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大川(隅田川)の河口に浮かぶ白い手。 [気になる神田川]

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 大川(隅田川)Click!が東京湾へと注ぐ台場の河口付近あたりを、吃水が浅い屋形船やクルーザー、プレジャーボートなどで航行していると、水面から白い手が出て舟べりをつかむという怪談を、わたしは子どものころから聞いていた。
 初めて聞いたのは、明治座Click!帰りにでも親たちとともに屋形船で天ぷら料理を食べた、小学校高学年のころだったろう。このとき利用した屋形は、かろうじて営業をつづけていた柳橋Click!小松屋Click!の舟だったと記憶している。当時、船宿は次々に廃業し、残っていたのはいまでは佃煮も売っている小松屋ぐらいだったろうか。そのころ、船宿の井筒屋や田中屋も営業をつづけていたかどうかは憶えていない。おそらく、小松屋は先祖代々の“ご用達”の船宿で、猪牙や屋形を手軽に利用していたのだろう。いまほど、屋形船のサイズも大型ではなく、モーターの馬力もそれほど出なかったし、船内の座敷も狭かったので船頭や給仕たちとの距離も近かった。1960年代の後半、藍染めのハチマキをした船頭のじいさんが、いまだ煙管(キセル)で刻みを吸っていた時代だ。
 そもそも、1960年代の後半から1970年代にかけ、屋形を商売にする大川(隅田川)から河口の東京湾(江戸湾)をめぐる船宿は激減していた。もちろん、当時はピークを迎えていた生活排水が流入する河川の汚濁による悪臭が、大川とその周辺の街々をおおっていた時代で、特に1964年(昭和39)の東京オリンピック以降は街々の破壊(小林信彦Click!のいう“町殺し”Click!)が急速に進み、「とても人が住めんとこじゃねえやな。郊外へ引(し)っ越すわ」と、あちこちでいわれていた時期と重なる。
 ここでいう「郊外」Click!とは、山手線の西側に設置された駅々周辺のことで、(城)下町Click!神田明神社Click!日枝権現社Click!に属する氏子町のすぐ外周域、行政区画でいえば東京15区Click!の西側に隣接する、「東京へいってくら」Click!のエリアのことだ。そこには、戦前からの武蔵野の面影とともに、東京五輪1964で関東大震災Click!の防災インフラがつぶされることもなく、またスモッグClick!が都心よりはまだ薄く、高速道路が縦横に走る騒音も聞こえない、緑の濃い静かな住宅街が形成されていた。
 いまでこそ、神田川Click!日本橋川Click!はもちろん、大川の水質は大きく改善Click!され(ひょっとするとパリ五輪競技が行なわれたセーヌ川よりもキレイかもしれない)、あの悪臭の汚濁時代はなんだったのかと不可思議に感じるほどだが、子どものころ屋形に乗ると海に抜けるまで、大川の悪臭はついてまわった。だから、食事をするのは悪臭が薄れた東京湾に出てからで、大川を上下しているときは景色を眺めるだけだった。
 もっとも、当時の屋形はいまよりも小型で、東京湾に出ると波の高い日はけっこう揺れた。わたしの家族は、舟に強かったので酔うことはなかったが、大川の悪臭には閉口した。わたしが子どものころ、屋形を乗り合いではなく1艘チャーターすると10万円だったが、いまでは舟のサイズにもよるが20万円以上はするようだ。もっとも、この価格設定は最近の外国人観光客をめあてにしたものだろうか。当時は、柳橋芸者が絶滅Click!していたため呼ぶことなどできなかったけれど、いまでは柳橋かどうかは不明だが芸妓・芸人を呼べるようだ。でも、ちゃんと線道Click!清元Click!小唄・端唄Click!、踊りなど江戸東京の伝統的な座敷を勤められる子たちかどうかは、はなはだ疑問なのだが……。
 さて、白い手の怪談は、親父と船頭たちとの世間話の中に混じっていたのか、そのとき同席していた親戚や乗客との会話の中で語られたものか、あるいは屋形を下りて帰宅してから聞かされたものかは憶えていないのでハッキリしない。少なくとも、お客が二度と利用したくなくなるような話を、船頭や給仕の女性がしたとは思えないので、おそらく乗り合いのお客の話か帰宅してからの親父の話だったのだろう。
 屋形船じたいが、非日常的な乗り物だったせいか、水面から現れる白い手が舟べりをつかんで離さないという幽霊譚は、どこか別の世界の出来事、いま風にいえば出所が不明な都市伝説のたぐいのように感じて、あまり身近な怖さには感じなかったように思う。ただし、水面からニュッと突きだされる白い手の印象は、大人になるまでずっと強く残っていた。
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 そんな大川の、昔から語り継がれた怪談を思いだしたのは、気の進まない屋形船での宴会へ人数あわせで呼ばれ、つまらない時間をすごした平山夢明の怪談からだ。著者は、屋形がまっすぐ船宿へ帰らず河口を大まわりしたのを不可解に感じた。2011年(平成23)に角川春樹事務所から出版された『怖い本9』収録、「屋形船にて」から少し引用してみよう。
  
 船頭は短く刈り込んだ白髪頭をガリガリと引っ掻くと煙草に火を点けた。/暗い水面から明るい街の明かりを眺めるのは、妙な気分だ。/俺はそこ(屋形の屋根)に上がってみて初めて自分が船に乗っているんだという感じがした。/「なんで大回りしたの」/「うん、まあ、サービスだね」/「でも長く走れば、その分、油代もかさむでしょうに」/「まあな」/「でも、大したことないのか」/「そんなことはないけどな……仕方がないんだ。しきたりだから」/「しきたり?」/すると船頭がちょっと考え込むような顔をしてから「あんたならいいか」と云った。「さっき手をかけられちまったんだよ」/「て?」/「ああ、手だよ」船頭は煙草を持つ手をひらひらさせた。「船べりに手を掛けられたんだ」/俺は意味がわからなかった。/「川ってのは山と同じで古いもんだし、因果なもんだよ。だから俺らにはいろいろと言い伝えもあるし、守らなくちゃならないこともある」(カッコ内引用者註)
  
