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耳野卯三郎アトリエを往復する金山平三。 [気になる下落合]

金山平三アトリエ201211.JPG
 以前、宮本恒平Click!が敗戦間近な1945年(昭和20)1月に板キャンバスへ描いた、『画兄のアトリエ』Click!という作品をご紹介したことがあった。降雪のあと、中野区上高田1丁目421番地に建っていた耳野卯三郎アトリエを写生したものだ。
 耳野卯三郎Click!は、1916年(大正5)3月に東京美術学校を卒業しており、宮本恒平Click!は1920年(大正9)3月の卒業なので、美校では4年先輩の「画兄」ということになる。ふたりはふだんから親しく交流していたようで、宮本恒平は下落合(現・中落合/中井含む)の西外れまで歩き、バッケ坂Click!を下りて妙正寺川をわたるとバッケが原Click!を横断しては、丘の中腹にある耳野アトリエを頻繁に訪れていたようだ。だが、敗戦間近な時期にもうひとり、耳野卯三郎アトリエへ何度か往復していた画家がいる。アビラ村(芸術村)Click!に住んでいた、下落合4丁目2080番地の金山平三Click!だ。
 耳野卯三郎は夫人とともに、金山平三夫妻Click!とは親しかった。戦前、金山アトリエClick!で開催されていた社交ダンス教室Click!の常連であり、南薫造Click!夫妻や大久保作次郎Click!夫妻などにまじって、少し前には上落合2丁目545番地の材木屋の2階に住んでいた、大田洋子Click!の連れあいである黒瀬忠夫Click!から、社交ダンスの手ほどきを受けている。だから、耳野夫妻はともに金山平三とはお馴染みであり、洋画界の“巨匠”が突然訪ねてきても不思議ではないのだが、金山が上高田のアトリエを訪問したのは散歩や写生のついでなどではなかった。耳野卯三郎に、折り入って頼みがあったのだ。
 戦争も末期になると、東京のあちこちでB29の少数編隊による散発的な空襲Click!がつづくようになっていた。そして、1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲Click!では、(城)下町Click!の東半分にあたるほぼすべての街々が焼き払われている。それを見ていた東京西部の住民たちは、「明日はわが身だ」と急いで生まれ故郷や姻戚を頼って地方へ疎開したり、あわてて自宅の庭先に掘った防空壕Click!へ、だいじな家財を運びこんだりしている。そして、同年4月13日夜半の第1次山手空襲Click!を迎えることになる。
 午後11時ごろからはじまった、山手地区(山手線の東側一帯)を中心とするこの空襲では軍事施設や鉄道駅、河川沿いの工場地帯、幹線道路沿いの繁華街などを中心にねらった爆撃であり、のちの同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!のように、焼け残った住宅街を無差別に絨毯爆撃していく空襲とはやや異なっていた。だが、同空襲による延焼で、多くの住宅街が延焼に巻きこまれて焦土と化している。
 金山平三は、おそらく東京大空襲を目のあたりにして、アトリエに保存している自身の気に入った作品群を心配したのだろう、作品の疎開を考えはじめたにちがいない。金山平三は、自作をなかなか売ろうとはせず(だから貧乏だったのだが)、自分でよく描けたと思う作品はアトリエにストックしておくのが常だった。金山夫妻が、山形県の最上川が流れる河畔の横山村(現・大石田町)への疎開を決心するのは、同年5月(第2次山手空襲の直前)なので、それまでに作品類を疎開させる必要があったのだ。
 そこでひらめいたのが、周囲にあまり住宅が建てこんでおらず、町内の避難地にも指定されていた広大なバッケが原が目前に広がる、上高田の耳野卯三郎アトリエだった。金山アトリエでは、4月13日夜半の空襲で目白文化村Click!の方角に火の手が迫るのも見えていただろうし、金山夫妻も真夜中に中井御霊社Click!か、そのバッケ(崖地)Click!下まで退避していたかもしれない。自身のアトリエも、いつ空襲で炎上するかわからない状況の中で、耳野卯三郎のアトリエならB29から焼夷弾や爆弾を落とされることはない、もし落とされたとしても周囲の環境から延焼する可能性が低いと判断したのだろう。また、耳野アトリエとは別に、山梨の知人宅にも作品の何点かを疎開させている。
耳野卯三郎アトリエ194501.JPG
耳野卯三郎「庭にて」1934帝展特選.jpg
第15回帝展会場193411.jpg
耳野卯三郎「鳥籠と野菊」1957.jpg
 だが、結果はすべて裏目に出てしまった。下落合の金山平三アトリエだけが無傷で空襲をくぐり抜け、山梨の疎開先と耳野卯三郎アトリエが空襲で全焼してしまったのだ。そのときの様子を、飛松實のインタビューで金山自身が悔しそうに語っている。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。
  
 「何くそと思って描き溜めた自信作の大部分を、戦争中耳野君のアトリエや山梨の方へ疎開させたところ、それが皆空襲で焼けてしまった。焼けなかった私のアトリエに残っていたこの作品だけで『これが金山か』と言われるかと思うと情けなくなる。こんなことを言うと負け惜しみととられるから誰にも言ったことはないけれど……。」
  
 このとき、戦前に描いた金山平三の重要な作品が、疎開先ですべて灰になってしまった。なお、空襲で耳野卯三郎アトリエが焼けたのを、「4月」としている年譜をかなり見かけるが、耳野本人が記憶しているように5月の第2次山手空襲Click!のほうだろう。また、4月であれば金山平三はまだ下落合にいたので、耳野アトリエが焼失したのなら戦後ではなく、もっと早い時期に自作が灰になったのを知っていたはずだ。したがって、山形の疎開先からもどったときに、自作の焼失で愕然とすることはありえないだろう。
 金山平三は、B29のアビラ村(芸術村)Click!への来襲も予想し、直線距離で780mほど離れた耳野アトリエへ、せっせと出来のいい自作を選んで運んでいる。おそらく、山梨の知人宅への作品疎開が先で、空襲の影響から交通や郵便事情が急激に悪化したため、耳野アトリエへの作品疎開があとからの出来事のように思われる。金山平三が、作品の保管を依頼しに耳野アトリエを訪れたのは、1945年(昭和20)の4月ではなかったかと想定している。4月13日夜半の第1次山手空襲のあと、アトリエに残っている作品群に強い危機感をおぼえ、山梨への作品疎開が困難になったのちに、上高田まで出かけているのではないだろうか。
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 では、今度は飛松實による耳野卯三郎への手紙によるインタビューの様子を、少し長めになるが同書『金山平三』よりつづけて引用してみよう。
  
 「その時分は今のように家もたくさんありませんし、私の屋敷内にも大きな木が繫っておりました。空襲など思いもよらんという情況でした。『君のアトリエはどうも大丈夫らしいから預ってくれないか』と持って来られたのが十三点、数日たって更に三点を加えられて、『これ皆僕の好きな絵なんだ』と言われました。皆磯谷の良い額縁にはめられていました。/大体十二号から八号ぐらいで、ダリヤの絵も、菊もありました。佐原あたりの水門を描かれた赤茶けた冬景色など好きでたまらぬような感じでした。思い出しても胸が痛みます。東京最後の空襲で、たしか五月二十日だったと思います。旅行中だった私は、帰ってみると、黒こげの柱だけが立っていました。その時先生が来られて、私の肩をだいて泣かれました。そして淋しかろうと、大石田の『雪どけ道』四号を額縁に入れて持って来て下さいました。其後更に十二号のダリヤの絵も下さって、すべてを烏有にした私を慰めて下さいました。」
  
