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目白崖線を描写する瀬戸内晴美(寂聴)。 [気になる神田川]

目白台アパート(神田川).jpg
 下落合をはじめ、落合・目白地域の一帯には数多くの作家たちが住んでいたはずだが、目白崖線の風情を描写した小説作品は意外に少ない。小金井の国分寺崖線Click!、すなわち戦後まもなくハケClick!の斜面に住んだ大岡昇平Click!は、その情景を『武蔵野夫人』Click!の中にふんだんに取りいれ、物語をつむぐ登場人物たちの効果的な“書割”として、作品全体に独自の風景を創り上げている。
 だが、落合地域だけに限ってみても、目白崖線に顕著なバッケ(崖地)Click!の様子を、効果的かつ印象的に小説へ取りいれているのは、尾崎翠Click!『歩行』Click!中井英夫Click!『虚無への供物』Click!ぐらいしか思い当たらない。たとえば、これがエッセイとなると中井英夫Click!をはじめ高群逸枝Click!檀一雄Click!吉屋信子Click!矢田津世子Click!船山馨Click!宮本百合子Click!林芙美子Click!などの文章に、しばしば目白崖線の風景が登場しているが、小説となると思いのほか少ないのだ。
 視界を落合地域からずらし、視線を崖線の斜面沿いに東へとはわせていくと、目白崖線の風景を細かく描写した作家が、本来の目白不動Click!があった目白坂沿いのバッケに住んでいた。少し前にご紹介した、目白台アパートClick!(通称:目白台ハウス)に二度にわたって住んだ瀬戸内晴美Click!(現・瀬戸内寂聴)だ。瀬戸内晴美は、ここに住んでいた1970年(昭和45)に長編小説『おだやかな部屋』を仕上げている。
 小説といっても、彼女の作品はリアルそのものの私小説だし、ときに登場人物たち(つまり恋愛対象となった男たち)が実名で登場するなど、ほとんど本人の「日記」か「忘備録」を読んでいるような具合で、わたしとしては敬遠したい作品群なのだけれど、見方を変えると、作品に描かれた周囲の環境や周辺の風景は、きわめて精緻かつ正確な描写でとらえられていることになる。
 事実、目白台アパートのある目白崖線沿いの描写は、1970年代の同所をほうふつとさせる空気を醸しだしており、わたしにとってはどこか懐かしい雰囲気さえ感じられた。では、『おだやかな部屋』から当該部分を少し引用してみよう。
  
 部屋から、そんな街を見下していると、女は、自分も広い海にただよっている長い航海中の船の一室にいるような孤独な気持がしてくる。/その上、気がつけば、四六時中、絶えることなく響いている川音が、舳先に砕かれる波音のような伴奏までつとめていた。川は、アパートの真下の丘の裾をめぐってつくられた細長い公園を、縁どり流れている。高い水音は、その運河に流れこむ幾筋もの下水口からほとばしり落ちる水があげていた。近くで見れば、汚物であふれる灰色の下水も、女の部屋の高さから見下すと、ひたすら白い飛沫をあげながら運河になだれこんでは、いくつもの激しい渦にわかれ、たちまち流れの中に融けこみ、ひと色の水の色に染めあげられてしまう。/黄昏と共に、川は闇の中に沈みこみ、川音だけが深山の滝のようにとどろきながら立ち上ってくる。空と街の境界もひとつに融け、漆黒の海にちらばる無数の漁火か、波に落ちた星影のように家々の灯がともる。
  
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尾崎翠「第七官界彷徨」.jpg 瀬戸内晴美「おだやかな部屋」.jpg
 瀬戸内晴美が眼下に見下ろす公園が、江戸川橋から椿山Click!の麓までつづく、神田川(旧・江戸川:1966年より神田川)沿いの江戸川公園であり、「下水口」から流れる「高い水音」は、当時は護岸沿いにうがたれていた下水の細い排出口ではなく、まるで滝のような音を立てるおそらく堰堤の水音だろう。この堰堤は、目白台アパートのすぐ西側、大滝橋の真下にある神田川でも有数の大きな落差で有名な大堰堤(大滝)だ。もともと、この流域には江戸期の神田上水Click!の取水口があり、まるでダムのような落差のある大洗堰Click!が築かれていた地点でもある。
 彼女は、江戸川公園を散歩する際に、おそらく汚濁した神田川をときどきのぞきこんでいたのだろう。1970年代は、同河川が汚濁のピークに達していたころだ。当時の川面を記憶する瀬戸内寂聴が、アユやタモロコ、オスカワ、マハゼなどが回遊し、子どもたちが水泳教室で遊ぶ50年後の神田川を見たら、いったいどのような描写をするのだろうか。
  
 早朝のせいもあり、五月の日曜日の街の上には、まだスモッグの霞もかからず、菱波の立った海面のように街の屋根がさざ波だってうねっている。家々の瓦屋根や、ビルのコンクリートの屋上が、洗いあげたばかりのような新鮮さで、それぞれの稜線をきっかりと際立たせている。(中略) ほんの一つまみほどの樹々の緑が、折り重なった灰色の屋根の波のまにまに浮んでいる。その緑を際だたせるのが役目のようにどの緑の島からも、金色の光芒を放つ矢車をつけた竿が点に向って真直ぐ伸びていた。(中略) 西の方に、どれよりも巨大なビルディングの骨組みが黒々とぬきんでている。まだ形骸だけのその建物の、数え切れない窓は吹き抜けにあいていて、小さな四角の中にひとつずつ切りとられた青空が、きっかりと嵌めこまれていた。(中略) ビルの更に西の空に、くっきりと富士が浮び上っている。富士のはるか裾には秩父の連山が藍色の横雲のたなびいているような影をつくっていた。
  
 当時は、高いビルや高層マンションがないので、目白台アパートからかなり遠くまで見わたせた様子がわかる。また、このころの東京は排気ガスや工場からの排煙によるスモッグが街中を覆い、わたしもハッキリ記憶しているが、午前中なのに午後3時すぎぐらいの陽射しにしか感じられなかった。喘息の子どもたちが急増し、小学校の朝礼では息苦しくなった生徒が意識を失って倒れる騒ぎが続出していたころだ。瀬戸内晴美は、空気や川の汚濁がピークだったころ、目白に住んでいたことになる。
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 西に見える「巨大なビルディングの骨組み」は、この小説が執筆されていた1969~1970年(昭和44~45)という時期を考えると、まちがいなく新宿駅西口の淀橋浄水場Click!跡地に建設中だった京王プラザホテルだと思われる。同ホテルは、『おだやかな部屋』が「文藝」に発表された翌年、1971年(昭和46)に竣工しているので、彼女も目白台アパートのベランダから完成したビルを眺めていただろう。
 また、瀬戸内晴美は、おそらくかなりの方向音痴ではないだろうか。彼女のいる目白崖線から、富士山は鮮やかに見えるが秩父連山はまったく見えない。富士の裾野に見えているのは、神奈川県の丹沢山塊と箱根・足柄連山であり、埼玉県の秩父連山は彼女の視線から45度ほど北側、つまり彼女の右肩のややうしろにあたる。
 瀬戸内晴美は、部屋のベランダから川沿いの江戸川公園や、バッケの急斜面を往来する人物たちを仔細に観察している。同書から、再び引用してみよう。
  
