒川放水路(現・荒川)を鉄道や自動車で越えるとき、あるいは信濃川の大河津分水路をわたるときに、あえて青山士の名を思い浮かべる人は、その専門分野の人でないかぎりほとんどいないだろう。それだけ、社会インフラを設計・建設する土木建築家は、必要不可欠な事業にもかかわらず地味で目立たない存在なのだ。
 青山士は、1897年(明治30)に第一高等学校Click!に入学すると、無教会主義のキリスト教者・内村鑑三Click!に師事している。彼が死去するまで謙虚かつ良心的で実直だったのは、内村の教えが多大に影響しているとみられる。こちらでも大正期から住んでいた、内村鑑三Click!の弟子である西坂Click!は下落合702番地の南原繁Click!たちが結成した、「白雨会」Click!メンバーの活動について少しご紹介しているが、青山士は彼らよりひとまわり上の世代であり、1900年(明治33)に東京帝大工学部土木工学科へ入学している。
 青山士が座右の銘としたのは、内村鑑三が『求安録』(1893年)で引用した英国の天文学者J.ハーシェルの言葉、「I wish to leave the world better than I was born.(生まれた世界をより良いものにして、わたしはこの世を去りたい)」だった。青山士の晩年、彼の事業や業績を記録して顕彰するために、下落合の自邸を訪ねてきた清水生の取材に対し、青山は次のように答えている。1942年(昭和17)に道路改良会発行の土木建築誌「道路の改良」9月号に収録された、清水生『内務技監の今昔(五)』から引用してみよう。
  
 過日平井君に遇つたら会で書いてゐる「内務技監と(ママ)今昔」と題する記事に付いて今度はあなたの番になるから清水と云ふ人が行くから会つて話してくれとのことであつたが、僕はその際に僕のことを書くのは棺桶に入つてからでよいだらうと云つて置いたやうな次第で、夫れは人の伝記や批判又は功罪と云つたやうなものを書くのは生前の人では却々書きにくいものであるからそう云つたのであつた。
  
 「平井君」は、帝大の土木工学科で後輩の平井喜久松だと思われるが、いかにも歯の浮くような阿諛をともなう顕彰を嫌う、内村鑑三の弟子らしい答えだ。
パナマ運河工事現場.jpg
パナマ運河工事の青山士.jpg
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荒川放水路1924.jpg
 青山士は、1903年(明治36)に東京帝大を卒業すると、恩師である廣井勇教授の勧めでパナマ運河の設計・建設のため、コロンビア大学の教授への紹介状を手に米国へ単身わたっている。このときの渡航は自費で、肉親から100円を借り、廣井教授の紹介で大倉喜八郎Click!から渡航費100円の借金をして出かけている。
 このあと、さまざまな経緯をへて青山士はパナマ運河の設計・建設に参画するのだが、スエズ運河を開拓したレセップスがパナマ運河の建設にも挑戦して二度とも失敗している経緯をみても、同運河の建設は困難につぐ困難をきわめた。パナマは高温多湿で、マラリアや黄熱病など伝染病の蔓延に加え、建設予定地のけわしい地形とともに最悪の開発現場だった。約8年後の1911年(明治44)、パナマ運河の建設が80%ほど進んだところで青山士は帰国している。米国における反日感情の高まりから、軍事的にも重要なパナマ運河で、日本人の土木設計技師を雇用しているのが困難になったからだといわれている。
 帰国後の青山士は、内務省で技師の手腕をふるいはじめる。隅田川(大川)の氾濫を抑え、市街地の洪水を防止する荒川放水路の設計・建設や、“あばれ川”といわれた信濃川の治水工事などをへて、同省の内務技監のポストについている。
 この青山士の経歴に目をつけたのが、米軍を相手にあちこちで苦戦や敗退を繰り返していた軍部だった。実質の引退生活を送っていた下落合の自宅へ、1943年(昭和18)にひとりの海軍少尉が訪れて、パナマ運河の設計図の提出を要求した。青山士は拒否しているが、おそらく内務省つながりの特高Click!か、あるいは憲兵隊に圧力をかけられたものか、最終的には強制的に設計図を事実上“没収”されている。
 その様子を、2010年(平成22)発行の「近代日本の創造史」第10号(近代日本の創造史懇話会)に収録された、石田三雄『明治の群像・断片【その4】』から引用してみよう。
  
 晩年の青山にとって大変つらい出来事があった。太平洋戦争中のことである。昭和18年の秋、東京下落合の自宅に一人の海軍少尉が訪問してきた。最近開発した超大型潜水艦に折りたたみ式の爆撃機を搭載して、パナマ運河を爆撃しようという秘密計画があり、「そのためにパナマ運河の詳細を知りたい。ついては運河の設計図などを提供してほしい」というのが用件であった。青山は、「私は運河を作るためにパナマに行った。壊すためではない」と答えて、いったんお引き取り願った。しかし「国のため」という要求に抗することができず、最後には海軍は貴重な図面を手にすることになった。そのころ退却に退却を重ねていた日本軍には、すでに計画を実行する余力はなかったのだが。灼熱地獄のパナマの難工事を思い出して、青山はきっと一人で涙を流していたに違いない。
  
