SSブログ
気になる神田川 ブログトップ
前の5件 | -

ようやく見つけた一枚岩(ひとまたぎ)の写真。 [気になる神田川]

一枚岩(拡大).jpg
 江戸期から神田川の名所のひとつだった一枚岩Click!を、わたしは「いちまいいわ」と読みそう呼んでいたが、地元では一枚岩と書いて「ひとまたぎ」と読み、また大正期までそう通称されていたようだ。取材不足で、とても恥ずかしい。
 証言が掲載されているのは、大正期から月見岡八幡社Click!の宮司をつとめていた人物の絵画や写真などをまとめた、1980年(昭和55)出版の守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』(非売品)だ。月見岡八幡社が、1962年(昭和37)に現在地へと遷座する以前、旧・八幡通り沿いClick!に面していたころの情景や写真類をまとめたもので、当時の同社は新・八幡通りや落合下水処理場Click!に境内東側のほとんどを大きく削られる以前なので、かなり広大な社域を有していた。同書では、前方後円墳Click!のようなかたちや地形をしていたと、著者自身が書きとめている。
 一枚岩(ひとまたぎ)があったのは、旧・神田上水(1966年より神田川)と北川Click!(井草流→現・妙正寺川)が落ち合う地点のわずかな下流域で、その読み方の通り、上落合村や上戸塚村のある神田上水の南側から、北側の下落合村へと抜けるとき、川中に露出した一枚岩を足場に“ひとまたぎ”でわたれたからだろう。わざわざ落合土橋Click!(比丘尼橋Click!→現・西ノ橋)へ迂回しなくても、ひとまたぎ(実際は対岸へ助走をつけた“ふたまたぎ”か?)で川越えできるのだから、かなり便利だったにちがいない。
 大正期に撮影された写真を見ると、江戸期に出版された市古夏生『江戸名所図会』Click!の挿画を担当した長谷川雪旦Click!の写生が、なかなか写実的だったことに気づく。ただし、一枚岩の大きさや水流の迫力を強調するためにか、人物はやや小さめに描かれていそうだ。もっとも、岩盤は川の流れで徐々に浸食されつづけているので、江戸期よりはそのサイズがかなり小さくなっている可能性が高い。
 写真は戸塚町側(現・高田馬場3丁目)から北西を向いて撮影されたと思われるが、長谷川雪旦の挿画は逆に下落合村側から西南西を向いて写生されているとみられる。写真にとらえられている流れもそうだが、当時の旧・神田上水や妙正寺川の川筋は、現在とはまったく異なっている。1935年(昭和10)前後に相次いで行われた直線整流化工事によって、蛇行を繰り返していた両河川は直前状に、あるいはカーブの角度をできるだけゆるやかにして氾濫を防止するコンクリートの護岸が構築されている。その際、一枚岩(ひとまたぎ)は取り除かれるか、干された川筋ごと土砂で埋められて姿を消した。
 1791年(寛政3)に完成した『上水記』Click!や、1852年(嘉永5)の『御府内場末往還其外沿革図書』Click!など江戸期の資料を参照すると、旧・神田上水や妙正寺川の川筋は大正期までほとんど変化のないことがわかる。その川筋を前提に一枚岩があった正確な位置は、1983年(昭和53)に上落合郷土史研究会から出版された『昔ばなし』Click!(非売品)の古老証言によれば、現在の西武線・下落合駅の南東側に位置する同鉄道の変電施設のあたりということになる。おそらく、直線整流化工事が行われる以前の、旧・神田上水と妙正寺川とが合流していたポイントの、ほんの少し東側(下流)ということになる。ということは、『江戸名所図会』の「落合惣図」に描かれた位置も、かなり正確だったことに気づく。
 『昔ばなし』から、一枚岩(ひとまたぎ)の箇所を一部引用してみよう。ちなみに、1824年(文政7)に書かれた『落合八景略図』は、残念ながら未見だ。
一枚岩.jpg
長谷川雪旦「一枚岩」.jpg
御府内沿革図書1858.jpg
  
 また文政七年の「落合八景略図」(中村多喜蔵氏所蔵)にも「落合一枚岩」の図が書かれている。そしてその図の横に/水音も 岩おに居茶や 堀の道/千鳥なく 川辺にかへる むれ鷹の/岩おに とまる 姿との 追風/と書いてあるそうです。この一枚岩は、神田川と妙正寺川の合流点に在った。(中略) 何れにしてもこの一枚岩附近の流れは奇景であり、江戸時代の風流人が集り来てこれを眺め、杯を交わし清遊したのでしょう。さて、落合の一枚岩は何所の辺に在ったか? と言うと、下落合駅の下りホームの高田馬場よりの所に小さな変電所があるあの辺らしいと言われている。
  
 さて、『移利行久影』には大正末か昭和初期に撮影された、旧・神田上水と妙正寺川の合流点の写真も収録されている。もちろん、この合流点も直線整流化工事で場所がまったく変わってしまい、工事以降は本来の位置から180mほど下流で両河川は合流していた。旧・神田上水は、それなりに幅があって河川と呼ぶにふさわしい流れだが、妙正寺川はまるで小川で、橋などわたらなくても対岸へは(男なら)ひとっ飛びでわたれただろう。
 同じく、妙正寺川を写した写真に「どんね渕附近」という1葉がある。「どんね渕」があったのは、落合土橋(比丘尼橋→現・西ノ橋)のわずか上流で、地番でいうと上落合275番地あるいは下落合1110番地あたりの流域だ。この「どんね」とはどういう意味か、しばらく考えてしまった。最初は、原日本語か古朝鮮語を疑ったが、おそらく古い江戸東京地方の方言ではないだろうか。「どんね」は、本来「どんねえ」と発音されていたはずで、「どうむねえ(どうもない)」が転訛した簡略(省略)形のように思われる。
 つまり、「どうもない」=「どうもしない」「大丈夫」「なんともない」という意味で、地名に当てはめられれば「たいしたことない(危険でない=小規模な)渕」という意味になる。小流れの妙正寺川にある渕は、確かに旧・神田上水の溺死者がでる危険な渕Click!に比べれば、川底に引きこまれる恐れもない流れの小さな渦で(そもそも川底には子どもでも足が着いたろう)、ぜんぜん危なくない「どんねえ」渕だったにちがいない。
御府内沿革図書+空中写真.jpg
落合合流点.jpg
どんね渕.jpg
 妙正寺川の様子を、『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)から引用してみよう。
  
 妙正寺池から流れる小川に「トゲの魚」という巣を作る小魚が棲んで居りました。徳川将軍代々、この川は魚釣をする川とやらで、昭和の初め頃まで随分魚が獲れました。また「ホタル」や「川うそ」も明治の頃まで居たそうです。「川うそ」はたんぼに穴を掘ったり、魚を獲る網にいたずらをしたそうです。上野の戦争の時、彰義隊の雑役夫として、此の土地の若い男が連れていかれる!という噂が拡がって若い男達はこの川に入って筵をかぶってかくれたそうです。
  
