目白会館から妙齢婦人へハガキばらまき事件。 [気になる下落合]
1928年(昭和3)の秋口から翌年にかけ、山手線や中央線沿いに住む若い女性ばかりにあてて、大量のハガキが舞いこみはじめた。差出人は、東京市外落合町目白文化村Click!「目白会館内 木村」と書かれており、意味不明の内容だった。
ハガキの裏面には、ガリ版(謄写版)刷りで以下のようなことが書かれていた。
▼
あなたは昭和三年九月九日、下関発特急で午前十一時頃品川駅へ下車なすつた方と違ひますか。さうでしたらお知らせ下さい。 落合町目白文化村 目白会館内 木村
▲
なにやら、松本清張Click!の時刻表を駆使した短編小説のプロローグのようだが、これを見た若い女性たちは、わけがわからず薄気味の悪い文面だったので、父親に相談するか、あるいは夫に相談して善後策を検討しただろう。相手には自身の住所がバレており、娘や妻の安全・安心を考慮すれば事件性の臭いさえ漂うハガキだった。けれども、「木村」という差出人は落合町目白文化村の「目白会館」Click!という住所を明記しているので、それほど深刻な状況だとは考えず黙殺した人たちも大勢いたかもしれない。
のちに判明するが、この不可解な文面の刷られたハガキはゆうに1,000枚を超える量が投函されており、おもに東京市郊外の西部地域にバラまかれていた。1928年(昭和3)の時点で、逓信省が発行するハガキ1枚の値段は1銭5厘なので、たとえば1,500枚を購入するには22円50銭ものカネが必要だったことになる。物価指数にもとづき、今日の貨幣価値に換算すれば1万4,310円となり、ガリ版印刷も街中の印刷所へ依頼していたとすれば、おそらく現在の貨幣価値では2万円を軽く超える出費だったと思われる。当時の大卒初任給は50~60円だったので、その月給の大半がハガキ購入と印刷につぎこまれたことになる。
目白会館で暮らす住民は、さすが裕福で余裕だ……などと感心している場合でなく、不安に思った娘の親や兄弟、あるいは妻の夫や親族たちが下落合1470番地の目白会館めざして、「木村」にハガキの真意を詰問しようと押しかける事態になっている。訪問するのはハガキを受けとった女性ではなく、必ず「いかつい男」がやってきたという。
その様子を、報知新聞に連載のコラム「談話室」から引用してみよう。なお、同コラムはのちに千倉書房から『談話室漫談篇』として、1929年(昭和4)に出版されている。
▼
その葉書をもらつた婦人は出向かないで、必ずいかつい男が目白会館を訪問して、/「実に怪しからん。木村といふ人に会はせてくれ給へ」といふ見幕を示す。/目白駅から旧目白中学校の方へ行つて、ライオン・ガレーヂといふ横を左へ折れたところに目白会館がある。なる程あとからあとから奇異な葉書を持つ人が来る。/「木村といふ人はゐるかね」
▲
この時期、目白中学校Click!が練馬に移転Click!してから数年後なので、その跡地はいまだ草ぼうぼうの広い空き地Click!が拡がる原っぱClick!だったろう。
文中に、「ライオン・ガレーヂ」という店舗が登場するが、大正末から営業している街中に増えはじめた乗用車の整備を引き受ける町工場で、江戸川自動車商会の河合鑛が創立して経営していた。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を見ると、目白通りから目白会館へ左折し南へ入る東西の角地に自動車整備会社は見あたらないが、目白通りをはさんだ向かいの長崎町の通り沿いを見ると、同じく1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」には、長崎町大和田1963番地にライオンガレージの前身である「二葉自動車(双葉自動車)」のネームを発見することができる。
目白通りのライオンガレーヂは、1925年(大正14)に創立されたはずだが、翌年につくられた「長崎町事情明細図」では二(双)葉自動車の旧名のままになっている。ちょっと横道にそれるが、目白通りで双葉自動車やライオンガレーヂを経営した河合鑛について、1932年(昭和7)によろづ案内社から出版された『現代日本名士録』より引用してみよう。
▼
河合鑛 小石川区音羽町九ノ一二 電話牛込四、五四三/江戸川自動車商会総支配人、大正自動車(株)専務、ライオンガレーヂ経営者 明治三二年六月生、東京市
帝都自動車業界に声望隆々たる氏は、河合清次郎氏の長男として市内芝区に生誕した。当家は代々江戸に住み、徳川幕府の御用を勤め畳表の納入を業としてゐた。(中略) 除隊後更に帝国自動車学校に学んだ。同校卒業後目白自動車商会に勤めたが幾何もなく之を辞し、大正十二年十二月市外長崎町に独力を以て双葉自動車商会を創立し、翌十三年四月匿名組合の江戸川自動車商会を興し、更に同十四年双葉自動車商会を廃して同所にライオンガレーヂを開設し、又江戸川自動車商会の姉妹会社たる大正自動車株式会社の専務に選ばれた。(後略)