 舟べりに白い手をかけた亡者が、わたしが子どものころに聞いた怪談話を含め、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で猛火に追われ、大川に飛びこんだ人々Click!の誰かと想像するのはたやすい。だが、船頭が「古い」「因果」で「しきたり」という表現をしているのが、さらに古い時代からの伝承であることをうかがわせる。
 では、1923年(大正12)9月1日の関東大震災の犠牲者か、それともさらに古い明治期や江戸期の大火事、大地震、橋の崩落Click!などで犠牲になった人々なのか、「因果」や「しきたり」になるぐらいだから、明治に入ってからの話ではないのかもしれない。
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 1657年(明暦3)の明暦大火では、10万人が犠牲になったと伝えられるが、その犠牲者の中には火炎の熱さに耐えきれず、大川に飛びこんで溺死した死者も多く含まれる。千代田城Click!の外濠にあたる浅草御門(浅草見附=浅草橋)Click!が焼け落ち、外濠(神田川Click!)へ飛びこんだ人々が大川に流されて溺死した話も、江戸初期から延々と伝わっている。神田川の出口に架かる柳橋は、明暦大火で迫る火災から逃げ場を失い、大川へ飛びこんで大量の溺死者をだした教訓から架けられたのがはじまりと聞いている。
 いずれにしても江戸東京は、特に(城)下町=旧・東京15区は、どこかのWebサイトのようにポツポツと炎アイコンが貼られるような中途半端で生やさしい地域ではなく、生きたくても生きられなかった人々の阿鼻叫喚の声が満ちる、都市や河川・海が丸ごと「事故物件」のような土地がらなのだ。だから、その市街地(陸上)を離れ流されていった人たちの怨嗟が、川や海に宿るのもむべなるかなの地域であり、舟べりをつかむ手が現れて陸(街)へ帰りたがっている怪談を聞いても、なんら不自然さを感じずに「そりゃそうだろうね」と、自然に納得してしまうようなリアリティをおぼえるのだ。
 屋形が警笛を鳴らし、急に減速したのを思い出しながら、著者は船頭の話を聞きつづける。同書収録の「屋形船にて」より、再び少し長いが引用してみよう。
  
 「あそこは減速しちゃいけねえんだ。あの瀬はね。一気に越さないと女が川のなかから手を掛けてくるし、そのまま戻ると船宿まで連れて帰ることになるから、振り落とすには少々遠回りしなくちゃなんないんだ」/船頭は笑っていなかった。何か詰まらない話をしているといった風情で淡々とそう話した。/「女は死んでる?」/すると船頭は俺をじっと見た。/「生きてる女を振り落としたら人殺しだよ。この川はそういう謂れが多いんだ。勿論、無視するのもいるけどね。そういうのは大抵、暫くすると店を畳むね。この商売にはそういう畏れをきちんと感じていなけりゃならない部分があるんだ。なにしろ水の上で売(ばい)を打つってのは天に身を任せて稼がせて貰ってるようなもんだから……あの女も遊女なんだか、戦争で逃げ遅れた人なんだか、はたまたもっともっと昔の古い因縁なんだか、詳しいことは私らも知らない。ただ、舳先を摑まれたら遠回りして捨てる、これは親父の代のそのずっと前からやってることでね」/「見たんですね」/「ああ、あの瀬で前のトロいプレジャーボートが前を横切りやがったんで減速せざるを得なかった。そのとき、白い手が舳先を握るのをカミさんが見たんだ」(カッコ内引用者註)
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 わたしは子ども時代に何度か、大人になってからも4回ほど大川の屋形には乗っているけれど、いまだ舟べりに白い女の手がかかり、航路を遠まわりして帰った憶えはない。いや、わたしが気づかないだけで、天ぷらや刺し身を食いながら談笑する間、船頭が白い手を振り払おうと必死に舵とりをしてたのに、気づかないだけだったのかもしれないのだが。

◆写真上:柳橋の下をくぐりながら、上流の浅草橋(浅草見附)方面を眺める。
◆写真中上は、江戸期から曽々祖父母の世代までが目にしていた1893年(明治26)撮影の柳橋から大橋(両国橋)の眺め。大橋の位置が、現在より40mほど下流に架かっている。は、曽祖父母の世代が目にした大震災前の大橋。は、屋形が舫う柳橋から大橋を眺めた祖父母からわたしまでの世代が目にしている現状。
◆写真中下は、柳橋から浅草橋方面を眺める。中上中下は、柳橋たもとの小松屋の屋形乗り場と店舗。は、浅草橋北詰めの田中屋。
◆写真下は、柳橋から浅草橋を眺めた現状。中上は、黄昏の大川に屋形船が繰りだす。中下は、大橋(両国橋)から見る夜の大川で右端が日本橋中学校Click!(旧・千代田小学校Click!)。は、1960年代までとは異なり夜になるとひっそりとしてしまう柳橋の電飾。

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大泉黒石『預言』に展開する目白風景。 [気になる神田川]