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 海軍のパナマ運河爆撃とは、「超大型潜水艦」=潜水空母「伊400型」に爆撃機「晴嵐」×3機を搭載して太平洋を横断し、パナマ沖から爆撃機を発進させて同運河を空襲するという、当時の戦況からみればほとんどSFに近い無謀な計画だった。伊400型潜水空母は、6,000トン(水中)を超える軽巡洋艦なみの大型潜水艦で、途中の給油もなしに太平洋を米軍に発見されないで横断することなど、制海権や制空権を奪われている当時の戦況からみてありえない作戦だった。
 日本海軍がパナマ運河の爆撃にこだわったのは、米国の東海岸にある造船所で建造された艦船、あるいは大西洋に展開している米国艦隊が、太平洋へ短期間で回航されるのを阻止する目的があったのだが、とうに戦機を逸した不可能な計画だった。
 また、パナマ運河は米国の艦船建造にも多大な制約や影響を与えている。パナマ運河を通行するためには艦船の全幅が制限されるため、米海軍は40センチ×3連装(アイオワ級戦艦Click!)以上の主砲をもつ戦艦を建造できなかった。「大和」型戦艦Click!(46センチ砲×9門)のように、それ以上の主砲を搭載するためには、主砲斉射時の衝動や転覆のリスクを防ぐために、艦船の設計幅をより大きくとらなければならないが、その代償としてパナマ運河を通行できないという深刻なジレンマを抱えていた。
 結局、日本海軍はパナマ運河の爆撃を中止した(中止せざるをえなかった)が、敗戦時の青山士の心境は複雑だったろう。自身が設計・建造にたずさわったパナマ運河を通行して、機動部隊を中心に米艦隊が続々と太平洋に展開し、日本を敗戦へと導いたかたちになったからだ。1948年(昭和23)、彼は家族とともに下落合を離れ、生まれ故郷の静岡県磐田市にある実家で静かに息を引きとっている。
 さて、下落合の青山邸はどこにあったのだろうか。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、「青山」の名前がひとり採取されているが、下落合426番地の青山家は町会議員をつとめる佐賀県出身の家系であり無関係だ。おそらく、1935年(昭和10)前後に下落合へ転入してきている可能性が高いのだろう。
 青山士が、利根川治水専門委員をつとめていたのが1935年(昭和10)、つづいて神宮関係施設調査委員の仕事をしていたが、1936年(昭和11)11月に依願退職している。下落合に自邸をもち、引退後の生活をつづけるようになったのはこのころからではないだろうか。そのような仮説を立て、1938年(昭和13)に作成された「火保図」をしらみつぶしに探してみると下落合4丁目1712番地、すなわち第二文化村Click!の安藤又三郎邸の東隣りに青山邸を見つけることができる。
青山士「ぱなま運河の話」私家版1939.jpg 青山士.jpg
パナマ運河平面図.jpg
青山邸1712.jpg
 現在の家並みでいえば、石橋湛山邸Click!の東隣り、または安倍能成邸Click!の斜向かいの位置に相当する。この敷地は、大正期の「目白文化村分譲地地割図」(1925年)では山田邸であり、大正末から昭和初期にかけては山中邸、その後は敷地が2分割されたようで青山邸ともう1邸になっている。はたして、引退した青山士の下落合邸はこの屋敷だろうか……。

◆写真上:パナマ運河を通過するアイオワ級戦艦「ミズーリ」で、3連装の40センチ主砲9門を装備した同型艦が、同運河を通過できる戦艦の最大サイズだった。
◆写真中上は、工事用の鉄道が通うパナマ運河の工事現場で、深く掘削した崖下には複数のトロッコ軌道が敷かれているのが見える。は、パナマ運河の建設にたずさわる土木建築技師たちで、前寄りの中央が若き日の青山士。は、大正期に撮影された荒川放水路の工事現場と、1924年(大正13)の竣工時に撮影された記念写真。
◆写真中下は、パナマ運河爆撃用に設計された伊400型潜水空母。は、戦後の米軍摂取時に横須賀で撮影された伊400型潜水空母のカタパルトと爆撃機格納庫。右手に見えるのは敗戦時、海上に浮かんでいた唯一の戦艦「長門」で水爆実験場であるビキニ環礁へ向かう直前の姿。は、伊400型潜水空母の搭載用に開発された爆撃機「晴嵐」。
◆写真下は、1939年(昭和14)に出版された青山士『ぱなま運河の話』(私家版/)と著者()。は、日本海軍が青山士から“没収”したパナマ運河平面図の一部。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合1712番地(第二文化村)の青山邸。

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