 黄色のパラソルは橋を渡りきり、子供の遊び場を素通りし、散歩道を斜めに横切って、丘の崖にむかってくる。(中略) 丘の中腹にひょっこり二人の日曜画家があらわれる。(中略) その中腹の台地は四阿のある頂よりは街が一望に見渡せる。ちょうどそこからは樹々の高さが自然に下方へ流れていて、視界がさえぎられないのだ。小学生が先生に引率されて写生にくる時も、そこに一番たくさん子供たちが坐りこむ。(中略) パラソルの女が更に近づいてくる。丘の道は、四阿のある頂きの広場から左右にのびていて、右の道は、急な石段が桜並木の間をぬけ、子供の遊び場へ向って下りている。左の道はなだらかなだらだら坂の道が合歓の並木にはさまれて丘をS字形に縫いながら、裾の散歩道につながっていく。この道は途中から細い小路をいくつか左右にのばし、それは丘の樹々の中にまぎれこみ、女の部屋からも捕えることの出来ない恋人たちのかくれ場所をあちこちに包みこんでいる。
  
 「黄色いパラソル」の女が渡ってきたのが、水音が響く大堰堤の上に架かる大滝橋であり、その北詰めにはいまも変わらず遊具が設置された、子どもたちの小さな遊び場がある。先生に引率されてくる小学生たちは、目白台アパートのすぐ西側にある関口台町小学校の生徒たちだろう。子どもたちが座りこむ見晴らしのいい斜面からは、早稲田から新宿方面にかけ起伏に富んだ街並みがよく見わたせる。
 まったく同じ位置にイーゼルをすえ、南を向いてタブローを仕上げた画家がいた。上落合1丁目にアトリエをかまえていた、吉岡憲Click!『江戸川暮色』Click!だ。瀬戸内晴美が目白台アパートに住む、およそ20年前の風景を写しとっている。
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神田川1.JPG
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 「黄色いパラソル」を追いかけていた瀬戸内晴美の目は、崖線の濃い樹々の間に隠れて、真昼間から男と逢引きしている姿を見つける。「いやだわ、またスリップの紐切っちゃった。困るわ、今日はレースだから、すけちゃうんですもの」と、女と男の会話妄想がどんどん膨らんでいく。瀬戸内晴美は、執筆の合い間にベランダへ出て、目白崖線の急斜面に集まる恋人たちの逢引きを、克明に観察しつづけた。「どうしてあいびきする人妻はみんなサンダルを穿き、買物籠をさげるのだろうか」などと、日活ロマンポルノの「団地妻シリーズ」にありがちな、広告のボディコピーのようなことをつぶやいている。

◆写真上:江戸川公園側から、目白崖線の丘上に建つ目白台アパートを望む。
◆写真中上は、ひな壇状に擁壁が設置された江戸川公園のバッケ。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる目白台アパートと冬枯れの江戸川公園。下左は、『歩行』が収録された2014年(平成26)出版の尾崎翠『第七官界彷徨/瑠璃玉の耳輪』(岩波書店)。下右は、1977年(昭和52)出版の瀬戸内晴美『おだやかな部屋』(集英社)。
◆写真中下:目白崖線沿いに拡がる、緑深い現代の風景。
◆写真下は、椿山の西側に水神を奉った水神社。は、目白台アパートの下を流れる神田川。は、シルト層Click!がむき出しになった豊橋あたりの神田川。

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弦巻川を上流へたどると稲荷山。 [気になる神田川]