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 これまでエッセイ類はともかく、小説に描かれた落合地域やその周辺の風景をなぞるような記事は、ほとんど書いてはこなかった。基本的に小説(フィクション)に描かれたものは、大なり小なり粉飾されている可能性が高いので、実際の風景との混同を避けるために取りあげていない。例外的にご紹介したのは、上落合850番地→842番地Click!に住んでいた尾崎翠Click!が散歩をしていたらしい道筋の風景を描いたとみられる、1931年(昭和6)に婦人誌「家庭」に発表された『歩行』Click!のコースと、「はははは、明智君」Click!江戸川乱歩Click!が舞台に選んだ、山手線の東西にまたがる戸山ヶ原の風景だ。
 今回、めずらしく取りあげるのは、1923年(大正12)前後にかけて執筆されている、大泉黒石Click!の小説『預言』だ。もちろん内容にも触れるので、これから『預言』を読もうと思っている方は、一部ネタバレになるのでぜひページ移動していただきたい。まるで、日本にドストエフスキーが出現したら、こんな作品を書いただろうと思わせる、当時の文壇=「私小説」家の群れとはまったく無縁な物語となっている。
 小説の主人公は、音楽学校のヴァイオリン科に通う「麟太郎」という青年だが、彼が天文学者の父親といっしょに住んでいるのが目白台の邸宅であり、その目白崖線のバッケ(崖地)Click!下を流れる旧・神田上水を、「俤橋」(面影橋Click!:黒石は同橋の史的な地元の記録を踏まえたうえで「俤橋」Click!と書いている可能性が高い)から、下落合寄りの上流へとたどった先にあるのが、恋人「千代子」の石門のある大きな屋敷という設定になっている。つまり、わたしもときどき散歩をする、下落合の東側に隣接した神田川沿いの高田地域や目白台(目白山Click!)地域一帯が、『預言』の舞台となっているのだ。
 『預言』は、先にドストエフスキーばりの作品と書いたが、もうひとつのテーマとして、大正中期の時点では最先端だった天文学の学術的な成果が積極的に紹介されている、「天文小説」とでも表現できる内容となっている。これは、明治末(1910年)にハレー彗星が地球へ大接近したせいで、さまざまな予測や流言飛語が世界規模で拡がり、天文学に関する興味が一気に高まったという世相もあるのだろう。
 『預言』には、当時の天文学界では大きな話題を呼んでいたラプラスやシャプレー、チェンバレン、ゼリガーなどの学説、あるいは数学者のポアンカレ、来日して間もないアインシュタインや、フランスで流行していた哲学者・ベルクソンまでが登場している。その絶望的な予測、いわば「大宇宙の黙示」(本文中)から人間はなにをしても、あとは宇宙の塵芥となる運命にあるので無意味だという、ひどく虚無的でペシミスティックかつアナキズム的な思想の経糸が、音楽的にいえばコントラバスの通奏低音のように、天文学者の口を通じて語られつづけることになる。
 ちなみに、その当時は「暗星」と名づけられていた宇宙の現象が、突然に観測圏外から出現して地球に衝突する危惧のある暗黒星なのか、アインシュタインの一般相対性理論から想定された「シュヴァルツシルト解」にみる今日的なブラックホールなのか、または太陽観測で漸次拡大して地球に近づいているように見える黒点の観誤りであるのかは定かでないが、おそらく衝突すると地球は塵芥になって宇宙空間に飛び散るので、人類はたちどころに滅びると書かれていることから、「暗星」=暗黒星ないしは突然現れる観測困難な大型彗星のことではないだろうか。『預言』は多彩な学術領域をまたいだ、大泉黒石Click!の視野の広さを知ることができる作品でもある。
 さて、主人公の音楽学校に通う麟太郎が、天文学者の父親と住む屋敷は目白台のどのあたりだろうか? 物語は、大正初期から関東大震災Click!が起きた翌年の、いまだ余震がつづく1924年(大正13)早々の大雪が降る時候までが描かれている。麟太郎が小学生のとき、雑司ヶ谷鬼子母神寄りの「この町から五、六町ばかり離れた小学校に」通っていたとあるので、この学校は当時の所在地でいうと高田町(大字)雑司ヶ谷(字)古木田455番地にあった、高田(第一)尋常小学校(現・雑司が谷公園敷地)のことだろう。
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 そこから「五、六町」、つまり550~650m「ばかり離れた」小石川区目白台というと現在の目白台2~3丁目あたり、ちょうど歌人・窪田空穂Click!邸跡か、西洋古代史学の村川堅固邸(現存)あたりということになる。ちなみに、高田大通り(目白通り)Click!を南に越えた目白崖線沿いの“目白台”は、この時代には小布施邸や細川邸Click!などの大屋敷が建ち並んでいて、『預言』で描写される周辺風景としては合致しない。
 だが、麟太郎は卒業まで高田(第一)尋常小学校にいたわけではなく、のちに千代子のあとを尾けて雑司ヶ谷鬼子母神の森を抜ける描写が登場するように、途中で高田第二尋常小学校へ移籍しているとみられる。これは、当時の雑司ヶ谷地域が急速に市街地化し人口が急増していたからで、高田(第一)尋常小学校だけでは生徒を収容しきれず、途中から高田第二尋常小学校が創設されて生徒を大量に分散させている。『高田町史』(高田町教育会/1933年)によれば、1916年(大正5)に高田第一小学校の4年生以下の生徒346人を、高田第二小学校に収容して開校している。このとき、麟太郎も千代子も雑司ヶ谷鬼子母神の北西にあたる同小学校へ移動になった可能性が高い。
 この経緯は、おそらく大泉黒石の長男・大泉淳Click!あるいは二男・灝の小学生時代に雑司ヶ谷で経験した事実なのだろう。では、高田第二小学校からの下校時、麟太郎が惹かれる少女・千代子のあとを尾ける様子を、『預言』(緑書房全集/1988年)から引用してみよう。
  
 或る日、私は思い切って、学校の帰りに彼女の後をつけて行った。学校の前の鬼子母神の森をぬけて、狭い坂を下ると朽ち破れた古い橋があった。それは俗に俤橋といった、(ママ) 橋の袂には、太田道灌で有名な山吹の里の跡があった。堤の下には江戸川がゆるやかな渦をまいていた。その流れに沿って二丁ほど高田馬場へ向かってさかのぼると、小さい山栗の林があった。その林の陰に、古くはあるけれども、かなり大きな石の門構えの家がたった一軒あった。彼女はこの門をくぐって消えた。ここに住んでいるのだ。私はしばらく林の中を迂路ついた。それから、彼女の家の裏手に出た。そこは先刻の川が小さい淵となり淀んでいた。人を乗せた底の浅い船が往ったり来たりした。私は汀に下りてその家の真裏に出た。どこから流れてくるのかわからないが、地底の水を吐き出すために造られた大きな鉄の水門が、石垣の真ん中にあった。
  
 ふたりは、高田第二小学校から鬼子母神境内の杜を抜け、北辰社牧場Click!を右手に見ながら表参道を南下しているのがわかる。そして、高田農商銀行Click!などのビルが建ちはじめた賑やかな高田大通りをわたると、角の交番Click!の脇から旧・鎌倉街道である宿坂Click!を下っていった。坂の左右には根性院Click!金乗院Click!、南へ向かう道筋のクラックをすぎれば南蔵院Click!高田氷川社Click!を左右に見て、ほどなく北詰めに山吹の里碑のある面影橋Click!へとさしかかる。橋をわたれば、牛込区戸塚町の(字)バッケ下Click!へと出ることができた。
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 文中に「江戸川」とあるのは旧・神田上水Click!のことで、江戸期からの「江戸川」は、もう少し下流にあった大洗堰Click!より外濠の出口に架かる舩河原橋Click!までの川筋のことだ。(旧・神田上水と江戸川は1966年より全流域が「神田川」に統一) また、「高田馬場」とあるのは、幕府の練兵場だった高田馬場Click!跡ではなく山手線の高田馬場駅Click!の方向、つまり旧・神田上水をさかのぼった下落合寄りの位置ということになる。当時は交通手段として、掉さす底の浅い猪牙舟が川を往来していた様子がわかる。
 大正期の前半には、面影橋から「二丁ほど」=220m前後のところに『預言』に描かれたような石門の大きな屋敷は存在していない。旧・神田上水沿いには土手がつづき、その両岸は一面が水田地帯であり、千代子の家が旧・神田上水の北岸だとすると(麟太郎が面影橋をわたったとは書いてないので)、田圃の中を早稲田変電所Click!へと向かう高圧線鉄塔Click!が、東西に連なっているような風景だった。
 また、1921年(大正10)ごろになると川沿いには家々がポツポツ建ちはじめるが、それではふたりの小学生時代とは情景が一致しない。1923年(大正12)ごろに麟太郎と千代子が19歳だとすると、どうしても上記の風景描写は1916年(大正5)前後でなければ話があわないことになる。川に面した「鉄の水門」は、灌漑用水の出口として高田町(字)稲荷前あるいは(字)八反目に拡がる、水田の随所に見られただろう。
 麟太郎は、旧・神田上水の土手側にある屋敷の石垣で、千代子を母親に内緒で呼びだすために葦笛を吹くようになるが、その葦については「江戸川の土手の、あの目白と高田馬場との中間に、たくさん生えていましたが、今はもう、すっかり拓けて、おまけに少しぐらいあっても、水が濁っちゃって駄目です」と後年、父親や叔父に説明している。そのころの葦が繁った「目白と高田馬場との中間」風景は、織田一磨Click!が明治末に描いた『高田馬場附近』Click!(1911年)で想像することができる。
 目白駅と高田馬場駅の中間、つまり高田町と下落合の境界が入り組んだ、山手線の線路土手の東側あたりに葦が密生し、そこで葦笛の材料を調達していたことになっているが、これだと千代子のいる家からかなり川沿いを西(上流)へとさかのぼらなければならない。このあたり、クライマックスへとつづく物語の“展開”を考慮すれば、大泉黒石はことさら千代子の家を面影橋から下落合との間を流れる旧・神田上水沿いのどこかと、意図的にボカしておきたかったのではないだろうか。
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 このあと、麟太郎は他者の罪をかぶって死刑囚となるのだが、収監された巣鴨監獄から関東大震災の余震で崩れたレンガ塀を脱出し、旧・神田上水沿いの千代子の邸まで逃げてくる。そして、そこでは思いがけない展開が待っていた……ということで、『預言』を貫くテーマが一気に語られるのだが、それは実際に本編を読んでからのお楽しみということで。