 江戸期には、神田上水での釣りは禁止されていたが(それでも水道番Click!の目を盗んでは釣りをしていたようだが)、そのぶん支流である妙正寺川は大っぴらに魚釣りが許可されていたようだ。ニホンカワウソClick!は、妙正寺川の随所に棲息していたようで、さらに上流の和田山Click!付近でも頻繁に目撃された記録が残っている。また、彰義隊Click!の「雑役夫」のウワサは、もちろんデマだ。
 『移利行久影』にはもう1葉、上落合の旧・神田上水沿いに展開した工場地帯で、頻繁に火災が起きた前田地区Click!付近をとらえた写真が収録されている。大正末から昭和初期にかけての、旧・神田上水の規模や流れがわかる貴重な写真だ。旧・神田上水の蛇行の形状から、左側の煙突は前田地区にあった佐藤製薬工場の焼却炉かなにかで、対岸に見えているのはおそらく戸塚町の住宅街だろう。
 だとすれば、旧・神田上水の流れは画面の右手、すなわち東側へ直線状に大きく修正され、画面に写る流れ全体が埋め立てられることになる。そして、1937年(昭和12)になると埋立地の地番となる上落合1丁目136~141番には、明星尋常小学校Click!(現在は上落合の落合水再生センターClick!内)が建設されている。
 こうして見てくると、旧・神田上水や妙正寺川の蛇行修正で、落合町と戸塚町の町境や上落合と下落合の大字境が随所で入れ替わり、修正されていることに改めて気づく。面白いのは、落合町と戸塚町とでは、整流化された旧・神田上水が町境としてほぼきれいに設定できているのに対し、高田町と戸塚町とでは旧・神田上水の蛇行した工事前の流れがそのまま町境となっており、随所で神田川の此岸や対岸で高田町と戸塚町とが飛びとびに入り組んでいるのは、当時もいまも変わらない。やはり、町境以前に豊島区と淀橋区の区境ということで、どうしても話し合いがつかず双方で譲らなかったものだろうか。
前田地区.jpg
移利行久影1980.jpg
守谷源次郎宮司.jpg 移利行久影奥付.jpg
 『移利行久影(うつりゆくかげ)』には、これまで空中写真や地図でしかうかがい知ることができなかった、かけがえのない貴重なスケッチや写真が数多く収録されている。上落合地域に、昭和初期ごろまで残されていた多彩な古墳群にも言及されており、その調査には鳥居龍蔵Click!も参加している。また機会があれば、ぜひご紹介してみたい重要な記録だ。

◆写真上:大正期に撮影されたとみられる、旧・神田上水の一枚岩(ひとまたぎ)。
◆写真中上は、一枚岩の全景。は、『江戸名所図会』の長谷川雪旦が描く一枚岩で、まだ浸食がそれほど進んでいないのがわかる。は、1858年(安政5)の『御府内場末往還其外沿革図書』へ「一枚岩」と「どんね渕」のおおよその位置を記載。
◆写真中下は、現在の空中写真と『御府内場末往還其外沿革図書』(「江戸~東京重ね地図」より)を重ね合わせた透過図。は、大正末ごろの妙正寺川と旧・神田上水が落ち合う合流点。一枚岩(ひとまたぎ)は、この合流点からわずかに下流(画面では右手枠外)の位置にあった。は、西ノ橋のやや上流にあった「どんね渕」あたり。
◆写真下は、前田地区を流れる直線整流化工事前の旧・神田上水。は、1980年(昭和55)に出版された守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影』(非売品)。下左は、同書の著者である月見岡八幡社の故・守谷源次郎宮司。下右は、同書の奥付。

読んだ!(19)  コメント(4) 
共通テーマ:地域

古墳とタタラの痕跡が散在する片山の丘。 [気になる神田川]

片山陸橋.JPG
 以前ご紹介した、落合町上落合(字)四村と野方町片山にまたがる野方遊楽園Click!の、南西160mほどのところに陸橋ファンなら一度は訪れる有名な「片山陸橋」がある。大きく蛇行する妙正寺川沿いの丘陵を切り拓き、中野通りを貫通させたせいで通りの両側は約7~8mの断崖絶壁となり、通りをわたるにはいちいち絶壁を下りて再び上らなければならなくなった。そこで、断ち切られてしまった丘同士をつなぐ手段として、片山陸橋が設置されている。現在の、松が丘1丁目と2丁目の住宅街を結ぶ陸橋だ。
 この片山地域に連なる、妙正寺川を三方から見下ろせる半島状の丘陵地形が興味深い。片山に通う坂は、江戸期から5本を数えたようだだが、その斜面から続々と埋蔵文化財が発見されているのは、落合地域の目白崖線と同じだ。片山村は、朱引墨引が大きく拡大した大江戸(おえど)Click!時代(文政期以降の江戸後期)の、朱引外(しゅびきそと)に隣接する村だが、早くからから拓けており応永年間の板碑が地中から数多く見つかっている。
 和田山Click!(井上哲学堂Click!の丘)の近くなので、付近から見つかっている鎌倉期の住居遺跡や、『自性院縁起』Click!などの伝承や説話をベースに考えれば、平安末から鎌倉期にはすでに拓かれ、開墾が行われていた可能性が高い。地元の古老は、和田山の東側を北上する街道筋を昔から「鎌倉みち」と呼んできたので、当時敷設された鎌倉街道の支道のひとつととらえてもなんら不自然ではない。片山村から発見された、応永年間を含む10数枚の板碑だが、下落合の本村Click!(七曲坂Click!の坂下)で発見された鎌倉時代の板碑(薬王院蔵)と同様、どこかに鎌倉期のものが未発見のまま埋もれている可能性がある。
 また、さらに古い時代の伝承として、隣りの江古田地域には鎌倉期の入植記憶が残されている。「江古田の草分け」と称される深野家では、初代は「対馬」という姓で入植し、鎌倉期には佐渡へ流される日蓮一行が宿泊したという説話が残っている。また、江古田にある第六天Click!(江古田氷川社に合祀)は、和田義盛の子・小太郎磯盛が勧請したという伝承もあり(後世の付会とみられるが)、この地域と鎌倉との間になんらかの深いつながりがあったことをうかがわせる。だが、きょうのテーマはその時代ではない。
 この一帯の「草分け」は、もちろん鎌倉期でも室町期でもなく、同地域から数多くの遺跡が発掘されている縄文期、さらに弥生期に生きた人々だ。片山地域の丘陵からは、縄文早・前・中・後期の土器(中には破片ではなく、細頸壺型や深鉢型など完品が発掘されている)や新石器が、時代ごとにまんべんなく出土しているが、現在は住宅街の下で発掘できないものの、下落合の目白学園Click!学習院Click!キャンパスと同様に旧石器時代の遺物も眠っているかもしれない。旧石器時代から現代まで、人が絶え間なく住みつづけている重層遺跡Click!は、東京西北部の丘陵ではとりたててめずらしくない。
 きょう取りあげたいテーマは、弥生期からもう少し時代が下った片山地域の姿だ。同地域にもまた、古墳の遺跡や伝承が多く存在している。1955年(昭和30)に片山の地元で出版された、熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品)から引用してみよう。
  
 片山の先史時代の遺物や遺跡は、丘陵の西方並に北方の斜面及び低地から掘り出された。縄文式土器石斧石屑竪穴式住居がそれであって、高地には防禦の為築いたと思われる砦跡も発見された。原始時代の遺跡として文献に残るものは片山西南方高地の高塚式墳跡と、丘陵西側の横穴式古墳の遺跡とのことであるが、其の所在地に就ては詳かでないが、私の幼少の頃二一二三番地路傍に行人塚とて、小高い塚があったが或は夫れが、高塚式の古墳で有ったかと思われる。
  