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 以前、弦巻川(鶴巻川)の流域に残る地名の「目白」や「金山」、「神田久保」とともに目白不動や幸神社(こうじんしゃ)、金山稲荷などについて、3回連載のまとめ記事Click!を書いたことがあった。池袋の丸池に発し、東の護国寺から大洗堰Click!下の江戸川Click!(1966年より神田川)に向けて流れ下る、弦巻川の中流域一帯に着目したものだが、今回はもう少し上流のエリアへ視界を移して地勢を概観してみたい。
 少し前に、目白界隈に住む人々の記憶に残る雑司ヶ谷異人館Click!の記事を書いたが、その坂下にある弦巻川の河畔に沿った道には、宝城寺と清立院が並んで建立されている。もともと雑司ヶ谷村の飛び地(雑司ヶ谷旭出町)だった地域で、昔から向山と呼ばれた急斜面に寺々は建っている。その丘上の中島御嶽地域には、東京府が開設した雑司ヶ谷旭出町墓地(現・都立雑司が谷霊園)が拡がっている。向山は、丘上から弦巻川の流れに向けて急激に落ちこむバッケ(崖地)Click!地形で、大鍛冶たちのタタラ製鉄Click!にはもってこいの地形だ。ちなみに、丘上の地名である御嶽とは御嶽権現のことであり、金(かね=鉄)や金属を溶かす火の神・カグツチ(迦具土)と結びつく信仰のひとつだ。
 南面する向山の中腹には、由緒由来がこれまで不明でハッキリせず、稲荷にはおなじみのキツネたちが存在しない、白鳥稲荷大明神がひっそりと鎮座している。そして、白鳥稲荷大明神社が建立された斜面に通う坂道は、いまでも昔日のまま「御嶽坂」と呼ばれつづけている。1932年(昭和7)に暗渠化された、弦巻川の跡から向山の斜面を眺めると、現代のひな壇状に整地された住宅や寺々を眺めていても、砂鉄を採集したタタラ製鉄のカンナ(鉄穴・神奈)流しClick!を想像することができる。
 すなわち、白鳥稲荷大明神とは本来が「鋳成大明神」ではなかっただろうか? 地形的に見れば、白鳥稲荷社は目白(のち関口)の目白(=鋼の古語)不動に近接した幸神社(荒神社)や、神田久保の谷間に面した金山稲荷(鐡液鋳成=カナグソ)と酷似した地勢に気づく。音羽から谷間をさかのぼっていった大鍛冶集団が、いや、雑司ヶ谷村西谷戸(現・西池袋)の丸池(成蹊池)Click!から流れを下ったのかもしれないが、この地にも滞在してカンナ流しを行なった……そんな気配が強く漂っているのだ。
 さて、白鳥稲荷大明神社から、さらに弦巻川を400mほど上流へたどると、平安初期の810年(弘仁元)ごろより「稲荷山」と呼ばれてきた丘がある。この稲荷山も、本来はタタラ製鉄による「鋳成山」とよばれていたのではないかとつい疑いたくなるが、実は稲荷山のテーマはそこではない。稲荷山という丘名を山号に用いていたのが、雑司ヶ谷の巨刹である威光寺(のち法明寺と改名)だった。
 法明寺は、平安初期の建立当初の寺名では「稲荷山威光寺」と呼ばれている。そして、後世に寺名の「威光」を山号にしてしまい、改めて寺名を法明寺と呼ぶようになった。また、稲荷山の威光稲荷に安置されていたのは、キツネのいる後世の一般的な社(やしろ)ではなく、法明寺の縁起資料によれば「威光尊天」と呼ばれる仏神で、もともとは鳥居など存在しない威光稲荷の堂宇だったのがわかる。
 このあたりの経緯を、1933年(昭和8)出版の『高田町史』(高田町教育会)から引用してみよう。ちなみに、江戸期の文献とは異なり、神仏分離・廃仏毀釈が行われた明治以降の資料では、威光山法明寺と威光稲荷社(堂)は明確に分離して記録されている。それは、法明寺鬼子母神堂(雑司ヶ谷鬼子母神Click!)の境内にある、明らかに稲荷神が奉られ、鳥居が林立している社(やしろ)のことを、ときに武芳稲荷堂と表現するのと同様のケースだ。
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 法明寺奥庭の小高き山上に、威光稲荷と云ふ一堂がある。祭神は他の稲荷と異り、威光尊天と称へ、今を去る千百余年前、慈覚大師自作の像で、嵯峨天皇の御宇、弘仁元年に勧請し、山号を稲荷山と称へた。後ち威光山と改めて以来、普く善男善女を守護し、又水火災、盗難、剣難、病難を除くとて信仰崇敬される。法明寺縁起には『当山鎮守開運威光尊天』とある。之は仏教の堂宇とすべきか、神社の中に入るべきかと惑ふも、世人は之を神として参拝をして居る。
  
 この記述では、なぜ威光山の山号以前に、同寺が稲荷山と呼ばれていたのか経緯が不明だ。さまざまな文献を参照しても、威光寺(のち法明寺)の裏山が、なぜ稲荷山と呼ばれていたのか、そして、なぜそれが山号に採用されたのかを解説したものは見あたらない。稲荷山の山号が威光山に変わったのは、鎌倉中期に天台宗(真言宗説もあり)だった威光寺を日蓮宗に改宗しているからで、日蓮の弟子である日源が訪れて寺名を山号にし、法明寺へと改名したことにはじまる。
 ところが、明治末まで威光稲荷の小山状の境内には、洞穴の開いていたことが記録されている。記録したのは、付近を散策していた歌人で随筆家の大町桂月だ。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」に対し、「乱臣なり賊子なり」と評した国粋主義者の大町桂月だが、わたしには彼の書いた江戸東京の習俗を嘲笑する散策文もまったくもって気に入らない。上方落語で、江戸東京の街をことさらバカにして蔑むときにつかう“マクラ”、「伊勢屋に稲荷に犬の糞」と同じような臭気がするからだ。でも、ほかに明治期の記録が見つからないので、1906年(明治39)に大倉書店から出版された大町桂月『東京遊行記』から、しかたがないので引用してみよう。ちなみに、大町桂月は法明寺のことを、一貫して「明法寺」と誤記(わざとかもしれない)しつづけている。
  
 目白停車場より出でゝ、都の方へニ三町も来れば、左の方数町を隔てゝ、森が二つ三つあるを見るべし。その手前の森が鬼子母神堂の在る処にして、次ぎのが、明法寺(ママ:法明寺)の在る処也。/鬼子母神堂の横手より左に一二町ゆけば、仁王門あり。その仁王尊の像は、運慶の作にかゝると称す。その内が、明法寺(ママ)也。祖師堂釈迦堂あり、しめ縄を帯びたる大欅、落雷の為めに半身を失ひて、半身なほ栄えたり。奥に稲荷あり、仏に属して、威光天と称すれども、朱の鳥居の多きこと、羽田の穴守稲荷に次ぐ。祠堂は、改築中也。傍に、穴あり、多く紙片をくゝりつけたるは、穴の中の主に祈るなるべし。東京の愚俗、依然として、狐を拝す。(カッコ内引用者註)
  
