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社内ガバナンスで激論の三宅勘一と堤康次郎。 [気になる下落合]

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 箱根土地Click!の代表取締役だった堤康次郎Click!と、東京土地住宅Click!の常務取締役だった三宅勘一Click!とは、大正後期のどこかでお互いに邂逅している。しかも、出会ってまもなく社員教育をめぐり、ふたりは激しい議論を交わしているようだ。それは、40年後まで堤康次郎がその出来事を記憶していたことでもうかがえる。
 堤康次郎が、1964年(昭和39)の時点で「三、四十年前」と回顧する、三宅勘一と顔をあわせた時期は、おそらく下落合にいた1922年(大正11)から1925年(大正14)にかけての4年弱のどこかではないだろうか。1925年(大正14)に箱根土地本社は下落合から国立Click!へと移転しているので、同年以降ということは考えにくい。当時、東京土地住宅Click!が開発していた近衛町Click!アビラ村(芸術村)Click!との間に、ちょうど箱根土地が開発する目白文化村Click!があり本社ビルClick!が建っていた。
 三宅勘一は、近衛町からアビラ村(芸術村)への打ち合わせや視察などで、下落合の東西を頻繁に往復するうち、ちょうど中間にある箱根土地本社へ立ち寄り堤康次郎を表敬訪問しているのではないか。一方、堤康次郎のほうでも、東側から近衛町と近衛新町(のち林泉園住宅地)Click!の建設で、西側からはアビラ村(芸術村)の開発計画で、あたかも目白文化村をサンドイッチのように挟みこもうとしている東京土地住宅の仕事に興味をおぼえ、同社の常務取締役で事業責任者だった人物に会ってみたくなったのだろう。堤康次郎の著書にも、「提携していったら互いに事業も発展していく」と書かれている。
 ふたりが出会ってから最初のころは、実業界における世間話や、下落合の郊外住宅地開発あるいは田園都市構想をめぐる建設事業についての話題が中心だったろうが、なにかの拍子に社内組織や内部のガバナンス(統制)についての話になったとみられる。そこで両人は、互いの考え方が正反対であることに気づいたのではないだろうか。特に社員に対する接し方で、両者は激しく議論を交わしたようだ。
 堤康次郎は、すでにワンマン的な経営で知られており、社員へは強権的な姿勢でのぞんでいたが、三宅勘一は社員からの要求を聞いては、その課題を業務や人事で解消させるような経営姿勢を見せていた。したがって、堤康次郎からは大正デモクラシーにかぶれた脆弱な組織や事業で、三宅勘一は経営者向きではないと映ったろうし、三宅勘一のほうでは常に労働争議のタネを内包し、有力社員の離反を招きかねない危険性をはらんだ、堤康次郎はいまどき時代遅れの経営手法だと感じたかもしれない。
 そのせいか、ふたりともかなりムキになったやり取りとなったようだ。その様子を、1964年(昭和39)に有紀書房から出版された堤康次郎『叱る』から引用してみよう。
  
 いまから三、四十年もむかしのことだが、東京土地住宅会社という会社があって、社長(ママ)は三宅勘一といった。この人は才気煥発で、なかなかの人物で、当時三井財閥の重役で政・財界での大物山本条太郎という人の深い信頼を受けて、事業も活発にやっていた。私にとっては強敵と思われていたくらいで、提携していったら互いに事業も発展していくだろうと交際をつづけていた。/あるとき、社員の使いかたについて、三宅君と議論したときの話だが、社員はきびしく叱って教育をすることが社員のためになると私はいった。それに対して三宅君は、叱って教育することは効果がない。社員に不平があれば、いっしょに会食して、一杯飲ませて意思の疎通をはかる。つまり、不平があれば一杯飲ませるというやりかたがいいといって、私の叱って教育するやりかたとは逆な議論であった。
  