片山フランス式地形図1880.jpg
片山1909.jpg
中野区史「片山遺跡」1943.jpg
片山1936.jpg
 文中にある縄文期の遺物と、高地(丘上)で発見された防禦のために築かれた「砦跡」が、今日から見れば同時代のものとは思えないが、著者が疑わないのは戦前からの「皇民化」以前の時代は一括して「原始時代」と呼ぶ、皇国史観Click!による「日本史」教育を受けていたからだろう。今日の科学的な史観からいえば、自国の歴史にあえて泥を塗るような「自虐的」な史観は受け入れられない。
 つづけて、砂鉄から目白(鋼)Click!の精錬はもちろん、刀剣の折り返し鍛錬Click!の技法を獲得し、金象嵌の技術さえあった古墳時代さえ「原始時代の遺跡」(おそらくヤマトに「まつろわぬ蛮族」=「坂東夷」が跋扈していたという、史実に反する「自虐」史観なのだろう)と書いているが、ここで興味深いのは片山地域には大きめな「高塚式」の古墳と、横穴古墳
Click!の双方が存在していることだろう。横穴式の古墳は、埋葬法が簡易化Click!していく古墳時代の後期から末期、あるいは奈良時代の最初期に見られる埋葬法だが、「高塚式」のものはそれ以前の、より古い時代の古墳を想起させる。これらの古墳は、かなり以前に崩され農地開墾や宅地開発などで消滅しており、詳しい調査記録が存在しない。
 同書では、「片山西南方高地」と書かれているが、1943年(昭和18)に出版された『中野区史(上巻)』(中野区役所)では、同古墳は「片山東南方高塚墳」と記録されており、片山の東西で方角ちがいのようだ。『中野区史』が正しいとすれば、片山村の「東南方」にある「高地」とは、上高田村との境界も近い片山村の東南部、現在の松が丘1丁目の南部に位置する高台から斜面にかけてだろう。
 この高台から北西に抜ける道は、現在は新井薬師前駅Click!から北口商店街の道筋となっているが、江戸期以前から存在するとみられる古道だ。この街道は、片山の丘陵を東南から西北に抜けて貫通するが、丘を下り妙正寺川沿いに北上する右手(東側)=西向きの崖地からは、片山西側横穴墳が発見されている。そして、妙正寺川に架かる橋(大正期以前は通称「石橋」=現・沼江橋)をわたると下沼袋村から江古田村へと抜けることができる。
 この古い街道筋の一部には、丘陵を西へと下る斜面の一部にクネクネと、まるでなにかを避けるように刻まれた坂道の半円形カーブが、江戸期から変わらず現在でもそのままの形状で残されている。ちょうど片山村の東南部、古い地番では片山2114~2137番地界隈、現在の住所だと松が丘1丁目20~25番地あたりになる。地勢的に見れば、妙正寺川を西側に見下ろす南西向きの丘上、あるいは丘の西側斜面ということになるが、『中野区史』が記録する「片山東南方高塚墳」は、片山村の東南にあたるこの一帯に存在したのではないだろうか。
熊沢宗一「かた山乃栞」1955.jpg 熊沢宗一.jpg
片山1941.jpg
片山1947.jpg
中野区史「古墳リスト」1943.jpg
 また、文中に登場している片山2123番地界隈にあったとされる「行人塚」も、地番的にはこの界隈と一致している。麓にサークルの半円形のカーブがつづく、丘上の北寄りの一画だ。「行人塚」は、地番からいえば上記の街道筋から少し離れた丘上にあったとみられるので、もしそのサイズが大きなものでなかったとすれば、主墳に付随する陪墳のひとつが残っていたのかもしれない。
 「行人塚」という名称は、江戸期以前に村で死去した他所者、すなわち行き倒れや旅人を合葬した塚墓なのだが、調査をするとベースが古墳である事例が多く、「行人塚古墳」と名づけられた遺跡が各地にあり、以前から古墳地名のひとつとなっている。中世や近世の村落には、いまだ古墳時代の禁忌伝承Click!屍家(しいや)伝説Click!が残っており、大小の塚が古い時代の墳墓であることを伝え聞いて認知していたとみられる。
 さて、「片山東南方高塚墳」界隈の古い街道筋を実際に歩いてみると、片側に崖地がつづく“ヘビ道”のような、半円を描くような昔ながらの道筋がそのまま残されているが、昭和初期の写真にとらえられている丘上の墳丘を思わせる盛り上がりはすでに破壊され、平面にならされた住宅街と広い駐車場になっている。1947年(昭和22)の空中写真まで、墳丘とみられるサークル状の盛り上がりはそのままで、墳頂には見晴らしのよさそうな大きな邸宅が1軒、ポツンと建てられているだけだった。したがって丘上が整地され、改めて住宅地として開発されたのはそれ以降のことだろう。
 また、落合・目白地域と同様に、片山でもタタラ遺跡Click!が発見されている。おそらく、平川(のち神田上水で現・神田川)から妙正寺川をさかのぼってきた産鉄集団がいたのだろう。ひょっとすると、山手通りの工事で見つかった、中井駅近くの妙正寺川沿いに展開したタタラ遺跡のグループと同一集団なのかもしれない。先述の、『中野区史(上巻)』(1943年)から引用してみよう。
  
 最後に鉄(金+宰の旧字)等の出土によつて製鉄遺跡と考へられるものは、包含層最下部に、鉄(金+宰)が一面に散布埋没して居り、中には一種のタゝラの底に附着したまま固まつたと考へられる様な形に湾曲したものもあつて、本区内に於て製煉の行はれたことを證明してゐる。之と伴つて多数の焼土、炭灰の類が出土し、鞴の火口と考へられる筒形焼土も同位置より出土してゐるので、之によつて製鉄遺跡であることは最も確実に證明せられる。(カッコ内引用者註)
  
片山東南方高塚墳1.JPG
片山東南方高塚墳2.JPG
片山東南方高塚墳3.JPG
片山東南方高塚墳墳丘.jpg
 大量の鐡液(かなぐそ)や、溶鉄炉の火口や鞴(ふいご)跡まで見つかっており、おそらく下落合のタタラ遺跡も同じような出土状況だったのではないだろうか。ただし、下落合は戦時中の発見なのでたいした調査もなされず、山手通り工事によって破壊されている。わたしは下落合の事例も含め、近くの古墳から出土する鉄刀・鉄剣類Click!を踏まえると、それらは古墳期に近い時代のタタラ遺跡であり、製鉄(鋼=目白)痕ではないかと想定している。