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 現在の威光稲荷では埋められたのか、境内には見あたらない小山から洞穴が出現し、明治末の時点まで保存されていたのを記録した貴重な証言だ。ちなみに、1977年(昭和52)に新小説社から出版された中村省三『雑司ヶ谷界隈』には、「いくつもの狐穴」と記録されているが東側の学校建設で埋められてしまい、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』では、「洞の入口は二つあった」と書かれている。
 この洞穴が、いつ出現したのかは不明だが、威光稲荷のある小山が狐塚Click!稲荷塚Click!、あるいはもっとさかのぼって旧・山号である稲荷山Click!と称される機縁になっているとすれば、古墳を示唆する重要な証拠のひとつだろう。
 威光稲荷の洞穴が、古墳の羨道あるいは玄室かは不明だが、江戸東京のみならず全国的な江戸期における稲荷信仰のおかげで、狐塚・稲荷塚・稲荷山などの地名・丘名や保存されてきた洞穴が、次々と調査されて古墳であると規定され、古代史を解明する大きな考古学的成果をもたらしてきたのは見逃せない事実だ。今日的にみるなら、あながち「愚俗」とはいい切れないだろう。
 法明寺の本堂は、1923年(大正12)の関東大震災Click!で倒壊し、また1945年(昭和20)の空襲でも焼失している。関東大震災で倒壊したとき、本堂は西へ50mほど移動して再建された。1947年(昭和22)の空中写真を見ると、空襲で焼けた本堂の東側に旧・本堂のあった大きな空き地がとらえられている。この空き地には、戦後に雑司が谷中学校が建設され、現在は南池袋小学校となっている。大震災後の本堂の移動で、参道を含めた周辺の道筋が大きく変わっているのも重要なポイントだろう。
 1922年(大正11)の1/3,000地形図を参照すると、旧・本堂のあった背後の斜面が丘上から丘下にかけて、ちょうど円形にくびれていたのがわかる。このくびれを、前方後円墳のくびれとして仮定し、威光稲荷を後円部の玄室位置(中心点)、狐塚を羨道の一部が露出した位置とすると、稲荷山の南斜面へへばりつくように築造された大型古墳を想定することができる。墳丘の土砂を南斜面に流して、威光寺(のち法明寺)の境内を造成したことになるが、その規模は全長200mほどだろうか。
 また、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)の空中写真を素直に観察すれば、法明寺の旧・本堂の跡地が明らかに他の境内の土色とは異なり、黒っぽく正円形のフォルムにとらえられている。また、東へつづく古い道筋には、前方部のかたちをなぞったとおぼしき形状を発見することができる。旧本堂跡に後円部があったとすれば、東側に前方部が位置し、その全長は120~130mほどになるだろうか。その場合、威光稲荷の本堂(本殿)が建っている小山と、その北東側にある狐塚は主墳に付属した陪墳Click!×2基(あるいは風化した50m規模の前方後円墳型の陪墳×1基)ということになりそうだ。
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 もうひとつ、法明寺本堂の南側に位置する鬼子母神堂(雑司ヶ谷鬼子母神)も、もともとは前方後円墳だったとする説がある。確かに、本堂が造営された境内をめぐる築垣はいまだ孤状を描いており、東へのびる参道が前方部という想定なのだろう。法明寺の稲荷山と相対するように、雑司ヶ谷鬼子母神の境内は弦巻川をはさんだ南側の段丘に位置しており、その北向き斜面へへばりつくように造営されている。古墳時代の人々が、古墳を築造する候補地として選定するには、確かに見晴らしのいい好適地のように思える。

◆写真上:向山の中腹にある、由緒由来が不明な白鳥稲荷大明神社。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる白鳥稲荷社とその周辺地域。は、元神が出雲・簸川(氷川)の鷲大明神ないしはクシナダヒメの雑司ヶ谷大鳥社(上)と、都電・雑司ヶ谷駅の南側から宝城寺・清立院の方面を向いて撮影したもので手前を流れるのは弦巻川(下)。は、キツネのいない白鳥大明神の拝・本殿。
◆写真中下は、1922年(大正11)の1/3,000地形図にみる弦巻川の谷間に向かいあった稲荷山斜面の法明寺と北向き斜面の雑司ヶ谷鬼子母神。は、1919年(大正8)に撮影された稲荷山の威光稲荷堂(上)と、現在の威光稲荷堂(社)と奥に狐塚のある境内(下2葉)。は、1947~1948年(昭和22~23)に撮影された焼跡の法明寺と周辺域。
◆写真下は、現在の法明寺本堂(右手)と境内。は、金子直德が寛政年間(1789~1801年)に著した『和佳場の小図絵』挿入の絵図より。は、先の写真に想定古墳域を描き入れたもので、威光稲荷と旧・法明寺本堂を各主墳にして描き分けてみた。

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野方町丸山に点在する古墳の痕跡。 [気になる神田川]