 「磯谷」とは、明治期に創業の額縁専門店で、いまも営業をつづけている老舗だ。戦後30年近くたってからの、しかも晩年の耳野卯三郎へのインタビューなので、記憶に若干の齟齬が見られるけれど、耳野自身もアトリエが空襲で焼けるとは思ってもみなかった様子が伝わる。「五月二十日」は5月25日夜半の第2次山手空襲のことだが、金山平三が「私の肩をだいて泣かれ」たのは、疎開先の大石田作品を持参していることからも、戦後1946年(昭和22)以降の出来事だろう。
 このころには、バラックの簡易建築だったのかもしれないが、耳野アトリエが再建されている様子が、1947年(昭和22)撮影の空中写真に見えている。戦後、曾宮一念Click!は東京にくるたびに耳野アトリエを訪問しているが、戦前からの耳野アトリエは焼失しており、戦後に再建されたばかりのアトリエを訪ねていたことがわかる。
 この空襲では、耳野卯三郎の作品類も大量に失われたとみられるが、なによりも金山平三の重要な作品を焼いてしまったことで、自責の念にとらわれたのではないだろうか。それを察してか、自作を耳野に贈っているのは、金山平三の繊細な心づかいだろう。
金山平三.jpg
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 バッケが原に向いた丘上に建つ耳野卯三郎アトリエが、なぜ空襲で焼けてしまったのか当時の地図や空中写真を参照すれば、およそ想像することができる。耳野アトリエのすぐ北側(当時は四村橋Click!をはさみ西落合2~3丁目)は、妙正寺川の両岸にオリエンタル写真工業Click!の大規模な工場群や、同社が経営する学校校舎などが林立しており、米軍が上空から見れば一大工業地域に見えただろう。空襲では、それらの建屋をねらって焼夷弾や250キロ爆弾が集中的に投下され、オリエンタル写真工業の第1工場Click!オリエンタル写真学校Click!の校舎が全焼している。おそらく、耳野卯三郎のアトリエはその巻きぞえを食ったとみられる。同工場群をねらったM69集束焼夷弾が、たまたま風にでも流されたのか南の丘上で炸裂し(当時の通称では「はぐれ焼夷弾」と呼ばれていた)、そのうちの1発が不運にもアトリエの屋根を直撃し、突きぬけて屋内へ落下したのかもしれない。

◆写真上:2012年(平成24)11月に撮影した、解体寸前の金山平三アトリエ。
◆写真中上は、1945年(昭和20)1月制作の宮本恒平『画兄のアトリエ』に描かれた耳野卯三郎アトリエ。中上は、1934年(昭和9)制作の第15回帝展特選となった耳野卯三郎『庭にて』。中下は、第15回帝展の会場写真で中央に耳野の『庭にて』が見えている。は、戦後の1957年(昭和32)に制作された耳野卯三郎『鳥籠と撫子』。
◆写真中下は、1917年(大正6)制作の金山平三『氷すべり』。中上は、1923年(大正12)制作の同『室内』。中下は、1928年(昭和3)制作の同『菊』。は、1941年(昭和16)ごろのちに疎開することになる横山村近くで制作された同『最上川』。
◆写真下は、旅先の金山平三。(AI着色/提供:中島香菜様) 中上は、庭先の耳野卯三郎。中下は、金山平三の作品疎開ルート。は、戦後に再建された耳野卯三郎アトリエ。
おまけ
 1935年(昭和10)ごろの空中写真にみる、耳野卯三郎アトリエと西落合側のオリエンタル写真工業の工場群。下は、上高田1丁目421番地の丘上に通うバッケ(崖地)階段。正面に見える茶色のマンションがオリエンタル写真学校の跡で、その向こう側が第1工場跡。
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下落合に多く見られたフィニアルあれこれ。 [気になる下落合]

鎗先フィニアル福の湯トップ.jpg
 かなり以前になるが、目白通りを歩いていたら、煙突がなくなった銭湯「福の湯」Click!の屋根上に、ひときわ大きく立派なフィニアルを発見して、しばらく見とれてしまった。そういえば、わたしの学生時代に下落合(現・中落合/中井含む)を歩くと、さまざまなデザインのフィニアルをあちこちで見かけた。そのような家が建て替えられると、再びフィニアルが載せられることなく現代住宅の屋根仕様になっていった。だから、リニューアルされた建物に新たなフィニアルを見かけて、ことさらめずらしく感じたのだ。
 フィニアルとは、屋根の切妻や尖塔部分に乗せられる装飾のことで、日本語では頂華とか飾り立物、小尖塔、屋根飾りなどと訳されている。下落合には、この鎗先のような尖がりフィニアルが、いちばん多かったように思う。いまでも各所で見かけるが、鎗先のような意匠をはじめ、多種多様なデザインのものがある。戦災から焼け残った邸もあれば、改めて戦後に再建された邸にもフィニアルを載せた屋根が見られた。
 戦前のフィニアルについて、建築業界ではどのように定義されていたのだろうか。1938年(昭和13)に昭文社出版部から刊行された『古今工芸図彙』から引用してみよう。
  
 フィニアル Finial
 ゴシツク式建築の破風、尖塔、天蓋等の末端に使用された花や葉の形状を表はした一種の装飾で、第十二世紀のゴシツク建築に初めて使用されて以来、漸次各世紀に夫々形状の変遷を示しつゝ十六世紀に及んだが、ゴシツク建築の衰頽と共に其使用は全く廃せらるゝに至つた。十三世紀頃のものは四角形で、四枚の葉が四方に出で、上部尖端に蕾を附けて居る。十三世紀の中葉に至つて葉は二段となり、後期に於けるものは多角形に一層精巧なる装飾が施され、十五世紀には葉形が取除かれ、十六世紀には屋根の傾斜面のクロツケツトで代用され、フィニアルの特性は茲に全く消失した。
  