◆写真上:陸橋ファンには有名な、松が丘1丁目と2丁目とをつなぐ片山陸橋。
◆写真中上は、1880年(明治3)作成のフランス式地形図にみる片山村。中上は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる片山界隈。中下は、昭和初期の片山地域。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる片山地域。
◆写真中下は、1955年(昭和30)出版の熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品/)と著者()。中上は、1941年(昭和16)撮影の「片山東南方高塚墳」があったあたり。中下は、戦後の1947年(昭和22)撮影の同所。は、1943年(昭和18)出版の『中野区史(上巻)』収録の遺跡リストに掲載された「片山東南方高塚墳」と「片山西側横穴」墳。
◆写真下は、3葉とも「片山東南方高塚墳」があったとみられる山麓に通う繰り返し蛇行する古い街道筋。途中で丘上に登る坂があるが、いかに修正されているとはいえその坂の傾斜を見ても、バッケ(崖地)Click!状の急斜面だった様子がしのばれる。は、戦後に同所の丘上が崩され整地された住宅街の様子。おそらく大量の土砂を運びだし、丘の上半分を削って平地の宅地面積を広げたとみられる。
おまけ
 上の2葉は、1938年(昭和13)に新青梅街道ができてから間もない片山(現・松が丘)風景。北西側から眺めた片山の丘陵で、周囲が妙正寺川沿いに形成されたバッケ(崖地)の急斜面だった様子がよくわかる。下の写真は、戦前に発掘調査が行われていた『中野区史』(1943年)収録の「沼袋氷川神社古墳」。以前、「野方町丸山に点在する古墳の痕跡」記事Click!では、沼袋氷川社は中小規模の前方後円墳(あるいは帆立貝式古墳)ではないかと想定していたが、事実、そのとおりだった。古墳の規模は、北側を住宅に南側を道路と西武線に削られているが、およそ100m弱ほどだろうか。この事実が大きく公表されなかったのは、戦前・戦中を通じての皇国史観によるものだろう。
片山1941_1.jpg
片山1941_2.jpg
中野区史「沼袋氷川神社古墳」1943.jpg

読んだ!(22)  コメント(24) 
共通テーマ:地域

大隈庭園にある瓢箪型の突起地形。 [気になる神田川]

大隈庭園記念写真(明治期).jpg
 ずいぶん前に、早稲田大学キャンパスの南側にあった富塚古墳(高田富士)Click!を記事にしたとき、大隈重信邸Click!の庭にあった瓢箪型の突起について触れたことがある。戦前の学界では、「瓢箪型古墳」と呼ばれていた前方後円墳Click!だが、大名家や華族、おカネ持ちの庭園に古墳が崩されずそのまま残され、回遊式庭園の築山として活用されていたケースを、これまで拙サイトでも何度か取りあげてきている。
 たとえば、江戸期には土岐美濃守下屋敷の庭園築山にされ、明治以降は華頂宮邸の庭にそのまま残された亀塚古墳Click!をはじめ、水戸徳川家上屋敷の庭園(後楽園)に築山として残され、大正期に鳥居龍蔵の調査で古墳であることが判明した小町塚古墳、江戸期には松平摂津守下屋敷の庭園築山にされ、明治以降は「津ノ守山」と呼ばれ公園のようになっていた新宿角筈古墳(仮)Click!、大名屋敷ではないが寛永寺Click!境内に一時は五条天神社や清水観音堂が建立されたあと、築山のまま境内に残された上野摺鉢山古墳Click!、尾張徳川家の下屋敷庭園にされていた戸山ヶ原Click!から、羨道や玄室と思われる洞穴が出現し「阿弥陀ヶ洞」(洞阿弥陀)Click!にされていた事例や、隣接する洞穴だらけの高田八幡(穴八幡)Click!……などなど、例をあげれば十指にあまるだろう。
 冒頭の写真は、大隈重信邸の回遊式庭園にあったおそらく瓢箪型の突起の前で、1892年(明治25)ごろに撮影されたとみられるめずらしい記念写真だ。大隈重信Click!を中心に、東京専門学校(のち早稲田大学)の教師陣Click!を撮影したものだが、その背後に見えている小高い突起が大隈庭園の南東寄りにあった瓢箪型の突起地形だと思われる。もともと、明治期の大隈庭園には大小の築山がみられるが、これらが大隈邸の建設時に築山として造成されたものか、それとも元をたどれば松平讃岐守の高松藩下屋敷だった敷地なので、その庭園にあった築山をそのまま活かしたものか、正確には規定できない。
 ただし、松平家の庭をそのまま活用しているらしいことは、園内に江戸期よりあった茶室を改修している資料が見えるので、敷地の随所に見える突起地形(築山)や庭をめぐる小径も、おそらく当初のままなのだろう。それらの小丘には、それぞれ江戸期からつづいているとみられる、「天神山」Click!「地蔵山」「稲荷山」「躑躅山」「紅葉山」などの名称があったことも記録されている。これらの名称は、このサイトをつづけてお読みの方々なら、すぐに古墳地名がいくつか混じっていることにお気づきだろう。また、昌蓮Click!「百八塚」Click!に奉った祠と重ね合わせ、いくつかの「山」が昌蓮伝説の「百八塚」に含まれていたのではないか?……と想像される方もいるかもしれない。
 大隈邸の庭園の様子を、1931年(昭和6)に戸塚町誌刊行会から出版された『戸塚町誌』より引用してみよう。ちなみに、ここに描写された大隈庭園の風情は、大隈邸を含め戦災で焼けていないため、明治期とそれほど大きくは変わっていないとみられる。
  
 同所は旧高松藩主松平讃岐守の下邸にて維新後松本病院、英学校等の敷地となり、明治七年侯の所有に帰した、(中略) こゝを過ぎて大書院前に出ずれば、此の庭園の中心とも云ふべく四辺の風趣、真に天下の名園たるに反かざるを味ふ、仰げば地蔵山の老松は清流の上に蟠屈し、寒竹は山の裾を這ふて居る具合は正に一幅の絵画である、大書院に続いて侯の居間があり、其の北方に洋館の寝室がある(、)其れより十字路に出て小逕を西にすれば侯の母堂が居られた、後に久満子刀自の住まれた室、現侯爵夫人の居室に当てられた部屋及び小供室がある、こゝより天神山に出づる路に松見の茶屋がある、亭は松平家時代のものに侯が改築された茶室にて、瀟洒淡雅、常に外客を引見して国風の特色を示された(、)天神山には大隈家の祖先たる菅公廟がある、次いで稲荷山、躑躅山、地蔵山、紅葉山等、優麗清爽、閑雅幽寂なる景致を展べて、一日の清遊を楽むに充分である、(カッコ内引用者註)
  
