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下落合がなかった中村彝のアトリエ候補地。 [気になる下落合]

水戸アトリエ復元19880209.jpg
 1924年(大正13)2月21日に、パトロンのひとりだった成蹊学園Click!中村春二Click!が死去したあと、中村彝Click!から中村春二にあてた手紙類は、息子の中村秋一Click!の手もとに残り保管された。その書簡類の中には、1916年(大正5)にアトリエを建てる候補地を物色する、中村彝の様子が記録されている。だが、中村彝がアトリエの候補地に挙げていた中に、道灌山(佐竹ノ原)や大崎、渋谷、中野の敷地はあるが、同年の春先まで候補地の中に下落合が含まれていない。
 1916年(大正5)という年は、中村彝にとっては最悪の年明けとなった。1月15日に新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!黒光Click!夫妻が立ち合いのもと、相馬俊子Click!との最後の話し合いを終え(このあと二度と逢えなかった)、彝は俊子に真正面からフラれてしまった。同年春に書かれた手紙の多く、ことに当事者である相馬夫妻をはじめ、岡田虎二郎Click!中原悌二郎Click!洲崎義郎Click!伊藤隆三郎Click!などにあてた手紙類には、文句やグチ、相馬夫妻の「陰謀説」、怒り、嘆きなどが次々と綴られていく。
 だが、成蹊学園の中村春二と今村銀行の今村繁三Click!に対しては、いつもどおりの近況を報告する手紙を出しつづけている。その中に、失恋から立ち直り気分転換をはかるためか、盛んにアトリエ建設の話題が登場してくる。以下、中村秋一の手もとに残された「廿八日」とだけ書かれている書簡で、年月が記載されていないが、1916年(大正5)2月28日付けと推定できる中村春二あての手紙から引用してみよう。出典は、1943年(昭和18)8月に発行された「新美術」25号に所収の、中村秋一『中村彝の手紙(三)』より。
  
 画室の方は地所の点ですつかり長びいて終ひました。日暮里近傍は地代が高くて駄目です。渡辺治右衛門(佐竹の原)のいゝ地所がありましたが、十年足らずの間に地代の弐拾円も払はなければならぬ様になる仕末(ママ:始末)では、迚も私共の手には負へませんからね、私は断念仕しました。そして日暮里本行寺を中心にする事を止して、もつと自由に広く、気持ちのいゝ郊外閑静な所、地代の安い所を探さうと思つて居ります。この間の芝の会合の時、今村さんが「大崎にいゝ所があるが」と仰つて居りましたから、こん度、病気が癒つたら一度御訪ねして伺つて見様かと思つて居ります。(あの当時は本行寺のことばかり思つて居たので、私はロクに耳に入れませんでしたが) そして若しそこがいけなす様でも、渋谷と中野に可なりいゝ候補地がありますから、今度は直ぐに決まる事と思ひます。先づ右は見舞のお礼旁々御報まで。/曾宮君に御託し下さつた金子五拾円は確かに受取りました。何時も御手数を煩はしてほんとに相済みません。さよなら。(カッコ内引用者註)
  