 本来の意味あいとしては、天に伸びる尖塔部の強調やなんらかの宗教的な装飾、ないしは一族の象徴としての屋上立物だったようだが、それらの意味がすべて失われ、近代に入ると単純に屋根上の装飾品と化していったようだ。
 通常、フィニアルが屋根に乗せられるのは西洋館であり、まれには和洋折衷館にも飾られていた例があるのかもしれない。日本の現代住宅の外観は、そのほとんどが戦前の洋館と変わらないため、フィニアルを載せてもそれほど違和感のあるデザインには見えないだろうが、やはり住宅の装飾物には流行り廃りがあるのだろう。
 大正期から昭和期にかけ、風景を写生した絵画作品にも鎗先のようなフィニアルは数多く登場している。たとえば、「下落合風景」シリーズClick!を描いた佐伯祐三Click!『門』Click!では、八島邸の赤い屋根瓦の上に取りつけられた鎗型のフィニアルが描かれている。同じ鎗型のフィニアルは、現在の目白文化村Click!の第一・第二文化村でも目にすることができる。また、中村彝Click!の死去後にアトリエへ入居した鈴木誠Click!のアトリエも、戦後しばらくは鎗型フィニアルを屋上に載せていた。
 1916年(大正5)に竣工した、その中村彝アトリエの屋根上に飾られていたのは、まるで波止場の船をもやう桟橋のビット、あるいは烏帽子Click!かシダ植物のゼンマイを思わせるような、面白いかたちをしたフィニアルだった。中村彝が描いた『落合のアトリエ』Click!では、少し傾斜が足りないように描かれているが、当時の写真を見るとサメやイルカの背びれ、あるいはサーフボードのフィンのようにも見える。また、『落合のアトリエ』に描かれているのは、上記の変わったフィニアルだけでなく、和室や台所のある屋根上には立方体のような別種のフィニアルが載っていたようだ。この傾斜したゼンマイ型フィニアルは、中村彝アトリエの近くに建っていた井手邸Click!の屋根でも見ることができた。
鎗先フィニアル1八島さんの門.jpg
鎗先フィニアル2第一文化村.jpg
鎗先フィニアル3第二文化村.jpg
鎗先フィニアル4鈴木誠アトリエ.jpg
 フィニアルは絵画だけでなく、小説にも頻繁に登場している。特にヨーロッパの翻訳小説では、「屋根飾り」とか「尖頂飾り」とか訳されているが、欧米の住宅では現在でもフィニアルを飾る事例が多いのだろうか。建築材について解説する、1998年(平成10)に日本消費者協会が刊行した「月刊消費者」8月号では、米国のミステリー作家・リリアン.J.ブラウンの『猫はスイッチを入れる』を例に、フィニアルについて説明している。
  
 3フィートほどの高さの細長い装飾品。四角い脚部に真鍮の玉がが乗っていて、さらにその先に剣のように尖った黒い金属がのびている。競売人が、この品物を取り出したとき、オークションの会場は一瞬、静まりかえった。/フィニアルとは、西洋建築の尖頂装飾のことをいう。頂華とも呼び、切妻や小塔(ピナクル)などの頂点にとりつけられている。特にピナクルは、シャフトと呼ばれる細柱とフィニアルから成り立っている。ピナクル自体も控壁や軒先の胸壁の上、塔頂の四隅などに造られる装飾用の小塔だ。ゴシック建築物によく使われている垂直性を強調するための装飾だという。もっとも、小説に出てくるフィニアルはそんなご大層なものではない。多分、民家の切妻屋根の頂上を飾っていたのだろう。
  
 四角い立方体、あるいは篆刻や角印のようなかたちをしたフィニアルも見かける。いずれも下落合東部に現存する邸宅だが、鎗先型のフィニアルに比べておとなしく、外観からおだやかで落ち着いた印象を受ける。佐伯祐三が、第一文化村の南側にあたる宇田川邸Click!の敷地界隈を描いた『風のある日』Click!(1926年)にも、立方体らしきフィニアルを載せた2階建ての住宅が登場している。
 鋭角なデザインではなく、立方体の上に球体をあしらったフィニアルも、第二文化村の嶺田邸には載っていた。まるで、五重塔の水煙(すいえん)Click!上にある宝珠(頂部)のようなデザインで、西洋館でありながら、どこかアジア的な香りのするデザインをしていた。また、変わったところでは目白通りに面した、下落合の目白聖公会Click!が挙げられるだろうか。主屋根の頂部には、もちろん十字架が立てられているのだが、エントランス部の切妻上には十字架をくずした、独特なデザインのフィニアルが設置されている。1929年(昭和4)の建築当初に創作された、目白聖公会ならではのオリジナルデザインのフィニアルなのだろう。これを見ると、いつも卍くずしの欄干がめぐる、宇治の黄檗山・萬福寺を思いだしてしまう。
薇フィニアル1落合のアトリエ1916.jpg
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 さて、西洋館の屋上に載るフィニアルばかりご紹介してきたが、日本家屋=和館にもフィニアルは立っている。いや、フィニアルというより和館だから飾り立物というべきだろうか。日本の立物は、洋館のフィニアルとは異なり、明確な意味のあるものが多い。鯱(しゃちほこ/しび)や鬼瓦には、魔除けや厄疫除けの意味あいが強い。下落合の東部には、鯱を載せている日本家屋が現存するし、佐伯祐三が1926年(大正15)に描いたとみられる『見下シ』Click!には、鯱を載せた池田邸Click!の赤い屋根が描かれている。また、住民が沖縄出身の方だろうか、屋根上にシーサーを載せている邸も現存する。これも、明らかに魔除けや疫除けの意味がこめられているのだろう。
 これらのフィニアルには古いものになると、それを製造した職人名が入れられているケースがあるという。独自のデザインをしたものは、やはりオリジナリティを誇りたいのか作者の痕跡を残したくなるのだろう。今世紀に行われた、上野の東京国立博物館にある表慶館の改修工事で、フィニアルから作者名が判明している。2006年(平成18)に発行された「東京国立博物館ニュース」第678号の、「表慶館の改修」記事から引用してみよう。
  
 ドームの上には、フィニアルと呼ばれる細くとがった飾りが垂直にたっています。フィニアルは槍の芯木を銅板で覆って造られていました。すでに銅板ははがされており、そこにあるのは寄木細工のような木組みの本体でした。ぐるっと回ってみると、驚いたことにフィニアルに名前が彫られていました。「明治四十一年 高濱直吉 五十三才之造」/この木組を造った職人が自分の名前を刻んだものなのでしょう。誇らしげに刻まれた文字を目にしたとき、しばし言葉を失いました。
  
 まるで、刀剣の茎(なかご)Click!に刻まれているような銘文だが、フィニアルの芯に鎗柄が使われていたのには驚きだ。表慶館のフィニアルは長めなので、長柄鎗が使われているとすると芯は4m以上はあったのかもしれない。材質は、おそらく堅い赤樫だろう。
球フィニアル嶺田邸.JPG
目白聖公会フィニアル.JPG
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 このように、古い時代のフィニアルには、どこかに作者の名前が刻まれている可能性がある。昭和の初期以前に邸を建築されている方、あるいはその時代の部材を使われて住宅を建てられている方は、リニューアルされる際、試しに確認してみてはいかかだろうか。