 文中に「松本病院」とあるのは、松本順Click!が開業した「蘭疇医院」Click!のことだ。
後楽園小町塚古墳.jpg
小町塚古墳(明治初年).jpg
大隈庭園紅葉山1.jpg
 多彩な「山」名が登場するが、大隈邸の北東側にある高めの小丘が「天神山」(現在はリーガロイヤルホテルの下)、池の東側にあるのが「地蔵山」(現在は大半が大学51号館の下)、そして南の瓢箪型をしたいちばん大きな「山」が、明治期から現在まで「紅葉山」と呼ばれていることが判明している。ただし、「稲荷山」と「躑躅山」が、残る突起地形のどちらを指すのかは、資料が見つからないので曖昧なままだ。
 1886年(明治19)に発行された1/5,000地形図に、はっきりと瓢箪型に採取された突起地形「紅葉山」のことを、大隈邸の建設以前(あるいは松平邸以前)からあった古墳ではないかと疑うのは、隣接して富塚古墳Click!(江戸後期には高田富士Click!にされていた)が存在すること、室町期からつづく昌蓮による「百八塚」の伝承が生まれた、大隈邸の門前に位置する宝泉寺の地元であること、このエリアは古くから戸塚地域(下戸塚村)と呼ばれているが、古い文献には「十塚」という漢字を当てはめた地名音が採取されていること、周辺の田畑開墾で出土した古墳の副葬品とみられる遺物が、付近の寺社に奉納されているエピソードClick!が多いこと……などなどの状況証拠からだ。
 さて、冒頭に掲載した東京専門学校の教職員たちが写る記念写真は、大隈邸の庭のどこで撮られたものだろうか。教員の中に夏目漱石Click!の姿が見られるので、1892年(明治25年)5月以降の撮影であることがわかる。この時期、夏目漱石は学費を稼ぐために、いくつかの学校で英語教師のかけもちアルバイトをしている。撮影は曇天の日和りだったものか、画面にクッキリとした陰影は見られないが、光線の加減からカメラマンの背後、または左手が南側のようだ。そう考えると、瓢箪型をした突起地形「紅葉山」の東側に、かっこうの撮影ポイントを見つけることができる。
 ちょうど、庭園の小径が左へとカーブし「紅葉山」の麓にあたる東側に、広場のようなスペースの芝庭が造成されていたあたりだ。カメラマンは、早稲田に拡がる田圃を背後に、西北西を向いてシャッターを切っていることになる。したがって、教職員たちの背後にとらえられた小丘は、「紅葉山」の瓢箪型地形から類推すると前方部が北を、後円部が南を向いているように見えるので、前方部の一部が写っていることになりそうだ。
下戸塚大隈邸.jpg
大隈庭園1886.jpg
大隈庭園1910.jpg
 記念写真のうしろ2列の人々は、写真館がセッティングした台の上に登っているとみられるので、前から2列目の地面に立っている人物の身長や、背後に写る小丘との距離を考慮すると、その高さはおよそ5~6mほどになるだろうか。もっとも、この突起状の地形が当初からまったく手を加えられず、そのままの姿で残されていたとは考えにくく、土岐美濃守下屋敷の亀塚古墳や、水戸徳川家上屋敷(後楽園)の小町塚古墳がそうであったように、造園師によって庭園の築山に見あうような形状に整えられた可能性を否定できない。瓢箪型の「紅葉山」全体を前方後円墳ととらえれば、そのサイズから想定できる前方部の高さは、もう少しあってもいいような感触があるからだ。
 「紅葉山」全体を南北に計測すると、およそ100m弱ほどの瓢箪型突起になりそうだ。上野公園にかろうじて残された摺鉢山古墳(残滓)の現状、あるいは多摩川沿いの野毛大塚古墳Click!などとほぼ同程度のサイズだが、そのケーススタディにしたがえば後円部の直径は70~80m、墳頂の高さは10m超ほどあったのではないだろうか。もっとも、大隈邸の庭園にする際、芝丸山古墳Click!や新宿角筈古墳(仮)のケースがそうであったように、後円部の墳頂を崩して平らにならし、前方部と同様の高さに整地しているのかもしれない。
 この瓢箪型の「紅葉山」は、かなり早い時期から崩されているとみられる。特に後円部は大学正門通り(早大通り)が敷設された1900年代の初期には消滅しており、早大通りと北側の沿道に並ぶ建物(商店街だろうか)の下になっている。そして、大正期に入ると古い大学講堂のリニューアルが計画されるが、関東大震災Click!で一度中断し、1927年(昭和2)になってようやく正門の正面に大隈記念講堂Click!が竣工している。現在は、瓢箪型の後円部が早大通りと大隈講堂の一部南東隅の真下に、前方部の大半は大隈講堂と大隈ガーデンハウスカフェテリア、さらに大隈講堂裏劇研アトリエの下になっているのではないかとみられる。
大隈庭園1936.jpg
早大通り1974.jpg
大隈庭園紅葉山2.jpg
 大隈庭園を散策すると、現在でも「紅葉山」の一部が残されていることに気づく。古墳でいうなら、前方部の北側にあたる部分だ。実際に丘上に立ってみると、5~6mではきかないかもしれない。後円部を崩す際に、その土砂を新たに前方部へ盛ったものだろうか。

◆写真上:1892年(明治25)ごろに撮影された、東京専門学校の教職員記念写真。
◆写真中上は、水戸徳川家上屋敷(後楽園)にある小町塚古墳。は、明治初年に撮影された後楽園の同古墳(左手の山)。は、現在まで残された紅葉山の山頂部。古墳だったとすれば、前方部の北端の一部が残されていることになる。
◆写真中下は、1886年(明治19)に作成された1/5,000地形図にみる大隈邸敷地の突起地形。同邸の庭園ばかりでなく、周辺には円形の突起物が数多く採取されている。は、1910年(明治43)の1/5,000地形図にみる大隈邸。早稲田大学の正門前から東へ伸びる、のちの早大通りや沿道の建物が建設され、紅葉山の大半が破壊されている。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる紅葉山があったあたり。は、1974年(昭和49)の早朝に撮影された後円部があったあたりの早大通り。は、現在の大隈庭園の北側から眺めた紅葉山の残滓(左側の樹木が繁る丘一帯が紅葉山の北端)。

読んだ!(18)  コメント(23) 
共通テーマ:地域

江戸期からの中野伝承と丸山・三谷。(下) [気になる神田川]

上沼袋丸山塚古墳.JPG
 このところ、ご自宅からリモートワークをされる方が多いせいか、毎日、拙サイトへ5,000~6,000人がアクセスくださっている。リモートワークの「勤怠管理」は、社へのVPN接続時間や支給PCの使用時間で計測している企業が多いと思うけれど、ご自身のPCあるいは支給のPCの別なく、業務サーバへアクセスしたまま別タブあるいは別ブラウザで拙サイトを開いても、アクセスログは管理システムへしっかり吸い上げられていると思うので、社の業務サーバへの接続時はできるだけ仕事に集中されたほうがよろしいかと。(^^;
  
 落合地域の西隣り、野方町(江古田・上高田・新井・沼袋・鷺宮地域)や中野町(中野・本郷・雑色地域/すべて現・中野区)には、古代からつづく古墳のいわれClick!とみられる伝承や、その古墳から出土した玄室・羨道の石材や副葬品とみられる物品の伝説が、現代まで数多く伝えられている。
 これらの記録は、明治以降ばかりでなく、すでに江戸期の地誌本にも随所に見られ、それらの伝承には後世にさまざまな解釈(付会)がほどこされている。たとえば、明治ごろからの伝承として、中野町の男性が語っている古墳に直結する「しいや(屍家)の山」Click!と、そこから出現した「宝珠」Click!についての伝承を引用してみよう。
 1987年(昭和62)に中野区教育委員会が実地調査してまとめた、『口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』に収録されたものだ。
  
 宝珠の玉
 うちにね、宝珠の玉があったんですって。色は白です。それでね、いま、その前の家がマンションになってるけど、以前は山だったんですよ。シイヤの山ってね。シンヤだかわかんないんだけどね。それでね、うちのおやじさんが、どこから入ったのかわからないけど、拾ったんですって、宝珠の玉を。/でねぇ、うちの親父が言うには、白狐が、千年経つとね、額にのっけて歩くんですってね。それでねぇ、その白狐の宝珠の玉を拾ったので、うちも相当困っておったんだけど、それを拾ってから、工面というか、たいへん経営が良くなって。
  