 ちなみに、2月以前に書かれた同年1月31日付けの伊藤隆三郎あての手紙には、「来月の末には(未だ地所が未定ですが、大抵道灌山下の佐竹原になるでせう)画室が出来るかも知れません」と書かれているので、日暮里の近辺にとどまらず、市街地を離れた東京の郊外が候補地に挙がったのは、2月に入りしばらくたってからのことだったのがわかる。
谷中時代の中村彝と岡崎キイ.jpg
中村春二像1924.jpg 今村繁三.jpg
 日暮里にこだわらなくなった理由として、上掲の2月28日付け中村春二にあてた手紙には、日暮里の本行寺Click!で行われていた岡田虎二郎Click!静坐会Click!に失望して、別に岡田に会うだけならどこか別の場所でも可能だからどこでもいいとし、「日暮里を離れて何処かもつと気持のいゝ処へ画室を建てようと思ひます」とも書いている。その有力な候補地として、大崎の今村繁三邸の敷地Click!の一画に、アトリエを建てる気持ちへ傾いているようだ。
 また、同年2月の中旬に中村彝は悪性の風邪にかかり、40度を超える熱が10日以上もつづいたせいで、よけいに空気の澄んだ閑静な郊外生活にあこがれはじめた可能性もある。さらに、3月9日から4月20日にかけて、医師の牧野三尹Click!が行っていた結核治療の沃土(ヨード)注射を受けに、向島まで36回も通っているので、病気が恢復したあかつきにはうるさい市街地を離れ、東京郊外に点在する別荘地の静謐な環境の中で、ゆっくりと静養したいという考えに転換したのかもしれない。ちなみに、ヨード治療に通った大川(隅田川)向こうの向島も、江戸期からの典型的な寮地(=別荘地)だった。
 大崎や渋谷、中野ではなく、アトリエの建設地を最終的に下落合464番地に決めて契約したのは、同年3月15日のことだった。中村彝は、それまで渋谷や中野の候補地を見てまわったのかどうかは不明だが、同年3月5日の日曜日に中村仲にあてた手紙では、「今週中に確定致す考に候」とあることから、少なくとも3月5日(日)から11日(土)の間に、下落合464番地の敷地に絞りこんだとみられる。
 ちなみに、東京中央気象台の記録によれば、1916年(大正5)3月5日(日)から9日(木)まで、東京は連日快晴がつづく春めいた日和であり、10日(金)が曇り、11日(土)には一転して雪が降っているので、おそらく彝はいい陽気がつづく暖かな6日(月)から9日(木)のどこかで、日暮里駅から山手線に乗って目白駅で下車し、下落合の現地を訪れてアトリエ建設地の最終的な意思決定をしているのではないかとみられる。
成蹊中学校1917頃.jpg
成蹊学園1921.jpg
下落合アトリエ復元20130206.JPG
 中村彝が、なぜ大崎の今村邸敷地や渋谷、中野などの候補地を外して、最終的に下落合に決めたのかはハッキリとはわからないが、敷地前の道路沿い、林泉園Click!の谷戸に沿って植えられた、おそらく現地を下見したときには蕾がふくらんでいたであろう、ソメイヨシノClick!のみごとな並木が気に入ったのかもしれない。相馬俊子Click!の好きな花がサクラだったので、いまだ彼女のことを諦めきれていなかったものだろうか。いまなら、さしずめ秒速5cmで散るサクラの花弁を見ながら、少し古いが山崎まさよしのClick!が頭の中で響いていたのではないだろうか。
 あるいは、敷地の北西側に建てられていた目白福音教会Click!の、メーヤー館Click!をはじめとする西洋館群Click!の風景に、画因的な興味を惹かれたものだろうか。または、以前から友人だった洋画家・近藤芳男Click!が、家族とともに下落合へすでにアトリエをかまえて住んでいたせいだろうか。はたまた、池袋の成蹊学園も近く、有力なパトロンのひとり中村春二の自宅にも近かったので、なにかと便利だと考えたものだろうか。
 アトリエ建設地が下落合に決定したあと、中村彝は後援者や友人たちの間を金策のため精力的に走りまわっている。建設工事は3月末に起工し、4月中旬には木組みをスタートして、7月には瓦を葺くまでに進捗している。途中、4月13日に友人らを連れて下落合を訪れ、工事の進み具合を確認している。そして、8月の初旬にアトリエが竣工すると、8月20日には初音町の下宿を引き払い、下落合へと引っ越してくる。その間、すでに下落合に家族とともに住んでいた近藤芳男の自殺や叔父の破産、『田中館博士の肖像』Click!の制作など、春から夏にかけて彝の周辺はあわただしかったはずだ。
落合のアトリエ1916.jpg 風景1918頃.jpg
朝日新聞19560419.jpg
 牧野三尹のヨード治療について、彝は信頼しきっていたようで、同年2月28日付けの中村春二への手紙では、「今後三週間の継続的注射をすれば、結核菌は必ず全滅すると申しますし、更に三週間薬用すれば肺の空洞が全部充実されるとの事です。私もこれだけは堅く信じてゐます」と、わざわざ治療の経緯までを書いている。だが、彝の病状は二度と快方に向かうことはなかった。