◆写真上:「福の湯」の屋根上に飾られた、尖鋭で大きな鎗型のフィニアル。
◆写真中上は、1926年(大正15)に佐伯祐三が描く八島さんの『門』(部分)。中上中下は、目白文化村の鎗型フィニアル。は、鈴木誠アトリエの同フィニアル。
◆写真中下からへ、1916年(大正5)制作の中村彝『落合のアトリエ』(部分)、復元後の中村彝アトリエに載る近似フィニアル、よく似たワラビ型フィニアルが載っていた井手邸(提供:植田崇郎様)、1926年(大正15)制作の佐伯祐三『風のある日』(部分)、角型フィニアルが載る久七坂筋の邸、同様のフィニアルが載る下落合公園近くの邸。
◆写真下からへ、下落合ではあまり見かけない球体状のフィニアルが載る第二文化村の嶺田邸、目白聖公会の十字架をくずした独特なデザインのフィニアル、1926年(大正15)制作の佐伯祐三『見下シ』(部分)に描かれた池田邸の鯱(しび)、子安地蔵通り沿いにある鯱が載った和館、そして落合地域でもめずらしい屋根上にシーサーのフィニアルが載る邸。
おまけ
 表慶館の屋根上には、明治末とみられる多彩なフィニアルが載せられている。芯に鎗柄が使われていたのは、中央のドーム上に建てられた細長いフィニアル(赤矢印)だ。
表慶館フィニアル.jpg

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「アビラ村」の名は上高田で受け継がれた? [気になる下落合]

上高田1927頃.jpg
 1922年(大正11)に東京土地住宅Click!による開発をスタートした、下落合の西部一帯におけるアビラ村(芸術村)Click!計画だが、1925年(大正14)に同社が経営破綻するとともに開発は中途半端のまま終わっている。その後、島津家Click!による島津邸敷地内のおしゃれな住宅地開発Click!や、勝巳商店地所部Click!による昭和10年代の「目白文化村」Click!開発などについては、すでに記事にしてご紹介してきた。
 地元の落合地域ではアビラ村(芸術村)Click!について、それほど印象的には語り継がれなかったようだが、東京市内では下落合の新たな郊外住宅地開発として、かなり注目を集めていた様子がわかる。現在の「流行語辞典」に相当するものとして、当時は鈴響社から出版されていた『社会ユーモア・モダン語辞典』という刊行物があった。その1932年(昭和7)版にも、「アビラ村」は収録されている。東京土地住宅による開発がストップしたのが1925年(大正14)のことなので、その7年後、いや後述するが大洋社の『現代常識新語辞典』(1938年)にも掲載されているので、13年後まで「アビラ村」という芸術村=住宅地のワードが、東京市街地では活きていたということになるだろうか。
 鈴響社の『社会ユーモア・モダン語辞典』(1932年版)から、そのまま引用してみよう。
  
 アビラ村
 東京市外上落合(ママ)にある美術家の村、地勢がスペインに似て居るより此の名起る。
  
 もちろん、「上」落合は「下」落合の誤りだが東京土地住宅の三宅勘一Click!や、すでに下落合の西部に住んでいた芸術家たちClick!が相談して名づけたとみられる「アビラ村」の由来が、わりと正確に記載されている。「上落合」が単なる誤植か、あるいは編者である社会ユーモア研究会の勘ちがいかは不明だが、1930年代までアビラ村(芸術村)が当時の「流行語辞典」にも収録されていた様子がわかる。
 また、面白いことに同辞典の発行者は鈴木照子という女性で、1932年(昭和7)現在は高田町巣鴨代地3531番地、つまり現在の目白2丁目あたりに在住していた。下落合からは、目白通りや山手線をはさんだ斜向かい、目白駅Click!前の川村学園Click!から北への道筋を入り、直線距離で100mほどの位置に住んでいた女性だ。
 ちょっと余談だけれど、北海道にも「アビラ村」は古くから存在している。現在の北海道勇払郡安平町のことだが、漢字が当てはめられてからアビラと読まれるようになったのだろう。本来の発音は「ア・ピラ」ではなかったろうか。ア・ピラ=「a-pira」ないしは「ar-pira」はもちろんアイヌ語で、「a」は強調の接頭語で「すごい」「大きな」「けわしい」で「pira」は崖地(バッケ)Click!で急峻な崖地の意、または「ar」だとすれば「片」「片側」で片側のみ崖地というような意味になる。
 ちなみに、片岸ないしは両岸に多くの崖地を望む谷底を流れる旧・神田上水Click!(1966年より神田川Click!)は、江戸期以前には平川(ヒラカワ)と呼ばれていたが、この「ヒラ」の語源は「pira」、すなわち崖地ではないかと疑っている。原日本語の「ピラ」に「平」の漢字を当て、後世の日本語である「川」を付加して呼んでいたのではないか。「pira」川は、そのまま「崖川」の意味になる。
 さて、1932年(昭和7)ごろまで当時の「流行語辞典」にまで掲載されるほど、「アビラ村」の認知度はそこそこ高かったようだが、同時にアビラ村(芸術村)Click!の範囲が東京土地住宅Click!が開発していた下落合エリアにとどまらず、より範囲が西側へと大きく拡大しているようだ。それは、当時の随筆や小説などにも登場している。
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 たとえば、1936年(昭和11)に信正社から出版された丹羽文雄Click!の随筆集『新居』にも、「アビラ村の神様」という一文が収録されている。同書より、少し引用してみよう。
  
 アビラ村は巴里の近郊にある村名(ママ)と聞いてゐる。中野の西武電車の走る中井と新井の中間の風景がそのアビラ村によく似てゐるといふので、この土地の人々はアビラ村と呼びならしてゐた。丘あり、雑木林あり、起伏の豊かな土地である。氷川神社もこの一部で、社殿のうしろには池があつた。魚も住みかねる澄み切つた小さい池で、水は常にあふれてゐた。そばを通る人は何かなし立ちどまり水の中をのぞいてみたくなる曰くのありげな池である。水底には落葉が沈んで、青黒く、神の池にふさはしい静まり方をしてゐた。画家は好んで、この池に画架を立てるのだつた。
  