 この男性は1909年(明治42)生まれということなので、父親から聞いたということは明治前中期の出来事だろうか。「シイヤの山」とは、「屍家山」そのものを指す言葉であり、古墳の巨大な墳丘を意味することが多いのは別に中野地域に限らない。全国各地には、古墳を禁忌の山あるいは忌み地(立入禁止エリア)として規定し、その禁を破って山に入ると「呪われる」「祟られる」、あるいはひどいケースだと「親族が死に絶える」などといわれ、古くからタブー視されていた事例も少なくない。これらのエリアは後世になると、墓地や斎場などに使用されている例も少なくない。
 上記のケースは、それとは正反対に「シイヤ山」の「宝珠」(副葬品の宝玉だろうか)を手に入れたことで、家運が上向いて豊かになったというめずらしい事例だ。どこか江戸期に多い、古墳の副葬品を盗掘し、売りさばくことでカネ持ちになったとみられる、「長者」伝説Click!(往々にして不幸になるエピソードが多い)にもつながる共通性が感じられるが、このケースは出現した「宝珠」を家宝にしてたいせつに保存し祀ることで、逆に家が栄え裕福になったとしている。
 いまから1500~1700年ほど前、古墳が築造された当初は、「ムラ」あるいは「クニ」を見守る先祖霊(首長霊)として、墳丘脇の「造り出し」Click!などで祭祀が行われていたのだろうが、政体や社会が変移するにつれ被葬者やその目的が忘れ去られ、ただ「死者が眠る場所」として立ち入るのがはばかられる場所、すなわち「シイヤ山」のように忌み地(禁忌エリア)としての伝承のみが語り継がれていく。
 ただし、そのような伝承が執拗に残りつづけたのは農村地帯に多く、人々が集まり比較的大きな規模の町や都市が形成されたエリアでは、古墳の地形が寺社の境内Click!にされたり、近世になると古墳全体が大名屋敷の敷地Click!になったり、あるいは回遊式庭園の築山Click!にされたりして、禁忌伝承が途絶えてしまったケースも少なくなさそうだ。
 また、農村では地域に根づいた禁忌(忌み地)伝説、あるいは別のかたちでの信仰(天神山Click!八幡山Click!稲荷山Click!摺鉢山Click!浅間山Click!狐塚Click!大塚Click!など)が存在しない限り、墳丘はあらかた崩され開墾されてしまい、地名Click!だけが昔日の地形や古墳の存在を暗示するケースも多い。そのような場所では、開墾の際に出土した副葬品などが寺社に奉納されたり、出現した玄室などの石材が寺社の結構や庭園の庭石に活用されたり、古墳を取り囲む埴輪片などは田畑にそのまま漉きこまれたりしている。落合地域でも、開墾で出土した埴輪片や土器片をあえて取り除こうとはせず、そのまま畑へ漉きこんでしまった証言がいくつか残っている。
江古田氷川社.JPG
下沼袋丸山三谷1944.jpg
中野区寺社房州石.JPG
 下戸塚(早稲田界隈)から戸山、落合、大久保、西新宿にかけて今日まで伝承されている「百八塚」Click!だが、室町期に昌蓮Click!が小祠や石碑、石仏などを建立して無数(百八)の塚を慰霊してまわったにもかかわらず、すでに江戸期には村落の生産性を高めるために数多くの塚が崩され、整地されて田畑になっていた事例も多いのではないかとみられる。戸塚の地名は、大規模な塚が10基あったので「十塚」が起源ともいわれるが、それだけ大小の墳丘が数多く存在していたのだろう。
 上記の「シイヤ山」事例は、出土した副葬品を大切に祀ったために家が栄えた事例だが、逆に野方地域には「呪われ」「祟られ」たケースも採集されている。1902年(明治35)生まれの女性が語っている話だが、妹の「狐憑き」が治らず「拝み屋」に頼んで狐を落としてもらったはずが、症状がなかなか改善せず、「なにかの祟りではないか」ということになり、再び「拝み屋」に依頼して見目(けんもく)してもらった事件だ。
 1989年(昭和64)に中野区教育委員会から出版された、『口承文芸調査報告書/続・中野の昔話・伝説・世間話』の中から引用してみよう。
  
 それで、今度見たらね、「小屋の東の方に必ず、刀がある」って言うの。「だから、その刀をね、あんなとこへ通しておいてね、今もう、刀が泥みたいになってね、さびて、その刀も、祟ってる」って言うんで。/それで、その、やっぱり屑小屋っていって、昔は、こういう木が、落ちると、その屑、屑を掃いて、それを燃すの。それで屑小屋の中へ、もう、お天気のいいときに入れといて、それ、冬になって、雪が降ったりなんかすると、それを、持って、籠へ持って入れてきちゃ、囲炉裏で燃すの。だから、そういうふうな屑小屋がね、あったの。/そいでそこに、確かに、その東っていうから、そこに、近所にあるって。「よく見つけてごらん」って、三日ぐらい捜したの。「ねえさん、ないよ。いくら捜したって、刀なんかないよ」って。「いいから、もう一日捜せ」って言ったの。そうしたらね、その、やっぱり、麦藁の真ん中にねぇ……。(中略) そうしたらね、あのぅ、刀も、このぐらい、もう持つとこやなんかないの。腐って、こわれちゃって、くずれちゃって、そして、刀、このくらい(四十センチぐらい)のが出てきたわよ。このぐらい(四センチぐらい)の幅の。そんとき、震えちゃったわよ。そんときは。/それで、「今でもあるかい、トモ」、トモちゃんていうの、今いる兄の息子が。「おばさん、今でも、ちゃんと洗ってしまって、神様に置いてあるよ」って言ってましたけどね。
  