◆写真上:1910年(明治43)に地球へ接近し、世界を混乱に陥れたハレー彗星。1986年(昭和61)にも再びその姿を見せたが、76年前ほどの迫力はなかった。
◆写真中上は、大泉黒石も目にした1923年(大正12)撮影の目白台からの眺め。は、1919年(大正8)撮影の高田大通りで右に見えるビルは高田農商銀行Click!は、1935年(昭和10)撮影の芭蕉庵で手前は旧・神田上水(上)と芭蕉庵の現状(下)。
◆写真中下は、目白台に残る古い屋敷群。中上は、高田大通り(目白通り)から面影橋へと抜ける鎌倉街道の宿坂。中下は、面影橋の北詰めにある太田道灌Click!「山吹の里」Click!記念碑。は、1919年(大正8)に撮影された改修後の面影橋。
◆写真下は、1916年(大正5)に作成された1/10,000地形図にみる麟太郎が尾行した千代子の下校コース。は、1921年(大正10)に作成された同じ地域の地形図。
おまけ
 物語では天文学者の父親とともに、麟太郎が住んでいたと想定された目白台の一画で、上は窪田空穂邸があったあたりと、下は西洋史学者の村川堅固・村川堅太郎邸。
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ようやく見つけた一枚岩(ひとまたぎ)の写真。 [気になる神田川]

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 江戸期から神田川の名所のひとつだった一枚岩Click!を、わたしは「いちまいいわ」と読みそう呼んでいたが、地元では一枚岩と書いて「ひとまたぎ」と読み、また大正期までそう通称されていたようだ。取材不足で、とても恥ずかしい。
 証言が掲載されているのは、大正期から月見岡八幡社Click!の宮司をつとめていた人物の絵画や写真などをまとめた、1980年(昭和55)出版の守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』(非売品)だ。月見岡八幡社が、1962年(昭和37)に現在地へと遷座する以前、旧・八幡通り沿いClick!に面していたころの情景や写真類をまとめたもので、当時の同社は新・八幡通りや落合下水処理場Click!に境内東側のほとんどを大きく削られる以前なので、かなり広大な社域を有していた。同書では、前方後円墳Click!のようなかたちや地形をしていたと、著者自身が書きとめている。
 一枚岩(ひとまたぎ)があったのは、旧・神田上水(1966年より神田川)と北川Click!(井草流→現・妙正寺川)が落ち合う地点のわずかな下流域で、その読み方の通り、上落合村や上戸塚村のある神田上水の南側から、北側の下落合村へと抜けるとき、川中に露出した一枚岩を足場に“ひとまたぎ”でわたれたからだろう。わざわざ落合土橋Click!(比丘尼橋Click!→現・西ノ橋)へ迂回しなくても、ひとまたぎ(実際は対岸へ助走をつけた“ふたまたぎ”か?)で川越えできるのだから、かなり便利だったにちがいない。
 大正期に撮影された写真を見ると、江戸期に出版された市古夏生『江戸名所図会』Click!の挿画を担当した長谷川雪旦Click!の写生が、なかなか写実的だったことに気づく。ただし、一枚岩の大きさや水流の迫力を強調するためにか、人物はやや小さめに描かれていそうだ。もっとも、岩盤は川の流れで徐々に浸食されつづけているので、江戸期よりはそのサイズがかなり小さくなっている可能性が高い。
 写真は戸塚町側(現・高田馬場3丁目)から北西を向いて撮影されたと思われるが、長谷川雪旦の挿画は逆に下落合村側から西南西を向いて写生されているとみられる。写真にとらえられている流れもそうだが、当時の旧・神田上水や妙正寺川の川筋は、現在とはまったく異なっている。1935年(昭和10)前後に相次いで行われた直線整流化工事によって、蛇行を繰り返していた両河川は直前状に、あるいはカーブの角度をできるだけゆるやかにして氾濫を防止するコンクリートの護岸が構築されている。その際、一枚岩(ひとまたぎ)は取り除かれるか、干された川筋ごと土砂で埋められて姿を消した。
 1791年(寛政3)に完成した『上水記』Click!や、1852年(嘉永5)の『御府内場末往還其外沿革図書』Click!など江戸期の資料を参照すると、旧・神田上水や妙正寺川の川筋は大正期までほとんど変化のないことがわかる。その川筋を前提に一枚岩があった正確な位置は、1983年(昭和53)に上落合郷土史研究会から出版された『昔ばなし』Click!(非売品)の古老証言によれば、現在の西武線・下落合駅の南東側に位置する同鉄道の変電施設のあたりということになる。おそらく、直線整流化工事が行われる以前の、旧・神田上水と妙正寺川とが合流していたポイントの、ほんの少し東側(下流)ということになる。ということは、『江戸名所図会』の「落合惣図」に描かれた位置も、かなり正確だったことに気づく。
 『昔ばなし』から、一枚岩(ひとまたぎ)の箇所を一部引用してみよう。ちなみに、1824年(文政7)に書かれた『落合八景略図』は、残念ながら未見だ。
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 また文政七年の「落合八景略図」(中村多喜蔵氏所蔵)にも「落合一枚岩」の図が書かれている。そしてその図の横に/水音も 岩おに居茶や 堀の道/千鳥なく 川辺にかへる むれ鷹の/岩おに とまる 姿との 追風/と書いてあるそうです。この一枚岩は、神田川と妙正寺川の合流点に在った。(中略) 何れにしてもこの一枚岩附近の流れは奇景であり、江戸時代の風流人が集り来てこれを眺め、杯を交わし清遊したのでしょう。さて、落合の一枚岩は何所の辺に在ったか? と言うと、下落合駅の下りホームの高田馬場よりの所に小さな変電所があるあの辺らしいと言われている。
  