 ちなみに、堤康次郎は三宅勘一を「社長」と表記しているが、事業のいっさいを任されている常務取締役が正確な役職で、三宅が代表取締役社長になったことはない。このふたりが下落合で連携していたら、おそらくシナジー効果でアビラ村(芸術村)Click!建設計画はかなり進捗していたかもしれないし、1940年(昭和15)の勝巳商店地所部Click!による「第五文化村」Click!ではなく、社員寮建設予定地Click!(現・下落合教会=下落合みどり幼稚園Click!界隈)を含めた箱根土地による、第五文化村が開発されていたかもしれない。
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 だが、結果からいえば東京土地住宅は1925年(大正14)に、債務超過で事実上の経営破綻に陥り、箱根土地は同年に国立Click!へ本社を移転してしまった。したがって、東京土地住宅が開発に手をつけていた近衛町やアビラ村(芸術村)、東村山中流郊外住宅別荘地(東村山経営地)、大船田園都市(新鎌倉住宅地)Click!などは、中途半端な開発のまま終わってしまった。特に、東村山経営地と大船田園都市は、一部の道路を敷設しモデルハウスを建設しただけで、実際にはほとんど事業が進捗していなかった。
 たとえば、東村山中流郊外住宅別荘地について、当時の様子を1980年(昭和55)に出版された『東村山郷土のあゆみ』(東村山郷土研究会)から引用してみよう。
  
 東京土地住宅(社長は三宅勘一)は、当時東洋製糖社長の山成喬六、東京瓦斯社長の渡辺勝三郎を監査役に、そして東武鉄道社長の根津嘉一郎、政友会幹事長の山本条太郎らを相談役にと、いずれも一流の財界人・政界人を看板に並べて世間の信用をつないでいたが、その経営の内幕は乱脈をきわめ、詐欺同様の悪徳商法を重ねていたのである。たとえば、他人の土地で契約金をせしめたり、相談役などの顔ぶれを利用して無担保で金を借りまくったり、といった具合で、前者の被害者は作家の菊池寛、俳優の森田勘弥をはじめ全国にわたったという。/そして大正一四年の七月以降、借金の累積、信用の失墜、分譲の失敗から満身創痍の状態となった東京土地住宅はついに営業を停止し、数年後には消滅の運命となった。このことは、東村山の分譲広告を最後に、東京土地住宅の派手な広告が新聞・雑誌の上から一切姿を消したことからも明らかである。
  
 かなり怒気を含んだ文章だが、古くからの東村山住民が多かったとみられる東村山郷土研究会なので、東京土地住宅に協力して土地を提供した地主(の子孫)の方が執筆しているものだろうか。ここでも、「社長は三宅勘一」と誤記されている。
 また、東京土地住宅は「消滅の運命」と書いているが、経営が破綻して事業継続は不可能になったが、債務の整理後はそのまま会社が存続している。もちろん、銀行から多くの借り入れをともなう大規模な開発はできなくなったが、昭和に入ってからも引きつづき宅地開発はつづけており、1941年(昭和16)ごろまで同社の存在が確認できる。しかも、三宅勘一は失敗に懲りたものか、ひとつの事業をしくじっても他の事業で補える多角経営に乗りだしており、複数企業の代表取締役社長や役員を兼任している。
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 皮肉なことに、東京土地住宅の破綻で中断した、下落合における近衛町Click!やアビラ村(芸術村)の一部は、箱根土地が開発を引き継いで事業を継続しているので、三宅勘一がすでに知りあっていた堤康次郎に開発継承(後始末)を委託したものだろう。特に、下落合西部のアビラ村(芸術村)開発では、東京土地住宅が手を引いたのちに、箱根土地や下落合2095番地の島津源吉Click!(島津家宅地開発Click!)、少し遅れて勝巳商店地所部などが参入する、多重的な宅地開発に向かったと思われる。
 さて、三宅勘一と堤康次郎の邂逅にもどろう。ワンマンな堤康次郎は、東京土地住宅の失敗に「それみたことか」という文章を残している。『叱る』より、つづけて引用しよう。
  