 この腐食が進んだ刃長40cmで身幅4cmほどの「刀」は、この家の誰かが発見して持ち帰った古墳の副葬品に多い、腐食した「直刀」ではなかっただろうか。近くの禁忌エリア(忌み地)に踏み入って、副葬品の「刀」を持ち帰ってしまった背信行為の“うしろめたさ”が、あとでこのような説話を生み「呪い話」や「祟り話」、戦にからんだ「因縁話」へ転化しているのではないか……という気配がするのだ。
副葬品宝玉.jpg
副葬品勾玉.jpg
下落合横穴古墳鉄刀1967.jpg
 落合地域でも、裏庭の斜面を掘ったら穴が開いて「直刀」Click!ないしは諸刃の「剣」が出てきた……というケースは多い。戦後になってさえ、ガレージを造ったり家を増改築する際に斜面を削ったら、「刀」が出てきたお宅の事例を何軒か知っている。関東ロームは酸性度が強いため、石畳の上へていねいに安置したり石棺へでも納めない限り、被葬者の遺骨はきれいに溶けてなくなってしまうことが多いが、目白(鋼)Click!の折り返し鍛錬で鍛造した強固な古墳刀は、腐食が進みながらも残存している事例が多い。
 本来なら、埋蔵文化財包蔵地で古墳刀などの副葬品が見つかれば、新宿区の教育委員会へ連絡を入れ発掘調査を行うのが筋だが、個人邸の場合は工事がストップしてしまうため、出土した副葬品のみを保管してあとは埋め戻してしまう事例も多い。特にマンション建設などの業者の場合は、古墳や副葬品などが出現すると工期が半年から1年近くも遅れるため、見て見ぬふりをし破壊してしまうケースも多いのだろう。
 わたしもその昔、目白崖線の斜面に住んでおられた地元の方から、そのような経緯で出土した碧玉勾玉Click!や古墳刀を2振りClick!譲り受けて所有している。だが、特に「狐憑き」にも精神に変調をきたしたりもしていないのは、そのうちの1振りを日本刀の研師に出して、1500年以上前の大鍛冶の仕事や、小鍛冶による折り返し鍛錬の技術を観察するため研磨してみたりと、たいせつに保存しているせいだからだろうか。w
 さて、ここにご紹介したのは、ほぼ現代に採取された中野区内に伝わる伝承だが、江戸期に中野地域を散策した村尾正靖(村尾嘉陵)Click!が、中野村や角筈村(現在の西新宿だが室町期には一帯を中野と呼称していたとされる)を歩きながら、開墾で崩される以前の、あるいは宅地化で整地される以前の古墳とみられる墳丘や、副葬品とみられる物品の説話を集めて『嘉陵記行』に記録しているのは先述したとおりだ。
 登場している「しいや(屍家)の山」や「宝珠」などの伝承が、古く江戸期以前から伝承されてきた地元の説話だと考えても、なんら不思議ではない。そこには、より多くの物語が眠っていたのかもしれないが、時代をへるにしたがって忘れ去られたものも多いのだろう。あるいは、江戸期の稲荷信仰の流行から、眷属であるキツネと結びつきやすい説話が残ったとみることもできよう。そして印象深い、人々に記憶されやすい禁忌にまつわる「祟り」や「呪い」といった伝説が、かろうじて今日まで残っていたのかもしれない。
狐穴稲荷社.JPG
江古田浅間社(江古田富士)1.JPG
江古田浅間社(江古田富士)2.JPG
 中野地域の江古田(えごた)のすぐ北側に隣接する、練馬の江古田(えこだ)駅Click!北口には、古墳がベースと伝えられている江古田富士Click!と江古田浅間社が建立されている。この墳丘つづきとみられる北側の斜面一帯には、1921年(大正10)に「聖恩山霊園」が開設され、現在では死者を送る江古田斎場が併設されている。この古墳の存在にからみ、一帯には江戸期以前からなんらかの禁忌説話が伝承されてきているのかもしれない。
                                <了>

◆写真上:上沼袋に築造された、丸山塚古墳の墳丘に奉られていた小祠(改修後)。
◆写真中上は、古い地形図や空中写真では鍵穴型に見える江古田氷川社。は、1944年(昭和19)に撮影された下沼袋の丸山・三谷地域。は、中野区の寺社をまわると境内でときに房州石がさりげなく置かれていたりするので要注意だ。
◆写真中下は、古墳の副葬品に多い宝玉。は、同じくさまざまな宝石で造られた勾玉。は、1966年(昭和41)に下落合横穴古墳群から出土した腐食が進む直刀と鍔。
◆写真下は、江戸期に塚状の地形から洞穴が出現すると「狐穴」とされ、すぐに稲荷社の奉られるケースが多かった。は、江古田浅間社の拝殿。は、江古田浅間社の裏(北側)にある江古田富士を登った山頂(残存する墳丘頂)付近からの眺め。
おまけ
 久しぶりに近所を散歩したら、開花しはじめたカワヅザクラに地味な鳴き声でたくさんのメジロたちが群れていました。湯島から移植されたシラウメもほころびはじめ、暖かくなったせいか野良ネコたちもあちこちで活発に出歩きはじめています。
メジロ.jpg
シラウメ.jpg
野良ネコ.jpg

読んだ!(20)  コメント(26) 
共通テーマ:地域

江戸期からの中野伝承と丸山・三谷。(中) [気になる神田川]

三谷坂道34.JPG
 東京各地に数多く残る丸山Click!(円山など)の地名について、地元の伝承・伝説や字名の由来、地形などを調べていると、「おや、これは?」と思うような地域にぶつかることが多い。野方町(およそ現・中野区野方地域)の字名に多い丸山Click!と、隣接する三谷(山谷とも)Click!について調べているときも同じような経験をしている。江戸期には、ちょうど下沼袋村(丸山)と同村および新井村(三谷)の境界で、三谷は丸山を囲むように位置する字名だった。以後、ともに野方村の字名となって記録されている。
 明治以降は、野方村丸山1441番地(現・野方2丁目27番地)あたりが正円形の中心で、大きな丸山を囲むように西北から東、南にかけて三方が正円形の谷間に囲まれている。現存している正円の直径は250mを超える巨大なもので、実際に土地が隆起している地点から実測しても、200m以上はありそうな規模だ。落合地域でいうと、1930年代まで上落合に見られたサークル状の盛りあがりClick!よりもサイズがひとまわり大きい。
 丸山の地形は明治初期から変わっておらず、現在よりも高度があったと思われる丸山が崩され、その土砂でおそらく周囲の壕が埋め立てClick!られたとすれば、江戸期以前の土木工事によるとみられる。より詳細な記録をたどると、近くの実相院の過去帳には江戸中期を境にして、丸山や三谷に居住した人物たちが記載されており、すでに周辺の土地がある程度整地され、農民が入植していたとすると、丸山・三谷一帯の土地が整地造成されたのは、江戸前期あるいはそれ以前ということになりそうだ。
 さて、西武新宿線の野方駅南口へ降り、環七を越えて妙正寺川の橋をわたると、さっそくおかしなカーブを描いた道筋に出会うことになる。丸山や三谷の地域よりも、まだかなり手前の位置だ。家にもどってから、古い地形図や空中写真を改めて参照すると、丸山の大きなサークルの北西側にも、もうひとつ中規模の盛りあがったサークル状の地形(前方後円墳タイプ)があることが判明した。中規模といっても、サークルの直径は100mほどにもなり、丸山を“主墳”と考えれば、同族墳あるいは陪墳の一種だろうか。今回の目的が丸山と三谷だったので、先を急ぐことにする。
 そのまま道を南下すると、三谷の西北部、つまり丸山の西北側の麓に到着する。そこからは明らかに上り坂であり、昔日の丸山がこのあたりからはじまっていた様子がうかがえる。麓の三谷には、丸山を囲んで山麓を円形に通る内周道路と、さらに外側を円形に通る外周道路が敷かれている。その内周と外周との間が、丸山を前方後円墳(ないしは帆立貝式古墳)の後円部と仮定すれば、その周囲に掘られた周濠(壕)ということになるだろう。
 丸山という地名の由来であり、後円部(あるいは円墳)として築かれていた墳丘の大量の土砂は、まわりの周濠を埋め立てるのに活用したと想定することができ、南青山古墳(仮)Click!のケースとまったく同じ地形や風情となっている。野方の丸山・三谷地域のケースは、新たな畑地の開墾のために行われたのだろうが、南青山のケースは江戸前期に旗本の屋敷地造成のために工事が行われたと思われる。
 円形に刻まれた道路を歩いてみるが、丸山と名づけられた丘陵の巨大さに改めて驚く。埋め立てられ、谷が浅くなったとみられる三谷に通う道路は、丸山のサークルに沿って延々とつづいている。丸山の東側は、大正期以後の宅地開発で地形や道筋がずいぶん改造されているのが、大正以前の地形図などと比較すると明らかだが、北側と西側の地形や道筋はほぼ江戸期と変わらない形状を保っているのだろう。
丸山三谷古墳1925.jpg
丸山1936.jpg
丸山1941.jpg
丸山1941ナナメ.jpg
 丸山や三谷の居住者を探究した労作、1998年(平成10)に実相院から出版された矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)から引用してみよう。
  