◆写真上:1988年(昭和63)2月9日に鈴木正治様Click!が撮影した、中村彝アトリエの復元工事。下落合のアトリエではなく、水戸の茨城県近代美術館にあるレプリカ復元。
◆写真中上は、1916年(大正5)ごろ谷中初音町の下宿で撮影された中村彝(右)と岡崎キイ(左)。下左は、中村春二死後の1924年(大正13)に制作された中村彝『中村春二像』。下右は、晩年には下落合へ住むことになる今村繁三。
◆写真中下は、1917年(大正6)ごろに撮影された池袋駅近くの成蹊中学校(成蹊学園)。は、中村春二が息子・収一に託しておカネをとどけつづけた経済支援ルート。は、2013年(平成25)2月6日の復元工事中に撮影した下落合の中村彝アトリエ。
◆写真下上左は、下落合への引っ越しと同年である1916年(大正5)に描かれた中村彝『落合のアトリエ』。上右は、1918年(大正7)ごろに制作されたアトリエのテラスを描いた中村彝『風景』。は、1956年(昭和31)4月19日の朝日新聞(夕刊)に掲載された、晩年には下落合2丁目707番地に住んだ今村繁三の訃報。
三ノ坂上.jpg
二ノ坂上1947.jpg

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読んだ!(21)  コメント(34) 
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読んだ! 21

コメント 34

ChinchikoPapa

もちろん未聴ですが、これはJAZZというよりコンテンポラリーミュージック、名前を挙げていらっしゃる現代音楽の作曲家に近しいサウンドを感じます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2018-12-14 10:22) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2018-12-14 10:22) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2018-12-14 10:23) 

ChinchikoPapa

古河庭園というとバラが有名ですが、冬バラも植えてあるんですね。文字どおり、フユソウビというバラでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2018-12-14 10:31) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ありささん
by ChinchikoPapa (2018-12-14 10:32) 

ChinchikoPapa

冬の鍋物に、ユズは欠かせないですね。ユズジャムや、ユズシャーベットにしても美味しいです。皮を刻んで冷凍庫に入れておくと、香りが長持ちしますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okina-01さん
by ChinchikoPapa (2018-12-14 10:35) 

Marigreen

下落合パソコンサービスセンターに質問です。メールが全くなくなっているので、契約している所に聞いてみたら、「まず、スタートボタンを押して下さい」と言うから、「このパソコンは、スタートもシャットダウンもできなくなっていて、スリープは、そのまま置いておいたら、できる」と言ったら、「それだったら、パソコン専門の会社に聞いて下さい」と言われた。パソコン専門会社は知らないし、他の機能は使えるので、このパソコンをお払い箱にするのも勿体ない。どうしたらいいか?教えて。怒らないでね。

by Marigreen (2018-12-14 10:45) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
まず、下落合パソコンサービスセンターではなく、PCベンダーのサービスセンター(コンタクトセンターorコールセンター)に電話してみましょう。ベンダーによっては、電話に出るまで待たされますが、それで症状を詳しく話して修理をお願いしましょう。おそらく、HDDのトラブルのような気がします。
いまは、PCがおかしくなったら修理のためにベンダーから取りにきてくれたり、修理要員の「お助け隊」を派遣してくれるサービスがあるはずです。もっとも、後者の場合は出張手数料がかかりますので、万単位のおカネがかかりそうですが。
でも、まず初めにサービスセンターの窓口で、把握している不具合をすべて話すことで、回収修理じゃないとダメなのか、出張修理で済みそうなのかを判断してもらい、指示にしたがってください。
回収修理となった場合、PCの中にあるデータ類は、PCが比較的まともに動いているのを見計らって、DVD-Rや外付けのHDD、USBメモリなどへ逃がして、バックアップをとっておきましょう。修理に出したあと、HDDの交換が必要となると、中のデータはすべてパーになってしまうからです。
by ChinchikoPapa (2018-12-14 11:03) 