 アビラ村は、当のアビラ村(芸術村)に含まれる蘭塔坂(二ノ坂)Click!上に住んでいた、下落合4丁目2080番地の金山平三Click!も描いているように、フランスの「巴里」ではなくスペインのアビラ県にある県都の名称であり、丹羽文雄は随筆を書くにあたってなにか大きな勘ちがいをしているようだ。この文章を読むと、「土地の人々」がアビラ村と呼んでいたのは、上高田氷川明神社Click!のある丘陵あたりということになる。
 当時、丹羽文雄は下落合の西隣りにあたる中野区上高田305番地(現・上高田4丁目)、いまはちょうど中野区立第五小学校のあるあたりの借家に住んでいたので、上高田の氷川社までは桜ヶ池不動堂Click!(現・不動院)の脇を歩き、わずか150mほどの距離だった。この随筆では、「アビラ村」と呼ばれていた上高田の丘陵を越えて、丹羽文雄のいる家まで遊びにくる友人の秦鳴雄のことを書いたものだ。だが、わたしは古い『中野区史』Click!(1943~1973年)でも、またこのあたりの明治以降の地域誌である『ふる里上高田の昔語り』Click!(1982年)などでも、上高田の丘陵地に「アビラ村」の名称を見たことがない。
 もうひとつ、上高田氷川社の「社殿のうしろ」と書かれているが、同社境内に池があったのは社殿の南側(社殿に向かって左横)ではないか。それとも、1926年(大正15)の大改修で社殿の背後に移設されていたものだろうか。同社の社殿は、1926年(大正15)から住民たちが資金を出しあって大改修が行われており、丹羽文雄が目にした上高田氷川社は、いまだ木の香が残る真新しい建築だったろう。
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 丹羽文雄は触れていないが、上高田で池といえば桜ヶ池不動講が組織されていた、上高田氷川社の鳥居前(東側)にある湧水で形成された桜ヶ池Click!が昔から有名なので、地誌本などにもよく登場している。また、不動堂と同池が改修されるのは1954年(昭和29)なので、丹羽文雄は古い時代の不動堂および桜ヶ池を目にしていただろう。
 画家が好んで、上高田氷川社の周辺をスケッチしていた様子が記録されているが、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作『洗濯物のある風景』Click!で、桜ヶ池の不動堂を目にして立ち寄っていないかが気になる。『洗濯物のある風景』の描画ポイントと、桜ヶ池不動堂はわずか200mしか離れておらず、途中は西武線が敷設される以前のバッケが原Click!で遮蔽物がないため、不動堂と桜ヶ池はよく見通せただろう。また、上高田のバッケが原近くに住んでいた画家としては、中出三也Click!甲斐仁代Click!、少し遅れて耳野卯三郎Click!らがいたので写生に歩いていたかもしれない。
 同随筆の中で、丹羽文雄は「その内にはこのアビラ村も赤い屋根の安普請で埋まつてしまふんだよ。いまの内だ。せいぜい鑑賞してをくんだな。いつかはアビラ村も一つの伝説になつてしまふだらう」と友人に語っているが、随筆『新居』が書かれた1936年(昭和11)の時点で“本家”である下落合のアビラ村(芸術村)には、日本画・洋画家や彫刻家などのアトリエが建ち並び、すでに丘陵に通う坂道の上下には住宅街が形成されていた。上高田のアビラ村が「伝説」化したかどうかは疑わしいが、下落合のアビラ村(芸術村)は戦後にかけて、確かに伝説化していったようだ。
 もうひとつ、アビラ村が登場している丹羽文雄の随筆ではなく小説がある。1936年(昭和11)に改造社から出版された『この絆』に収録の、短編『古い恐怖』から引用してみよう。
  
 その様子が秦眞吉には噛みつくことの出来ない、ふてぶてしい感じを感じさせた。彼は頭を垂れ、部屋を歩きまはつてから長椅子に仰向けにぶつ倒れた。健康なその身体は弾機(バネ)のため、感情的に少時震へてゐた。中野もこの辺は画家などにアビラ村と呼ばれてゐるだけに、深夜は静寂の底にあつた。とも子は口もきかずにぢつとしてゐた。いつか彼女の神経は、秦の心の内で燃えさせる音楽に耳をかたむけてゐるかのやうであつた。
  
 「中野もこの辺は画家などにアビラ村と呼ばれてゐる」と書くが、丹羽文雄と周辺にいた友人たち(作家や画家を含む)が、下落合西部のアビラ村(芸術村)開発を耳にして、上高田の丘陵地帯も勝手にそう呼びならわしていただけなのではないだろうか?
丹羽文雄「新居」1936.jpg 丹羽文雄「この絆」1936.jpg
新しい言葉の字引1927改訂版実業之日本社.jpg 現代常識新語辞典1938大洋社.jpg
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 当時の「流行語辞典」では、先述の『社会ユーモア・モダン語辞典』のほかに、近似する辞典類として『新しい言葉の字引』(実業之日本社/1925年)や『近代新用語辞典』(修教社書院/1928年)、『新しい言葉の泉』(創造社/1928年)、『現代常識百科事典』(朋文堂/1928年)、『現代新語辞典』(亜紀書院/1930年)、『新語辞典』(有宏社/1930年)、『モダン語と新主義学説辞典』(松寿堂/1931年)、『社会百科尖端大辞典』(文武書院/1932年)、『現代語大辞典』(一新社/1932年)、『モダン新語辞典』(日本図書出版社/1933年)、そして『現代常識新語辞典』(大洋社/1938年)などが続々と出版され、「アビラ村」も収録されているけれど、すべて下落合のアビラ村(芸術村)を「上落合」と誤記している。これは、もっとも早い時期にこの種の辞典を企画・出版した、1925年(大正14)の実業之日本社『新しい言葉の字引』が誤記したため、売れると見こんだ後続の出版社による辞典類が、すべて“ウラ取り”(ファクトチェック)をせず単に書き写してきたせいなのだろう。

◆写真上:昭和初期の降雪日に撮影された、バッケが原から上高田の丘陵を眺めたところ。丹羽文雄は、手前の住宅のような借家に住んでいたのだろう。
◆写真中上は、1932年(昭和7)出版の『社会ユーモア・モダン語辞典』(鈴響社)の表紙()と奥付()。は、同辞典の「アビラ村」解説。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合のアビラ村(芸術村)と上高田の「アビラ村」の位置関係。
◆写真中下は、1948年(昭和23)の空中写真にみる上高田氷川社と「アビラ村」の丘上。は、上高田氷川明神社。は、東光寺別院の桜ヶ池不動堂。
◆写真下は、1936年(昭和11)出版の丹羽文雄の随筆集『新居』(信正社/)と短編小説集『この絆』(改造社/)の中扉。中左は、「流行語辞典」の嚆矢とみられ1925年(大正14)からつづく実業之日本社『新しい言葉の字引』(1927年改訂版)。中右は、1938年(昭和13)出版の『現代常識新語辞典』(大洋社)。は、上高田のバッケが原南部の現状。
おまけ
 戦後改修された桜ヶ池の現状と、上高田時代に撮影されたとみられる書斎の丹羽文雄。
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学生も教師もいない無人の学習院昭和寮。 [気になる下落合]