▲
このあと、河合鑛は1932年(昭和7)に東京の西部を走る武蔵野乗合自動車(現・小田急バス)を創立して社長になり、戦後の1950年(昭和25)には関東自動車工業(現・トヨタ自動車東日本)の社長に就任し、乗用車トヨペットの生産を開始している。また、自動車に関連するさまざまな団体の理事を歴任しているのが資料類に見えている。
さて、本筋にもどろう。「奇異な葉書」を手に、目白会館へ怒鳴りこんだ「いかつい男」たちは、まず同アパートの主事(管理人)に木村本人が不在であることを告げられる。そして、「あなたの御用件はわかつて居りますから」と、わけ知り顔で応接されることになる。ますます奇怪に感じた男たちは、主事室で次のような話を聞かされることになる。報知新聞調査部が出版した『談話室漫談篇』より、つづきを引用してみよう。
▼
葉書差出人の木村といふのは若い製図師であるが、昭和三年九月九日下関からの特急で上京の途中、急に病気になつて苦しみはじめたところを、一人の婦人が親切に介抱してくれた。その時はそのまゝ婦人の名も聞かずに別れたが、今になつて一度は礼を述べたいと思ふと、矢もたてもたまらなくなつて、その婦人が品川駅で下車したといふ記憶をたよりに、多分それは山手線か中央線の沿線にゐる人だらうと、役場やその他で手当り次第に妙齢婦人の名を調べ、かくは葉書を出したのだといふ。
▲
なにやら、数寄屋橋の「君の名は」(菊田一夫Click!)の世界を想起するが、木村という製図師にややパラノイア的な性格を想像してしまうのは、おそらくわたしだけではないだろう。山手線と中央線沿線の町役場を片っ端から訪問し、生年月日を調べて20歳前後の女性の名前と住所を1,000人以上も転記してもち帰り、あらかじめ謄写版で印刷しておいたハガキの表に、アパートの1室でエンエンと毎日、女性あての住所・氏名を書きつづけている男の姿を想像すれば、彼女たちの肉親でなくても不気味な気配や、えもいわれぬ危機感をおぼえるのは、しごく当然ではないだろうか。
ましてや、娘や妻の住所を確実に知られているので、いつ彼女たちの前に突然現れ危害を加えられないとも限らない……と、周囲の者たちは考え危惧したにちがいない。中には、娘や妻にまとわりつく変質者や尾行者(ストーカー)を疑い、警察にとどけた家庭もかなりあったようだ。さっそく、ハガキを出した各地の警察署から呼びだしを受け、「木村」は仕事どころではなくなり日々警察署へ出頭するのが日課のようになっていく。
各町の警察署では、あのような奇妙なハガキを妙齢の婦人たちに投函するのは「怪しからん」と叱責されているが、「木村」は逓信省が発行する官製ハガキを使い、助けてくれた恩人を探しているのが犯罪であるというなら、「警察の力で調べてくれるのか?」と逆に取調官へ食ってかかるため、違法行為が見あたらない以上どうしようもなく、二度と同じ警察署には呼ばれなくなったようだ。結局、助けてくれた女性が見つかったかどうかは不明だが、「あっ、わたしのことだ」と心あたりのある女性がいても、ちょっと執拗で気味(きび)の悪い男なので名のりでなかったのではないか。各地の役場をわざわざ訪ね歩き膨大な手間やコストを費やすなら、なぜ新聞各紙の尋ね人欄を利用しなかったのかが不可解だ。
「木村」のおかげで新聞ダネとなり、第三文化村の目白会館は東京西部にその名があまねく知れわたったけれど、アパートの主事は「木村さんのお蔭で、私は仕事などする暇もなく、毎日皆さんに事情をお話するので日が暮れます」と、ボヤくことしきりだったという。
◆写真上:2007年(平成19)に撮影した、第三文化村の目白会館跡(右手)。
◆写真中上:上は、八つ山橋Click!から撮影した東海道線や新幹線、横須賀線、山手線、京浜東北線などの鉄路が走る品川駅付近。中は、1928年(昭和3)ごろに撮影された新宿駅・山手線ホーム。下は、1931年(昭和6)ごろにに撮影された中央線。
◆写真中下:上は、昭和初期に販売されていた1銭5厘の官製ハガキ。中左は、1929年(昭和4)に報知新聞調査部が出版した『談話室漫談篇』(千倉書房)。中右は、1932年(昭和7)に出版された『現代日本名士録』(よろづ案内社)。下は、1940年(昭和15)に日本乗合自動車協会が発行した「交通機関懇親会」の出席者名簿。
◆写真下:上は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる同町1963番地の二葉(ママ:双葉)自動車だが、すでにライオンガレーヂになっていたはずだ。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる「いかつい男」たちがたどる目白会館クレームコース。下は、1931年(昭和6)ごろ目白会館で撮影された妙齢婦人の矢田津世子Click!(AI着色)。
コメント 0