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あちこち居場所を変える近衛文麿。 [気になる下落合]

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 近衛文麿Click!関連の本を読んでいると、下落合の近衛篤麿Click!が建てた下落合の邸から永田町の私邸、そして杉並区西田町の「荻外荘」Click!と、3ヶ所の家を移り住んでいると書かれているものが非常に多いことに気づく。
 落合地域にお住まいの方なら、すぐにも下落合の2邸が忘れられ抜けているのに気づくだろう。近衛文麿は、もともと飽きっぽい性格だったのか、1ヶ所に腰をすえることが苦手な人物だったのか、あるいは落ち着いて住むのではなく家を変えること自体が趣味でもあるかのように、次々と転居しては新たな自邸に移り住んでいる。
 1891年(明治24)に、近衛文麿は麹町区麹町7丁目20番地のいわゆる「桜木邸」で生まれている。一時は、父・篤麿の都合で同じ麹町区飯田町へ転居したこともあったようだが、再び麹町の桜木邸へともどっている。学習院の移転を計画する父・篤麿は、候補地だった山手線・目白駅Click!の東側(高田村金久保沢Click!稲荷原Click!一帯)の近く、山手線の西側にあたる下落合417番地に邸を建設して転居してくる。だが、その2年後の1904年(明治37)に篤麿が40歳で急死すると、近衛文麿は12歳で公爵家の家督を継ぐことになった。
 ここからが、下落合における文麿を当主とする近衛家がスタートするのだが、四谷区尾張町から近くの高田村(現・目白)へ移転してきた学習院中等科を卒業すると、彼は一高Click!へと進学している。そして、校長の新渡戸稲造Click!に惹かれたという一高を卒業すると、21歳になった文麿は1912年(明治45)に東京帝大哲学科へと進んだ。だが、東京帝大の講義が気に入らず、同年に京都帝大法科大学へと転学している。マルクス経済学者の河上肇や、哲学者の西田幾多郎などに惹かれたからだといわれている。
 文麿は、京都での学生時代には借家住まいをしていたが、結婚をすると商家の別荘を借りうけて新婚生活をはじめている。学生時代の1914年(大正3)には、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳して雑誌「新思潮」に発表。1916年(大正5)には、25歳になったので貴族院議員に選出されている。1917年(大正6)に京都帝大を卒業すると、近衛文麿は下落合の故・篤麿が建てた邸(旧邸)にもどっている。
 さて、ここからが頻繁な転居の繰り返しになるのだが、近衛邸の推移を1995年(平成7)に朝日ソノラマから出版された大須賀瑞夫『首相官邸・今昔物語』より引用してみよう。
  
 (愛人の証言から)「殿さまは家捜しがお好きなようで、目白には先代からのお邸があり、永田町にもあり、後には荻窪の『荻外荘』に移られました」/と書いている。目白といっても、当時はたんぼの中に農家が数軒散らばってあるような感じのところで、東京市外落合町下落合四三七番地という番地が残っている。/最初に首相となったころに住んでいた麹町区永田町二丁目二五番地というのは、まさに首相官邸と同じ町内であり、当時は二百九十戸の二丁目町内には首相、蔵相、農相の官邸があって、いわば日本政治の中枢の場所であった。/首相になった年の暮れ、つまり三七年十二月、近衛は永田町から荻窪に転居した。(カッコ内引用者註)
  