 さて、『移利行久影』には大正末か昭和初期に撮影された、旧・神田上水と妙正寺川の合流点の写真も収録されている。もちろん、この合流点も直線整流化工事で場所がまったく変わってしまい、工事以降は本来の位置から180mほど下流で両河川は合流していた。旧・神田上水は、それなりに幅があって河川と呼ぶにふさわしい流れだが、妙正寺川はまるで小川で、橋などわたらなくても対岸へは(男なら)ひとっ飛びでわたれただろう。
 同じく、妙正寺川を写した写真に「どんね渕附近」という1葉がある。「どんね渕」があったのは、落合土橋(比丘尼橋→現・西ノ橋)のわずか上流で、地番でいうと上落合275番地あるいは下落合1110番地あたりの流域だ。この「どんね」とはどういう意味か、しばらく考えてしまった。最初は、原日本語か古朝鮮語を疑ったが、おそらく古い江戸東京地方の方言ではないだろうか。「どんね」は、本来「どんねえ」と発音されていたはずで、「どうむねえ(どうもない)」が転訛した簡略(省略)形のように思われる。
 つまり、「どうもない」=「どうもしない」「大丈夫」「なんともない」という意味で、地名に当てはめられれば「たいしたことない(危険でない=小規模な)渕」という意味になる。小流れの妙正寺川にある渕は、確かに旧・神田上水の溺死者がでる危険な渕Click!に比べれば、川底に引きこまれる恐れもない流れの小さな渦で(そもそも川底には子どもでも足が着いたろう)、ぜんぜん危なくない「どんねえ」渕だったにちがいない。
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 妙正寺川の様子を、『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)から引用してみよう。
  
 妙正寺池から流れる小川に「トゲの魚」という巣を作る小魚が棲んで居りました。徳川将軍代々、この川は魚釣をする川とやらで、昭和の初め頃まで随分魚が獲れました。また「ホタル」や「川うそ」も明治の頃まで居たそうです。「川うそ」はたんぼに穴を掘ったり、魚を獲る網にいたずらをしたそうです。上野の戦争の時、彰義隊の雑役夫として、此の土地の若い男が連れていかれる!という噂が拡がって若い男達はこの川に入って筵をかぶってかくれたそうです。
  
 江戸期には、神田上水での釣りは禁止されていたが(それでも水道番Click!の目を盗んでは釣りをしていたようだが)、そのぶん支流である妙正寺川は大っぴらに魚釣りが許可されていたようだ。ニホンカワウソClick!は、妙正寺川の随所に棲息していたようで、さらに上流の和田山Click!付近でも頻繁に目撃された記録が残っている。また、彰義隊Click!の「雑役夫」のウワサは、もちろんデマだ。
 『移利行久影』にはもう1葉、上落合の旧・神田上水沿いに展開した工場地帯で、頻繁に火災が起きた前田地区Click!付近をとらえた写真が収録されている。大正末から昭和初期にかけての、旧・神田上水の規模や流れがわかる貴重な写真だ。旧・神田上水の蛇行の形状から、左側の煙突は前田地区にあった佐藤製薬工場の焼却炉かなにかで、対岸に見えているのはおそらく戸塚町の住宅街だろう。
 だとすれば、旧・神田上水の流れは画面の右手、すなわち東側へ直線状に大きく修正され、画面に写る流れ全体が埋め立てられることになる。そして、1937年(昭和12)になると埋立地の地番となる上落合1丁目136~141番には、明星尋常小学校Click!(現在は上落合の落合水再生センターClick!内)が建設されている。
 こうして見てくると、旧・神田上水や妙正寺川の蛇行修正で、落合町と戸塚町の町境や上落合と下落合の大字境が随所で入れ替わり、修正されていることに改めて気づく。面白いのは、落合町と戸塚町とでは、整流化された旧・神田上水が町境としてほぼきれいに設定できているのに対し、高田町と戸塚町とでは旧・神田上水の蛇行した工事前の流れがそのまま町境となっており、随所で神田川の此岸や対岸で高田町と戸塚町とが飛びとびに入り組んでいるのは、当時もいまも変わらない。やはり、町境以前に豊島区と淀橋区の区境ということで、どうしても話し合いがつかず双方で譲らなかったものだろうか。
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守谷源次郎宮司.jpg 移利行久影奥付.jpg
 『移利行久影(うつりゆくかげ)』には、これまで空中写真や地図でしかうかがい知ることができなかった、かけがえのない貴重なスケッチや写真が数多く収録されている。上落合地域に、昭和初期ごろまで残されていた多彩な古墳群にも言及されており、その調査には鳥居龍蔵Click!も参加している。また機会があれば、ぜひご紹介してみたい重要な記録だ。

◆写真上:大正期に撮影されたとみられる、旧・神田上水の一枚岩(ひとまたぎ)。
◆写真中上は、一枚岩の全景。は、『江戸名所図会』の長谷川雪旦が描く一枚岩で、まだ浸食がそれほど進んでいないのがわかる。は、1858年(安政5)の『御府内場末往還其外沿革図書』へ「一枚岩」と「どんね渕」のおおよその位置を記載。
◆写真中下は、現在の空中写真と『御府内場末往還其外沿革図書』(「江戸~東京重ね地図」より)を重ね合わせた透過図。は、大正末ごろの妙正寺川と旧・神田上水が落ち合う合流点。一枚岩(ひとまたぎ)は、この合流点からわずかに下流(画面では右手枠外)の位置にあった。は、西ノ橋のやや上流にあった「どんね渕」あたり。
◆写真下は、前田地区を流れる直線整流化工事前の旧・神田上水。は、1980年(昭和55)に出版された守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影』(非売品)。下左は、同書の著者である月見岡八幡社の故・守谷源次郎宮司。下右は、同書の奥付。

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古墳とタタラの痕跡が散在する片山の丘。 [気になる神田川]