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 江戸東京には、「丸山」あるいは「円山」という字名(あざな)が散在している。いや、東京ばかりでなく丸山(円山)は、摺鉢山Click!稲荷山Click!天神山Click!などと同様に、全国規模の典型的な古墳遺跡地名でもある。下落合でも、丸山Click!という地名が江戸初期の資料からも確認でき、江戸末期には下落合氷川明神社Click!の東側に位置づけられている。そして、丸山の西側(下落合847番地)には摺鉢山Click!という地名が、明治末あるいは大正初期まで残されていたことも判明した。
 落合地域の周辺を見まわすと、下落合の西隣りにあたる野方町(現・中野区)にもまた、丸山の字名がそのまま現代まで地名として存続している。(丸山のエリアは、戦前より少し西へズレているようだが) しかも、相対的に市街化が少し遅れたせいか、丸山塚や稲荷塚、狐塚、経塚など、散在する古墳とみられる塚名までが伝えられているケースが多い。また、南の沼袋地域から北の江古田地域(武蔵野鉄道=現・西武池袋線の駅名ではないので「えごた」発音)にかけての妙正寺川とその支流沿いには、下落合と同様に出雲の氷川社が展開する一帯でもある。
 わたしが、野方町の丸山が気になったのは、明治末の陸地測量部による1/10,000地形図の字名を参照し、すぐに1947年(昭和22)の焼跡が拡がる空中写真を確認してからだ。以前、西武新宿線の沼袋駅近くにある出雲の沼袋氷川明神社Click!が、東京に点在するあまたの氷川明神Click!と同様に、もともとは古墳ではないかという記事を、地名相似とからめて書いたことがあったが、野方の丸山はその北北西の地域にあたる。わたしが目を見はったのは、沼袋氷川明神社から丸山の地名があった丸山塚とのちょうど中間点にある、明治寺および久成寺の境内と墓地のかたちだ。
 明治寺はその名のとおり、明治末の1912年(明治45)に建立された新しい寺だが、別名「百観音」として知られており、一部の境内が公園として開放されている。その境内は、南へと下る妙正寺川の河岸段丘上の“ヘリ”に位置しており、見晴らしのいい場所だ。そして、境内のフォルムが古墳時代初期の三味線のバチ型をした宝莱山古墳Click!と同様、前方後円墳の前方部に酷似しているのだ。寺々の墓域となったせいか境内の形状がよく保存され、現代の空中写真でもハッキリとそのかたちを確認することができる。そして、明治寺の本堂はおそらく後円部の中心点、つまり地中にある玄室の真上に建てられていそうな点も非常に興味深い。この前提で古墳のサイズを想定すると、その全長は東西方向へ約220mほどになるだろうか。記述の便宜上、この前方後円墳状のかたちをした境内を、明治寺古墳(仮)と呼びたい。
 さっそく現地を訪ねてみると、いまだ三味のバチ型に沿って地面の盛りあがりを確認することができる。特に南側は墓域にしたせいか、土地が落ちこむ形状そのまま墓地内に擁壁が設けられ、北側は前方部とみられるゆるいカーブの道路に沿って低い築垣がつづいている。後円部は、なんらかの膨らみがあったことを示す道筋が残されているけれど、1936年(昭和11)の空中写真で確認しても大半が新しい道路の敷設と、昭和初期の宅地化で失われているようだ。、明治寺古墳(仮)は、沼袋氷川明神社から北西へ300mほど、古墳と規定されている丸山地域の丸山塚からもわずか120mという至近距離に位置する。
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 さて、丸山塚は現在公園として整地され、昔日には塚状に盛りあがっていた地面の凹凸も存在していない。北側の新青梅街道ぎわには、大きな中野区のビル施設が建設されており、形状や起伏まで含め古墳の全域が破壊されたケースだ。ただし、公園の隅にはかつて墳丘(北側に前方部のある帆立貝式古墳か?)のどこかに奉られていたとみられる、小さな祠が残されていた。この小祠は、室町期の戦の記念として「豊島二百柱社」とされているようなのだが、明らかに造形は稲荷の祠であり後世の付会ではないだろうか。地元では、江戸期から丸山塚を別名・稲荷塚と呼んでいたことが記録されており、この経緯は世田ヶ谷の上野毛に保存されている稲荷丸塚古墳とそっくりだ。
 また、丸山塚古墳の名称は東京のみならず、周辺域では甲府市内にも存在している。甲府の丸山塚古墳(甲斐銚子塚古墳附)は全長約70~80mほどの円墳だが、野方の丸山塚もまた戦前戦後の空中写真で見るかぎり、古墳域は100m弱ほどの規模とみられる。甲府の丸山塚古墳の南西100m余のところには、4世紀後半に築造された大型の前方後円墳、全長約170mの甲斐銚子塚古墳が築造されている。丸山塚古墳と明治寺古墳(仮)の関係もまた、築造位置の近さから甲府のケーススタディのように、被葬者同士でなんらかの関係性を示す墳墓だったものだろうか。
 丸山塚からさらに北へとたどり、近くを江古田川(妙正寺川支流)が流れる、段丘上の江古田氷川明神社までのエリアは経塚、狐塚、稲荷塚と、なんらかの古墳があったことを示すメルクマールの密集地帯だ。その名称からも明らかなように、これらの塚状の突起あるいは出現した羨道・玄室などの洞穴は、おもに室町期から江戸期にかけ説明しやすいなんらかの物語や解説が付与され、そう呼ばれるようになったことは、全国の古墳事例をみても想像に難くない。このサイトでも、池袋の狐塚Click!や百人町の真王稲荷塚Click!について、ずいぶん以前にご紹介していた。
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 丸山塚から北東へ約250mほど、中野区立歴史民俗資料館の真裏にあたる経塚は、すでに墳丘が崩されて久しいらしく、住宅の庭先のような風情になっている。江戸期から、地蔵の石仏が安置されていたようだが、塚名だけが後世に継承されているだけで、もともとの墳丘のかたちや規模は調査がなされていないので不明だ。設置されたプレートによれば、それほど大きな塚ではなかったらしいが、江戸期の開墾ですでに本来の姿を失っていたのかもしれない。
 経塚の北北西約110mのところには、稲荷塚と狐塚が隣り同士で並んでいる。江古田川に向かい、急激に下るバッケClick!(崖地)状の斜面に、双子のような墳丘が築造されていたのかもしれない。戦前の空中写真を参照すると、周囲を畑地に開墾されつくした中の畦道沿いに直径数十メートルの塚が2基、ポツンと取り残されているのが見てとれる。あるいは、もともとひとつの古墳だったものが、開墾中に玄室と羨道の洞穴が別々に出現したため、それぞれ稲荷塚と狐塚の別名がつけられた可能性もある。その場合、墳丘の規模は30mほどになるが、古墳の羨道と玄室部のみが崩されずに残されたと考えると、墳丘はさらに大きかったのかもしれない。
 そして、稲荷塚と狐塚の北東約150mのところに、下落合氷川明神の境内と近似した釣り鐘型をし、現状の地形からも、また戦前の空中写真でも、鍵穴型のフォルムを類推できる江古田氷川明神社が鎮座している。また、江古田氷川社の北側には、湾曲した江古田川(妙正寺川支流)に向かって大きく半島状に張りだした丘があり、1920年(大正9)より東京市結核療養所Click!(江古田結核療養所=中野療養所)が設置されていた。このサイトでは、同療養所の副所長で中村彝Click!の主治医だった遠藤繁清Click!が登場している。この見晴らしのいい丘上にも、いくつかの古墳があったのではないかと思われるが、中野療養所の建設とともに丘全体が大規模開発されており、その痕跡は確認できない。
 さらに、戦後の焼跡写真では、江古田氷川明神社から千川上水Click!に近接する武蔵大学Click!のキャンパス(練馬区)まで、もともとは古墳らしいサークル状の痕跡をいくつか確認できるが、中野区側のように塚名は今日まで伝承されていない。以前、練馬の向原地域に残る古墳の痕跡Click!を追いかけたことがあったが、中野から練馬、さらに板橋の渓流が流れる谷戸の丘上ないしは斜面には、古墳時代全期を通じて大小の墳墓が連続して築造されていた可能性が高い。それは、周辺で発掘される古墳期の集落跡とともに、あながち無理な想定でもないだろう。
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 1941年(昭和16)に陸軍が東京の西北部を撮影した、斜めフカンの空中写真Click!が残されている。中野では、北側の中野療養所から南の沼袋駅方面までを撮影した1枚が残されているが、沼袋氷川明神社から明治寺古墳(仮)、丸山塚古墳、経塚、狐塚、稲荷塚、そして江古田氷川明神社までがパノラマ状にとらえられており圧巻だ。これらの痕跡以外にも、田畑の中にはそれらしいサークルやお椀を伏せたような盛り上がりが確認できるので、江戸期から大規模な開墾が行われていたとはいえ、さらに多くの古墳とみられる遺跡が残されていたのではないだろうか。

◆写真上:沼袋氷川社と丸山塚とではさまれるように位置する、明治寺の広大な境内。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる沼袋氷川明神社のかたち。は、同社の境内に残る御嶽社Click!稲荷社Click!、さらに明治政府による「日本の神殺し」政策Click!に抗しオモダルとカシコネの夫婦神がそろった第六天(天王社)Click!の3社。は、1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる各遺跡の位置関係。
◆写真中下のモノクロ2葉は、1947年(昭和22)の空中写真に見る丸山塚古墳と明治寺古墳(仮)のかたち。からへ、明治寺の広い境内×2枚と北側のカーブを描く築垣、公園となった丸山塚の現状。左隅に、もともとは稲荷とみられる小祠が写っている。
◆写真下は、1941年(昭和16)と1947年(昭和22)の空中写真にみる経塚、狐塚・稲荷塚、そして江古田氷川明神社。からへ、ほとんど痕跡が残っておらず地蔵尊が奉られている経塚跡、かつて急斜面に存在し現在は公園化された稲荷塚と狐塚跡、空襲で焼けなかった江古田氷川明神の階段(きざはし)と拝殿。
記事末写真:中野療養所の上空から南を向いて撮影された1941年(昭和16)の斜めフカン写真で、江古田氷川社から沼袋氷川社まで遺跡の位置関係が一目瞭然だ。
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「だらだら長者」埋蔵金の後日譚。 [気になる神田川]