 最初これらの記録を過去帳で見た時は市三郎、庄兵衛と定右衛門は江古田村の丸山の人かと思ったのですが、市三郎という人の墓が代々三谷にお住まいの矢島達夫さんの墓地にありましたし、多分、丸山は三谷の一部を指すのではないかなと思うようになりました。そしてそのことに確信が持てるようになったのは禅定院さんの過去帳に三谷にお住まいの秋元家のご先祖の方々が丸山の住人として表記されていることに出会った時でした。これらの方々は古くは宝永年間(一七〇四~一七一〇)から始まり、明和年間(一七六四~一七七一)まで丸山の住人であると記録されていました。そしてこれ以後はその居住地は三谷として書かれています。
  
 江戸期半ばのこの時代、宝永と改元される原因となった元禄大地震につづき、改元後も日本各地で地震が記録されている。宝永元年には東北大地震が、宝永2年には九州の霧島連山と桜島が噴火、同3年には浅間山が噴火、同4年には富士山が大噴火、同5年には再び浅間山が噴火、同6年早々には阿蘇山が噴火と、天変地異が連続して起きている。これらの事件と下沼袋村への新たな入植・開墾とは、どこかでつながっているのかもしれない。
 さて、丸山へ登ってみると丘上は平坦にならされていて、もはや「山」の頂上らしきものはきれいになくなっている。各地に残る「丸山」と同様、上部は住宅街で埋めつくされているが、江戸期には畑地が一面に拡がっていたのだろう。丸山の南側の麓には「大久保」Click!と名づけられた湧水源(湧水池)があり、三谷の谷間エリアではその清流を活用して田圃が耕されていたとみられる。現在は暗渠化されているが、この小流れは丸山の東側(三谷)を円形に沿って流れ下り、斜面を600mほど北上して妙正寺川に注いでいた。
 先述の『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』から、再び引用してみよう。
  
 この様に三谷の中央部が江戸時代明和年間位までは丸山と呼ばれていたことが分かります。今は家が沢山建ってしまってわかりにくいのですが、以前でしたら沼袋の清谷寺の下の沼袋小学校辺り、或いは三谷橋付近からこれら秋元家のある方向を望めば周囲から少し高くなっており丸山と呼ばれてもおかしくないような地形をしています。(中略) 地図から地形を見てみますとこの「丸山」を囲んで三方、北、東と南に谷があります。三谷という地名は或いはここから名付けられたと考えられなくもないかと思われます。
  
丸山1948.jpg
①丸山三谷36.jpg ②丸山山内43.JPG
③丸山三谷39.jpg ④丸山三谷40.jpg
⑤丸山三谷47.jpg ⑥丸山三谷49.jpg
⑦丸山三谷54.jpg ⑧丸山三谷56.jpg
⑨丸山三谷59.jpg ⑩丸山三谷60.jpg
⑪丸山三谷61.jpg ⑫丸山三谷62.jpg
⑬丸山三谷64.JPG
 現状のような盛りあがりだけで、おそらく眺めがよかった江戸期でさえも、人々は「丸山」とは名づけないだろう。日本各地に残る、丸山地名の由来となったあまたの「丸山古墳」Click!あるいは「丸塚」Click!と同様に、こんもりとした丸みを帯びた墳丘の後円部、またはお椀を伏せたような大きな円墳が存在したから「丸山」なのであり、その形状が摺鉢を伏せたような形状だから「摺鉢山古墳」Click!なのだ。現在の丸山は江戸前期、ないしはそれ以前の土木工事によって改造されたあとの姿なのだと思われる。
 著者が書いている、三方を谷間に囲まれているから「三谷」だというのは、わたしもそのとおりだと思う。つまり、北西あたりから刻まれ、丸山をグルっと南まで取り囲む三谷を周濠と見れば、この巨大な古墳の前方部は南西側にあたりそうだ。なぜ、真西の方角ではないかというと、北西の谷間(周濠)が途切れたあたりに「造り出し」Click!があったような気配を、地形図や空中写真から推測することができるからだ。そして、この造り出しの上に位置しているのが、丸山の旧家である秋元作二郎邸ということになる。
 丸山の麓に通う道路を、正円形の道なりに西側から南へとたどっていくと、ちょうど前方後円墳(あるいは帆立貝式古墳)の西側の“くびれ”部にあたる、数多くの同型古墳では造り出しが設けられている位置に、江戸中期の明和年間から居住が確認できる秋元家の大屋敷がある。戦後すぐのころの空中写真を確認しても、丸山・三谷地域では屈指の大邸宅だった様子がうかがえる。
 その敷地の道路側は、現在は駐車場となりその奥に住宅が建っているのだが、その駐車場をのぞいてわたしの足が止まった。駐車場の左手、南側の一隅に大きな庭園石(フロア用複合コピー機ほどのサイズ)とみられる見馴れた岩石がふたつ、ていねいに保存されている。近づいてみると、表面に大小の白い貝殻の化石が無数に付着しているのがわかった。まちがいなく、南関東では古墳の羨道や玄室に多用されていた「房州石」Click!だろう。房州石は駐車場にとどまらず、隣接する邸宅敷地の庭園や玄関先などにも多く配置されている。
 これらの房州石は、江戸中期に秋元一族が丸山を整地・開墾していた際に、墳丘中央に位置する羨道や玄室から出土したものではないだろうか。そして、その石材の中から運搬可能な大きさの石を選び、屋敷にしつらえた大きな庭園に配置した……、そんな経緯を想像することができる。だが、古墳とみられる丸山の規模や大きさからいえば、現存するこれらの房州石は比較的小さな部類だったのではないだろうか。玄室の壁面や天井などに用いられているものは、数メートル規模の石材もめずらしくないからだ。丸山・三谷地域の旧家跡で、房州石が発見できたことは現地を取材しての大きな成果だった。
⑭房州石1.JPG
⑭房州石2.jpg
秋元家イラストマップ大正初期.jpg
 丸山・三谷の地形や地名は古墳に由来するとしても、巨大な前方後円墳(帆立貝式古墳)だろうか、それとも円墳だろうか? 秋元家跡から、南東側の一帯に通う道路を歩いて地形を観察してみると、ほどなく南東側や南側に下っていることがわかった。前方部の墳丘も崩され、その土砂で周囲の段差が埋め立てられ整地されたと仮定すれば、全長が250~260mほどの帆立貝式古墳(前方部が短縮された前方後円墳の一種)を想定することができそうだ。引用の便宜上、この古墳とみられるフォルムを「丸山三谷古墳(仮)」と呼ぶことにする。
                                <つづく>

◆写真上:北側にある古墳フォルムの丘上から、南に口を開ける三谷へと下りる坂道。
◆写真中上は、1925年(大正14)の10,000地形図にみる丸山・三谷地域。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地域。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された同地域とその拡大。秋元一族が、見晴らしのいい位置を占めている。
◆写真中下は、戦後1948年(昭和23)の空中写真にみる丸山・三谷地域。は、その一帯で撮影した現状写真で空中写真の記載番号・撮影方向と照応している。
◆写真下は、旧・秋元作二郎邸跡に残されていた開墾時に出土したとみられる房州石。は、大正初期を想定した丸山・三谷マップ。(監修・矢島英雄)

読んだ!(19)  コメント(25) 
共通テーマ:地域
前の5件 | - 気になる神田川 ブログトップ