ChinchikoPapa

新宿の周辺にいる猛禽類には、オオタカとツミ、ときどきトビが確認できますが、トラフズクら夜行性のフクロウやミミズクの情報は聞いたことがありません。駅にいく途中のフクロウ・カフェとか、豊島区のゆるキャラである「いけふくろう」なら見たことがあります。^^; 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2018-12-14 16:19) 

ChinchikoPapa

キッチンカーのランチを一度食べてみたいのですが、見かけるのはいつも急いでいるときなので諦めています。東京国際フォーラムでは、昼どきになるとキッチンカーが何台か並んでいますので、今度こそねらってみます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2018-12-14 16:23) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>はじドラさん
by ChinchikoPapa (2018-12-14 18:52) 

ChinchikoPapa

「レジャーカップ」とかいう言葉を聞きますと、子どものころ中距離列車で見かけた、釣り帰りのおじさんたちを思い出します。当時はボックス席に灰皿がぶら下がっていて、タバコを吸いながらカップ酒のフタを開けて、釣果を自慢し合いながらご機嫌でした。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2018-12-14 22:09) 

ChinchikoPapa

四ツ山公園の灯台は、スマートで美しいですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>soramoyouさん
by ChinchikoPapa (2018-12-15 00:17) 

ChinchikoPapa

目白のビルは、どこが取り上げられているのでしょうね。旧・目白坂(関口)の瀬戸内寂聴が住んでいた目白台ハウス(目白台アパート)あたりでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2018-12-15 23:31) 

セカオク

こんにちわ 以前からたびたび拝読してきた下落合出身の者です(旧ギル邸周辺、コメント投稿したこともあったと思いますが忘れました)。

ChinchikoPapa さんのメアドがわからないのでこのコメント欄を利用して質問させていただきます。

昭和20年代、中井三の坂を上がりきった通り辺りに現代詩人の岩本修蔵氏一家が住んでいたということを岩本準(修蔵の息子氏)の著書で読みました。もし何か知っていることがあれば教えてください。岩本家の遠縁で長年日本に住んでいる日英ハーフの方から修蔵氏についていろいろ調べてほしいと言われ、暇があると調査しています(ちなみに息子さんの準氏は病状がよくなくコンタクト取れる状況ではないようなのです)。
by セカオク (2018-12-16 16:55) 

ChinchikoPapa

セカオクさん、コメントをありがとうございます。
三ノ坂上にあったといわれる岩本修蔵の家ですが、わたしは一度も聞いたことがないです。美術関連の情報を中心に、アンテナを張りめぐらしてきたものですから(それでもまだまだ、ザルのような情報収集ですが)、文学関係者の取りこぼしはたくさんあるかと思います。
いま、1960年に発行された住宅事情明細図を参照しましたが、三ノ坂上界隈に「岩本」邸は見つかりませんでした。念のために、二ノ坂上から五ノ坂上あたりまで探してみましたが、「岩本」姓の住宅は採録されていません。昭和20年代=1945~1954年といいますと、同地図が作成される直前の年代ですね。残念ながら、1945年から1960年の間を埋める住宅明細図のような地図は、いまだ発見できていません。
by ChinchikoPapa (2018-12-16 21:19) 

ChinchikoPapa

ラーメンと炒飯のセットは、店の料理の腕やレベルを確かめる黄金のコンビですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>マルコメさん
by ChinchikoPapa (2018-12-16 21:22) 

ChinchikoPapa

1980年前後のTV情報は、親から独立して学校の近くにアパートを借りた時期で、ほとんど知らないですね。バイトで日々忙しく、自室にはTVがなかった時期でした。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2018-12-16 21:46) 

ChinchikoPapa

雨雲が低くたれこめ、島影がハッキリしないのがたいへん残念ですね。晴れていれば、海の色とともにまったくちがう風景になりそうです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2018-12-16 21:51) 