 この記述には、すでに時系列や事実の混乱が多々見られる。まず、「先代からのお邸」=篤麿が建てた近衛旧邸は下落合417番地であり、「下落合四三七番地」ではない。下落合437番地は、1929年(昭和4)に永田町から転居(避難)してきた、下落合436~437番地の近衛新邸のことだろう。また、下落合417番地の近衛旧邸は目白崖線の丘上にあり、灌漑に不便な地勢なので畑はあっても「たんぼ」はない。1880年(明治13)のフランス式1/20,000地形図Click!を参照すると、明治期には野菜畑と茶畑、それに竹林が散在するような風情だった。しかも、江戸期から将軍の鷹狩場Click!である御留山Click!つづきなので森林が多く、農家もあまり建ってはいない。
 また、永田町の邸からすぐに荻窪の「荻外荘」へと転居したように書かれているが、これも事実ではない。その間には、先述のように下落合436~437番地の近衛新邸が竣工して、新たな下落合時代がはさまっている。また、それ以前の転居先として、永田町2丁目の近衛邸が竣工するまでの間、目白中学校(東京同文書院)Click!の跡地南にあたる、下落合432~456番地に新邸を建てて、篤麿の旧邸にいた家族や家令たちとともに移り住んでいる。
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 あまりにも転居が多くて非常にややこしいので、もう一度、時系列に沿って整理してみよう。まず、1917年(大正6)に京都帝大を卒業した近衛文麿は、下落合417番地の自邸(篤麿の旧邸)へと帰る。そして、篤麿が残した膨大な借財を整理するため、学習院の同窓である東京土地住宅Click!の常務取締役だった三宅勘一Click!に相談し、箱根土地Click!による目白文化村Click!の開発を横目で見つつ、近衛邸敷地を新たな郊外住宅地として再開発する計画を進めている。借財の返済にあてるため、明治末にはすでに広大な敷地西側の御留山エリアClick!を、相馬孟胤Click!に売却していたが、それにつづき篤麿の旧邸が建っていた南側のエリアを、「近衛町」Click!として再開発することに決定した。また、翌年には相馬邸北側の落合遊園地Click!(のち林泉園Click!)エリアを、「近衛新町」として開発し分譲したが、東邦電力Click!松永安左衛門Click!へほぼ全区画を販売している。
 当然、「近衛町」のエリアにあった篤麿の旧邸が解体されるため、文麿は練馬へ移転した目白中学校(東京同文書院)Click!のグラウンド跡の南側へ、一族が住めるように新たな邸Click!を建設している。それが下落合432~456番地にあった近衛邸で、わずか7年間しか存在しない暫定的な(といっても1/3,000地形図で見るかぎり、大きくて豪華な)邸がそれだ。同時に、文麿は麹町区永田町2丁目25番地の敷地へ、自身と妻子たちが住むメインとなる邸を建設しているが、竣工予定が1924年(大正13)だったため、永田町へ移り住むまでの2年間余は、上記の下落合432~456番地の近衛邸に住んでいただろう。
 ところが、永田町の私邸が竣工し住みはじめてから数年もたたないうちに、すぐにそこがイヤになって下落合に新しい邸を建てる計画をスタートしている。それが「近衛町」の北側、目白中学校跡の東側に位置する、下落合436~437番地(のち下落合1丁目436~437番地)の近衛新邸Click!だ。近衛新邸は1929年(昭和4)に完成し、永田町から家族ともども下落合にもどってくる。また、下落合432~456番地の暫定的な邸にいた親族たちも、新邸に合流して別棟に住むようになった。
 永田町の邸を離れるきっかけになったのは、藤田孝様Click!が故・近衛通隆様Click!へ取材したところによれば、永田町は交通が至便で訪問客があとを絶たず、1日じゅう接待に追われて家族も家令もくたびれはて、ウンザリしてしまったからとのことだ。だが、下落合も山手線の目白駅が近いため訪問客はあまり減らず、1937年(昭和12)の首相就任を契機に、杉並区西田町1丁目42番地に入江達吉が建てた「楓荻(ふうてき)荘」(設計・伊藤忠太)を買収して住むことが多くなった。名称も「荻外荘」Click!と改め、執務も首相官邸ではなく「荻外荘」で行うことが増えていく。永田町の邸が放棄され、「荻外荘」が“本邸”となるころには、下落合の近衛新邸は新聞紙上などで“別邸”Click!と表現されることが多くなった。
大須賀瑞夫「首相官邸・今昔物語」1995.jpg 岡義武「近衛文麿-「運命」の政治家-」1972.jpg
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 戦争末期になると、陸軍の監視Click!を避けるため軽井沢の近衛別荘Click!や、箱根にあった桜井兵五郎の別荘「缶南荘」Click!など各地を転々としていたが、敗戦と同時に「荻外荘」にもどっている。こうして、戦後の1945年(昭和20)12月6日、GHQによる巣鴨プリズンへの出頭期限の日に「荻外荘」の寝室で自裁しているのだが、上記に書いた邸のほかにも、まだいくつかの“住まい”が各地にあった。中でも有名なのが、上野池之端にあった元・新橋芸者で愛人だった山本ヌイ邸(別宅)と、京都の元・祇園芸妓だった海老名菊邸(別宅)だろうか。これら別宅でも、近衛文麿は少なからぬ時間をすごしている。
 当時、東京帝大の教授で近衛内閣のブレーンだった矢部貞治は、1941年(昭和16)3月27日の日記に次のように書き記している。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 「翼賛会は職員全部辞表を出すらしい。それぞれの職場を捨ててこれに飛び込んだ連中が可哀そうだ。有馬伯も『この棄て子』と言っている。狼に出会うごとに一匹ずつ馬を殺して与えていくという近衛の性格が最もよく現れている。こんなやり方だから、近衛のために死のうという人間がいないのだ」/「兎死して走狗烹らるか!」と書き、「狼に出会うごとに一匹ずつ馬を殺し与えていくという近衛の性格」と記された矢部の日記の行間からは、深い絶望感とともに、怒りが蒼白い炎をあげて立ちのぼっているようだ。
  