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 下落合406番地(のち下落合1丁目306)番地、近衛町Click!の地割番号でいえば42・43号地Click!に建っていた学習院昭和寮Click!から学生が消えたら、いったい何に使われていたのだろうか。昭和寮は、そんな“空っぽ”時代を一度経験している。
 1928年(昭和3)に竣工した学習院昭和寮Click!には、学習院へ通う学生たちClick!が入居し、翌1929年(昭和4)から年2回にわたり寮誌「昭和」Click!が発行されている。この寮誌を読み進めていくと、昭和寮で起きていた出来事Click!事件Click!、また当時の学生生活Click!などがよくわかるのだが、昭和寮が完成した直後から学習院につとめる教授・教師たちも、おそらく第1寮~第4寮ではなく本館Click!に入居していたと思われる。中には家族連れもあったようなので、本館の広めな部屋をあてがわれていたのだろう。
 昭和寮に住む教授・教師たちは、単に学生たちを監督するためではなく、貸家やアパートの代わりに借りていたとみられる。なぜなら、学習院に勤務する教職員は、同院敷地内(目白町1丁目1057番地)にある学習院官舎ないしは昭和寮に入居できなければ、街中の借家や自宅から目白駅まで通勤するのがふつうだった。官舎や昭和寮の寮費は格安だったと思われ、人気が高く入居をクジ引きで決めていたのではないか。
 昭和寮の管理は、舎監棟があるように選任の管理者(こちらも学習院関連校の教授・教師ら)がいるので、入居した教授・教師たちは寮の運営にはノータッチだったろうが、ときには学生たちと懇親会や談話会、あるいは学生たちが催すゲストを招いたイベントなどには参加していたとみられる。また、戦時中は軍人を招いての「戦況報告会」なども開かれており、そこでは盛んに議論なども行われていたようだ。
 だが、戦争も末期が近づくにつれ、学習院昭和寮の学生寮棟は空きが目立つようになる。もちろん、召集令状を受けとり故郷へ帰った学生もいれば、1943年(昭和18)には東條内閣が閣議決定した「学徒戦時動員体制確立要綱」により、「学徒出陣」Click!で召集され戦場に送られた学生たち、あるいは「勤労動員」で各地の生産現場へ配置された学生・生徒たちが続出し、学校から多くの学生や生徒たちの姿が消えてしまったからだ。
 ガラ空きになった昭和寮には、これまで自宅(借家やアパートなど含む)から通っていた学習院の教授・教師たちが、戦時体制の一環として入居することになる。ただし、第1寮のみは地方出身の生徒たちが少人数(1944年現在)暮らしていたようだ。入寮した教授・教師たちは、家族を故郷や地方に疎開させたあと、残った数少ない理系や兵役免除の学生・生徒たちを教えたり、自身がテーマとする仕事=研究を東京でつづけたりするのが目的だったが、もうひとつ当局から与えられた重要な仕事として残った生徒たちの統率と、学習院を“防衛”するという任務もあった。
 別に“防衛”するといっても武器をもって戦うわけではなく、町内の防護団Click!と同じく学習院の校舎を米軍の空襲から守る、すなわち米機が落とす焼夷弾で火災が発生した場合には、防護団と同様に消火につとめるという任務を負っていたのだ。だが、バケツリレーや消火ばたきなどでB29による絨毯爆撃Click!の火災を食いとめられるはずもなく、1945年(昭和20)4月13日夜半と5月25日夜半の二度にわたる山手大空襲Click!で、校舎の6割ほどが焼き払われている。だが、キャンパスの大半が灰塵に帰したものの、皮肉なことに下落合の学習院昭和寮は、たび重なる空襲にも耐えて戦後を迎えている。
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 戦時中、学習院昭和寮で暮らしていた学習院講師で、1940年(昭和40)には学習院中等科の教師(同校3年生を収容した青雲寮の舎監も兼務)だった人物の記録が残っている。平安期を中心に古典文学の研究者で、平岡公威(三島由紀夫Click!)の恩師でも有名な国文学者の清水文雄だ。彼は雑誌「文藝文化」を発行しつつ、同誌の同人とともに関口町207番地にあった佐藤春夫Click!の自宅を頻繁に訪問していたようだが、昭和寮に入居した当時も学習院中・高等科で教えていた。それまでの自宅は、疎開した友人の好意で世田谷区大蔵町に住んでいたが、1944年(昭和19)に学習院昭和寮へと転居してくる。
 清水文雄が昭和寮へ転居するまでの経緯を、1963年(昭和38)に広島大学教育学部国語教育会から刊行された、「国語教育研究」第8号の年譜より引用してみよう。
  
 同十九年(一九四四) 四十一歳
 三月、家族を本籍地<広島県安佐郡深川村>に疎開させ、同じく家族を長野に疎開させた栗山<理一>の好意により、その宅(世田谷区大蔵町一八七一[現在の砧町一一一])に移る。八月、雑誌統合の政府要請を機に、第七十号をもって「文芸文化」終刊。十月、新宿区下落合一丁目三〇六、学習院昭和寮に転居、自炊生活に入る。今年後半に入り、戦局いよいよ苛烈となり、学徒動員により教え子相次いで出陣するを送る。(< >内引用者註)
  
 空襲が激しくなると、清水文雄は学習院中等科1年生の約80名の生徒たちを引率して、栃木県の日光市へ疎開し同地で敗戦を迎えている。
 敗戦後、中等科の校舎が全焼してしまったため目白町のキャンパスにはもどれず、臨時に静岡県沼津市に学習院沼津学寮を開設、つづいて東京都小金井町にあった文部省研修所の建物を借りて仮校舎とし授業がつづけられた。つまり、昭和寮には戦災で家を失った教職員たちが入居していたが、教師たちが生徒の疎開に同行するようになる戦争末期、昭和寮はついに舎監もいない無人の“空っぽ”状態となった。
 昭和寮が無人になる直前、空襲の警戒警報が発令されるたびに、昭和寮の教職員たちは学習院の校舎を“防衛”するために、キャンパスへ駆けつけなければならなかった。その様子を、1968年(昭和43)に広島大学教育学部国語教育会から刊行された「国語教育研究」第14号収録の、清水文雄『王朝文学研究の道―学問と私―』より引用してみよう。
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 戦争が末期に近づくにつれ、都市居住者の地方疎開もはじまり、家族の別れ別れの生活が常態になってくると、教育も研究も、そしてそれにたずさわる者の心も、日常性をそのまま保持することが困難になった。/戦時最後の冬の、ある雪の夜のことであった。そのころ私は、東京下落合にある学習院昭和寮に、同じく妻子を疎開させた同僚たちと住んでいた。警戒警報が出るたびに徒歩で十分ばかりの校舎を守るために出かけねばならなかった。その夜のことをしるした手記の中に、つぎのような一節がある。/「雪はまだしきりに降りつづいていた。戸外に下り立つとすでに積雪は膝に届くばかりである。/寮の門を出てまっすぐに三町ほどゆくと、ひろいアスファルトの通りへ出る。深夜の大通りを、同寮のY氏と二人で、降りつむ雪を踏みしだいて歩きながら、私は妙に昂然たる思いにとらえられていった。(後略)
  
 1945年(昭和20)冬の大雪は、1月の宮本恒平『画兄のアトリエ』Click!の数日前か、または30cmを超える2月の積雪Click!の日だろう。「深夜の大通り」とは、近衛町を「三町」ほど歩くと出られる目白通りのことだ。米軍は、前年の暮れから同年2月にかけ、郊外域で兵器実験を兼ねた少数機による空襲Click!を散発的に行っている。
 敗戦とともに、華族学校としての学習院は解体され、改めて学習院大学としてスタートすると、昭和寮の第1寮~第4寮までを利用したのは、学生ではなく同大の教職員たちだった。また、本館は1949年(昭和24)から学習院女子教養学園の校舎として利用されている。ちなみに、1951年(昭和26)に高等教育研究会が発行した、学習院女子教養学園の入学案内(進学の手引)には「豊島区下落合一の四〇六」となっている。
 「豊島区」は新宿区の誤りだが、ここでややこしいのが番地の表記だ。昭和寮が建てられた当時、住所は落合町下落合406番地だった。つづいて、東京35区制Click!が施行されると下落合1丁目306番地になり、戦後の微細な番地変更では下落合1丁目306番地と復活した406番地に敷地が分割されている。北側の本館や舎監棟は406番地で、南側の寮棟のあるほうが306番地になっていた。したがって、同じ敷地内であるにもかかわらず、本館あてと寮棟あてとでは郵便の住所番地が異なっていたことになる。戦後の資料で、昭和寮の所在地が下落合1丁目306番地と406番地とで混在するのは、そのような事情が影響しているのだろうが、その後も同寮の番地は微変更されつづける。
 1952年(昭和27)に、昭和寮は学習院大学の施設拡充のため中央商事に売却され、寮棟に住んでいた教職員は年度末までに退居するよう通告されている。たとえば、同大学の文学部教授だった松尾聡という方は、同年の「平安文学研究」9月号(平安文学研究会)で、「青山北町四丁目四十四番地に生まれ、戦災にあふまで住みつゞけ、近くまた現住の新宿区下落合一丁目の学習院昭和寮が売払われて追出される」と書いている。その後、昭和寮は日立製作所が買収し日立目白クラブClick!となるのだが、学習院の教職員が「追出され」たあとまで住みつづけた教授もいるので、寮棟の居住は個別の契約ではなかっただろうか。
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 1966年(昭和41)に英語青年編集部から刊行された『英語年鑑1966年版』で、学習院大学の文学部教授だった宇佐美邦雄という方は、現住所が学習院昭和寮(同年には下落合1丁目414番地)となっている。「絶対やだ! 通勤に便利だし、ずっとここに住みたいのだ!」と強く主張した人は、居住権の問題などもありそのまま住みつづけられたものだろうか。