ChinchikoPapa

江戸期の古民家が風雨にさらされ、朽ちるにまかせているのはなんとも勿体ない話ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>yamさん
by ChinchikoPapa (2018-12-16 21:56) 

ChinchikoPapa

いつも、ご訪問と「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2018-12-16 21:58) 

ChinchikoPapa

確かに今年の紅葉は、葉の色が褪せていく樹々が多く、色が深まるものが少ないですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>(。・_・。)2kさん
by ChinchikoPapa (2018-12-16 22:05) 

セカオク

ChinchikoPapa さんレスありがとうございます。

私の書き方が悪かったですが、詩人岩本修蔵氏も戦前も戦後も「売れっ子著述家」というわけではなく、「多くの有名詩人ですらそうであるように」、他に生業を維持しながら機に応じて詩作を発表してきたような方です。息子の岩本準の著作を何冊か読んだのですが、6畳間に四人家族で暮らしてたようで、〇〇邸とか立派なのではないのですね(金山邸や刑部邸とか)。

この写真資料豊富なサイトで1950年代の旧下落合3丁目付近の写真を既にアップロードされているのでしたら、教えていただけないでしょうか(急ぎません)?

私も実家に帰れば昭和30年代40年代からのあの辺の写真がいっぱいダンボールの奥に溜まっているはずでいろいろ資料提供もしたいとは常々思っていたのですが、まだ両親とも健在なので遺品漁りもやりにくい状況です。
ChinchikoPapa さんのサイトも高い著述水準で永きに渡って運営されてるようで、地元出身者からの古写真提供とかの申し出は結構あるんですかね?



by セカオク (2018-12-17 01:51) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2018-12-17 13:25) 

ChinchikoPapa

セカオクさん、重ねてコメントをありがとうございます。
6畳ひと間を借りていた家(つまり大家さんです)の姓がわかれば、家は比較的簡単に特定できるかと思います。残されている写真類も、その家を起点にして考察すれば、どこを撮影したものかがすぐに判明しそうですね。
拙サイトでは戦前の写真が多く、1950年代に限定した三ノ坂上の写真はほとんどないと思いますが、1950年代にも確実に見られた三ノ坂上の街並みや住宅の写真には、下記のような情景がありました。

●三ノ坂上島津邸
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2016-08-31
●三ノ坂途中近代建築
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2016-04-30
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-05-20
●島津一郎アトリエ
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-11-16
●三ノ坂上遠景(1940年)
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-26
●三ノ坂上の「第五」文化村(1940年)
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-05-31
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-06-03
そのほか、目白文化村も旧・下落合3丁目で、特に第二文化村のあたりは三ノ坂も近いですね。たくさん写真を掲載していますが、例えば最近ですと…
●宮本恒平アトリエ
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2018-11-08

地元の方からの貴重な写真類や作品画面のご提供は、ありがたいことにかなり多いです。それらをもとに、これまで地域に関するいろいろな事実が新たに判明し、それら地元の方々に支えられて拙サイトもこれまでつづけてこられている……という側面が大きいですね。
記事末に、1961年に撮影された三ノ坂上の空中写真を掲載しました。なにかのお役に立てば、ご参照ください。

by ChinchikoPapa (2018-12-17 14:00) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2018-12-17 16:36) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2018-12-18 12:34) 

セカオク

(たびたびすいません このコメント機能を借りて冒頭トピックとは直接関係ないやり取りをさせて頂いております)

岩本一家の居住が三の坂方向だと「思っていた」のは私の勝手な記憶違いで原典である「ぼくの父は詩人だった(岩本準)」をもう一度引っ張り出してみたら以下のような記述でした。

引用
「中井駅から二の坂という右曲がりのだらだら坂を登っていくと、獅子吼会という新興宗教の白亜の建物があり、その裏手がぼくらの住まいだった。引揚者寮・落合寮。番地が新宿区下落合だから、この名前がついていたが、戦時中は何かの宿舎だったのだろうか。相当にくびれた建物である。L字型の今でいう木造二階建てアパート。ただし共同便所、共同炊事場。そこに四十世帯は入っていたかな・・・(略)・・・六畳一間である・・・(略)・・・五人が暮らしていた」
引用終わり