 自身の都合が悪くなると、あるいは自身の立ち場が悪くなると、周囲のせいにして切り捨てることをはばからないと、矢部貞治は近衛文麿の性格に怒りをこめて書いている。これは周囲の“人間”に限らず、生活する住空間や暮らし自体についても、どこか当てはまるのではなかろうか。少しでも住みにくい、あるいは面倒で居心地が悪いことがもちあがると、そこに踏みとどまって問題を解決するのではなく、サッサと新しい邸宅を建てて、あるいは探して逃避してしまうという性格の反映ではないだろうか。
 当時の新聞記者たちが、「土壇場になると、お公家さんは逃げ足が速いねえ」などとウワサしたり、あるいは岩波茂雄Click!の「近衛は弱くて駄目だねえ」という嘆息と、どこか通底するようなエピソードのように感じる。歴史に「もし」は禁物だが、もし近衛文麿が平和な時代に生きていたら、コトを荒立てずに穏やかで柔軟な考え方のできる、新しもの好きの知的な人物として語られていたのかもしれない。だが戦争の時代に生きていた彼は、その性格のすべてがあらゆる面で“裏目裏目”に出てしまったような印象を強く感じる。
荻外荘近衛文麿寝室.JPG
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 政治ではリーダーシップを発揮できず、軍部(特に陸軍)という「狼に出会うごとに一匹ずつ馬を殺して与えてい」きながら、戦争への道筋へと引きずりまわされた弱い性格が、あちこち転居を繰り返す生活スタイルにも、どこか表れているような気がしてならない。

◆写真上:1929年(昭和4)に竣工した、下落合436~437番地の近衛新邸応接間。
◆写真中上は、1924年(大正13)に竣工した永田町2丁目25番地の近衛邸。は、永田町の邸にはわずか5年足らずしか住まず再び下落合436~437番地に新築した近衛新邸。は、下落合にある近衛新邸の正門跡。
◆写真中下上左は、1995年(平成7)出版の大須賀瑞夫『首相官邸・今昔物語』(朝日ソノラマ)。上右は、1972年(昭和47)出版の岡義武『近衛文麿-「運命」の政治家-』(岩波書店)。は、1937年(昭和12)6月に第1次近衛内閣の記者会見にのぞむ近衛文麿。は、杉並区西田町1丁目42番地にある「荻外荘」のベランダから眺めたシダレザクラ。
◆写真下は、近衛文麿が自裁した「荻外荘」の寝室で、のちには仏間として使われていた。仏壇には、下落合ともつながりが深い近衛篤麿の写真が置かれていた。は、故・近衛通隆様とともにかつて「荻外荘」でお話を聞かせていただいた夫人の近衛節子様。
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skekhtehuacso

荻外荘での誕生日を祝う会が印象に残っております。
その時の、東条陸相の言いぐさなど。

たしかに近衛さん、自分の都合が悪くなると逃げ足が速かったかもしれません。
でも、軍部大臣現役武官制をちらつかせつつ、日中戦争やら仏印進駐やらをやからしてその撤兵を対米交渉に使わせなかった陸軍には、近衛さんでなくても誰でも辟易すると思います。
広田弘毅が軍部大臣現役武官制の復活を認めていなければ、近衛さんは戦争回避に向けて活躍できていたかもしれません。

まあでも、我々が今日の自由な生活を享受できているのも、大日本帝国が太平洋戦争で敗戦したことに起因しているわけですから、皮肉なものだと思います。
by skekhtehuacso (2023-08-20 19:49) 

ChinchikoPapa

skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
内閣を瓦解させる「陸相辞任」や「陸相非任命」の脅しは、米内内閣のときにもっとも“効果”を発揮したでしょうか。近衛文麿の近くにいた、何人かの方たちの共通した証言に、なにか重要な意思決定をする際に、絶えず焦点の合わない目をせわしなく動かした……というのがありますが、いったいどのような心の動きをしていたものでしょうか。
誕生日を祝う会で思い出したのですが、戦前の荻外荘の広い芝庭のある庭園でも、園遊会や誕生会や行われていたそうで、アルバムの写真を故・近衛通隆様よりお見せいただきました。(記事末写真) 接写に失敗して少しボケ気味ですが、善福寺川をはさんで対岸までが荻外荘の敷地だったそうです。写っているのは近衛家の女性たちですが、この庭は戦後GHQに接収されてもどらず、いまの荻外荘敷地の広さになったとのことです。
by ChinchikoPapa (2023-08-21 10:21) 

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。近衛文麿は、ヒトラーをかなり意識してマネをしたりしていたようですね。当時の日本のリーダーたちの戦争責任を考えるのは、難しいですね。その当時の世論は、確実に戦争を支持していたわけですから、、マスコミの責任も大きいですね。最近のジャニーズ問題にしても、かなり以前から噂はありましたが、マスコミが取り上げなかったわけで、戦前と大してレベルが変わらないのかも知れませんまね。
by pinkich (2023-08-25 21:46) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
近衛文麿は、もともと「社会主義」に惹かれていたようで、「国家社会主義」を唱えるヒトラーのナチズムの一側面に、共鳴する部分があったのではないかと思います。事実、ヒトラーに賛同するような言質もみられますね。マスコミのおおかたが「戦争支持」で染まったのは、現代のロシアやミャンマーと同様に、そうではないマスコミや出版社を国家が徹底して弾圧・排除(ひどいケースは殺害)したからで、現象化し演出されたマスコミの「戦争支持」以前の大きな課題として、国家の暴力装置による言論弾圧が徹底して行われた仕組みの経緯こそが、本質的な課題だと思います。
by ChinchikoPapa (2023-08-25 23:01) 

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