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 以前ご紹介した、落合町上落合(字)四村と野方町片山にまたがる野方遊楽園Click!の、南西160mほどのところに陸橋ファンなら一度は訪れる有名な「片山陸橋」がある。大きく蛇行する妙正寺川沿いの丘陵を切り拓き、中野通りを貫通させたせいで通りの両側は約7~8mの断崖絶壁となり、通りをわたるにはいちいち絶壁を下りて再び上らなければならなくなった。そこで、断ち切られてしまった丘同士をつなぐ手段として、片山陸橋が設置されている。現在の、松が丘1丁目と2丁目の住宅街を結ぶ陸橋だ。
 この片山地域に連なる、妙正寺川を三方から見下ろせる半島状の丘陵地形が興味深い。片山に通う坂は、江戸期から5本を数えたようだだが、その斜面から続々と埋蔵文化財が発見されているのは、落合地域の目白崖線と同じだ。片山村は、朱引墨引が大きく拡大した大江戸(おえど)Click!時代(文政期以降の江戸後期)の、朱引外(しゅびきそと)に隣接する村だが、早くからから拓けており応永年間の板碑が地中から数多く見つかっている。
 和田山Click!(井上哲学堂Click!の丘)の近くなので、付近から見つかっている鎌倉期の住居遺跡や、『自性院縁起』Click!などの伝承や説話をベースに考えれば、平安末から鎌倉期にはすでに拓かれ、開墾が行われていた可能性が高い。地元の古老は、和田山の東側を北上する街道筋を昔から「鎌倉みち」と呼んできたので、当時敷設された鎌倉街道の支道のひとつととらえてもなんら不自然ではない。片山村から発見された、応永年間を含む10数枚の板碑だが、下落合の本村Click!(七曲坂Click!の坂下)で発見された鎌倉時代の板碑(薬王院蔵)と同様、どこかに鎌倉期のものが未発見のまま埋もれている可能性がある。
 また、さらに古い時代の伝承として、隣りの江古田地域には鎌倉期の入植記憶が残されている。「江古田の草分け」と称される深野家では、初代は「対馬」という姓で入植し、鎌倉期には佐渡へ流される日蓮一行が宿泊したという説話が残っている。また、江古田にある第六天Click!(江古田氷川社に合祀)は、和田義盛の子・小太郎磯盛が勧請したという伝承もあり(後世の付会とみられるが)、この地域と鎌倉との間になんらかの深いつながりがあったことをうかがわせる。だが、きょうのテーマはその時代ではない。
 この一帯の「草分け」は、もちろん鎌倉期でも室町期でもなく、同地域から数多くの遺跡が発掘されている縄文期、さらに弥生期に生きた人々だ。片山地域の丘陵からは、縄文早・前・中・後期の土器(中には破片ではなく、細頸壺型や深鉢型など完品が発掘されている)や新石器が、時代ごとにまんべんなく出土しているが、現在は住宅街の下で発掘できないものの、下落合の目白学園Click!学習院Click!キャンパスと同様に旧石器時代の遺物も眠っているかもしれない。旧石器時代から現代まで、人が絶え間なく住みつづけている重層遺跡Click!は、東京西北部の丘陵ではとりたててめずらしくない。
 きょう取りあげたいテーマは、弥生期からもう少し時代が下った片山地域の姿だ。同地域にもまた、古墳の遺跡や伝承が多く存在している。1955年(昭和30)に片山の地元で出版された、熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品)から引用してみよう。
  
 片山の先史時代の遺物や遺跡は、丘陵の西方並に北方の斜面及び低地から掘り出された。縄文式土器石斧石屑竪穴式住居がそれであって、高地には防禦の為築いたと思われる砦跡も発見された。原始時代の遺跡として文献に残るものは片山西南方高地の高塚式墳跡と、丘陵西側の横穴式古墳の遺跡とのことであるが、其の所在地に就ては詳かでないが、私の幼少の頃二一二三番地路傍に行人塚とて、小高い塚があったが或は夫れが、高塚式の古墳で有ったかと思われる。
  
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 文中にある縄文期の遺物と、高地(丘上)で発見された防禦のために築かれた「砦跡」が、今日から見れば同時代のものとは思えないが、著者が疑わないのは戦前からの「皇民化」以前の時代は一括して「原始時代」と呼ぶ、皇国史観Click!による「日本史」教育を受けていたからだろう。今日の科学的な史観からいえば、自国の歴史にあえて泥を塗るような「自虐的」な史観は受け入れられない。
 つづけて、砂鉄から目白(鋼)Click!の精錬はもちろん、刀剣の折り返し鍛錬Click!の技法を獲得し、金象嵌の技術さえあった古墳時代さえ「原始時代の遺跡」(おそらくヤマトに「まつろわぬ蛮族」=「坂東夷」が跋扈していたという、史実に反する「自虐」史観なのだろう)と書いているが、ここで興味深いのは片山地域には大きめな「高塚式」の古墳と、横穴古墳
Click!の双方が存在していることだろう。横穴式の古墳は、埋葬法が簡易化Click!していく古墳時代の後期から末期、あるいは奈良時代の最初期に見られる埋葬法だが、「高塚式」のものはそれ以前の、より古い時代の古墳を想起させる。これらの古墳は、かなり以前に崩され農地開墾や宅地開発などで消滅しており、詳しい調査記録が存在しない。
 同書では、「片山西南方高地」と書かれているが、1943年(昭和18)に出版された『中野区史(上巻)』(中野区役所)では、同古墳は「片山東南方高塚墳」と記録されており、片山の東西で方角ちがいのようだ。『中野区史』が正しいとすれば、片山村の「東南方」にある「高地」とは、上高田村との境界も近い片山村の東南部、現在の松が丘1丁目の南部に位置する高台から斜面にかけてだろう。
 この高台から北西に抜ける道は、現在は新井薬師前駅Click!から北口商店街の道筋となっているが、江戸期以前から存在するとみられる古道だ。この街道は、片山の丘陵を東南から西北に抜けて貫通するが、丘を下り妙正寺川沿いに北上する右手(東側)=西向きの崖地からは、片山西側横穴墳が発見されている。そして、妙正寺川に架かる橋(大正期以前は通称「石橋」=現・沼江橋)をわたると下沼袋村から江古田村へと抜けることができる。
 この古い街道筋の一部には、丘陵を西へと下る斜面の一部にクネクネと、まるでなにかを避けるように刻まれた坂道の半円形カーブが、江戸期から変わらず現在でもそのままの形状で残されている。ちょうど片山村の東南部、古い地番では片山2114~2137番地界隈、現在の住所だと松が丘1丁目20~25番地あたりになる。地勢的に見れば、妙正寺川を西側に見下ろす南西向きの丘上、あるいは丘の西側斜面ということになるが、『中野区史』が記録する「片山東南方高塚墳」は、片山村の東南にあたるこの一帯に存在したのではないだろうか。
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 また、文中に登場している片山2123番地界隈にあったとされる「行人塚」も、地番的にはこの界隈と一致している。麓にサークルの半円形のカーブがつづく、丘上の北寄りの一画だ。「行人塚」は、地番からいえば上記の街道筋から少し離れた丘上にあったとみられるので、もしそのサイズが大きなものでなかったとすれば、主墳に付随する陪墳のひとつが残っていたのかもしれない。
 「行人塚」という名称は、江戸期以前に村で死去した他所者、すなわち行き倒れや旅人を合葬した塚墓なのだが、調査をするとベースが古墳である事例が多く、「行人塚古墳」と名づけられた遺跡が各地にあり、以前から古墳地名のひとつとなっている。中世や近世の村落には、いまだ古墳時代の禁忌伝承Click!屍家(しいや)伝説Click!が残っており、大小の塚が古い時代の墳墓であることを伝え聞いて認知していたとみられる。
 さて、「片山東南方高塚墳」界隈の古い街道筋を実際に歩いてみると、片側に崖地がつづく“ヘビ道”のような、半円を描くような昔ながらの道筋がそのまま残されているが、昭和初期の写真にとらえられている丘上の墳丘を思わせる盛り上がりはすでに破壊され、平面にならされた住宅街と広い駐車場になっている。1947年(昭和22)の空中写真まで、墳丘とみられるサークル状の盛り上がりはそのままで、墳頂には見晴らしのよさそうな大きな邸宅が1軒、ポツンと建てられているだけだった。したがって丘上が整地され、改めて住宅地として開発されたのはそれ以降のことだろう。
 また、落合・目白地域と同様に、片山でもタタラ遺跡Click!が発見されている。おそらく、平川(のち神田上水で現・神田川)から妙正寺川をさかのぼってきた産鉄集団がいたのだろう。ひょっとすると、山手通りの工事で見つかった、中井駅近くの妙正寺川沿いに展開したタタラ遺跡のグループと同一集団なのかもしれない。先述の、『中野区史(上巻)』(1943年)から引用してみよう。
  