津久戸明神門前町.JPG
 新年、あけましておめでとうございます。本年も「落合道人」サイトを、どうぞよろしくお願いいたします。さて、お正月は、おめでたい新宿区に眠る「お宝」物語から。
  
 少し前に、江戸東京に残る「長者」伝説のひとつとして、牛込の筑土八幡町から牛込白銀町にかけて伝わる「だらだら長者」Click!についてご紹介した。だらだら長者こと生井屋久太郎は、なにがきっかけで町奉行所の与力・鈴木藤吉郎と組んで、御蔵米の買い占めに手を出したのかは不明だが、それで儲けた莫大な財産を屋敷とその周辺域に埋蔵したという伝承は、「宝さがし」のエピソードとともに昭和期まで伝わっている。気になるので、その後のエピソードを含めてご紹介したい。
 江戸期が終わるまでに発見されたカネは、奉行所の家宅捜査で手文庫から見つかった200両+埋蔵金を隠した場所とみられる絵図と、久太郎の屋敷から道をはさんだ屋敷へと通じる地下トンネルから発見された1,200両を合わせても、わずか1,400両にすぎない。事件当初から、御蔵米の買い占めで得た暴利は3万~5万両では足りないといわれており、残りをどこに隠したのかが周辺住民ばかりでなく、多くの江戸市民の話題をさらった。そのゆくえを唯一知るかもしれない、与力・鈴木藤吉郎の妾で久太郎の娘といわれている於今(おいま)は、事件が発覚すると同時に姿をくらましている。
 明治期に入ると、お今がらみの人物が「宝さがし」のために、会津から筑土八幡社界隈へとやってくる。江戸を離れたお今は、諸国を転々としたのち会津へと逃れ、明治に入ると田島半兵衛という男と親しくなって所帯をもった。田島半兵衛は、会津にいた当時から周辺の「宝さがし」をしており、室町末期、伊達正宗に敗れた蘆名義広が常陸の江戸ヶ崎へ逃れる際、猪苗代湖の湖底に沈めたといわれる財宝探しにかかわっていた。地下への埋蔵金ばかりでなく、全国には湖底あるいは池底へ隠した財宝伝説が散在しており、猪苗代湖のケースもそのひとつだ。東京では、太田道灌に敗れた豊島氏が滅亡する際、石神井の三宝池へ金銀財宝を沈めたという伝説が、もっとも知られているだろうか。
 会津で田島半兵衛と暮らしていたお今は、小さな飲み屋「古奈家」を経営していたが、特に店が繁盛しなくても困窮することがなく、彼にはそれが少し不思議だったようだ。田島には、江戸にいたころは“与力の妻”だったというふれこみで接しており、彼はそれなりの蓄えがあるのではないかと想像していた。猪苗代湖で「宝さがし」をする田島は、お今がふと漏らした「水の中のものまで探さないでも、おかにだってまだ沢山あるさ」という言葉を記憶している。お今は、1884年(明治17)12月に病死している。
 お今は、臨終の床でだらだら長者に関する一部始終と、御守り袋に入れて肌身離さずにもっていた絵図を取りだし、田島半兵衛にあとを託して死んだ。このとき、お今がもっていた埋蔵場所の絵図は、だらだら長者屋敷の手文庫から見つかった絵図と、同一のものか異なるものかがハッキリしない。もし、お今が保管していた絵図がホンモノだとすれば、手文庫に残された絵図はフェイクの可能性がある。お今は、だらだら長者こと久太郎の娘だという説が正しければ、手文庫からホンモノの絵図を抜きとり、代わりにニセの絵図を入れておくこともたやすくできたにちがいない。
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 お今が死んだとき、田島がだらだら長者の埋蔵金話を信じたのは、いまだ2,000円もの大金が家の中に残されていたからだろう。明治初期の2,000円といえば、現在の貨幣価値に換算すると1,500万~2,000万円ぐらいにはなるだろうか。そのときの様子を、1962年(昭和37)に雄山閣から出版された角田喜久雄『東京埋蔵金考』から引用してみよう。
  
 そのお今の話によると、だらだら長者の埋めた宝の量は、三万両や五万両の少額ではなかった。お今がどんな無茶な金遣いをしても、生涯かかって費いきれないほどの額で、長者は千両まとまるごとに、埋蔵していたというのである。埋蔵場所は二ヵ所に分れていて、一ヵ所は屋敷内。もう一ヵ所は秘密の地下道を抜け出た町家の庭の、から井戸の途中に横穴があって、その中にかくされている。そして、その屋敷内の方の埋蔵は、必ず長者自身の手で行われたので、お今も位置は知らないが、から井戸の方の埋蔵は、いつも「権」という男があたっていた。権の名前は権兵衛とか権太郎とかいうのだろうが、お今も知らない。/権と長者の関係は、全く他人のごとく見せていたが、実際は親密そのもので、一度秘密の通路から長者の寝室へ忍んで来たのをお今も見たことがある。その態度から見て、おそらく兄弟ではあるまいかと思える。長者のお今に対する態度は、二人っきりの時には別人かと思える親しさで、今考えてみると、自分の父ではなかったかと思う。
  