◆写真上:夕闇が迫る、学習院昭和寮(日立目白クラブ)の寮棟(解体)。
◆写真中上は、1940年(昭和15)刊行の『大衆人事録』(帝国秘密探偵社)に掲載された昭和寮在住の学習院教授。は、戦後1947年(昭和22)刊行の『出版社・執筆者一覧』(日本読書新聞社)に掲載された学習院の法学教授とみられる人物。は、1948年(昭和23)刊行の『文芸年鑑』(日本文芸家協会)に掲載された学習院教授。
◆写真中下は、学習院昭和寮の本館。は、本館2階の部屋と本館ロビー。
◆写真下は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる学習院の焼け跡と昭和寮。は、本館を使って授業が行われた学習院女子教養学園の募集要項で、1951年(昭和26)に刊行された『進学の手引・技能養成』(高等教育研究会)より。は、1966年(昭和41)に刊行された『英語年鑑』(英語青年編集部)にみる昭和寮在住の学習院大学教授。
おまけ
 1938年(昭和13)に撮影された寮棟と、1932年(昭和7)撮影の空中写真にみるカメラをかまえた本館屋上からの撮影位置。下は、1945年(昭和20)5月17日にF13Click!より撮影された学習院。4月13日夜半の空襲後に、いまだ焼け残っている木造校舎らしい数棟が見えているので、5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で焼失校舎がより増えているのだろう。
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三岸好太郎『茶畑』は大正末の下落合風景。 [気になる下落合]

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 幕末から落合地域とその周辺では、狭山茶の栽培が流行っていた。1880年(明治13)に作成されたフランス式1/20,000カラー地形図Click!を参照すると、目白崖線沿いのあちこちに茶畑が採取されているのが目につく。狭山茶の収穫は長くつづき、地域によっては大正末から昭和初期までつづいた茶畑もあったようだ。
 こちらでも、下落合の女子が出かけている清水徳川家Click!(現・甘泉園公園)や大隈重信邸Click!にあった茶畑の娘茶摘みイベントClick!をはじめ、長崎村五郎窪4213番地の茶畑に囲まれた西洋館Click!に住む大泉黒石Click!の「茶中館」、義父が狭山茶栽培の名人だった西落合の貫井冨美子Click!という方の証言などをご紹介した。これらの茶畑は、大規模栽培でコストダウンをはかる静岡茶の市場進出に押され、徐々に衰退していったのだろう。だが、自宅で飲む茶葉ぐらいは、昭和期に入っても栽培していたかもしれない。
 三岸好太郎Click!が、下落合のすぐ南に隣接する戸塚町上戸塚(宮田)397番地(現・高田馬場3丁目)、すなわち下落合からも見える現在の戸塚第三小学校Click!の近くに住んでいたとき、『茶畑』Click!というタブローを描いているのは以前にも拙サイトでご紹介している。その記事の中で、「好太郎は頻繁に落合地域を訪ねていたのではないか」と書き、「下落合を描いた画家たち」の中にこの作品を含めていた。事実、この『茶畑』に描かれた情景は、下落合の東部風景そのものだったのだ。
 また、下落合の東部に残っていた茶畑農家を描いたこの作品は、多くの資料で規定されている1928年(昭和3)の制作ではなく、三岸夫妻の上戸塚時代だった1926年(大正15)に描かれたタブローであることも判明している。美術史研究家で美術評論家の桑原住雄のインタビューに答えて、1964年(昭和39)にそう証言しているのは、上戸塚の新婚家庭でいっしょに暮していた妻の三岸節子Click!だ。
 1964年(昭和39)に角川書店から出版された、桑原住雄『東京美術散歩』(角川新書)より、三岸節子へのインタビューにもとづく文章を引用してみよう。
  
 この絵は二人が新所帯をもって二年たった大正十五年の作品である。描かれている場所は下落合一丁目から二丁目(現・下落合1~4丁目+中落合1~2丁目の一部)あたりの一角、好太郎が二十五歳の作品だ。当時、二人の愛の巣は高田馬場から下落合のほうへ行く途中の戸塚一丁目(ママ)あたりの二軒長屋だった。イーゼルをじかに畳に立て、描くほうも畳にすわりこんでがんばった。(中略) まだ西武線ができない前のことで、下落合のこのあたりが文化村といわれていたこのころ天気がいいと好太郎はよく絵を描きに下落合の高台に行った。札幌一中を卒業して十八歳の年に上京してきた彼には下落合あたりの茶畑が気に入ったらしく、特に銀色の緑が好きであった。北海道には茶畑はもちろんなかったが、わらぶきの家やキリの木なども彼にはもの珍しく好ましいものだった。そういう道具だてのそろった下落合は彼の画想をかきたてたのである。(カッコ内引用者註)
  