 最後に鉄(金+宰の旧字)等の出土によつて製鉄遺跡と考へられるものは、包含層最下部に、鉄(金+宰)が一面に散布埋没して居り、中には一種のタゝラの底に附着したまま固まつたと考へられる様な形に湾曲したものもあつて、本区内に於て製煉の行はれたことを證明してゐる。之と伴つて多数の焼土、炭灰の類が出土し、鞴の火口と考へられる筒形焼土も同位置より出土してゐるので、之によつて製鉄遺跡であることは最も確実に證明せられる。(カッコ内引用者註)
  
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片山東南方高塚墳2.JPG
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 大量の鐡液(かなぐそ)や、溶鉄炉の火口や鞴(ふいご)跡まで見つかっており、おそらく下落合のタタラ遺跡も同じような出土状況だったのではないだろうか。ただし、下落合は戦時中の発見なのでたいした調査もなされず、山手通り工事によって破壊されている。わたしは下落合の事例も含め、近くの古墳から出土する鉄刀・鉄剣類Click!を踏まえると、それらは古墳期に近い時代のタタラ遺跡であり、製鉄(鋼=目白)痕ではないかと想定している。

◆写真上:陸橋ファンには有名な、松が丘1丁目と2丁目とをつなぐ片山陸橋。
◆写真中上は、1880年(明治3)作成のフランス式地形図にみる片山村。中上は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる片山界隈。中下は、昭和初期の片山地域。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる片山地域。
◆写真中下は、1955年(昭和30)出版の熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品/)と著者()。中上は、1941年(昭和16)撮影の「片山東南方高塚墳」があったあたり。中下は、戦後の1947年(昭和22)撮影の同所。は、1943年(昭和18)出版の『中野区史(上巻)』収録の遺跡リストに掲載された「片山東南方高塚墳」と「片山西側横穴」墳。
◆写真下は、3葉とも「片山東南方高塚墳」があったとみられる山麓に通う繰り返し蛇行する古い街道筋。途中で丘上に登る坂があるが、いかに修正されているとはいえその坂の傾斜を見ても、バッケ(崖地)Click!状の急斜面だった様子がしのばれる。は、戦後に同所の丘上が崩され整地された住宅街の様子。おそらく大量の土砂を運びだし、丘の上半分を削って平地の宅地面積を広げたとみられる。
おまけ
 上の2葉は、1938年(昭和13)に新青梅街道ができてから間もない片山(現・松が丘)風景。北西側から眺めた片山の丘陵で、周囲が妙正寺川沿いに形成されたバッケ(崖地)の急斜面だった様子がよくわかる。下の写真は、戦前に発掘調査が行われていた『中野区史』(1943年)収録の「沼袋氷川神社古墳」。以前、「野方町丸山に点在する古墳の痕跡」記事Click!では、沼袋氷川社は中小規模の前方後円墳(あるいは帆立貝式古墳)ではないかと想定していたが、事実、そのとおりだった。古墳の規模は、北側を住宅に南側を道路と西武線に削られているが、およそ100m弱ほどだろうか。この事実が大きく公表されなかったのは、戦前・戦中を通じての皇国史観によるものだろう。
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中野区史「沼袋氷川神社古墳」1943.jpg

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大隈庭園にある瓢箪型の突起地形。 [気になる神田川]

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 ずいぶん前に、早稲田大学キャンパスの南側にあった富塚古墳(高田富士)Click!を記事にしたとき、大隈重信邸Click!の庭にあった瓢箪型の突起について触れたことがある。戦前の学界では、「瓢箪型古墳」と呼ばれていた前方後円墳Click!だが、大名家や華族、おカネ持ちの庭園に古墳が崩されずそのまま残され、回遊式庭園の築山として活用されていたケースを、これまで拙サイトでも何度か取りあげてきている。
 たとえば、江戸期には土岐美濃守下屋敷の庭園築山にされ、明治以降は華頂宮邸の庭にそのまま残された亀塚古墳Click!をはじめ、水戸徳川家上屋敷の庭園(後楽園)に築山として残され、大正期に鳥居龍蔵の調査で古墳であることが判明した小町塚古墳、江戸期には松平摂津守下屋敷の庭園築山にされ、明治以降は「津ノ守山」と呼ばれ公園のようになっていた新宿角筈古墳(仮)Click!、大名屋敷ではないが寛永寺Click!境内に一時は五条天神社や清水観音堂が建立されたあと、築山のまま境内に残された上野摺鉢山古墳Click!、尾張徳川家の下屋敷庭園にされていた戸山ヶ原Click!から、羨道や玄室と思われる洞穴が出現し「阿弥陀ヶ洞」(洞阿弥陀)Click!にされていた事例や、隣接する洞穴だらけの高田八幡(穴八幡)Click!……などなど、例をあげれば十指にあまるだろう。
 冒頭の写真は、大隈重信邸の回遊式庭園にあったおそらく瓢箪型の突起の前で、1892年(明治25)ごろに撮影されたとみられるめずらしい記念写真だ。大隈重信Click!を中心に、東京専門学校(のち早稲田大学)の教師陣Click!を撮影したものだが、その背後に見えている小高い突起が大隈庭園の南東寄りにあった瓢箪型の突起地形だと思われる。もともと、明治期の大隈庭園には大小の築山がみられるが、これらが大隈邸の建設時に築山として造成されたものか、それとも元をたどれば松平讃岐守の高松藩下屋敷だった敷地なので、その庭園にあった築山をそのまま活かしたものか、正確には規定できない。
 ただし、松平家の庭をそのまま活用しているらしいことは、園内に江戸期よりあった茶室を改修している資料が見えるので、敷地の随所に見える突起地形(築山)や庭をめぐる小径も、おそらく当初のままなのだろう。それらの小丘には、それぞれ江戸期からつづいているとみられる、「天神山」Click!「地蔵山」「稲荷山」「躑躅山」「紅葉山」などの名称があったことも記録されている。これらの名称は、このサイトをつづけてお読みの方々なら、すぐに古墳地名がいくつか混じっていることにお気づきだろう。また、昌蓮Click!「百八塚」Click!に奉った祠と重ね合わせ、いくつかの「山」が昌蓮伝説の「百八塚」に含まれていたのではないか?……と想像される方もいるかもしれない。
 大隈邸の庭園の様子を、1931年(昭和6)に戸塚町誌刊行会から出版された『戸塚町誌』より引用してみよう。ちなみに、ここに描写された大隈庭園の風情は、大隈邸を含め戦災で焼けていないため、明治期とそれほど大きくは変わっていないとみられる。
  