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 これほど微に入り細に入り、筑土八幡社裏にあった久太郎=だらだら長者屋敷の様子がわかっていながら、田島半兵衛は東京にきて間もなく、「宝さがし」ができなくなった。銭湯帰りの女性を襲った、婦女暴行容疑で警察から手配され、東京にいられなくなったからだ。以上の話は、だらだら長者の「宝さがし」仲間からの取材による経緯ということになっている。したがって、どこまでが事実でどこからが付会や尾ヒレなのかハッキリしないが、田島がわざわざ会津からやってきたこと、そこにお今という女性がいたことだけは、どうやら事実らしい。
 さて、その後も、だらだら長者の絵図なるものを手に、筑土八幡社界隈を訪ね歩く人々が新聞ダネになっているが、その絵図が久太郎屋敷の手文庫から出たものか、田島半兵衛がお今からいまわの際に譲り受けたものか、はたまたまったく別の絵図なのかは不明のままだ。絵図を手に、現在の筑土八幡町や白銀町を訪れたいくつかの「宝さがし」チームは、しばらく付近を捜索したあと、あきらめては引き上げていったらしい。
 なぜなら、筑土八幡社の周囲は、明治も後期になると再開発が進み、だらだら長者の屋敷がどこにあったかさえ、地元の人間にも不確かになっていたからだ。傾斜地やバッケ(崖地)Click!は、ひな壇状に宅地造成が行われ、万昌院の広い境内もなくなり新しい道路が敷設された。昭和に入ってからも、「宝さがし」はつづいていたようだが、ついに埋蔵金発見の報道が流れることはなかった。
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 唯一、戦時中に付近の住民が防空壕を掘っていたところ、生井屋久太郎の家紋「橘紋」が入った鉄瓶を掘り当ててニュースになったことがあった。その住民の家が建っていた場所こそが、だらだら長者の屋敷跡だと騒ぎになったが、戦争末期の混乱時だったために「宝さがし」が行われないまま、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で付近一帯は焼け野原になっている。現在なら、金属探知機を使って地中を探ることもできるだろうが、住宅が密集していて実質的にはまったく不可能だろう。

◆写真上:数年前の道路建設で、消えてしまった津久戸明神社の門前町の一画。
◆写真中上は、長谷川雪旦の挿画で『江戸名所図会』に描かれた津久戸明神社と筑土八幡社の界隈。は、明治時代の撮影と思われる津久戸明神社(左)と筑土八幡社(右)。は、筑土八幡社の階段(きざはし)から眺めた急斜面下の現状。
◆写真中下は、中山備後守上屋敷跡にある白銀公園。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる津久戸明神社と筑土八幡社の焼け跡。は、社裏につづくバッケの擁壁。
◆写真下上左は、1980年(昭和55)に出版された中公文庫版の角田喜久雄『東京埋蔵金考』。上右は、万昌院の境内跡に建設されたモダンな近代住宅だが解体されて現存しない。は、豊島氏の滅亡時に財宝が沈められた伝説が残る石神井公園の三宝池。

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三昧と「弥勒浄土」思想が重なる古墳域。 [気になる神田川]

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 東京メトロ東西線を落合駅で下り、上落合から上高田を抜ける早稲田通り(旧・昭和通り)を西へ200mほど歩くと、ほどなく寺町が出現する。もっとも東寄りにある正見寺は以前、大江戸の稀代のアイドル・笠森お仙Click!の墓所として紹介していた。
 正見寺から西へ青原寺、高徳寺、龍興寺、松源寺、宗清寺、保善寺、天徳院とつづく寺々の境内には、朱楽菅公や新井白石(ちなみに『折りたく柴の記』は高徳寺で執筆された)、河竹黙阿弥Click!、水野忠徳、新見正興など歴史本でよく目にする人々が眠りについている。ただし、これらの寺院は明治末から大正初期にかけ、江戸東京の(城)下町Click!から上高田地域へ移転してきたもので、もともと同地で建立された縁起ではない。
 街道沿いにつづく寺町について、1982年(昭和57)出版の『ふる里上高田の昔語り』(いなほ書房)より、中村倭武『私の歩んだ道と上高田』から引用してみよう。
  
 まず一番東にある正見寺。ここには江戸第一の美人といわれた、笠森お仙の墓がある。上野谷中の「笠森稲荷」の水茶屋鍵屋五郎兵衛の娘で、のち幕府のお庭番、倉地家に嫁して円満な家庭を作り、武家の妻として九人の子供を育て、文政十年正月二十九日、七十九歳で死した。/源通寺には、近世の大劇作家・河竹黙阿弥の墓がある。/次の西隣りには、江戸時代の儒学者・新井白石の墓がある。墓石は低い石棚で囲まれ、夫人の墓と並んでいる。(中略) 西隣りに龍興寺がある。当時には、徳川秀忠、家綱、綱吉、柳沢吉保、吉保の側室・橘染子などの書が残っている。境内には、染子の墓がある。(中略) 天徳院は、一番西の寺である。墓地には、浅野内匠頭が、江戸城内の松の廊下で吉良上野介に刃傷におよんだ際、内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛の墓がある。
  