 「戸塚一丁目」は、もちろん戸塚3丁目の誤りだが、さらにいえばこの時代は東京35区制Click!の以前なので、戸塚町(上戸塚397番地Click!)には丁目表記は存在していない(ことになっている)。桑原住雄は、1932年(昭和7)以降の地図を参照しながら、三岸節子に取材しているのだろう。同様に、「下落合一丁目から二丁目」も建前上Click!は存在していないが、三岸好太郎Click!が好んで出かけていたエリアは、現在の近衛町Click!から国際聖母病院Click!の西側あたり、すなわち第三文化村Click!あたりまでということになる。
 文中にもあるとおり、「天気がいいと好太郎はよく絵を描きに下落合の高台に行った」ということなので、上戸塚時代の作品がどれほど残っているのかは不明だが、「下落合風景」がけっこう混じっているのかもしれない。ちょうど、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!を描いていたのと同時期なのがおもしろい。また、この時期は貧乏だったせいか、佐伯祐三のようにキャンバスの裏表Click!に風景を描いており、里見勝蔵Click!から習った手製のキャンバスに描いた作品は、ボロボロになって残りにくかったらしい。ちなみに『茶畑』の裏面には、桑原住雄がじかに確認したところなにも描かれていなかったようだ。
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 さて、この茶畑は下落合のどこの風景だろうか? 茶の木を育成すると、4~6年ほどで茶葉が収穫できるようになるといわれている。そして、そのまま手入れをつづけると30~50年間は収穫できるが、その後は収穫率が落ちるため、その間に幼木を育てては収穫を繰り返す栽培サイクルの確立が必要になるとのことだ。一度、この栽培サイクルをはじめると長くつづけることになるため、明治期に形成された茶畑が大正末まで残っていたのではないかと想定できるだろう。
 明治期に茶畑が拡がっていた、下落合の地形図(1880年)を再び参照してみよう。のちに、目白停車場(地上駅)Click!が設置される谷間のすぐ西、下落合と高田村金久保沢Click!にあった茶畑は、山手線の敷設とともに住宅地が形成されているので、大正末までは残らなかったろう。1895年(明治28)ごろに近衛篤麿邸Click!が建設され、1922年(大正11)から近衛町が開発される位置にあった茶畑も、大正末まで存続したとは考えにくい。同じく、近衛新町Click!として売りだされ、ほどなく東邦電力Click!林泉園住宅地Click!が開発された林泉園の南にも、茅葺き農家や茶畑は残らなかったとみられる。
 唯一、可能性があるのは目白崖線の山麓、藤稲荷Click!の南側に通う雑司ヶ谷道Click!沿いの斜面にあった、規模の小さめな茶畑だろうか。1925年(大正15)作成の1/10,000地形図や、『茶畑』と同年の1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を見ると、このエリアは耕地整理が進み旧・神田上水Click!(1966年より神田川Click!)沿いの工場敷地(空き地)と田畑とが混在するような風景だった様子がうかがえる。下落合の東部で、大正末まで茅葺き農家が残っていても不自然には感じない位置だ。
 もちろん、大正末まで残っていた茶畑は出荷を前提とした生産農家ではなく、『茶畑』の画面からもうかがえるように、すでに自宅あるいは親族一同で消費するための栽培だった可能性が高い。また、茅葺き農家の向こうに、大きめの西洋館のような建築物や三角屋根の住宅が見えているが、西洋館は小松益喜『(下落合)炭糟道の風景』Click!(1927年)に描かれた雑司ヶ谷道沿いに建つ基督伝道隊活水学院Click!だろうか。
 1964年(昭和39)現在、『茶畑』は三岸節子が所有しており、インタビューは上鷺宮の三岸アトリエClick!で行われている。上戸塚時代の夫妻アトリエには、久保守Click!が毎日のように遊びにきていたようで、ときに鳥海青児Click!横堀角次郎Click!らも顔を見せていた。『茶畑』の描画ポイントは、三岸節子も記憶になかったようだが、「好太郎が死んでずいぶんたっているのに私はまだ生きているんですよ」と、桑原住雄のインタビューに答えている。
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 桑原住雄は、絵画作品の描画位置を特定するために、当事者あるいは本人が死去している場合は身近にいた人物(遺族など)、さらには地元の人々にインタビューし、その結果をもとに必ずモチーフになった現場を熱心に歩きまわって取材している。わたしも、改めて見習わなければならない厳密な“ウラ取り”=ファクトチェックの取材姿勢だが、『茶畑』のケースは「下落合の現場はすっかり昔のおもかげを失い、大小さまざまの住宅がいっぱいに建てこんでいる」ため、まったく描画場所の見当がつかなかったせいか、国際聖母病院Click!の屋上に入れてもらい、下落合2丁目(1964年当時)の北北東へ向けてカメラのシャッターを切っている。だが、福の湯Click!の煙突が見えるこのあたりには、『茶畑』の描かれた1926年(大正15)現在、すでに茶畑をもつ茅葺き農家が残っていたとは考えにくい。
 この徹底した取材姿勢は、牧野虎雄Click!『凧揚げ』Click!でも踏襲されており、タコ揚げの場所を近所に取材してまわり長崎村新井(のち椎名町1丁目)の空き地Click!だったことをおおよそ特定し、描かれている「日の丸」の角ダコが牧野虎雄自身のタコだったことまで調べあげて推定している。また、中村彝Click!『目白の冬』Click!では、当の中村彝アトリエを購入して住んだ鈴木誠Click!に取材しており、一吉元結工場Click!の干し場がアトリエの細い道を隔てた西側Click!にあったこと、そこに杭が何本も打たれ糸を架けては干していたことなどを取材している。おそらく、画面に描かれた目白福音教会Click!宣教師館(メーヤー館)Click!も、鈴木誠Click!に示唆されて訪れているのだろう。
 桑原住雄が『東京美術散歩』を書くきっかけになったのは、1960年代前半の当時、岸田劉生Click!の『切り通し風景』がそっくりそのまま、代々木地域に残っていたのに気がついたことからスタートしている。いまだ当時は、画家本人あるいは画家の遺族や友人たちが生きていた時代であり、描画場所について具体的な証言を取材しやすかったことと、画面に描かれた風景の片鱗が残っていたことが機縁だった。そして、現場を歩きながら綿密に取材を重ねていく桑原の手法は、美術記者をつとめていた時代に培われたもののようだ。
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 わたしも、学生時代に歩きまわった落合地域の光景に、さまざまな画家たちが描く「落合風景」の片鱗が残っており、その記憶や足でまわりながら形成された地形や街並みなどの雰囲気や土地勘に頼りつつ、同じような記事を書きつづけてきた。だが、実際の光景を目撃している人たちが物故し少なくなるにつれ、現場の“ウラ取り”取材が困難になりつつある。前世紀からつづく、さらに変貌が激しい落合地域の風景の中で、これまで収集してきた地元の証言類は、よりかけがえのない貴重なものになっていると感じるきょうこのごろだ。

◆写真上:藤稲荷社の山麓で、大正期まで茶畑が残っていたと思われる斜面の現状。
◆写真中上は、所沢地域に拡がる甘くてコクが深めで風味が濃厚な狭山茶の栽培畑。は、1880年(明治13)に作成されたフランス式1/20,000地形図にみる落合地域とその周辺域に点在する茶畑。下左は、1964年(昭和39)に出版された桑原住雄『東京美術散歩』(角川書店)。下右は、1927年(昭和2)に撮影された三岸好太郎。
◆写真中下は、妻・三岸節子の証言によれば1926年(大正15)に下落合東部の茶畑農家を描いた三岸好太郎『茶畑』。中上は、先述した1880年(明治13)作成の地形図にみる藤稲荷周辺の部分拡大。中下は、1925年(大正14)作成の1/10,000地形図にみる同所。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同所。
◆写真下は、1964年(昭和39)に国際聖母病院の屋上から北北東を向いて撮影された下落合の街並み。上部の中央やや右手に見える煙突が銭湯「福の湯」で、聖母坂筋から目白通り方向を眺めている。は、1924年(大正13)に長崎村で制作された牧野虎雄『凧揚げ』。は、広大な原っぱがあった描画位置を訪ねた1964年(昭和39)当時の様子。
おまけ
 桑原住雄が訪ねた1964年(昭和39)当時の、鈴木誠アトリエと敷地の西側に建つ母家。
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