 同所は旧高松藩主松平讃岐守の下邸にて維新後松本病院、英学校等の敷地となり、明治七年侯の所有に帰した、(中略) こゝを過ぎて大書院前に出ずれば、此の庭園の中心とも云ふべく四辺の風趣、真に天下の名園たるに反かざるを味ふ、仰げば地蔵山の老松は清流の上に蟠屈し、寒竹は山の裾を這ふて居る具合は正に一幅の絵画である、大書院に続いて侯の居間があり、其の北方に洋館の寝室がある(、)其れより十字路に出て小逕を西にすれば侯の母堂が居られた、後に久満子刀自の住まれた室、現侯爵夫人の居室に当てられた部屋及び小供室がある、こゝより天神山に出づる路に松見の茶屋がある、亭は松平家時代のものに侯が改築された茶室にて、瀟洒淡雅、常に外客を引見して国風の特色を示された(、)天神山には大隈家の祖先たる菅公廟がある、次いで稲荷山、躑躅山、地蔵山、紅葉山等、優麗清爽、閑雅幽寂なる景致を展べて、一日の清遊を楽むに充分である、(カッコ内引用者註)
  
 文中に「松本病院」とあるのは、松本順Click!が開業した「蘭疇医院」Click!のことだ。
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 多彩な「山」名が登場するが、大隈邸の北東側にある高めの小丘が「天神山」(現在はリーガロイヤルホテルの下)、池の東側にあるのが「地蔵山」(現在は大半が大学51号館の下)、そして南の瓢箪型をしたいちばん大きな「山」が、明治期から現在まで「紅葉山」と呼ばれていることが判明している。ただし、「稲荷山」と「躑躅山」が、残る突起地形のどちらを指すのかは、資料が見つからないので曖昧なままだ。
 1886年(明治19)に発行された1/5,000地形図に、はっきりと瓢箪型に採取された突起地形「紅葉山」のことを、大隈邸の建設以前(あるいは松平邸以前)からあった古墳ではないかと疑うのは、隣接して富塚古墳Click!(江戸後期には高田富士Click!にされていた)が存在すること、室町期からつづく昌蓮による「百八塚」の伝承が生まれた、大隈邸の門前に位置する宝泉寺の地元であること、このエリアは古くから戸塚地域(下戸塚村)と呼ばれているが、古い文献には「十塚」という漢字を当てはめた地名音が採取されていること、周辺の田畑開墾で出土した古墳の副葬品とみられる遺物が、付近の寺社に奉納されているエピソードClick!が多いこと……などなどの状況証拠からだ。
 さて、冒頭に掲載した東京専門学校の教職員たちが写る記念写真は、大隈邸の庭のどこで撮られたものだろうか。教員の中に夏目漱石Click!の姿が見られるので、1892年(明治25年)5月以降の撮影であることがわかる。この時期、夏目漱石は学費を稼ぐために、いくつかの学校で英語教師のかけもちアルバイトをしている。撮影は曇天の日和りだったものか、画面にクッキリとした陰影は見られないが、光線の加減からカメラマンの背後、または左手が南側のようだ。そう考えると、瓢箪型をした突起地形「紅葉山」の東側に、かっこうの撮影ポイントを見つけることができる。
 ちょうど、庭園の小径が左へとカーブし「紅葉山」の麓にあたる東側に、広場のようなスペースの芝庭が造成されていたあたりだ。カメラマンは、早稲田に拡がる田圃を背後に、西北西を向いてシャッターを切っていることになる。したがって、教職員たちの背後にとらえられた小丘は、「紅葉山」の瓢箪型地形から類推すると前方部が北を、後円部が南を向いているように見えるので、前方部の一部が写っていることになりそうだ。
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 記念写真のうしろ2列の人々は、写真館がセッティングした台の上に登っているとみられるので、前から2列目の地面に立っている人物の身長や、背後に写る小丘との距離を考慮すると、その高さはおよそ5~6mほどになるだろうか。もっとも、この突起状の地形が当初からまったく手を加えられず、そのままの姿で残されていたとは考えにくく、土岐美濃守下屋敷の亀塚古墳や、水戸徳川家上屋敷(後楽園)の小町塚古墳がそうであったように、造園師によって庭園の築山に見あうような形状に整えられた可能性を否定できない。瓢箪型の「紅葉山」全体を前方後円墳ととらえれば、そのサイズから想定できる前方部の高さは、もう少しあってもいいような感触があるからだ。
 「紅葉山」全体を南北に計測すると、およそ100m弱ほどの瓢箪型突起になりそうだ。上野公園にかろうじて残された摺鉢山古墳(残滓)の現状、あるいは多摩川沿いの野毛大塚古墳Click!などとほぼ同程度のサイズだが、そのケーススタディにしたがえば後円部の直径は70~80m、墳頂の高さは10m超ほどあったのではないだろうか。もっとも、大隈邸の庭園にする際、芝丸山古墳Click!や新宿角筈古墳(仮)のケースがそうであったように、後円部の墳頂を崩して平らにならし、前方部と同様の高さに整地しているのかもしれない。
 この瓢箪型の「紅葉山」は、かなり早い時期から崩されているとみられる。特に後円部は大学正門通り(早大通り)が敷設された1900年代の初期には消滅しており、早大通りと北側の沿道に並ぶ建物(商店街だろうか)の下になっている。そして、大正期に入ると古い大学講堂のリニューアルが計画されるが、関東大震災Click!で一度中断し、1927年(昭和2)になってようやく正門の正面に大隈記念講堂Click!が竣工している。現在は、瓢箪型の後円部が早大通りと大隈講堂の一部南東隅の真下に、前方部の大半は大隈講堂と大隈ガーデンハウスカフェテリア、さらに大隈講堂裏劇研アトリエの下になっているのではないかとみられる。
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 大隈庭園を散策すると、現在でも「紅葉山」の一部が残されていることに気づく。古墳でいうなら、前方部の北側にあたる部分だ。実際に丘上に立ってみると、5~6mではきかないかもしれない。後円部を崩す際に、その土砂を新たに前方部へ盛ったものだろうか。

◆写真上:1892年(明治25)ごろに撮影された、東京専門学校の教職員記念写真。
◆写真中上は、水戸徳川家上屋敷(後楽園)にある小町塚古墳。は、明治初年に撮影された後楽園の同古墳(左手の山)。は、現在まで残された紅葉山の山頂部。古墳だったとすれば、前方部の北端の一部が残されていることになる。
◆写真中下は、1886年(明治19)に作成された1/5,000地形図にみる大隈邸敷地の突起地形。同邸の庭園ばかりでなく、周辺には円形の突起物が数多く採取されている。は、1910年(明治43)の1/5,000地形図にみる大隈邸。早稲田大学の正門前から東へ伸びる、のちの早大通りや沿道の建物が建設され、紅葉山の大半が破壊されている。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる紅葉山があったあたり。は、1974年(昭和49)の早朝に撮影された後円部があったあたりの早大通り。は、現在の大隈庭園の北側から眺めた紅葉山の残滓(左側の樹木が繁る丘一帯が紅葉山の北端)。

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