 その後、三宅君の会社は民主的でますます隆盛になっていったが、社員のなかで、うちの社長(ママ)は不平をいうと一杯飲ませる、不平をいわないとソンだという気風が出てきた。三宅社長(ママ)の一杯飲ませるというやりかたで、はたして社長(ママ)がやっていけるのか、また会社がやっていけるのかという疑問を起こすようになった。こうなると、社員の士気が衰えてきたのか、三宅君の会社は、逆にしだいに左前になってきた。/これを検討すると、社員に不平があると一杯飲ませるというやりかたは、社員に対して決して親切でない。ほんとうに社員のためを思うならば、社員をきびしく教育していくことが会社のためにもプラスになる。それと同時に、社員も幸福になる。つまり、叱ることは、社員に対してほんとうの親切というものである。
  
 堤康次郎は、東京土地住宅が「左前」になったのは、同社社員の士気が落ちたのが要因だといいたげだが、かなりのこじつけがありそうだ。東京土地住宅が破綻したのは、連続する大規模開発で銀行からの無計画な借り入れがふくらみ、その利子の支払いや社債の償還さえできなくなるほどの債務超過=放漫財政に陥っていたからであり、その経営破綻を社員のせいにするのは無理筋だろう。責められるべきは、三宅勘一の甘い経営判断と事業計画および経営手腕であって、「左前」の原因は同社の社員たちではないはずだ。
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 いま、堤康次郎のようなワンマン経営で、社長が社員をみなの前で叱りとばしていたら、優秀な人材はすぐに他社へ引き抜かれてしまうだろう。それでなくても、人手不足の状況で就職先には困らないから、事業を継続できなくなるのは箱根土地型の企業かもしれない。

◆写真上:武蔵野鉄道・久米川駅前にモデルハウスが数棟建つ、東京土地住宅が開発した東村山中流郊外住宅別荘地(東村山経営地)<AI着色>。
◆写真中上は、近衛町の藤田進様Click!のもとに保存されている「近衛町地割図」の裏面に残された三宅勘一のサイン。「大正十一年五月廿八日/(東京)市京橋区銀座二丁目一/東京土地住宅KK/常務取締役/三宅勘一」と読める。中左は、1917年(大正6)に実業之世界社の記者時代に撮影された三宅勘一。中右は、下落合で近衛町計画を東京土地住宅の三宅勘一とともに推進した近衛文麿Click!。1937年(昭和12)7月に、目白台にある細川護立邸Click!で開かれた仮装パーティーでヒトラーに扮する近衛文麿だが、二二六事件Click!(1936年)の翌年であまりにも軽率かつ冗談がすぎるだろう。は、1923年(大正12)に下落合414番地に建っていた小林盈一邸の2階から撮影された建設中の近衛町。
◆写真中下は、1964年(昭和39)に出版された堤康次郎『叱る』の表紙()と中扉()。中上は、下落合1340番地に建っていたレンガ造りの箱根土地本社ビル(初期型)。中下は、1924年(大正13)刊行の『全国土木建築業者並ニ材料業者人名録』(日本実業興信所)。両社ともに掲載されているが、箱根土地の「下落合村」は落合町下落合の誤り。は、下落合で顔をあわせているとみられる堤康次郎()と三宅勘一()。
◆写真下上左は、1919年(大正8)出版の三宅勘一『住宅問題と田園都市』(都市事情研究会)。上右は、1939年(昭和14)刊行の『法人個人職業別調査録』(国際探偵社)にみる事業を継続中の東京土地住宅。は、経営破綻直前に分譲をはじめていた東村山中流郊外住宅別荘地(東村山経営地)の広告。は、1980年代まで建っていた久米川駅前のモデルハウス。
おまけ
 先日、目白台の細川護立邸(写真上)をGoogle Mapで上空から眺めていたら、その手前でついつい噴きだしてしまった。この1月8日に突然の火災で焼失した田中角栄邸Click!だが、Mapには「臨時休業」のキャプションが挿入されている。保険で再建されるまでやむなく「臨時休業」にせざるをえないだろうが、レストランや喫茶店じゃあるまいし、これは真紀子さんがGoogle Mapに申請して挿入したユーモア・キャプションだろうか? いや、思いがけぬ火事で罹災されたのだから、まちがっても笑ってはいけないのだけれど……。
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