私の実家方向(ギル邸周辺)からの想像では「三の坂方向」という勝手な妄想を膨らませていました。すいません「記憶は捏造され」まくりですね。

そして古写真リンクが売りのgooマップで見てみると
https://map.goo.ne.jp/map/search/latlon/E139.41.19.544N35.42.50.450/q/%E7%8D%85%E5%AD%90%E5%90%BC%E4%BC%9A/zoom/12/?order=1&qo=%E7%8D%85%E5%AD%90%E5%90%BC%E4%BC%9A

「裏手にL字型のくびれた建物」あるのかと。
グーグル検索で「引揚者 落合」と打ってもヒットしませんでした。

お手持ちの古いゼンリンで「落合寮」とかの場所がわかりますかねえ?

P.S. ちなみに獅子吼会は新興宗教といっても巷の社会問題でよくいわれるよな強引な勧誘等の悪評軋轢は一切無く、地域社会とも調和融合した立派な宗教団体です。私の実家も異教徒ですが、子供の頃、教団の駐車場で遊ばさせてもらったり、保育園のバザーを楽しんだり、お世話になりました。





by セカオク (2018-12-20 06:52) 

ChinchikoPapa

セカオクさんコメントをありがとうございます。
戦後の地図で、「落合寮」と書かれた建物は見つかりませんが、政府の引揚局が便宜的につけた、引揚者専用の一時的な建物のネーミングだった可能性がありますね。
「二の坂という右曲がりのだらだら坂を登って」は、「左曲がり」の誤りだと思いますが、二ノ坂上(大日本獅子吼会の裏手=北東側)には、何十人かがまとまって住めそうなアパート(寮)が3つほどあります。このあたりは空襲の被害があまりなく、戦後もほぼそのままの姿をしていましたけれど(つまり戦前からの人々がそのまま自邸に住みつづけていましたが)、3つの集合住宅を戦前からの名前でいいますと、第二文化村の西端にあたる光純閣(旧・益満邸)、その向かいにある春帆寮アパート、そして大日本獅子吼会孝養閣の東側に接した信者寮とみられる建物です。
このうち、光純閣は1960年現在で電電公社社員寮、春帆寮アパートは同年現在で東京ゴム社員寮として使われていますが、獅子吼会の信者寮は戦後ほどなく解体されて、1960年現在ではすでに存在しません。ただし、40人も収容できる「落合寮」となると、獅子吼会の信者寮とみられる建物か、光純閣のどちらかのような気がしますね。でも、光純閣は従来の住民を追いだして引揚者寮にするとは考えにくいので、解体する予定だった獅子吼会の信者寮を政府が借り上げ、引揚者寮「落合寮」としたのかもしれません。(記事末に、二ノ坂上の写真を追加しておきます)
大日本獅子吼会は、上総生まれの法華宗(日蓮宗)の分派ですが、こちらでも何度か記事に取り上げています。先年、俳優の緒形拳の葬儀が行われた寺としても、注目を集めましたね。
by ChinchikoPapa (2018-12-20 16:05) 

セカオク

年末の忙しい時期に応答ありがとうございます。

>>このあたりは空襲の被害があまりなく、戦後もほぼそのままの姿をしていました

地元民伝承ではみどり幼稚園(教会経営)があるから空爆を避けた、というエクスキューズになっています。そしてそれを前提として、さらなる私証言として、ここから直線距離で400メートルの民家下から不発弾が発見(70年代前半)されているという事実を付け加えますと、当時の空爆制御精度の実情記録にもなろうかと。

私の知人宛にはこの航空写真とスマホ持ってブラブラするように言ってみます。

当時の町並み写真でもあるといいなと、一瞬妄想しましたが、そんなのあるわけない、当時は食べることで精一杯で街路写真などあるわけない、飽食時代人の愚想に過ぎないと思い直しました。



by セカオク (2018-12-22 06:13) 