 吉良義央Click!の墓所である功運寺と、松ノ廊下で殺人を防いだ旗本・梶川与惣兵衛の墓がある天徳寺とは、わずか400mしか離れていないのが面白い。12月になると、ふたりはときどき訪ね合っては烏鷺でも囲みながら、「いやいや吉良様、お城の松ノお廊下ではたいへんな目にお遭いなされましたな」、「いやなに、もはや昔話じゃ。ところで梶川殿、わしの墓所もそこもとの墓所も同様じゃが、周囲をめぐる目ざわりな竿はなにかの?」、「電柱でござる」とか、世間話でもしているのかもしれない。
 さて、友人から、正見寺と青原寺の境内にまたがって妙なふくらみがあるよ~……と教えられたのは、つい先だてのことだった。陸地測量部の1/10,000地形図では気づかなかったが、早い時期につくられた1933年(昭和8)の「火保図」には、確かに周辺の地勢を踏まえると自然地形とは思えない人工的なふくらみが採取されている。そのふくらみのある尾根筋から斜面には、両寺院の本堂と墓地が建設されていた。この古くから尾根筋に走る街道(旧・昭和通り→現・早稲田通り)を東へたどると、神田川に架かる小滝橋へと抜けるが、その途中には明治初期に「落合富士」Click!へと改造されていた大塚浅間古墳Click!(昭和初期に山手通り工事で破壊)があり、また小滝橋の東詰めには、境内が150mほどのきれいな鍵穴型をした観音寺の本堂と墓地が確認できる。
 以前から「百八塚」Click!の伝承にからみ、旧・平川(江戸期より神田上水→1966年より神田川)とその周辺域に散在していたとみられる、膨大な古墳群の痕跡について書いてきたけれど、大塚浅間古墳(落合富士)から上高田地域にかけても、そのような大小の墳墓が谷間へ向けた丘上や斜面に展開していたのではないだろうか。1/10,000地形図を細かく観察すると、灌漑用水ではなく湧水流とみられる小流れ(妙正寺川支流)の斜面に沿って、正見寺の西500mほどのところにも、明らかな人工物とみられる楕円形の突起状地形(風化した帆立貝式古墳か?)が、陸地測量隊によって採取されていた。
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 尾根上の街道(現・早稲田通り)をはさみ、江戸期から落合側と中野側の双方に「大塚」Click!の字名がつづいているのは、以前にもこちらで何度かご紹介している。このエリアで唯一、古墳時代の墳墓として認定されているのが、富士講の落合富士へと改造され、昭和初期に行われた環状六号線(山手通り)の敷設工事で破壊されるまで存在した、上落合大塚に位置する大塚浅間古墳だ。
 落合富士に改造される際、前方部が崩されて正円状の塚に整形されるまで、本来は小型の前方後円墳だったのかもしれないが、字名に「大塚」がふられるにしては直径が数十メートルとあまりにも規模が小さすぎる。「大塚」の字名にふさわしい、より巨大な古墳とみられるサークル状の痕跡が上落合Click!に、また下落合Click!にも存在していることも、何度か記事Click!に取りあげてきた。
 正見寺と青原寺の境内にまたがる、全長130mほどの楕円突起も、南側を貫通する街道に削られてはいるものの、墳丘の一部が崩され風化した古墳の痕跡なのかもしれない。さらに、正見寺から西へ500mほどのところにある、全長80mほどの自然地形ではない円形構造物もまた、見晴らしのいい河岸段丘の傾斜地に築造された前方後円墳、または帆立貝式古墳の可能性が高い。後者の突起は、宅地開発で整地・ひな壇化の土木工事が行われて崩され、いまでは住宅街の下になってしまっている。
 さて、青山Click!上大崎Click!、中野から成子Click!角筈Click!などに残る「長者」伝説Click!や、品川Click!あるいは江古田Click!などの例にならえば、なんらかの不吉な伝説や怪談、屍屋にまつわる山(丘)や森、立入禁止の禁忌的なエリアの伝承が、上高田地域に残っているだろうか? 実は、中野区教育委員会が1987年(昭和62)から1997年(平成9)までの10年間かけて蒐集した、口承文芸調査報告書の正・続『中野の昔話・伝説・世間話』には、上高田地域の怪異・霊異譚が圧倒的に多い。それは、古くから寺町が形成されていたのと、なによりも「三昧」地ないしは「荼毘所」としての火葬場が、江戸の後期より隣接する上落合(落合火葬場Click!)に存在していたからにちがいない。
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 しかし、換言すれば、なぜ上落合と上高田の境界にあたるこの地が、あえて三昧(荼毘所)として選ばれているのか?……という、より根が深いテーマにつながってくる。落合火葬場が設置されたのは、『江戸砂子』などを参照すると江戸後期とみられ、三昧として砂村新田、深川(霊厳寺)、小塚原、千駄谷(代々木狼谷)、渋谷、桐ケ谷、そして上落合(法界寺)と7ヶ所の火葬場が確認できる。だが、なぜこれらの地域が選ばれ、三昧(荼毘所)が設置されたのかは特に書きとめられていない。
 それは、なぜ寺町や墓域として古くから青山や品川宿の牛頭天王社(品川神社)の隣接地などが選ばれているのか?……というテーマと、まったく同様の課題が想起されるのだ。しかも、古墳上に築造されたとみられる、あの世とつながる「弥勒浄土」の富士塚とセットになっているケースも少なくない。
 富士塚の「弥勒浄土」思想について、1985年(昭和60)に人文社から出版された新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―戸塚・落合編―』所収の、福田アジオ『高田富士と落合火葬場』から引用してみよう。
  
 富士塚はミロク浄土としての富士山を江戸町人が自分たちの生活の場に実現したものであるという。しかし、富士塚は町人たちの屋敷内にあるわけでもないし、江戸の市中に造られているわけでもない。多くが、江戸の周縁としての町奉行所支配外の朱引内に築造されている。これも空地が都心部になかったからという理由によるものではなく、周縁部に造ることに意味があったものと思われる。ミロク浄土という他界は、都心部から歩くという形の分離儀礼を経ることで達することができるのである。別の考え方をすれば、内と外を明確に区別する地帯は同時に異なる二つの世界を結びつける所であり、そこがミロク浄土としての富士と人々の日常的世界を結びつける地点になったということである。/江戸市中の人々にとって異なる世界に接し、異なる世界に入ることのできる現実の空間が周辺に帯状に存在した。戸塚や落合もその一部であった。
  
 この「分離儀礼」は、漠然とした「江戸市中」と郊外の「周縁部」というテーマだけにとどまらず、富士塚が築かれた地域内にも確実に存在していただろう。三昧(荼毘所)や富士塚が築かれたのは、人が誰も住まない原野でも未耕地でもなく、富士講などを組織できるほどに人々か古くから居住していたエリアだ。つまり、「江戸市中」と「周縁部」との「分離」以前に、それぞれの村や町の中における共同体としての「分離儀礼」が可能な特別の禁忌エリア、死と生との境界を意識できる故事伝承が語られつづけた、「弥勒浄土」にはもってこいのエリアがあったことを物語っていやしないだろうか。
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 江戸期から明治期までは、なんとか伝えられていたかもしれない「分離儀礼」や「弥勒浄土」に適合する、すなわち三昧(荼毘所)や墓地の設置、あるいは寺町を勧請し富士塚を構築するには適した地域の「分離儀礼」物語が、換言すれば屍屋あるいは死者が住む山(丘・森)や禁忌的なエリア=古墳時代の墳墓群(落合地域では百八塚など)の伝承が、明治以降の急速な宅地化ですっかり忘れ去られてしまった……そんな気配が強くするのだ。

◆写真上:正見寺境内の東側だが、戦後の本堂再建工事のせいか土地の隆起はない。
◆写真中上は、1966年(昭和41)2月に竹田助雄Click!が撮影した工事中の地下鉄東西線・落合駅。同工事で、なにか出土物はなかっただろうか。は、西側に全長80mほどの人工突起が描かれた1921年(大正10)作成の1/10,000地形図(上)と、正見寺から青原寺の境内にかけてみられる不自然な突起が採取された1933年(昭和8)作成の「火保図」(下)。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる正見寺と青原寺。
◆写真中下は、青原寺の墓地がある北向き斜面(上)と、谷底を流れていた妙正寺川支流跡(下)。は、昭和初期の山手通り工事で消滅した大塚浅間古墳(落合富士)。は、小滝橋をわたった東側の斜面にある1948年(昭和23)撮影の観音寺境内。
◆写真下は、1941年(昭和16)撮影の西側のふくらみあたり。は、住宅街になり痕跡が皆無の同所。は、源通寺(上)と同寺にある河竹黙阿弥一門の墓所(下)。おそらく観劇回数がもっとも多い芝居の作者なので、ていねいにお参りしておく。

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