ChinchikoPapa

セカオクさん、重ねてコメントをありがとうございます。
下落合教会(下落合みどり幼稚園)が、いまの場所に建設されたのは1951年の戦後ですので、爆撃とはまったくなんの関係もありません。w
どうして米軍の空襲に「温情」を抱かせるような流言飛語が、「国際聖母病院」ケースとまったく同様にあちこちで流されているんでしょうね。(わたしはGHQのキリスト教=宗教部局が、マスコミや特務を動員して意図的に流布していると想定していますが)
下落合教会の敷地は、箱根土地社宅建設予定地ののち第二文化村追加販売住宅地となり、塀がつづく大きなお屋敷(安本邸)が建っていました。ちなみに、現・下落合教会の敷地に建っていた大きな安本邸は爆撃を受け、全壊・全焼で敗戦を迎えています。
不発弾はいまでも戸山ヶ原から、M69集束焼夷弾の散開した筒状の残骸は、宅地開発で落合地域からも出てきますね。
by ChinchikoPapa (2018-12-22 11:42) 

ChinchikoPapa

セカオクさん、記事末に安本邸焼け跡の空中写真を追加しました。
第二文化村は、ほぼ8割がた爆撃を受けて全焼していますが、南端の一部が焼け残ったのは、濃い屋敷林に囲まれたお宅が多かったのと、南斜面に下がり気味のお宅があり、その地形が延焼の舌先を防いだ要因ではないかと思います。
わたしの子どもは、みんな下落合みどり幼稚園の出身ですが、こうして敗戦直後の安本邸跡の写真を見ると、現在からはまったく信じられないような光景ですね。
by ChinchikoPapa (2018-12-22 12:09) 

セカオク

https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-02-21
みどり幼稚園については、上の10年前以上の記事で既に言及済みでしたね。やはり真正ではない俗説でしたか。

これはリクエストですが、新目白通りを旧下落合駅方向に下っていくと、「中落合公園」という公園があり、そこも教会の幼稚園だったです。たしか1974年頃まで。私はここの園児でした。筋向かいが赤塚不二夫氏の仕事場だったので、居候時代のタモリその他の方々が出入りしていたはずですが、幼少の私は彼らを一度も見かけたことがありませんでした。大人になってよく考えてみたら、幼児は日中しか出歩かないし、彼らは日が沈んでからしか出歩かないので当たり前なんですけどね。

一方、大ヒット少女漫画原作者のN女史は獅子吼会周辺でしょっちゅうお見受けしました。それは彼女が売れて有名になる前からです。彼女はかなり手の込んだ衣装を纏って飼い犬の散歩をしょっちゅうしておられました。今でも電車にゴスロリ少女が乗車してくると社内がちょっとドキっとそわそわしますね、あの感じを70年代前半から振りまいておられました。


by セカオク (2018-12-24 14:59) 

ChinchikoPapa

セカオクさん、コメントをありがとうございます。
中落合公園は、佐々木久二と結婚した憲政の神様・尾崎行雄(咢堂)の長女・清香が開いた、白百合幼稚園ですね。空襲で焼けてしまいましたが、戦後は再建されて同園を卒園された方は、下落合にたくさんいらっしゃいます。
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-12-20
尾崎行雄の二女・雪香もまた、御留山の相馬邸にいましたので、ふたりはときどき訪問し合っていたんじゃないかと思います。
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-06-04

赤塚不二夫の不二夫プロダクションは、佐々木邸の東隣りにあった外山邸の敷地の一部ですので、幼稚園に通われていたころには井荻から下落合へもどった、1930年協会や独立美術協会の外山卯三郎が、いまだ敷地のどこかに住んで美術評論の仕事をしていたのではないかと思います。
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-06-06
また、わたしは少女漫画には暗いですので、「N女史」がまったくわからないのですが、なにか資料が見つかったり取材ができましたら記事にしてみますね。情報をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2018-12-24 21:23) 

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